だから…
本編中の注釈については、本文後のあとがき部分に詳細があります
006
一目見た瞬間、それがなんであるか理解できた。
たとえカズマが全盲であったとしてさえ、瞬時に肌で気取ったに違いない。
闇の中、耳元で巨大肉食獣の低い唸り声、そして生あたたかい吐息を浴びれば誰もが即座に死を予感する。
第一、常識の枠組みを超えた存在に対して、視覚的情報はもはや何の役割も果たしてはくれないのだった。熊ほどもある巨大な獣が宙に浮いている光景自体が、まず我が目を疑わせる。
なぜ、どうやって――
そんなメカニズムを探る思考力など、とうに吹き飛んでしまっていた。許容限界を超えたものを目前にした時、人はただ口を半開きにして呆けることしかできない。
それはまさに、青信号の横断歩道を渡る中、不意に耳を劈くクラクションを浴びせられた人間と同じだった。
振り向けば、そこには大型トレーラーが絶望的速度で、視界いっぱいに迫り来ている。
反射的に飛び退ける者など現実にはほぼ存在しない。眩いヘッドライトに魅入られたかのごとく、ただ呆然と立ち竦む。
それは思考と神経を麻痺させることで、自らを死の恐怖から守ろうとする本能の業なのか――
今、カズマの精神を歪ませつつある獣は、固そうな焦茶色の毛並みと白い顔、四本の脚、そして馬鹿げたサイズの双角を持っていた。
綺麗に並んだ上下の四角い歯は、その一つひとつがカズマの拳大。人喰い鮫のような鋭利さこそないものの、サイズを見れば人間の頭などプチトマトのようにすり潰してしまえることは疑う余地もない。
毛並み越しにも分かる冗談のような四肢の発達具合は、カズマに土佐の闘犬を思い起こさせた。一方、樹木の幹のようにどっしりしとした首は人間の腕一本分ほどの長さがあり、犬よりむしろ馬のそれにイメージが近しい。その先端にある頭部だけは全身の中で唯一白っぽく、細長い逆三角形で、尖った耳の形状を含め山羊を連想させる。首から胴にかけて朽葉色[*1]から焦茶色を介し、やがて純粋な黒色へグラデーションしていく毛並みが概ね闇夜を保護色とする中、唯一系統を違える頭部が光輝部を成し、宙空にぽっかりと浮かんでいるようにも見えた。
白目のない双眸も体躯と同様黒っぽく、見ようによっては眼球をスプーンで抉り取ったがらんどうの孔が広がっているかのようだった。
あるいは底などありはしない。
それは、無限に広がる深淵の入口なのではあるまいか――。
目を合せ続けるうち、カズマはいつしかそんな妄想めいた恐怖に捕らわれるようになった。
同時に、かの有名な文句が思い浮かんだ。
――深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
事実、獣の双眸には小さな人間を存在ごと丸呑みにしてしまうような深みがあった。
思えば、あれだけのサイズを誇りながら、目の前の怪物からは獣臭さ、体臭の類がまったく漂ってこない。毛並みや佇まいにはむしろ気品、風格といったものが備わっており、生態系の頂点にいるはずの人間を無意識に後ずさらせるほどであった。その眼に宿る底知れない知性に到っては、全てを見透かす超越者の幽玄すら窺わせる。
加えて、見る者を畏怖させてやまない左右一対の角がある。
それは百舌の速贄さながら、成人男性を少なくとも片方に十人ずつ串刺しにできることは間違いなく、先端の異様な尖り方はむしろそのために存在していることを物語っているようでもある。
前方の頭上高く、概ねスリーポイントの位置から見たリングに近しい空間座標上に、その化物の巨大な蹄は静止していた。
やがて前後二対のそれらは歩行の動きを見せながら、不可視のスロープを下るようにゆっくりと下降しはじめた。そして、屋上の床に立つ。
無音の極めて厳かな着地であったにも関わらず、カズマは地響きにも似た空間の揺らぎを感じた。圧倒、という言葉の意味をはじめて体感した瞬間であった。
足下の高低差がなくなったことで、改めて目の前の怪物の冗談じみたスケールが明らかとなった。体高はやはり優に二メートルに達しており、比較的イメージの容易な軽種馬のサラブレッドより一回り以上巨大であった。肉付きとなると軽く倍に及ぶであろう。借りに並べるとなると、洗練された競走馬も子馬扱いに違いない。首をもたげられてしまえば、カズマなど背伸びして手を伸ばしても顔に触れらもすまい。
