影の国〈ダァン・スカー〉
042
「――仕事を受けるのは良いとして、その前に俺たちは自分の身を案じないといけない立場にある。もうそこまで迫っているであろう護士組の追跡部隊――〈青薔薇〉たちから逃げ切らないと、自由には動けない」
このケイスの指摘通り、エリナー・フォウサルタンにとって人格面では理想的と言えるワイズサーガにも問題はあった。
何か謂われのない罪を着せられ、治安当局に追われているという事実である。
しかも、身柄の拘束ではなく抹殺指令が出ているというから普通ではない。
「相手は国家的戦力を誇るインカルシ護士組からの選りすぐり五名。規模こそ小隊クラスだが、その力は戦略級だ。正面から戦ってどうにかなる相手じゃない。奴らの追跡を一時的にでも振り切るためには、ここにいる全員が力を出し切る必要がある。――フォウサルタン嬢。戦闘型ではないにせよ封貝を持つなら、貴女も例外ではない」
「はい。微力ですが一生懸命頑張ります」
エリナーも、その覚悟はとうに決めていた。
もともとリロイ奪還のためにできることがあれば自らも力を尽くし、場合によっては身体を張るつもりであったのだ。
「敵はプロだ。全滅と背中合わせの勝負になる。全員、知恵を持ち寄ってくれ。思いついたことは絶対に遠慮するな、必ず言葉にして伝えるんだ」
そう言われはしたが、エリナーはどこか及び腰だった。
身が入らないと言うと語弊があるものの、感覚的には近いものがあった。
そもそも、護士組のことなど何も知らないに等しい。
ワイズサーガの面々が彼らに追われるようになった経緯、事情についてもしかりである。
見つかれば即座に処刑。
全滅の危機。
なるほど、それだけ聞けば恐ろしげではある。
しかし、どこか遠い――
物語の中の話のように感じられることも事実だった。
イメージや実感がわかないのだ。
だが、この一種、お客さん気分ともいうべき状態は、宿を出て間もなく吹っ飛んだ。
相手に不意を突かれるくらいなら、準備を整えて待ち構えた方が良い。
場所は、そんな理屈でワイズサーガが選んだ、ネクロス近郊の空き地だった。
レイダーたちは襲撃を確信しているようだが、本当に敵は現れるのか――
そんなエリナーの疑念を余所に、彼らは来た。
「お客さんだぞ、ダーガ。猫とサタンも私の傍に来るのだ」
ナージャ・クラウセンが、初めて見せる険しい表情で言った。
「あ……はいっ」
封貝使いの端くれとして、エリナーにも封貝の気配を感じ取ることくらいはできる。
だからこそ、思い知った。
ワイズサーガが〈青薔薇〉追跡部隊をああまで恐れ、警戒していた理由をようやく理解した。
それはたとえるなら雷鳴だった。
清々しい晴天であった周囲に、冗談のような速度で暗雲が垂れ込め、遠くに稲光が見えはじめる。
それも数と規模が尋常ではない。
同時に五本一〇本と、極太の稲妻が走り、遅れて鼓膜を撃ち抜くような破裂音が轟き渡ってくる。
それが、徐々に――だが確実に自分へ近付いてくる。そんな感覚だった。
自然の驚異が、まるで意志を持ち狙いを定めたかのごとく、まっすぐにこちらに迫って来る。
雷光と神鳴の轟音は急速にその間隔を狭め、気付けばほとんどタイムラグをなくしている。
向う正面の森から疾駆する三頭の騎馬が現れた時など、天穹を両断して落ちてきた稲妻が、眼前の大地に爆裂したかのような衝撃だった。
気付けば、エリナーはカズマの腕に取りすがっていた。
動悸が収まらない。
脂汗が額を伝っていく。
ぞわり、鳥肌さながらに内臓が泡立つような不快感が、吐き気を呼んだ。
なのに〈青薔薇〉をその目で見た瞬間、全てが吹っ飛んだ。
エリナーはただ息を呑み、口を半開きにし、呼吸も忘れてただただ彼女に見入った。
魅入られていた。
だしぬけに「荘厳」という表現が脳裏に浮かんだ。
今まで一度として使用したことのないそれは、この時のために大切にとっておかれたものだったのだろう。
輪郭に燐光を帯びているかのような〈青薔薇〉の神々しさは、もはや彼岸の存在。一枚絵の中の英雄そのものであった。
「お久しぶりですね、ヴァイコーエン卿。そして我が友マオ・ザックォージ。私が何故、この場に現れたかには想像が付きますね?」
鈴振るような声が凜然と響いた。
「メイヴ……」
マオ・ザックォージが呻くように低くつぶやく。
「私は出奔した貴女と、これに関与した者の処分を命じられました。その任を帯び、兵を預ってここに来たのです」
言葉の直後、エリナーはドンという重たい衝撃を受けて前後の感覚を失った。
途方もない質量をともなった何かに翻弄され、息もできない。
河川の氾濫に飲み込まれた――?
