猜忌の祭器
050
目を覚まして二分は経つだろうか。
エリック・J・アカギは、ぼんやりと虚空を見つめていた。
ほとんど焦点はどこにも合っていなかったが、客観的には天井の染みでも数えているように見えたかもしれない。
寝起きに頭が働かないのはいつものことだ。
しかし今日は常になく頭がすっきりしない。
熱に浮かされたような酩酊感が頭の芯に残っていた。
本当に熱があったことを知ったのは、直後だった。
身じろぎした瞬間、額から絞った手拭いがずり落ちた。
手にとってみると温い。
だが、乾いてはいなかった。
もぞもぞと起き上がる。
その拍子に毛布がめくれると、剥き出しになった上半身に冷気が鋭く突き刺さった。
たちまち鳥肌がたつ。
それですっかり目が覚めた。
思考を妨げる靄が晴れ、頭が回り始める。
慌てて毛布をかき寄せながら、状況の整理にかかった。
まずは時間だ。
今は何日の何時なのか。
しかし、石作りの狭い個室には窓がなく、陽の高さからそれを計り知ることはできない。
そもそも自分はなぜ眠っていた――?
すぐに答えに辿り着きかけたが、最後のところで思考が拡散してしまう。
出そうで出ないくしゃみと同じ感覚だ。
そうこうしているうちに、一つしかないドアが向こう側から開かれた。
ひょっこりとナージャが顔を覗かせる。
「おっ、エリック。お前、起きてたのか」
「――ナージャさん」
彼女は遠慮とは無縁の足取りで部屋に入り込んできた。
近くにあった小さな丸椅子を引き寄せ、どかりと腰を落ち着ける。
瞬間、冗談のように弾むその巨大な胸が嫌でも目についた。
「具合はどうだ。良くなったか?」
「あ、ええ……」
慌てて目を逸らす。
女性はこうした異性の目に、ほとんど一〇〇パーセント気付いている。
そう聞くが、ナージャは例外だと信じたかった。
「えっと、このタオルはナージャさんが?」
「帰ってきてからはな。ただ水で濡らすより、私の〈*旋火の綾〉の回復液を使った方が良くないかって、ダーガが言いだしたのだ」
「それは……すみませんでした。お手をおかけしたみたいで」
「熱は下がったのか」
「あ、はい」
答えながら、反射的に額へ手を当てる。
常温であった。
「あの、僕は熱を出して寝込んでたんですか?」
少し迷ったあと訊いた。
案の定、ナージャは怪訝そうな顔をする。
「覚えてないのか?」
「ええと――はい。すみません」
つい謝ってしまう。
「今、何時くらいですか? どれくらい寝てたかも分からなくて」
「今は、お前が倒れた次の日の夜だ」
言った後、彼女は目をきらきらさせながら前のめりに続けた。
「今日はなあ、私とダーガはドリュアスに頼まれて怪物を二匹狩りに行ったのだ」
「怪物?」
詳しく聞いてみると、獲物は屍肉を食らう食屍獣のことらしい。
この拠点にも現れた、あのおぞましい巨獣だ。
「それでな、遂にダーガが〈第二移動型封貝〉を出したのだ! 見たこともない珍しいやつでな。
二匹目はダーガがそれを使って、ほとんど一人で倒した」
「えっ……」
「凄いだろう」
我が事のように胸を張っている。
「カズマくんがですか? 彼がひとりで?」
「うむ」
一瞬、頭が真っ白になる。
衝撃だった。
カズマが戦闘で活躍したということにではない。
その事実を聞いて、喜ぶのではなくショックを受けた自分に、呆然としていた。
胸の奥で何か黒いものがじわりと広がる感覚。
これじゃまるで――
その思いの正体に気付いてしまう前に、エリックは無理やり口を開き、言葉を発することで思考を中断した。
「あの――みんな平気でしたか? 怪我とかは」
「心配するな。私が守ってたからな!」
ナージャは何も気付かぬ様子で再びふんぞり返る。
「あ、そうだ。お前にも一応言っとくけど、予定通りなら明日ここを出発することになったからな」
「そうなんですか?」
「うむ。今朝、街に行って〈イス教団〉が出たって報告の手紙を出してきたからな。連盟の支部には、名前を書かずに何でも意見を書いて入れられる〈ご意見ポスト〉みたいなのがあるそうでな。それを使ったのだ。
そのポストは一日置きに開けられる決まりで、クゥガーは、予定通りなら明日がその開ける日だと言っていた」
――〈イス教団〉現る。
このタレコミに、連盟は即座に対応するだろう。
少なくとも、ワイズサーガの大人陣はそう考えているようだ。
ナージャはそう続けた。
なにせ〈イス教団〉の出現は第一級の緊急事態だ。
即座に高ランクのレイダーに招集がかかり、調査団が結成される。
これは間違いない。
そして調査団は即日、現場へ派遣されるはずだ。
そこには支部長クラスの幹部の顔すらあるかもしれない。
――南砦がやられたとすれば、北はどうなのか。
連盟が、最初からそこまで考えてくることも確実だ。
少し距離があるとはいえ、北側にも絶対に調査隊を送ってくるだろう。
もちろん、レイダーと〈スリージィン〉は一触即発の危険な関係にある。
普段なら決して両者は交わろうとしない。
しかし、それもこれも今回は何ら問題ではなかった。
〈イス教団〉の脅威を前にすれば吹っ飛ぶ些事だ。
「ポストが開けられるのは窓口が閉まった後――夕方らしいから、調査隊が動くのは最短でも明日の夜、たぶん明後日の朝近くになるだろうとケイスたちは言っていた。だから、私たちはその前に出発しないといけない」
耳には入っていた。
だが、頭には響かない。
言葉が素通りしていく感覚だった。
砦。
〈イス教団〉。
現場。
それらの言葉が、いやおうなくエリックにフラッシュバックをもたらしていた。
言葉通り、脳裏に閃光のごとく数々の情景が蘇る。
焼きつけられる。
気付くと、エリックはぜえぜえと声をあげながら荒い呼吸を繰り返していた。