上空にいたときからほぼ完全な死角に入っていた背の人物は、相変わらずその大部分が乗獣の巨体に隠れてしまっている。建物の屋上にいる人物を、地上から見上げることが困難なように。
「――チバヨウコ。来い」
その高みから、声が静かに紡いだ。
「お前を迎えに来た」
発音はネイティヴと遜色ない。それでいて強烈な違和感を抱かせる。ちぐはぐで完璧。そうとしか表現しようのない日本語であった。
殺害した人間の皮を被り、次の獲物である被害者の隣人に能面のような無表情で近付いていく異界の怪物。昔見たホラー映画のワンシーンがなぜだかカズマの脳裏を過ぎる。
本能的恐怖が勝手に喉の筋肉をひくつかせ、声にならない悲鳴を生んだ。
同じ「ひっ」という小さな声を斜め背後に聞かなければ、カズマはそのまま気を失うか、あるいは気が触れでもしていたかもしれなかった。
だが、自分の仕事を思い出せば、我にも返る。
精神が肉体のコントロールを取り戻す。
「ヨウコ、走ってッ!」
気付いた瞬間、カズマは叫んでいた。
言い終わらぬうちから身を翻す。その回転を利用して、右手を鞍上の人物へ向けて一閃させた。持っていた紙コップの中身が飛沫を上げて闖入者へ飛んでいく。同時、空いた左手を伸ばして有無を言わさずヨウコの腕を取った。屋上の出口目がけて走りだす。
が、カズマはすぐにつんのめって転倒しかけた。
肝心のヨウコが動こうとしない。
振り返ったカズマは、すぐにその理由を知った。ぶち撒けた珈琲が、男へ到達する直前、見えざる壁に阻まれている。
比喩ではない。
そこには、間違いなく物理的な何かがあった。
証拠に、寸前、ぱしゃっという儚い水音がしたのをカズマもはっきり耳にしていた。
液体は何かにぶつかったのだ。そして弾けた。加えて現在、文字どおり見えない壁の表面を――屹立する滑らかな平面を伝い、垂れ落ちている。床に落ちた大量の水滴がぱたぱたと固い音をあげている。
「――ここで時間をかけることを好まない」
頭上の男が、何事もなかったかのような口調で告げた。
鞍の上で身じろぎでもしたのだろう。皮が軋むようなギッという音と、鐙が揺れる微かな金属音が鳴った。だが、紡錘形に盛り上がった獣の頸筋に遮られ、御者当人の姿を垣間見ることは相変わらず難しい。
「チバヨウコ」声が続けた。「用があるのはお前なのだ。従えば周囲を含めその生命を保証しよう」
「聞いちゃ駄目だ」
恐怖を抑えながら、カズマは半ば自棄気味に怒鳴った。
「悪党と取引するな。ヨウコがいつも言ってることだろ」
幼馴染が何か応えるより早く、カズマは彼女の腕を握る左手に力を込めた。カクつく膝を叱咤して再度、遁走の構えに入る。
脚は何とか動いてくれた。転がるように駆け出す。ほとんど力任せといって良い勢いでヨウコの腕を引っぱる。今度は彼女も足を合わせてくれた。そのことにほっとしながらピッチを上げる。
だが直後、丸太でぶん殴られたような重たい衝撃がカズマの額を襲った。視界が強烈な閃光で焼かる。後ろへ倒れ込んだ拍子、打ち付けた臀部に鈍痛が走った。受け身を取った右の掌にも、火傷のような熱い痛みと痺れを感じる。煽りを受けてバランスを崩したのだろう。ヨウコの声にならない悲鳴も聞こえた。
なんとか理解できたのはそこまでだった。
頭部を襲った衝撃は芯まで伝播し、頭蓋の内部を揺さぶったらしい。脳震盪が一時的にカズマの思考を断つ。
何かに正面から激突したことに気付くことすら、どれくらいの時を要したか。
ヨウコに支え起こされながら、カズマは前方に手を伸ばした。
思わず目を剥いた。
何もない空間に、だが何かがあった。転倒の際に捻っていたらしく伸ばした右手首に鋭い痛みが走ったが、それがかえって感覚を鋭敏にした。指先に、壁としか言いようがない硬質の抵抗を確かに感じる。直感的に、先ほど珈琲を阻んだものと同種の壁であることが分かった。
温度も質感もない。ただ、伸ばした手がそれ以上進まない。空間が断絶しているとしか思えない絶対的な障壁であった。
――見えない壁に閉じ込められている……!?
