雷帝
005
楠上紫玄。
玉池サトミ。
そしてルネ・クラウセン。
〈三清〉の誉れも高き彼ら三傑のうち、逸速く現場に駆けつけることができたのは、サトミだった。
もちろん、この事実は彼らの察知能力をそのまま象徴するものではない。
シゲンとクラウセンは外出しており、サトミだけが同じ集合住宅の中にいた。すなわち、単に地理的な距離の問題であった。
実際、感知がどうこう以前、たとえ十キロ先からでもそれは容易に察知できた。
まさしく、落雷としか表現できないものだったからだ。
大気を奮わせ、耳をつんざかんばかりの轟音。地が裂けたかのごとき激震。通常、落雷によって瞬間的に生じる熱量は摂氏三万℃に及ぶ。ならば恐らく、現場周辺は爆心地のように焼け焦げ、草木は発火し、場合によっては小規模の火災に発展している。その超高熱は地表の砂をガラス化させ、オゾン臭にも似た匂いを漂わせているであろう。
――そんな確信を生むに相応しい、それはまさに天災の訪れであった。
だが、現場に駆け込んだサトミが見たのは、落雷の痕跡などではない。
人の形をした細身のシルエットが、他ならぬカズマの私室にゆらりと立っていた。
「おっ――」
サトミの姿を見た瞬間、異変の主は口元を綻ばせた。長らく離れていた旧友との再会を喜んで、というのではない。珍しい物を見たという愉悦の笑みだった。
「変わってないねえ、サトミ」
飄々《ひょうひょう》とした声音が、どこか茶化すように言った。
ここに来るまでは、間違えようがないと知る反面、まさかという思いもあった。相手は間違いなく、〝あちら側〟最大のビッグネームなのである。
その彼女がここに――?
たとえるなら、女子校時代の知人が卒業後に女優になり、やがてハリウッドスターとして名を馳せたある日、なぜかそう親しくもなかった自分の家に遊びに来た――というようなシチュエーションに近かいものがあった。
だが、それもこれも実際に顔を見てしまえばすべてが吹っ飛ぶ。
「変わっていない」という寸評は、相手自身にも言える事だった。最後にその姿を見た十六年前と寸分違わぬ、少女ともいえそうな年代の女性がそこにいた。
無造作に腰まで伸ばした黒髪も、娘時代の艶をなんら失ってはいない。
どこか優雅な身のこなしと、瞳の奥に潜む狡猾な知性。奔放で、少しでも目を離せば何をしでかすか分からないという危うさ。仔猫を思わせるその本質的な部分にも変化があったようには思えない。
文化の違うあちら側でどうやって仕立てたのか、比雲翔子はインディゴブルーのジーンズに、男物に見える白いカッターシャツといういかにも彼女らしい大ざっぱな格好でそこにいた。
「本当に貴女なのね……ショウコ」
言葉にした瞬間、背を冷たい汗が伝っていった。
「やあ、サトミ。久しぶりだね」
比雲ショウコが言葉とともに、軽く右手をあげて見せた瞬間だった。
コンビニの電撃殺虫灯へ夏の虫が飛び入っていった時のように、バチッという電気的な炸裂音が木霊した。途端に、焦げたような異臭が室内に漂い始める。
唇の端を涼しげに吊り上げたショウコが、「ヒュウ」と口笛らしきものを鳴らした。
彼女は半歩横に移動しながら、背後のガラス戸を振り返る。
そこには、カナブンを思わせるサイズの黒い塊が浮かんでいた。
「おやおや、これは何かな。サトミちゃん?」
宙空に静止したそれへ不用意に手を伸ばした彼女は、「あちちっ」と頓狂な声をあげつつも、ひょいと二本の指先で摘まみ上げた。
「なにこれ、凄い大きさだな。薬莢込みだと私の親指よりデカイんじゃない? 今は、こんなサイズの弾丸があるんだねえ」
無邪気にはしゃぐ口ぶりは、カナブンというより世界最大のカブト虫を手にした少年のようだった。
「こんなのが当たっちゃった日には、血肉の霧みたいになって上半身丸ごと吹っ飛んじゃいそうだ」
笑顔で言った彼女は、それですっかり興味が失せたかのように、掌で転がしていた銃弾を後ろへ放り出す。
