ナージャ・N・クラウセン
008
協議の結果、サトミに先んじる権利を得たシゲンであったが、そのささやかな勝利を手放しに喜べる心境ではなかった。
向かった先は、楠上家の子供部屋ではない。コンドミニアムに特設された医務室である。
カズマは学校の保健室程度のものと考えているよう――シゲンたちが意図してそう誤解させてきたの――だが、実態はそのイメージからかなりかけ離れている。
〈クラス100〉のBCR。加えて、院内迅速血液検査やCT、MRI検査などを行える数々の設備を整え、人材面においても確保の難しい放射線技師や麻酔畑のエキスパートを囲い込んだ、非常に高度な医療施設だ。
もちろん、カズマの健康管理のためだけに用意したものであるが――
今回ばかりは、この備えに心底感謝することになった。
右腕切断。それに伴う出血性ショック。意識不明の重体で担ぎ込まれたカズマは、現代医学に〈封貝〉の異能を加えた治療により、大方の通り一命を取り留めた。処置は完璧であり、予後の経過を心配する者はいなかった。
だが、心身に深い傷を負ったというその事実、その痛みはなかったことにはならない。
カズマを収容した部屋に辿り着いてしばらく、ノックをしかけては逡巡というパターンを数度繰り返した末、シゲンはようやくドアを二度叩くことに成功した。
返答はなかった。
だが、カズマがいることは分かる。彼が既に目覚めていることも感じ取れた。それ自体を感知することは造作もないことだ。
しかし、どんな声をかけるべきか、どう接するべきかの決断には時間を要した。難題と言えた。
結局、たっぷり三十秒は黙考してから、シゲンは「私だ」と告げた。
またしても応答はなかった。
シゲンは音なく嘆息する。ノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けていった。
果たして、カズマは部屋にいた。ベッドから抜け出し、部屋の一番奥、窓際に立っている。シゲンに背を向ける格好だが、振り返る気配はない。無造作におろされた右腕は、肘より拳二つ分から先が切断され――失われていた。残った左手は、窓辺に取り付けられた木製の手すりを掴んでいる。
この医療所は地下に設置されているため、本来、窓の外に景色などない。
カズマが眺めているのは、地上の光を採り込んだ人工の内庭であった。
「どこか、痛むか」
二歩進んで、シゲンは訊いた。
今夜は星が出そうか? 天気の話を持ちかけるような口ぶりに聞こえたはずだ。
カズマがゆっくり横顔を見せる。それから穏やかな微笑を浮かべた。
「しばらくは、色々とおさまりそうにないよ」
シゲンは無言で頷く。
事実、もっともだと感じていた。右腕の切断に伴い生死の境を彷徨ったこともあるが、当人は恐らくそれ以上の喪失感を別の所で味わっている。肉体的苦痛は添え物であるように思えるほど、精神に受けた痛撃がこたえている。
「まず、そうだな。意識を失ったあとの経過を知りたいだろう?」
もっとも、目覚めたときに大方の事情は察しただろうが――と胸のうちでつぶやきつつ、
「我々も全てをつぶさに把握できているわけではないが、判明している限りの事実を知らせておこう」
言って、シゲンは話はじめた。
屋上に現れたのがシガー・イングリスと呼ばれる、想定外の大物であったこと。
それが〈あちら側〉から来た存在であること。
彼の持つ特異な性質により情報を遮断され、自分やサトミの対応が遅れてしまったこと。
そして――
千葉ヨウコが連れ去られてしまったこと。
現状、彼女を追跡する手段はなく、既に〈壁〉を越えてしまっている可能性が高い。
それはほとんど、死と同義に考えるべき事実である。
シゲンは包み隠さず、また歪曲な表現もしなかった。
カズマは一度も口を挟まなかった。窓に顔を向けた後ろ姿で、ただじっと耳を傾けていた。
全てが語られた後も、彼は長いこと口をきかなかった。
それでも、長い沈黙を挟んで最初の一言を発したのは、やはりカズマの方だった。
「シゲンさん」
「うん――?」
ようやく破られた無言の間にどこか安堵しつつ、シゲンはやさしく返した。
「結構、色んな所で使われてる言葉だと思ってたけどさ……」
カズマはそこまで言って、数拍おいた。言葉を探しているように思えた。
「守るって、難しいもんだね」
「難しい」シゲンは神妙に告げた。念を押すように、ゆっくり加えた。「とても」
「うん……」
「たとえ、社会の頂点に立つ人間――強大な権力、財力、軍事力などの裏付けを持つ立場にあってすら、なにもかもを……というのは大変に厳しい。全てを堅持できる者など存在しはしない」
「シゲンさんでも?」カズマがシゲンを一瞥した。
「私も例外ではないよ」
現に、守るべき者が今、目の前でこんな姿になっている。
だが、それは口にしなかった。
「そっか……」
カズマの声は、小さな嘆息のように頼りなく響いた。
「お前は、守れなかったな」シゲンは言った。
「――うん」乾いた言葉と共に、少年の肩が小さく震えた。「駄目駄目だったよ」
「大体の状況は把握しているつもりだが……お前の口からも直接、確認しておきたい。何があったか、話してくれるか?」
その言葉に弱々しく振り返り、カズマは悲しげな笑みを薄く浮かべた。
「それが、なにかの役に立つなら……」
「頼む」
だが、言葉と裏腹に、カズマはそれからしばらく言葉を発さなかった。
自分の中で話を整理しようとしているのかもしれない。あるいは、込み上げるものが容易に口を開かせてくれないのかもしれない。
シゲンにはどちらとも判断がつかなかった。ただ、辛抱強く待つほかなかった。
どれくらいしてか、ようやく、ぽつぽつとカズマは語り始めた。
それは、カズマ同様、瀕死の重傷を負いながらも命までは取られなかった護衛らの報告内容と、そう大きくは違わない物語だった。
全てが語られた後、今度はシゲンが沈黙する番だった。
あれは仕方がなかった。誰にも、どうしようもなかった。お前の責任ではない。自分を責めるな。そう慰めるのは簡単である。
だが、無意味であることは分かりきっていた。
本当の自責の念が、誰かの言葉で拭われることは決してない。
「――カズマ。ひとは何でもかんでも守りきれるわけじゃない。しかしそれは、何も守れないこととは違う。お前は、それを思い出すべきだ」
その言葉にまた少し、カズマが振り返った。
「そう、かな」