一体、間抜け面のままどれだけ硬直していたのだろう。
だしぬけに、後ろで「ぐっ」という苦悶の呻き声が聞こえた。
弾かれたように振り返る。
そうして眼にした光景は、カズマを危うく飛び上がらせかけた。
瞬間移動としか思えない。いつの間に接近したのか、男が乗騎ごとすぐ目の前にいた。
それだけではない。男の長い左腕は手綱を離れ、真っ直ぐヨウコの首根っこへ伸ばされていた。彼女の白く柔らかそうな喉元に、無骨な五指が痛々しく食い込んでいる。
両手を使って戒めを引き剥がそうというヨウコの抵抗は、まるで意味を成していなかった。男は何もかもを微動だにさせない。表情すらも変えず、少女の身体を腕一本で易々《やすやす》と吊り上げている。宙に浮いたヨウコの両脚が痛苦をあらわすように暴れていた。
「理解してもらえないか? 選択を誤れば文字通り首を絞めることになる」
見る間に充血していくヨウコの相貌を、男は観察と表現するに相応しい冷徹な視線で眺める。標本用のピンで縫い付けた昆虫を無感動に眺める学者の眼だ。
「オォオオォ――ッ」
唾を吐き散らし、理性をかなぐり捨てた雄叫びをあげながら、カズマはただ猛進した。
届く位置にさえあれば、何も考えずに喉笛を噛み千切らんと飛びかかっていただろう。
しかし、相手は騎上にある。ならば、標的は鐙にかかったその左脚だ。
狙い定めて、身体ごとぶちかました。
肩に走る鈍痛。首をもぎとるような暴力的反発。
驚愕は一瞬遅れてきた。
まるで、四〇〇tダンプ・タイヤへの体当たりだった。相手はびくりともしない。攻撃したはずのカズマが一方的に骨を軋ませ、臓腑を痺れさせる重たい衝撃を受ける。口の中に血の味が広がる。
何よりカズマの精神を打ちのめしたのは、相手が何をしたわけでもないという事実だった。
血迷った小蠅がゾウに特攻をかけ、相手に気付かれることもなく勝手に潰れて死に墜ちた。相手からすれば、恐らくそんなものであったに違いない。一顧だにくれない乗騎と御者の泰然としたその姿は、まさに絶望そのものを象徴していた。
「お前を殺すつもりはない」
それを証明したつもりか、男は喉にかけていた五指の戒めを一瞬解きつつ、ヨウコへ言った。
支えを失った彼女の身体が自由落下を始める前に、今度はその服の胸倉を掴み止める。
結局、宙吊りの苦痛は変わらない。それでも気管の圧迫は随分と緩んだのだろう。激しく咳き込みながらも、ヨウコの口元に呼吸の喘ぎが戻った。
「無駄な抵抗で煩わせないでほしいものだ」
「私、を……連れて、って、どうする……気よ」
頬に――呼吸困難に伴う生理的な――涙を伝わせながら、ヨウコがかすれ声で問う。
怒りこそが今の彼女を支えているのかもしれない。この状況下にありながら、その口ぶりには明確な攻撃の色合いが含まれていた。
「どうも。ただ、連行する。あとは八卦次第だ」
それ以上の説明は必要ない。そう言わんばかりに男はさっさと口を噤み、代わりに右の手綱を軽く操った。
双角の巨獣は主の意にすぐ応じた。
四本脚を小刻みに動かし、ゆっくりと身体を反転させていく。
――飛び去るつもりだ。
「ヨウコッ」
悟った瞬間、脊髄反射的にカズマは身体を投げ出していた。齧り付くようにヨウコの方へ飛びつく。限界まで伸ばした両の指先が、なんとか彼女の右足首にかかった。
「カズ……マ……」
「手を放せ」
男が抑揚のない声で言った。
カズマに直接かけられたものとしては、恐らくそれが初めての言葉であった。