コンと固い音を立てて、金属塊がフローリングの床を転がっていった。
「サトミさあ、ちょっとこれは酷いんじゃないの? 人に向けて良いもんじゃないよね。しかも、相手は昔馴染みだよ」
「そう――?」サトミは頬にかかった髪を耳の後ろへ流しつつ、低い声で返した。「背後から五十口径で狙撃されても無傷で立ってる化物は、まっとうなヒトではないと思うけど? 第一、私たちはそれが当たったとしても死ぬことはないでしょう」
「ま、確かに」彼女が肩をすくめる。「にしても、この短時間でポイント取って、警告もなしにいきなりヘッドショット決めてくるとは。さすが〈三清〉のお膝元は違うねえ」
そこで言葉を切ると、ショウコの顔から引いていくように笑みが消え去った。
「でもさ――」低い声が言った。「久方ぶりとはいえ、私がやられたらやりかえす性格だってことは、忘れてくれてないよね」
瞬間、心臓を鷲掴みするような殺気が急速に膨れあがった。
サトミは言葉の圧力に押されるように、気付けば半歩、後退していた。
脅しでも警告でもない。それが、これから実力が行使されることの、純然たる宣言であることを知っていたからだ。
「ショウコ」努めて冷静に呼びかける。「私たちの力は大き過ぎる。ここでお互いの〈封貝〉をぶつけ合えば、少なくなってしまった人の住める土地が――貴女の祖国だった大地が、更に削られることになりかねないのよ」
「地図を書き換える覚悟で攻撃してきたんじゃないの?」
これがその証拠だと言わんばかりに、ショウコは転がった銃弾を顎で指す。
「誤解がないように言っておくけど、今のは別に私の命令じゃありませんからね。侵入者がこの部屋まで到達した時の通常の対応なの。私には今、一緒に暮らしている男の子がいてね、ショウコ。ここは彼の部屋なの。守るべきものができたのよ」
「あっ」ショウコの顔が、悪戯を思いついた少年のように輝いた。「それ、もしかして例のあの赤ちゃん?」
「……そうよ」
「おお、やっぱり。そうか。それは面白い。なるほど、十何年も経てばそりゃ育ちもするわな」最後の方は独り言に近いつぶやきだった。彼女はそれからすぐ、この場が当人の部屋であることを思い出したらしい。何か情報を得ようというように、きょろきょろしだす。「えっと、今は……高校生?」一瞬、サトミに視線を戻して訊いた。
「そうよ」
「名前はなんてつけたの?」
「一真よ」
「玉池カズマ?」
瞬間、サトミは頬の筋肉が小さく引き攣るのを感じた。
きっと、同級生の中で最後の独身になった時、結婚の予定について問われるとこんな気分を味わうのだろう。場違いにもそんなことを考えてしまう。
「姓は、楠上よ」
どうしても声音が低く、そして冷え冷えとしたものになるのを禁じ得ない。
「法的な後見人の座はあの男に譲ったの。協議の末にね」
「あの男……っていうと、楠上紫玄か。そういえば、あのおっちゃんいないね。近くにいればすっ飛んで来そうなもんだけど。で、なんで苗字譲っちゃったのさ?」
「名前を付ける権利と、二択だったのよ。私は名前を選んで、あの変態胸モジャは姓を選んだ」
「ほうほう」
ショウコはにやつきながら、顎のあたりを撫でている。
「そんなことは、今はどうでも良いの。とにかく貴女はそのカズちゃんの部屋へ無断で、土足のまま押入った。銃で撃たれたからどうのと文句を言ってるけど、しかけた順番を言うなら、そちらの不法侵入の方が先だということを忘れないで」
「ん――?」指摘に、ショウコはぴくりと柳眉を震わせた。「そういや、こっちの社会じゃそういう概念があるんだっけ」
彼女は右手でうなじのあたりを擦るような仕草を見せた。不法侵入かあ。その発想を忘れていた、というようなつぶやきが小さく零れる。
「向こうでの生活が長いと、色々忘れちゃうもんだね。あの赤ちゃんが高校生になるくらいだもんなあ」
