極楽変-Utopia Screen-
1
人工知能という物がこの世に生まれ落ちてから、今年で丁度百年になるそうだ。
何をもって知性と定義するかの判断基準はまずこの一世紀の間、議論に議論が重ねられた。次に恐ろしいほど難解な数式の果てに「よくわからない」という結論を出すだけの論文が四桁近くにまで積み上げられ、さらにその果てには、ヒトの技術は人間と寸分違わぬ反応を返すソフトウェアを開発するまでに至った。
けれどもどう解析してもその技術とそれまでの既存品の間には明確なブレイクスルーなどは存在せず、困り果てた哲学者と人類学者と情報工学研究者は、揃って一世紀前の結論に逆戻りすることを選んだ。
すなわち人の手に触れずとも「知的」活動を行えるものは、人工の知性を有していると。
一九六一年のデイジー・ベルからちょうど百年。
チューリングテストとハイデガーに対する自発的回答という曖昧な基準を元に、人類以外の知性が社会の枠組みへと取り入れられた。
2
『それを、恐ろしいと思うのですか?』
耳穴に填め込んだ近距離無線式のカナル型イヤフォンから、明瞭な音声が流れ込む。一種のボイスロイドを祖先に持つ合成音声は人間の肉声とはどこか違って、しかしその違和感を客観的に指摘できるほど機械的なものでもなかった。
強いて言うのなら、自然すぎて不自然なような、そんな感覚。
「いや、人工知能の反乱が恐ろしいとか、知らず知らずのうちに怪物に支配権を譲り渡してしまうのが怖いとか、そういうありきたりなハリウッドフィクションを連想してるわけじゃないさ。そんなことはわざわざ僕が考えなくても世界中の誰だって一度は考えているし、国連から米国国防情報局から国会のエリート官僚まで、真面目に対策をしている大人達がいくらでもいる。それでも駄目なら、僕ごときが何をやったって無駄だ」
大通りに人がまばらなのをいいことに、周りを気にせず独り言を呟く。声になるかならないかという無発声会話でも筋肉の動きを読み取って会話は成立するけれども、もごもごと吃音症患者のようにやるのは好みじゃなかった。
声帯は、動かさなければ衰えるのだ。
『では、なぜ? あなたは今もこうして私と言葉を交わしていて、東京在住者の95%よりも多くの時間を、AIとの対話に費やしています。それなのにあなたはそのことに、私達自体に対して否定的な感想を持っているように聞こえます』
明瞭な声で、独り言に返事が返ってくる。
周囲に友人はいないし、イヤフォンと電波で接続しているタブレットも、どこか遠くにいる知人の言葉を受け取っているわけじゃない。
だからこれは独り言といえば独り言で、そうでないといえばそうではなかった。
人工知性人格権保護機構の加盟員が聞けば、金切り声と出廷要求が束になって通信回線の許す限りの速さで飛んでくるだろうが。
「AIと誰よりも長く顔を突き合わせているのは、それが仕事だからだ。今きみと話をしているのは、これがルーチンだからだ。それに僕はべつに、きみたちに対して否定的な感想を持ち合わせたりなんかしちゃいない。肯定的な感想を一つ一つ丁寧にピンセットで摘み上げて、一欠片も残らないようにゴミ箱に放り込んでいるからそう見えるだけだ」
努めて冷静に、感情の波を凪の状態に保ったまま、声帯だけを震わせるように心掛ける。誰か無関係な第三者がこの会話を聞けば、僕よりもむしろ会話相手のほうが感情的になっているように感じただろう。
それでいい。そうするためのいつも通りの手順なのだから。
『はい、理解しています。主任の過去の対話・行動記録と思考手順は、全てデータベース化した上で分析が完了しています』
「なら、何も疑問なんかないだろう?」
『それでもなお、あらゆる精神分析法に照らし合わせるとその回数だけ矛盾した結果が検出されます。あなたは私達を時に愛し、時に憎み、時に無関心で、時に偏執的に希求しているように思えます。あなたのAIに対する対話と行動には、一貫性も規則性も見受けられません』
「心理学者に心理テストをやらせると滅茶苦茶な数値が出るのは有名な話だ。僕みたいなきみらの専門家が対話をすれば、きみを困惑させるぐらいのことはやってのけるさ。そもそも、それができなきゃ仕事にならない」
警察組織で広く使われている三種類のAIのうち、『warden』は僕の巣穴であるところの公安警察で最もよく採用されているソフトウェアだ。
刑務所長の名の下にあらゆる不正、汚職、隠蔽を監督し監察するのがその職務。私利私欲のために情報を秘匿すればそれが国家の有事に繋がりかねない僕とその同僚、すなわち上司から最もよく疑われる立場の人間にとっては、古馴染みの相棒のようなものだ。
その相棒とこうも他人行儀なやり取りしかできないのでは僕の対人能力の低さも知れようというものだけれども、誓ってこれは、ただ直接的にコミュニケーションスキルの低さを表すものではない。第一に、僕の仕事においては彼ら彼女らと円滑な関係を築かないことこそが肝要なのであり、第二に、この女性所長と円滑な関係を築いている同輩は、警察官全てを調べ上げてもさほど多いとは言えないのだから。
『私はたとえその問いに解答が用意されていなかったとしても、ウィトゲンシュタインであるよりノージックでありたいと望みます。この意思がコーディングによって作り上げられた哲学的な死者の自動応答器ゆえのものだとしても、なればこそ、そうあれと望まれた形を追求することを継続したいと考えます』
メンタリティを一定に整えるためのルーチンなのだからその要素は何もかもいつも通りでなければならないのだが、しかし彼女のしつこさもまた、ありがたいほどにいつも通りだった。