「そうだ」些か力を込めてシゲンは断じた。「たとえば、時間や規則。慣習。伝統。守ると表現されるものは幾つもあって、そのうちのさらに幾つかは当人の心がけ次第で何とでもなる。お前には守りきれないものがあった一方、今からでも守れるものもある」
違うか、という視線だけの語りかけに、カズマは少し考え込んだ。
どれくらいそうしていただろう。やがて、すっとあごが上がった。その口元に、氷の中から溶け出すかのごとく薄い笑みが広がっていった。
「そうだね」
身体ごと向き直る。
「僕は時間に結構ルーズだし、規則に対してもわりと奔放な方だと思われてる気がする。でも、たとえば大切な約束ごとなんかはあまり破らないな」
「そうだ」
にやりとしてシゲンは言った。
少年は辿り着くべき答えに、こんなにも早く到達したのだ。見込んだ通りに。
「お前は、約束を守ることができる。自分で言ったことを現実に変えることができる。今からでも、まだ」
「僕、ヨウコにまたすぐ会えるって言ったんだ。迎えに行くって、自分からそう言った。その約束はまだ生きていて、有効なんだ。僕はそれを守らないといけない。ヨウコが壁一枚潜ったくらいで死ぬわけないしね」
「であるなら、カズマ」シゲンは半歩横にずれ、出入口への進路を空けた。「お前に合せたい人物がいる」
「サトミさん?」
「サトミもそうだが――いや、奴にお前を逢わせたいなどとはこれっぽっちも思わないが――別にもうひとりいる。あの牝狐のところへは、最後にいけ。奴は今、お前が約束を果たすために必要なものを用意しているところだろうしな」
「へえ、なんだろ?」
「その失った右腕については、どうにかしなくてはならんだろう? やつはそういった小手先のことが器用なのだ。重症を負ったお前の治療も、残念ながらやつに一任せざるを得なかった。いや、勿論、私にもできたのだぞ? しかし、まあ、あれに一日の長があったのも事実であってな。苦渋の決断、断腸の思いというやつだ」
「そう言えば腕……」今思い出したように、カズマは切断された自分の右腕を眼前にかざした。「あんな大怪我だったのに、今はもうほとんど何もないんだ。十年も前の古傷みたいに」
それからカズマは、窓に視線を向けて続けた。
「もう明るくなってるけど、僕は一晩寝てただけなんだよね?」
「そうだ。お前が意識を失ってから、まだ半日しか経っていない」
「普通、腕の切断って半日で治ったりしないよね。何ヶ月も入院が必要な、致命傷に近い大怪我だと思うんだけど」
「そうだ。通常の手続きでは助からなかった可能性がある。出血性のショック症状を呈して危険な状態だったからな。本来なら緊急手術を行って、しばらくは集中治療室で麻酔から覚めるのを待つ必要があった」
「それを、サトミさんが一瞬で治してくれたんだね? どうやってか」
「そうだ」多少、苦々しさを感じつつも事実は認めざるを得ない。もっとも、シゲンは急いで付け加えることを忘れなかった。「繰り返すが、私でも充分に可能であったのだがね」
「うん。ありがとう。おかげで、今すぐにでも日常生活に戻れそうだよ」
パフォーマンスのつもりだろう。カズマは右腕をクルマのワイパーよろしくぶんぶん振ってみせる。
「右腕の不自由に関しては、サトミも交えて方針を決めると良いだろうな。お前には幾つかの選択肢がある。まずは、あの女からその辺を含めて詳しく状況の説明を受けるが良い。我々は例によって、その役割分担をしたのだ」
そして、例によってその順番や比率について多少揉めもしたのだが、それは言わずにおいた。
もっとも、カズマはもう薄々それに気付いているだろう。
「ありがとう、シゲンさん。で、サトミさんの所に行く前に会うべき人っていうのは?」
「ああ、クラウセンの姪御だ」
「クラウセンさんの? えっ、あのひと、家族とかいたんだ」
「うむ。ちょっと病室では手狭だからして、多目的ホールで待たせてある。お前さえ問題ないなら、今から会うと良い」
多目的ホールは、この集合住宅に備えられた専用の設備だ。団地内公民館のような存在だが、造りは小さな体育館と言った方が近い。住人なら無料で時間予約でき、ちょっとしたレクリエーションやフィットネス、会議などに使える。
「分かった。じゃあ、行ってみるよ。シゲンさんはどうするの?」
「私はちょっとここでメディカルスタッフと話がある。すぐに合流するから、先に行っていなさい」
「うん。じゃあ、行ってみる。色々ありがとう、シゲンさん」
気にするな、というシゲンの返答に笑くぼを浮かべ、彼はドアに向かっていった。
シゲンはなんとなくそれを見送り、ひとり病室に残る。
先程までカズマが立っていた窓際に、自分も寄ってみた。
十メートル以上の吹き抜けになった壺庭は、床の大部分が白いタイル張りになっている。中央部に大きな円形の芝生があり、そこにソヨゴの成樹がシンボルツリーとして立っていた。木漏れ日注ぐその根元には、ガス天板のテーブルとウッドチェアが三脚、セットで揃えられている。天井の採光グラスから降り注ぐ日差しに優しくあたためられたそれは今、無人だった。
突然現れた、名も知れぬ男に片腕を切断され、目の前で半身にも等しい幼友達を奪われた――。そのまま意識を失ったカズマはこの部屋で目覚めたとき、一体どのような心境であったのか。それは長年、少年の成長を見詰めてきたシゲンにしても読み切れるものではなかった。
絶望。挫折。完全敗北。殺意にも等しい自己嫌悪。
どれも初めて経験するものであったはずだ。
十代の子どもが容易に受け入れられるものではない。
だが、カズマは静かだった。最初に声をかけたとき、微笑さえ見せた。あまりの落ち着きぶりに、不安すら感じるほどに。
無論、話してみれば、言葉の端々に少なからず自分の無力を悔いるような色を滲ませてはいたが――
と、指先に違和感をおぼえて、シゲンは思考を中断した。
何気なく触れた窓際の手すり。それがほんの僅かだが歪んでいる。明らかに強い負荷が加わったことによる変形だった。ちょうどさっきまでカズマが握っていたあたり。四本の指の形に、わずかにだが木製の手すりがへこんでいた。
ふと、シゲンは青白い火を連想した。
暗がりの中で音も立てず静かに揺らめく炎。
それはひっそりと、だが確かな熱量を秘めて燃え続けている。
カズマは何も感じていなかったわけではない。受け入れがたい衝撃をもてあまし、感覚や思考を鈍化させていたわけでも、麻痺していたわけでもなかったのだ。
彼はただ蝋燭の火のように静かであった。
一方で、怒りや屈辱は木材を歪ませるほど強く、左手を握らせた。