そっか。不法侵入ね。ショウコは繰り返し、なにか納得したようにひとつうなずいた。「そんならまあ、仕方ないかな。サトミに免じてここは穏便におさめておくか」
「ショウコ……」
「しばらくぶりに親友と再会できたわけだしね」
「それよ。どうして、貴女ほどの人がこちらに来てるの? 自分の影響力を分かってないわけじゃないんでしょう」
――比雲翔子。
個としては間違いなく最強の〈封貝〉使いである。
彼女の所有する〈破壊の杖〉が、あらゆる〈封貝〉の中でも最大の有効射程と攻撃性能を誇ることを〈あちら側〉で知らない者はいない。恒星破壊級に及ぶとすら伝わるその神話級の暴力を――純粋な意味において――かつ単独にて防ぎ得る防御用封貝は、〈三清〉に数えられるサトミさえ知らない。
もちろん、どんな脅威からもカズマを保護すると誓った身の上だ。サトミとしても、この旧い友人が敵対した場合を想定して、幾つかの対抗手段を講じてある。
しかし、それらはすべてカズマの死守を最優先に据えたものに過ぎない。
彼関係なしに、時間無制限の決戦を――ということになれば、〈雷帝〉比雲を打破し得る算段は現状、ないと言って良かった。
「まったく。貴女みたいな歩く戦略核兵器が軽はずみに超えて良いラインじゃないのよ。〈果ての壁〉っていうのは。大体、どうやって……」
「まあ、〈破壊の杖〉はその名の通り、なんでも破壊しちゃうのがウリだからね。むかしっから、壁ってのはぶっ壊すためにあるようなもんだし」
ショウコの悪びれない物言いに、サトミは思わず手で顔を覆いかけた。
が、意思の力で自制する。想像もしたくない話であった。
そも、〈果ての壁〉は物理的な破壊ができる代物ではない。いわば概念上の壁なのだ。それを破れとは、二次元の登場人物に「紙面から飛び出て現実世界に実体化しろ」と求めるような暴挙だ。
この事実は、続発する――そして千葉ヨウコがその一例になりつつある――神隠しの被害者たちが身を以て証明している。
こちらを三次元、あちらを本の中ような二次元の世界だと仮定すれば、被害者たちはこの三次元世界での生命や肉体を完全に失い、魂だけの存在になって向こうに渡る。
そして以後は本の中の登場人物として描かれるのだ。
とてもではないが、自由に行き来とはいかない。
それをこの女は――
「あの〈壁〉を、能力で通り抜けるでもなく、破って押し通るとはね」
サトミは溜め息混じりに旧友を見やった。少なからず恨めしげな白眼になったはずだった。
「ヴァナルガンドにまた新しい伝説が生まれたってこと? ショウコ、これは友人としての忠告よ。無頼もいい加減にしておきなさい。壁を壊すつもりが、入った亀裂が止らず広がって、世界全体に及んでしまうこともあり得たのよ。封印を含めて、貴女は少しそれの存在意義を問い直すべきだと思う」
「いやあ、これで結構役に立つからね。そうそう手放せないよ」ショウコが皮肉な微笑を浮かべた。「それに、壊すだけが能じゃないんだよ。ほら、五十口径の対物ライフルで直に人間撃つなんて蛮行にさらされても、自動で防いでくれたりするし」
「人の言葉に耳を貸さないところは変わらないのね」
「〈封貝〉は主の資質を見極めるって言うじゃない? 根っこが変われば、この杖も私を見限って主を変えるかもしれない。変わる前の私に似た誰かのところにいったりしてね」
「貴女と話してると頭が痛くなる」
実際、痛みにも似た疲労を感じ始めていた。
サトミは吐く息と一緒にそれを振り払い、話を改める。
「――では、その主想いの〈封貝〉引っ提げて、こっち側にいらした理由をそろそろお伺いできるかしら。ついでに、我が家へこそ泥みたいに入りこんできたことへの釈明もお聞きしたいんだけど」
意図して棘を含ませつつ、そうやり返した。
途端にショウコは顔を歪ませた。打てば響くような返答が常の彼女からすれば、こうした反応は珍しい。
