風が吹くとき
056
イノノハイ、ベアミドゥ、そして〈勇者〉クォーンの初動は打ち合わせるでもなく、しかし完璧なものだった。
まず、守りに定評のあるイノノハイ。
彼は初手の定石、防御封貝〈デルタ・ワン〉を召還した。
背後に控えた同胞と集落に被害が及ばぬよう、流れ弾と〈氷狼〉の攻撃のケアにあたる。
同時、ベアミドゥが口訣したのは、遠距離専用封貝〈フォックス・ツー〉だった。
そして、クレメンタインが状況を理解するより早く、彼が手にした突撃銃系は早々に火を吹いていた。
ぱんと手を一つ打つ間に、恐らくは数発から十数発。
かすめただけでも大男が振り回す棍棒に打たれるほどの威力があるという光弾が〈氷狼〉に殺到する。
なかでも圧巻は〈勇者〉クォーンであった。
彼に限って言えば、クレメンタインには何をしたのかすら正確には理解できなかった。
気付けば視界から消え去っており、そして気付かぬ間に最初の行動を完了させていたのである。
クレメンタインが見失った姿を発見したとき、彼は〈氷狼〉と握手できる位置にいた。
ほとんど瞬間移動か何かであったとしか思えない。
それほどの速度だった。
だが現実において、それはやはり転移ではなく超高速の移動であったのだろう。
見れば、ぐっと踏み込み大きく前傾しているクォーンの背には、左右一対の巨大な円筒がついていた。
ちょうど翼人が羽根を生やしているあたりか。
太さ、長さともにクレメンタインの太ももほどはあろうかという何かが、先端から繭のような紡錘形の噴射炎を噴いている。
それは間違いなく封貝であり、彼の超高速移動の推進力を生むものであった。
だが、クレメンタインが度肝を抜かれたのは、むしろクォーンはこちらを向いているという事実であった。
最初見た時は、その意味するところが分からず混乱した。
だが、やがて理解する。
すなわち我らが〈勇者〉は直線的にただ動いたのではなく、敵の背後へ回り込むようにして移動を完了させたのだ。
そして同時に、初撃をも繰り出し終えていたのだろう。
攻撃動作の残りからして、 腰の鞘から剣を抜き去りざまに斬るような横薙ぎであったに違いない。
だが――
「いねえ……」
ぼそりと漏れ聞こえたハイオーのつぶやきが、すべてを物語っていた。
当の〈氷狼〉がいない。
水晶が追えていない。
離れた壁の上から戦況を観察していたはずの物見すら、見失っているのである。
クォーンの一撃で跡形もなく消し飛んだのではないか――という楽観は、最初から捨てざるをえなかった。
何より、クォーンの表情がそれを許してくれなかった。
水晶ごしにもはっきり分かるほど、しかけた〈勇者〉自身が誰より動揺、驚愕――そして恐怖の表情を露わにしていた。
そのクォーンを除けば、最初に〈氷狼〉を見つけ出したのは門前の精鋭部隊だった。
息を呑む気配と声にならない悲鳴。
彼らの異変を察知した物見が、慌てたように視線をそちらへ移す。
そして、水晶がとらえるべきをとらえた。
「イノノハイ……」
振り返ったベアミドゥが呆然とつぶやく。
声こそ聞こえなかったが、唇の動きではっきり分かった。
呼ばれたイノノハイは〈氷狼〉と仲良く並んで立っていた。
二人は身を寄せ合い、一見、〈氷狼〉が親しげにイノノハイの肩へ手を回しているようでさえあった。
だがそうではないことに気付いてしまったとき、こらえきれず、遂にクレメンタインは悲鳴をあげた。
仁王立ちして同胞を守るイノノハイからは、頭部がそっくり失われていた。
かわりに、噴水のように鮮血が噴き出している。
肩に回しているように見えた〈氷狼〉の右腕はもちろん、親愛を語っていたのではない。
ただ、千切り取ったイノノハイの頭部を無造作に握っていたのだった。
一瞬あと〈氷狼〉は腕を振り、引っつかんでいたイノノハイの髪から指をといた。
くるくると縦回転しながら宙を舞い、首級は地面に落下した。
そのまま球のように転がった。
地面を覆った緑草に鼻先を埋めるように、下を向いてベアミドゥの足元でとまった。
すべてがなにかの冗談のような光景に見えた。
人間の頭部は、あんな風に転がるべきものではない。
あんな、質の悪い喜劇のように――
クレメンタインは自分が特に意味もなく、いやいやをするように首を振り続けていることに気付いた。
胴体と頭が分かれること。
それが何を意味するか。
イノノハイがこうまで簡単にあしらわれたことが示す未来。
もうなにも考えたくなかった。
理解したくなかった。
だが、状況は個人の都合などお構いなしに進行する。
皮肉にも、それは味方側の動きからはじまった。
即座に立て直したベアミドゥとクォーンが、戦士としての本能に衝き動かされるまま、次の行動に入る。
ベアミドゥは横っ飛びに身を投げながら、突撃銃型封貝の銃口を正確に〈氷狼〉に定める。
クォーンは再び高速移動に入り、常人の視界から消え去る。
