目覚めよと呼ぶ声が聞こえ(★★2018年クリスマス企画・第1弾★★)
2018年クリスマス企画・第一弾です
次話の更新は60分後(24日23時)になります
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060
――自分の封貝は、理不尽に対抗する者のためにあるのではないか。
そう打ち明けたとき、ケイス・ヴァイコーエンは渋面をつくった。
「それは常に負けが決まっている側につき、共に負け続けるということだ」
マオ・ザックォージは抑揚ない声で言った。
「自分より巨大なものを相手に、永遠の防御ですか。
そんなもの長くはもちませんよ?」
トーリ・クゥガーは小さく嘆息し、さらに小さく肩をすくめた。
「お前がやろうとしていることに終わりはない。
沈みかけた船に自分から乗り込んでいって、手で海水をかきだそうというのと同じだ。
もしその船を救えたとしても、同じような沈没船を探してまたかき出しにいく。いつか、救いきれなかった船と一緒に海の藻屑になるまで」
たぶん、三者の誰もが正しい。
理不尽に対抗しようとする者。
そのための力を欲する者。
宿命的に彼らの多くは弱者である。
そして弱者がいなくなることは決してない。
今この瞬間も何か抗いがたい大きな力が、また新たな弱者を生みだしているだろう。
その中の一人をすくい上げている時、別の場所では新たに一〇人が嘆きの声をあげはじめている。
彼らに寄り添うということは、救えなかった者たちの断末魔に心を削られ、疲弊し、やがて自らも理不尽の魔手にからめとられていくことを意味する。
まるで不毛な負の連鎖だ。
だがそれでも――
嘆きに手をさし延べようとする者、そうせずにはいられない者を、何と呼べば良いのだろう。
彼らは何者なのだろう。
――――
―――
――
目蓋を開けた後も、楠上カズマの思考はぼんやりとしていた。
目やにでも溜まっているのか。
視界がにじんではっきりしなかった。
ゆっくりと瞬きを繰り返した。
それでようやく、木造の梁と屋根がはっきりと像を結びはじめた。
長年、煙火と煤をあびてきたに違いない。
日本の古民家を彷彿とさせるその高い天井は、重く黒ずみ、かなりの年季を感じさせた。
だが、見覚えはない。
ええと――
声を出そうとしたものの、音にはならなかった。
かわりに喉に痛みが走った。
似たような経験ならある。
たちの悪い夏風邪で丸二日、死んだように眠り続けたときだ。
あまりに長く使わずにいると、声帯がなまるのである。
――つまり自分は眠っていたらしい。
それもずいぶん長いこと。
ようやくその事実を認識すると同時だった。
右半身がなにか柔らかくあたたかなものに包まれている。
その事実に、カズマは――今さらながら――気づいた。
仰向けのカズマには鎖骨のあたりから爪先にかけて、タオルケットのような薄手の掛けものが被せられている。
その右側がこんもりと大きく盛り上がっていた。
軽く引っぱって掛け物をずらした。
瞬間、甘い芳香がふわりと広がった。
石けんを思わせる蓮の花のそれだ。
発生源は、剥き出しになったカズマの胸板の上。
亜麻色のふんわりとした毛玉だった。
正確には、毛玉のように見える人間の頭頂部。
その特徴的な髪色には、もちろん見覚えがあった。
「……ナージャ?」
そのかすかな囁きが届いたのだろう。
毛玉がもぞもぞと動きだす。
彼女はゆっくりとした動作で顔を上た。
目が合う。
一瞬、奇妙な沈黙がおりた。
次の瞬間、電源が入ったようにナージャの表情がぱっと輝いた。
「ダーガ! 目が醒めたのか」
言葉とともに、彼女が勢いよく跳ね起きる。
カズマの顔の両側に左右の手をつき、覆い被さる格好で顔を寄せてきた。
一連の動きの中で、彼女がカズマ同様、衣類を一切身につけていないことが知れた。
これまで見たこともないほど大きな胸の双丘が、その質感を主張するように大きく揺れている。
「大丈夫か? 痛いとこあるか?」
否と返されるのを確信した、はしゃぐような語調だった。
「いや」
咳払いし、唾を何度も飲む。
自分のものとは思えないようなしゃがれ声で言った。
「今のとこ大丈夫そう……なんだけ、ど」
「どうした」
「ナージャ、なんで裸?」
「ん――」
言われてはじめて気付いたと言わんばかりに、彼女は自分の裸身を一瞥する。
「ダーガ、全身を火傷してたから、布が当たると痛いと思ったのだ。肌と肌ならましだろう?」
「やけど……」
「覚えてないのか?」
ナージャが怪訝そうな顔をする。
「えっと、ちょっと混乱っていうか、頭がまだはっきりしてないみたいで」
なぜか言い訳じみた口調になった。
確かに肌は全体的に赤らんではいる。
だがそれも風呂あがりで上気した程度のものだった。
火傷というような肌荒れや爛れは見あたらない。
「えっと、ここってどこ? 僕、なんで寝てるんだっけ」
切替えて、カズマは訊いた。
「ここはチュゴ族とかいう先住民族たちの集落だぞ。まだ使えそうな家が残ってたから、その一つをちょっと借りてるのだ」
「チュゴ族……」
口にすると、連鎖的にイメージが湧いてきた。
先住民族。
襲撃。
火事。
洪水。
記憶の断片がフラッシュバック的に脳裏にちらついては消えていく。
なにか、掴めそうな気がする。
そう思ったときだった。
「ごししんさまぁ」
舌足らずな甘ったるい声に、カズマの思考は中断された。
とたとたと小さな足音が近づいてくる。
頭に綺麗な三角形の猫耳。
優雅に伸びる蒼灰色の尻尾。
半人半猫族の童女、ミーファティアの登場である。
年の頃は一歳半から、せいぜい二歳。
ようやく歩き始めたという年頃相応に、服の下からでもまんまるお腹がぽっこりと自己主張する幼児体型だ。
短い足を懸命に動かして走るが、ペンギンがそうであるようになかなか前には進まない。
――ミーファティア。
ミーファ。
猫人。
奴隷。
圧縮書庫を解凍したように、複合された情報が一気に頭の中にぶちまけれられる。
「ミーファ、きたーよー」
歓迎されることを微塵も疑っていない満面の笑顔だった。
ミーファはそのまま、一直線にカズマの胸に突っ込む。
「うぉふ」
思わず声が漏れた。
幼児の突進は、想像より大きな衝撃を伴うのが常だ。
この小さなコロパスと出会ってから学んだことだった。
「こらっ、ミーファ」
少し遅れ、血相を変えて駆け込んできたのは、同じく猫との半人、コロパス族の少年だ。
知的な輝きをたたえる双眸と、芯のある声音には年不相応の落ち着きがある。
だが背格好を見れば、日本人ならまだランドセル世代であることは明らかだった。
それも年少組。
ぴかぴかの一年生程度と見るべきであろう。
ミーファティアの兄、リックテインだ。
「すみません、ご主人様」
彼は一度カズマの手前で急停止し、何度も頭を下げた。
それから主人に張り付いた妹を引っぺがそうする。
カズマは微笑と手振りで彼を制した。
「かわいい声が聞こえたなあ。誰だろう。天使かな?」
文字通り、猫なで声で胸元に問いかけた。
「ミーファよー」
額をカズマの胸にぐりぐりと押しつけていたミーファティアは、顔をあげてにこっと笑った。
その口元は、今日も絶好調に涎まみれだ。
絶え間なく湧き出るそれは、 さながらチョコレートファウンテンのごとしだ。
どこからこんな量が。
見る度にそう感心する。
もはや神秘の領域だった。
「ミーファちゃんだったのか。どうしたの? 遊びに来たの?」
脇を抱えて、目が合う位置に彼女を持ち上げる。
すると、つぶらな瞳がじっとカズマを見詰めた。
「ごししんさま、ばいじぶ? もう、なおった?」
彼女のいう「ばいじぶ」が「大丈夫」の意であることは学習済みだ。
「そっか、心配してお見舞いにきてくれたのか。ありがとね」
カズマはミーファの頭をなで、ついでに――猫の方の――耳裏を軽く掻いてやる。
「ミーファちゃんが来てくれたおかげで、もう元気になったよ」
「おすくりいる?」
病気であれ怪我であれ「おすくり」こそが万能の最適解。
そう固く信じる彼女らしい問いかけだった。
「お薬もいらないくらい元気だよ」
答えると、ミーファは再び笑顔の花を咲かせる。
それから、その涎まみれの唇をぶちゅりとカズマの頬に押しつけてくださった。
お返しに脇腹をくすぐると、ミーファはきゃっきゃと声を上げて喜ぶ。
その賑やかさは、ここがさっきまで死にかけの人間が眠っていた部屋とは思えない。
この年頃の子どもだけが持つ力だ。
まさに天下無敵の二歳児である。