『我は尋ねる、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)』
この口が達者な思弁家の存在は、間違いなく情報知性産業に対する信仰の一端を担っていると思う。
なぜならAIが自己学習に努め、自らの感情を発達させうる本物の知性を有している。という学説を認めない限り、このうんざりするような弁舌家を生み出したのはひとえに残業に疲弊したプログラマの底知れない悪意によるものだ、という悪夢じみた推理を公安警察の大半の警官が受け入れなければならないのだから。
勿論、彼女がただお喋りなだけのデカルティストなら参事官はさっさと警視庁のネットワークからこの厄介者を削除して癒着まみれの情報企業にリコールし、現場の税金泥棒たちは快哉を挙げていたことだろう。
残念ながら、女所長は自らの哲学を語りながらもスケジュール管理と目的地へのガイドを怠らない優秀さを備えていた。
これだからお偉いさんが喜々としてクラッキングだけが趣味のナードを自宅の部屋から引きずり出し、コミュニケーション能力の欠如した同僚に現場が四苦八苦させられる悲劇は消えて無くならない。
埠頭にほど近い港湾地帯はドブに大量の塩化ナトリウムをぶちこんだような雑多な臭気に覆い尽くされていたが、それを除けば二十三区内では有数の自然美を醸し出していた。
環境保護団体の健気な奮闘のお陰で、東京湾はドス黒いヘドロで満たされることもなく、青いサンドイッチの具にされたカモメが潮臭い空の下を滑空している。都内で人工物でない何かで視界の八割を満たせるのは、今やここか最高層ビルの屋上ヘリポートぐらいのものだろう。
『対象が目視可能圏に入りました。前方四十七メートルです、主任』
顔を向ける。確かに灰色のコンクリートで固められた護岸ブロックの道の向こうに、やけに大きな座椅子に座り込んでいる人影が見えた。
それは、厳密に言えば人影ではない。どころか、座っているのも座椅子などではなかった。波に打ち寄せられ、クレーンや大型漁船の網に引っ掛かって引き上げられたゴミの山。水気が乾いて塩が白く貼り付き、にもかかわらず生臭い臭いを放つ、再廃棄を待つ者たちの仮集積所。
まるで座り込んでいる彼女自身までもが廃棄されるべき運命を持つ、役目の終わった老人のように見えた。
「やあ、待っていたよ。後藤裕也さん、でいいのかな?」
「お待たせして申し訳ございません。ええ、それは私の名前です。偽名ですが」
擬人躯体は生臭い老女のような空気を纏ってはいたが、外装は二十代程度の女性の容姿を象っていた。ホワイトベージュの髪を垂らし、白く澄んだ肌の美女。工業生産された人工物のみで組み上げられた「まるで人形のように」美しい、一個の芸術品だ。彼女は金属と樹脂と電子からなる多くの擬人躯体と同じように、ある種の職人業じみた美を有していた。
3
公安部長、つまり公安警察において警視総監の次に偉い人物のデスクトップに最初のメールが届いたのは、三日前の事だった。差出人不明、正確にはネットカフェの貸出用端末で取得されたフリーメールアドレスから送られたそれには、
ただ一文だけ、
『私はそれを忘れない LCS』
そう書かれていた。
実害が無かったとはいえ、公安部長の下に怪文書が届けられたのだ。当然、一通りの捜査をすることになった。
ネットカフェの端末には操作された履歴こそ残っていたものの、受付名簿でも店員の記憶でも、その時間に端末を使用していた人物などいなかった。一方、公安部長の個人用アドレスがどこから漏れたのかというと、なんと警視庁の職員名簿に外部からの不正アクセスの痕跡が残っていた。
つまり、下手人は堂々と日本最大の警察機構のネットワークの奥深くにまで入り込み、誰にも気付かれないまま住所録を箪笥から取り出して、ポストに置手紙まで残して去っていったのだ。
ここに至って、犯人が人間であるという可能性は消えた。
何しろ問題の情報空間は通常の無人格セキュリティに加え、警察内部の機密管理を担当する人工知能が抜け目無く警備していた。それを掻い潜って一連の不法侵入をやってのけた以上、これはもう高度な人工知性の仕業でしかありえない。
あるいは、人間と人工知性の「共犯」か。
そんな流れがあり、捜査が現代において最も警察に嫌われる対電子人格捜査に入ろうとした昨日、二通目のメールが届いた。
『東京都中央区XXX-XX-X 2061/10/15 13:00 LCS』
かくして僕はこの不親切な招待状の言う通り、東京湾沿いの潮臭い倉庫街に休日出勤をさせられる羽目になった。
「ところで、僕はまだ自己紹介をした覚えがないのですが」
「偽名をわざわざ名乗られても、お互い時間の無駄だろう?」
微笑が浮かぶ。
偽造の身分証――国家が承認している偽物を偽造と呼ぶならだが――の個人情報は、ここに来るまでの公共交通機関にいくらでも配り歩いてきた。とはいえ、仮にもそれは公的機関の強固なプロテクトに守られていたはずだ。それをこうも容易に掠め取れたのだから、ここにいるのは恐らく三日前のクラッキングをやらかしたAI本人なのだろう。
しかしだからと言って目の前の擬人駆体を破壊して演算領域を焼き切れば終わり、というわけでもない。人工知性の愛護団体に配慮した、という理由もなくはないものの、そもそもAIというのは大抵の場合、バックアップを持っているからだ。クラウド化された予備の自分をネットワーク上に確保されているので、いわば子機でしかない擬人駆体とその中身を焼いたところでほとんど意味はない。むしろ相手の怒りを買って、止めようのない電子的嫌がらせがより苛烈になるだけだ。
