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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
48/64

カズマ対貴公子

  047


 彼は高笑いを木霊させながら、純白もまばゆい駿馬を駆っていた。

 普通の馬ではない。

 移動ヴィクター系の封貝だ。

 快足で知られるランコォル種より更に速く、全力疾走ギャロップを何時間でも持続していられる。

 そんな、一種の怪物だ。

 場所は、山賊の拠点をそのまま使っていた。

 山林を荒っぽく切り開いた広場だ。

 鉄条網で囲まれた敷地内は広大である分、作業は大雑把にならざるを得なかったのだろう。

 がすのに失敗したシールのように、伐採の手を逃れた木々がまだらに残っている。

 その木立をするするとうようにして、小太りの貴公子は人馬一体、風のように駆け回る。

「ハッハッハ、どうしたナンジョー君。僕はここだぞ!」

 無駄に白い歯を光らせながらの挑発だった。

「ぬぅ――」

 なぜ、こんなことになっているのか。

 こんな漫画のキャラみたいな性格の人間が本当に存在していいのか。

 色々と納得がいかず、カズマは顔をしかめる。

 なにより、改めて実感させられていた。

 やはり、戦闘は機動力なのだ。

 移動ヴィクター系の封貝を持つかどうかは、ほとんど決定的な要素と言って良い。

 逃げる。戦う。

 どちらにせよ、相手から止まって見えるようでは勝負にならない。

 ただ、今回――目の前の相手に限って言えば、まったく手も脚もでないわけではなさそうだった。

 事前に聞いた話では、相手もまだ封貝使いとして未完成ときている。

 そして、見たところどうやらそれは嘘ではないらしい。

 封貝の馬で絶え間なく高速移動を続けられては、カズマは勝つヴィジョンをなかなか得られない。

 追いつく手段、離れた所から撃ち落とす手段、いずれもないのだ。

 だが、相手まで遠距離攻撃をしてこないのはおかしい。

 スピードで翻弄しつつ、チクチクと射撃系(Fox 2)を当ててくればそれで完封勝利は確定なのだ。

 それをしてこないのは何故か。

 ――できないからではないか?

 単に手を抜いているという可能性もある。

 こちらを弄んでいるだけなのかもしれない。

 何にせよ、このまま棒立ちで敵を目で追うばかりでははらちがあかない。

 それだけは確実に言えた。

 それだけ分かっていれば、決断も早かった。

不可視の楯板(デルタ・ワン)!」

 カズマは口訣し、無色透明の盾を呼出す。

 地面と水平に、腰の高さで浮かせた。

 飛び乗る。

 カズマの盾は薄く、防御力は高くない。

 だが瞬時に展開でき、念じるだけである程度は自在に動かせる。

 この特性を利用することにした。

 乗ったまま、エレヴェータよろしく垂直上昇させるのだ。

 イメージは、ちょっとした空飛ぶじゅうたんだ。

 見たところ、向こうの馬はスピードこそあれ空を飛べはしないらしい。

 そして、武器は剣のみ。

 遠距離攻撃の手段はない。

 ならばどうなるか。

「なにぃ、制空権を取られただとッ」

 芝居がかった叫びだが、本人はいたって真面目な顔だった。

「だか、卑怯とは言うまい。それもまた戦術」

 貴公子は手綱を引き、乗騎をその場で停止させる。

 カズマは既に、二階建て一軒家の屋根くらいまで高度を上げている。

 相手は、馬上からそれをどこか悔しげに、それでいて半分はどこか愉快そうに見上げていた。

「だが、これしきの試練に僕らはたじろぎなどしないぞ。なあ、ロシナンテ号」

 彼が首元をぱんと叩くと、その愛馬はぶるると鼻を鳴らした。

 それからゆっくりとした足取りで真後ろに下がり始める。

 馬ってバックもできるんだ。

 カズマはどうでも良い発見に感心してしまう。

「疾ッ!」

 裂帛の気合いと同時だった。

 貴公子のかかとが、左右から挟み込むように馬の胴を蹴った。

 ロシナンテ号は高く持ち上げた前脚をばたつかせてたけるや、蹄で地を深々とえぐった。

 ばっと土の塊が掘りあげられる。

 狂ったような猛進が、人馬を弾丸に変えた。

くぞ、ナンジョー君!」

 高らかに発すると、続く「とうっ」という叫びと共に、駿馬が地を蹴った。

 流石は幻獣型封貝。

 怒涛の助走から見せたその常識はずれの跳躍力、鬼気迫る迫力に、カズマは思わずひっくり返りかけた。

 地面に射出台(カタパルト)でも仕込んでいたとしか思えなかった。

 彼らは当然のように、カズマがいる地上約七メートル付近にまで迫ってくる。

「とらえたぞッ」

 馬上の貴公子が勝利を確信した笑みを浮かべる。

 左手に構えた長剣型封貝が、鋭くカズマに迫った。

 やるなあ。

 素直に認めながら、カズマはにこりと笑みを返した。

 そして、踏み場にしている不可視の楯板(デルタ・ワン)の高度を静かにもう三メートル上げた。

 貴公子が目を丸く見開く。

 裏切られたような顔が印象的だった。

「な、なにぃっ!」

 芝居がかった叫びだが、本人はいたって真面目な顔だった。


 地上に降りると、冷たいおしぼりが待っていた。

 とは言っても、ナージャの回復液を染みこませた手拭いである。

 彼女のマフラー型封貝が出す水は、そのマフラーを容器にしていなければ著しく回復効果が減衰する。

 おしぼりを湿らせた程度なら、もうほとんどただの水気と考えるべきなのだろう。

「ナンジョー君。君の実力、見せてもらった。共に決め手を欠いての引分けというのは消化不良の感が否めないが――

 これは今後の課題ということで、それはそれで意義のあることだ。発展性において、僕らには少なからず共通点がありそうに思える。今後も良き好敵手としてあって欲しい」

「あ、これはどうも……」

 さしだされた、ずんくりとした手を握り返す。

 思ったより分厚く、ずしりとした重みを感じる手だった。

「改めて、僕はムカイザァーノ子爵家の末弟、デイン・オ・ムカイザーノだ。フ=サァン流では間のオは省かれることが多い。どちらでも好きなように呼んでくれたまえ。どうぞ、よしなに」