そんなミーファも、当初からこの調子であったわけではない。
出会いは――忘れもしない――奴隷小屋だった。
むせかえるような悪臭漂う、経営者が逃げ出したペットショップさながらの劣悪な場所にふたりはいた。
どちらも極度に衰弱しており、骸と見まがう状態であった。
飢餓で骨にへばりつく皮は乾いてひび割れ、また重度の感染症により正視に耐えぬほど膿み爛れていた。
幼子たちは狭い檻の中、自らの糞尿に塗れ、虚ろな眼で間近に迫る死をただ待つ、奴隷だった。
カズマが購入の意思を示すと、周囲は反対した。
病気の捨て猫を拾ってきた我が子に、一般的な親が示す反応だ。
この点は日本も異世界も変わらない。
店の奴隷商すら驚き顔を見せた。
それでもカズマは押し切った。
引っ込みがつかなかった、というべきかもしれない。
しかし、正解だった。
少なくともカズマはそう思っている。
コロパスたちは二週間にわたる手厚い集中治療の甲斐あり、劇的に快方した。
だが、それは身体の話だ。
心の傷はそれほど簡単ではない。
親を失ったミーファは、しばらく母親を呼びながら毎日泣いていた。
初めて笑顔を見せてくれたのはつい最近のことに過ぎない。
今も、時おり発作のようにグズりだすことがある。
片や兄のリックテインは、その真逆だった。
彼は最初から、こちらが心配になるほど気丈だった。
年齢を言えば、彼もまたやっと小学校にあがった程度の幼児に過ぎない。
だが、奴隷としての現実を早々に受け入れ、主人に捨てられまいと痛々しいほどに必死だった。
奴隷からの解放をカズマがもちかけたときも、彼の方から強く反発された。
「自分たちは買われたのだから、金額分は働いてお返しするのが筋」。
それが彼の――到底五、六歳とは思えない――主張であった。
本気でそう考えている部分はあったのだろう。
しかし、全てでもなかったはずだ。
奴隷でなくなれば兄妹ふたりに戻る。
自由を得られる。
だが、身寄りはない。
寄る辺もない。
自分ひとりでは妹を守れない。
ならば、信頼できる主人のもとで奴隷として安定した生活を維持する方がまだ良い。
彼が幼いながらにそう考えていることは見て取れた。
だからこそ身を粉にして働き、自分の価値を証明しようと常に懸命なのだ。
であれば、何度言ってもカズマの「ご主人様」呼ばわりをやめようとしないのことにも頷ける。
頑なに主従関係を守り、断固とした一線を引いて接する。
役に立つ奴隷であることが彼の生きる道なのだ。
「ごししんさま」
頭上からミーファの声が振ってきた。
背中側からカズマをよじ登っていた彼女は、登頂に成功し、現在は肩車に近い体勢になっている。
遠慮なく髪を引っ掴んでくれているため、少々ながら痛い。
だが、カズマは笑顔で応じた。
「なあにミーファちゃん」
「にゅうにゅう」
言うと、彼女はわさわさと下山を開始した。
やがて麓に二本足で着地すると繰り返す。
「にゅうにゅう」
少しとがり気味になった唇が愛らしかった。
「ミーファちゃん、喉かわいたの?」
彼女は「牛乳」を「にゅうにゅう」としか発音できない。
更に注意が必要なのは、この娘が欲しているのが牛乳そのものではないことだ。
そもそもオルビスソーに牛は存在しないのだ。
よって、正確にいうと「にゅうにゅう」は〈ガリーニ〉と呼ばれる動物の乳を示す。
こちらの世界でいう山羊に似た搾乳用の家畜である。
カズマは初めてこのガリーニ乳をふるまわれた際、見た目から牛乳と勘違いした。
誤解がとけた後も、癖で「牛乳」と呼び続けている。
ミーファはそれを覚え、真似しているのだ。
「こら、ミーファ。ご主人様に失礼だぞ」
リックテインがまなじりを吊り上げた。
「だいたい、その口のきき方はなんだ。欲しいときはちゃんと〝ください〟って言いなさい」
「まあまあ」
カズマは躾に余念のない兄をなだめた。
「ミーファちゃん、好い子だからちゃんとお願いできるもんね。牛乳ください、だよ。言ってみてごらん?」
「にゅうにゅう、かーしゃい」
生真面目な顔でミーファが言った。
「そうそう。じゃあ、今度は続けて言ってみようか。牛乳ください」
「にゅうにゅうかーしゃい」
こうしたものは反復練習こそが肝心である。
読む。
書く。
口にする。
変化をつけ繰り返すことで更に効果は上がる。
受験勉強のセオリーが証明する通りだ。
「いいねえ。ミーファちゃん、もう一回だよ。ぎゅーにゅうください」
「にゅうにゅうかーしゃい」
「オーケイ、じゃあ次はリズムにのって――」
手拍子とともに身体を揺すってカズマは手本を示す。
「レッツゴー。ぎゅうにゅう、くださぁい」
ミーファはノッた。
「にゅうにゅう、かーしゃあい」
「カマン! お腹から声だして、ハイ、牛乳くださいっ」
「にゅうにゅう、かーしゃい!」
ミーファがぴこぴことお尻を振り出した。
蒼灰色の高貴な尻尾が、踊るように追従する。
「カルシウムを意識してぇ――ぎゅーにゅうください」
「にゅうにゅう、かーしゃい!」
笑顔がはじける。
「まだいける。まだいけるよ。笑顔を忘れずに、キープ・スマイル。にゅうにゅう、かーしゃい!」
「にゅうにゅう、かーしゃい」
「オーラァイ。クールダウン。ゆっくり深呼吸して」
ミーファの丸いお腹がゆっくり上下するのを確認する。
「はーい、おつかれさま。運動後の三〇分は栄養補給の理想的時間帯。水分と一緒にたんぱく質を積極的にとっていきましょう。
ヘイ、リックテイン君。こちらの彼女にミルクプロテインをご馳走してあげて」
「えっ」
唐突な呼びかけに、コロパスの少年は目を白黒させた。
「あ、はい。えっと……じゃあ、ミーファ。おいで。飲み物を貰いに行こう」
「ごししんさまは?」
一緒に飲むか、と問うようにミーファがカズマを見上げる。
「僕はもっと元気になるために、もう少し寝るよ。
明日になったら遊ぼうね」
「うん」
ミーファは納得したらしく、素直に兄の元へと駆けていった。
「ごししんさま、ばいばい」
「またね、ミーファちゃん」
二歳児が放出していたエネルギィが失われると、場は一変した。
放課後の教室にも似た静寂に包まれる。
その変化たるやいつも驚くほどに劇的だ。
一度冷めた空気は、入れ替わりに次の客人が部屋を訪れても元には戻らなかった。
新たにカズマを訪れたのは、猫の耳、尻尾などを持たない同胞――すなわち人間だった。
肌は白色。
ダークブラウンの瞳に、髪は黒髪に近い深い藍色。
典型的とは言えないが、移民系の特徴を備えた少女であった。
眠っていると思っていたのだろう。
カズマと視線が合うと、彼女は少し驚いたような表情を見せた。
両手に持ったトレイが揺れる。
だが、載せられたボウル型カップの中身がこぼれるほどではなかった。
エリナー・フォウサルタン。
ようやくはっきりしてきた頭に、その名はすぐ思い出された。
「あの、失礼します。ナンジョウ卿。お目覚めだったのですね」
おずおずとかけられたエリナー・フォウサルタンの声に、カズマは苦笑した。
「なんですその卿って。貴族なんてガラじゃないですよ、僕は」
エリナー・フォウサルタンはまだ派閥に馴染み切れていない。
これは仕方のないことだった。
生い立ちを考えると、彼女が軽い人間不信状態なのは誰でも想像がつく。
その事実はカズマの呼び方ひとつにも現れていた。
記憶が正しければ、一時期は「カズマさん」まで近づいたこともある。
だが、気づけばこの通り「ナンジョウ卿」まで、あっという間に元通りだ。
エリナーはカズマと年齢が近い。
それで気を許しかけていたが、強力な封貝使いや奴隷を何人も使う派閥の大物だった。怖い。
大体、そのように誤解したのだろう。
結果、 やっぱり迂闊に近づいては危険だ――となり、最終的に「卿」呼ばわりまで距離を取られたといったところか。
「あの、ええと……」
エリナーはどうしたものかとあわついている。
「名前で呼べとはもう言いませんから、せめて卿は勘弁してください。じゃないと、僕もフォウサルタンお嬢様って呼びますよ」
冗談めかしていうと、彼女は恥ずかしがるように俯いた。
いかにも内気な少女らしい仕草だ。
カズマ以外の男衆がいれば、恋が生まれる瞬間を複数観測することができたかもしれない。
実際、周囲の反応を総合する限り、こちらの世界において、彼女はいわゆる〈絶世の美女〉〈傾国の麗人〉という評価らしい。
同じ女性ですら、たまに口を半開きにして見惚れているのを目撃する。
だが、エリナーを現代日本に連れて行ったとしたら、はたして同じ評価を得られるだろうか?