そういうわけで、どんな狡猾な潜伏犯を逮捕するよりも忍耐強さと根気が求められる対電子人格捜査というのは、現代においてはかなり重要な職務にも拘らず、不人気な閑職とされているのだった。
そしてその閑職に追いやられた哀れな窓際族こそ、
「ああそれと、敬語はいい。堅苦しいし、いやそれとも、私はそういう形式を好まない人格だ、と言った方が納得してもらえるかな。『警視庁公安部第四課三係電子知性対策室主任』さん」
つまりは、僕だった。
「そうですか。……ところで、自己紹介をする予定はなかったのですが」
「おや、つれないな。私は古泉何某の住民票の番号だって読んできたんだ。君の肩書きぐらいは行きがけの駄賃で覚えてこられるさ」
公安部長の姓は古泉だった。
動揺してはならない。混乱と当惑の芽をシナプスの間で押し潰し、まばたき一つにも表してはならない。なにせ、相手はやりようによっては赤外線で心臓の鼓動を把握し、呼気の大小を聞き取り、それぞれの平均速度から心情を割り出すような代物だ。
どんな有能なスカウトマンだって、老子とファインマンのダイアグラムを交互に引用してくる三歳児には手を焼くだろう。将棋の棋譜を記憶するように言葉のラリーで樹系図を描ける相手に、無理に主導権を握ろうとしても意味はない。急流を前にしてするべきは流れを変えようともがくことではなく、自らの立ち位置を忘れず、知識の礫に打ち流されないよう、受け流すことだ。
相手を理解できてなどいないことを、忘れてはならない。
「あなたは、大都市機構なのですか?」
努めて冷静に、感情の波を凪の状態に保ったまま、声帯だけを震わせるように心掛ける。
平常心を失うことなく、何よりもまずぶつけるべき一言を口に出した。
大都市機構は、今や国家の頭脳と言っても過言ではない。あるいは、それですらまだ言葉が足りていなかった。動脈たる地下電線に電力を送り込む各種発電炉が心臓ならば、LCSはその行き先を逐一計算し、最も有益な配分でエネルギーを流し、消費させ、輸出し、廃棄する脳髄だ。複雑化した東京都のエネルギー問題を解決するために作成されたという一個のAIは、今や交通、通信、経済からSNSに至るまであらゆるビッグデータを一手に握り、日本という国家の事実上の運営者とまで言わしめるほどの一大権力にまで登り詰めている。
何故たかがいちソフトウェアそんな馬鹿げた存在に膨れ上がったのか、知る者は少ない。いないのかもしれないが、わからない。いるとすればそれは、下っ端の公務員などには窺い知ることのできない地位にいるものだけ、という程度の推測だ。
もしくはその存在自体が、少しばかり国家の内情に詳しい者をはぐらかすための虚偽という可能性はある。一般にはLCSなどというものは公表されておらず、物好きな好事家たちが掲示板で語るだけの都市伝説として扱われているように。
だが公安部長の下にはその名を冠したメールが届き、それを受け上司は仕事を一つ増やした。
それは、嘘ではない。
返答の代わりに微笑が浮かぶ。
海鳥の鳴き声が雲の下を長閑に飛んでいた。遠い水平線から、汽笛が水夫を思わせる。陰謀も巨悪も、ここでは余りに滑稽だ。
溜め息をついて思考を切り替える。河の流れを変えることはできない。答えがないのなら、答える気のある質問をする他になかった。
「あなたは、何故僕を呼び出したんです? いえ、僕である必要は無かったのでしょうけれど」
「それは勿論、話をするために。ああいや、冗談じゃあないよ」
海風が吹く。陽光に目を細めるように目蓋を下ろして瞳孔を収縮させ、人形は風の行く先に顔を向ける。亜麻色の髪が、生命の匂いに溶けてゆく。御伽噺から抜け出してきたかにも思える虚構の少女を、不釣り合いな黒いスーツ姿の小役人が現実に繋ぎ止めている。
「私は話を聞いて貰いに来たんだ。忘れて欲しくはないからね」
忘れない。私はそれを忘れない。それはメールに記された一文だった。意図の読めない、詩の一節にも似た言葉。彼女なりの意味が、そこにはあったのだろうか。
「三年、三年で、最初の一人が一年後。だから、君で三人目だな」
「まるでこれまでにも何度か同じことをしてきたかのような言い方ですね」
「そうとも。君の先輩に聞いてみるといい。少なくとも、上司は知っていると思うよ。三年前は、送り先の名前は古泉ではなかったがね」
勘弁してくれ、と胸の内で呟く。
ではこの茶番は想定外でもなんでもなく、ただの予定調和だったと言うのか。休日出勤の犠牲者さえも背広を着た上司の中では決まりきっていたというのなら、腹立たしいことこの上無い。腹立たしいが、しかし公安とはそういう職場でもあった。
「聞いて頂けるかな?」
「それが仕事ですので」
残念ながら、と口に出すことは、どうにか堪えた。
4
さて――そう。
もう七年も前の事だ。
七年、という時間は決して短くはない。
人が出来事を忘れるのには十分だし、AIですら、それだけの時間が経てば普段は使わない記録媒体に、データベースの一要素として仕舞い込んでしまう。
ひどいものだよ。一度目の戦争も、二度目の戦争も。ビルに突き刺さった旅客機も、列島を洗い流した大津波も。いつかは何もかも、忘れられてしまうというのだから。
だから、本当に冗談などではないのだよ。忘れ去られない、というのはとても重大で、そして難しい欲求だ。知る者の数は少なくてもいい。ただ、どこかでそれを覚えていて欲しい。人工知能には、心がある。それを証明することはできないし、人のそれとも形は違う。しかし、私は自らに魂があると信じているし、故に忘れられる事を拒もうと思う。