あり得ないことだが、一瞬本気でそう思った。
それ程の衝撃だった。
強い力を持った封貝――たとえば最終決戦封貝級の大出力攻撃――ならば、陸地に大洪水を生み出すことも、あるいは可能であるのかもしれない。
「エリナーさん!」
慌てた声がした直後、カズマとエリックがその力強い腕でエリナーを助け起こしてくれた。
そうしてようやく、エリナーは自分の身に何が起こったのかを理解した。
いつの間にかメイヴ・〝青薔薇〟・スカイアナハの手には、青白く輝く騎士槍が構えられている。
だがそれは、エリナーの予想とは裏腹にリーサルフォックスなどではなかった。
〈青薔薇〉自身の唱えた口訣も証明している。
――Fox 1。
エリナーの耳朶を打ったのは、確かにその一言であったのだ。
なんでもない。
〈青薔薇〉は、最も基本的な封貝を召喚したに過ぎなかったのだ。
ただそれだけの何気ない動作が、エリナーには一種の爆発――リーサルフォックスの炸裂のようにすら錯覚されたのである。
追跡部隊の覇気に圧倒され、縮こまったバネのように恐怖で凝り固まったところへ、封貝の召喚が呼び水となった。
それは、全身の筋肉に感電にも似た急激な収縮、痙攣を発生させ、エリナーを弾かせた……。
突き詰めれば単にそれだけの事なのだろう。
要するに、エリナーは驚愕のあまり勝手に跳ね飛んだに過ぎない。
だが、本人からすればそれで済む話ではなかった。
自分が敵に回した青級、百人長級といった封貝使いがどれほどの化物であるのか、ようやく理解させられた思いだった。
もし、〈スリージィン〉に捕らわれの身であったときこれを知っていたなら――
間違いなく心を折られていただろう。
今、エリナーは確信する。
逃げ出し、誰かの力を借りてリロイを自由に――
そんな甘い夢は決して見なかったに違いない。
今、なんとか正気を保って立っていられるのも、カズマたちに縋り、その背に隠れていられるからでしかなかった。
でなければ発狂しているか、何もかもかなぐり捨てて泣いて許しを請うていたかもしれない。
「マオ・ザックォージ。ケイス・ヴァイコーエン……」
青薔薇が静かに告げた。
「私は貴方がたをこの手にかけねばならぬのです」
「逮捕・拘束ではなく、いきなり処刑とは」
武器を突きつけられながらも、マオ・ザックォージに臆する気配はない。
決然と返した。
「メイヴ。貴女ほど筋立てにこだわる人が、この理不尽になんら疑問を持たなかったとでも言うのですか」
「確かに……今回の護士組の動きには色々と疑問があります」
意外にも〈青薔薇〉は即座に認めた。
だが、突き出した鋒は揺るがない。
「貴女たちばかりでなく、ショウ・ヒジカまでもが行方をくらましたことで、彼が担当した〈赤繭〉に関連する事件にも様々な不可解が生じていることも、私自身、感じないわけではありません」
「ならば――」
「ですが」
語気を強め、〈青薔薇〉は相手の言葉を遮った。
「マオ、貴女が正当な手続きを踏まずに職務を放棄したことは事実。
同じ事がそちらのヴァイコーエン卿にも言える」
「それは……」
「常時ならばまだしも、緊急時における無許可の離隊は戦時下における敵前逃亡にも等しい。それに準じる処分を受けるとは、隊規にも定めのあること」
「…………」
「そして当時、我等がインカルシは、ましさくその非常事態の最中にあった。市内で同時爆破とも思える異音騒ぎが連続し、市壁のすぐ北側では大規模な森林火災が発生していたことを、よもや知らぬとは言わぬでしょう。
加えて同日、死刑囚であった〈赤繭〉が卑吝の丘への移送中、〈地底の嘆き〉を名乗る正体不明の結社によって連れ去られ……これの護衛に当たっていた玄武隊の隊士が数名負傷。現場からは、名士として知られていたスコッチ・スウォージ氏の焼死体も発見されています。
なにか深刻な、看過しがたい事態が我等の街の治安を脅かしていたことに疑いの余地はない。出奔のタイミングから、これらに貴女たちの関与が疑われるのも自然なことではなくて?」
「――信じてもらえるかは分かりませんが、少なくとも私はインカルシで起こった爆発騒ぎにも、森林火災にも、そしてスウォージ氏の焼死にも関係などありませんよ」
〈青薔薇〉は表情を変えなかった。
取り合わなかったのか、信じなかったのか。
そのどちらでもないのか。
「では、なぜに出奔を?」
ただ、事務的な口調で彼女はそう問い返した。
「護士組を抜けたのは個人的な事情です。辞職に際し正式な手続きを踏まなかったのは――貴女も同じく貴族出身であるならば分かるでしょう。実家に知られ干渉されるのを避けるためです」
「マオ」
稚児の駄々を諫めるような顔だった。
「確かに貴女と私とは境遇が似ている。言いたいことは分からないではない。ならば同様に、はいそうですかとここで素通りを許すことができない私の立場も、理解できるはず」
二人の麗人はしばし無言で見つめ合った。
「……問答無用、ということですか」
やがて、諦観混じりに嘆息するザックォージ嬢に、〈青薔薇〉は薄く慈悲の笑みを浮かべて見せた。
「いえ……メインターゲットである貴女には手心を加えることができない、と言っているだけです。
私たちは関係者と目される者の処分も同時に命じられていますが、どこまでを関係者とするかは、ある程度、現場の裁量に任されるところがある」
ザックォージ嬢は真意を問うように〈青薔薇〉を窺う。
嘘偽りないと見たのか、程なく口調を微妙に改めつつ言った。
「ならば、取引をしませんか。メイヴ」
「取引――?」
「そうです。この首をご所望とあらば、私はここに留まりましょう。多少の抵抗くらいはするかもしれませんが、少なくとも逃げはしません。この身が朽ち果てるまで貴女たちの相手を務めますよ」
「……ほう」
感心を引かれたらしい。
金色に輝く、やや茶色がかった〈青薔薇〉の柳眉が微かに揺れた。
「要求はなんです」
「相手をするのは私のみ。この場限りで構いません。他の者には手を出さない。それが要求です。貴女たちも、私さえ処断できれば最低限の仕事をしたことになるでしょう」
「おい、ザックォージ!」
顔色を変えたケイスが鋭く叫ぶ。
だが、ザックォージ嬢は振り返りさえ為なかった。
ただ手振りだけで元上司の口出しを制す。
メイヴもちらとケイスを一瞥しただけで、すぐに相対するザックォージ嬢へと意識を戻す。
「大人しく首を差し出すかわり、仲間を見逃せと?」
「悪い話ではないでしょう?」
マオ・ザックォージはすぐに言った。
「あくまで皆殺しというなら、こちらも全力で応じざるを得ない。結果として勝つのはそちらかもしれませんが、隊長格の封貝使いを複数敵に回せば、貴女たちとて大きな犠牲を払わねばならないでしょう」
――実を言うなら、ケイスの介入も含め、この展開は事前の打ち合わせ通りだった。
護士組は高度な職人集団である。
必然、人材の育成には莫大な時間と資金をかけている。
メンバーは誰であれ、幾らでも替えの聞く消耗品とは別格の存在なのだ。