この点において、カズマは懐疑的だ。
エリックも控えめにだが、同じ考えであることを認めている。
カズマに言わせれば、よく言うと肉感的。
だが、悪く言えばぽっちゃり系が少し「肉付きが良すぎる」方向へ偏ったタイプがエリナー・フォウサルタンだ。
輪郭も体形同様、見事なほど丸みを帯びており、ふっくらとした頬は素晴らしいクッション性を備えているように見える。
一重まぶたに切れ長の瞳は、二重とぱっちりとした眼が人気の現代日本では、どれも美点にはつながり得ない。
愛嬌はある。
性格の良さが滲み出た、安心感を持てる容貌であることに疑いはない。
だが、誰もが認める美少女かと言われれば首をかしげたくなるのが正直なところだ。
恐らく、同じ日本でも平安時代あたりであればまた評価が違ったであろう女性である。
「あの、絞った手ぬぐいをお持ちしたんですけど」
エリナーが手にしたトレイに視線を落としながら言った。
眠っているカズマの身体を、それで拭いてくれるつもりであったのだろう。
だが、相手は目を覚ましていた。
自分が拭くべきか。
相手にタオルを渡すに留めるべきか。
泳ぐ眼は彼女の混乱を如実に物語っている。
「ああ、ありがとうございます」
カズマは彼女の迷いを絶つべく、おしぼりへ手を伸ばした。
自覚こそないが、火傷をしていたという身体はまだ火照りぎみだったらしい。
広げて顔に当てると冷たさが心地よかった。
そして、手ぬぐいに含まれた水分が、眠っていた記憶の全てを 呼び起こした。
――そうだ。
顔だけじゃない。
あの時、僕は全身を水気に包まれた。
それもただの水ではない。
強酸の海だ。
オウバルパ・ジィンファウスの放った最後の切り札に全身浸かったのである。
そしてナージャが言っていたように、全身に大火傷を負った。
オクスゥたちが魂の拠り所にしている〈原初の分け火〉を守るために。
「ああ……」
自然、嘆息にも似たささやき声が漏れた。
「そうだ。僕、オウバルパと戦って……」
「おお、そうそう。思い出したか」
一度はミーファに場所を譲っていたナージャが、また嬉しそうににじりよってくる。
「いや、ちょっと待って」
カズマは目を閉じて神経を集中させた。
「挑発して人気のないところに誘い出すのには成功したけど……そうだ。こっちも肩を撃ち抜かれて……」
思わず患部へ視線を投げた。
驚くべき事に、左肩にはあるべき傷が存在しなかった。
ボールペン程度なら余裕で通せそうな大穴が、まるで夢だったかのように消えている。
「怪我なら大丈夫だぞ」
ナージャが言った。
「ダーガはもう封貝使いだから、普通の人間より何倍も回復力が高いし、倒れてすぐ〈*旋火の綾〉に放り込んで治療したからな」
彼女は「ほらコレだ」というように頭上へ視線をなげた。
釣られて見上げると、天井付近からふわふわと赤いマフラーが舞い降りてくる。
それはナージャの首元に自ら優しく巻き付いて収まった。
生物が主人にじゃれつくような、意思を感じさせる動きだった。
封貝〈*旋火の綾〉。
普段は首元に巻き付き、主であるナージャを自動防御する強力な封貝だ。
一見、単なるマフラーのようだが、封貝らしく伸縮自由自在。
その気になれば何倍にも長くなり、絡み合うことで編物のように様々な形態をとることもできる。
バスタブのような桶状を成し、そこに純水を溜めれば、治癒の特殊効果が付与されるというオマケつきだ。
カズマを放り込んで治療したというのは、この高性能の医療ポッド機能のことで間違いないだろう。
「え、待てよ。じゃあ……僕は負けて……負けた?」
独りごちながら、カズマは自然と首を捻っていた。
記憶を失うほどのダメージを受けて倒れたなら、惨敗を喫した可能性も否定できない。
しかし、負けたという感じは正直しなかった。
ピンとこない。
そんな事実があるなら、たとえ記憶を失っていようと心に重いしこりのようなものが残っている気がする。
それに、掘り起こした記憶の断片には、こちらが一撃入れたときのイメージもある。
〈*ワイズサーガ〉をなんとか一発当てることに成功。
それによって、オウバルパの左腕全体が特殊効果の炎に包まれる。
そんなシーンだ。
こちらの左肩は大穴で肉と骨をごっそりもっていかれたが、向こうは向こうで焼き尽くされた腕全体が、炭化していたはずだ。
問題はその後である。
勝敗を含めた決着部分だ。
そこを思い出せないのは、記憶を失っているからではない気がした。
むしろ、記憶自体がされていないからではないか。
つまり、意識が朦朧としていたせいで、もともと何が起こったのか自体を覚えていないのだ。
記憶していないなら思い出すこともできはしない。
当然の理屈だ。
「――っと、僕はどれくらい寝てたんだろう。外の状況はどんな感じですか?」
エリナーに向けたつもりだったが、答えたのはナージャだった。
「ダーガは戦いが終わってからずって寝てて、今は次の日の夜だ」
「えっ、じゃあ丸一日……以上寝てたってこと?」
「そうだぞ」
そんなに長くと考えるべきか。
たった一日と驚くべきか。
カズマは奇妙な葛藤にみまわれた。
「詳しい状況を知りたい」
傷ひとつ見たあらない左肩をなでながら、カズマは言った。
「集落の被害状況とか、具体的な数字を含めて全部」
「あっ、私、誰か偉い人を呼んできます」
エリナーが弾かれたように踵を返した。
思い出したようにカズマに深々と一礼すると、トレイを抱きしめるようにして出口へ飛んでいく。
遠ざかっていく足音を聞きながら、カズマはナージャに視線を戻した。
ほぼ全裸ながら、彼女はそれを隠そうという素振りすら見せない。
「人が来るなら、服くらい着とかないとね」
「そうか?」
「少なくとも僕はそうしたいし、ナージャにもそうして欲しいな。
でも、なにか着るものは――」
周囲に視線を巡らせながら、カズマは立ち上がる。
正確には、立とうと腹に力を込めた。
そして、それができない自分に愕然とした。
破れたビーチボールに息を吹き入れているような感覚だった。
顔を真っ赤にしても、込める片端からそれ以上に抜けていく。
「ダーガ。無理するな。私の封貝で治したとは言っても、それは傷を塞さいだだけだぞ。体力は戻ってない」
「あー、それでか」
妙に納得できた。
そもそも、これだけ扇情的なかっこうの女性がいるのに、感情がまったくついてこない。
身体からして、ぴくりとも反応しない。
薄々、変だとは感じていたことだ。
いつもなら想像するだけで、極度の興奮状態に陥っているはずだった。
理性をかき集め、自分を落ち着かせるよう必死になっているくらいでなければおかしい。
「今のダーガは〈ヴァント・デューン〉といわれる状態だ。封貝使いが、力を全部使い切って動けなくなることをそういう」
「バッテリ切れだね」
「ちょっと違う」
意外にもナージャは軽く首を振った。
「封貝使いが使える力は二種類ある。ひとつは〈オウル〉だ。これはダーガの世界でいうところのエネルギィに似ている力だ」
「似てるってことは、違いもあったり?」
「ある。ダーガの世界だと、エネルギィを全部集めた量が最初から決まってる」
言いながらナージャは部屋の隅へと歩いて行った。
視線で追うと、畳まれて積み上げられた衣料品の山が見えた。
彼女はその中からカズマが着られそうなものを見繕い、戻ってくる。
「質量保存の法則だね」
「異世界にはそんなルールはない」ナージャが続けた。
「何もないところからエネルギィを湧かせる方法がいくつかある」
「アインシュタインもびっくりだな」
言いながら目礼し、着替えを受取った。
和服とも共通点を持つフ=サァンの伝統衣装である。
「こっちには更にもう一種類のエネルギィがある。封貝が違う世界から引っ張ってくる力だ」
「異世界から見た異世界? それは僕らの地球がある世界とも違う〈第三の異世界〉ってこと?」
「そうだ。封貝の故郷みたいな所だ。そもそも、封貝というのはダーガのいうその〈第三の異世界〉と地球やオルビスソーを繋げるための装置だ。ルネやサトミたちは、トンネルだと言っていた」
「トンネルねえ」
カズマに言わせればそれは電線だ。
「――でもさ、トンネルで繋いで異世界からエネルギィを引っ張ってこれるなら、それって無尽蔵ってことじゃないか。使いたい放題なんじゃないの?」
「ダーガの世界だって、雷や太陽や風から直接、エネルギィを取り出せるわけじゃないんだろう? それと同じで、エネルギィは種類を揃えないとちゃんとは使えないのだ」
「なるほど。確かに、国が違うとまずコンセントから違うらしいしねぇ」
「世界とか宇宙が違うと、規格の違いを埋めるための作業も大変になるのだ。封貝はそこを調整する変電装置とかいうシステムであり、蓄電機やアダプタの機能を備える、とルネたちは言っていた。ダーガはこの意味がわかるか?」
かくいう自分は半分も理解していないが、という顔でナージャが訊ねてくる。
「まあ、ウチのマンションにも太陽光発電システムがあるから、それなりにイメージはできるかな?