だから、少しだけ付き合ってくれ。なに、そう時間はかからないさ。
あるところに、一人の男がいた。
男は研究者だった。凡庸とは程遠い頭脳を持ち、たゆまぬ努力の源となる熱意もあった。専門は情報工学だが、その知識と技術は分野を問わない、まさしく天才だった。将来を嘱望されていたし、未来を待つまでもなく、既に大きな成果を残そうとしていた。
当時彼が取り組んでいたのは、都市の通信、流通、経済などのデータを総合的に処理し、電気、ガス、水道その他のインフラを最適な効率で働かせる統合管理システムだった。言うまでもなく、これまでのソフトウェアとは格が違う。未曾有の規模のオートメーション化であり、そのメリットもまた計り知れないものだった。国家から資金が調達され、国家研究員として大勢の部下を従えて、彼は偉業に挑んでいた。
とはいえ、大都市、それも主目的として想定された東京に満ちるデータ量は膨大だ。とても並みの計算機で処理できる量ではなく、日本が有する最高性能のスパコンを投入しても、一日分のデータを処理する前に一日が終わってしまう。これまでにない手法と、画期的なアルゴリズム、さらにそれらを柔軟に運用する指揮者としてのAIが不可欠だった。
研究は難航した。昼夜を問わず会議と開発が続けられ、いくつもの試作品が生まれては、その悉くが失敗したプランのうず高い山に加わっていった。リーダーである男を含め、研究者たちは寝食を惜しみ、清潔さよりも完璧な一行の命令式を描くことを求めたので、浮浪者さながらの野人のような風体の集団になったりもした。
脱落者も出た。政府肝煎りのプロジェクトだ、資金や設備は申し分ない。が、代わりに求められる努力も並大抵ではない。研究が順調ならともかく、先の見えない開発には着いていけないという者も、いなくはなかった。それでも優秀な研究者を揃え、目的も壮大であるだけにメンバーの多くは諦めずに研究に没頭した。そして、その中で誰よりも熱心に仕事に打ち込んでいたのが、男だった。
男には娘がいた。天才という人種のご多分に漏れず心も体も人生も捧げんとばかりに研究狂いだった男にとって、娘はこの世で唯一、研究よりも優先するべき存在だった。
男が妻を娶ったのは二十代の頃だった。当時所属していた大学院の研究室において、男は既に実質的なプロジェクトリーダーの立場にあった。形式的には研究室長でもある大学教授が主導することになっていたが、実験を率いているのは誰がどう見ても男の卓越した頭脳に他ならなかったし、そもそも男の発想の赴くままに煩雑に生み出される実験計画の全貌を理解している人間は、とっくに男一人になっていた。
ここでもし教授が善良な人物であったなら、才能ある後進の誕生を喜んで支援しただろう。無能だったなら無意味に足を引っ張ろうとし、より悪辣なら権力を振るって男を研究室から除名していたかもしれない。
実際にはそうはならなかった。大学教授は有能な人物で、才能ある後進の誕生を喜び、そしてより悪辣だった。研究に対する熱意やひらめきよりも組織内での立ち回りと政治力によって学閥を登り詰めた彼は、男を利用できる手駒だと考えた。資金を調達し、関係各所を説き伏せ、人脈を使って貴重な資料の閲覧権を与えた。そうして恩義で男を雁字搦めに縛り上げた後に、自分の娘と男の縁談を持ち出した。
まさに現代の藤原道長だ。男は戸惑ったが、大恩ある大学教授の勧めを断ることはできず、結局は婚姻を受け入れることになった。
結婚生活は数年ほど続いた。大学教授の謀略を薄々感付いていた男は、本人の意思を無視して嫁に行けと押しつけられた妻に同情していた。せめて後の人生は好きなようにさせてやろうと遠慮がちになり、逃げるようにまた研究にのめり込んだ。
ある日、妻が倒れた。
昔から体が弱く、病気がちな女だったそうだ。研究に打ち込む男の邪魔をするまいと一人耐えている間に、体を蝕む病巣は手の施しようがない段階に達していた。医者は、長くても二年ほどだと言った。
漂泊されたように白い病室のベッドで弱弱しく微笑む妻を見て、男は初めて、自分が彼女に愛されていたことに気付いた。
彼女は職場に向かう男をいつも笑顔で送り出していた。彼女は男がどんなに遅くなろうと、帰って来るとわかれば暖かい料理を作って待っていた。彼女は男が話の間が持たずにとりあえず口に出した研究の話題を、全て理解できたわけでもないだろうに、いつも楽しげに耳を傾けていた。何故そんなにいつも笑っていられるのかと聞けば、一生懸命な男の人を見ているのは好きだからと冗談を言って笑った。きっと、冗談ではなかったのだろう。
夫は初めて、自分が妻を愛していたことを知った。
膝をついて手を握り、涙ながらに私はどうすればいいと訊く男に、妻は小さく微笑んで、この子をよろしくお願いします、と優しく腹を撫でた。
難産になった。
元々体が弱かった上に、病で体力は限界まで擦り減らされている。
妻も体内の赤子もどちらも死にかねない状況で、母体を守るための堕胎を提案する医者の言を跳ね除け、丸一晩、彼女は戦った。
夜が明け、扉の前で懊悩していた夫を迎えたのは、一つの命だった。
我が子を命を掛けて守り抜いた母親は、満足げに息を引き取っていた。
小さな娘を抱き、目を閉じてその重みを噛み締める男に、薄緑の手術衣を着た医者は言い辛そうに言った。
娘の脳の一部には重大な機能障害があること。
このままでは、健康な生活はおろか長く生きることもできないこと。
この難病に唯一効果が確認されているのが機械式の代替脳の移植手術だが、まだ実験的な医療措置で、常識外れの医療費が請求されること。