地表近くから放たれたあと這うように進み、やがて急激に浮き上がると――万一の場合も――同士討ちを避ける軌跡を描き、上空へ抜ける。
一瞬の判断と計算で最適な射線を割り出すが早いか、ベアミドゥの封貝が怒濤のごとく光弾の射出をはじめた。
そうして釘付けにした敵の死角から、クォーンは突如として出現した。
と思ったときにはもう、必殺の一撃を叩き込んでいた。
あらゆる兵士が到達点として夢に見るような、完璧な連携。
だが、次の瞬間、それは夢に見るような地獄絵図に上書きされていた。
ベアミドゥの牽制、クォーンの斬撃。
これらは虚空を穿ち、薙ぐだけの空発だった。
つまりは、まるきり先ほどの焼き直しである。
そして前回の犠牲者がイノノハイなら、今度はベアミドゥの番であった。
オクスゥたちの連携を難なく躱した〈氷狼〉は、一瞬でベアミドゥの懐に入り込んでいた。
右手にはいつの間に召還したのか、抜き身の剣型宝貝が握られている。
しかし、少なくともクレメンタインには、〈氷狼〉がそれ以上の何かを行ったようには見えなかった。
ただ、鼻を付き合わせるほど間近に、真正面からベアミドゥへ迫ったのみ。
それも棒立ちに近く、攻撃の予備動作にも入っていない。
奇妙なのは、にもかかわらずベアミドゥの巨躯がふわりと少し浮き上がったことだ。
農耕馬あたりが悪戯心をおこして、軽めの体当たりをしかけてきた。
ベアミドゥは苦笑を浮かべながら「おっと」とそのおいたを受け止める――。
それは、そういったワンシーンを切り出した光景のようにさえ見えた。
それも次の瞬間、ベアミドゥの胴体が縦に割れさえしなければ、の話だった。
それは、ぼんと音が聞こえてきそうな弾け方だった。
切断面の縁から散った鮮やかな鮮血が、王冠のような波形の輪となって舞い広がっていく。
左右に割られたベアミドゥは、スローモーションのようにゆっくり時間をかけて飛び散らばっていった。
途中、それぞれが思い出したように再分割され、最終的には四つの肉片と化した。
それまでは冗談としか思えない眺めであったくせ、ばらばらと地上に落下したときだけ――帳尻を合わせんとばかり――やけに水っぽくリアルな音がした。
戦士としての経験が勝手に身体を動かしたのだろう。
このとき、友の死を眼前につきつけられたクォーンが、咄嗟に防御の態勢をとったのがクレメンタインにも見えた。
剣を盾がわりに構え、受けの型を取る。
強い精神的衝撃を受けながらも、本能は残ったのが自分だけであること、次が自分に来ることを理解していたのだ。
だが、まったくの無駄だった。
次に〈氷狼〉が現れたのは〈勇者〉クォーンのすぐ右隣だった。
警戒や防御体勢を嘲笑う領域の侵犯。
それが両者の間に横たわる次元違いの地力の差を示していることは、クレメンタインの素人目にも分かった。
まるきり大人と子どもだった。
それでも〈勇者〉は、〈氷狼〉が繰り出す次の一撃を受けきった。
代償として、剣は見えなくなるほど遠くへ弾き飛ばされた。
加えて、持ち手の右腕は本来曲がらない方向を向いている。
しかし一撃で殺されなかっただけでも、それは賞賛に値する奇跡なのだった。
今や、オクスゥたちはその現実を理解していた。
せざるを得なかった。
「俺は分かってたんだよ、蛆虫ども。やる前から結果は分かっていた」
ランコォル種から飛び降り、オウバルパが言った。
彼はゆっくり歩き出し、言葉を続ける。
「〈勇者〉? こんな雑魚を〈勇者〉とありがたがる馬鹿どもが」
一〇歩ほど進むとオウバルパは立ち止まった。
そうして冷ややかな視線を足元に落とす。
そこには這いつくばった〈勇者〉クォーンの姿があった。
〈氷狼〉の剣型封貝に腹の真ん中を貫かれ、昆虫の標本さながら地面に縫い付けられている。
オウバルパは靴底でその後頭部を踏みつけた。
直角に曲げた膝に肘を置き、ぐっと体重をかける。
「おうい、〈勇者〉さまぁ。もう終わりですかー。お前らの負け確定ってことで、俺らもうお前の部族の皆殺し開始していいんですかー」
その暴挙に同胞たちがざわめきだす。
抗議の怒号をあげる者もいたが、そうすることで己を駆り立てられるのはむしろ少数派だった。
最後の希望である〈勇者〉らが羽虫のように一蹴されたのだ。
多くは音が聞こえるほど完璧に心を折られていた。
武器をとり落とし、顔を覆って啜り泣きはじめた兵も少なからず見受けられる。
「最強の〈勇者〉さまー、民はまだお前に期待してるぞ。オラ、頑張れ。頑張れー」
オウバルパは手を叩いて囃し立てる。
と、血の海に沈んでいたクォーンの身体が微かに揺れた。
踏みつけられた顔は動かせない。
串刺しにされた胴は言わずもがな。
だが、痙攣するように震える左手が支えを探すように地を探る。
「はぁ? なに本気で頑張ろうとしてんだ、てめえ」
吐き捨てるように言うと、オウバルパは無口訣で白兵戦用封貝を召喚した。
全体がぼんやりとした青白い蛍光を発する、杖のようにも槍のようにも見える武器だった。