剥き出しの背中にびっしりと珠のような汗が噴き出す。
突然、見えない手で真正面から首を絞められたようだった。
うまく空気を吸えない。
抵抗できない。
全身の筋肉が収縮し、硬直し、その恐るべき麻痺は思考まで侵蝕していく。
「おい、エリック。お前大丈夫か」
異変に気付いたナージャが、声のトーンを変えて問うてくる。
椅子の足が地を擦る音があがると、彼女の気配が近付いてきた。
「顔真っ青だぞ。まだ平気じゃなかったのか」
「い……や、大、大丈夫です」
目を閉じ、手で自分の首筋に触れながら言った。
なんとか声を絞り出すことに成功した。
「どう見ても大丈夫そうじゃないぞ」
「ほんと……、気にしないで。しばらくすれば……収まります」
「そうか?」
顔は見えなかったが、あからさまに信用のない口ぶりだった。
「〈イス教団〉の――南のアジトで見た――ことを思いだしたんだな?」
「ええ……すみません。ちょっといきなり、だったんで。身体が、驚いて……驚いたみたいで」
「まあ、あれは確かに凄かった。酷かったというか。ダーガもしばらく顔色が悪くなって黙ってたからなあ」
「えっ」
一瞬で脂汗まみれになってしまった顔で、ナージャを振り仰ぐ。
その反応で、ナージャは失言を悟ったらしい。
あからさまに「しまった」という表情を見せた。
「あー、私たちもアレを見てきたっていうのは秘密にしとくんだった。ダーガに怒られる」
表情を引き締めると、真剣この上ない声で言った。
「今、私が言ったの内緒な?」
「ええ……」
うなずくと、ナージャはそそくさと立ち去っていった。
しばらく、彼女が消えていったドアを眺める。
どれくらいそうしていたか、ややあって、今度は見慣れない娘が現れた。
まだ少女の面影を残す、小柄で気の弱そうな人物だった。
山賊たちに捕まっていた女性たちの一人だ。
彼女とは片言の共通語と身振りで、なんとか会話を成立させることができた。
この異世界に来てから、もう一週間以上は経っただろうか。
勉強の成果もあり、日常会話なら何となく理解できるようになってきている。
エリックは、娘が持ってきてくれた清潔な着替えをありがたく受取った。
「夕食はとれそうか」という問いには「否」と返す。
熱冷ましの手拭いを回収するというので、こちらは礼の言葉と共に返却した。
以上の用件を済ませると、娘はお化け屋敷の出口に向かうような足取りで去って行った。
男に恐怖や嫌悪があるのか、エリック個人が嫌われているのか――どちらであれ時間がかかる問題だろう。
立ち上がり、交換された手拭いで汗を拭いた。
さっぱりすると、着替えに手を延ばす。
綺麗に畳まれた服は、フ=サァンの伝統衣装だった。
上着は、浴衣に似た長衣で、腰帯で前をとじ合わせる。
和服と違い、こちらではこれに長ズボンを合わせる。
これは遠目にカーゴパンツのようなシルエットだった。
ここ最近はこちらの衣服を利用する機会が多かった。
もはや着替えに苦労はない。
窓のない部屋に長くいたせいか、外の空気を吸いたくなった。
昔から、休みは外出しないと落ち着かないタイプだった。
インドア派を理解できない。
なんとなく他人とは顔を合わせたくなかっため、とりあえず屋上に向った。
だが、こういう日は何もかもが思いどおりにいかない。
屋上には先客がいた。
カズマである。
ある意味、今もっとも気まずい相手だった。
彼は向かって一番奥の石壁に腰かけていた。
こちらに背を向ける格好で何かを演奏している。
ハープに似た、こちらの世界の楽器だ。
双子の月から降りそそぐ光を弾き、震える弦がきらきらと輝いている。
カズマがあの楽器に触れたのは一、二度だけだろう。
しかし、もう一〇年は使い込んでいるような熟練の手さばきだった。
宝石箱をひっくり返したような星屑煌めく夜空を、旋律が満たしている。
その流れの中をたゆたうように、森の精霊がカズマの周囲をゆらゆらと優美に漂っていた。
と、通り雨が止むように、演奏がぴたりと止まった。
最初にドリュアスがエリックに気付き、釣られるように手を止めたカズマがこちらを振り向く。
「エリックさん……」
つぶやきにも似た声が、夜風にのってエリックの耳に届いた。
こうなると反転して逃げるわけにもいかない。
エリックは二人の元へゆっくりと歩み寄っていった。
「起きたんですね。具合はどうですか?」
腰ほどの高さの外壁上で、カズマは器用に身体の向きを変える。
エリックと向き合う形で訊いた。
「ありがとう。体調は悪くないよ」
「それなら良かった。気を失ってから丸一日も寝込んでたから、ちょっと心配してたんですよ」
「迷惑かけちゃったみたいで。ごめんね」
「いやいや。あれはしょうがないですよ」
カズマは片手で楽器を支えたまま、空いた方の手をぱたぱたと振った。
「宗教で頭おかしくなった人たちの拷問部屋なんて、いきなり見ちゃったらそりゃ気が遠くなるのも無理はないっていうか。むしろ当然の反応でしょう。僕だって、もし迂闊に目に入れてたら即座に気を失ってましたよ」
全身の筋肉が強張り、表情までもが凍り付くのを感じた。
顔から血の気が引いていくのも、気持ち悪いほどリアルに自覚できる。
――嘘だ。
頭の中で、もう一人の自分が喚き始めた。
――エリック。お前はさっき、ナージャの口から事実を聞いた。
聞いたばかりだ。
彼らも現場を見たと。
彼は見たんだ! 同じ物を。
その指摘は事実だった。
「私たちもアレを見てきたっていうのは秘密にしとくんだった」
「今、私が言ったの内緒な?」
ナージャの言葉は確かに覚えている。
だからこそ、疑問に思わずにはいられない。
なんでだ。
真っ白な頭で、その言葉を何度も繰り返した。
なんでだ。なんでだ? なんでだ!