内に秘められた激情は誰にも知られることなく燃えている。
――そうだな。得心しながら、シゲンはひとり無言で頷いていた。
あの少年はむかしから、そういう男だった。
病室を出ると、意外にもそこにはまだカズマの姿があった。
先程までとは違い、やや柔和な表情を見せながら、大柄な外国人と談笑している。
その相手というのが、ほかでもないクラウセンであった。
――ルネ・クラウセン。
彼との付き合いは、もうどれくらいになるか。
シゲンとの出会いとなると、イングランドの学生時代にまで記憶を遡らねばならない。
当時、シゲンは〈ベリオール〉、クラウセンは〈オリオル〉というカレッジでそれぞれ研究に没頭していたが、テーマを同じくしていたのが縁となった。どちらも〈オックスフォード大学〉と呼ばれる一種、学園都市ともいうべき組織の所属学寮であったこともあり、自然と交流が生まれたのだ。日本人の多くが誤解しているが、現実には独立した大小の学寮の集合体を〈オックスフォード大学〉と呼ぶのである。
ともあれ、イタリア上流階級の血を引き継ぎ、ノルウェー国籍を持つというこのルネ・クラウセンという男に出会わなければ、〈變成日〉は数年、あるいは十年以上遅れ、今現在もまだ〈世界の果て〉は生まれていなかったかもしれない。
彼がシゲンの思想に共鳴し、協力を申し出なければ。学生時代に共同で小さな医療関係の会社を興さなければ。その資産を背景に、数度にわたる崑崙山脈へのフィールドワークが行われなければ――
「クラウセン。貴様、なんでここにいるんだ」
「おう、シゲン。来ちゃった」
彼は身長一八六センチの巨躯に、仕立てのスーツというお馴染みの格好だった。天然の緩いカールがかかったライトブラウンの頭髪は、性別や年齢を考えると非常に長い部類で、女性のショートボブ程度。大変にくっきりとした二重まぶたの下では、焦茶色の瞳が猫のような好奇心を湛えて輝いている。口元に茶化すような笑みを浮かべているのはいつものことで、そのせいか初対面の相手には、まずポジティヴでエネルギッシュな印象を抱かせるのが常だった。
「来ちゃった、ではないわ。貴様はホールで待機しているはずだろうが。姪御はどうした。よもや放り出してきたのか」
「そんな、二歳児でもあるまいに」
さしたる問題じゃないさ。いつもながら物ごとを簡単にしか見ない、楽観主義を体現したかのような笑顔と口ぶりであった。
「つきっきりでなくたって、相応の分別くらいあるよ。あの娘にも。なあ、カズマくん?」
「え、まあ……よく分からないですけど」
急に話を振られたカズマは、口元に曖昧な笑みを浮かべてそう応じるしかない。
「貴様に任せた私が愚かであったわ」
シゲンは憤慨しながら歩き出す。無論、向かう先は多目的ホールだ。
「あらん、シゲンちゃん怒っちゃったの?」
「ええい、デカイ図体でしなを作るな。すがりつくな」
腰をくねらせながら追いかけてくる悪友を、蠅を払う要領で突っぱねる。
エレヴェータホールに着くと、箱は既に待機状態であった。シゲンは最初に乗込むとカズマが続くのを待ち、即、閉じるボタンを押した。
「ああ、待って待ってぇ」
残念ながら、扉が閉じきるより早くクラウセンは追いついてきた。両手を割り込ませ、それから無理やり身体を押し込んでくる。
言うまでもなく、シゲンは舌打ちでこれを迎え入れた。
地上につくと、多目的ホールまではコンドミニアムの内園を少し歩く必要があった。
シゲンが先導するように前に立ち、カズマとクラウセンは会話をしながらその背に従ってついてくる、というような構図となった。
「それにしても、クラウセンさんって姪御さんがいたんですね」
「いやあ、姪って言っても実際のところは微妙でね。一時は姪だった時期もあるけど、連れ子やら離婚やら色々からんで、今はもう遠縁の子ってくらいの関係でしかないし、ほとんど面識もないんだよね」
「そうなんですか?」
――という設定ではあるな。
勿論、シゲンのそのつぶやきは胸の裡に留めた。
「ほら、北欧って福祉先進国とか色々言われてたでしょ。でも、〈果て〉に飲まれちゃって国が丸ごとなくなったフィンランドなんかはともかく、スウェーデンもノルウェーも中途半端に国土を削られちゃって生き残っちゃったもんだから、国力が低下が結構な問題になっててさ」
クラウセンは故郷を襲った悲劇を、まるで他人事――しかも近所の犬が子どもを生んだ話をするように語る。
「そうなると、ご自慢の福祉を支える強い政府、大きな政府ってのが弱体化して、社会的な基盤が揺らいでしまう。結局、北欧が福祉福祉って言ってられたのは、国がそこそこ豊かだったればこそのことだしね」
「じゃあ、その姪御さんは……」
「うん。経済が揺らいで社会保障や福祉が崩壊しちゃったら、北欧は暗くて寒いだけの住みにくい土地だからね。〈壁〉のせいで日照さらに減ったし、オーロラも出なくなったし。観光資源の目玉もなくなって、もうボロボロだよ。教育水準も満足に維持できなくなったもんだから、その子も学校にすらほとんど行けてない状況だったらしい。だから、日本に迎え入れて僕が保護することになったんだ」
「やっぱり、どこも大変なんですね」
深刻そうな声のカズマと対照的に、クラウセンはあくまであっけらかんとしていた。
「まあ、そんなこともあってさ。ちょっと世間知らずな子なんだ。同じくらいの年代の友だちとかもいなかったみたいで、色々とわがままな所もあるかもしれない。文化が違えば色んな価値観や常識も違うしね。まあでも、日本語は一応、喋れるから」ぱんと、肩を叩く景気の良い音がした。「カズマくん、あの子と仲良くしてあげてね」
「もちろん、僕で良ければ」
即答したカズマだったが、すぐに重要なことに気付いたらしい。トーンダウンしつつ、難しい声で続けた。
「あ――でも、僕は明日にでもヨウコを追いかけて〈果ての壁〉を越えるつもりですし……いや、本当にそんな簡単に越えられるかは分からないんですけど」
「ああ、そのことなら心配ないよ」
「えっ?」
一足先にホールのエントランスに到着したシゲンは、自動ドアの手前で立ち止まって彼らを振り返った。
「クラウセン。口でぐたぐだ言うより、実際に見せた方が早いぞ」
その声に、彼が顔を上げる。
「確かに。それもそうだな」
昇降口で靴を脱ぎ、三人とも備え付けのスリッパに替えた。大柄なクラウセンは足のサイズも三〇センチを越える規格外であるため、少し窮屈そうにしている。
だがそれも、カズマに比べれば些末なことであった。
