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エッセイ

球根を植えた義母

作者: 秋野 木星

闘病記を読むのも好きなので書いてみました。

 自分がこの世に生きた証を残したいというのは人のDNAに刻み込まれた思いなのだろうか。

輝海(てるみ)は最近よくそんなことを考える。


娘が三人とも嫁に行き、主人と二人でやれやれと肩の荷を下ろした春だった。腹部にこれまでにない痛みを感じ、夜中に主人を叩き起こして大学病院の救急センターに連れて行ってもらった。長い待ち時間と若い医者による簡単な診療の後に、ご飯が食べられていて吐き気も熱もないことから痛み止めの点滴だけを打たれて家に帰された。しかし、車に乗って家に帰る道中もタイヤが僅かなの段差を踏んで振動が体に伝わると、脳天まで突き抜けるような激痛が走る。

「なんで入院させてくれなかったんだろうな。こんなに痛がってるのに・・・。」

主人は心配してそう言ったが、私は亡くなった義理の両親を介護した経験から、熱がなくて食事を食べられていたら入院はさせてもらえないだろうなということはわかっていた。私としては、予約診療に二か月かかる大学病院の明日の予約をもぎ取るために今日は救急センターに行ったのだ。自分の身体に鞭打つような行為だが、長年の経験からこの痛みが只事ではないとわかっていた。


三人の娘を育てる間に幾度お医者さんに助けを求めただろう。その上おじいちゃんとおばあちゃんの病気で何度も大学病院に足を運び、退院した後には家で介護してきた私だ。病院のやり方も知っているし、この痛みが近所のお医者さんでは治らないこともよくわかっていた。


 翌日、大学病院に行って最初にかかったのは通院記録のある婦人科だ。若い頃から生理痛が酷くて我慢に我慢を重ねていたが、子ども達の教育費がかからなくなったので、三年前に重い腰を上げて婦人科に通うことにした。CTを撮ってみるとダチョウの卵大やら鳥の卵大といった可笑しな卵たちが子宮の中にゴロゴロしていた。子宮筋腫である。

「・・・なるほど、これはいくらダイエットをしてもお腹が凹まないはずだわ。」と感心したことを覚えている。最初にかかった市民病院の女医さんが退職されたのをきっかけに、後々の手術のことも考えて大学病院に紹介状を書いてもらった。ここの婦人科はその時からのお付き合いである。


痛みに脂汗をにじませながら通されたのは、なんと産婦人科のお医者さんの部屋だった。顔の丸い壮年の先生だ。ここまで痛みがあると恥ずかしさも何もない。内診でもなんでもきやがれと思いながら子宮筋腫の痛みを先生に訴える。

すると「中塚さんねぇ、子宮筋腫は痛まないんですよ。」と申し訳なさそうに言われた。えっ?昨日の救急センターの若いお医者さんはそんなことを言っていなかった。だから私の訴え通りに婦人科の予約を取ってくれたのだ。

「ちょっとお腹を見せて下さいねぇ。」と言って診療台に横になるように言われる。お腹をあちこち押さえられて、私の痛がるところを探している。「うーん、虫垂炎くさいなぁ。それも炎症をおこして危険な感じがする。お腹の痛みはいろんな病気に繋がるから早く対処しないといけないんですよ。すぐに消化器外科に紹介しますからよく診てもらってね。」と言ってくださった。


私はこの先生に助けられたことになる。

実は私の盲腸は、ただの盲腸ではなかった。子宮内膜症が盲腸に転移して炎症をおこしていたのだ。破裂寸前の盲腸はあと半日すれば危なかったと言われた。もちろん命が・・である。

子宮内膜症というのは子宮内に留まらず、腸や盲腸だけでもなく肺の方へも冒険に出かけたりするそうだ。なんて落ち着きがない。


この後すぐに、娘と同い年の若いお医者さんに緊急手術をしてもらう。若い先生が執刀するということは大した病気じゃなかったのよね。と自分を納得させていた入院中に、今度はトイレで突然の下血を経験する。

私は手術後だからこんなこともあるのかなーと暢気に構えていたが、看護士さんに下血の事を伝えると顔色を変えて右往左往しだした。どうも下血は重要な病気に繋がるようである。