なんで、カズマは嘘をつく?
なんで、見たことを秘密にするようナージャに言い含めた?
――もう分かってるんだろう? エリック。
再びもう一人の自分が、今度は威嚇するように歯を剥き出しにし、唾を吐き散らしながら糾弾する。
――お前は無様に四つん這いになって、ゲロに塗れてひいひい言いながら泣くしかなかった。
最後は気を失って運ばれて帰った。
だが、カズマやナージャは違ったんだ。
そんな失態はさらさなかった。
多少は狼狽えたかもしれない。
だが受け止めた。
熱を出して寝込むこともなかった!
分かるだろう、エリック。
お前は――俺たちは――
「あー……カズマくん?」
思考が致命的な回答を弾き出してしまうより一瞬早く、エリックは口を開いた。
また無理やり考えを振り払い、カズマの右隣に歩いて並ぶ。
石積みの壁に両手を置いて、眼下に広がる山林を睥睨しながら訊いた。
全身が硬直し、顔から能面のように表情が失われたのは一瞬。
月明かりの下では、気のせいで済む範囲だろう。
そう信じ切って言葉を紡ぐ。
「ナージャさんから聞いたよ。明日、ここを出るんだって?」
「あ、そうなんですよ。すみません、なんか急な話で」
「いや、事情を聞く限り正しい選択だと思うよ。こっちこそごめん。こんな大変な時に寝込んじゃったりして。準備とか全然手伝えなかった」
「僕も準備はあんまり手伝ってませんよ。今日は外出してましたし」
「そっちの話も聞いたよ。なんでも、あの死体を食べる恐竜みたいなの、一人で倒したんだって?」
エリックは笑顔を作ってカズマを直接見詰めた。
やるじゃないかと、はしゃぐように肘で突く。
「ナージャ、そんなことまで喋っちゃったんですか? まったく」
そうは言いつつ、カズマは満更でもなさそうだった。
「カズマ様、聞こえますか?」
だしぬけに、何もない空間からエリナー・フォウサルタンの声が聞こえてきた。
「あ、はい。聞こえます」
カズマが虚空に向かって応じる。
だが、よくよく見ると違った。
ずっとそうしていたのだろう。
彼の背後の空中に、テニスボール大の白い球体が浮いている。
カズマはそれをむんずと掴み、マイクのように口元へ寄せた。
「どうかしましたか?」
「夕餉の準備が整いました。ホールにおこしください」
「あ、はぁい。すぐ行きまーす」
にこやかに応じると、通信終了ということだろう、また〈*ワイズオレイター〉を少し離れた空中に戻す。
今や、この不思議な球体は、音声を双方向に伝えることができるという。
相手にも同じ物を渡しさえしておけば、一種の携帯電話として機能するも同然だ。
有効範囲もどんどん伸びてきていて、今では安定して一〇〇メートル前後は音を飛ばせるようになっているらしい。
能力が向上しているというよりは、未熟なうちは制限されていた力がどんどん本領を取り戻しつつあるのだろう。
カズマはまた新しい封貝に目覚めたと言うから、呼応するように〈*ワイズオレイター〉の性能もさらに上がっているかもしれなかった。
「エリックさん、晩ご飯ですって」
「うん、聞こえてた。でも、僕はいいよ。起き抜けだからかな。まだちょっと食欲がわかないんだ」
言うと、カズマは一瞬間を置き、やがて口元から笑みを消した。
そして神妙にひとつ頷いた。
まだショックがあるんですね。分かります。
言葉が聞こえてきそうな、理解と同情の表情だった。
間違いなく、善意からくる気遣いであったのだろう。
それは疑う余地もない。
だが、エリックの胸に走ったのは、痛みにも似たチリつきだった。
「じゃ、エリックさんの分はとっておくようにお願いしときましょうか? あとでお腹空いたときに食べられるように」
「ああ、そうしてもらえると助かるなあ。ごめんね。お願いします」
無理やり笑みを浮かべ、エリックはなるべく穏やかに言った。
翠緑の貴婦人を引き連れカズマが去って行く。
木製の重たい扉が向こう側から閉じられ、それからたっぷり三分は経っただろうか。
「……ッ!」
声にならない叫びと共に、エリックは拳を壁に叩きつけた。
――分かるだろう、エリック。お前は――俺たちは――
必死に押さえつけていた蓋が暴れ出し、ついに弾け飛ぶ。
自由を得たもう一人の自分が、低く冷たく告げた。
エリックはついにその言葉を聞いた。
――憐れまれたんだよ。
左手に続き、右手でも壁を打つ。
それでも収まりきれぬ激情に駆られ、最後は額さえ叩きつけた。
灼けるような痛みと共に湧き上がってきたのは、不思議と笑みだった。
これまでずっと、選ばれた人間として生きてきた。