「無駄に殺されて、この娘を絶望させる気か」
「もう、いい……から……カズマ」そっとヨウコが囁いた。涙が雫になってカズマのすぐそばに落ちた。「もう……私の、こと、は……」
男にとっては、そのやりとりすら茶番に見えていたのだろう。これ以上付き合う気がないことを示すように、踵で巨妖の腹を軽く打つ。一拍おいて獣が歩を進め始めた。
二度の転倒と脳震盪の影響で、もはや立ち上がる余裕もない。
立ったところで踏ん張りがきかない。
なにより、どちらも可能だとして、それでも相手を止められないことは分かっていた。
ヨウコを取り戻せる術は、多分、もう残されていない。
だが、カズマは意地で手を離さなかった。ボロ布のように無様に引きずられながらヨウコにしがみつき続けた。
事実、ボロ布となんら変わらなかった。
向こうは、軽自動車にも匹敵し得るであろう質量の化物である。線の細い子供の重量が一つ二つ加わったところで、厚めの服を重ね着た程度の感覚であるらしい。まるで歩に影響を見せなかった。
ただ、ヨウコの着衣の方はそうもいかない。
彼女自身に加え、すがりつくカズマの質量が合わされば負荷は百キロを越える。婦人服にすれば想定外、許容外の扱いだ。それを物語るように繊維の断裂音が聞こえ始めていた。発生源はもちろんのこと、男がねじり上げた胸元部分だ。
騎手が小さく舌打ちする。やや遅れて、獣の進行が止められた。
服にかかる負担を抑えるべく、男はほぼ水平に伸ばしていた左腕を大きく降ろした。伴ってヨウコの身体が地表に近付き、その爪先が床を探り当てるまでに到る。
「小僧。これが最後だ。その手を離せ」
言葉に釣られるように、カズマは我が手を見やった。
今更ながらに、掴んだ足首の折れそうな細さに驚く。手には、ヨウコの体温としなやかな肌の感触が伝わっていた。履いていたはずのサンダルはいつの間にか脱げてしまったらしい。左側だけ素足を晒していた。
――どうして、この手を離さないんだろう。
思わず本当に首を捻りかけるほど、自分でも不思議に思えた。
恐らく「否」と答えた瞬間、自分はあっけなく殺されるだろう。
それを間違いなく、そして躊躇なくやれる相手であることは肌で感じていた。
この男の言うことはもっともなのだ。十分すぎる客観的な合理性を有している。
つまり、変に意地を張り、こうして無意味にヨウコにすがり続けたところで益などない。結果に何ら影響を与えることはない。むしろ虫けらのように殺されることで、ヨウコをより深い絶望の淵に追いやるだけだ。
なにより彼女自身、言ってくれたではないか。もう、いいから――と。
そこまで思い至った瞬間、カズマは不意に理解した。
なんの前触れもなく唐突に分かった。
結局のところ、どうあっても死は避けられない。手を離そうが離すまいが結末は同じ。それが真理なのだ。ならば、好きな方の死を選べばいい。
もしここでヨウコを諦めたなら、その事実から一生逃げられなくなる。自分の性格を考えれば、それは間違いのない話だった。
最も大切な物にすら最後までしがみつけない。そんな人間として自己評価が永遠的に確定してしまう。
そうなった人間は、以後あらゆる物から手を引くようになるだろう。困難に直面したとき、克服する術を考えるのではなく、諦めていい理由を探すようになるだろう。
そして実際、全てを手放すのだろう。
一番の宝物すら放棄したのに、それ以下のものを捕まえ続けられる道理はない。
自分は何も掴めない。こだわれない。