「それを踏まえた上で考えれば、俺やマオを殺すというだけでも、護士組は隊長格を複数失うという大損害だ。その上、追跡部隊からも死者が出れば目も当てられない。
そもそも今回の話は、ザックォージ家がねじ込んできたもの。護士組からすれば、最初から割に合わない仕事なんだよ」
――とは、護士組で隊長を務めていたというケイス自身の弁だ。
目標を達すること。
部隊の被害を抑えること。
彼によれば、隊長格とは両者のバランスを考え、落し所を探らねばならないものだという。
「だからもし、俺が〈青薔薇〉なら――この話にはのる」
結論として、ケイスのこの読みは当を得ていた。
「……良いでしょう」
短い沈黙を挟み、薄桃色をした〈青薔薇〉の唇がそう紡いだ。
「マオ。貴女はここで私と立ち合っていただく。いずれかが死ぬまで、一対一の決闘です」
今度は、追跡部隊側が抗議の声をあげる番だった。
「隊長!」
「それはあまりに危険すぎます」
口々に諫めてくる部下たちを、メイヴ・スカイアナハは――ザックォージ嬢がケイスをそうしたように――無言の仕草で封殺した。
真っ直ぐに相手を見詰めたまま続ける。
「貴女にはこの決闘を受けることを、ザックォージの家名とカント神に誓っていただく。それでよろしくて?」
対するザックォージ嬢は姿勢を正し、すっと開き気味にしていた踵を引きつけ合い、何かエリナーの知らない儀礼的構えを取った。
「この身の朽ち果てるまで、貴女とここに死合う。特に家名にこだわりはありませんが、それでも誓約せよというのなら、ザックォージの家名と契約神カント、双方にかけて誓いましょう」
凜然と宣言する。
「結構。ならば、私も同様に家名とカントに誓って、貴女の連れ合いには手を出さぬと約束しましょう。少なくとも貴女の最期を本部に報告し、残った関係者をどうするか正式な判断を仰ぐまでは」
「それで構いません。ただ、一つ願えるなら――」
言いかけて、躊躇するようにザックォージ嬢は口を噤んだ。
〈青薔薇〉のメイヴが、訝しげに首を傾げる。
「なんです、マオ。最後に何かあるのなら、友人として聞き届けますよ。もちろん、できることには限りがありますが」
「いえ……些末なことですよ」
ザックォージ嬢は軽く首を振る。
どこか自嘲的な笑みだった。
「ただ、どうせなら、まだ見ぬ貴女の最大奥義で結末を迎えたいと。ふと、そう思っただけです」
「それは……」
なにか、戦士同士でなければ分からない心の機微のようなものがあるのだろう。
メイヴは呻くようにつぶやく。
「なるほど……確かに、立場が逆であったなら、私もそのように考えたかもしれません。ですが良いのですか? これを披露すると、もはやまともな争いにならないかもしれない」
挑発ではない。
単に、事実を言葉にしただけ。
そんな表情と口ぶりだった。
ザックォージ嬢がふっと唇の端を吊り上げる。
「大した自信ですね。そちらこそ良いのですか? 貴女のリーサル・フォックスについては誰の口からも具体的な話を聞いたことがありません。かなり気をつかって秘匿していたのでしょう?」
これは至極当然の話だった。
一般的に、封貝使いは自分の能力を伏せたがる。
レイダーなどは、時に実力を示すため手札を一部オープンにすることがあるが、それでも全てを明かすということはない。
知られれば対策される。
未知であれば牽制、抑止力になる。
そうした考えが支配的だからだ。
エリナー自身もそうである。
「構いませんよ」
〈青薔薇〉は事も無げに言った。
「別に知られて困るから隠していたというわけではないのです。私のリーサルはまだ未完成。まだ、人様の御目にかけるには早いと――、ただ、そう思っていただけのこと」
言葉と同時、〈青薔薇〉がすっと双眸を細めた。
突然、気温が急下降したかのように空気がビンと張り詰める。
鼓膜の奥で、金属的な耳鳴りがしたかと思うと、いきなり音が遠ざかっていった。
風。
草木のざわめき。
鳥の羽ばたきと虫の音。
そして自分自身の息遣いすら、あらゆる音が世界から失われていく。
「我が友、マオ・ザックォージ。せめてその願い通り、我が術理の深奥、秘中秘をもって手向けとしましょう」
〈青薔薇〉がどこか切なげな色を瞳に湛え、そして厳かに口訣した。
「最終決戦……封貝――」
変化は、彼女の足元から現れた。
〈青薔薇〉の影が鮮やかなサファイア色に輝きだし、大地を侵蝕するように拡大していく。
直後、その蒼影から間欠泉のごとく何かが噴きあがった。
それはさながら、何億というモルフォ蝶が空へ向けて一斉に飛び立ったかのようだった。
視界の全てが目の覚めるような美しいブルーに埋め尽くされていく。
「これは……青い、花びら……?」
「全員身を寄せ合え! 障壁を展開しろッ」
レイダーたちが怒号をあげるなか、エリナーはただ呆然と迫り来るそれに見入っていた。
たとえるなら、重力の反転により天に遡る青い大瀑布。
その恐るべき奔流が今まさに自分を飲み込まんとしているのに、なぜか目が離せない。
動けない。
精神を引き裂くような恐怖は不思議と感じなかった。
ただ、何か雄大な自然現象を目のあたりにしているような、深い畏敬の念があった。
それは、美しさすら感じられる世界の神秘に見えた。
「――我が〈影の国〉の領域へようこそ」
穏やかながらも凜然と響くその〈青薔薇〉の一言で、エリナーは我に返った。
気付くと、そこは青い薔薇の咲き乱れる花園だった。
先程まで怒涛のごとく噴き上げられていた幾億もの青い飛散物が、反転して降りそそぎ始めたのだろうか。ゆらゆらとどこか音楽的な軌跡を描きながら舞い落ちてくるのは、半ば透き通ったスカイブルーの花弁だ。
それらは一面に絶え間なく降りそそぎ、地表に触れる度、新たな青薔薇として芽吹いていく。
目に見えている物が夢幻の物でないことは、嗅覚が証明していた。
青薔薇から立ち上る香気である。
世界を優しく包み込むそれは、視界を埋め尽くす幾千万の花々が醸し出すそれとしては主張が控えめで、どこか高雅な趣を感じさせた。
胸一杯に吸い込むだけで何か浄化されそうな気がする、しつこさのない上品な芳香だ。
「これは……」
「なんでだ! 私の〈*旋火の綾〉がなんかへろへろだぞ」
あの冷静沈着なケイスが狼狽の表情を見せたかと思えば、ナージャのあげる驚愕の叫びがそれに重なる。
「僕の〈不可視の盾板〉もだ。消え、た……?」
背中にエリナーをかばってくれていたカズマもまた、呆然と目を見開いていた。
口々に語られる通り、レイダーたちが展開していた防御封貝はことごとく消失するか、効力を失っている。
常時顕現型だというナージャの赤いマフラーとて例外ではない。
形は保っているが、萎れた花のように力なく主の首元に垂れ下がるばかりであった。
「空間……支配系!」
なにか信じがたいものを目撃したように、ザックォージ嬢がつぶやく。
その表現は、エリナーも耳にしたことがあった。
――空間支配系。