「同じく改めて、姓はナンジョウ、名をカズマと言います」

「おいおい。もう指摘すんのも面倒になってきたけど、デインよ。旅の間、家名は出さない方針じゃあなかったのか?」

 はたでやりとりを見守っていた老人が言った。

じい、それは基本方針に過ぎない。しばられるものではないよ。それに、このワイズサーガの皆さんは信用できる。信頼できる人たちであると感じた。だから名を明かした。この決定に、今のところ一切の悔恨なし!」

「まあ、お前さんがそう思うんなら良いんだけどよ」

 老人は、ていかん混じりにたんそくする。

 全員で館に戻ると、早々に口火を切ったのはケイスだった。

「ご老体。失礼ながら、貴殿はもしや〈不死〉で知られるロイド・レンガショップであられるのでは」

 デイン・ムカイザーノの爺やへ丁重に問う。

「おう?」

 ふさふさした豊かな銀色の髭の中で、老人は頑丈そうな歯を剥き出しにして笑みを形作った。

「俺を知ってんのかい」

「俺はケイス・ヴァイコーエン。今はこの派閥プラトォンワイズサーガの世話になっているが、かつての大戦では本土で兵士として武器を取っていた」

「おお、戦場に出てたのか。お互い死にそびれたな」

 なにか、その場を知る者同士でしか通じないやり取りであったのかもしれない。

 二人は互いに皮肉めいた笑みを交換し合っている。

「〈不死〉のレンガショップ。その名は聞いたことがあります」

 マオ・ザックォージが驚いたように言った。

「大戦の英雄が、なぜこんな辺境の島国に?」

「先代のムカイザーノ伯だったこの若様のジジイとは、昔馴染みでね」

 彼は、隣に座るデインの頭にぽんと手を置いた。

「戦争が終わったら食客として世話になる約束をしてたんだよ。で、話通りにしばらく居座ってたら、こいつが生まれた。その関係で、なんだかんだ世話を頼まれることになったんだよ」

 こっそり聞いてみたところ、エリナーも〈不死〉のレンガショップの名には覚えがあるらしい。

 リックテインは首を傾げたが、これは種族の問題なのかもしれない。

 地球でいうなら、著名な映画俳優やスポーツ選手くらいの知名度といったところか。

 だとしたら本物のスターだ。

「貴殿がムカイザーノ家に身を寄せている理由はそれとして、なぜこんな所に?」

 ケイスが重ねて問う。

「そんな、しゃちほこらなくて良いよ」

 自分のことはロイドで良い。

 老人が言うと、ケイスやマオは若干、緊張を解いたように見えた。

「で、こんな山賊のたまり場くんだりまで来た理由、だったか。

 ……それはまあ、ウチの若様に聞いてくれ。俺はあくまでつきだからよ。なあ、デイン」

「うむ。ならば、僕の口から語ろう」

 デインは出された蜂蜜水のコップを置き、居住まいを正した。

「結論から言うと山賊退治のためだ。この地区は、我がムカイザーノ家が直接統治しているわけではないが、間接的には影響がある。貴族社会にある派閥の関係とでも理解してもらえれば良い」

 なるほど、詳しく聞こうとすると面倒そうだ。

 思いながら、カズマは続く話に耳をそばだてる。

「そこが度重なるりゃくだつを受け続け、へいしきっている。現状、既に税を納めることもできないほどにね。

 領主としても、賊に対策を打ってやれない以上、厳しく税を取立てるわけにもいかない。しかし、それでは税収が減り全体が弱体化する」

 これはもちろん、相手が国家公認の〈スリージィン〉だからこそだ。

 いかに伯爵家と言えど、規定内の略奪行為には口出しできないのである。

「それで身分、家名を隠してのしゅくせいですか」

 同じ貴族として理解できるところがあるのだろう。

 マオは得心顔で小さく頷いている。

 〈スリージィン〉はどこの領地であっても悩みの種であるらしい。

「ムカイザーノ家は大陸系でね。フ=サァン(こちら)の生粋の貴族と違って、末子相続の風習はない。爵位を継ぐのは長子。

 四男である僕はいずれ家を出るか、飼い殺しにされるかだ。貴族社会の日陰で一生を腐らせたくなくば、個人として力を付けねばならない。僕は今のうちに世界を見て回り、今後、何をもって身を立てるか、自らを見極めるつもりだ」

 これは、デインの妹も同じ考えであるという。

 彼女もまたデインと同じように、腕利きの封貝使いを一人つけて旅をしているらしい。

「女性の場合、また大変ですよね。政略結婚のこまにされることも多いですから、好きに生きたければ、相当に発言力を高めないと……」

 これも、何か自分と重なる部分があったに違いない。

 どこか焦点をぼかした目で、マオはぼんやりとつぶやく。

「流石、ザックォージ家のご令嬢。その辺、僕などよりよく状況を理解していらっしゃる。

 その通りで、妹は僕以上に深刻で必死なのだ。だからと言うわけではないが、互いの刺激のため、僕らは良い意味でちょっとした競争状態にある。今回も、僕はこの北側のアジトを、妹は南側に挑むことになっていた」