戦えない生き方、諦め続けるだけの人生。
その根底にあるのは自分への絶望。失望。嫌悪。そして敗北である。
それは、死んでいるのと変わらない。
――どうして、この手を離さないんだろう。
それは実に簡単な話だった。単に、カズマは直感的に理解していただけなのだ。方向性の異なる二種類の死のうち、よりマシな方はどちらか。打算を働かせ、無意識にそちらへ手を伸ばしていたに過ぎない。
そして今、ヨウコのことを思いやる必要が全くないことも分かった。
なぜなら立場が逆になった時、彼女もまた精神よりも肉体の死を選択する種の人間であるからだ。
「僕は、自分が楽な方しか選べない」
カズマは顔を上げ、男の方に笑みを向けた。そして続けた。
「だから、離すつもりはないよ」
対する男の答えは極めて簡素だった。
「――そうか」
言葉と同時、騎手はすぐに行動した。実際には――どのようにしてか――乗騎に命じた。
獣は指示されるまま四肢を何度か動かし、身体の位置と向きとの調整を行う。最終的には、ヨウコを中心に回り込むような動きを見せた。
逸早くその意図を察したらしきヨウコが、はっと息を呑んだ。
だがカズマには理解が及ばない。どこか他人事のように一連の動作を見守っていた。
正確には、カズマも巨獣の左前脚がやおら持ち上げられるのを目にするに到って――それがどこへ落されようとしているのかに気付く段に到って、ようやく自分を待つ運命を知った。
だが、その時にはもう遅すぎた。
刹那、カズマの脳裏に浮かんだのは、なぜか近所のホームセンターに度々並べられるセール告知のノボリだった。旗を固定するあのコンクリートブロックのイメージが、不思議と自分に影を落す化物の巨大な蹄に重なる。
その無骨な塊が加速をつけ、かつ巨獣の体重数百キロ分の質量を乗せ、唸りをあげて振り落とされた。ヨウコの足首を掴むカズマの右手首へ、正確に狙いを付けて。
悲鳴を上げる間もなかった。回避の余地もない。
戦慄に身を強ばらせたと同時、ドンという一種、爆発にも似た重低音と、骨が砕かれるパキッという音、そして水気の通う肉がぐちゃぐちゃに潰される嫌な音が、同時に鼓膜の内側に響いていた。
それから随分長いこと、周囲に木霊する気味の悪い絶叫が自分の喉から発されていることにカズマは気付かなかった。声を発しているという感覚はまるでなく、ただ張り裂けたように喉奥が痛むだけだった。
だが、それすらも些事に思えるほど、右腕の痛みは筆舌に尽くしがたいものであった。
想像、理解、限界。
全てをやすやすと破壊して襲い来る殺人的な激痛が、精神に罅を入れ、広げていく。砕け、破片と化して四散しないよう、ただ死にものぐるいで抗うだけだった。のたうち、自転車のペダルでも漕ぐように両脚で地面を掻きむしる。
夜の暗がりが傷口を鮮明化せずにいてくれなければ、その凄惨なあり様を見てどうなっていたか、自分でも分からない。気を失ったか。それとも、激痛がそんな楽を許しはしなかったか。
いずれであれ――たとえ見えずとも――手首から肘にかけての大部分が原型を留めない肉片と化してしまったことは分かった。幾つかの筋繊維や腱の残骸、薄皮によって辛うじて繋がれているだけで、右腕はほとんど切断に近い状態にある。断ち切られた一番太い動脈から、心臓の脈動に合せてぴゅっぴゅと冗談のように吹き出る鮮血が、その重篤度を如実に物語っていた。
「カズマッ……カズマァッ」
半狂乱になったヨウコの叫びがどこか遠く聞こえた。