「シラケさせやがって。雑魚が無駄に気張ってんじゃねえよ、糞が」
低く言うと、オウバルパはその手の得物を無造作に一振りした。
刃を持たず、およそ斬撃には向かないであろうその封貝は、しかしチーズでも切り分けるかのように易々と〈勇者〉の首を撥ね飛ばした。
クォーンの頭部が正確に二回転し、胴体と完全な別れを告げる。
身体はそれを惜しむように一度目は大きくびくりと、二度目は力なく跳ね――そして二度と動かなくなった。
水晶の中で動くものは、もはや切断された頸部からとろとろと流れ落ちる鮮血だけだった。
イノノハイの時のような噴出でないのは、胴に空けられていた大穴から既に大方の血液が流れ出していたからなのだろう。
「これで勝負はついた」
言うと、オウバルパは軽くステップを刻み、転がったクォーンの生首を足蹴にした。
力を抜いた動作に見えた。
しかし、封貝使いという人外の力を受けたそれは、弾丸さながらの勢いで門前に陣取る精鋭部隊の群れに突き刺さる。
「というわけで、撤退はなしだ。オクスゥども、てめえらは予定通り今日これから死ぬ。年寄りからガキまで――腹んなかの赤ん坊だって、母親の腹かっさばいて引きずり出してきったりぶっ殺すから安心しろ」
全軍突撃の合図なのか。
オウバルパが右手をすっとあげる。
それを前に向けて倒し振ろうとした、そのときだった。
「待たれよ!」
封貝使いのそれとは違う、純粋な声量による叫びが周囲に木霊した。
クレメンタインまで届いた。
嫌な予感がした。
固唾を飲んで水晶を覗き込む。
「あぁ――?」
オウバルパが片眉を不愉快そうに吊り上げた。
そこへ大股に歩み寄っていく人影があった。
クレメンタインは予感の半分が当たっていたことを知り、目の前が暗くなるような錯覚を味わう。
進み出たのはオキシオであった。
だが、不幸中の幸いというべきかネネは伴っていない。
「なんだ、ジジイ。てめえ」
「貴殿が探していた者だ。チュゴ族のオキシオ。この名には聞き覚えがあろう」
反応は劇的だった。
かっと目を剥いたかと思うと、オウバルパはやがてその表情を凄絶な笑みへと変わっていった。
「そうか、てめえか」
オウバルパは自身を宥めすかそうとするように、周囲を忙しなく歩き回る。
「良かったぜ、あやうく知らねえうちにぶっ殺しちまうところだった。
――そうだ。他の奴らとごっちゃに死なせちゃいけねえ。てめえらだけは特別に手間かけねえとな」
「最初からこうすべきだった。貴殿の目的は本来、私であったはず。同胞は何の関係もないことだったのだ」
「違うね。お前だけじゃない。隊商はひとりじゃやれねえだろ」
言うと、オウバルパは後ろの部下に合図を投げる。
すぐに側近のひとりが小走りに駆け寄り、羊皮紙を手渡してまた戻っていった。
「オキシオを筆頭に巫女のネネ、戦士サイト、シス、オックス……外部の協力者もいるよな。封貝使いの〈赤繭〉。その一味」
広げたリストを読み上げ、オウバルパは目線を上げた。
「足りねえな。お前だけじゃ」
無表情を通していたオキシオの鉄仮面が刹那、揺らぐ。
「その隊商の代表は私であった。我らの一座がなんらかの問題を起こしたというなら、その責はこのオキシオが一身に負う」
「話にならねえ」
オウバルパは一蹴すると、肩をぶつけるほどの間合でオキシオの真横を素通りして歩き、集落へ数歩近付いた。
「オラ、出てこいや巫女ォ! サイト、シス、オックス! てめえの命惜しさにこそこそ隠れ続ける気か」
「姉様だめッ」
届くはずがないと知りつつ、クレメンタインは反射的に叫んでいた。
この展開で、姉巫女が黙っていられるはずもない。
案の定、願いは届かなかった。
「ああ……」
水晶のなかで、クレメンタインの危惧は現実のものとなる。
巫女の白装束が後方から味方の隊列を割って現れ、最前列に躍り出たのだ。
彼女はそのまま毅然としてオウバルパの元へと向かっていった。
そのすぐうしろには小柄な少年のシルエット――オックスも追従している。
現在、元隊商のメンバーで集落にいるのは彼らですべてだ。
シスは怪我が重くまだ帰れていない。
サイトは国に〈スリージィン〉の暴挙を伝え、鎮圧するよう掛け合うため、まだインカルシに残っている。
「ほう、これはこれは……」
オウバルパが値踏みするようにネネとオックスを見やる。
「随分とお若い巫女さんで。神殿の奥で蝶よ花よとさぞかし大事に育てられたんだろうなあ」
「――お願いです」
まるで相手の声が聞こえていないかのような、淡々とした口ぶりだった。
「私たちはどうなっても構いません。あなたが大切な人が亡くされたことで私たちに責任をお求めなら、誠心誠意お詫びします。
ですから、無関係の人をこれ以上巻き込まないで下さい。彼らは何の咎もないんです」
「はっ、聞いたかお前ら」
部下たちに向けて声を張る。