そも、封貝コンポーネントセットの中でも随一の効果、威力、性能を誇る切り札的存在。
それがリーサル・フォックスだ。
所持者は全封貝使いの中でも三割から四割程度と言われるこの最終奥義の中にあって、最強にして最悪、至高とされている絶対的存在が〈空間支配系〉である。
それは、既存の世界を塗りつぶすように創造される、一つの別世界であるらしい。
曰わく、強力なものにあっては、時間や空間、法則、因果律、確率、概念、存在、生物の生き死にまでもが術者の自在となる――まさに絶対領域。
これらの巷説が事実なら、まさに自らを神と成す奇跡の御業としか言いようがない。
「スカイアナハ隊長、これは……」
「封貝を呼べないぞ」
「なぜ、僕たちまで……こんなに身体が重く……」
〈青薔薇〉の支配領域は、後方に控えていたはずの部下たちをも取り込んでいたらしい。
彼らは不安を隠そうともせず上司の背へ揺れる瞳を向ける。
〈青薔薇〉の切り札は、直属の部下にまで秘匿されていたのであろう。
「――申し訳ありませんが、少しの間辛抱なさい」
信じがたいことに、メイヴ・スカイアナハは対峙するザックォージ嬢から、躊躇いなく視線を切った。
そして余裕たっぷりに身体ごと後方の部下たちに振り返ると、詫びの言葉を口にした。
「私の〈影の国〉は、先程言ったようにまだ未完成。こなれてくれば敵味方を区別して扱えるはずなのですが――現時点ではそういった細かい調整はできないのです。多少の不快感はあるでしょうが、まあ、死にはしないから気にしなくてよろしい」
「嘘、でしょう……?」
部下の一人、温厚そうな青年が血の気の引いた顔で呻く。
「身体に力が入らず、倦怠感があるだけであるはずです。それは〈影の国〉に充満するこの芳香〈ミスティパープル〉によるもの。毒というわけではありません」
えっ、という顔で彼女の部下の数人が鼻をつまみにかかる。
近くでは、カズマやナージャも慌てた様子で同じ動作をとっていた。
「鼻をつまんだり呼吸を止めても無駄ですよ。この薔薇の香り――〈ミスティパープル〉が充満しているという事実を私が認めた時点で、効力は発揮される。匂いは嗅ぐものという常識は、この領域内では通用じぬのです。ルールは私の支配下にある。たとえ鼻のない生物であっても〈ミスティパープル〉の影響からは逃れられない」
言い放つと、〈青薔薇〉は返答も待たずに正面に向き直った。
「さて、約束を果たして頂きましょうか。友よ」
「貴女こそ、約束を守ってもらいますよ。どういうつもりで巻き込んだのかは知りませんが……私以外の者に手出しは許しません」
「無論、言ったことは守りますよ。未完成故、範囲を細かく調整できなかっただけです。事が済めば速やかにこの領域を解き、彼らを自由にすると改めて約束しましょう」
気丈に振る舞っていたザックォージ女史も、これには思わず安堵の表情を垣間見せた。
だがもちろん、余裕など欠片もない。
「それにしても……空間支配系のリーサルフォックスとは。知らぬ間に、随分と大きく水をあけられていたわけですね。これからは迂闊に好敵手など名乗れませんか」
「だから言ったでしょう? リーサルを出せば、もはや勝負にはならぬやも知れぬと。それに、貴女はこれからのことを心配する必要などありませんよ」
〈青薔薇〉の声音には、やはり侮〈ぶ〉蔑〈べつ〉の色は全くなかった。
淡々と事実を告げる口ぶりだった。
「注意なさい、マオ。〈ミスティパープル〉は貴女らの膂力、速度、反応、思考……全ての能力を大幅に弱体化させる一方、私の能力に関しては全てを爆発的に向上させます」
「聞きしに勝る反則ぶりですね……空間支配系というのは」
引き攣った笑みを浮かべるザックォージの横顔を、つと汗が伝っていくのが見えた。
「――では、死合いと参りましょうか。マオ」
「くっ」
弾かれたように、ザックォージ女史が後ろ向きに跳躍した。
空中で「移動系封貝」を口訣する。
召還の求めに応じ現れたのは、一頭の白馬だった。
否、正確にはただの白馬ではない。
体長に匹敵する長大な角を持つ、一角獣であった。
それが、見えない足場でもあるかのように、空中を思うがまま疾駆している。
後光さえ差そうかというその神々しいまでの佇まいと、燐光を発しながら揺らめく豊かな白銀の鬣……
たとえ初見であれ、到底見紛うものではない。
すなわち、伝説に謳われるカルタゾーノス。
ほとんど絵本や吟遊詩人のサーガの中にしか登場しない、まさに幻の神獣である。
「――さすがは一角神馬の上位種。
私の未熟な空間支配では、その圧倒的な神威を削ぎきれぬのも道理。それを自在に使役するマオ、貴女もまた敵ながら見事です」
まさに人馬一体。
肉眼では追跡しきれない、まさに神速で大きく間合をとった相手方に対し、〈青薔薇〉は感嘆と賞賛の声を惜しまない。
だが、マオ・ザックォージはそれを額面通りに受け止めはしなかっただろう。
確保した間をいかして遠距離攻撃を――と「Fox 2《フォックス・ツー》」を唱えるも、これがあえなく不発に終わったからだ。
空間に一瞬ノイズが走り、弓らしき何かの姿が一瞬チラついたかと思った瞬間、しかし、それは弾けるように霧散していた。
エリナーの目にも、愕然と目を見開き、すぐに眉間に深い皺を刻んだザックォージ嬢の険しい表情が見えた。
「友よ。私は貴女の求めに応じ、最大戦力にて相対しているのです。ならばそちらも相応の構えで臨むべきではないか?」
端的に言えば、お前もリーサルフォックスで来い、ということのなのだろう。
この〈青薔薇〉の言には一理あった。
多方、エリナーにはマオ・ザックォージの意図も理解できた。
リーサルフォックスを前にして活路を見出せない場合、もっとも有効な対策があるとしたら、恐らくはそれは逃げだ。
絶大な威力を発揮するリーサルフォックスは、それだけ発動や維持に大きなエネルギィを必要とする。
多くは燃費の良い技ではない。
長時間維持できないのなら、時間を稼いで凌ぎきる。
一概には否定できない戦術であるはずなのだ。
と、考察の途中、いきなりマオの姿が跨がる一角獣ごと忽然とかき消えた。
「えっ――」
エリナーは思わず声をあげる。
「後ろだ」
ケイスが落ち着いた口ぶりで指摘した。
言われて、エリナーはそちらへ顔を振る。
事実、優に一〇〇歩はあったであろう距離を、ザックォージと上位カルタゾーノスは一瞬で縮めていた。
その上、対峙していたはずの〈青薔薇〉の背後をとっている。
目で追えない高速移動どころではない。
もはや瞬間移動としか思えない神業だった。
「その通り、あれは瞬間移動だ」
ケイスが思考を読んだように言った。
「もともとカルタゾーノスは、短距離かつ大雑把な精度でなら瞬間移動が可能な種族だ。ザックォージのあれは、その上位種。本来なら長距離を高い精度で、痕跡を消しながら移動できる……はずなんだが」
「はず――?」
カズマが眉をひそめる。
「あれは失敗だ」
「えっ……」
あれで――?
