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古都奈良の和カフェ あじさい堂花暦  作者: 橘 ゆず
第一章 抹茶の葛プリン
1/11

1.ゆううつな帰郷

十時七分、品川駅発の「のぞみ」新大阪行きに乗って2時間10分。

京都駅から近鉄京都線に乗り換えて急行で約45分。

近鉄奈良駅で降りると、盆地特有の足元から蒸しあげられるような暑さが全身を包んだ。


「あっつー……」

私は片手にボストンバッグを持ち、もう片方の手で小型のキャリーを引きながら東改札口を抜けた。

エスカレーターをあがって地上に出ると、七月の強い日差しがまともに降り注いで私は目を細めた。


外に出る前に日焼け止めを塗り直さなかったことを一瞬後悔したが、すぐに

(ま、もうそう気にすることもないか……)

と思い歩き出した。


ここから、東大寺の西側にある実家までは歩いても10分ちょっとの距離である。

駅を出てすぐの国道369号線を県庁の方に向かって歩いていくと、すぐに街路樹の木陰に座っている鹿を数頭見かけた。

ほんとに帰ってきたんだなあ、と改めて思いながら、私はボストンバッグを持ち直してまた歩き出した。


奈良に帰ってきたのは、一昨年の祖父の七回忌の法要に戻って以来だからおよそ二年ぶりということになる。


東京の大学を卒業したあと、「地元へ帰ってきてこっちで就職しなさい」という両親(おもに母親)からの言葉を振りきる形で、丸の内にある百貨店への就職を決めたのが五年前。


以来、土日祝日、年末年始と世間が休みの時ほど忙しい職場なのを良いことにほどんど帰省をしなかったのには理由があった。


母は、二十三歳で父と結婚した。親戚の紹介からのお見合い結婚である。

いわゆる「バブル期」の真っ只中の世代での二十代前半でのお見合い結婚は当時としても珍しかったようで、友人たちの間ではトップをきってのゴールイン(母は毎回その言い方をする)だったそうだ。


結婚の翌年には長女の私。その二年後に弟の佳彦を出産し、二十代を家事と育児に明け暮れた母にとって、二十代も半ばを過ぎたのに浮いた話のひとつもなく、かといって焦る風もなくのらくらと都会で一人暮らしをしているように見える娘は母にとって心配の種でしかなかったらしい。


帰省する度に親戚の誰々が結婚した、同級生の誰それちゃんも来年の春には式を挙げるみたい。三年前に結婚した〇〇ちゃんはもう二人目がお腹にいて、実家の近くに戸建てを建てるらしい……と聞いてもいないのに報告してくる。


それだけでもいい加減うっとうしいのに、そのあとには決まって

「それであんたはどうなん? 百貨店なんて女の人ばっかりなんやろ? お付き合いしとる人はおるん? 自分で見つけられんのやったらこっちでいい人探しとくから一度お見合いしてみ」

と続くのだ。


27歳。微妙なお年頃の女子としては帰省の回数が、次第に減っていったとしても誰も責められないのではないだろうか。それがこんな形で帰ってくることになろうとは……。

私は、今朝から何度目かもわからないため息をついて、はあっと空を仰いだ。


ああ、やっぱりどうしたって気が重い……。

勤めていた百貨店を退職して、奈良へ帰ることにしたと連絡を入れたのは一昨日のことだった。


退職願いを出したのが一ヶ月前。

私がいたのは百貨店のなかでも外商部と呼ばれる顧客の対応をする部署だったので、担当のお客さまへのご挨拶と引継ぎが終わったのが二週間前。


残っていた有給を消化するかたちで実際の退職日よりも二週間はやく最終出勤を終え、休日を使って賃貸の部屋の解約や、退職、転居にともなうさまざまな手続きを進めながらも、私はなかなかそれを実家──母に伝えることが出来なかった。


何度もスマートフォンの電話帳を繰って実家の番号を表示させながらも、どうしても通話のボタンを押すことが出来ずにぐずぐずと日を過ごした。

こちらで使っていた家具家電のほとんどを処分、またはリサイクルに出し終わり、残りの荷物もダンボールに詰め込んで宅急便の集荷の手配をし、新幹線のチケットも抑え終わって、もう今、連絡しなければ送った荷物の方が先に実家に着いてしまう、という段階になってようやく電話をかける踏ん切りがついた。


「仕事を辞めた。明後日そっちに帰る」

と告げたときの、電話のむこうの母の甲高い声が耳に甦る。

「ずいぶんと急やねえ。そんで相手のひとは一緒なん? え? 今回はあんただけ?」


最初、何を言われているのか分からなかった。結婚が決まったために退職をして、実家に挨拶に行くと思っているのだと気がつくのに少し時間がかかった。


意味を理解した時にはそのまま通話を切りたくなった。

……が、アパートの部屋のなかはすでにすっからかんに片付いているし、賃貸契約の解約も決まっている。


意を決して、

「そういうんじゃないから。ただちょっと色々あって辞めただけ。結婚とかいっさい予定ないから!」

と早口に告げ、電話の向こうで金切り声をあげている母に

「詳しいことはそっち着いてから話すから!!」

と言い放って通話を切って、その後の嵐のようなコールバックもひたすら無視して今にいたっている。


こういう状況で、「やっほー、ひさしぶりー」なんて明るく帰ろうっていうのに無理がある。


私はゴロゴロとキャリーを引きずりながら、気がついたら実家の方向とは真逆の、興福寺の方に向かってのろのろと歩き始めていた。炎天下を重い荷物を持って歩くのはきつかったが、それでも移動で疲れた体と頭であの母と対峙すると思うと、憂鬱さのあまりその場から動けなくなりそうだった。