「小汚ねえてめえら相手に腰振って頑張りますから、他は見逃してくれとよ」
途端に〈スリージィン〉たちから下卑た笑い声と野次、指笛があがりはじめる。
「まったく、健気だねえ」
ぷらぷらとネネに近付くと、オウバルパは彼女の肩に馴れ馴れしく腕を回した。
吐息を吹きかけるように顔を近づけて続ける。
「なあ、巫女さん。女をよ、何十人とで取り囲んで休みなくガンガン犯りまくるよな? そうするとどうなるか、あんた知ってるか?」
回したオウバルパの手が、巫女装束の胸を乱暴にまさぐる。
「不思議なことにな、結構な割合で死んじまうんだよ、これが。別に首締めたり、犯りながら殴ったりじゃねえ。
いつの間にか反応なくなって、気でも失ったかとそのまま続けてたら、オイこいつなんか息してねえぞ、冷たくなってやがる――ってことになってんだ。ありゃなんでなんだろうなあ、巫女さんよォ」
ネネは固く目を閉じ、意図して思考と感情を遮断しているように見えた。
眉根にしわすら寄せず、耐えていた。
「おいおい、覚悟決めちまってるよこの女」
茶化すような口ぶりだった。
「心殺して人形になってりゃ済むってか? 俺らがそう考えた女に初めて会ったとでも思ってんのかね。
――おい、ナイフ持ってこい」
オウバルパが命じると、部下は即座に応対した。
このような場合に求められるナイフがなにかを完璧に把握しているようだった。
「巫女さんよ。お前、村を助けたいんだろ」
ネネが反応して目蓋を開く。
しっかりと頷いた。
「はい。そのためなら――」
「なんでもするんだよな」
分かっている、と鷹揚に頷く。
「じゃ、こいつでその心意気を見てくれや」
言うと、オウバルパはネネの肩に手を回したまま歩き始めた。
華奢な女性がその力に抗えるはずもない。
結果、ネネは移動を強要されることになる。
とはいえ、それは数歩の距離だった。
ふたりはオキシオの真正面、三歩の位置で立ち止まった。
「お前にこのナイフを貸してやる」
と、ネネの胸に革製の茶色いベルトが押しつけられた。
そこには刃物というよりもはや鉄串に近い、縦長のナイフがずらりと収められていた。
「この距離から、ジジイにナイフを投げろ」
その言葉で、無表情を貫いていたネネはあっけなく崩れた。
目を大きく見開き、正気を疑うようにオウバルパに顔を向ける。
「そうそう。そのツラだ。お前みたいに自分はどうなっても良いと思ってる奴は、これが一番効くんだ」
オウバルパはにやつきながら、ネネから身を引く。
そうして彼女が呆然と抱えた革ベルトに手を伸ばした。
ナイフを一本、ひょいと抜き取った。
それからオウバルパに微笑みかけると、表情を変えぬままいきなり右腕を振り切った。
手首をきかせた、手本とばかりの投擲だった。
ナイフは宙空に引かれた銀糸のごとく閃き、オキシオの肩口へ吸い込まれていった。
信じられないほど深く突き刺さっていた。
刃だけでは収まらず、持ち手の部分まで半分以上、肉に潜り込んでいる。
だが、老兵は悲鳴はおろか、呻き声のひとつも漏らさなかった。
こめかみに太い血管を浮かせ、意地で殺してみせていた。
「いいか、こうやるんだ。一本につきひとり見逃してやる。ジジイがぶっ倒れるか、死んだ時点でゲームは終了。狙いを外しても終了。浅すぎてしっかり刺さらなくても終了。
まあ、ルールはそんなとこだ。理解したか?」
「ぁ……」
許容限界を越えた展開に声さえ出ないのが傍目にも分かった。
ネネは自分が抱えたナイフの束に目を落とし、ついで脂汗を滲ませたオキシオを見た。
だが、そこに答えは書かれていない。
ついに視線は救いを求めて虚空を彷徨い、最後は焦点を失って拡散していく。
「おう、ガキ。オックスとかいったか? 暇そうだな。おまえ、どうする? 一〇数える間に巫女が投げなかったら、お前の指を一本ずつ切り落としていくってのに参加するのはどうだ?」
その言葉に、オックス本人ではなくネネが身体を震わせた。
直接は聞こえないが、歯の根があわずガチガチと音をあげているのが見るだけで分かる。
ついには決壊した涙が、青白い頬を静かに伝いだす。
だがおそらく、本人はそれに気付きすらしていない。
もはやまばたきも――呼吸すら忘れて凍り付いていた。
「オラオラ、どうすんだ」
「早く投げろや巫女ォ」
「ジジイ、簡単にくたばんじゃねえぞ」
痺れを切らしたのか。
それとも単に面白がっているだけか。
ネネの背中に〈スリージィン〉の野次が飛ぶ。
オウバルパも芝居がかった口ぶりでそこに加わった。
「――ああ、ナイフが足りなくなること心配してんだよな、巫女さんよォ? 心配すんな。その時は股開いて、俺の部下の相手しろや。一人あたり一本、ナイフ追加してやるよ」
野次にかわり、今度は歓声が膨れあがった。
おっしゃ、一番手は俺に任せて下さいよ。
目を血走らせて男たちが勝手な主張をわめきだす。
それをかき消さんとばかり、オキシオが声を張り上げた。