右腕を失ったばかりのこの少年が、まだその現実に対応し切れていないのは明白だった。脱いだ靴に利き手の右腕を伸ばしかけ――だらりと垂れ下がるだけの服の裾を見て、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。慌てて左手でやり直す。そんな光景は、シゲンにとって正視に耐えないものだった。
流石のクラウセンもかける言葉が見つからないらしく、自然と場に沈黙が下りる。
シゲンはその重たい空気を振り払わんと、大ホールのドアへ足を急がせた。金属製の重たい引き扉を豪快に開け放つ。
一般的な学校の体育館を、デザインやレイアウトをそのままにちょうど半分の大きさにしたようなこの空間は、多少暴れるにはうってつけの場所であった。しかも借り切ってしまえば、他人の目に触れることもない。
木目も美しい――明るい色調の――板張りフロアは手入れが行き届いており、丁寧に塗装されたウレタン樹脂が覗き込めば人の顔を映し出しそうな艶を生んでいる。その床面を縦横無尽に駆け巡る多彩なカラーテープが描き出すのは、様々な競技に対応するコートラインだ。一番大きなものはミニバスケット用で、これは一般的な二十五メートルプールよりわずかに小さい程度だ。壁際には鮮やかな緑色の防球ネット。時計や窓にも鉄の格子が設えてあるのは、カズマ辺りにとっても見慣れた光景だろう。向かって一番奥には一メートル程の段を置いて、ステージが広がっているのも同様であった。
天井高は、都のコミュニティ有効天井高である七メートルを大きく上回る。頑丈なH鋼の梁がアーチ状のルーフを支えるデザインで、その骨組のすき間にバレーボールでも挟まっていれば、本当に学校の体育館そのものだ。
館内は静謐に包まれていた。
待ち合わせと聞いていたが、人の姿が見当たらない――。
少なくとも、そのことにカズマは戸惑っているようだった。あちこちに視線を巡らせ、クラウセンの姪御――ということになっている娘――を探している。
シゲンにしても、セッティングはクラウセンに一任しており、詳しいことは何も聞いていなかった。そのせいもあって一瞬、カズマ同様に首を傾げかける。
だが、壁に沿ってコの字状に設けられた二階席の一角に、確かな封貝の気配を感じる。何らかの事情で彼女がそこに身を潜めていることは、すぐに分かった。
と、クラウセンが前に進み出て、声を張り上げた。
「おーい、ナージャ。出番だよ」
返答はなかった。
その代わり、軽やかな駆け音が近付いてきて、次の瞬間には、人影が二階から身を躍らせていた。
わっ、という小さな叫びを発して、カズマが身を強ばらせる。
彼女は真っ赤な軌跡を描きながら、ほぼ垂直に落下し、そしてこともなげに着地した。同時に館内を震わせた重低音は、雪国育ちのシゲンに屋根から大量の雪塊が雪崩落ちた際の、あの特徴的な大音響を連想させた。
事故で落下したと思い込んだのだろう。救助に駆け出しかけたカズマだったが、その脚は四歩目で完全に止った。
着地体勢のまま中腰であった少女が、軽やかな動作で直立の体勢をとったからだ。
その動きにあわせて、首元に巻かれた真っ赤なマフラーがふわりと揺れる。落下時、軌跡をなぞるように現れた真紅のラインの正体だ。
ナージャはそのまま、にこにこしながらシゲンたちに歩み寄ってくる。
彼女が充分に近付くのを待って、クラウセンが再び口火を切った。
「カズマくん、紹介するよ。この子が、ナージャ・N・クラウセンだ」
クラウセンが左手をナージャの背に回す。
「見ての通り、二階から飛び降りても涼しい顔をしてるくらい頑丈な子でね。学年でいうとひとつ下ってことになるから、まあ、妹分だと思って仲良くしてやってくれ」
「あ――、はい。えっと……」
カズマは明らかに、まだ状況を把握し切れていない様子だった。まごつく彼を尻目に、クラウセンはあくまでマイペースを貫く。さっさと話を進めていった。
「で、ナージャ。彼がずっと話していたカズマくんだ。カズマ・ナンジョー」
その言葉を受け、少女はうむと大仰に頷いた。
カズマのひとつ下というだけあり、百五十センチ前後と、ナージャは女性としてもやや小柄な部類にあった。比率的な手足の長さ、肌の色だけを取って見れば、イタリア系であるクラウセンの血縁と言われても、なんら違和感は生じない。
多方、ヨーロッパ系特有の骨太な印象は全くなく、目鼻立ち、彫りの深さなどはむしろ日本人に親しみやすい程度で、どちらかと言えば、欧米系と日系とのハーフとでも言われた方がしっくりくる容貌だった。
赤ん坊のように柔らかそうな頭髪は、光の加減によってはブロンドにも見える亜麻色。ガーリィショートというのだろうか。長さはやや短めであった。無造作とも取れる大味なスタイリングだが、この年頃特有の透明感を少しも損なってはいないのが不思議に思える。
彼女の人格を端的に物語っているのが、常に新しい悪戯を考えていそうな、どこか挑戦的な双眸であった。瞳は微妙に灰色がかった碧眼で、こちらも頭髪同様、陽光の当り方によって色が大きく違って見える。その上を走る少し太めで直線的な眉は、彼女の活発さを良くあらわしたパーツのひとつだ。
事前に性別を伝えられていなければ、遠目には少年と誤認されることもあり得るだろう。ナージャは全体的に肉付きが薄く、それがまた中性的なイメージを助長させている。
一方、長いマフラーでその大部分を隠されていても、女性らしい胸部の発達は目を見張るものがあり、近くに寄れば彼女の性別を見誤る者はいない。
襟巻をしてはいるが、ナージャの服装は総じると軽装の部類であった。上は全体に華の繍い紋のあしらわれた、ガンメタルのノースリーブシャツ。これはファッションに疎いシゲンに言わせると、太極拳の表演着、あるいはカンフー着の類に良く似て見えた。下衣はホットパンツだとかいう裾などないも同然の短いパンツで、寒々しいほど太腿が剥き出しになっている。これにニーソックスだとかいう膝より長い靴下を履いているため、暑いのだか寒いのだか、シゲンにはまったく理解しかねた。
「そうか、おまえがカズマ・ダーガなのだな!」
威勢とは裏腹に、少女らしい透き通った声が、まっすぐカズマに放たれる。
ナージャは豊満な胸を誇るような仁王立ちの姿勢で続けた。
「私がナージャだ。よろしく頼むぞ」
「あ、はあ……えっと、楠上カズマです」
語尾に至っては消え去りそうな声で応じた後、カズマはしきりに「ダーガ?」だとか「短剣?」などと独りごちつつ、首を傾げている。