現実逃避なのは分かっている。

けれど、とりあえず少しそのあたりを歩きまわって、考えを整理してから実家へ向かおうと思ったのだ。


興福寺から猿沢池の方へと下っていくには五十二段の石段がある。

階段の上から見える猿沢池とそのほとりに立つ柳の木の風景がきれいで憂鬱な気分も一瞬忘れて見惚れているとふいに背中にどんっと何かがぶつかってきた。


「きゃ……っ」

ぐらっと体が傾く。焦って態勢を立て直そうとしたけれど、7センチのウェッジソールでは踏ん張りがきかない。そのまま階段にむかって倒れそうになったのを、

「危なっ!」

後ろからぐいっと引き戻された。


かわりに踏ん張ろうとした拍子にぶつかってしまった黒のキャリーが派手な音を立てて階段を転げ落ちていく。

一番下まで落ちてアスファルトに叩きつけられたキャリーはそのまま勢いあまって車道の方まで滑っていく。


「大丈夫?」

「は、はい……」

「ちょっとここで待っとって」


腕をつかんで後ろから支えてくれたその男性は、わたしをその場に座らせると飛ぶように石段を駆け下りていった。

車道に出てしまったキャリーを拾い上げ、落下の拍子に破損したらしい部品も拾ってくれている。


「あ……」

自分で拾わなきゃ、と立ち上がりかけると

「ええよ! そこで待ってて!」

と下から制された。


まだ若い男性だけれど、陶芸家のひとが着るような藍色の作務衣を着ている。

キャリーを運び上げてくれながら、彼は階段の途中でその様子を見ていた小学校低学年くらいの男の子にた何か声をかけた。


男の子は黙ってぱっと走って行ってしまった。

「大丈夫? 怪我はない?」

男性が階段をあがってきて訊ねてくれた。

「は、はい。おかげさまで……」


お礼を言おうとして声が震えているのに気がついた。みると、膝も小さく震えている。

男性が運んできてくれたキャリーは、車輪が四つのうち二つが吹き飛び、側面が大きくへこんでいた。この人が助けてくれなかったら自分が、ここから転げ落ちていたんだと思うと今更ながらに恐ろしくなった。


「謝りもせんとひどいなあ。親はどこにおるんや」

男性が走っていった男の子の方をふり返って言った。

それで私ははじめて、自分がその子にぶつかられてバランスを崩したことに気がついた。

「立てる?」

男性が手を差し出した。


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

私は慌てて立ち上がろうとした。


「ゆっくりでいいよ。まずはここからちょっと下ろうか」

男性は私のキャリーと、ボストンバッグを両手に持って、少し離れた場所に置いた。


「あの子もあの子やけど、そっちも危ないよ。そんな靴で、そんな大荷物で石段おりるなんて自殺行為だ」

「す、すみません」

「このガラガラも皆、平気で階段やエスカレーターでも持ち歩いてるけど怖いんだよな。いつ頭上から降ってくるか、上にいられるとヒヤヒヤする」

「はい……」

「今だって下に誰もいなかったから良いようなものの、誰かおったら大怪我だよ。小さい子やお年寄りだったら命に関わるわ」

「……」

「そもそも、こんなん持って階段の上でぼけ~っとしとること自体が非常識なんだよなー。ちょっと想像すればわかるはずなのに」


た、助けてもらってなんだけど、今はじめて会ったのにずいぶんズケズケした言い方するんだな……。

見た目は私とそう変わらない、二十代後半くらいに見えるのになんだか職場の口うるさい上司の言い方に似てる。


男性は、私のキャリーを引っ繰り返しながら底の車輪の破損したところを見ていた。

「あー。ダメだな、これ。留め具のとこが完全に割れとる。だいぶ派手に落ちたしなー」

「すみません。ありがとうございました」

私は深々と頭を下げて、キャリーを受け取ろうと手を伸ばした。


けれど男性は、壊れたキャリーを持ったままもう片方の手で軽々と私のボストンも持ち上げた。

「これじゃこの先困るやろ? 近くに修理屋やってる知り合おるからそこで直してくれるよう頼んであげよか」

「えっ!?」

私は思わず声をあげた。


「い、いいです。そんな」

「いいって、だって困るだろ。一時間くらいで直ると思うから」

「い、いえいえ。ほんとに大丈夫ですから!」


私は慌てて男性が持っているボストンの持ち手に手をかけた。

助けられた感謝の念を押しのけて、今さっき感じた僅かな違和感がみるみるうちに膨らんでくる。


(な、なに、この人。介抱ドロボウっていうのは聞いたことあるけど親切なふりして荷物をまき上げる気!? それとも修理してあげるって言って変なところへ連れ込もうとか……)


いや、そこまで悪質なのじゃなくてもそもそも、こんな平日の昼間に作務衣姿なんかでウロウロしている若い男って時点でちょっと変な人なのかもしれない……っ。


そこまで考えると、私は夢中でボストンバッグを自分の腕のなかに取り返した。

「そ、そっちももういいです。返してください」

「え? だってこれ重いよ。車輪壊れてたら手で持って運ぶの大変だ……」

「いいんです! 本当に大丈夫ですから!!」

ほとんどひったくるようにしてキャリーを取り返すと、私は両手に荷物を抱えてヨタヨタと歩き出した。男性が呆気にとられたように見送っているのが分かる。


(お、重い……っ)

けれどここで荷物を下ろして持ち直したりしていたらまた何か言われるに決まっている。

私は左肩にボストンバッグをかけ、両腕で子供を抱っこするようにしてキャリーを抱えると、男性が何か言ってこないうちに必死でその場をあとにした。


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