今日に到るまでの半生に憐憫の情が関わることがあったとすれば、それは自分に挑み、破れ、道半ばにして挫折していった人々へ、こちらから投げかけるものとしてだった。
それがまさか、自分が憐れまれる側に回るなど考えもしない。
もちろん、「自分は常に憐れむ側の人間」などと傲慢に思っていたわけではない。
むしろ、己の未熟とは常に向き合ってきた。
もっとも成功した野球でさえそうだ。
世の中は広い。他校の選手を見て純粋にそう思わされたことも一度ばかりではない。
そんな彼らに試合で敗れることだって、もちろん経験してきた。
好機で打てず眠れなかった夜もあった。
自分の失策が敗戦――大会からの敗退に直結したことすらある。
そのことで他人から慰め、あるいは励ましの声をかけられたことだって珍しくもない。
「残念だったねえ」、「でも来年があるからね」。
周囲の人間が無責任に吐くそれらの言葉は、解釈のしようによっては憐憫に近いものとして扱えただろう。
だが、こうまで全てを否定されたような気にはならなかった。
屈辱、侮辱、恥辱……
文字通り辱めを受けたように感じられるのはなぜか。
今回に限って、負の感情がわき上がり止まらないのは。
なぜこんなに――
そこまで考えたところで、ふと違う疑問が湧き上がってきた。
自分は、どこかで楠上カズマという少年を見下していたのだろうか。
それは、ある意味でそれそのものが答えになっている問いだった。
だから、憐れまれたことにこうまで衝撃を受けているのだろうか。
彼以外の人間から同じ目を向けられたとして、これほど打ちのめされただろうか?
――そうだ。その通りだよ。貧弱精神力の赤木エリック君。
もうひとりの自分が、待ち構えていたように言った。
――お前は、楠上カズマだけには、憐れまれたくなかったのさ。
気付いてるはずだ。
それは、彼があの千葉ヨウコにとって特別な存在だったからだと。
彼女の口からカズマという名を聞く度、余裕の表情を装いつつ、実際には嫉妬していた。
深く自尊心を傷つけられていた。
やがてカズマという男を脅威として認識するようになったが、一方で幼馴染という要素以外、男として劣る要素がないことを内心、誇ってもいた。
甲子園のスター。
地元の英雄。
だがそんなお前も、異世界に来ればお荷物の無能力者に早変わり。
なんの役にも立たないどころか、生っ白い帰宅部や、女の子ですら平気だった物を見ただけで泡ふいて失神ときた。
そして、お優しいカズマたちに気をつかっていただいたんだよ。
これ以上、無力感を持たれて自殺でもされちゃ迷惑だからな。
本当は、随分前から気付いていた。
もし、この世界で千葉ヨウコを見つけ、救える男がいるとしたら、それは赤木エリックじゃない。
楠上カズマだと。
派閥〈ワイズサーガ〉の一員として千葉ヨウコに辿り着いたとしても、組織の頂点に立ち代表しているカズマが、先頭を切ってあの少女に向かっていくことになる。
彼こそが象徴なのだ。
全ては彼の手柄になるんだよ。
なにより、ヨウコ自身もそう認識するに違いない。
自分を見つけ、救ってくれたかけがえのない者。
もっとも愛すべき男は、やはりカズマであったのだと、そう信じるだろう。
俺は、そんな二人――抱き合って互いの名を囁き合う恋人達を、大勢いる協力者の一人として眺めているしかない。
見つめ合うカズマとヨウコは互いに相手しか瞳に映していない。
俺など眼中にもない。
ただのオマケさ。
スポットライトを浴びる優勝選手ではなく、スタンドからそれを見守る観客の一人に過ぎない。
この世界で赤木エリックは、選ばれた人間ではないのだから――。
「そうか……」
気付けばエリックは、くつくつと喉を鳴らすように笑っていた。
両の拳と額を壁に押しつけたまま、ずるずると膝から崩れ落ちていく。
「そういうことか……」
ぽつり、繰り返す。
そうして、視界いっぱいに広がる壁面を凝視しながら理解した。
こうも狭量だったのか。
俺は、この程度の小さな器の男だったということか――。
己への失望で目の前が真っ暗だった。
今まで精神的にこれほど追い込まれたことはなかった。
本物の挫折を経験したこともなかった。
だからこそ、今まで自覚したことのなかった弱さが出た。
これこそが赤木エリックという人間の本質なのかもしれない。
そうとさえ思えた。
今まで築きあげてきた物が、根本から崩壊していくような目眩に襲われる。
だしぬけに、偏頭痛の前兆を思わせる耳鳴りがしはじめた。
キーンという耳障りな金属音。
そして、氷菓をかき込んだ後のような鋭い頭痛。
耐えきれずに、エリックは刹那、目を固く閉じる。
直後、人喰い熊に背後を取られたかのごとき戦慄に襲われ、うなじが総毛立った。