 瞬間、カズマは身体をびくりとさせた。

「えっ? 南の砦って……」

 ケイスとマオに顔を向けると、彼らはほぼ同時にうなずいた。

 お前の考えている通りだ、というサインだ。

 カズマは再びデインに向き直る。

「そこって、近々僕らが叩こうと思ってた所だと思うんだけど」

「おや」

 デインは柳眉を微かに動かした。

「君たちもまた高いこころざしを持っているようだね? しかし、残念だ。君たちが向かったときにはもう、妹が仕事を済ませてしまっていることだろう」

 君たちの方は?

 なぜ、〈スリージィン〉を敵に回すようなことを――。

 問われたため、カズマたちは互いの話を補いながら、全員で事情を説明した。

 無論、依頼内容に関しては、エリナーの許可を受けてから話した。

 途中から、デインは驚愕のあまり目を丸々と見開いていた。

 なにをそんなに、とこちらが鼻白むほどの反応だった。

 しまいには口までぽかんと半開きにして、しばらく凍り付いていた。

「聞いたか、爺」

 ややあって、彼は興奮したようにロイド老を見やった。

「今の話を聞いたか。このような高潔な……」

「ああ、聞いてたよ」

「こんな……このような話が」

 感極まって言葉を詰まらせ、デインはそれからカズマたちに勢いよく向き直った。

「爺からレイダーの話は聞いていた。かつては僕のような――貴族の末席で飼い殺しにされていた者が、傭兵レイダーとして世界各国の戦地を転々としていたと。

 だが、君たちのようなレイダーの話は初めて聞いた! 実に美しいあり方だ。僕が思い描く、一つの理想像を体現しようとしていると言って過言ではない」

 真正面からこうまで大絶賛されると、逆に気後れしてしまう。

「いや、実際にはそんな良い人の集団じゃないんだよ。目的のためには、色々あくどいこともしてるしね」

「それは、外で掘っていた穴に関係があることかね? 汚れを知らない者は、行動しなかった者だけだよ。僕はそれをあくどい行いだとは思わない」

 エリックとエリナーが微かに身を強ばらせたのが分かった。

 だが、それは微かな反応であり、デインには気付けないほどのものだった。

 彼は罪のない笑顔で続ける。

「たった一人の少女の願いのため、たった一人の少女を救うべく巨悪に挑もうというのが君たちなのだろう? 誇るべきことだ」

「そう言うと聞こえは良いけどね」

 軽めに苦笑したつもりが、思いのほか疲労感の濃いものになった。

「僕らはそれぞれに思惑があって、自分の都合のために今こうしてるだけなんだよ。結果、それが他の人の助けになることもあるかもしれないけど」

 ふむと何か思料するように黙り、しかしデインはすぐに言った。

「それはある意味で健全な姿だろう。自分も同じだからそう思うのかもしれないが――

 僕とて、民のため領地の太平のため〈スリージィン〉を影ながら粛正すると言いつつ、突き詰めればそれは、将来を見据えた自分のための実績づくりでしかない。

 ただ一方で、領民のためという言葉に嘘があるわけでもないのだ。要はしんに自己実現をえつつ、周囲の利とのバランスを考えながらより良き道を模索しているというだけのこと」

 その言葉は、不思議なほどすとんとカズマの胸に落ちた。

 恐らく、デインはヨウコと気が合うだろう。

 そう思った。

 価値観が非常に似ている。

 彼の言葉は、男の道としてヨウコに叩き込まれてきた言葉、その内容と極めて近いものがあった。

 人間の顔に鉄の拳という鈍器を叩きつけた感触。

 それにより、被害者が死亡したという事実。

 どことなくよそよそしいエリックとの関係……。

 昨夜からの胸に重たいものが立ち籠めていた。

 それが今、ほんの少しだが晴れた気がして、カズマはこの貴公子との出会いに感謝した。


 その後、デインとロイド老は、昼食を共にしたあと、早々に旅立っていった。

 去り際、行き先を問うとデインは「ネクロス」と笑顔を見せた。

 カズマたち、派閥としてのワイズサーガに触発された形らしい。

 レイダー登録を行うつもりだという。

「本当に南のアジトに行くつもりなら、タイミング次第で妹と会うかもしれない。その時は、僕の方針を伝えておいてくれるとありがたい」

 もともと、僕は名声を得るために二つの道を考えていた。

 デインはそう言っていた。

 そのひとつがレイダーであり、もう一つがラング・オ・デジョウムへの出場であるという。

 後者は古代語で〈迷宮の踏破者〉。

 通称〈ロッド〉は、世界で最も盛んな競技スポーツの一種であるらしい。

 その名の通り、地下迷宮ダンジョンや野外フィールドの攻略速度を競い合うタイムアタックのようなもの――というのが、話を聞いたカズマの理解だ。

 主催者が用意したコースを、同じく用意された魔物と要所に配置されたボスを倒して進み、より多くの討伐スコアを稼ぎながら、より短時間での踏破を目指して互いに争う。

 大会は大小無数に存在するが、シーズン最盛は春から秋にかけて。

 すなわち今年はもう期間終了オフシーズンで、大きなイヴェントは残っていないという。

 最高峰の大会は地球的に翻訳すると〈チャンピオン・カーニバル〉ないし〈グランプリ・ファイナル〉などと呼ばれ、上位ランカーたちのみで争われる世界規模のお祭り騒ぎとなる。