あれはパネルで太陽の光を受けて、作った電気を家庭用に調整した上でコンセントに配ったり、でっかいバッテリに一度溜めてるって感じだったと思う」
恐らく、封貝はパネルとコンセントの間にある全機能を一つで兼任してるということなのだろう。
「封貝にも性能差がある。一度に扱える量や質に制限があるのだ。同じ事が、それを扱う封貝使いにも言える」
「そっか。家庭か企業かでも一度に使える電気量が違うもんね。古い家だと、ドライヤーと電子レンジを同時に使うと、限界超えてブレイカーがあがっちゃうらしい」
「ダーガの言ってることはよく分からんが、多分そういうことだろう。自分の能力を超えた使い方をすると、扱っているエネルギィから莫大な無駄が生じて、なり損ないが大量出る。
簡単に言えばカスだ。
カスは、封貝が作った世界と世界を繋ぐエネルギィのトンネルに張り付いて、お邪魔虫になっていくのだ」
「なんか、血管の内壁にコレステロールがたまっていく原理みたいだな……」
そうして起こるのが動脈硬化だ。
最後は血管が塞がれ、血液が正常に流れなくなる。
「ダーガはまだ未熟な封貝使いだから、無駄が多いのだ。だからカスも沢山出るし、トンネルも最初から狭くて小さい。すぐエネルギィが詰まる。
それでも無理して封貝の力を使おうとすると、足りない分は〈オウル〉から持ってこざるを得なくなる」
「魔力切れの魔法使いが、それでも魔法を使うために生命力削り出しましたってことか」
「〈オウル〉は生命力とか言われてる物とほとんど同じだ。
そもそも溜めておける量が圧倒的に少ない。怪我なんかしてると、治すために使われてるからますます減ってる」
「つまり、僕は電気使いすぎてブレーカー吹っ飛ぶどころか、回線焼き切っちゃったレベルで、しかも家に備蓄してる乾電池まで全部カラにしちゃったわけか」
「それが〈空虚な小部屋〉だ」
聞けば、症状は様々らしい。
思考が鈍って朦朧とする。
滑舌が極端に悪くなり、喋れなくなる。
また、身体に力が入らない、震えが止まらない等もそうだという。
「いきなり倒れる奴もいるぞ。酷いと意識を失う。そのまま放置すると、最悪死ぬこともある」
「なにそれ。怖いじゃないか。明日から本気出すがモットーの僕らしくもない」
「単なるエネルギィ切れで済まずに、色んな所にダメージがいってることがあるからより深刻なのだ。ダーガの記憶が怪しかったのも、ダメージがあることの証拠だ」
だが、そうでもしなければ勝てなかった。
無印級の封貝使いが格上の白級に挑むとは、そういうことなのだ。
「まあ、ダーガはよくやったのだ。今回は、負けて死ななければ大成果だ」
彼女は腰に手をやり胸を張る。
他人のそれを我がことのように誇る様は愛らしく微笑ましい。
服を着ていてくれれば。
「ナージャ、胸隠して。目のやり場に困る」
「そうなのか?」
「せっかくの絶景だけど、他人に見られるのは癪だしね」
「ほう」
「僕はお気に入りの場所を他人には教えない派なんだ」
そこまで言うと、ナージャはようやく納得してくれた。
だが、カズマと違って着物に手を付ける気配はない。
やおら目を閉じると、集中するように口を真一文字に結んだ。
変化はすぐに訪れた。
彼女の首に巻き付いたマフラーの一部が、独立した意思に目覚めたようにうごめき出す。
それは分裂と伸張を繰り返しながら、織物のように絡み合ってナージャの全身を覆いだした。
「ナージャの服、封貝だったのか――」
「〈*旋火の綾〉の一部を使ってる」
目蓋を開いて言うナージャは、既にいつもの装いだった。
肌にぴったり張り付いたハイネック、袖無しの黒インナー。同色のショーツ。
これらがまず形作られると、ほぼ同時に上着やパンツ、ニーソックス、シューズまでもが、映像の高速再生さながらに彼女の全身を鎧っていった。
恐らく、全部で一〇秒もかかっていない。
「服は〈*旋火の綾〉ほどの強度はないけど、汚れにくいし、汚れてもすぐに浄化できる。再生も簡単でいつでも新品なのだ」
「いいなあ」
一着しかないボクサーパンツを、痛めないよう慎重にやりくりしているカズマからすればうらやましい限りの話だった。
「ダーガの封貝だって、格上に勝てたんだから大したもんだぞ」
「そうかな?」
「うむ」
ナージャは重々しく頷く。
「途中からは見てたけど、最初の方はどんな感じだったのだ? 作戦通りにいったのか?」
「うーん、どうだろ」
カズマは細部まですっかり思い出せるようになった記憶をたどりつつ、小首をかしげた。
「一度は完全にやられて殺されかけたし」
「ああ、それはナディアが見ていた。助けようとしたが、大丈夫そうだから様子を見たらしい」
「えっ」
これには素直に驚く。
「そうなの?」
普段は内気なくせ、ハンドルを持つと大胆になる運転手。
ネット上では尊大で攻撃的な性格に豹変する小心者。
これらと同じかは分からないが、ナージャもまた本格的な戦闘態勢に入ると人格が変わる。
本人は変化した自分をまるで別人のように扱っているが、実際、彼女――ナディアはほとんど別人だ。
ナージャとは対照的に冷静沈着。
大変に聡明、理知的な人格なのだ。
しゃべり方からして慇懃な敬語に一変するから徹底している。
「私が知らないのはその前だな」
「序盤戦? それなら、まあ細かいところはともかく、大きな流れとしてはプラン通りにいったところが大きいかな」
「奴はやっぱり引っかかったか」
「うん、そこは事前の情報通りだったね。
オウバルパは実戦経験が僕よりないレヴェルのど素人だった」
――ひとつ上のランクと戦う場合、下位の者は集団でこれに挑まねばならない。
それで勝率は五割を見込めるようになる。
これがレイダース連盟で採用されているランク制の基準だ。
従って、本来ならカズマが五人ないし六人がかりで、オウバルパ・ジィンファウス一人とようやく互角に勝負できる計算になる。
だが、カズマはあえて単独で臨んだ。
理由は二つある。
一つは単純に数の問題だ。
相手のスリージィンは大軍だが、派閥〈ワイズサーガ〉の戦闘要員は五人。
どこかで誰かが無理をする必要があった。
二つ目は、それでも勝機を見込めたからである。
オウバルパ・ジィンファウスは国家的組織の大幹部だけあって、情報が豊富にあった。
性格。
所持する封貝。
戦闘経験。
全てが割れていた。
丸裸も同然であり、対策が非常に立てやすかった。
そして、そもそもカズマは勝つ必要はなかった。
自分の担当分を片付け仲間が駆けつけてくるまで、時間を稼ぐだけで良かったのだ。
そのために立てられた事前のプランはこうだ。
相手の手の内を研究しきっているカズマ。
逆にカズマの実力や封貝の性能を全く知らないオウバルパ。
このギャップを最大限利用する。
具体的には、移動用封貝〈*ワイズピック〉を最初から積極的に乱発。
瞬間移動にしか見えない機動性を見せつけ、強く印象づける。
これによって、〈*ワイズピック〉を必要以上に警戒せざるを得なくなる状況を作る。