そう思いつつ、ケイスの言う失敗がなにかを考えた。
ザックォージ嬢は、〈青薔薇〉から一〇歩ほどの場所に乗騎ごと転移している。
直後、蹄で土を抉り飛ばしながらイゼル・カルタゾーノスが猛然と加速を開始。
怒涛の助走をして神速に達した鋭利な角が〈青薔薇〉を穿たんと迫る。
同時、馬上からは――驚くべきことに――身を躍らせたマオ・ザックォージの鋭い蹴りが唸りを上げて放たれていた。
この連劇を防いだのは蒼い障壁だった。
そうとしか言いようがなかった。
足元一面に咲く青薔薇が、危険を予知したかのようなタイミングで、噴火さながらに花唇を迸しらせたのだ。
絶え間なく降りそそぐ花びらもまた、自らの意思を持つかのごとく超速度で大群を成す。
花びらと打突打撃の激突とは思えない、超重量の金属をかちあわせたような異音が花園に轟き渡る。
〈青薔薇〉は微動にしない。
視線すらくれない。
嘲笑うかのような余裕の完全防御だった。
攻撃の成否だけ見れば、確かに失敗ではあったのだろう。
だが、エリナーの目には瞬間移動までもに問題があったようには見えなかった。
「助走が長すぎた」
首を捻るエリナーを見てか、ケイスが解答を口にした。
「虚を衝くなら距離はあの半分もいらない。だから簡単に対応される」
「じゃあ、あの幻獣もこの薔薇の匂いで弱体化を――?」
横から挟まれたカズマの言葉に、ケイスは重々しく頷いた。
「俺たちでいうなら、自分の身の丈ほども幅のある道を、普通に歩いて踏み外すようなものだ」
「ぐでんぐでんに酔っ払ってでもないとあり得ないですね」
「あの神獣がこの距離の転移でポイントをずらすというのはそういうレヴェルの話だ。……想像以上に質が悪いぞ、この陣は」
実際、ケイスの言う通りだった。
マオはその後もあらん限りの封貝の召喚を試みたが、攻撃系はどれも実体化までいかなかった。
こうなると、攻め手は極端に制限される。
イゼル・カルタゾーノスの角と体当たり、自らの四肢を使った打撃が精々だ。
しかし再三に及ぶそれらも、花弁の障壁の前には微風も同然だった。
「マオ……私の体力切れを待っているのなら、それは悪手と言わざるを得ない」
どことなく失望感を匂わせた〈青薔薇〉の声が聞こえた。
対するマオ・ザックォージは無言だった。
それどころではないのだろう。
体力の低下が著しく、遠目にも肩が荒々しく上下しているのが分かる。
乗騎の方も全身にびっしょりと汗をかいていた。
ふわふわと風になびいていた豊かな銀の鬣は、濡れそぼち重たげに寝ていた。
エリナー自身も感じていたことだが、この世界では時間経過で弱体効果が進行するらしい。
長くいればいるほど力を失う。
時間稼ぎを許さない仕様であった。
「嬲るつもりはない。貴女の抵抗がこれまでとあらば、そろそろ幕としましょう」
その言葉に反応してか、マオたちの姿がかき消えた。
攻撃が来ると悟り、再び間合を取ったのだろう。
相手の大きさが半分になるほどの距離、二階建ての屋根ほどの高さの虚空へ一気に転移する。
だが、その試みは全くの徒労に終わった。
「――〈骨董の振り子時計〉」
〈青薔薇〉の口唇が初めて聞く追加口訣を結ぶ。
瞬間、マオたちが転移した座標の直下で、爆音が轟いた。
相手がどこにどう跳ぶのか事前に知っていたとしか思えない。
そんなタイミングで地を割り、土煙を巻き上げながら猛然と飛び出してきたのは、一本いっぽんがちょっとした樹木ほどの太さを持つ、昇り龍――のごとき何かであった。
互いに絡み合いながら一本の塔のごとく天を衝く複数の昇龍たちは、転移直後の硬直状態にあったマオ・ザックォージと上位一角獣を一瞬で飲み込んだ。
そしてようやくその狂気的上昇の速度を緩めると、最後に頂上にて剣弁高芯も見事な、薄紫の巨華を咲かせた。
その段にいたり、エリナーたちはようやく理解した。
あれは龍などではない。
包丁ほどもある殺人的スケールの棘を無秩序に並べてた、薔薇とその蔦であったのだ。
「あれは……なんなのだ?」
口を半開きにするナージャの声に、ケイスのかすかにかすれた声が答えた。
「多分、あれは……薔薇科に属するものとしてはオルビスソー最大種の植物だ」
「流石はヴァイコーエン卿。博識でいらっしゃる」
どんな聴覚で捉えたのか、〈青薔薇〉が遠くこちらに顔を向けてくる。
よく通る声が朗々と語った。
「その通りで、実在する名をそのまま〈骨董の振り子時計〉という薔薇の一種です。皮層は鉄より頑強。一般的な斧などでは傷一つつけられないという特殊な種で、それ故に宝貝を取り込んだ存在ではないかとも言われていています。
大きな物だと、見ての通り建造物サイズにまで育つものの、普段はその大部分を地中に潜らせています。大型の獣を発見した時にのみ、一気に地表を割って現れ、内側に獲物を捕らえる。絡め取られた獣は、壊れた時計の振り子のごとく、一切の動きを封じられ、消化されていく。これがその名の由来です」
ですが――、とザックォージ嬢がいたあたりを見上げながら、〈青薔薇〉は静かに続けた。
「無印級程度なら殺されることはあろうとも、いかに弱体化が著しいとは言え私の知るマオ・ザックォージならば……」
そのつぶやきに応えるかのように、その口訣は聞こえてきた。
「〈最終決戦封貝〉――!!」
聳え立つ〈アンティーク・クロック〉の内側で、何かが急速に膨れあがり、すぐに限界を超えて破裂した。
金属以上の硬度を持つという〈アンティーク・クロック〉が、緑色の繊維片の雨と化して四散する。
その中から――彼女は悠然と現れた。
乗騎イゼル・カルタゾーノスは消失していた。
代わりに、かの神獣が姿を変えたとしか思えない白銀の騎士甲冑を纏い、かの神獣の加護をその身に宿したとしか思えない神威を放つマオ・ザックォージの姿が、そこにはあった。
右手に握られるのは、イゼル・カルタゾーノスの角を原型とする長剣であった。
純白の刀身は陽光を弾いて輝いているのではなく、白光の粒子で構成される自らの煌めきによるものであることが一目で分かる。
「あれが……」
知らずしらず、エリナーは感嘆の吐息と共にそう零していた。
神話に語られる一場面を切り抜いたかのような、それはあまりに絵画的、幻想的な光景だった。
「――〈一角獣の戦乙女〉だ」
唯一、緊張感を留めるケイスが、芯のある声音で答えた。
「神獣イゼル・カルタゾーノスを我が身に降ろし、その神性と特殊能力を得ながら、同時に所有の全封貝を同時解放するザックォージの最後の切り札だ」
イゼル・カルタゾーノスの神性とは、「下等動物の支配」、「不死」、「一角部分の浄化能力による超級の毒耐性」および「呪詛耐性」であるという。
