第2話 外れた世界
学校から出ると、匠は一人、校舎前の停留所から市街地行きのバスに乗った。
このバスに乗るようになってから、ちょうど一年一か月が経過したことになる。
すでに見慣れた窓の景色に目をやりながら、匠はひととき回想に沈んだ。
最近、ひどい耳鳴りに悩まされている。
耳鼻科にも行ったが、原因はわからないという。
一種のストレスによるものと医者は判断したが、匠自身はそれに納得していなかった。
ストレス?
このおれが? ありえない。 むしろ、なさすぎて困るくらいだ。
大学での生活は、案外そっけないものだった。
朝から夜まで研究の毎日だと思っていたのは、まちがいで、へたをすれば小学生低学年並みにやることがない。
二年だから暇なのかもしれない。三年では、それこそ学科へ分属される年だ。きっと、今よりおもしろいにちがいない。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、匠は繁華街に差しかかったバスの外を眺めた。
いつ来てもにぎやかな場所だ、と思う。
そこに流れる空気は一種、独特なものがあったし、人々を引きつける何かがあると匠は信じていた。
バスが目的の場所へ到着し、乗客がそれぞれの目的地へと旅立っていく。
大げさかもしれないが、実際、そうなのだ。
匠もゲームの聖地、「パラダイス・オブ・ゲーム」を目指す。
これは店の名前で、こんなふざけた店名でよくお客が入るな、と思いながらも、そのイメージのインパクトからか、客足に困ることはなさそうだった。
「またか…」
ひどく耳鳴りがしている。 耳をふさいでも止まることはない。
体の内側から発せられる音だろうから、止まらないのは当たり前だが、よくもこんな振動が身体から発生するものだと感心する。
工事現場の振動とも似つかないそれは、まるで巨大な生き物がこの街を徘徊するがごとく、空気中の分子を震わせていた。
はっきいって耐えられるものではなかった。
気にしだすと、震音は一層の激しさを持って、匠の体に襲いかかる。
「くそ、今日は一段とひどいな…」
まともに歩くこともできなくなり、そばにある街路樹にその身を預ける。
ちからがぬけ、その場にどすっとすわりこんだ。街路樹の下はちょうど日陰になっており、これですこしは楽になりそうだった。
「大丈夫…?」
匠が見上げると、学校帰りらしい少女が心配そうにこちらを見つめていた。
「いや、大丈夫っすよ。ちょっとつかれただけなんで…」
いまどき、見知らぬ他人を心配する少女に頭が下がる思いだったが、匠は本当の原因については言わずにおいた。言っても、彼女はその対応に困ってしまうだろう。
「だれも気づいていないのか…」
「は?」
匠はいま聞いた言葉を疑った。いや、正確にはそれを発した人、にだ。
「君は、聞こえないのか?」
(え? なにが…、というか、男言葉…?)
彼女の大人びた様子に、内心どぎまぎしながらも、匠は平静を装って答えた。
「いやー、ほんとうるさいよね、町中って。でもおれはもう大丈夫だから、心配しなくていいよ、ってあれ?」
最初は何が起きたのかわからなかった。
ただ、日中であるはずのいまが、突然、暗闇に変わったことをのぞいては。
「はじまったか…」
彼女と思われる人物がつぶやいた。 真っ暗闇で何も見えないので、たしかではないが、そのおとなびた声色から彼女であると思われた。
「どうなってるんだよ、これは…」
皆既日食か、それとも、月食か?
でも、そんなことニュースで言ってなかったぞ…。
それとも、予期せぬ隕石接近か? 大停電か? それとも、やっぱりテロか?
考えられる可能性はいくつもあったが、そのどれもが現実味を持たなかった。
「案山子だ」
「かかし?」
聞きなれない言葉を耳にして、匠はおもわず、口の中で反すうした。
「知っているとは思うけど、人に見せかけてカラスなどから畑をまもる、あれだ」
(…………、うん? )
なにをいっているのだろうか? 冗談でも言っているつもりなのだろうか。
それならば、いやおうがなんでも返答しなければ、失礼というものだろう…。
だが、一体どう返せばいい? たのむ、たのむから、ユーモアの神様よ、いまだけでいい。
いまだけでいいから、どうかおれのもとへ舞い降りてくれ…!
これが匠の正直な感想だった。
もちろん、わらいの神様が早々に舞い降りるはずもなく、匠は、だまりこんだままだった。
「君は、早くおうちへかえりなさい」
少女は、匠の反応に特別、機嫌を損ねたわけでもないらしく、諭すように優しく言った。
「あなたは?」
「わたしは、案山子を喰い止める」
食い止めるって、どうやって? かかしってこの不可解な現象のことか…?
聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず、匠は目的のゲームを買いに行こうとした。
木のそばを離れ、噴水がある広場の中央にでる。
ここで驚くべきことが明らかになった。
なんと、多数の人形が広場に陳列してあるのだ!
その人形は一体一体、多種多様の服を着せられていた。あるものは、学生服。また、あるものは、通勤用のスーツ一式となかなかの品揃えである。
バーゲンセールでもやっているのだろうか、でも、こんなのさっきはなかったよな?
一連の疑問は、人形たちに近づいた時にあっさり解けた。
これらは人形ではない。 人だった。たくさんのひとのあつまりだった。
不自然な格好をしたまま静止したそれは、生気がなく、まるで微動だにしない。
たしか、このような光景を本で読んだことがある。
一人のロボットに改造されたおとこが、町に出てみると、行きかう人々が死んだように動かなくなっていたという話だ。
彼は、サイボーグになっていたため、一人だけテロの被害にあわず、動けまわれたという。人々が動かなくなった原因は、上空から散布された麻酔剤にあった。
それと同じようなことが今、現実に起きているというのか!?
だとしたら、ゲームを買いに行くどころではない。 即刻、家に帰らなければ!
匠が行動するよりも早く、次の現象が起こりつつあった。
足もとに魔法陣のような、奇怪な紋章が刻み込まれる。
それは火の線で描かれていて、真暗だった広場に、キャンプファイヤーにも似た、まぶしい灯りが周囲を包みこんだ。
「なんだ!?」
あたりには火の粉が舞い、もう逃げるどころではなくなっている。必死に逃げ道を探そうとしたが、火の道が邪魔をして、なかなか広場の外へ出ることができない。
(……もう、おわりだ、…)
そう、匠は理解した。 たぶん、自分達は悪質のテロに巻き込まれたのだろう。
言ってしまうことは簡単だったが、それでも、なかなか納得することができない。
おとなしく家にいればこんなことにはならなかったのだろうか、と考えたが、この規模の大きさでは、どこにいても同じことだろう。
そう自分を思い込ませて、匠は目を閉じた。
決して、安らかとは言えない最期。
麻酔銃で眠ってさえいれば、決して気づかされることのなかった最後。
せめて、それを実感できたことを神に感謝しよう。
それでは…、さような、ら…
「君は、まだこんなところへいたのか」
「へ…?」
この世に別れを告げようとした矢先、思わぬ人物がいることをすっかり忘れていた。
「案山子は、わたしが喰いとめた。もうだいじょうぶだ」
少女はさも当然の如くそういった。
まるで、いままでおびえていて、目も開けられなかった子供に、お化け屋敷から出たことを知らせてあげたかのように。
これが、進藤匠と千影の最初の出会いだった。