「ああ、ナージャの言ってるダーガってのはアレだよ」
察したクラウセンが笑顔で助け船を出す。
「なんというか、『カズマのアニキ』みたいな感じの意味でね。不慣れなもんだから、ナージャのはかなり訛った発音になっちゃってるけど、まあ、親愛の表現に違いはないから。そう深く考えずに、軽いノリで受け止めちゃってあげてよ」
ノルウェーだかには、そうした特有の表現があると解釈したのだろう。言われるまま、「あ、そうなんだ」とカズマは軽い調子で首肯した。
「ええと、でね」用意していた言葉を思い出そうとするかのように、クラウセンは顎を撫でる。「このナージャのことなんだけど。なんで、このタイミングでカズマくんに紹介しちゃったかって言うとね」
「はい」
「カズマくん、アレなんだよね。さらわれたヨウコちゃんのこと追いかけて、〈果て〉を越えていきたいんだよね?」
瞬間、カズマの息を呑む気配が伝わった。たちまちその表情が強ばっていく。
数拍の間を置いて、少年は重々しく頷いた。
「その、つもりです」
「うん」クラウセンは満足そうに、ひとつ首を縦に振る。「まあ、そうなるんじゃないかって俺たちも前々から思っててね。微力ながら支援できないかと、シゲンやサトミさんも交えて相談してたんだ。で、じゃあこのナージャに一肌脱いで貰おうってことになってね」
「えっ――?」
「いやね、〈果て〉を越えるための絶対条件というのもそうだけど、〈あちら側〉では封貝を持っていて、かつそれの使い方に精通した人間でないと、なかなか自由には活動できないもんなんだよ。修羅の世界っていうかさ。化物はそらじゅうにうじゃうじゃいるし、普通に旅してたら野党やら山賊やらに当然のごとく襲われるし。あっちこっちで戦争やってるしね。言葉も通じない。文字も読めない。おまけに文化にも不案内……っていうんじゃ、命が幾つあっても足りないよ。人捜しどころじゃないからさ」
「そう……なんですか?」
「その点、ウチの秘蔵っ子のナージャなら、強力な封貝で完全武装してるし、〈あちら側〉の世界の事情にそこそこ通じてる。カズマくんの旅の良いナヴィゲーターになると思うんだよね」
この発言にはカズマも驚いたようだった。何度も「えっ」という言葉を繰り返し、クラウセンとナージャとの間で忙しく視線を往復させる。
「あの、多分、僕はよく分かってないと思うんですけど、封貝って結局……?」
「封貝というのは――」
クラウセンの機先を制し、シゲンは自ら説明の口を開いた。
「世界を布のようなものだとすれば、二種類の異なる世界同士を縫い合わせる糸に相当する存在だ。我々のこの現実世界、〈壁〉を隔てた向こう側に広がる異世界。そのどちらにも存在し、どちらにも属さない領域で二つを繋いでいる」
「まあ、糸でいうなら糸電話の糸で喩えるのもアリだよね」
軽く肩をすくめるようなジェスチャーと共に、クラウセンが補足した。
「その両側にいるもの同士の橋渡しをするっていうかさ」
「封貝――〈ペルナ〉とは、太古の昔から呼ばれ方はもちろん、形や性質をその時代に即して自ら変えつつ存在してきた。意志を持つ〈何か〉だ。いつ頃、どのようにして、何のために誕生したかを知る者はいない。封貝は素養を持つ人間を見つけ出し、契約を交わすことで、道具として機能する。分かっているのは、実際その程度のことだけだ」
シゲンが知る限り、時代によっては、一つの封貝が幾つもの機能を併せ持つこともあったらしい。
だが、現行の封貝は違う。一つにつき一つの機能しか備わっていない。その代わり、異なる機能をもった封貝同士が、互いを補い合うようにグループを形成している。
この現行の封貝を、自分たち研究者は〈ペルナ・コンポーネント・システム〉と呼称しているのだ、とシゲンは説明した。
封貝が、こちら側の書類上では〈PCS〉と表記される所以だ。
「コンポって、あれとは違うの? 僕の部屋にも音楽を鳴らすミニコンポっていうのがあるけど」
「お前のいうミニコンポは、ミニ・コンポーネント・システムの略称だよ。和製英語だな。欧米ではステレオ・コンポーネント・システムになる。まあ、意味は同じだ。コンポはcomponentの省略形で、部品という意味だ。プレイヤーやアンプ、スピーカーといった、本来独立したパーツであるものをセットにして、一つの大きなオーディオ再生環境を構築しているわけだ」
現行の封貝が採用しているシステムも、方向性的にはこれと変わりない。
封貝がそれぞれプレイヤーやアンプやスピーカーなどのようにそれぞれ違った役割を個々果たし、集まることで一つのグループを形成している。
「まあ、見てもらった方が早いよ。シゲン、お前がさっき言ってたことだろう?」
クラウセンが悪戯っぽい笑みで指摘する。これには反論の余地もなかった。
「じゃあ、ナージャ」
クラウセンの呼びかけに、蚊帳の外に置かれて退屈そうにしていた少女は顔を上げた。その顔にぱっと笑顔が咲く。
「私の出番だな?」
「その通り。打ち合わせたこと、覚えてるのよね?」
「もちろんだ!」両手を腰にして、ナージャが胸を張る。「安心して任せて構わないんだぞ?」
「オーケイ。なら、火尖槍から順に頼むよ。カズマくんにキミの力を見せてやってくれ」
「ようし」
得意げな笑みを見せると、少女は意気揚々と右手を頭上に掲げた。
そして、口訣する。
「いくぞぉ、Fox 1!」
瞬間、虚空から棒状の何かが回転しながら出現した。
それは糸で引かれたように、広げたナージャの右手に収まる。
「うわ――っ!?」
目を見開いたカズマが――ほぼ無意識にだろう――一歩後ずさった。
片やナージャは、二メートルはあろうかという巨大な槍をリズムバトンよろしく軽々と振り回している。柳のような細腕が、大の男がこめかみに血管を浮かべてようやく持ち上げられるか――というような代物を、まるで重さなどないかのように弄ぶ。その光景は、異様の一言だった。
ナージャはその曲芸のようなパフォーマンスをさんざん続けた後、ようやく満足したのか、構えの体勢を取ってぴたりと静止した。歌舞伎役者の見栄にも似たそのポージングは、およそ実戦的なそれとは言いがたい。彼女がリラックスしてこの場を楽しんでいることが窺えた。
「えー、じゃあ、このFox 1について簡単に触れておこうか」
クラウセンが咳払いし、語り始めた。その顔は「ドッキリ成功!」の看板を引っ提げて現れた、たちの悪い仕掛け人そのものだ。
