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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
40/64

灰の眼

  039


 拠点にしている〈欠け戦斧亭〉は、昼時の喧噪もそのままのにぎわいだった。

 ゆうに三桁は収容できるであろう一階の居酒屋兼食堂は、陽の四刻(正午)から半刻経ってなお八割方の席が埋まっている。

 目立つのは、やはり冒険者レイダーの荒くれ常連だ。

 尻に触れようと伸びてくる彼らの手をかい潜り、何人ものウェイトレスが熱気渦巻くホールを所狭しと動き回っている。

 この様子だと厨房の方もフル稼働だろう。

 ――ふたり部屋の女性たちを、三人部屋に移すかもしれない。

 そう店主に伝えようと思ったケイスは、しかしあきめてそのまま階段に向かった。

 この調子では、まず店主と話をすることからして困難だろう。

 しばらくすれば階下の様子も落ち着くはずである。

 客人をひとり連れかえったことは、その時に報告しても遅くはない。

 その客人であり依頼人ことエリナー・フォウサルタンは、マオらによって女子部屋に通された。

 カズマの指示により、まずは風呂に入れ、それから食事を取らせるためである。

 本来、レイダーが依頼人にそこまでする義理は一切ない。

 だが、陽の当たる場所に連れ出した彼女は、衰弱ぶりが明らかだった。

 もともと肉付きの良い体つきではあろうに、頬は目に見えてこけ、唇もひび割れが酷かった。

 明らかな栄養の欠如である。

 不足しているのは睡眠も同様であった。

 目元にできた、ぎょっとするほどくっきりしたくまがそれを雄弁にものがたっていた。

 疲れ果て、すり切れる寸前のその姿はケイスにかつての戦場を想起させた。

 補給線を断たれ困窮した兵士たちに、彼女の状態は酷似していたのだ。

「――眠った?」

 男子部屋で待つことしばらく、控えめなノックとともにその報せはもたらされた。

「そうなのだ」

 使者たるナージャも困惑顔だった。

「サタンは汚れていたから、ダーガに言われた通り風呂に入れてやってな。そしたら、うとうとし始めて、そのままぐっすり寝てしまったのだ」

「ええと、ナージャ?」

 恐る恐るといった口調でカズマが問う。

「ナージャの作った封貝のお風呂は、お願いした通りにちゃんと治癒効果を抜いてくれたんだよね?」

「もちろん。マオにも言われたからな」

 ナージャの首巻き〈*旋火の綾〉による風呂は、人間エインには刺激が強すぎる。

 植物にとって水は栄養素だが、やり過ぎれば腐るのと同じだ。

 相手がコロパスのような亜人ならまた話も違うが、エリナー・フォウサルタンには効き目が強すぎて、逆に毒となってしまう可能性が高かった。

 ただ、ナージャの封貝風呂が高い治癒・浄化効果を持つのは、容器となる〈*旋火の綾〉自体にその能力があるからだ。

 中身を普通の風呂桶に移せば、それはただのお湯に近いものになる。

 丸きり同じと言うわけではないが、効能の大部分は薄まることが確認されていた。

 実際、エリックが手ですくって顔を洗い、口をゆすいでいるシーンは、ケイスも野営を通して見たことがある。

 ならば、中に液体を溜めた状態で〈*旋火の綾〉の封貝としての特殊能力を無効化すれば――

 理論的には、ただの風呂として使えるはずである。

「ちゃんと無効化したから、封貝の治癒効果は九割がた薄まっているとマオも言っていたのだ。ちょっと効き目の良い温泉くらいになってるって。だから、私に責任は無いはずなのだ。本当にただ眠っただけなのだぞ」

 自分の過失ではないこと。

 決して、永眠させてしまったわけではないこと。

 その他、あらぬ誤解を受けぬよう、説明するナージャも必死の形相だ。

「分かった、そこは疑ってないよ」

 両手でどうどうと落ち着けながらカズマが苦笑する。

 確かに、緊急事態ならマオはナージャを寄越したりはしないだろう。

 直接、この部屋に駆け込んできて正確に状況説明をしようとするはずだ。

「それでな、無理に起こすのもかわいそうだから、話を聞くのは少し待ったらどうかとマオは言っているのだ」

 どうする? というように、ナージャはカズマを見やった。

「良いんじゃない? ケイスさん、確かこのあと予定があるんでしたよね」

 ケイスは軽く両肩を持ち上げて、肯定の意を示した。

「まあ、半刻くらいで戻れるとは思うんだがな」

「じゃ、むしろ都合が良いくらいでしょう」

「そうだな。そういうことなら――少し早いが、俺はそろそろ出かけるとしよう。もし遅くなるようなら、俺を待たずに事を進めてくれ」

「分かりました」

「じゃあ、あとは頼む」

 言って、ケイスは再びヘルメットを被った。

 目元を隠すスリットも下ろす。

 しっかり顔が隠れたのを確認すると、部屋を出た。


 ネクロスはしばしば〈蜘蛛の巣川の街〉の別名でうたわれる、大変に水の豊かな都市だ。

 大は運河。

 中は小川。

 小は路傍の側溝。

 街には道路の本数と同じか、それ以上の水の流れがある。

 これらは美しい景観、心地よいせせらぎ、そして外部からの侵略難度をもたらすが、一方で土地の分断による自由な行き来のがいにもなる。

 目的のパン屋は川のすぐ向こう、店主と会話できるほどの近くにあるのに、橋がじっかつこく(一〇分の一刻=約一〇分)先にしかないため、わざわざそこを経由して、対岸へ渡らねばならない。