何かがいる。
本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
――この感覚……
既視感と共に、身体ごと振り返った。
一〇歩分ほどの距離を隔てた正面に、男がいた。
派閥〈ワイズサーガ〉のメンバーではない。
トーリ・クゥガーと同じ様なスキンヘッドだが、彼とは真逆の女性かそれ以上の短躯であった。
身にまとっているのもフ=サァンの伝統衣装ではなく、どこか宗教的要素を感じさせる長衣だった。
黒を基調としたその装いは、どことなく地球の神父を想起させる。
何より、彼は顔の向かって右側半分にだけ広範囲にグロテスクな刺青をしていた。
その密度と描き込みは地肌の色が分からなくなるほどで、ほとんど闇夜に同化し溶け込んでしまっている。
白い眼球だけが宙に浮いているようにさえ見えた。
「おおッ……ぉお!」
男はいきなり歓声をあげ全身を震わせると、歓喜に表情を輝かせた。
そしてやにわに駆け出し、エリックを正面から抱き締めた。
「――ッ」
想定外の事態に頭がついてこない。
驚愕で身が竦む。
「会いたかった! 貴方が、エリック・ジェイ・アカギなのですね。おお、宗主よ。夜の風にかけてこの邂逅に感謝いたします!」
「ちょっ……ちょっと」
どうやら害意はないらしい。
そのことがエリックに冷静さを取り戻させた。
必死に抵抗し、ようやく男を引きはがすことに成功する。
「なんなんですか、貴方」
「おう、いけません。申し遅れました。私は〈全能者〉にして〈我らを生かす者〉、〈両者の敵〉、〈高貴なる魔術師〉たる大神。すなわちクーネカップの代弁者。使徒。名をディレミリスと申します」
恭しく頭を垂れる。
芝居がかった仰々しい所作だが、やり慣れているのか堂に入っていた。
「クーネ、カップ……」
「そう。われらが母たるクーネカップ。貴方もお目通りの栄に浴したはず。エリック。すなわち、貴方は選ばれたのです」
「選ばれた――?」
「はァい」
満面の笑みで悦ばしげに頷いてくる。
「間違いありません。なぜか? あのお方は見込んだ者の前にしかお姿を表わさないのです。何より、貴方はその時、証を授けられたはず」
あかし?
一瞬、首をひねりかけたが、すぐに思い当たった。
エリックは反射的にズボンのポケットを手探りした。
指先が何か固く、すべすべした物に触れる。
引っ張り出し手の平に転がしたそれは、優美な曲線を持つ碁石のような黒い個体だった。
大きさはウズラとニワトリの卵の中間と言ったところか。
こちらに来る前、カズマの母親的存在、玉池サトミに渡された封貝の種子ともいうべき秘宝である。
その名の通り貝殻に酷似した――乳白色の物体であるはずだった。
「そう。それです。それこそ、貴方がクーネカップの使徒たる証」
「えっ、でも……これ、黒い? 真っ黒になってる。どうしてこんな……いつの間に」
「なぜかとお訊きになる? 目覚めたからですよ」
男はにんまりと笑う。
なぜか背すじが凍るような凄みを感じ、エリックは鼻白んだ。
「突然、思考が鈍る。立っていられなくなるほどの倦怠感に襲われ、高熱を発して寝込む。
貴方、ごく最近こうした症状に見舞われましたね? それは発芽の儀式ともいうべきもの。封貝に目覚める者の多くが経験することです」
「えっ――」
「貴方はクーネカップより封貝を賜り、覚醒したのです。封貝使いになったのですよ」
「いや……でも」
「気付いていないのですか? 私は今、共通語で貴方に話しかけています。それを理解し、完璧に返答できている自分に」
「あっ――」
エリックの反応を愉しむように微笑み、彼は自らの刺青を指差した。
「封貝が黒いのはクーネカップの加護の証。かくいう私の封貝もそうでしょう? 美しい黒色をしています。
月と夜。
魔術と静寂。
谷と霧。
敵意と不和。
予言と誘惑。
幻惑と黒曜石を司る我等がクーネカップを象徴するに、これほど相応しい色合いもありません。その黒色で刻まれたこの顔の紋様は、永久常時顕現型の封貝です。
気付いていますか? 私は貴方がた〈ワイズサーガ〉にとっては侵入者です。封貝の気配も発している。建物の中と言えど、ドリュアスとて生命の気配が一つ余計にあることに気付かないはずがありません。なのに、彼らは駆けつけてきませんねえ?」
エリックは言われてようやく、はっとした。
その通りだった。
探知系のマオ・ザックォージが一時的に弱体化しているとはいえ、こうまで堂々と忍び込んできた闖入者を仲間達が見逃すとは思えない。
この状況は明らかに不自然だった。