しかし検査をした結果、下血は手術のミスでもなく他の大きな病気でもなく、なんと腸の中にも子宮内膜症の巣が出来ていたためだったことがわかった。

いろんなところに巣を作って困らせてくれる奴である。


またまたしかし、私はこの内膜症に命を救われることになる。

「中塚さん、ここを見て。」

入院中にすっかり仲良くなって、冗談を飛ばし合う仲になった主治医の河合先生が相談に来た。

「この内膜症の巣の隣に小さなポリープがあるでしょ? どの先生も良性だろうと言ってくれてるんだけど、これは腫瘍の芽だからね。今なら外科手術もしないで内視鏡手術だけで簡単に取れるからやってもらったらどうかな。」

「でもいったん退院したいな。家のことも気になるし・・。」

「うーん、そうか。じゃあ外来に予約を入れておくからまた来てね。多分一日入院で済むと思うよ。」

と言ってくれた。


一か月後に二度目の入院をして内視鏡手術を受けた。

今回は自分で自動車を運転しての入院である。内視鏡の手術患者の部屋は前回入院した消化器外科の部屋とは階も違っていたので、暇にまかせてぶらぶらと以前の階まで報告に行った。ナースセンターにいた私の担当看護士さんが、「あら、中塚さん久しぶり。ちゃんと内視鏡に来たのね。感心感心。」と褒めてくれた。ふふん。何歳になっても褒めてもらうのは嬉しいものである。河合先生に報告を頼んで、短い入院生活を終えた。


内視鏡の主治医の先生に「検査結果は、婦人科に来たついでに聞きに来てくれればいいよ。」と言われたので、一か月後の婦人科の定期検診の帰りに内視鏡センターに寄る。すると受付のお姉さんが主治医の先生を走って呼びに行ってくれた。

そして小さな部屋に通される。いつも毒舌の先生が口に物の挟まったような言い方をしていると思ったら、


「中塚さん、ごめん。良性だと言ってたけど悪性だったんだ。」と告げられた。


それを聞いた途端に体中が痺れ出して頭が真っ白になった。しかし悲しいかな性格だけは変わらない。「がぁーーん。」ショックとガンをかけてボケてしまった。


五人の専門家が良性だと思うと言っていた腫瘍が悪性だった。そして根が深かったのですぐに手術をした方がいいという。

先生は検査結果がわかってからすぐに動いて、オペの出来る先生を捕まえて手術室の予約まで取ってくれていた。「するよね。ほっとくと半年で危ない状態になるからねっ。」と言い切られてしまった。


「がぁ~ん。」私の口はその言葉を繰り返していた。




◇◇◇




 二週間後に検査入院をして今年三回目の大学病院だ。その入院の時にトイレから出たところで河合先生に出会った。

「あれっ?中塚さん、こんなところで何してんのさ。」

「先生ーっ、あれ悪性だったんだってっ。」

「マジッ?!」

「マジよ、おおマジ。二週間後に亀田先生に手術してもらうの。」

「あれっ?そのチームに僕も入ってるわ。あれ中塚さんだったのか。」

なんと河合先生は春から亀田チームに入っていたそうだ。恐ろしい手術の時に見知った顔があるというだけで嬉しくなった。

この河合先生は見た目は頼りなさそうに見える若い先生だが、患者のことを一番に考えられる、大学病院では珍しいタイプのお医者さんだ。

私は見た目があっけらかんとしているので、医療従事者から見るとしっかりしていて何を言っても受け止められる人と考えられがちだ。しかし本当は注射の針も直視できないビビりの性格を内に隠している小心者だ。それをすぐに見抜いていたのはこの人だけだった。

河合先生がついててくれる。手術を耐え抜けそうな気がして来た。


一旦家に帰って、四回目の入院だ。四回目ともなると入院慣れしてくる。私はカードを作って自分の居場所を看護士さんに伝えることにした。「お風呂です。」「面会室で来客対応中。」「八階に買い物に行ってきまーす。」「先生の命令でこの階を歩いてます。」等々。これを枕元に置いておくのだ。

「続けて四回も入院するとこんなことを考えつくようになるのねー。」と看護士さんたちにも感心された。


まな板の上の鯉になって手術を受ける。「私は寝てるだけっ。大丈夫。」と自分に言い聞かせる。でも脊椎麻酔の針を挿入するのだけは意識のある時にするので、それが怖かった。