「どうして……どうして、こんな……なんてことを!」
「警告はした」
「ふざけないで! ここまでやる必要がどこにあったのよ。私に用があるんでしょ。生きたままじゃなきゃ困るっていうなら、さっさとどこへなりとも連れて行けば良いじゃない。これ以上、あいつに手出ししたら舌噛んで死ぬ。死体を持って帰ることになりたくなかったら周りに手を出すな!」
「素人は、舌を噛ねば死ねると簡単に考える。とは言え、時間が惜しいのは事実だな」
気配がした。
潰した虫けらをその場に捨て置き、早々に離脱しようという動きだ。
千葉ヨウコを永遠に奪い去ろうとする、カズマにとって最悪の、そして絶望の展開だった。
なんとしても、ここで阻止せねばならない。
今、取り戻せなければ、もう会えない。二度と会えなくなる。
なぜだか、確信にも似たそんな予感があった。
待て――
声にしたつもりが、吐息以下の僅かな空気が漏れただけだった。
もう、カズマの右手は動かない。痛み以外の感覚がなかった。どの道、ミンチと化した肉片に使い道などあるはずもない。
その点、左手は無事のはずだが、こちらも様子がおかしかった。操縦不能で雑木林へ消えていったラジコンヘリのように、所在すら掴めない。
異常は他にもあった。
というより、身体中になにかしらの不具合が生じていた。
自分の大絶叫で鼓膜を痛めてしまったのか、まず耳が聞こえづらい。外部からの音をうまく拾えない。そのくせ、自分の呼吸音だけは頭蓋に反響して喧しい程だった。
両目も完全に機能不全を起こしている。いつの間にか流していた涙と、よく分からない膜のようなものに視界全体を覆われて、酷く霞んでいた。
これらは、身体から急速に熱が失われつつあることと、密接な関係を持つように思われた。出血と共に、生命を支える根源的な何かが抜け落ちていくのを感じる。
終わりの時が近付いている。
もはや意識と感覚が遠退き、自分が今どんな格好をしているのか、ヨウコたちがどこにいるのか――。まだそこに留まっているのか。飛び立ってしまったのか。そんなことすら把握できていなかった。
聞こえない。見えない。なにも分からない。
それでも勘を頼りに、カズマは這いずってそちらへ向いた。
彼女がいるであろう方へ顔を上げ、視線を投げた。
「ごめん、ヨウコ。僕、力が足りなかったみたいで……なんか今日はもう、ちょっと身体……動かない、や……」
カズマは言って、微笑みかけた。
少なくとも自分ではそうしてみせたつもりであったが、現実、試みが成功したかは疑わしかった。
声にはなっていたかもしれない。
が、それにヨウコの耳まで届くに足る大きさがあったかとなると、我ながら全く希望を持てそうにない。
それ以前、当の相手は、既に連れ去られてしまった後かもしれなかった。
何もないただの虚空へ語りかける、恐ろしく滑稽な絵面を晒しているだけなのかもしれない。
しかし、カズマは続けた。
もう、それが残された全てだった。
「でも、僕らまたすぐ会えるから。なんやかんや巧いことやって、すぐに僕もそっち行って……僕が、見つけるから……今までもそれが僕の……いつも、僕の……」
だから、ね……ヨウコ……
*1:朽葉色。くちばいろ。日本の伝統色。和色のひとつ。
平安文学の頃から使われており、当時は赤みがかった黄色を指した。
江戸から現代にかけては、枯れ落ちて腐りはじめた木の葉ような褐色系、茶色系の色を差すことが多く、本編中でもこの意味で用いられている。