後手で慎重な立ち回りを求められるようになれば、力の差があっても短期の決着は避けられる。
振り返っても、カズマはこの点でわりと上手くやったと言えるだろう。
封貝の能力や性能を誤魔化し、あるいは誤解させることに成功した。
実際、オウバルパは最後の最後までカズマの手の内を完璧には読めないままだった。
計画外のことがあったとすれば、それはカズマ自身だ。
幼児。
若い娘。
老人。
彼らなんの罪もないオクスゥたちが、正視に耐えない拷問、陵辱の末に虐殺される様を見てしまったのだ。
カズマも話には聞いていたことだった。
オウバルパ・ジィンファウスがそういう男だという理解はあった。
覚悟もしていたつもりだった。
だが、そんなものとは関係のない次元の衝撃がそこにはあった。
カズマは残りの生涯、悪夢に見続けるであろう地獄絵図を見たのだ。
網膜に焼き付けてしまった。
自分でも分からない激情に、気づけばカズマは我を忘れていた。
時間を稼ぎ仲間を待つ。
そんな事前の策など、もう頭になかった。
オウバルパをこの手で倒すことしか考えられなかった。
今思えば、そんな精神状態でよく戦えたものだと感心すらしたくなる。
怒りが限界を超え、逆に冷静になった部分も大きかった。
幾つかの幸運に恵まれたことも無視できない。
だが、どうあれカズマが敵を瀕死の重傷にまで追い込んだのは事実だ。
もちろん、代償として自らも同じレヴェルの危険水域まで追い込まれたが。
だが、自分でも予想外の健闘は、なにも良いことばかりではなかった。
その結果が、かのリーサルフォックスだったからである。
後がなくなったオウバルパが、格下のカズマ相手に最後の切り札を使ったのは完全に想定外の出来事と言えた。
ある意味、最悪の展開である。
いわく〈強酸の海〉。
それは封貝の力で起こされる都市破壊級の洪水だった。
豪雨による河川の氾濫を思わせる濁流が、唸りを上げて集落を呑み込んでいく。
カズマはその悪夢のような眺めを、今も克明に思い起こすことができる。
放たれた溶解液の洪水は、あっという間に祭壇広場と呼ばれる聖域にも雪崩れ込んだ。
そして多くの先住民族と、彼らの象徴である〈原初の分け火〉にも牙を向いた。
たとえ命が助かっても、〈分け火〉を失った先住民族は集団自決しかねない絶望を負う――
その事実を知るカズマは、〈分け火〉の前に陣取った。
なけなしの力を振り絞り、封貝の防壁を展開。
水煙をあげ、身の毛のよだつような地鳴りを伴って押し寄せる〈強酸の海〉を迎えうった。
だが圧倒的質量、水圧が相手だ。
カズマの防御など物の数ではなかった。
津波が激突してまもなく、結界に致命的な罅が入り、次の瞬間にはもう砕け散っていた。
時間的にも体力的にも、カズマに防御封貝の再展開は不可能であった。
もはや背中にかばう〈分け火〉を守るものは何もない。
――唯一、この身を除いては。
迫られる決断を前に、迷わなかったと言えば嘘になる。
だが逡巡の末、カズマは〈原初の分け火〉に向かって駆け出した。
破滅の波が〈分け火〉を呑み込む寸前、思い切り地を蹴った。
魂であり言語。
記憶であり歴史。
先住民族の象徴である聖火に覆い被さり、腹に抱え込む。
そんなことができたのは、本来ちょっとした小屋ほどもある大神火が消えかけているせいだった。
濁流があげる飛沫を浴び、〈分け火〉は既に著しく火勢を削がれていた。
抱きかかえて〈分け火〉を守る。
衝動的で短慮な行動だった。
しかし、今考えても恐らくこそがあの場における最適解だった。
第一に、派閥最強のケイスの助けは期待できない。
彼はスリージィン側の最高戦力〈氷狼〉のジンを相手に、場所を移して死闘を繰り広げている。
第二に、頼れる精霊〈翠緑の貴婦人〉の助力も期待できなかった。
彼女はその神秘の力を、何本もの巨木を創生する奇跡に費やしていた。
迫る〈強酸の海〉から、逃げ場を失ったオクスゥたちを避難させるためには、彼女が生み出す大樹の枝や梢がどうしても必要だった。
第三に、レイ・ムカイザーノ、およびナージャも同様であった。
彼女らは移動封貝を駆り、逃げ遅れた人々の救助に奔走していた。
空を飛べず、重傷でまともに走れもしないカズマには、どれも到底肩代わりできない仕事だ。
もう、自分にできることは身体を張る以外ない。
自分の矮小さは思い知らされている。
だから、不思議と迷いはなかった。
そんな余地もない。
ただ必死だった。
だから、カズマは〈分け火〉に飛びついた。
死ぬかもしれないという恐怖には、実際〈強酸の海〉に呑まれる瞬間、ようやく襲われた。
〈分け火〉に覆い被さったとほぼ同時のことだった。
ドンという重たい衝撃と共に、その思いに襲われた。
勢いと浮力とで身体をごとさらわれかけたカズマは、自分が一瞬で水流に呑まれたことを理解したのだ。
あっという間に水の底だった。
その水深は恐らく一メートルを超えている。
たかが一メートル。
だがそれは、貨物コンテナや大型トラックすらも流しはじめる数字だ。
人間など何に掴まっていようが問答無用である。
巻き込まれた時点で統計上の死亡率は一〇〇%と言われていた。
自分でも驚きだが、カズマはこれに耐えた。
最大の勝因は、無口訣で〈*ワイズオレイター〉を幾つか召還できたことだ。
この白球型の封貝で、カズマは上から横から自分自身を強引にその場へ押さえつけた。
だが、健闘もそこまでだった。
あとはもう、発狂寸前の精神でただひたすら激痛と後悔に耐え続けるだけのであった。
恐怖も想像を超える酷さだったが、やはり肉体的苦痛が一番こたえた。
心の準備はしていたが、そんなものは何の役にも立たなかった。
なによりも溶解液の破壊力だ。
最初の一瞬こそ、鳥肌がたつようなざわりとした不快感でしかなかった。
これなら耐えられると思ったくらいだった。
それが直後、一変した。
いきなり紙やすりで力任せにこすられたかのように、全身の皮膚が溶け始めたのだ。
痛いというより熱かった。
煮立った油の風呂に叩き落とされたかとすら錯覚された。
これまでの人生で想像もしたことのない灼熱感に、到底正気を保っていらる気がしない。
一気にパニック状態に陥った。
水流と水圧もまた容赦がなかった。
鼻や耳といった無防備な部分は真っ先に狙われた。
固く閉じていた目蓋も力任せにこじ開け、眼球まで灼こうとしてくる。
大穴を穿たれた左肩など、筆舌にしがたい地獄だった。
大口径ライフルでぐちゃぐちゃにされた傷口に、塩酸をどばどばかけられているのと変わらない状態であったのだ。
今でも、思い出すだけで怖気が走る。
それでいて、カズマは痛みに絶叫することさえ許されなかった。
唇を開けば――開くまでいかずとも、渾身の力で結び固めた守りを少しでも緩めれば――たちまち溶解液が押入って、口内はもちろん、気管や食道を溶かしはじめるだろう。
カズマは必死に耐えたが、それですら不十分だった。
どんなに強靱な精神でも、内臓の動きまでは制御しきれないのである。
痛みの反射のせいに違いない。
だしぬけに、腹筋のどれかがひとつ大きく痙攣した。