 これは、宝貝ことジ・ショルズで庶民にも広く中継されるため、オルビスソー全土が熱狂の渦に包まれるという。

 このラング・オ・デジョウムは、基本的にチーム戦。

 そのため、レイダーが派閥やパーティとして参加することも多いとの話だった。

 したがって、レイダーとラング・オ・デジョウムの選手は両立が可能であるのだろう。

 デインもどの道、レイダーのライセンスは近々取るつもりであったのだ、と語っていた。

「――ラング・オ・デジョウムのトップ選手が世界的な英雄だという図式は、君も否定しないだろう? フ=サァンのような田舎では、本戦に出場できるだけでもキャーキャー言われる。実家も僕を無視できなくなるだろう。だから、そちらの道に行くことも考えていたのだがね」

 そう言って最後に見せた不敵な笑みは、彼が別の考えを持ち始めたことを物語っていた。


 そんなデインたちを見送ってしばらく、時刻が陽の五刻(一五時)を過ぎると、遺体の埋葬から戦利品の整理まで、大体の仕事に目処がつき始めた。

 午前中、元気いっぱい遊んだミーファティアは、この時間、昼寝をしていることが多い。

 だが、今日は目が冴えているらしい。

 いつもの宿屋ではない上、お客様が来たことで興奮しているのだろう。

 本館に土を持込み、ナージャにもらった水を合わせてべちゃべちゃと夢中になって遊んでいる。

 先程など「ごししんさま、ごはんよー」とにこにこ顔で寄ってきて、おぞましい泥だんごを差し入れされた。

 次はナージャにご馳走するとはりきっている。

 大人達は、それを横目に今後の方針会議にかかりきりだった。

 デインによれば、彼の妹が南砦に強襲をかけるのは早くて今夜だという。

 本来、彼自身がそのつもりであったように、昼はていさつどまり。

 本番はその夜か翌日というのが、兄妹に共通する基本方針であるためだ。

「――つまり、その妹が山賊に負けてぶっ殺されてしまうかもしれないから、助けるなら今夜動いた方が良いということだな?」

 ナージャが極めて端的に状況を整理してくれる。

「デイン・ムカイザーノの妹、か。兄の方は好感触だったな。あの様子だと、ライセンスをとったら俺たちの元に戻って、派閥に入れてくれと言い出すかもしれない」

「それは私も感じました」

 ケイスの指摘に、エリナーがうなずく。

「もしそうなれば、とても心強いと思います」

「彼が連れていたロイドさんは、そんなに有名なんですか? 〈不死〉とか言われてるんでしたっけ」

 ずっと胸にあった疑問を、カズマはここぞとばかりに場へ投げた。

「有名も有名。もう何百年も生きていると言われる伝説上の人ですよ」

 マオが半分あきれ顔で言う。

「歴史の転換期となった大規模な戦に傭兵として参加した記録が古くから複数残っており、その多くで敗戦側についていたにも関わらず、生きのび続けてきた人です」

 かい走する味方をひとりでも多く退却させるため、殿しんがりで追撃を受け止めるという、死を前提とした役割を幾度として請け負い、しかしその度に奇跡の生還を成し遂げてきた男。