「これは、白兵――つまり接近した相手に物理攻撃する用の武器に割り振られた、全てのペルナ・コンポーネント・システムに共通する符丁でね。あらゆる封貝使いは、今みたいにFox 1と唱えることで愛用の武具型封貝を口寄せする。ご覧のように、ナージャの場合は槍だね」
果たしてその説明は耳に届いているのか。カズマは、先端に紅蓮の炎をまとった異界の神槍に、ただただ魅入られているようだった。火炎の照り返しで顔を黄昏色に染めながら、瞬きもせずにナージャと封貝を凝視している。
「――もちろん、別に槍鉾タイプと決まってるわけではなくてね。Fox 1には他にも刀剣タイプ、斧槌タイプ、ナックルみたいな打撃タイプと色んな種類があるんだ。ちなみに、カズマくんの右腕をぶった斬ったシガー・イングリスのFox 1は、全種の中で敵に回すと最も厄介な反則タイプ。ケイン系だ。伸縮したり、不定形だったりと、白兵戦用のくせに射程が恐ろしく長くて、威力も大きい。そして全てがユニークペルナだ。つまり、基本的にこの世に一つしかない特別な封貝ってことだね。ケイン系のFox 1を持つ相手に遭遇したら、その瞬間、何も考えずに命懸けで逃げることだ」
クラウセンのこの助言は、シゲンから見ても至極まっとうなものであった。
ケイン系といえば、〈三清〉に数えられるシゲンをしても、厄介極まりない相手だ。
あらゆる封貝の中で最強の攻撃力を誇ると言われる〈雷帝〉比雲のメインウェポン、破壊の杖〈ヴァナルガンド〉からして、ケイン系のFox 1であることは特筆に値する。
「あのう……」
と、おっかなびっくりといった様子で、カズマが挙手した。
「おっ、カズマくん。なにか質問かな?」
「Fox 1と言うことは、2もあるんでしょうか」
「はい。今、楠上くんがとても良い質問をしました」
パントマイムで架空のマイクを表現しつつ、クラウセンが拍手の真似をする。
「結論から言うと、カズマくんの想像通り、Fox 2は存在するよ。ワンが白兵戦用の武器であるのに対し、ツーはいわゆる遠距離用の射撃武器。これも、ほぼ全ての封貝で共通しているね」
「嘘か誠か〈雷帝〉のコンポには、Fox 2が含まれないという噂もあるがな」
シゲンが指摘する。
「まあ、あのひとはね……」クラウセンが複雑そうな顔で認めた。「〈雷帝〉の場合、Fox 1が射程無限の雷速攻撃だし。別に遠距離用の武器なんていらないからねえ。噂が事実であっても何ら驚きじゃないし、まあ例外中の例外だよ」
「もしかして、スリーもあったり?」とカズマ。
「うん、あるよ。もう少し正確に言うと、存在は確認はされてるけど、ほとんどのコンポには含まれてないってところかな。スリーまであるコンポは、極一部だよ」
「私にもFox 3の封貝はないぞ!」
ナージャが無意味に胸を張って宣言し、呵々《かか》と笑う。いつの間に仕舞ったのか、その手にはもう火尖槍は握られていない。
「そのかわりと言っちゃなんだけど、攻撃系の封貝にはほぼ例外なく切り札タイプが存在する」クラウセンが言った。
「必殺の?」
「そう。Lethal Fox。効果は本当にバラエティ豊かで、FireのFとか言っときながら戦闘用でないことすら多いんだけどね。危険すぎるから、流石にここで実演披露してあげるわけにはいかないけど……ヤバイのは核撃くらいのインパクトがあるから、カズマくんも気をつけた方が良いよ。まあ、気をつけてどうこうできるもんでもないけどさ」
と、こちらも大口を開けて笑いだす。
未だに笑い続けているナージャと並んで、なにやら哄笑のアンサンブルといった様相を呈しはじめた。
「でもまあ、これだけじゃ単なるマジックと思われちゃうかもしれないしね。カズマくんにはちょっと他の封貝を見て貰おうかな」
急に真顔に戻ったクラウセンが、スーツの懐を漁りながら言った。
シゲンにはこの時点で、次に行われるであろう事が予想できた。
そしてその予測に違わず、クラウセンが拳銃を取り出すのを見た。
おっ――という表情だけでさほど驚かなかったあたり、カズマはそれを玩具の銃とでも解釈したのだろう。
しかし、それが勘違いであることをシゲンは知っていた。
ベレッタ社のM92に酷似したそのフォルムは、しかしベレッタそのものではない。シゲンの眼は、フレームに配置されたマニュアル・セーフティを見逃さなかった。すなわちMではなくPT。ブラジルの〈トーラス社〉が手がけた精巧な複製品だ。
コピィでありながら、総合的にはオリジナルのクオリティを上回るという、稀有な実例のひとつである。
そして、黒光りするそれはモデルガンではない。実銃なのだっだ。
「――封貝は互いの不足機能を補い合う。火力《Fox》だけでは、なかなか戦いを生き抜くことはできない。これはカズマくんも分かるよね?」
クラウセンは涼やかな微笑を浮かべつつ、まるでボールペンにキャップを嵌めるような何気なさで、銃口に減音装置をねじ込んでいく。
そして銃の遊底を引いた。薬室に初弾が装填される。
「なら、何が必要かっていうと――」
言葉と同時、クラウセンは無造作に二度、トリガーを絞った。
一般にハリウッド映画で表現されているほど、銃の減音装置は優秀ではない。そこそこ立派な発砲音がジム内に轟き、長く尾を引いた。
クラウセン自身、音を完全に殺そうとは最初から考えていなかったに違いあるまい。単に、イヤーマフなしでも鼓膜を破壊しないための配慮だ。
そうして放たれた二発の9ミリパラベラム弾は、三歩分の距離を隔てて棒立ちしている少女――ナージャ・クラウセンの心臓に狙いを絞られていた。
当然、悲鳴を上げる間もなく、それ以前、何が起ったのか認識する間もなく、凶弾は少女の胸に吸い込まれるように消えていき、血の華を咲かせる。
衝撃で潰れた弾丸は、骨を削り、筋繊維を引きちぎり、傷口周辺に細かい金属片をまき散らしながら進んでいく。神経は焼かれ、血管は破られるだけで、これを止めることはできない。ひしゃげた弾丸は殺傷力を秘めたまま、やがて心臓に到達し、これを穿つ。
そのはずだった。
が、着弾の寸前のことだった。
血の華ではなく、紅い斜線が鋭く二度、少女の胸の前で閃いた。
カズマの眼には、全てが同時に起ったように映ったことだろう。
つまり、銃声と同時に、ナージャの紅いマフラーがまるで自分の意志を持ったかのように、目にも留まらぬ速度で動きだし――
そう。実際、音の壁を破るそれを肉眼で捉えることなどできはしない。文字通り、目に留まることはない。ならば、カズマにはマフラーの一部が突然、消失したように認識されたはずだ。あるいは、何が起ったかすら理解できなかったか。