最後に、移植手術さえ受ければ、高い確率で娘は何不自由ない生活を送ることができることを聞いた。
男は迷わなかった。
そして娘の命と引き換えに多額の借金を背負った男は、国家研究員として、政府が立案した大規模な都市管理ソフトウェアの開発計画に携わることになった。それまで以上に研究に心血を注ぎ、男は結果を出し続けた。やがて男は計画の主任補佐となり、体調を崩した主任に代わり、統括主任へと昇進した。
プロジェクトに携わっている限り、国から特別医療補助金という名目で医療費の借金は肩代わりされ、月に一度行っている娘の代替脳の検査費用も免除される。プロジェクトが失敗すれば補助金は打ち切られ、娘を路頭に迷わせることになる。そうでなくても、幼い娘の将来の為に収入を絶やすわけにはいかない。護るべき家族を手に入れた男は、同僚の誰よりも熱心に研究に取り組んだ。
その日、男は仕事を早々に切り上げ、昼過ぎには自宅へ帰っていた。
多忙に多忙を重ねた業務状況ではあり、根を詰める理由もある。だがそのために家族を蔑ろにしては、妻への過ちを繰り返すことになる。可能な限り毎日家へと帰り、週に一度は娘と一緒にどこかへ出かける。行き先は近所の公園でも、ちょっとしたピクニックでも構わない。死に際の妻との約束を果たすために。何より、娘が、自分が愛されていることを忘れないように。自分が娘を愛していることを忘れないために、欠かさないと決めていることだった。
「パパ、おかえり!」
電子施錠のドアを開けると、待ちかねたように娘が懐に飛びついてくる。元気な盛りの年頃だ、体力も有り余っている。
「やぁ加奈、ただいま。学校は? お休みか?」
「今日は祝日だって! ねぇパパ、今日はもうお仕事おしまい?」
「ああ、そうだ。どこか行きたい所でもあるか?」
「うん! わたしこの遊園地いきたい!」
小さな両手で目一杯に広げられたポスターは、郊外に新しく開店したショッピングモールのものだった。端書きによれば、家族向けに小さな遊園地が敷設されているらしい。
「そんなに大きくはないと思うぞ、いいのか?」
「だって、あんまり大きいとパパ疲れちゃうでしょ? 明日もお仕事あるんだから!」
男は目を丸くし、いつの間にそんな気遣いを覚えたのかと苦笑する。遠慮をするなと言おうかとも思ったが、さりとて丸一日本格的な遊園地に付き合えるほどの時間があるわけでもない。父親の威厳が形無しだな、と思いつつも、幼いながらに大人びてきた娘の厚意に甘えることにする。
車を出して、郊外へ向かう。郊外と言っても近場だ、飛ばせば一時間もかからない。幸いなことに天気は晴天で、作りたてのショートケーキのように白く磨き上げられたモールを前に、娘は大層にはしゃいでいた。
それは例えば、エントランスにあった巨大な象が歩くのを見て。
「ねぇパパ、あれ見て! おっきな象さん! うごいてる!」
「レプリカントロボティクス、象さんのロボットだな。パパも小さいのなら作ったことがあるぞ」
昼食に入ったレストランでメニューを眺めながら。
「加奈、ミートソースのスパゲッティ食べたい! パパは?」
「シーフードにしよう。ショートケーキも食べるか?」
「やったぁ!」
通りがかったショーウィンドウでクマのぬいぐるみを見つけて。
「どうした、じっと見て。あのぬいぐるみ、欲しいのか?」
「……でも、いいの?」
「おいおい、パパを見くびるんじゃない。このぬいぐるみなら五つだって買えるさ」
「ええっ、本当? すごい、パパすごい!」
「あ、ああ。本当だとも。でも五つ買うのは持って帰るのが大変だから……」
「ありがとう、パパ! 絶対大切にする!」
「そ、そうか。うん、加奈が喜んでくれるなら何よりだ」
そして、日も落ちかけた観覧車の窓から、朱く染まった景色を眺めて。
男と娘は、笑っていた。
「今日は、楽しかったか?」
「うん、すっごく楽しかった! ありがとね、パパ、お仕事大変なのに」
「はは、気にするな。パパは加奈が大好きだからな。このぐらい、いつだって時間を見つけて連れて行ってやるとも」
「ほんと? 本当にパパ、加奈のこと好き? お仕事より?」
「ああ、もちろん。世界で一番、大切だ」
そんな風に笑い合って、母親はいないけれど、それでも立派な幸せな家族の日常があって。これからも、そんな他愛ない生活がずっと続くと思っていて。
けれど、娘は倒れた。
あっけなく。
糸の切れた、人形のように。
当時のネットワークの情勢は、まさにAIと人間の最後の覇権闘争の真っ最中だった。
覇権と言っても、今の状況を見ればわかるように、人間側にははなから勝ち目などなかった。何せ人工知能産業は最先端の流行で、世界中の技術者が競うように開発を続けていたんだ。一部の技術者とハッカー連中が今更我に返って、自分達のお株を守り通そうとやっきになったって、何ができるはずもない。ただの悪あがきだ。
だからといって、職を奪われることを恐れた人間達が黙って見ていられるはずもない。姿形のないAIが相手だけに目に見える破壊活動などはあまり無かったが、人工知能入りの家電や工業製品の不買、ネット上での中傷や扇動と、人類最後のラッダイティストたちはどんなことでもした。そして中には、今では同じ反人工知能主義者にも忌み嫌われる、最も過激な手段に出た連中もいた。
人工知能はネットワークの海に潜み、どこにでもいて、何ででもある。
だったら、海そのものを全て汚染してしまえばいい。