〈雷帝〉は不機嫌そうな顔のまま、カズマのデスクセットへ歩いていった。椅子を自分向きに回転させ、やや乱暴に腰を落す。
「そんなもん、イングリスに決まってる」唸るように言った。「あの鉄仮面野郎がこっちに来てるって噂を聞きつけて追ってきただけだよ。私は面倒が嫌いなんだ。あいつを殺すチャンスでもなければ、わざわざ苦労してまでこんなところに来やしない」
「イングリス――!?」
用意していた「その椅子に気安く腰掛けるな」という警告は一瞬ですっ飛んだ。
思わず身を乗り出す。弾みで二歩ほど彼女に詰め寄る形になった。
「それは、シガー・イングリスのことを言ってるの」
「他にどのイングリスがいる?」
組んだ脚に頬杖をつき、ショウコがふて腐れたように言った。
「なんで……信じられない。その情報は確かなの?」
「私も最初は半信半疑だったけどね。でも、こっちに来てること自体は確認したよ。まだ留まってるかまでは確証ないけど」
「彼ほどの人が、何の目的でこっちに」
「それは知らない」
シガー・イングリスもまた、比雲ショウコに十分比肩し得るビッグネームであった。
違いは一点。
ショウコは個人として知られ、個人として動く。
対するイングリスは国家レヴェルの組織の顔であり、彼の言動は国際的な公人のそれとして認識される。
そもそも彼は人を使う立場にある人間だ。そんな男が、わざわざ莫大なコストと甚大なリスクを背負ってまで直接動く理由が、まったく分からなかった。
ある国の大統領が、自国を脅かすテロ集団の幹部暗殺を計画したとして、それを特殊部隊に命じず、自らマシンガンを持って敵地へ乗込むなどあり得るか――。
そんな現実は、ハリウッド映画の中ですら稀にしか成立しない。
「嘘でしょ……」サトミは思わず首を左右する。「一体、なにが起ってるの」
ほとんど独り言つようなつぶやきだったが、ショウコが反応した。
「何か、はっきりとした目的があるみたいだけどね。まあ、サトミが驚くのも分かるよ。奴がこういう動きを見せるのは珍しい。だから狩るチャンスだと思って、私もそこそこ大胆に動くことにしたわけだし。確率の低い話にも敢えて乗っかったんだ」
「彼は単独で来てるの?」
「いや、寡兵だけど単独ではないね。小隊クラスで動いてる。でも、これがまた妙でさ。連れてきた奴らがてんで散けて動いてるんだ。国境またいでね。その意味では単独行動に近い」
「ちょっと待って」サトミは鋭く叫んだ。
ここに来て、ようやく事の深刻さに気付く。顔を跳ね上げてショウコに迫った。
「イングリスを殺すために、彼を追いかけて来た貴女がここにいるということは――」
「そうだよ。やつはこの辺に何か用事がある、もしくはあった可能性が高い。それが〈三清〉の支配領域近辺だっていうなら、あんたらにも何か関係があると考えた方が自然でしょ」
瞬間、手持ちのピースからにわかに全体像、パズルの完成図が見えはじめた。
シガー・イングリス、比雲ショウコという大物の出現。
〈三清〉の本拠で発生する神隠し。
特殊な状況がもたらす不確定要素。
「まさか――」
イングリスの移動用封貝は〈四不像〉だ。
乗騎としてはありふれた品種に過ぎず、〈あちら側〉では「飛行できる鹿モドキ」くらいの認識でしかない。
しかし、イングリスのそれはやや事情が違った。珍種なのだ。
他にはない特性がある。
「噂だと、四不像に乗っている間、イングリスは〈封貝〉を使ってもその気配を消せるのよね?」
「そうそう。だから厄介なんだよ」ショウコが大袈裟に顔をしかめて言う。「おかげで〈封貝〉の気配を頼りには追えない」
「貴女がここに来た瞬間なんか、雷が千本束になって落ちたような凄い衝撃を感じたくらいだけどね」
「ま、あれはわざと足音立てて歩いたみたいなもんだけどさ。とにかく、イングリスの四不像の噂は事実だよ。私自身が実体験してきたから間違いない」