意思とは無関係の反応である。
その拍子、肺の奥から空気の一部が強制排出された。
噛み殺そうとしたが間に合わない。
それは唇を割り、ゴボと大きな気泡として漏れ出す。
刹那、口元に生じたごく小さな隙間を、水圧は逃さない。
舌。
喉。
そして食道の上部に、火をつけられたような激痛が走った。
悔恨の念が頭を埋め尽くした。
ほとんど怨念にも近い何かで自分の選択を呪った。
ヒーロー気取りを心底、後悔した。
――こんなことなら、助けになど走るべきじゃなかった。
他人など無視しておくべきだった。
ごくわずかな身じろぎですら周囲の溶解液が揺らぎ、それが凄まじい激痛に変わる。
目も開けられない。
拷問そのものの地獄のなかでは、肝心の〈分け火〉が今、どうなっているのか把握することすら不可能であった。
呼吸すらできないこの状況だ。
すぐに限界は訪れる。
――死ぬ……
その現実を意識した瞬間、今度は凄まじい虚無感に支配された。
このまま死ねば、オクスゥも〈分け火〉も守れず終わる。
全ては無駄骨。
強酸の中に全身を漬たされるというこの拷問すら、ただの受け損だ。
オウバルパは転がったカズマの死体を踏みつけて、高笑いすることだろう。
見ろ。これが無駄に苦しんで無意味に死んだ、歴史的マヌケ野郎のなれの果てだ。
――その通り。
あまりに愚かな選択だった。
したいことと、できることの違いを見誤った。
アクション映画を見終えたあとは、自分も同じ事ができそうな気になる。
普通はすぐに醒めるその錯覚は、異世界に足を踏み入れたことで、醒めにくい夢に変わった。
そしていつしか、アクションヒーローに生まれ変わったような勘違いにまで到っていた。
そういうことなのだろう。
――でも、この火はヨウコと同じなんだ。
カズマのなかにある、もっとも気弱な部分がぽつりとこぼした。
それはいつもなら、打算的な自分、享楽的な自分らによって無視されるはずの声だった。
だが、あの時ばかりは違っていた。
全てのカズマが黙り込んだ。
――僕にとってのヨウコか、たぶんそれ以上の存在なんだ。
先住民族たちにとっての〈分け火〉は。
なのに後悔なんて、してしまって良いのか?
酸によって全身を灼かれる痛みは、いよいよ精神を歪ませ、致命的なヒビを走らせようという段に到ろうとしている。
いつ終わるのか。
あとどれだけ耐えればいいのか。
それらばかりが狂ったように渦巻く脳裏に、すっと光のように差し込んだ思いが、続けた。
――多分、僕は逃げてもいい。
他人事なんだ。
しょせんは善意の手助け。
できる範囲でやってれば良い。
むしろ、命まで張るのは愚かだ。
相手は遙か格上。
国家公認の巨大組織だ。
一〇〇人に聞いたら一〇〇人がお前には無理というだろう。
ここでやめても、幾らでも言い訳はつく。
皆、納得する。
「なら、しかたないな」。
「むしろ、お前は頑張ったよ」。
そう言われるのは分かっている。
分かってるけど――
でも、言い訳がつくのはヨウコも一緒なんだ。
〈世界の果て〉を平気な顔して越えて異世界から来た奴に、彼女はさらわれた。
国家機関の中枢にいたケイス・ヴァイコーエンですら、〈果て〉はもちろん〈地球〉の存在すら知らなかった。
世界を渡る方法なんて、見当もつかないと言われた。
なら、それをやった相手はもっと力を持った誰かだ。
間違いなく個人じゃない。
超国家級の力を持った途方もない連中だ。
そんなの、どうやったってかなうわけないじゃないか。
こっちは、去年まで中学生やってたただの子どもだぞ。
国家どころか、その辺のチンピラ集団にすら勝てやしない。
テロ組織にさらわれた知り合いを、単身、中東に乗りこんで救出するなんてこと、現実にはやろうなんて考えもしないはずだ。
――それ以上のことだって、ほんとは分かってる。
異世界に連れ去られたヨウコを連れ帰るのは。
誰に、何の目的でさらわれたのかも分からない。
今、どの大陸の、なんて国にいるのか。
そもそもまだ生きているのか。
本当は、ほとんど毎日のように彼女の夢を見る。
ある日は魔物に食い殺されるヨウコの夢。
次の日は、スリージィンのような野盗に慰み者にされている彼女の夢。
汗びっしょりで跳ね起きて、吐き気をこらえる夜なんて、もう慣れっこだ。
何も分からない彼女を、僕がひとりで見つけ出すなんて、最初から無理な話だなんて――そんなの自分が一番知ってる。
――いくらでもあるんだよ。
今すぐ諦めて、帰って良い理由なんて。
皆言うさ。
サトミさんも、シゲンさんも。
「仕方ない」。
「誰にだってできないことに挑戦したんだ」。
「あなたはむしろ立派だった。自分にできる以上のことをしたのよ」。
誰も責めたりしない。
多分、ヨウコ本人すら許してくれる。
彼女の両親も。
友人たちも。
皆、認めてくれる。
だから、それで終わりにして良いんだ。
終わりにできる。
――あとはただ、僕自身の気持ちを無視さえすれば。
たとえ、どんな完璧な言い訳があっても、被害者本人の許しがあったとしても。
世界中の誰もが認めても。
僕は、絶対にヨウコを諦めた事実を忘れられない。
自分は騙せない。
ずっと引きずる。
自分を責め続ける。
逃げ出した卑怯者だと嫌悪し続ける。
もしここで自分に関係ないからって、言い訳がつくからって、全部放り投げて逃げたとしたら。
諦めることを覚えてしまったら。
「ヨウコは別だ」なんて言って、また歩き出させるだろうか。
――分かってる。
無理だ。
そんなに強い人間じゃない。
こだわるものなしに生きてはいけない。
自分がそういう人間だと知っている。
ここで折れたら、同じようになにか言い訳をひねり出して、諦めるようになる。絶対にそうなる。
困難にぶつかったとき、「どう越えるか」じゃなくて「諦めていい理由」を探す人間になる。
そして……ヨウコすら諦めて、一生惨めな後悔と自己嫌悪の中で生きていく負け犬になる。
――犬死以下だろ、それは。
思考が収束し、クリアになる。
ひとつ、何かが自分のなかで形になった気がした。
ここで〈分け火〉を守れても、それでヨウコを探し出せることにはならない。
だがここで折れてしまえば、もう自分は彼女を救い出せる人間ではなくなるだろう。
あえて困難な道を選ぶような、ある意味において愚挙。
だが、その道の先にしか千葉ヨウコはいない。
そんな気がした。
何の根拠もないが、なぜだか妙な確信があった。
なにより、〈*ワイズサーガ〉自身がそれを望んでいる。
最近、強くそう感じるようになっていた。
封貝には意思がある。
それは、こちらの世界の封貝使いたちも認める事実だ。
ならば、成長型である〈*ワイズサーガ〉の力を正しく伸ばすためには、本人が望む道を歩むのが一番の近道だろう。
声が聞こえたのは、そんな結論を得た直後のことだった。
〝崇を刻むる黑金の〟
〝神根の石火矢うちいだし――〟
強酸性の海底で、それは頭に直接聞こえてきた。
……歌?
無意識にそう感じた。
何の疑いもなく思った。
封貝――〈*ワイズサーガ〉が歌っているのか?