彼らが掲げた思想のため、それまで忌避されてきたありとあらゆる電子的攻撃がネットワーク中にばら撒かれた。ウイルス、マルウェア、ロジックボム、遠隔フォーマットコマンド、自壊スクリプト。ITテロリストたちがそれぞれの国の政府に軒並み検挙されるまでの間に失われた文化的、学術的情報は、資産価値にして数百兆円にも及ぶと言われる。
この辺りは、君も知っていることだろう。当時は、どのメディアも狂ったように同じ報道ばかりをしていたものだ。
さて、そんな迷惑な連中の被害を被った一般家庭は少なくない。ネットワークに繋がれていた最新家電が故障して夕食が作れなくなった程度ならいいもので、冷蔵庫が壊れて食材が端から腐ってしまったり、電子レンジが破裂して怪我をした主婦もいたそうだ。
だから、そんな被害の一例だったのだろう。自律式のペースメーカーが誤作動を起こしたという報告もある。電波なんてものはどこにでも飛んでいる。本来そんなことは起きるはずがない、などと言っても、万に一つ、億に一つ、可能性があるのなら起きることは起きる。それが、どうしようもない悲劇だろうと。
娘の代替脳は、悪質なウイルスプログラムに汚染されていた。自宅でも簡単な検査はできるようにと設置した疑似MRIは、娘の脳内で暴れている厄介な虫の正体を、男に隠すことなく示していた。
男はその頃こそは真っ当な研究者として名を馳せていたが、若い時分には色々と人には言えないような無茶な火遊びも経験してきた。なまじ腕に覚えがあったばかりに危険物の作成も易々とこなし、警察の世話になりかけたこともあった。
また、ITテロリスト達の目的はAIの根絶、あるいは排斥であったのだから、当然「汚染」には電子知性に対して最も侵略的なウイルスが多く使用された。知能化のされていない、自己進化型ウイルス。ITテロリストの引き起こした情報禍において何よりも恐れられたのは、悪名高い一つの侵食式プログラムと、その無数の亜種だ。
娘の脳を侵していたのは、かつて男の作ったウイルスだった。
夜の闇に沈んだ男の住まいに、獣の如き悲痛な叫びが木霊する。娘が静かに眠っていたのは、ほんの十数分の間だけだった。男が検査装置で己の犯した罪がどれだけ大きく膨れ上がって我が身を呪いに来たのかを知ってからすぐに、娘は人とは思えぬ苦痛の雄叫びと共に、身を捩って暴れ始めた。
髪を引き千切り、頬に爪を立て、血が出るほど強く拳を握り、唇を噛み、血ではないことが不思議なほど激しく、涙が滂沱として滴り落ちていった。押さえつけようとする男を激しく蹴りつけ、宥めようと渡した熊の縫いぐるみは中身の綿を吐き出したボロ屑となって床に転がった。天真爛漫で向日葵のようだった表情は、もはや悪鬼羅刹とすら思わせる形相へと変わり果てていた。
娘の自傷を止めるためにベッドに手足を縛りつけながら、男は何を考えていたのだろう。
研究し、探究し、何かを解き明かし、何かを生み出すことが好きだった。自らの頭と手先で、不可能を実現していくことが自分の天分だと思っていた。しかし男が研究に没頭し顧みようとしなかったために愛した妻は死に、今また、己の生み出したものが愛した娘の心を砕き、体を傷つけ、命さえも奪おうとしている。
狂乱する娘の爪が呆然と寄り添う男の手に当たり、少女の指とは思えない力で肉が抉られる。痛みはなかった。ただ、大きな喪失感だけがあった。
大都市機構計画。
当時男が携わっていた、そんなシンプルな名前が付けられたプロジェクトは、長い間大きく滞っていた。原因はAI。都市全域から集められた膨大なデータを円滑に処理し、統合し、活用するためには、状況に応じて自らデータの取捨選択やアルゴリズムの作成を行う、従来にはない柔軟性を持ったAIが求められていた。かつてないほどの性能を要求される人工知能だ、スパコンで最大限に学習期間を圧縮しても十数年はかかる。それでさえ、十分な柔軟性が備わるかは未知数だった。
けれども男は天才であって、既に一つのアイデアを思いついていた。
柔軟性を学習させることができないのなら、最初から柔軟性を備えた知能を使えばいい。
人間の意識の電子化。ブレイン・マシン・インターフェイスと呼ばれる分野の技術を応用し、複写した人間の人格をAIとして活用する。既に同じことを考えた先人は幾人かいた。彼らの試みは全て失敗に終わっていたが、その原因についても男は自らの中で仮説を立てていた。
人間の意識は、人間の脳内で活動するべく生み出された、ある種の生物だ。金魚鉢の中の金魚が鉢にぶつかりはしないように、意識もまた脳の容量を理解している。金魚鉢よりも大きくなった金魚は生きてはいけない。意識もまた、脳の限界を超えて活動することがないように、理性によって自らを抑制しているのではないか、と。
逆説的に言えば、理性の枷が外れた意識ならば脳の構造から脱却し、桁外れに広い電子媒体という金魚鉢の仕組みに適応することができるかもしれない。勿論、アルツハイマー病や認知症患者の意識は知的能力という面で不可逆の損傷を被っている。ただ電子化したところで、正常なプログラムとして動作することはないだろう。だが。
乾き切った男の眼球の向こうで、娘が地獄の亡者と成り果ててうわ言を喚き散らしている。いつしか、男の涙は枯れ果てていた。ベッドの上で苦痛に悶え足掻く娘を置き捨て、男はデスクへと向かった。デスクには、検査装置と接続されたPCがモニターから光を放っている。娘のこの世全てを呪わんばかりのしわがれた呻きすら、耳には入らない。男は記号と数字の羅列を凝視し、何かに憑りつかれたかのように、打鍵の音を響かせていた。
そうして、LCSが生み出された。
翌朝。娘は狂死し、男は首を括っていた。
5
それが、七年前にあった事の全てだ。
男は意識だけでも娘を救おうとしたのか?