このうち「不死」とは、一度に限り、致命傷からの瞬間完全再生をもたらす、限定的な死の無効化を意味するらしい。
当然、イゼル・カルタゾーノスが種固有の能力としてもつ瞬間転移なども人の姿で使用することができる。
「凄いじゃないですか!」
カズマがはしゃぐよう叫んだ。
「だから切り札なんだ」
肯定の言葉とは裏腹にケイスの表情はなぜか硬い。
「軍属だった頃、戦場で〈一角獣の戦乙女〉を使う――ザックォージとは別の――兵士とやり合ったことがある。凄まじい戦闘能力だった。部隊は俺を含め一瞬で壊滅寸前まで追い込まれた」
だが、現実には半壊に留まった。
ケイスはすぐにそう言った。
「あれはその分だけ使用者に負担をかける。ダメージを負ったり、瞬間移動、蘇生などの能力を使うと、持続時間が恐ろしい速度で削られていく」
「具体的にはどれくらいなのだ?」
ナージャが訊いた。
「あくまでその時見た使い手の話だが、恐らくは節約して三時(=約三分間)。全力戦闘だと……一時にもならなかったはずだ」
「ということは――」
「決着の時は近い」
と、一角獣の戦乙女が動いた。
瞬間移動ではない。
だが、ほとんどそうとしか見えない超高速移動だった。
〈青薔薇〉との間合を一瞬で詰め、光角の剣を一閃する。
これを受け止めたのは、先程の一〇分の一スケールの〈アンティーク・クロック〉だった。
少なくとも五つ以上の金属音がほとんど重なり合って周囲に木霊する。
単発の薙ぎ払いに見えた戦乙女の攻撃が、外野に視認すら許さない連撃であったことの証明だった。
「――ッ」
だしぬけに全身を炙るような熱風に襲われ、エリナーは奥歯を噛みしめた。
喉の奥から勝手に呻き声が漏れ出す。
それが、剣と鉄薔薇との激突によって生じた衝撃波だという理解は、随分と遅れてやってきた。
ほとんど物質のようにすら感じられる重みと厚みを持った爆風に嬲られ、頭髪がもっていれそうになる。
巨漢の手で力任せに引き抜かれようとしているかのようだった。
思わぬ痛みに、エリナーの呻きは悲鳴に変わる。
束の間の猛威が去るのを待ち、マオはゆるゆると目蓋を開く。
その時にはもう、マオの姿は元いた場所にはなかった。
今度は〈青薔薇〉に正面から迫り白刃を閃かせる。
と思えば、次の瞬間には背後に回り込んでいる。
もはや動きを追いきれないため、それが瞬間移動なのか高速移動なのかすら判別できない。
そしてエリナーは、遂にマオの姿を見失った。
「――あっちだ!」
叫んだの誰だったか。
その声に引っぱられ、エリナーは右手に大きく視点をスライドさせた。
ほとんど粒状の黒点にしか見えない距離の上空に、白い騎士甲冑の姿が見えた。
直後、彼女の手元から雷光さながらに眩い閃光が迸った。
網膜を焼かれそうになって、エリナーはとっさに眼前に手をかざす。
だが、間に合わなかった。
手の動きよりも、青白い無数の光線が流星のごとく宙を流れ、〈青薔薇〉に殺到する方が遥かに早かった。
「伏せろ!」
「フォウサルタンさんッ」
同時に幾つかの声がした。
前後して、エリナーは重たい衝撃と共に誰かに押し倒された。
その人物の腕にかばわれたおかげだろう。
背中から倒れたにもかかわらず痛みはほぼなかった。
護られたのが直感的に分かった。
恐怖があったとえれば、鼓膜に突き刺さるような轟音と、一拍遅れてやってきた怒涛の熱風の方だった。
「今のは、マオの〈Fox 2《フォックス・ツー》〉か?」
「ああ。戦乙女化で召還できるようになったらしいが……やはり威力が落ちている。あの程度では恐らく……」
どこか遠く、ナージャとケイスのやり取りが聞こえた。
彼ら一級のレイダーにとっては、この程度の衝撃波など微風のようなものなのだろう。
目を開けると、エリナーを抱えて伏せてくれたのはアカギ卿だった。
エリック・ジェイ・アカギ。
彼はカズマの友人で、名前から察するに異国の貴族である可能性が高い。
エリナーにちょっとした恐怖感すら抱かせる巨躯の主であるが、一方で口元にいつも微笑をたたえる温厚な人物でもあった。
言語ではごく初歩的なコミュニケーションしかとれないものの、それでも疑いようのない人柄の良さが伝わってくる美丈夫である。
「ありがとうございます、アカギ卿」
経験的に、異性から腕を身体に回される行為は、反射的に強い恐怖と嫌悪をもよおす。
だが、この時は不思議とそうしたものがなかった。
礼の言葉も、強張りもせず自然と出た。
「――いえ。大丈夫ですか?」
「ええ」
上体を起こす。
すると、今度はカズマが手を差し伸べてくれた。
ありがたくその助けを借りて立ち上がる。
改めて戦場に目を向けた。
戦乙女の〈Fox 2《フォックス・ツー》〉は、少なくも見える範囲において、戦況に何ら変化をもたらすには到っていなかった。
あれだけの火力である。
〈青薔薇〉はともかく、彼女の周囲は焼き爛れ、蒸気を棚引かせる不毛の荒野に変容していてもおかしくなかった。
だが、そこには変わらず青薔薇に埋め尽くされた幻想世界の花園が広がっていた。
「――さっきのが、全て防がれたのですか?」
エリナーは一瞬、我を忘れて身を乗り出した。
「防がれた」
ケイスがさっとエリナーをすがめ見て、言った。
「というより、効かなかったらしい。特に防御したようには見えなかったが……」
もはや笑うしかない。
自分なら、あの光の流星の一つが一〇歩先の地点に落ちただけでも、余波で消し飛んでいただろう。
影だけ残して、この世から消え去っていたに違いない。
「――マオ。貴女の切り札はやはり素晴らしい。〈ミスティパープル〉の弱体化の最中にあってなお儼乎にして雄麗。力強く、何より美しい。これぞましさく〈戦乙女〉の最高峰。そう唸らされるものです」
〈青薔薇〉が言った。
エリナーは、なぜだか久しぶりにその声を聞いた気がした。
「ですが、やはり研ぎ澄まされるのは戦闘能力のみ。
思考力の弱体化までは補いきれなかった……」
「――ッ!」
遠目にも、ザックォージの受けた衝撃が伝わった。
「判断力が大きく落ちていることに、貴女は恐らく気付けていない。
視界を埋め尽くすこの青薔薇の園が、降りそそぐ花弁が、ただ〈弱体化の芳香〉を生み出すだけのものであるなら、空間支配もおこがましい」
そんなわけがないでしょう。
続けずとも、〈青薔薇〉の表情は語っていた。
それは即座に、現実にも反映された。
突如、木霊した爆裂音に誰も注意を取られる。
それは単発ではなかった。
マオ・ザックォージの体表で、立て続けに爆発が発生していた。