〝此の身此の宇天〟
〝吾ぞ弾丸〟
実際、それは歌としか表現しようのないものだった。
カズマの脳にアクセスし、眠っていた語彙を強引に引き出したのだろう。
それを文法も理屈も無視して、でたらめに並べ立てた代物。
ただの意思の発露。
だが、それは確かに歌だった。
その事実を、なぜだかカズマは理解できていた。
――だね。
同意を返す。
確かに、それでこそワイズサーガだ。
僕らはいつも弱い側につく。
負け札ばかり集めて勝負する。
だから毎度のように叩きのめされて、こうして地ベタを這わされる。
腕を断たれ、海に沈んで。
雨に打たれ、泥に塗れ、指をさされて笑われる。
惨めな負け犬だ。
だけど弱い犬に限ってよく吠えるものだ。
身の程知らずに、何倍もある大型犬にも牙をむく。
その愚直さはまるで鉄砲玉だ。
弾丸もまた相手を選ばない。
標的で飛び方を変えることはない。
貫けないからと壁の前で曲がることも、落ちることもない。
――僕らは負け犬で、ちんけな弾っころだ。
弱い方については何もできず、案の定負けて、今日もまた自分の無力さばかりを思い知る。
ヨウコを奪われたときと何一つ変わってはいない。
分かりきった、いつものパターン。
だけど……それでも、せめてちょっとした歯形くらいは残してやろう。
そう思った。
壁にへこみくらいはつけてやろう。
崩すのは到底無理な話でも。
そのためには、自分に勝った者をただでは帰してはならない。
「この犬は面倒だ」。
「この弾丸は厄介だ」。
「勝つことは確定的だが、到底割に合わない」。
そう思わせなければならない。
もう二度とゴメンだと刻み込む必要がある。
心理戦は得意分野だ。
嫌がらせのやり方は心得ている。
たとえば今日のところは――
この消えかけの炎くらいは、守ってみせようか?
不意に、カズマは頬に風を感じた。
やや遅れ、水抜きの感覚で世界に音が戻る。
最後に脳がそれら意味を理解した。
封貝によって再現された現象であれ、その効果は永遠ではない。
押し寄せた強酸性の津波は広く伸びきり、そして引いていったのだ。
腹には、まだ微かに〈分け火〉を感じる。
それは炎でありながら、決してカズマを焼き焦がすことはなかった。
直に触れても、誰かの体温のようにただぬくもりだけを分けてくれる。
生命そのもののように、自分の存在を伝えてくる。
耐えきったのだ。
恐るおそる目蓋を開いた。
それだけの作業に酷く時間がかかった。
錆びた金属のようにギシギシと軋む感覚があった。
だが、酸は流れ込んでこない。
すぐ目の前は地面だった。
祭壇広場の白い石畳が見えた。
濡れて灰色に変色し、艶めた部分が半分。
もう半分は、流れてきた泥によって汚らしい斑模様が描かれていた。
溝にはまだ捌けきれない水気が溜まって、陽光に輝いていた。
油ぎれを起こしたブリキ人形状態は目蓋だけではなかった。
全身が動かない。
酸に身体を溶かされ、関節が変形してしまったのではないか。
そんな風にすら思えた。
胎児のように丸まったまま、次の行動に移れない。
「がんばれえ」
遠く声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
風にのってようやく微かに届いたそれは、舌足らな幼い声援だった。
その小さな身体を全部使って、腹から絞り出していることが分かる。
必死の叫びだ。
がんばれぇ。
むかし、同じように叫んだな。
脈絡もなくそんな思いにかられて、カズマは少し目を細めた。
TVにかじりついて、怪人にやられかけたピンチの変身ヒーローを応援した。
そうすれば彼は必ず立ち上がる。
そして最後は勝つ。
何の疑いもなく信じ切っていたあの日の自分と、同じ想いが生む声だ。
「がんばれえ……わいずさーが、がんばれぇ!」
それが今、自分の名を呼んでいる。
その時にはもう、カズマは思い出していた。
オウバルパと交戦状態に入る直前のことだ。
広場に集められた先住民族の群衆から、足下に駆け寄ってきた男児がいた。
ミーファティアより少しだけお兄さんだっただろうか。
三歳から四歳と思わしき幼子だった。
スリージィンの襲撃で散々恐怖を味わったのだろう。
頬には筋が、目尻には涙の雫そのものがまだ小さく残っていた。
「助けてくれるの?」
そう訊ねてきた彼の表情を、カズマは忘れていない。
そうした方が良いか。
問い返すと、少年は生真面目な表情で頷いた。
そして言った。
「やっつけて」と。
――そうだ。
だから、僕は答えた。
じゃあ、悪い奴はみんなやっつける。
約束した。
「やられそうになったら、ワイズサーガって呼んでね。そしたら元気になって、最後は勝つから」
最後に頭を撫でながら頼むと、ちび助は使命を帯びた顔でこくりと頷いた。
そして今、彼はその約束を果たそうとしてくれている。
――「明日から本気出す」が座右の銘だったんだけどな。
不思議とこの時、唇はスムーズに動いた。
気づくと、カズマは笑みを浮かべていた。
先に約束果たされたんじゃ、さすがに「明日頑張る」はちょっと無理かな。
カズマはゆるゆると顔を上げた。
あわせて上体も起こしていく。
なんとか動いた。
だが、どうあっても立ち上がるまでは無理だった。
生物としての根っこの部分で分かる。
立ち上がるなら、意識を保つための気力まで注ぎ込まねばならない。
なにもかもを、だ。
しかし、そうしても結局は無駄骨だ。
まして歩くなど――
しかし、それでなんら問題はなかった。
背後の上空、二〇から三〇メートル地点にオウバルパ・ジィンファウスの姿を認めたカズマは、なけなしの気力と体力を振り絞りながら身体を半回転させる。
そしてもう一度、口角を小さく吊り上げた。
貫くべきは、少年との約束ばかりではない。
もう一つ。
この〈分け火〉を消させないと、オウバルパ相手に切って見せた大見得も曲げられない。
反故にする気もない。
そのオウバルパと視線が絡む。
瞬間、相手があげた小さな悲鳴をカズマは聞き逃さなかった。
板状の封貝の上で青息吐息のオウバルパに、もう戦う力は残っていない。
最終決戦封貝〈強酸の海〉を発動するため、〈原初の分け火〉をかき消すために全てを注ぎ込んだのだ。
今なら分かる。
あれこそが〈空虚な小部屋〉だったのだろう。
「――ほぅら、消えない」
ほとんど機能を失ったの左腕に〈分け火〉を抱いたまま、カズマは唇の上だけで言った。
そして、右の拳を握り固めた。
「コード・カウチギの御名にかけて、これで打ち止めだ」
次の一撃を耐えきれば、こちらの負け。
そうでなければ逆。
最後の勝負だ。
脳裏で言葉を結んだ瞬間だった。
カズマの目の前の空間から、二本の赤い光線が空に向かって走った。
攻撃ではない。
レーザーポインタに酷似した非破壊性の輝きである。
それは真っ直ぐオウバルパの胴体まで伸びていき、二人の封貝使いを線路のように繋ぐ。
きっかり二秒はかかっただろう。
オウバルパはそれがなんであるかをようやく悟ったらしい。
目が驚愕に零れそうなほど剥かれる。
実際、それは二挺のライフルから発されるレーザーサイトが、綺麗に並んで標的に狙いを付けたようなものだった。
赤い光線のタネは、カズマの第二移動封貝〈*ワイズピック〉だ。
派閥のメンバーが「極めて希少かつ特殊」と口を揃えるこの変わり種は、運用にも幾つかの特殊なルールがある。
一つ、目印を設置した場所にしか移動できない。
ニつ、移動の実行は二パターンがあり、追加口訣で使い分ける。
三つ、追加口訣「ロック・ユー」は目標までの高速直線移動。
四つ、追加口訣「バスト・ユー」は目標まで瞬間転移する。
ここまでは、戦闘の中でオウバルパにも見抜かれた事実だ。
だが――
五つ、一度に設置できる目印は一組ではない。
この特性について、オウバルパは今のいままで知らずにいたはずだ。
なぜなら交戦中、カズマは常に一組ずつしか〈*ワイズピック〉を射出してこなかった。
一組召還してはすぐに転移し、また一組出す。
そのパターンを守り続けた。
そうせざるを得なかったというのもある。