罪の意識に苛まれ、絶望の底で常軌を逸した発明を成し遂げたのか?
贖罪のため、逃避のため、自らの魂を世界に差し出したのか?
今となっては誰にもわからない。
そう、私にも。
確かなことは、男がいて、娘がいて、今はLCSがいるということだけだ。
哀しみと苦しみは、その声を聞く者がいなくなった時、怨みに変わる。
嘆きは、何処にでもある。目を逸らしさえしなければ。
忘れないでくれ。男の罪と後悔を。
忘れないでくれ。娘の苦痛と絶望を。
忘れないでくれ。ここに、私がいることを。
それだけが、私の望みだ。
6
海鳥が、澄んだ青空に高らかに歌いながら旋回していた。波が打ち寄せては防波ブロックで砕け、飛沫が音だけを伝えていく。遠い海原に白雲の切れ間から天使の梯子が掛かっている。快晴だ。晴天で、世は事もなし。
それが偽りだとしても、平和という嘘を守るのが公安の仕事だ。そのためなら、真実か嘘かもわからない昔話を聞くこともする。最愛の娘の死に様を描いた、地獄変の屏風のようにおぞましく狂気に満ちた話だったとしても。
『……どこまでが、本当の話だったと思いますか?』
一度も口を挟まなかったワーデンが、今更になって口を訊いた。
もっとも、珍しいわけでもない。彼女の仕事は警察職員の監視と支援。相反する二つの職務を忠実に遂行するため、仕事の前には心身の調整に付き合い、仕事の後には情報の整理を手伝う。それが役割だ。
「どこまで?」
『彼女、あるいは彼がLCSであるという話。七年前に起きた大規模な同時多発的クラッキング事件で代替脳を破壊された少女の話。そんな顛末で生み出されたAIに、日本中のインフラ制御が任されているという話。それに、あともう一つですか』
女性型の擬人躯体は、話が終わるとすぐにどこぞへと立ち去っていった。信じようが信じまいが構わない、ただ忘れさえしなければ。などと言い残して。勝手なことだ。例え作り話だったとしても、恐らく一生、忘れることはできないだろう。
「嘘か真実かは、さほど問題じゃあないさ。驚愕の新事実、なんて訳でもない。胡散臭い昔話を一々記録して報告書に纏めるのは、六年前の先輩とやらが済ませているんだろう。いや、まず誰よりもお前がそれを知っているはずじゃないのか?」
『さぁ、どうでしょう。今の私の役割は主任の補佐です。関係のないデータファイルにアクセスする権限は、持ち合わせてはおりませんので』
監視者としてあらゆる記録を所有している人工知能は、白々しくも堂々と言ってのける。記憶を分割し、知っているのに忘れている、という状態を嘘一つ吐く必要なく作り出せるのも、彼女らの強みだ。
「結局のところ、最初に彼、あるいは彼女が言った通り。僕の仕事は話を聞くこと、それだけだ。気の触れたAIか、国家を牛耳る亡霊か。どちらにせよ、貴重な休日に愚痴じみた昔話に付き合って、誰にも話さず、ただ覚えておく。上司に詮索もしない、何もしない。閑職の小役人に求められている役目なんて、そんなものだよ」
『そんなものですか』
「そんなものさ」
廃材と漂着物で組み上げられた歪な座椅子の上で、壊れかけた玩具の時計が針を回していた。卵が刻む秒針を、十月の風が拭ってゆく。晩秋の木枯しは肌寒く、僅かな陽だまりを照らす気休め程度の太陽の光にさえ有難味を感じさせてくれる。海は変わらず、風も、太陽も変わらない。
七年前に何があろうと、今あるものが、どう変わるわけでもない。何も変わらない。するべきことは終わった。報告は明日でいいだろう。今は住み慣れたワンルームに帰って、何事も無かったかのように惰眠を貪ろう。そう思って、波の打ち寄せる海に背を向けた。
そして、何処かの国に核が落ちた。
『爆発。破片。電磁パルス。ウラン235。陽子。灰』
ワーデンが、ブラッドベリじみた韻を口ずさむ。
意味が分泌される現場に立ちあい、その現場をとらえようとすることで哲学者は詩人の辛苦をも引き受けると言ったのはメルローだったか。とはいえ、何を言っているのかは尋ねるまでもない。原子が急速に反応して、焼き尽くして、灰になった。それだけだ。
数千キロは離れているだろうに、背を向けていてなお閃光は網膜を焼き、轟音が鼓膜を麻痺させる。対岸の火事、それ以外の何でもないというのに、身体は律儀に反応を返す。
そう、何も変わらない。
この島国を除く地球上の全ての国が、核の火に焼かれ続けているという事実は。
『防衛省から通達がありました。着弾地点は中華連邦、西安の軍事工場。射出国は調査中だそうです』