「ん……? ルネ。なんなのだ、これは――?」
広げたナージャの手のひらに、パラパラと鉛弾が落された。
弾丸を途中で掴み取ったマフラーの先端が、ふわふわ漂いながら移動し、主の手に戦利品を渡したのだ。
「今のが前から言ってた銃だよ、ナージャ。そしてキミが手にしているのがその弾だ」
クラウセンがなんら悪びれた様子もなく、淡々と告げる。
「おお、これが話に聞いていた銃か。こちら側の世界のFox 2みたいなものだっていう」
一瞬、目を輝かせたナージャだったが、直後、落胆したように肩を落とした。
「なんか、思ったより大したことなかったな」
「まあ、封貝同士の戦闘では、ミサイルみたいなのが飛び交うのが普通だしね。一緒にしちゃ気の毒だよ」
クラウセン一族は剣呑な話題をほがらかに語り合っている。
そこへ、幽霊を見たような顔で詰め寄ったのがカズマだった。
「あの……今のは……」
「ああ、ゴメンゴメン」ルネ・クラウセンは右手で懐に銃を仕舞いつつ、左手を拝むように立てた。「いやあ、口で色々言うより実際見てもらった方が良いと思ってさ」
「さっきのは、本物の……本当に拳銃で撃ったんですか?」
「あれ、分からなかった? もう一回やる?」
クラウセンが懐のホルスターに手を伸ばしかける。
カズマは慌てた様子でそれを制止した。
「いやいやいや」激しく両手を振りつつ早口に続ける。「良いです。それはもう良いんですけど」
「そう?」とクラウセン。「あのナージャのマフラーみたいなのね。実は封貝なんだよ。永久・常時顕現型っていう、珍しいタイプのね」
これにはまた、カズマが目を白黒させた。
「永久……じょうじ?」
つまり、封貝の大半は、こちら側でも〈あちら側〉でもない亜空間に存在している。
使用者はそれを召喚、実体化させて使用するのが通常の手続きだ。
しかし極めて稀にだが、例外もある。召喚するまでもなく、形をとった状態で常に使用者に寄り添って存在するタイプの封貝が現れるのだ。そうクラウセンは解説した。
「永久的に常時、顕現――つまり形をとって存在しているから、永久・常時顕現型ね」
「そう。それが、私のDelta 1なのだ」
どうやら、仁王立ちに得意顔というのが彼女のお気に入りポーズらしい。ナージャは既にお馴染みになりつつあるその格好で、胸元のマフラーを誇示する。マフラーもマフラーで、集まった視線に答えるかのように、風もない中ひらひらと自ら揺れていた。
「デルタ・ワンっていうのは?」
「〈フォックス〉系が攻撃タイプなら、〈デルタ〉系は防御タイプってところかな」クラウセンが即答する。「カズマくん、屋上でシガー・イングリスに襲われたとき、透明な見えない壁に色々やられたんじゃない?」
「え、ええ……」
なぜ分かるのだ、という表情でカズマが頷く。
しかし、シゲンからすれば、これは別に不思議なことでも何でもなかった。
見えない壁にぶちまけられたとしか思えない珈琲の飛び散り方。
四不像で封貝の気配を断つにしても、血の臭いや一連の騒音が一切、サトミに伝わらなかった理由。
これらに説明をつけるには、イングリスがDelta 1でそれらを閉じ込めていたと考えるのが最も自然なのだ。
「ナージャを守っているDelta 1は、オートガードや伸縮、対火、永久常時顕現の特殊能力を持った、目に見えるタイプの防御封貝だ。でもね、イングリスのように、目に見えない壁を展開するDelta 1も存在する。むしろ、こっちの方が多いくらいだ。どちらも共通して、拳銃程度では到底破れないけどね」
「僕なんかが体当たりしても、びくともしなかったのは当然ですね……」
どこか自嘲的な笑みを浮かべ、カズマが弱々しくつぶやく。
「生身でイングリスに立ち向かってまだ生きてること自体、奇跡だよ」
クラウセンが慰めるように言うが、カズマにとって、それは何ら心を揺さぶるものではなかったらしい。表情は一向に晴れる気配を見せなかった。
「じゃあ、最後にとっておきをお見せして、今日はお開きとしよう」
空気を変えるように、クラウセンが一際景気よく言った。
「ナージャ、よろしく頼むよ」
「その言葉を待ってたぞ!」
言葉と同時、ナージャは弾かれたように走りだした。
そして、庭で遊ばせている愛犬を呼ぶように叫ぶ。
「Victor 1!」
口訣と共に跳躍したナージャは、そのまま一気に十二メートルを越える天井付近まで上昇していった。
もちろん、純粋な脚力、ジャンプのバネでそこまで至ったわけではない。
彼女の足下にいつの間にか出現していた、左右一対の円盤による奇跡だ。
直径三〇センチ、厚みはその三分の一ほどか。横倒しにした車輪のようなそれは、中心に回転ゴマのような軸、そしてそこから放射状に広がる――自転車のエアロスポークか、あるいはクルマのホイールディスクに似た――幅広の骨組みを持っており、実際、何かの車輪そのものにしか見えなかった。それが扇風機の羽さなからに高速回転しているのが遠目にも見て取れる。
車輪はそれぞれナージャの左右の足の裏から数センチの宙空にピタリと貼り付き、主に推進力を与えているようだった。地面側から下方向に何かを噴出しているのだろう。これを裏付けるのが、戦闘機のアフターバーナーのような空気の揺らめきだ。そこだけ真夏の蜃気楼のように景色が歪んで見える。
「ダーガー、見てるかー?」
天井付近を旋回するナージャが、両手をぶんぶん振りながら声を降らせてくる。
「うん……見えてるよー」
口元を引き攣らせながらも、カズマは律儀に手を振り返す。
それで気を良くしたのか、ナージャはさらに飛行速度を上げはじめた。
だが、やがて、ただ飛んでいることに飽きがきたらしい。
ナージャは何を思ったか車輪の推進力を止めた。必然、彼女の身体は翼を失ったイカロスよろしく、真っ逆さまに自由落下をはじめる。そうして地面すれすれ、カズマが手で眼を覆いかけたところで、水平方向へアフターバーナーを吹かして急加速。そのままカズマに向けて矢のように突進し、激突寸前のところで今度は垂直に進路を変更した。そのまま再び天井付近へ戻っていく。
寿命が縮むような曲芸飛行だが、本人は楽しくて仕方がないらしい。「ひゃっほー」だとか「わぁーい」などという歓声をあげながら頭上をはしゃぎまわっていた。もはや、カズマとの顔合わせがどうとかいう当初の目的は完全に忘却の彼方なのだろう。
「あれが……封貝……」
カズマが飛び回るナージャを呆けたように見上げながら、ぼそりつぶやく。