「構わん。投げてくだされ、ネネ殿!」
それで半ば意識を飛ばしてたネネが我に返る。
「……でも」
「やるのだ!」
オキシオは言下の元、口髭を震わせて畳みかける。
縮こまったネネの身体が、また叱られた子どものようにびくんと跳ねた。
「やるのだ」
オキシオは一転、優しい微笑で繰り返した。
「やらねばならない。ひとりの命とオクスゥの存亡。秤にかけるまでもない。
良く聞きなされ。肚の下に力を入れなさい。深くゆっくりと呼吸を繰り返すのだ。これだけ近くとも、それだけ震えていては狙いは定まらぬ」
「オラ、教えてくれてるぞ。巫女」
腕組みしたオウバルパがちゃちゃを入れる。
オキシオは無視して続けた。
「ナイフはペンのように握り、肘を立て、手首を使うことを意識して押し出すのです。ただし、腕の振りだけでは勢いを出せぬ。前に倒れる身体を支えるように踏み込み、その反動で生じた揺れの力を腰、肩、肘と順に伝播させるイメージで投げるのだ。それで回転せず真っ直ぐ飛ばせる」
耳には入っている。
だが、頭には届いていない。
水晶ごしのクレメンタインにすら、そのことが見て取れた。
どれだけ待ってもネネは投げられないだろう。
そんなことができる風にはできていない。
決断しようと、覚悟しようと、身体が拒絶する。
と、背中側からぬっと伸びてきたオウバルパの右手が、ネネの髪を乱暴に引っ張り上げた。
「あッ――」
思いがけず襲ってきた痛みに、ネネが悲鳴を上げる。
「まあ、時間切れだわな。分かってたよ、腰抜け巫女。てめえが何もできねえのは」
「その手を離せッ」
交渉決裂と見たか、オキシオが腰から聖剣〈イェルナンテ〉を抜き放つ。
クレメンタインの目に、彼の動きは封貝使いにも遜色ないように見えた。
姿を見失うほどではなかったが、それでも〝目にもとまらぬ〟という表現が許されるであろう速度で、一気に彼我の距離を詰めていく。
だがもちろん、オキシオはその――たった三歩超の――間合を踏破することすら許されなかった。
神速の〈氷狼〉が目では追えない速度で割り込み、〈イェルナンテ〉を構える左手を、根元から斬り落したのだ。
血飛沫が舞った。
オキシオの身体が傾ぎ、突進の勢いを殺しきれずどうと倒れ込む。
だが、オウバルパはもうそれを見てすらいなかった。
「おう、ジジイとガキ引きずって来いや。続きは〈分け火〉の祭壇前でやるぞ。お待ちかねの公開虐殺、公開陵辱タイムだ」
背後の軍勢に号令を出すと、自らはネネの髪を引っつかんだまま無造作に歩き出す。
足をもつれさせたネネが体勢を崩してもおかまいなしだった。
ぶちぶちと音が聞こえそうな乱雑極まる扱いは、まるきり荷物に対するものだった。
そのオウバルパを背後から氾濫河川の濁流がごとく呑み込み、〈スリージィン〉本隊が一気に集落へ押し寄せる。
もはや、オクスゥに為す術はなかった。
残った封貝使いは数名。
その彼らも、〈氷狼〉を前には烏合の衆に過ぎず、純粋に数の上でも敵方に圧倒されていた。
実際、精鋭部隊は先頭を駆ける〈氷狼〉に反応すらできなかった。
相手もこちらを一顧だにしない。
壁の遥か上空を突ききり、そのまま集落の中心部へと飛び去っていく。
本当の意味で、眼中にすらなかったのだろう。
それに屈辱を覚える間もなく、怒濤のごとく押し寄せた〈スリージィン〉の封貝使いたちに、精鋭部隊は次々と屠られていった。
瞬殺と言っていい、あっけないほどの瓦解である。
驚くべきことに、敵側には〈氷狼〉以外にも〈勇者〉クォーンに匹敵すると思わしき封貝使いが複数名いた。
彼らはオクスゥ防衛隊を一蹴すると、門と防壁の前に横一列の隊形で一旦停止した。
なにが起こるのか。
絶望の眼差しで見詰めるなか、彼らは個々に射撃封貝を召喚し、構えはじめた。
中には大砲としか表現しようのない代物を担ぎ上げる使い手もいる。
それらの砲口の周囲に無数の光の粒子が生じ、螺旋を描きながら収束していく。
半ば現実逃避しかけたクレメンタインの精神とって、その光景はもは幻想的にも映った。
美しくさえあった。
結果として、それが〈鷹の目〉の水晶が映しだした最後の光景となった。
直後、門扉と防壁は挨拶がわりの一斉射撃で消し飛んだ。
大気を震わせるような轟音が響き渡ったかと思うと、膨張する空間がが居並ぶ兵士たちを前から次々に吹っ飛ばしていく。
それは冗談のような光景だった。
人間がぽんぽんとテンポよく、しかし怒涛の勢いで高々と宙へ放り上げられていくのだ。
その衝撃波は、棒立ちで立ち竦むクレメンタインに迫り、ただちに飲み込んだ。
刹那、ぼっ――という音と共に、クレメンタインは灼熱の風に全身を炙られた。
凄まじい風圧が一瞬で周囲の空気を吹き飛ばしたのが分かる。
呼吸ができない。
目を開けていることもできない。
それでいて、暴風は固く閉じたクレメンタインの目蓋をこじ開け、隙間に入り込んでくる。
内側を炙る。
――眼球が沸騰する!