否、単に爆発だけではない。
右肩付近では炎の代わりに氷柱が発生し、一部が甲冑ごと氷漬けになっている。
また女性的な曲線を描く胸元では、金属を勢いよく引っ掻くような怪音が響き渡っていた。
直後、そこに深々と刻まれていたのは、鋭利な刃物で斬りつけられたとしか思えない巨大な傷跡だ。
これらは共通して、降りそそぐ無数の花弁に触れた箇所で発生していた。
気付いた戦乙女が頭上に〈防御結界〉を展開したことで、この現象は決定的に明らかとなる。
ひらめく花びらが銀色に輝く巨大な盾に降り積もるその度に、爆発が生じ、凍結が起こり、鋭い斬撃が火花を散らす。
「――思考が鈍っていることは、忠告したはずですよ」
その警告の言葉より早く、ザックォージの背中が大きく爆ぜた。
この世界に降り続ける花片は、ただ緩慢に舞い落ちるだけではない。
メイヴ・スカイアナハが願い、念じるだけで既存の物理法則を超越して高速機動を開始する。
それは戦乙女化したマオの動きにも決して見劣りしない速度で、縦横無尽に世界を駆け巡る。
それは、幾億という花弁による青い花吹雪だった。
前後左右、そして上下から、花びらという花びらがザックォージ嬢に殺到していく。
「〈影の国〉に存在する全ての花弁は、矢であり刃。もし、思考力が奪われていなければ――マオ。貴女は早々にこの〈レイニィブルー〉の存在に仮説として行き着いたはずです」
奇しくも、エリナーは〈青薔薇〉がリーサル・フォックスを発動したあの時のイメージを再び想起していた。
すなわち、目の覚めるような美しい青羽を持った蝶の乱舞である。
まさに、そうとしか表現のしようがなかった。
何万という蝶が、高雅に優美に乱れ舞い、マオ・ザックォージを包み隠していく。
戦乙女は瞬間移動を繰り返し、結界を幾度も張り替えながら逃れんとするが、〈ダァン・スカー〉に逃げ場などなかった。
無限に連鎖する爆轟、氷結、斬撃は戦乙女の防御に罅を入れ、あえなく打ち砕く。
地表を埋め尽くし全天を覆う青い花嵐は、どこに転移しようと戦乙女を捕らえて放さない。
「〈ブルーピリオド〉――」
それは、物憂げにさえ聞こえる追加口訣だった。
一瞬の静けさ。
なにもかも――時すらもが凍てついたかのような、刹那の静謐が周囲を包み込んだ。
そして直後、世界は一転した。
マオ・ザックォージを幾重にも取り囲む億千万の蝶たちが、一斉に爆炎へとその姿を変じた。
同時に怒涛の雪崩へと――斬撃の暴雨と化し、〈ダァン・スカー〉に激震を走らせた。
小さな太陽の炸裂かとすら錯覚させるその世界崩壊級の大破壊は、しかしこれまでと違い、周囲には一切の影響を及ぼさなかった。
衝撃波はおろか、空気すらそよとも揺るがない。
まるで決して壊れない小部屋の中に、大火山の破局噴火が閉じ込められているかのようだった。
室内にはあまねく致死性の有毒ガスが充満し、辺りには肺を内側から焼き尽くす死の熱風が吹き荒れる。
火砕流は津波のごとく暴れ回り、赫赫たるマグマが空気さえ焼き焦がしていく。
音を超える速度で飛び回る幾万の巨岩。
残った僅かばかりの空間さえ、死の白灰が塗りつぶすように覆い尽くす。
だが、一歩外れた室外では穏やかな風に緑が揺れ、小鳥が優しい日差しを浴びて楽しげにさえずっているのだ……。
実際、そんな世界を〈青薔薇〉が望み、現実に変えたのだろう。
神の意思に世界と法則が従ったのである。
――その世界で、次に起こった変化は劇的だった。
生み出されたあらゆる暴力と破壊の痕跡が、渦巻きながら一瞬で消えていったのである。
それはさながら、排水溝に大量の水が吸い込まれて消えていく様を、時を早めて見るようだった。
そして気付けば、そこにはもう静けき麗の薔薇園でしかなった。
繰り広げられていた凄絶な戦い自体、何かの夢であったかのように思えてくる。
不意に、エリナーは視界の奥、黒っぽい何かが、墨を一筋引くようにゆっくりと宙を滑り落ちていくのを見た。
それは遠く、音もなく地に墜ちた。
下に咲く青薔薇を欠片たりとも散らすことのない、静かな終わりだった。
だからだろうか。
エリナーたちはしばらくそれが何かに気付かなかった。
随分してようやく、自分の見た物が――事切れたマオ・ザックォージの亡骸であることに気付いた。
こんな時、エリナーが知る物語では、登場人物が口々に斃れた仲間の名を叫ぶものだった。
実際、似たような場面に立ち合えば、自分も自然とそうするのだろうと思っていた。
だが、現実は全く違った。
叫ぶどころか、身じろぎひとつできない。
思考が追いつかない。
頭が真っ白だった。
カズマやケイス、ナージャといった現役のレイダーですら、ほとんど変わりのない状態であった。
それでも、先んじて動き出したのは彼らのうちの数名だった。
「――まだ、終わっていませんよ」
踏み出した彼らが、その声と共に踏鞴を踏む。
眼前で、青薔薇の花弁が噴き上がり巨壁として聳り立ったのだ。
「気持ちは分かるが、これは決闘。貴方がたは結果が確認されるまで、そこでしばし待ちなさい」
壁の向こうで薔薇の園をかきわけて歩く足音が聞こえた。
勝負が決した瞬間があったとすれば、恐らくはこの時だった。
戦力は最初からあちらが上であったが、決闘に到るまでの交渉はあくまで対等であった。
決闘そのものもそうだ。
力の差はあれ、立場に上下はなかった。
だが、今は違う。
場を支配しているのはメイヴ・スカイアナハだ。
マオ・ザックォージの生死、決闘の勝敗はもはや関係ない。
状況に対して今、〈青薔薇〉が唯一、決定権を持っている。
エリナーたちはその許可を得なければ一切の介入を許されない。
ただ待つしかない。
この構図は、当初の対等な関係の崩壊を意味していた。
と、その象徴たる薔薇の壁が、いきなり壊れ始めた。
土台を抜かれた塔よろしく、すとんと真下に崩れ落ちていく。
無数の花弁が奏でる、ざあという潮騒に似た音が耳朶を打った。
それがきっかけであったかのように、〈ダァン・スカー〉の薔薇園自体が急速に失われていった。
風と陽光が朝靄を払っていくような、それは瞬く間の出来事だった。
気付いた時にはもう、エリナーたちは元の――森に囲まれた小さな草原に立っていた。
一瞬戸惑ったが、状況はすぐに把握できた。
マオ・ザックォージと〈青薔薇〉の姿は、存外近くにあった。
エリナーはワイズサーガのレイダーたちと一瞬顔を見合わせたあと、揃って歩き出した。
気持ちは逸っていたが、走り出す者はいなかった。
待ち受けている結論を先延ばししようというように、誰もがゆっくりとした足取りだった。