 名のある多くの敵将から、名指しで賞賛を受けてきた彼は、やがて「不死身のロイド」「不死のレンガショップ」と評されるようになったという。

「封貝使いなんですよね?」

 エリックが、カズマの通訳なしで訊いた。

「それは僕も思いました。凄い鍛えられてるし、動きも若くはありますけど、封貝使いの割に見た目は完璧なおじいちゃんなんですよね」

 カズマは首を捻りながら、彼の相貌を思い起こす。

 確かに、肌には歳不相応の健康的な張りがあった。

 たるみのようなものも無かったように思える。

 一方で、年輪のように刻まれた皺は深く、見える範囲の体毛は、眉や髭に到るまで見事に白く染まっていた。

 いずれも、若さを保つという封貝使いの印象からはほど遠い。

「まあ、封貝使いが不老不死って言っても、定命の連中からはそう見えるってだけだからな。彼のようなケースは実際、そんなに珍しいものでもない」

 ケイスが言った。

「〈不死〉のレンガショップも二〇〇年くらい前の戦場では、まだ若い姿で目撃されてたんだよ。だが、徐々に年老いていった。

 人生に疲れて精神的に老い、理性がそれを受け入れると、封貝使いでもあんな風に風貌を変えることはある。前例も多い」

 そのような封貝使いはいんとん――人里離れた場所に引き籠もるのが常だ。

 半分、仙人化してしまうので世間からは遠ざかる。

 そのため、一般人には存在自体を忘れられてしまいがちになる。

「――それで、本題の南攻略はどうするんです?」

 マオが軌道修正するように口を開いた。

「そうだな――行くなら、昨夜と同じメンツになるな。連戦になるが問題がある奴はいるか?」

 ケイスが問うも、声は返らなかった。

 実際、昨夜は短時間で決着がついたし、こちら側からは負傷者も出ていない。

 問題があるとすれば精神面ということになる。

「あとは、リックテイン君がどうかだね」

 カズマは、彼が休んでいる上の階にちらと視線を投げた。

 無理に命じる形で、今、彼には仮眠を取らせている。

 そうしなければ、あの勤勉に過ぎる幼いコロパスは絶対に自分から休息を取ろうとしないのだ。

 次に捨てられれば、もうまともには生きていけない。

 身寄りを失い、奴隷商の檻の中でゴミのように一度死にかけた事実が、リックテインの心に深い傷となっている。

 捨てられないため――妹を守るため、彼は見ていて痛々しくなるほどに必死だった。

 新品のランドセルを背負って、「一年生になるの」と無邪気にはしゃぐカズマの知る六歳児とは、あまりにかけ離れた姿だ。

 あまりに悲しい姿だった。

「このまま寝かせておいて、起きてこなかったらそのまま置いていこうかな。そもそも、僕はあの子が前線に立つのは反対なんだ」

「でも、本人ははりきってるように見えたぞ?」

 このナージャの素朴な見立ては、恐らく間違いではない。

 実際、盗賊相手に武器を振るう彼にはなんら躊躇いがなく、むしろ積極的ですらあった。

 血を浴びても、顔色ひとつ変えなかった。

「ここの奴らの同類――人間エインの野盗あたりがからんでるのかもしれんな。あの子たちが家族も故郷も一度に全てを失った理由には」

 ケイスのつぶやきは、カズマが薄ら考えていたことをほとんどそのまま口にしたものだった。

「あのう」

 と、緊張の面持ちで、エリックが挙手した。

「リックテイン君のかわりに、次は僕を参加させて貰えないだろうか」

 一瞬、面食らったカズマは、やや通訳を遅らせてしまった。

 なんとか伝えると、今度は場が静まりかえる。

 そんな中、エリックは無表情に淡々と言葉を継いでいった。

「幸い、戦利品からは質の良い甲冑や武具が見つかってます。それでガチガチに固めれば、おとりくらいには使って貰えると思うんですが」

「いやいや、そりゃ無理ってもんでしょう」

 カズマは言下の元、斬り捨てた。

「戦利品ってそれ、山賊が溜め込んでたものでしょ。つまり、次の相手だって同クラスのを持ってる可能性が高い。全然、優位性ないでしょ。封貝使いだっているんですよ」

「俺も同感だ」

 ケイスが腕組みしてつぶやく。

 だが、それには二の句があった。

「が……エリックの気持ちも分からんではないな」

「隊――ケイスさん!」

 何を言い出すのだ、という顔でマオが元上官をにらむ。

こうあせる新入りなんて見慣れたもんだろう、副隊長?」

「元でしょう。お互い」

 不機嫌そうに指摘する。

「まあ、そう言うなよ。俺もお前も、程度の差はあれ身に覚えがないことじゃないはずだ。こういう元気なのは、抑え込み過ぎると暴走する。そうなる前に、作戦難度とのバランスを見て、フォローしてやりながら機会を作ってやるのも上の仕事だったじゃないか」

「それは……そうかもしれませんけど」

 ただ、南側は攻略難度が少し上がる。

 これはもはや派閥の共通認識だった。

 この北側のアジトには、封貝使いは青級が一人いただけであったからまだ良い。

 しかし、南には青級一人に加えて白級、無印級がそれぞれ一人ずついるという情報がある。

 無論、百人長グリーン級のケイスなら三人を同時に相手にしても瞬殺できるだろう。

 クラスの差はそれほどに大きい。

 加えて、こちらにはナージャもいるのだ。

 少年野球リトルリーグとプロ野球の試合同様、勝敗はやる前から決まっている。

 それでも、結論は夕食後、出発直前まで持ち越しとなった。

 状況を加味し、最終的にはケイスが判断を下すということで、エリックを含めた全員が合意した。

 もちろん、派閥のリーダーはカズマだ。

 しかし、ケイスやマオは顧問のような位置にある。

 今回のように彼に決定権を委ねる局面は少なくない。


 場が解散になったあとは、マオに付き合ってもらい、捕まっていた娘達と二回目の面会に臨んだ。

 可能なら単独でも構わないのだが、相手はここでの扱いで男性恐怖症になっている可能性がある。配慮しておいて損はない。

「朝、お話してから少し時間があったと思いますけど……その後、どんな感じですか」

 再診の患者を迎えた医者のようだ。

 カズマは言ってから思ってしまう。

「どうって」

 空き部屋に三人全員を集めているが、相変わらず口を開くのは例の気の強い娘だけだった。

 あとの二人はうつむき、黙りこくっている。

 怯えが見られるが、その恐怖心がカズマという男性に対してのものか、それ以外の何かに対するものかは判別がつかない。

「なにか、三人で話し合ったりはしました?」

「そりゃあ、多少はしたけど」

 娘は唇を尖らせるように答える。

「詳しくお聞きする前に、まずこちらの状況をお伝えしておきますね。――今後ですが、朝も言ったように次は南側にいる〈スリージィン〉の一味を叩きます。これは今のところ、今夜実行する予定です」

「今夜ぁ?」

 娘がくわと目を剥く。

 後ろの二人も驚いた顔だった。

「えっ、今夜って――」

「ちょっと事情がありまして。急ぐことになりました。

 なので、結果にもよりますけど全員で南側に移ることもあり得ます。お三方は、村に帰りたいという希望については変わりないですか?」

「まあ……」

 気の強い娘が、ちらと背後の二人を見やった。

「そのつもりだけど」

「全員?」

「うん」

 娘が先頭切って答えると、後ろの二人も頷いて同意を示した。

「南側にも貴女たちのような――存在がいるかもしれません」

 代わってマオが口を開いた。

「最終的には彼女たちも交えて、できる限りその希望に沿った対応をとりたいというのが私たちの方針です。今すぐ解放されたいと言うのなら、そうされて結構です」

 もちろん、「だったら」と立ち上がる者は皆無だった。

 娘たちにも、午前中に出現した食屍獣アルゴルの件は伝えてある。

 ただでさえ遭難の危険が高い山中だ。

 オルビスソーではそこを熊どころではなく、魔物が徘徊している。

 山賊や野盗にしたところで〈スリージィン〉だけが全てではない。

「南側の攻略後になりますが、貴女たちが望むなら、山賊達がため込んでいた財宝から一部をお渡しし、封貝を用いて安全に近隣の村、あるいは街まで護送する計画も立てています」