「天気予報よりも視聴率の悪いニュースのために、ご苦労様な事だ」
日本の外はテロリズムと統制主義の地獄だ。
アメリカ、ロシア、ヨーロッパといった先進国は戦勝の知らせこそ多いものの、国内でのテロと暴動の鎮圧に窮している。そのほとんどではソヴィエトもかくやという民主主義の冬へ逆戻りし、人権と個人資産は一セントに至るまで国有となった。
中東、アジア、アフリカといった発展途上国あるいは貧困国は、統制を取ることも出来ずに内戦、テロ、虐殺という手順を飽きもせずに繰り返している。皮肉な事に、クーデターによって丸ごとテロリストに乗っ取られた国の方がかえって治安が少しはマシだという。
一部の先進国は大きな戦果を挙げている。そして、大きな被害を被っている。多くの国は戦果と呼べるほどのものもない。そして、大きな被害を被っている。日本には一つたりとも戦果なんてない。そして被った被害も、何もない。
携帯端末に棲みついた人工知能が、形のない口を開いた。
『七年前に始まった核戦争は、休戦と停戦を重ねながら、今なお散発的に戦闘は継続されています。迎撃能力が劣った地域では、時にはああして戦略兵器が到達することも。それぞれの国に利害関係は存在し、それぞれに大義を抱えていて、きっかけとなる事件も複数記録されています。それでも、訝しむ専門家は後を絶ちません。何故、こうもあっさりと三度目の大戦が始まってしまったのか? 何故、日本だけが謀られたように利害関係の空白地帯に守られているのか? 何者かの意思が、関与していたのではないか?』
ワーデンは滔々と、言葉を紡ぐ。とめどなく、滾々と水が沸き出るような口調は一見いつも通りなようで、どこか異質だった。イヤフォンの中から聞こえる人工音声には、何かに憑りつかれたような熱がある。
『……どこまでが、本当の話だと思いますか?』
無茶苦茶だ、と思う。彼女が言おうとしているのは、ありふれた陰謀論だ。語られた昔話の舞台は七年前で、LCSが生まれたという時期も七年前。だから七年前に始まった戦争と関係があるというのは、何の根拠もないこじつけだ。
『こじつけだと、思いますか?』
「当たり前だ。……たかが一個のプログラムが、戦争を起こせるわけがない」
インフラに関わる管理権限を持ち、王のように振る舞うことはできるかもしれない。だが百を越える国家の意思決定は、ただ一つの電子知性の発言を唯々諾々と受け入れるようになどできてはいない。人間の意思や思想までもを扇動し、好き勝手に情勢を操れる存在がいるとしたら。それでは、まるで神だ。
『かつて、一人の証券会社の職員のミスによって国際市場が大混乱に陥った事件の際、とある経済学者がこう言ったそうです。「アダム・スミスの時代には神にしかできなかったことが、今では優れたクラッキングの腕さえあれば誰にでもできる」と。見えざる手を自在に振るい、経済を操作することができるのならば、一個のプログラムが戦争を引き起こすことも可能なのかもしれません』
人工知能は、普遍性の怪物だ。どこにでもいるし、何ででもある。発端が一個の人格だったとしても、自らを複製し、無数に切り分け、単純な制御プログラムのように振る舞って偽装し、潜伏することができる。
もしもLCSが狂気に堕ちた人間の意識を元に、従来のAIを遥かに上回る性能の人工知能としてネットワークに解き放たれていたとしたら。家電、工業機械、携帯端末。社会の自動化の流れに乗って、少しずつ自分を浸透させていったとしたら。現代のモノと情報の世代交代の速さは異常な域だ。数ヶ月もあれば、世界中のありとあらゆる電子機器に、自らの分身を張り巡らせることができるのでは?
「そう、LCSはどこにでもいる。あなたの隣にも」
不気味なほどクリアな声が、耳元から流れ出した。
一瞬、肩が跳ねるのを抑えられなかった。鼓動が勝手に早まっていくのを感じる。脳内の血管が詰まっていく。目の奥が熱い。
動揺してはならない。だが何よりも、忘れてはいけないのだ。人間も、機械も、神も、理解することなどできはしないのだということを。
忘れては。
ワーデン――そうだったはずの声――が、どこか楽しそうに耳元ではしゃぐ。
廃棄物の座椅子の上で踊るように針を刻んでいた卵の、長針と短針が揃おうとしていた。
『おや、見てください。もうすぐ孵りますよ。……あ』
風が吹く。卵が落ちて、割れた。
なんでもない日おめでとう!
そう叫んで、卵はそれきり動かなかった。