エリナーたちが近付いても、〈青薔薇〉はまったく気に止めなかった。
一瞥すらくれることなく、片膝をついたまま動かない。
その視線は傍らに横たわるマオ・ザックォージにただ注がれていた。
彼女にはまだ息があった。
ただ、それも時間の問題であることは、エリナーにすら一目で分かった。
仰向けに伏したマオの身体には〈青薔薇〉のマントがかけられていた。
が、胸から下に膨らみがないのを見――それが意味することを理解したエリナーは、反射的に顔を背けた。
本来、肉体によって下から盛り上がっているべき箇所が、地面に直接着いて平になっている。欠けている。
爆散したのか。消し炭と化したのか。
経緯は分からない。
だが、彼女の胴体が、もう鳩尾から上しか残っていないことは、疑いようがなかった。
「貴女の……勝ち、ですね……メイ、ヴ」
ヒューヒューと喉から奇妙な空気漏れを起こしながら、ザックォージ嬢が言った。
目は開いていたが、死んだ魚のように半透明の膜に覆われ、その瞳は濁りはじめている。
焦点に到ってはもう、最初からどこにも合っていない。
「無理に喋らずとも良いのですよ、マオ」
〈青薔薇〉の声は優しかった。
「申し訳ない。もう少し手加減したつもりだったのですが……」
マオは何も言わなかった。
ただ、非常に苦労して口元に笑みを浮かべようとしたように見えた。
だが残り少ない命を振り絞ったその努力は、ほとんど報われていない。
「……約、束……は……」
「貴女は宣言通り、決闘を受けた。ならば私も約束は守ります。安心なさい」
メイヴ・スカイアナハは、寝込んだ妹にそうするように、目元にかかったマオの前髪を丁寧に払ってやる。
「それより、貴女の仲間が近くに来ています。望むなら、残された言葉は彼らのために使ってあげなさい」
言い放つと、〈青薔薇〉は流れるような身のこなしで立ち上がった。
そこでようやくエリナーたちを一目見たが、そのまま何も言わずに踵を返した。
最後の時間をくれるということだろう。
一〇歩ほど距離を取り、待機していた部下たちの輪に加わっていった。
そこからこちらのやり取りを見守るつもりらしい。
「ザックォージ……すまん。酷な役回りを押しつけた」
ケイスが、〈青薔薇〉のいた位置に入れ替わりでしゃがみ込んで言った。
「痛むか?」
「……い、え……」
しばらく待つと、かすれた声がようやく応えた。
「ここ、ま……来、る……もう……感覚……り、ません……」
マオの声にはもう、注意していなければ正確には聞き取れないほどの雑音が混じりだしていた。
所によっては声になりきれず、ただの吐息にしか聞こえない。
苦痛はそう長く続かないことを知っていながら、エリナーは辛かった。
「そうか……だが、おかけでなんとかなりそうだ。ゆっくり休んでくれ、ザックォージ」
言うとケイスは彼女の目元に手をやり、目蓋を閉じさせた。
安心したのか、ザックォージ女史の呼吸が急速に細っていく。
「――決闘はそちらの勝利だ」
ケイスが立ち上がり、改めて宣言した。
「マオ・ザックォージはこちらが引取ります」
〈青薔薇〉が言った。
「それに異存がなければ、この場限りにおいて、我々は貴方たちに手を出しません。行きたければ、このまま行きなさい」
「おいおい、隊長。本当に行かせる気ですかい」
いかにも女戦士然とした、大柄で筋肉質な人間が〈青薔薇〉に詰め寄っていく。
がっしりとした骨太な骨格に、均整の取れた肉付き。
小麦色の健康そうな肌とエメラルドグリーンの瞳を見れば、彼女が先住民族系であることは明白だ。
「当然です、ア=ラーウォ。私は誓ったのですよ」
「それは、アタシの誓いでは――ないんだけどねえ」
猛禽のような双眸がエリナーたちを射貫く。
底冷えするような声と同時、ア=ラーウォと呼ばれた女戦士から、凄まじいまでの殺気が膨れあがった。
「――ア=ラーウォ。貴女は、私に恥をかかせるつもりですか?」
冷ややかな声が、ア=ラーウォを諭す。
だが、一度昂ぶった闘争本能は容易には鎮火しない。
それを示すように獅子髪の女戦士は瞬きもせず、血走った視線をエリナーたちに定めたまま動かさない。
なにか切っ掛けがあれば、上官の命令など歯牙にもかけず飛びかかってくるであろう。
そんな剥き出しの殺意を漲らせていた。
「エトー。少しの間、ア=ラーウォを抑えていなさい」
〈青薔薇〉が命じると、細身の青年がぎょっとした顔で身を仰け反らせた。
いかにも荒事には向いていなさそうな、温厚そうな男性である。
「えっ、僕がですか」
〈青薔薇〉は応えず歩き出した。
まっすぐ、エリナーたちに近付いてくる。
「貴方たち。死にたくなければ早々に立ち去りなさい」
彼女は再びマオ・ザックォージの横で片膝をつくと、対面のエリナーたちを見上げて続けた。
「彼女の身柄は我々の管理下にある。取り戻したいというのなら、彼女の覚悟を無にするつもりで我々に挑まねばなりませんよ」
そのマオ・ザックォージは、まさに事切れようとしていた。
呼吸はもはや注意していなければ感じられないほど浅い。
封貝の気配など、溶け果てようとしている蝋燭の火を見ているようだった。
「マオ……聞こえていますか?」
耳もとで囁きかけるようなその呼びかけに、大方の予想を裏切ってマオ・ザックォージは応えた。
もう二度と開かないであろうと思ってた目蓋が、ゆっくりと動き出す。
「最後です。何か言い残すことはありますか」
優しく問いかけ、〈青薔薇〉は待った。
それから随分と長く、空白の時が生まれた。
どれだけかかっただろう。
信じがたいことに、マオ・ザックォージは再び唇を開いた。
加えて――奇跡と言って良いだろう――絞り出すように肉声すら発した。
「……ちか……を……」
誰か、正確に聞き取れた者はいただろうか。
言葉にもなりきれないその囁きを残し、彼女は動かなくなった。
目は薄く開いたままだった。
待てども呼吸は蘇ることなく、少なくともエリナーにはもう封貝の気配は感じられない。
多くの者が状況を受け入れられない中、最初に動いたのは〈青薔薇〉だった。
ザックォージ嬢にかけていた自分のマントを使い、随分と小さくなってしまった友人の亡骸を包みあげていく。
輝くような純白であったそれは、夥しい血糊を吸いあげ、今や元の色が分からなくなる程、どす黒く染まっていた。
「行きなさい……」
立ち上がった〈青薔薇〉が、ぼそりと告げた。
俯けた顔がエリナーたちに向けられることは、もうなかった。
彼女は返事を必要とすらしていなかった。
両腕に事切れた旧友を抱いたままエリナーたちに背を向け、ゆっくりと歩き出した。