 マオの言葉に娘達ははっと顔をあげた。

 その三人へ順に視線を巡らせ、マオは続けた。

「貴女達にこちらが提示できる選択肢は三つ。

 一つ、地力で単独下山し、村に帰る。

 二つ、私たちの封貝を頼り、安全地帯まで届けられる。

 三つ、これまでの生活を捨て、私たちと行動を共にする」

 気の強い娘は、意味をはかりかねたように目をしばたいた。

「その、最後のはなに?」

 これには、代表者としてカズマが応じた。

「お話した通り、僕らはワイズサーガというレイダーの派閥です。それにレイダーとして、もしくはサポート要員として加わり、職を得るということです」

「職……? 仕事をいただけるのですか」

 後ろのふたりのうち、片方が熱に浮かされたような口調で訊いた。

「そうです」

「仕事って、どんな?」

 気の強い娘がどこか挑発的に詰め寄ってくる。

 怒りのためか、そばかすの散った頬は軽く上気していた。

「落ちるところまで落ちたんだから、今度はあんたたちに身体を売れってこと」

「それが天職だと思うならそうすれば良いけど、需要は……あるのかなあ。多分、うちの派閥内では今のところ、そういうのは求められてないと思うんですけど」

 ねえ、とばかり、マオに助け船を求める。

 だが、彼女からすれば口にするのもはばかられる話題らしい。

「知りませんよ」とそっぽを向かれた。

 少なくともケイスに商売しようとする女の存在は、このマオが絶対に許さないであろう。

 ともあれ、仕事は家事や子守などが考えられている。

 カズマはそう説明した。

 もちろん、特技を申告してもらえれば、それをいかせる役割の用意も考えるとも付け加える。

「奴隷になれというわけではありません。皆に平等に適用されるルールを守ってもらえるなら、貴女達はあくまで自由人としての仲間です。

 好きな時に脱退できますし、逆に言うとその権利を保証する以上、派閥を裏切るような存在であれば辞めていただくことになります」

「ちょ、ちょっと待ってよ。急にそんなこと言われてもさ」

「ええ、だからもちろん考える時間は提供しますよ。

 僕らが勝手に貴女達を解放しちゃったせいで、見せしめに村が襲われてしまうと思うなら、早めに帰宅を選択すべきではありますけど。

 急ぐ必要はなくなったと思うなら、とりあえずお試しで働きながら、これからのことを決めるのもアリです」

 思いかげない展開に、娘達は顔を見合わせていた。

 選択権など与えられない人生を送ってきたのだろう。

 その自由に戸惑っているようにも、選ぶことの怖さに初めて気付いたようにも見えた。

「――本当に彼女たちを引き込むつもりですか?」

 部屋を出たあと、階段に脚をかけたマオが振り返った。

「我々にそんな余裕はないでしょう」

 叱責口調だった。

「戦利品でちょっとした資産はできたじゃないですか」

「貴方は海を越えるつもりなんでしょう? だったら、あの程度はすぐに吹っ飛びますよ。

 戦力でもない人員を無駄に増やして、彼らはどうするんです。本土まで一緒に連れて行くつもりですか? 一人増やす度に、家を一軒買えるだけのコストが増えるのに」

 カズマは微笑した。

「海外まで付いてきてくれるとは限りませんよ」

 貴女がまさしくそうでしょう? とまでは言わなかった。

 だが、口にしなくても本音だ。

 マオがワイズサーガにいてくれるのは、結局、ケイスがいるからだ。

 彼を追いかけ、護士組の職すら捨ててここに来た。

 そのケイスからして、何の理由でこうまで力を貸してくれているのか定かではないが――

 ともかく、何かの事情で「これ以上は無理」と彼が言いだせば、マオは何の迷いもなく、むしろ喜んでワイズサーガを抜けていくだろう。

「仮に、金銭的に連れて行けないようなら、退職金をお渡しして派閥から外れてもらいますよ」

「たいしょく金?」

 マオがいぶかしげな顔をする。

「あれ、こっちにはないですか、そういうの? 僕の世界では、長く組織にこうけんした人が退職するとき、組織から手切れ金というか報奨金というか、そういうのが支払われるんです」