本能的な恐怖にかられ、クレメンタインは両腕で顔面をかばった。
と同時、どんという衝撃に頭部を激しく揺らされた。
両脚が地面から離れる。
世界が凄まじい加速度で何回転かした。
縦、斜め、反転、きりもみ……
途中、何度も何かに全身を打ちすえられ、クレメンタインは極度の恐慌状態に陥った。
平衡感覚などとっくに消し飛び、もはや自分の身体がどうなっているかすら認識できない。
どれくらいしてか、クレメンタインは長い眠りから目覚めたような感覚と共に、自分が地に伏していることに気付いた。
眼球は沸騰していなかった。
焼けただれてもおらず、なんの奇跡か目を開いた瞬間からすべてがくっきりと見えた。
もっとも、視界の景色はクリアとは言いがたかった。
濛々と砂煙が巻き上がり、かつて門や防壁であった物の砕片があちこちに散らばっていた。
周囲の建物はほとんどが骨組みを残して崩壊し、何割かは炎に包まれていた。
そこから立ち上る凄まじい量の白煙が、砂塵に入り交じって世界のほとんど全てを覆ってしまっている。
その煙の薄幕の向こう側で、無数の人影と熱に浮かされたような狂気が蠢いていた。
雪崩入ってきた凶賊どもが、爆発と共に崩壊した防衛部隊の蹂躙を開始したのだ。
悲鳴と泣きわめく声。
呪詛。
そして許しを請う裏返った絶叫がわんわんと木霊し、溢れかえっていた。
その阿鼻叫喚を賊たちの哄笑が美味そうに喰い散らかし、地獄絵図を生んでいる。
と、煙幕を突き破るようにして前方に人影が現れた。
破壊の限りを尽くす手下の仕事を眺めながら、悠々とここまで歩いてきたのだろう。
オウバルパその人であった。
その右手に、まだネネを毛髪ごと引きずっている。
「あ? なんだ、このガキは。そりゃ巫女の服だよな」
何気なく傍に向けたオウバルパの視線が、クレメンタインをとらえた。
「えっ」
荒れ果てた髪のネネが目を見開く。
彼女は動きが制限された顔を懸命に動かし、そしてクレメンタインを見つけた。
「――ッ! なんで……」
「ほう。お知り合いのようですな、巫女さんよォ」
頬へ切れ目を入れるように、オウバルパが鋭利な笑みを広げていった。
それで、ネネは自分の失策に気付いたようだった。
「違いますッ。その娘は――違うんです。人違いで……」
顔色を変えて叫びをあげるが、もう遅い。
「巫女版の妹弟子ってとこか」
オウバルパが口元に笑みをはりつけたまま言った。
視線は値踏みするようにクレメンタインに注がれ、やがてついと逸らされた。
「おう、てめえら」
背後に従う親衛隊らしきに声を投げる。
「そのガキ、ちょっと愉しんだあとで祭壇まで連れて来い」
「良いんですか」
「好きにしていい。ただ、やりすぎて殺すんじゃねえぞ」
言うだけ言うと、オウバルパは興味を失ったように前を向き、歩を進めはじめる。
「まっ……待って!」
ネネがやにわに騒ぎはじめた。
自分の髪を引っつかむオウバルパの手を両手でに握り替えし、全身を使って激しく暴れはじめる。
「お願い、待って下さいッ。その娘は違うんです。お願いですから。何でもします! 私なら何でもしますから、その娘は見逃して下さいッ。その娘は違うの」
だが、オウバルパはにやりとするだけで一顧だにしなかった。
歩調を変えず、無言でネネを引っぱっていく。
「ぁああぁっ……クレムッ! イヤッ、クレムクレム、逃げてぇ! クレ……お願い。お願いです、なんでもしますからッ。逆らいませんから。その娘はァあぁァアア――」
最後はもう言葉にすらなっていなかった。
恥も外聞も捨てた獣のような叫びだった。
喉をこうまで痛めつけてわめき、狂ったように暴れまわるネネの姿など、クレメンタインですらかつて見たことがない。
だが、その魂の絶叫すら、淡々と歩を進めるオウバルパによって小さな尾を引き――やがて完全に遠ざかってしまう。
その瞬間を待ち構えていたように、残った親衛隊たちが動きを揃えてクレメンタインを振り向いた。
ぎらついた眼光、ねばついた視線が、全身に絡みついてくる。
「とりあえず、俺が最初ってことで良いよな」
親衛隊のひとりが、ふたりの仲間たちを見やった。
顔も体躯も妙に縦長な男であった。
「物好きだねえ、おめえも。こんな男も女もねえ棒きれみたいなガキのなにが楽しいんだか」
「分からないかねえ。この未分化な時期にこそ、人間の純粋さが凝縮されてんだよ。人間よりむしろ神にちけえのさ」
「なんでも良いが、おめえはあとにしろやプィル。てめえが好き放題やらかしたガキは大概、なんも反応ないぶっ壊れた人形みたくなるじゃねえか」
「そうよ、ピィル。最後はおめえにやるからよ。まずは色々、俺らに反応楽しませてからにしろや」
まるきり玩具の取り合いだった。
逃げ――なくては。
ようやく、クレメンタインはそのことに思い至った。
そうだ。
姉様も言っていた。
あんなに切願していたではないか。
逃げて、と。
クレメンタインは身体に力を込め――そして、そこで終わった。
腰から下が痺れたように反応しなかった。