「お仲間は現れない。なぜか? それは、私が空間を凍結させているからです。時間を止めていると言い換えてもよろしい。
なんなら見に行きますか? 今、下の階でお仲間達は彫像のように動きを止めているはずです」
「そんな……」
「なにを恐れているのです? 貴方も手にしかけているものではないですか。同じ空間の凍結の力ではないにせよね」
言って、彼は謳い上げるように朗々と発し始めた。
――祭器を持ちて
――汝、其の猜忌を放て
――此ぞ吾が使徒たる
――燔祭の贄
それは聞き覚えのある言葉だった。
いつだったか、クーネカップが世界をズタズタに引き裂きなから目の前に現れた時、脳に直接響いてきた声。
それが告げた言葉であった。
「貴方の手には既に祭器たる黒い封貝があり、そして今は猜忌も得ている」
猜忌。
文字通り、嫉み、妬み、忌むことだ。
嫉妬で誰かを恨むことだ。
心当たりがないと言えば、嘘になる。
壁に打ち付けた拳、そして額の痛みが、真実を知っている。
「――エリック」
にたにたとしながら、彼は馴れ馴れしく肩に腕を回してきた。
「燔祭の時は近い。貴方がクーネカップに忠誠を誓い、その加護を請うのなら、彼女に贄を捧げなければなりません。
なぜか? 彼女が敵意、不和を司る存在だからです。火の神イレスには火を捧げ、敵意と不和の神にはそれを捧げる」
「贄……」
「貴方の猜忌は誰に向けられたものです、エリ――ック?」
頬ずりでもしようというように、顔を寄せてくる。
湿った吐息が鼻先に触れた。
「そう。カズマ・ナンジョー。ワイズサーガのカズマです」
一瞬、びくりと身体が跳ねるのを禁じ得なかった。
もちろん、使徒ディレミリスがそれに気付かないわけがない。
チェシャ猫さながらの嫌らしい笑みを更に深めていく。
「エリック。貴方は求める少女がどこにいるのかを知っています。そう、本土最東端のイドリースです。なぜか? クーネカップと会った時、彼女からその情報を得たからです」
その通りだった。
確かに、クーネカップはそれらしいことを仄めかしていた。
カズマが目指している北方の大国ユゥオではない。
あの邪神の言葉を信じるなら、そこにヨウコはいない。
「本当に、ヨウコさんはイドリースっていうところにいるんですか? あの話は本当なんですか」
「勿論、もちろん」
ディレミリスは鷹揚に頷いた。
「これは契約の儀式ですよ? ウソはありまません」
「しかし、貴方が言う限り、クーネカップは敵意や不和を司っているはずです。そんな相手の言葉を信じろと?」
「クーネカップは、人間が自然発生的に抱く敵意や不和を愛でるのであり、それを押しつけることを好むわけではありません。
貴方、お金は好きですね? しかし、それを貰うのと与えるのとでは別の意味をもつはずです」
ディレミリスは、人差し指を立てメトロノームのように振った。
「話を逸らすのはよくありません、エリック。
貴方はなんのためのこのオルビスソーに来たのですか? ヨウコ・チバを探し、救うためです。
そのためには至急、イドリースに向かわねばなりません。ですが、貴方たちのリーダーは誤った方向へ進もうとしている。ユゥオという見当外れな所に目標を定めています」
それはここの最近、エリックが常に頭を悩ませていたことだった。
目指すべきはイドリース。
だが、そのことを仲間に伝えようとすると、例の耳鳴りと共に頭が割れるような痛み出すのだ。
話どころではない。
「エリック。神より与えられた物は、選ばれた者だけが手にできるのですよ。他者と共有することはできません。たとえ形のない情報であってもです。
なぜか? クーネカップは不和を司るのです」
思考を読んだかのようにディレミリスは言った。
驚いてそちらを見やると、にやりと唇を歪めて返してくる。
「大切なのは、カズマ・ナンジョーでは少女を救えないということです。それができるのはエリック、貴方だけ。選ばれた貴方だけなのです」
「僕、が……」
「貴方はこのままワイズサーガについていき、ユゥオを目指すというのですか? それが間違っていると知っているのに。
ワイズサーガの影に隠れ、ワイズサーガに手を引かれ、無駄な回り道をするのですか?」
もし、この男やクーネカップの言うことが本当なら。
ヨウコがイドリースにいるのなら。
確かに、このままで良いわけがない。
間違っていると知りながら道を正そうとしないのは、ヨウコへの裏切りだ。
しかし、どうやれと言うのだろう。
情報は共有できない。
話そうとしても、メモにして渡そうとしても呪いのように邪魔が入る。
「少女は貴方を待っているのです。
ならば――何かを犠牲にしてでも、そのもとへ駆けつけるべきでないのですか?