 勤続年数によっては、かなりまとまった額になる。

 それでしばらくは暮らしていけるし、その気なら商売を始める準備金にもなるだろう。

 そう説明した。

「少なくとも、じめじめした薄暗い檻に閉じ込められて、山賊達の慰み者を続けるよりは、短期でも給金と退職金貰える職を得る方がマシだと思いますけど」

「まあ、良いでしょう……」

 彼女は、両肩と一緒に片眉を持ち上げた。

「ここは貴方の派閥なのですから。使用人へうかつに資産管理を任せて、翌日ごっそり持ち逃げされていた――等ということにならぬよう、気をつけることです」

「はは、気をつけますよ」


 それからは各自、夕食まで自由時間となった。

 ナージャがミーファティアの遊び相手を引き受けてくれたため、カズマは束の間、独りになることができた。

 何で山賊が――。

 そう思わないでもないが、宝物庫からは楽器が幾つか発見されていた。

 そのうちの一つ、ハープとも琴ともつかない物を引っ張り出し、屋上に向かった。

 太陽は既に地平の向こうに没し、今は山並の輪郭を薄らと茜色に縁取る残照を残すのみだった。

 天穹の大部分は既に夜の装いで、支配者は太陽から双子の月に入れ替わっている。

 ほとんどコバルトブルーに染まった、夜に近い夕暮れ――

 Afterglowアフターグロウだっけ。

 カズマはなんとなく思い出した言葉に、少し目を細めた。

 何かの本で読んだのか。

 ヨウコあたりの話に出てきたのか。

 こんな細かい状況を表わす言葉があるとは、欧米の詩人はなかなかに情操豊かであったらしい。

 足元近くに〈不可視の楯板〉を召喚し、カズマはそれに乗った。

 無言で念じ、ゆっくりと封貝の高度を上げていく。

 高層ビルの最上階並のところまでくると、山中を吹き抜ける、木々の香りを微かに孕んだ風が前髪を揺らした。

 それでも、不思議と恐怖は感じなかった。

 畳みよりも小さな板の上だというのに、むしろ気分は落ち着いているくらいだ。

 久々に、本気でやれるかな。

 山をちょうかんしながら、ぼんやりと思った。

 インカルシ。

 ネクロス。

 ここのところ都市の中での生活が続いていたため、思い切り音を鳴らせる機会はなかった。

 壁の内側では封貝の使用が禁じられており、壁外に出るには時間がかかり過ぎた。

 何より、追跡部隊に狙われる身で目立つ真似ははっだった。

最後に気分良く音楽をやれたのは――

 考えてみて少し驚いた。

 バイトで農家に行った時か?