大穴のあいた瓶へ水を注ぐように、込めた力がそのまま抜けていく。
手足がばたつくだけで、前に進めない。
立ち上がれない。
「無理だ。諦めな」
言葉と共に長衣の裾を踏みつけられた。
「まずは、俺にコレクション集めさせろや」
にたつく男は、アクセサリと思わしき数珠つなぎのなにかを持ち出し、自分の眼前に掲げる。
うっとりとした目で魅入っていた。
それがなんであるかに気付いた瞬間、クレメンタインは自分がこれからどのようなめに遭わされるかを理解した。
それは切断された人間の耳だった。その束であった。
あたかもピアス用の穴のごとく耳たぶに穴をあけ、そこに紐を通している。
特殊な加工をしているのだろう。
耳は腐りも干涸びもせず、樹脂で固められたかのような艶を放っていた。
恐怖で声も出なかった。
崖の上で誰かに背中を押される悪戯を受けたときのように、ひゅんと心臓が縮まった。
思考が止まる。
血が氷水になったように全身が冷える。
あらゆる筋肉ががちがちに収縮し、身動きが取れない。
耳削ぎの男が、腰から鉈のようなナイフを抜き取った。
「やめろおぉぉ――っ」
突如、甲高い叫びが響き渡り、小さな人影が飛び込んできた。
闖入者は真っ直ぐ耳削ぎの男に向かい、ぶちかましをしかける。
勢いに押され、男は後ろへ二、三歩よろめいた。
「オアァ!」
ハイオーがすぐ目の前に立っていた。
愛用の多目的ナイフをやたらめったらに振り回し、背にクレメンタインをかばおうとしている。
「なんだあ、このガキァ」
耳削ぎの男が色めき立つ。
「おう、小さな騎士様のご登場だぜ」
「来てくれたのね。私、ときめいちゃうってか?」
片や、他のふたりは状況を愉しむようであった。
しなを作り女性口調を真似て茶化す。
「でもなあ」
と、語尾を引っぱった縦長の男が――
刹那、ブレて見えた。
えっと思ったとき、ピィルと呼ばれていた男はハイオーの懐深くに侵入していた。
突きだした顔をキスでもしようかというほど近づけ、挑発的に少年の双眸を覗き込んでいる。
その左手はハイオーのナイフを指先で摘まむように捕まえていた。
「世の中、そう感動的にはできてねえんだよ」
凄みを利かせた低音で続けると、男は裏拳を一気に振り抜いた。
ゴンという嫌な音が生々しく響き渡った。
咳と一緒に吐き出される痰さながらに、赤黒い血の塊がとんでもない方向へすっ飛んでいく。
ハイオー自身の身体も大きく宙を舞っていた。
大股で三歩分ほどの距離を飛び、声を発することもなく落下した。
衝撃で頭部が一度、大きくバウンドしたのが分かった。
驚くべきことに、それでもハイオーは意識を保っていた。
朦朧とすらしていない。
ただ、鼻から顎にかけてが全て、血の色で染まりきっていた。
開いた口の中も赤一色だった。
「おお。この坊主、なかなか根性あるじゃねえか」
「ピィル。おまえ、拳軽いんじゃねえの?」
「うるせえ。良いから、てめえらは削ぐなりなんなり、巫女に取りかかれや。ぐずぐずしてると俺が犯っちまうぞ」
からかわれた縦長の男が仲間に怒鳴り返す。
「やべろォ」
鼻を潰されたのか、ハイオーが濁った叫びをあげる。
「てめえもうるせえんだよ、小僧」
ずかずかと大股で近付き、縦長の男は少年の背に振り上げた足を落とす。
「はーい、嬢ちゃん。騎士様に見えやすくしてやろうねえ」
猫なで声で小太りの男が近寄ってきた。
ひっという悲鳴が喉に詰まる。
それが、クレメンタインに可能だった唯一の反応であった。
直後、両脇に手を差し込まれ、クレメンタインはぐいと引っぱり起こされた。
そのまま羽交締めの要領で動きを封じられる。
一瞬の出来事だった。
男は岩のように揺るぎなく、微動だにできないばかりか、凄まじい締め付けが生む痛みで抵抗そのものを許されなかった。
「よぉく見とけや、ナイトの坊主」
耳削ぎの男が、ハイオーに向けて誇示するようにナイフを見せつける。
「心配するな。落とすのは片方だけにしといてやるよ。なんならお前が選ぶか? 右にするか左にするか」
「やめろッ、やめてくれ! 頼むから……耳は、耳がいるなら俺のでも良いだろッ。俺のなら両方だって良いから!」
耳削ぎはにっこりと笑い、
「だめだね」
楽しげに言った。
それから反転し、ゆっくりとクレメンタインに向かいはじめた。
その影が覆い被さるように迫ってきた。
「さっきの巫女といい、みじめなもんじゃねえか。なあ、坊主。泣いて命懸けで頼んでも、絶対に助からねえ。さんざん玩具にされて、最後はゴミみてえに殺される」
ハイオーを踏みつける縦長の男が、どこか淡々とした口ぶりで言った。
クレメンタインは麻痺した神経で、それをどこか遠く聞いていた。
冷たく光るナイフが近付いてくる光景を他人事のように眺める。
周囲では瓦解した防衛隊が逃げまどい、だがあっけなく賊徒たちの凶刃に倒されていく。
もはや戦の体を成していない。
闘いの図式が成立していない。
オクスゥたちは絶望的な戦力差に、戦意を根刮ぎ奪われている。
賊らの一部は、既に集落の中心部にまで雪崩れ込んでいた。