誰かを傷つけても彼女だけは譲れないと思うのなら、貴方は覚悟を決め、決断すべきなのではないですか?」
足元に落としていた視線を、エリックはゆっくりとあげていった。
気付けば正面に回り込んでいたディレミリスと、目が合った。
「少女を救うための険しき道を、貴方はたった一人でも行かねばなりません。ですが、今の貴方はあまりに無力。
少女のもとへ辿り着くためには〈傍らにいる者の王〉にして〈天と地の所有者〉――クーネカップの加護が必要不可欠なのは分かるでしょう?」
「…………」
「エリック。我が友、エリック。
燔祭の贄に不和と敵意、猜疑を捧げなさい。その象徴となる者を供物としてクーネカップに差し出すのです。
そうすれば貴方は真にクーネカップの使徒として變成するでしょう。そう、力に覚醒するのです」
「それは……あの、その贄っていうのは……」
あまりに険呑な響きを帯びたその言葉は、ある結論を露骨に示唆している。
まさかという思いに、エリックは半歩後ずさった。
膝が笑う。
上手く体勢を維持できない。
あまりにおぞましい考えが脳裏を過ぎった。
「どうやら、理解したようではありませんか」
使徒ディレミリスは愉悦に口角を吊り上げる。
「そう。カズマ・ナンジョーを斃すのです。
彼こそが貴方の猜忌の源。それを自らの手で打倒しなければなりません。そうすることでのみ、最高の不和をクーネカップに捧げることができるのです」
気付くとエリックは、子どもがいやいやをするように激しく頭を振っていた。
目を見開き、ただ無言でその仕草を繰り返した。
「いいえ、エリック」
それでもディレミリスは動じない。
確信的な口調で続けた。
「貴方は必ずやりとげます。なぜか? それが出来ぬ者の前にクーネカップは姿を見せることはないからです」
「あり得ない……そんなこと、できるわけ……到底、絶対にできません。僕には無理だ」
「エリィ――ック」
優しく、だが凄絶な狂気を秘めた呼び声だった。
「何かを捨てなければ、何かを得ることはできない。大望を果たすにはそれ相応の代価が求められるのです。
貴方は選択しなければいけません。愛か友情か。少女か少年か。クーネカップの元で選ばれた者となるか、無力な皆のお荷物――負け犬して生きていくのかを」
「でも!」
何かないか。
反射的に叫んだあとで、必死に考えた。
何か、この状況を切り抜けるような上手い理由は。
この話を戯言と切り捨てられる物は。
「でも、彼は封貝使いだ! カズマ君はどんどんと力を強めている。アルゴルとかいう化物すら倒せるようになったと言っていました。今の僕なんかじゃ到底――」
「おお、エリック」
幼児のスペルミスを指摘するように首を左右する。
「貴方は忘れています。今、自分が握りしめている物が祭器――クーネカップの神器であることを。
勿論、もちろん、それはまだ完全に解放されたわけでありません。ですが、ワイズサーガを斃すのには充分な助けとなるでしょう」
慌てて、握りしめていた右手を開いた。
少し汗ばんだ手のひらの上で、夜の闇より黒い封貝が揺らめく。
「さあ、唱えなてみなさい。口訣するのです。
――〈Fox 1〉と。
そうすれば貴方の封貝は応えてくれるでしょう」
これが――?
半信半疑だった。
なんとしても実感がわかない。
思い出すのは小学二年生の時のことだ。
エリックは親戚からチケットをもらい、一度だけ甲子園球場に行く幸運を得た。
左翼――ややアルプススタンド寄りの外野席で、伝統の一戦を観戦したのである。
試合は八回裏の終盤。
ツーアウトながら得点圏に一人走者を置いた局面で動いた。
当時、タイガース不動の四番として君臨していた沢崎光内野手の放った詰り気味の大飛球は、しかし大半の予想を裏切ってフェンスを超えたのだ。
そして、グラブを嵌めて構えていたエリックの手元に、吸い込まれるがごとく収まったのである。
あの時も、何が起こったのかよく分からなかった。
掴んだボールをその手、その目で確かめても現実感がまるで湧かなかった。
これはなんだ? 本当にこれは――
確かに、今、沢村は打った。
高々とボールが舞い上がったのも見た。
だが、自分が手にしているこのボールとそれは、本当に関係した物なのか?
保護者役の親戚が呆けるエリックに大笑いしだしても、当の本人はただひたすら白球を見詰めるばかりだった。
今、同じように封貝に視線を注いでいる。
これが――?
「さあ」
うながされて、エリックは「あ、はい」と反射的に応じる。
そしてほとんど義務感に近いものに押されて、声に出した。
「フォックス……ワン」
変化はすぐに現れた。
封貝がひとりでに手のひらから浮き上がる。
それは一〇センチほどの宙空に制止し、直後、いきなり崩壊した。
輪郭がぐにゃりと歪み、煮立ったコールタールのようにボコボコとうねり始める。
思わず腰が引ける。
意志を持つように蠢くそれは、もはや物体というよりアメーバのような得体の知れない生物だ。
そうこうしているうちに、不定形であった封貝が少しずつ意味を成す形を成し始めた。
質量保存の法則を明らかに無視して巨大化し、細く長く、棒状に変化していく。
――バット?