 収穫の作業中、農民達が口にする歌を学び、一緒に声を揃えた。

 あれ以来になるのだ。

 地球ではほとんど毎日、何かしらの音を紡いでいたというのに。

 持ち出してきた楽器は、全く未知の代物だった。

 うっすらほこりを被っており、常用されていた気配はない。

 金になるかと一応奪い、そのまま放置されていたのだろう。

 木製のずんぐりとした長方形で、長さは一メートルを超える。

 ギターのように弦が等間隔に並んでおり、本数は全部で七。

 しかしギターのフレット、琵琶のに相当する部位は見当たらない。

 まず、置き方、構え方からして正解が分からなかった。

 弓がないため爪で弾くのであろう事だけ、何とか想像が付く。

 だが、それだけ分かれば充分とも言えた。

 カズマは楯板に腰をえ、楽器に向かった。

 感覚的にはちょっとした対話だ。

 少しずつアプローチを変えて、相手を探っていく。

 知っていく。

 それは今まで出会ってきた楽器相手と同様、何もかもを忘れ、夢中になれる作業だった。

 何も変わらなかった。

 一五分もすると、ほとんど感覚が掴めてきた。

 この楽器は本来、座った膝の上に置き、同じ側の肩に立てかけるようにして構えるのが、恐らく正しい。

 三味線の〈さわり〉のように、開放弦でアクセントをつけ音に豊かさを持たせられる。

 途中で音高を変えることで、柔軟な転調が可能であるのもカズマ好みであった。

 明らかに左右で八本の指を使う用設計されており、弦は同時に複数を弾いても成立する。

 ここまで分かればもう、頭を使う必要はなかった。

 対話の相手は自分自身にシフトする。

 己の内側にあるものを音に変える段階だ。

 その手続きは、ほとんど勝手に動く身体と楽器の導きに従えば良い。

 本格的に一曲作る気ならまた別だが、今日のように即興で発散するだけならこれがベストなのは知っていた。

 気付くと、カズマは楽器の音色に自分の声を合わせていた。

 普段から曲は作っても、歌詞を付ける習慣はない。

 歌にすることは極めてまれだ。

 今日も、それは詞と呼べるほど明確なものではなかった。

 喉から出てくる声は、意味のある言語ではない。

 母音か、それに近しいただの「音」を流れに任せて放出する。

 それ自体、一つの楽器という感覚だった。

 曲調は、断じて軽快なものにはなっていなかった。

 これは容易に納得できる。

 ヨウコの喪失。

 先の見通しの立たない毎日。

 そんな中で否応なくつきつけられる命の選択。

 日本でのほほんとした生活は一変し、この一週間で何度も死にかけた。

 それも事故の類ではない。

 他人から悪意、殺意を向けられ、殺害されかけたのだ。

 刃物を向けられ、冷たい切っ先が肌を切り裂き、体内に差し込まれてくる身の毛のよだつ感覚も、まだ記憶に新しい。

 そして、人を殺した。

 人生を終わらせた相手を埋めるため、シャベルで穴を掘った。

 その屍肉を喰らわんとするおぞましい化物にも遭遇した。

 常に迷い、戸惑い続けてきた。

 翻弄され、恐怖に幾度も押し潰されかけた。

 否、実際にはとっくに潰れてしまっているのかもしれない。

 そのことに、麻痺した感覚が気付いていない。

 現実は、そんなところなのかもしれなかった。

 それで、内面を形にした楽曲が、明るくきらびやかなものになろうはずもなかった。

 弦の振動と共鳴から成る旋律は、苦悩と悲哀が誰にも窺えるものになっていた。

 喉から迸る声に到っては、獣の遠吠え――あるいはもっとあからさまな、どうこくにさえ聞こえたかもしれない。

 弦をかき鳴らしながら、上体を大きく反らし、顔を跳ね上げる。

 額を伝っていた汗が飛沫として散る。

 睨み付けるように上空を見据える。

 散りばめられた星々をあまさず震撼させんとばかり、超高音声(ヘッドヴォイス)を最高出力でほとばしらせる。

 その時だった。

 無我の境地にあったカズマは、自分が何かに囲まれていることに、ようやく気付いた。

 煙草たばこの紫煙を思わせる、細長いもやが数筋、踊るように揺らめいている。

 それらはカズマを四方八方から包囲し、ゆるやかな螺旋の軌道を描こうとしていた。

 ただの煙、自然現象でないことは明白だった。

 鮮やかでありながら神秘的な薄緑色は、全体が淡く光を放ち、輪郭をぼかしている。

 理由は分からないが、カズマは危機感や恐怖を抱かなかった。

 むしろ、陽だまりに迷い込んだような、あたたかさ、心地よさが本能的に感じられた。

 同時に、この不思議な現象には、意思が宿っている気もした。

 知性がある。

 音――それが紡ぐ旋律を理解している。

 そして、ここで手と声を止めることを、相手は望んでいない。

 聴きに来たのか。

 むしろ、直感的にそう思った。

 未知の存在への、好奇心とちょっとした冒険心。

 両者が、自然と曲調に変化をもたらした。

 気分が変われば音も影響を受ける。

 特に即興では当然の話で、カズマはこれを自分の鼓動音のように自然と受け入れた。

 カズマは腰の高さに、無口訣で追加の楯板を召喚した。

 立ち上がり、楽器はその上に据える。

 今や、光るエメラルドグリーンの筋は、互いにからみ合って一つの群体を成そうとしている。

何が起ころうとしているのかは分からない。

 だが、旋律と歌に反応していることは、直感で分かった。

 面白い。

 カズマの唇は自然と笑みを形作る。

 真っ向から相手と対峙し、挑みかかるように一歩踏み出した。

 かなで、歌った。

 どれくらいしてか、遂に最後の一音を発したカズマは、息を弾ませ目を閉じた。

 それが世界に拡散し、浸潤し、そして長い時間をかけてゆっくりと闇夜に溶けていくのを聞き届けた。

 しびれにも似た余韻が、身体の芯をまだ微かに震わせているのを感じる。

 カズマは微笑しながら、ゆっくりと両の目蓋を開いていく。

 正面に輪郭が薄く透き通った、緑色に輝く若い女性の姿があった。

 一目で、音と共に周囲を踊り、戯れていた光の筋の束が――彼女であったことは分かった。

 同様に、彼女が今まで見てきたどの種族ともまた違う、人外の存在であることも確実だった。

「久しぶりに、思いっきりやれたな……」

 彼女から視線を外し、顎を少し上げながら軽く、短く息を吐く。

 それからまた、彼女の目を戻した。

「貴方はの〈オウル・オ・イレス〉でいらっしゃるのでしょうか」

 女性が言った。

 鈴振るようなその美声には、リヴァーブをかけたような、反響に近い微かなブレのあった。

 すぐ目の前にいるのに遠くから響いてくるようにも、空間全体から声が降ってくるようにも聞こえる。

 天使がいたなら、こんな風に喋るのだろう。

 それが演出だとすれば、完璧な仕事と言えた。

「えっと……」

 カズマは軽く首を傾げて答えた。

「よく分からないですけど、僕は、姓をナンジョウ、名をカズマという者です。

 あなたが誰をお捜しなのかは知りませんけど、人違いじゃないでしょうか。僕は異界から来たただの人間エインですので」

 言葉の意味が伝わったのか、そうでないのか。

 思いがけず、彼女がにこりと微笑む。

 まったく意味合いを理解できない笑みであったが、とにかく彼女が善良で、かつ敵意を持っていないことは了解できた。

 そうかもしれないと覚悟していたことだが、全力での歌唱は二〇メートル以上の距離を置いても、しっかり建物に届いてしまっていたらしい。

 館の屋上には、ほとんど派閥のフルメンバーが勢揃いで、カズマを待ち構えていた。

 ナージャが「ダーガ」と大声で呼ぶので、挨拶を交わしたばかりの女性を連れ、ゆっくり高度を下げていく。

 それでも待ちきれなかったか、ナージャはまだ屋上につかないうちに飛んで迎えにきた。

「おい、ダーガ。大丈夫なのか!」

 血相を変えた彼女は、すぐにカズマの背後に鋭い視線を投げる。

「ああ、大丈夫。大丈夫。なんの危険もないよ」

「空は空で翼のある危険な魔物が襲ってくることもあるのだぞ」

 言われてみれば、その通りだった。

 〈果ての壁〉を越えて初めてこちらに来たとき、いきなり異世界を実感させてくれたのが、プテラノドンのような凄まじい巨鳥の姿であったことを思い出す。

「そう言えばそうだったね。ごめんごめん」

 実際に舌こそ出さなかったが、近い感覚で軽く謝る。

 直後、足場にしている封貝が地上五〇センチほどの位置に到ったので、カズマは両脚を揃えて一気に飛び降りた。

 着地後、少し崩れた体勢を立て直す間も与えず、複数の足音が近付いてきた。

「カズマ君、その……そちらの、方は……」

「貴方、それは――まさか!」

 エリックとマオが、それぞれ日本語と共通語で声を重ねた。

「あ、はい。紹介しますね」

 カズマは後ろをふわふわと浮いている、美貌の貴婦人を振り返って言った。

「こちら、さっき上で会った、ドリュアスさん。この山に住んでるなにやら精霊的な方だそうです」

挿絵(By みてみん)

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