制空権も、もはや飛行する〈スリージィン〉の封貝使いたちの手に墜ちていた。
彼らは中枢へ進みながら、雨霰と銃弾、砲弾を地表へ叩きつけている。
連中の狙いは建築物に絞られており、それを上から瓦礫の山に変えることで中に隠れている住人たちを炙り出すことに成功している。
そうして逃げ出してきた人々は、待ち構えていた地上部隊に片っ端から血祭りに上げられていく。
ただし〈スリージィン〉のけだものたちは、宣言していた通り簡単には命を奪わなかった。
引きずり倒し、泣いて許しを請う女や子どもたちの動きを封じて、指を斬り落している。
偏狂なまでにそこにこだわっていた。
その後、殴り、犯し、完全に屈服させては、〈分け火〉の祭壇のある中央広場へ人々を集めていく。
家畜を屠殺場へ送るように。
そこにはもう、牧歌的なオクスゥの集落などなかった。
陽だまりのようにあたたかな場所。
クレメンタインの知る故郷ではなくなっていた。
一部は既に、残りはこれから、永遠に失われるのだ。
人。
場所。
思い出の染みついた家々も。
身体も、心も、魂も、尊厳も……全てを否定され、蹂躙され、焼き払われる。
今日、チュゴ族は滅びるのだ。
自分も死ぬのだ。
その意味を、無惨に崩壊していく日常を見てはじめて、クレメンタインは理解した。
今こそ本当の意味で思い知った。
右耳の付け根にひやりとしたものを感じた。
ナイフの刃が触れたのだろう。
薄皮が切れたのかもしれない。
ちりと灼けるような感覚が走る。
そこでぴたりと動きを止めた耳削ぎが、これみよがしにハイオーを振り返る。
「ほうら、落としちまうぞぉ」
ハイオーはもう叫ばなかった。
顔を俯け、声を押し殺して泣いていた。
ぼたぼたと雫が下に落ち、土の地面に染みを作っていた。
手にしていたはずのナイフはもう見当たらない。
代わりにその拳は、掻きむしった土を強く握りしめていた。
白く関節を浮かせ、震えていた。
「おら、しっかり見とけや」
ピィルと呼ばれていた男が上から手を伸ばし、ハイオーの髪を乱暴に掴み上げた。
強引に少年の顔を上げさせる。
「悔しいなあ。無力だなあ? おら、耳がなくなるぞ。その後は俺の番だ。おまえはなんにもできねえなあ? 見てるだけだ」
煽る声で、ハイオーの顔がぐしゃぐしゃになっていく。
大粒の涙が勢いを増してあふれ出した。
ネネとときと同じ、もう人間のそれとは思えない、喉の奥から絞り出すような慟哭の叫びが漏れ出している。
最後に見る光景がこれなのか――。
これまでの人生など無意味なものにしかならないほどの苦痛を与えられ、陵辱の限りを尽くされ、地獄のなかでゴミとして死んでいく。
それほどの罪をおかしたのだろうか。
オクスゥは、自分は、こんな目に遭わなければならないほどの何をしたのだろう。
なぜですか。
どうしてですか。
女神イレスに問うた。
答えは返らない。
ハイオーが叫んでいる。
肌を切り裂いた刃が、薄い脂肪をかきわけ、筋繊維を断ちはじめた。
クレメンタインは、自分もまた悲鳴をあげていることに気付いた。
恐怖。悔恨。激痛。哀願。絶叫。呪詛。逃避。慟哭。発狂。虚無。崩壊。
ありとあらゆる負の想念、激情が渦を成し、頭蓋のなかを暴れ回る。
祈りの言葉も浮かんでこない。
なにかを望むことすらできない。
もう二度と戻らない。
帰れない。
取り返しの付かない領域まで闇が侵蝕しはじめる。
そんなとき――
彼は来た。
耳削ぎの両肩に一つずつ、紅いなにか煌めいた。
瞬間、目の前から耳削ぎがかき消えた。
代わりに、誰かの後ろ姿が現れていた。
ぼろと視界を滲ませていた涙が滴となって零れ落ちたことで、その人物の姿がはっきり見えるようになった。
最初に眼を引かれたのは、微かになびく黒髪だった。
それから、痩躯なのにやけに広く見える背中。
鈍い輝きを放つ金属製の黒い右腕。
「遅くなってごめんね」
涼やかな声が言った。
それが彼の発した声なのだと――ハイオーに投げられたものだと理解するまで、少しかかった。
「勝てないって分かってる相手に、きみはひとりでがんばった」
と、遅れてドンという重たい落下音が聞こえてきた。
黒腕の彼より向こう――倒れたハイオーとそれを踏みつける縦長の男よりも更に視界の奥まったところへ、吹っ飛ばされた耳削ぎが落ちた瞬間だった。
「だからここからは、ワイズサーガを使えばいい」
その言葉が、何かを洗い流していったのが分かった。
だしぬけに心の中を風が吹き抜けていったような感覚だった。
夏に、麦藁帽子をさらっていくような突然の風。
それは今、帽子を蒼穹高くへ舞いあげるのではなく、クレメンタインの全てを埋め尽くした闇、絶望をさっとさらい、欠片も残さず一掃する。
気付けば自分の中からあっけなく恐怖が消え去っていることに、クレメンタインは気付いた。
悲鳴はいつの間にかやんでいた。
「僕は、そのために来たんだ」
彼が言った。
――それはきっと、伝説として語り継がれる何かのはじまりを告げているのだと、分かった。