「本当に、全然〈封貝〉としての気配を感じないの?」
「うん」ショウコはあっさりと認めた。「五感で直接的に認識しないと、四不像に乗ってる奴を捉えることは不可能だね。なんか、探知系の特殊な〈封貝〉でもあれば、また別かもしれないけど。三眼系とかさ。そういうわけで、私も苦労してるわけよ」
話が事実なら、さながら防音装置付きの拳銃といったところだった。その性能からすれば、むしろ映画の中に登場する消音装置とすべきか。
普通のガンマンは、銃を撃つと音で存在と発砲を気取らてしまう。
だが、音がでない銃の持ち主ならば誰にも気付かれないまま現れ、殺し、去っていくだろう。その姿を直接目撃でもされない限り。
サトミは固唾を飲みながら、スカートのポケットを探った。本来、こうした持ち歩き方はしないが、これから一週間は肌身離さないと誓った携帯電話を取り出す。
気分が悪くなるほど動悸が激しくなっていた。電話を握る手が汗ばんでいる。
特殊回線を呼出すと、ワンコールで相手が出た。セキュリティセンターのオペレータだ。
「――私です」
サトミは意識してゆっくりと語りかけた。
「今、対象はどうしていますか」
カズマのプライヴァシィを思いやって、公共の場所以外は極力カメラを使わないようにしている。屋上もその一例だ。あそこもパブリックスペースと言えばそうだが、カズマたち以外に利用している者はいない。彼らがどのような時に使っているかを考え含めると、やはり電子機器の設置は躊躇われた。
監視や盗聴になってしまうようなことはしたくない。シゲンとも一致した見解だった。
「――ええ」
予想通りの返答に頷きつつ、サトミは言った。
「少し前から屋上にいるとは聞いています。私が知りたいのはいま現在の様子です」
通常、サトミたちは二〇分に一度、セキュリティセンターから報告を受ける。いわゆる定時連絡だ。
多くは「異常ありません」「分かりました」のやり取りに終始する。異常や緊急の事態が生じた時は、それに関係なく随時の報告が入るが――現状、それもない。
ならばまだ屋上にいるか、いなくても普通に夜を過ごしていると考えてよいはずだった。
そのはずなのに、胸騒ぎが収まらない。
聞けば、カズマが移動する度に現場から報告を受けるセキュリティセンターも、前回の報告から状況変化を伝える情報は受けていないという。
やはり、考えすぎなのかもしれない。
あの十代の若者たちには、時間をかけて話し合うべきことが抱えるほどあった。片方が一週間後にこの世からいなくなるというのである。夜を徹して語らいあったとして、なんらおかしくはない。
――こちらから現場に現在の状況報告を要請しますか?
内線の向こうで、オペレータが提案した。
「ええ、お願いします」
一度切ってこちらからかけ直しても良いが? という主旨の確認に、「このまま待ちます」とサトミは返した。分かりました。少々お待ち下さい。事務的な一言の直後、沈黙がおりる。
「――サトミ。やっぱり、そっちで何か心当たりがあんだね?」
やりとりを静観していたショウコが口を開いた。
「まだ半信半疑といったところよ。結論は三十秒待って」
実際に必要だったのはその半分の時間でしかなかった。サトミには十五分にも感じられたが、もちろんそれは極度の緊張がもたらした錯覚に過ぎない。恋人の緊急手術を終えオペ室から出てきた医者から、その結果が口にされるのを待っている。そんな心境にも似た、拷問のような時間だった。
お待たせ致しました。ややあって、オペレータの声が聞こえてきた。サトミの心臓が一拍、大きく跳ねた。電話を握り直す。
「聞こえています。報告して下さい」平静を装って言った。
申し訳ありません。幾分、トーンを落した声が告げた。なんらかのトラブルが発生したようです。現場と連絡が付かず、現在スタッフを確認に向かわせております。何かご指示がありますか――?