何故だかエリックの脳裏にそのイメージが湧いた。
全長。
直径。
全体的なシルエット。
そして握り部分の形状。
そのものではないが、どことなく通ずるところがある。
変形が終わり状態が落ち着くと、エリックはそれに手を伸ばした。
自分でも驚いたが、ほとんど無意識の動きだった。
足元に子犬がじゃれついてくれば、誰でも自然と手を差し伸べる。
同じ感覚だった。
不思議ともう、恐怖や不気味さは感じなかった。
むしろ逆だった。
これは自分のために存在している。
そんな奇妙な確信があった。
先端部を右手で握った瞬間、封貝がまた変形を始めた。
今度は一瞬。
目で追えないほどの素早さであった。
気付くと、それはエリックの中で両刃の大剣と化していた。
刀身、鍔、そして柄。
全てが黒く染めあげられた黒剣だ。
バット状の時より、長さはニ倍に到っていた。
エリックの愛用バットは八四センチ。
その倍となると日本人の成人男性の身長に近くなる。
しかも刃は肉厚で、もっとも分厚い部分は、優に女性の手の平くらいはありそうだった。
やや先端よりの中心部に節のような出っ張りがあるため、純粋な直刀と言えるかは分からない。
これだけ物々しいければ、さぞかし重かろう。
一見そう思えるが、実際手にするそれは冗談のように軽量であった。
現に、エリックは片手で楽々とそれを維持することができていた。
試してみると、難なく振り回すことも可能だった。
しかも、何年もかけて手に馴染んだ革製品のように、手にしっくりとくる。
こうなると、俄然気になってくるのは威力。斬れ味だ。
なんとなくそんな気になって、エリックは背後の壁に向かった。
グリップを両手で握り、剣を正眼に構える。
「疾ッ――」
自然と口から漏れた裂帛の気合いと共に、一気に振り下ろした。
手応えはほとんどなかった。
だが、それこそが異常と言える。
「は……ははっ……」
一拍置いて、自分がやったことに瞠目しつつ、エリックは乾いた笑い声を上げ始めた。
まるでバターに熱したナイフを入れたように、剣は石を積み上げた頑丈な壁をほとんど根元まで両断していた。
「分かったでしょう?」
いつの間に寄ってきていたのか、ディレミリスがすぐ隣にいた。
「貴方は封貝使いなのです。これからどんどんと使える物が増え、既存の封貝は力を増していくでしょう」
言われて、エリックは自分の愛剣を凝視した。
その刀身はぞっとするほど艶やかで鋭利だったが、月明かりの助けを借りても、不思議と顔が映り込むことはない。
「もはや、エリック。貴方にとって、ワイズサーガなど恐るるに足りません。なぜか? 貴方は神々の中でも特に強大な力を持つクーネカップに認められた存在だからです。
封貝使いは選ばれた存在。しかし、貴方は、その封貝使いの中でも特別。特別の中の特別な存在になるのですよ」
彼は軽く二度、エリックの肩を叩くと、二歩後ろ向きに下がった。
「――名残惜しいですが、今宵貴方と過ごせる時間は尽きてしまいました。私はもういかねばなりません、エリック」
エリックは、何か返そうと口を開いた。
だが、ふさわしい言葉が見つからなかった。
まだ、結論は何も出ていない。
ディレミリスから持ちかけられた話について、自分は何一つ答えを用意できていない。
このまま宙ぶらりんのままで良いのか。
そんな思いがある。
「そんな顔をしないで下さい、エリック。大丈夫です。これからのことはもう決まっているのですから」
「え、はい……?」
「貴方は明日、この砦をたちナックゼオン地方への旅路につきます。その旅の途中、ワイズサーガのカズマと二人きりになる機会があるでしょう。誰にも邪魔されず、彼とじっくり話せる時間が訪れるのです」
エリックは目を剥く。
なんとなく、ディレミリスの言わんとしていることに見当がついた。
「その時が来れば、貴方は自然と理解するでしょう。決断の時が来たと。燔祭の儀にて、クーネカップに不和を捧げるのは今だと」
ディレミリスが視線だけ残して、踵を返す。
「それは、早ければ数日のうちに訪れます。その時までによく考え、身の振り方を決めておいて下さい」
「なん――」
喉に唾がからまり、エリックは言い直した。
「何でそんなことが分かるんです」
「忘れましたか? クーネカップは予言を司る神です」
それだけ言うと、ディレミリスは歩を進め遠ざかっていった。
と同時、例のキィンという耳鳴りと共に、頭蓋ごと脳を串刺しにされたような痛みが襲ってきた。
「――ッ!」
思わず身を屈め、目を眇めて激痛に耐える。
だがそれは瞬く間の出来事だった。
間もなく痛みと耳鳴りは嘘のように消え去り、エリックは伏せていた顔を上げる。
もうそこには、ディレミリスはいなかった。
だが、今の出来事は夢でも幻でもない。
そのことは、手に握りしめた漆黒の大剣が如実に証明している。
「これが……封貝……」
つぶやきながら、エリックは再び自分の剣に目を落とす。
クーネカップの祭器。
神器。
超兵器〈ペルナ〉。
新しい力。
このままカズマに――派閥〈ワイズサーガ〉についていけば、クーネカップは自分に失望するだろう。
この加護を失うかもしれない。
無力なお荷物に逆戻りだ。
だとしたら結局、仲間達の戦力にはならない。
自分がいようといまいと、カズマたちが行く道、出す結果は変わらないだろう。
だが、クーネカップの導きに従えば、違う。
クーネカップにより多くの力を授けて貰える可能性がある。
カズマが知らないことを知り、カズマができないことが成し遂げられるかもしれない。
仮にディレミリスらの言うことが全くのデタラメであったとしても、それはそれで良い。
自分が失敗すれば、正しい道を行くカズマが代わりに目的を果たすはずだ。
ヨウコに辿り着くはずだ。
そう考えると、正解は最初から出ている気もする。
だが、そのために「ワイズサーガを斃せ」というディレミリスの口車に乗って良いのか。
クーネカップの深みに嵌って良いのか。
そもそも自分にそれができるのか――
視線を転じ、エリックは遥か頭上を振り仰いだ。
天蓋を覆い尽くす星々の瞬きと、双子の月から降りそそぐ透き通るような月光は、泣けるほどに美しかった。
どうすべきか。
やれるのか。
本当のところは何も分からない。
それでも夜空を流れ落ちていく星の煌めきは、自分を祝福してくれているかのように感じられた。