私が脊椎麻酔を怖がって緊張していたら、河合先生が私の目の前に来て冗談を言って笑わせてくれた。「もうっ、身体が動いて変なとこに針が刺さったらどうすんのよっ。」と河合先生に言っているうちになんとか長い針が脊椎に入っていた。

初めてのような若い麻酔科の先生が指導医に「思い切っていけっ。」とか言われて針を刺していたので、河合先生が気を紛らわせてくれて助かった。


四時間ほどと言われていた手術は、八時間にも及んでいた。


私がその時間経過を確認したのは、麻酔から目覚めてすぐだった。

「あれ?七時?」側にいた人は私の問いに「そうですよ。」と答えて顔も診ずにコンピューターの数値だけ見ている。典型的な大学病院の医者だ。

その後私はこの人が慌てふためくほどガクガクと震えが止まらなくなったので、時間経過のことは私の頭から飛んで行ってしまっていた。長時間の裸での手術が身体に負担を強いていたのだろう。銀色の保温シートの下を覗くと素っ裸だった。


その後も集中治療室にいる時、オシメを看護士さんに替えてもらっているジャストタイミングで、教授先生が大名行列で入ってこようとして「あっ、こりゃ失礼。」と出て行くというハプニングもあった。

こっちは痛みと麻酔でモーローとしているので半分人間で半分物体という感じだ。人間でいた時の羞恥心は半分以上どこかに行っている。


この半分物体と化している状態だと「死」というものをすぐ隣に感じる。これが全部物体になると死ぬんだなぁとぼんやり思っていた。




◇◇◇




 後で聞いたところによると手術が長時間だったのはガンの切除より卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)の切除に時間がかかったためらしい。どうもこやつも爆発寸前状態だったそうだ。

盲腸、大腸に続いての子宮内膜症ショックである。

ガンの方はぎりぎり早期の状態だったらしく、四年を過ぎた今は定期検査の間隔も半年に一度になっている。早く来年が来て、完治にならないかなぁと今は待ち遠しい日々を過ごしている。


こういう九死に一生の経験をすると人は自分の死後のことを否応なく考えさせられる。


今夜寝て、明日目を覚まさないこともある。事故に遭うかもしれないし何かの病気に罹るかもしれない。そういう漠然とした不安は誰しもたまーにチラリと考えるかもしれないが、普段は自分が死ぬことなんか忘れて日々の雑事に追われている。


しかし、ガン患者になると「ここ何年かのうちに貴方の死ぬ確率は非常に高いですよ。」と医者のお墨付きをもらったようなものなのだ。普通の人よりは死について考える時間が長くなる。


 この春も、三年前に亡くなったお義母さんがせっせと植えていた水仙が庭中に白い花を咲かせた。


ご丁寧に何種類もの水仙を植えているのでその花は長い期間次々に咲き続けた。球根と言うのは普段は土の中でどこにいるのかわからないのだが、春先になると一気に芽を出してきて存在を主張する。


「輝海さん、私を忘れてないでしょうね。私はここに生きたのよ。ここにしっかりと根を下ろして男の子を四人育て上げて花を咲かせてきたの。」毎年そんなお義母さんの声が聞こえてくる。


そんなお義母さんに習って、私も四年前に桜の木を植えてみた。私の桜は三人の娘たちや孫たちにどんな声を聞かせるのだろう。

「ばぁばんは、ネットの中に楽しい遺書を書いて逝ったんだって。本が好きなばぁばんらしいや。」と桜が孫たちと会話してくれるだろうか。



 そんなことを思ってほくそ笑みながら、今日もDNAが命じるままに電脳の中に駄文を書き続けている。


いつかどこかで自分のDNAたちがその物語を発見してくれる日を夢見て・・・・。


読んでくださってありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 重たい…子宮内膜症ってこんなに厄介なんですか!? 鷹羽は、ホントに幸運だったんですね。 なんか、大仰に書いちゃって恥ずかしい…。 [一言] こういうのを乗り越えて、今の秋野さまがあるのです…
[良い点] 失礼かもしれませんが、闘病記なのに普通な感じで書いている点が、むしろリアリティを感じました。 こう言った、経験した方の作品は、非常にためになるし、大好きです!
[良い点] 明るい闘病記、ですか。そういうことも明るく発信できるってすごいなあと思います。 いつもながら読みやすい語り口でお話に入っていくことができました。 [一言] ああ、だから秋野さんの紡ぐ物語た…
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