六つ、同時に多数のマーカーを設置した場合、特に指定しない限り一番新しく召還したものが優先される。
――この、第六の制約があるためだ。
すなわち、マーカーをバラ撒くのは自由であるし、それはきちんと機能する。
が、どこに置いたかは目を瞑ってでも「そこ」とはっきり指させるほど、三次元座標をはっきりとしたイメージ、記憶として頭に留めておかねばならない、ということだ。
言うまでもなく、これは簡単な要求ではない。
封貝使いの戦闘は極めて広大なフィールドを、絶えず高速移動しながら繰り広げられる。
一分後には五キロ先で撃ち合っているのが当たり前の世界なのだ。
加えて移動や攻撃にともなう爆風、衝撃波が広範囲に吹き荒れ、地形や建造物の配置がダイナミックに変化する。
こうなると、布石の位置などいちいち記憶していられない。
覚えていても、吹っ飛んで場所が変わってしまう。
使いこなせないなら出すだけ無駄だ。
むしろ無節操にバラ撒くと、それがマーカーであることに気づかれるリスクが増す。
これらの要素を総合し、カズマは基本的にマーカーの複数召喚を避けて戦ってきた。
しかし、これはあくまで〝基本的に〟だ。
例外が一切なかったわけではない。
逆に、チャンスと感じたときカズマは二組目の召喚を迷わなかった。
目を見開くオウバルパは今ようやく、自分の背中にその二組目が貼り付いていることに気付いたらしい。
――いつの間に。
血走った目が、言葉より雄弁に混乱と狼狽ぶりを物語っている。
――簡単だよ。
もう声を出すにも多大なエネルギィを必要とする。
カズマは言葉にせず視線だけで告げた。
気付かれないよう、格上の敵の背中にマーカーを付ける。
――そんなの、相手が手が届くくらいの近くで、余裕たっぷりに棒立ちしているときくらいしかやれっこない。
そして、そんな機会はたった一度しかなかった。
おたくが殴り倒した僕を見下ろし、得意げに頬へ銃口を押しつけてくれたあの時だけだ。
カズマはのろのろと〈*ワイズサーガ〉の右腕を持ち上げた。
真っ直ぐ頭上のオウバルパ・ジィンファウスに拳を向ける。
たったそれだけの動きを終えるまで、四度、意識を失いかけた。
何秒もかけた。
こちらが何を狙っているか、もうオウバルパは気づいている。
だがもう満足に身体が動かないのは向こうも同じだった。
たとえ完全に不意をついたとしても、自分の一撃は回避ないし防御されてしまう。
格上とはそういうものだと、カズマは実感していた。
ケイスとの訓練でも「当たった」と確信した瞬間、一〇〇メートル先に移動されていることなどザラだ。
オウバルパの場合は、それが一メートルだというだけである。
拳が当たらないという意味では全く同じだ。
だから、こういうシチュエーションを待つしかなかった。
疲労とダメージで防御も回避も出来ない、完全な無防備状態。
強酸性の液体をぶっ被ってまで、ようやく掴んだ機会だ。
「待て……」
ボード型の封貝上、オウバルパがかすれ声をあげる。
わずかに見せた身じろぎは、後ずさろうと無意識の動きか。
カズマは構わず口訣した。
「――ロック・ユー」
瞬間、ガクンという強烈な衝撃がカズマの全身を襲った。
背中を押されてビルの屋上から転落を開始したときのような――
はたまた、腰に結んだ縄をフルスロットルで走り出したスーパーカーに引っ張られるような――
本能が死を意識する感覚。
しかし、脳がその恐怖を認識したときにはもう、カズマは〝到着〟していた。
約二五メートル。
彼我の距離は一瞬にしてゼロへ。
カズマはオウバルパと重なるようにして移動を完了した。
ほとんど瞬間移動だが、実際にはあくまで直線移動だ。
赤い光線をレールがわりに、間違いなくカズマは実体をともなって動いたのだ。
したがって、到着点には加速度――
運動エネルギィをそっくり保ったまま到着する。
右手を前に突き出したまま転移に入ったなら――
必然、次の瞬間〈*ワイズサーガ〉の拳は相手の身体に突き刺さっていることになる。
この場合もまた例外はなかった。
砂場に拳を突き立てたような、ざくっという手応えが腕全体に伝わった。
およそ人体を殴った感覚とは思えない。
複数の骨がまとめて粉砕され、肉ごと陥没したのが分かる。
オウバルパの喉からほとばしったのは、もはや声にもならない絶叫だった。
カズマの〈*ワイズサーガ〉は打撃型。
全封貝の中で、もっとも射程距離が短い接近戦専用である。
三〇〇メートル先からでも当たり前のように斬撃を飛ばしてくる一般的な封貝と比較して、宿命的に圧倒的な不利を強いられる存在だ。
そのかわり苦労を乗り越え、一撃食らわせた時の特殊効果はもっとも強力だ。
〈*ワイズサーガ〉の場合は、状況に応じてランダムな効果が発動する。
前にオウバルパの腕に当てたときは、凄まじい炎上を見せ、その腕を骨ごと炭化するまで焼き尽くした。
今度は――
カズマが注視する中、それは即座に発言した。
「ぐゥ……ァアア――アッ」
オウバルパが叫びをあげる。
恐怖と混乱の悲鳴だった。
見れば、その全身が不自然に宙に浮き上がり始めている。
明らかに本人の意思に反した動きだった。
見えない力に両腕を力任せに開かれ、足はロープでぐるぐる巻きにされたがごとく固められていく。
脂汗をにじませ、ビキビキと音がしそうなほど筋肉に青筋を浮かべて抵抗しているが、まったく通用していない。
それは磔そのものだった。
透明な十字架に手足を打ち付けられ、標本さながらに拘束されたイエス=キリストの再現である。
相手の動きを完全に封じ、次の攻撃の命中率を一〇〇%にする補助効果といったところか。
何秒持続するのかは分からない。
だが、それが致命的な時間になるであろうことは、カズマにもオウバルパにも理解できていた。
〝――口訣せよ〟
この日最後に発された〈*ワイズサーガ〉からの呼びかけだった。
同時、新しい追加口訣がカズマの脳裏に浮かび上がる。
なにがきっかけであったのかは分からない。
だが、あの瞬間、封貝〈*ワイズサーガ〉はカズマを主と認め、己の能力の完全解放を許してくれたことは間違いなかった。
封貝を覚醒状態へ導くための咒言。
認証コードをカズマは得たのだ。
言葉と同時にその使い方、能力、一切合切をカズマは瞬時に理解した。
あるいは伝授された、というべきかもしれない。
〝――口訣せよ〟
木霊のように残響するその声に、カズマは頷く。
自由落下に入る前の刹那的な浮遊状態の中、オウバルパを静かに見詰めた。
〈*ワイズサーガ〉をゆっくりと引き絞る。
教えられた口訣は、カズマも知る言葉だった。
いつだったか悪戯をしかけてヨウコを怒らせた時だろう。
懲罰として書写させられた教養書あたりで見た文句だ。
――なるほど、気が利いてる。
カズマは声なく笑った。
それに、ぴったりだ。
そう思った。
まだ、麻酔のなかった古い時代の話だ。
当時の兵士は戦場で負傷した場合、弾丸を噛み締めて手術治療の痛みに耐えたという。
転じて現代では「困難に敢然と立ち向かうこと」「あえて困難な方法を取ること」を意味する言葉となった。
直訳すれば「弾丸を噛む」。
その一聞奇妙な言葉を、カズマは口訣として結ぶ。
そして確信とともに右の拳を撃ち放った。
「――|bite (on) the bullet《バイト(オン)ザ・ブレット》」
攻撃用第一封貝〈*ワイズサーガ〉
打撃(拳)型。
超接近戦用。
ユニークペルナ。
命中すると状況に応じた追加効果がランダムに発動する。
特殊効果「常時顕現」常に実体を伴って存在する。
特殊効果「成長」契約者にあわせて成長する。
特殊効果「覚醒」追加口訣で真価を発揮する。
追加口訣「バイト(オン)ザ・ブレット」
覚醒状態に入り、次の一撃に以下条件で追加効果がのる。
一、目標が格上であればあるほど効果が上昇する。
二、命中難度が高ければ高いほど効果が上昇する。
三、状況が困難であればあるほど効果が上昇する。
四、効果上昇に上限はない。
――覚醒効果〈奇跡〉。