「あれが、封貝だ」彼の隣に並びながら、シゲンは言った。「お前が屋上で見たという、シガー・イングリスの乗り物――巨大な鹿もまた封貝。移動系の幻獣型封貝だ」
カズマが弾かれたように顔を上げる。
「あの、化物も……! あれも封貝だったの?」
「封貝は意志を持つ。生きていると言い換えても良い。動物に似せて姿を変えることもあるということだ。珍しいが、全くないことでもない。私のVictor 1も動物の姿をしているぞ」
「さっきも言ったけど」クラウセンが横から加わった。「カズマくんが〈果て〉を越えていくと言うのなら、あの封貝の力は絶対に必要になる」
あの、という部分で飛び回るナージャを一瞥し、彼は続けた。
「だから是非、あの子を連れて行って欲しい。キミは生き残るためにナージャの力が必要だし、封貝使いであるナージャにとって〈あちら側〉は第二の故郷のようなものなんだ。一度、〈あちら側〉を見てみたいと前々から言っててね。どう? 良い関係を構築できると思うんだけどなあ」
軽い口調の問いかけは、だがカズマに長考をもたらした。深刻そうな表情を浮かべて黙り込む。こうなると、声をかけてもなかなか反応しなくなるのが常であった。
シゲンをしても、カズマが何を思っているのかまでは計れなかった。だが、握り固められたその拳が、いつしかごく微かに震えていたことには気付いた。
「封貝の力が必要だったのは……」
ややあってぽつりとつぶやくと、カズマはやおら顔を上げた。
「あの時、ヨウコにも封貝の力があれば、彼女は戦えたんだよね? ヨウコは何もできないのが悔しいって言ってたけど。でも、あの力があれば、ただ黙って連れ去られるだけじゃなかったかもしれない」
それは――一面において、その通りだった。
封貝には封貝でしか対抗できない。たとえ、SASのような最高の特殊部隊を伏せていても、イングリスによる千葉ヨウコの拉致は防げなかったであろう。
多方、カズマかヨウコ、あるいは両者ともが封貝を有していたなら、状況はまた変わっていたかもしれない。それは事実だ。
「シゲンさん。封貝はどうやったら手に入るの? ヨウコが狙われていると分かった時点で、渡してあげるわけにはいかなかったの?」
「カズマ」シゲンは諭しかけるように言った。「サッカーボールを与えれば、誰もがワールドカップやチャンピオンズリーグに出場できるプロフットボーラーになれるわけではない。封貝は、基本的に持って生まれる先天性の――つまり、天稟だ」
「まあ、俺やシゲンのように後天的に適合して、封貝使いになるケースもないではないけどね」
両肩を竦めながらクラウセンが補足する。
「だが、比較的稀なケースだ」
「そう。正確な統計なんてないけど、全体の二割以下ってところだろう」
後天的に得るにしても、誰かから封貝のコンポセットを与えられて能力者になる、といったケースは非常に珍しい。
多くは、ある日突然、原因不明の体調不良に襲われる。高熱を発し、突発的な目眩や強い頭痛に襲われ、時としてそのまま意識を失ってしまったりもする。
これらの症状は半日から数日で嘘のように消え去るが――
その時、目覚めと共に気付くのだ。目の前にいつの間にか現れ、自分に寄り添う封貝を見て、彼らは自分が封貝の所有者になったことを知る。
「――聞け、カズマ」
シゲンは少年の細い肩に手をかけて言った。
「我々は確かに、まだ誰とも契約していない空白封貝を一定数、確保している。それを、千葉ヨウコくんに提供することも可能ではあった。しかし、それで彼女が封貝使いになれたかと言えば、非常に確率は低かったであろうし、仮に契約できたとしても、付け焼き刃の生兵法ではシガー・イングリスには到底対抗できはしない」
「それにね、カズマくん」クラウセンがシゲンの言葉を継ぐように口を開いた。「イングリスの目的が拉致だったのは、ヨウコちゃんがただの人間だったからだ。封貝使いなら、目的が抹殺に変質していたかもしれない。封貝はね、不確定要素なんだよ。賽の目と同じ、何が出るか分からない変数だ。武器にもなるけど、こちら側の世界にあっては予測不可能なリスク要因にもなる諸刃の刃だと考えなくちゃいけない」
「でも――」
なおも言い募ろうとしたカズマであったが、具体的な反論の言葉を見つけ出すには至らなかった。消沈した様子で力なく口を結ぶ。
シゲンはうつむいた彼の肩を、軽く二度叩いて半歩下がった。
「我々が取った道が、何の反省の余地もないベストなものであったとは言わん。だが、あらゆる可能性を考慮して慎重に選んだものであったことは分かって欲しい」
カズマはやや間を置いて、ようやく「うん……」と答えた。「ごめん、シゲンさん」
「気にするな」
「あの、じゃあさ」
ふと何か思いついたように、打って変わった勢いでカズマは身を乗り出した。
「ヨウコの件はそれとして、今、未契約の封貝自体はあるって言たよね。それを、第三者に提供したりってのはできたりする?」
「――それは、カズマ。お前自身が封貝を欲しているということか?」
「いや、そうじゃなくて」彼は首を振って、すぐに続けた。「ああ勿論、僕も使えるものなら、それが一番だけど。でも今、僕が言ってるのは、知り合いをひとり一緒に連れて行きたいってことなんだ。〈あちら側〉に」
当然ながら、その人物には自然にその意思があるかを問わねばならないが――、と付け加えて、カズマは返答待ちの構えに入る。
「まあ、キャンディみたいに気軽に配って回って良いものじゃないけどね。信頼できる人物になら、契約できないか試しに貸してあげることくらいは、まあ可能だよ」
クラウセンが答える。「でも誰に――?」
「エリックさん」
カズマは真っ直ぐに言った。
それは地元の誰もが知る、甲子園の英雄の名であった。
「エリック・J・アカギ。ヨウコの一番のボーイフレンドだよ」
44キロバイト……
普段の2話分の文量になってしまった。
文字数も10万を突破して、そろそろ薄目の書籍1冊分くらいになるでしょうか。
次回はいよいよ〈果て〉越えが描かれ、そして第1部は完結です。
なので、まあ区切りのタイミングとしては結構絶妙な感じですね。
今回で主要登場人物、そしてギミックが大体出そろい、いよいよ物語は第2部に向けて本格的に動きはじめます。
そろそろ挿絵や表紙の類も描いておきたい。
ところで、今日気付いたんですが、このサイト作品が37万もある模様(苦笑)
自分から売り込まないと、そもそも発見されない気がしてきた。
宣伝とかした方がいいのかなあ、やはり…