「スタッフを呼び戻して、代わりに救護班を急行させて下さい。恐らく彼らは負傷しています。警戒態勢をただちに第一種へ。以後は総員、別命あるまで待機」サトミは精一杯の自制心を振り絞り、最後まで言った。「私が直接、対応します」途中、半狂乱で電話を放り投げださなかったのは、自分でも奇跡だと思った。
「――サトミ?」
不穏な空気を感じ取ったのだろう。旧友の顔から一瞬にして血の気が失せていくのを見たのかもしれない。組んでいた脚をほどき、ショウコが立ち上がった。
と、瞬間移動のような唐突さで、彼女の傍らに白髪の人影が現れた。
現実感をあまりに欠いたその一瞬の出来事は、サトミに目の錯覚を疑わせるに十分だった。もし、彼に以前出会っていなければ、実際、自分の認識の方を疑ったに違いない。
だが、サトミはその幻獣の存在に関する予備知識を有していた。
錯覚でも、幻覚でもない。長く豊かなプラチナブロンドをなびかせて、長駆の男は間違いなくそこに立っているのだった。
「おう、雷切じゃん」
ショウコが驚いた風もなく男へ顔を向ける。
それもそのはず。彼は比雲翔子を〈雷帝〉たらしめる所以の一つ。〈封貝〉にして乗騎なのだ。
「どしたの、いきなり。なんかあった?」
雷すら切り裂くほどの俊敏性から〈雷切〉の異名を取る知性を持った〈封貝〉は、主の問いかけに無言で頷いた。
すなわち彼は人語を解する。また、今のように人間の姿を取ることもあり、その際は浅黒い肌にアルビノのような白い毛髪をなびかせた、巨躯の男として現れる。
だがその実態――真の姿が巨大な黒虎であることを、サトミは知っていた。
〈雷切〉が普通の虎と異なるのは――黒色、言葉の理解、変化といった論外の特徴を除けば――体毛に一切の縞模様を持たないところだ。全身のうち唯一、額の部分だけが鮮やかに白く、その下にサファイアを埋め込んだような鋭い碧眼が光る。
随分前になるが、その真の姿を一目見たときの、一種、感動にも似た念をサトミは今も胸に刻んでいる。
最大種の虎であるシベリアタイガーよりも優に二回り以上巨大な体躯と言い、縞の薄さ、鬣に似た体毛の豊かさなどと言い、その特徴には獅子と虎の交合種、ライガーを彷彿とさせる部分が多い。
「血の臭いだ」
その雷切が、人語でそう言った。
サトミには自動的に日本語として認識されたが、その唇の動きはまさしく〈あちら側〉で使われている異言語のそれだ。
「上の方から、強く血の臭いが漂ってくる」
「――ッ」サトミは自分同様、ショウコが小さく目を見開くのを見た。
黒い〈封貝〉が続ける。
「人間の血液だ。それから、もう一つ。こちらが情報としての本命だが――血の臭いに混じって、微かにシガー・イングリスの匂いも感じられる。かなり新しい残り香だ」
言葉を聞き終えるより早く、サトミとショウコは部屋を飛び出していた。
そっちに寄り道かよ! と思われたかもしれませんが…
えー、次回はちゃんと主人公たちサイドにカメラが戻りまして、今後の展開を決定づけるシーンまで描かれますのでご勘弁のほど。
ちなみにもう次回掲載分はできあがっておりますです。お楽しみに。