 そんな不便があるのだ。

 このため、時と労を惜しむ人々は、対岸までの渡し船を利用することも珍しくはない。

 時に横着な封貝使いや亜人などが、その人間離れした跳躍力で川を飛び跨ごうとする光景も見られるが――これは厳密には違法行為だ。

 衛兵に見つかれば――滅多にあることはではないものの――叱責を受ける。

 彼らの虫の居所が悪ければ、小額ながら罰金を受けることもあるだろう。

 ケイスの場合、待ち合わせは陽の五刻。

 場所もネクロス内であるため、時間には余裕があった。

 急ぐ必要もないため、往来の流れに乗り風景の一部と化して普通に大通りを歩く。

 一応は、追われている身だ。

 途中、何度か意図的に角を曲がった。

 えて人混みに突入し、突っ切るようなルート選択も忘れない。

 どちらも、尾行対策のじょうとう手段だ。

 もっともこれは――たとえばマオやカズマのような――封貝を使って周辺状況を探れる相手には意味を成さない。

 あくまで気休めだ。

 そうして市の中心部へ向かうこと四半刻弱。

 ケイスが辿り着いたのは、商業区と貴族居住区の境界付近だった。

 その一角に構えられた上流階級向けの旅籠が、今回の目的地だ。

 旅籠には、通りから直接地下に向かえる下り階段が設けられている。

 会員制の酒場への入口だ。

 階段を降りきる。

 突き当たりにある扉を開いた。

 店内は想像より随分と広かった。

 間接照明を多用しつつも、光量自体は控えめに徹したシックな空間であった。

 印象がいんうつかたる寸前で踏みとどまった、その奇跡的バランスが神秘性の演出を見事に成功させている。

 内装はシンプルの一言。

 だが安っぽさはない。

 さりげない調度品。

 空間の暗さで巧みに隠された、総大理石造りのカウンター周り。

 驚くほど腰に馴染むクッションと、木製にありながら決して軋むことのないカウンターチェア。

 金の匂いを消すために金をかける。

 そんな職人気質が窺えるデザインだ。

 後ろ手でドアを閉めると、すぐに執事服の麗人が歩み寄ってきた。

 ウェイトレスに相当する娘なのだろうが、なぜ男装なのかは分からない。

 だが背が高く、長い髪を後頭部でくくり丸めているため、遠目には男性に見えなくもない。

 なんであれ、娘の最大の特徴は外見ではなく、恐ろしく洗練されたその所作だった。

 氷上を滑るがごとく音もなく歩き、彼女はケイスの一歩半手前でぴたりと止まった。

 三日前から予言でそうするよう定められていたかのような動きだった。

 われるより早く、ケイスは渡されていた会員証を提示した。

 彼女はそれを一瞥すると、一言も発さず優雅に腰を折った。

 そしてやはり無言できびすを返し立ち去っていく。

 あとは好きにせよ、ということらしい。

 ならば、と改めて店内に視線を巡らせる。

 店内を一望できる最奥のテーブル席に、待ち合わせ相手の姿はもうあった。

「――相変わらず早いな、〈はいの眼〉」

 歩み寄り、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を落す。

 通称〈灰の眼〉は、いつものように喉を鳴らすような、微かな笑い声をあげた。

 含み笑いにもえつの笑いにも見えるが、実のところはどちらでもない。

 それは彼にとって、特に意味のないあいづちの一種でしかなかった。

「そちらも随分ですよ。まだ約束の時間にゃかなり早い」

 砕けた言葉だが、不思議な抑揚を持つ〈灰の眼〉の低音にかかると、落ち着きある気の利いた台詞に聞こえてくる。

「今日はスケジュールに変更が多くてね。思いがけず空白の時間ができたんだよ。流石に早すぎるかとも思ったが、お前なら一足早く来て、待っている可能性があった」

「そうでしたか」

 〈灰の眼〉はそう言って、また喉の奥でくつくつと笑った。

 と、真横に気配を感じてケイスはそちらを振り仰いだ。

 いつの間に寄ってきたのか、先程の寡黙なウェイトレスがあと三歩という距離にいる。

 彼女は例によって一歩半の間を置いて、ケイスの傍らで止まった。

 相変わらず喋らない。

 だが、オーダー票らしきものを手にしているあたり、注文を取りに来たのだろう。

「オリジナルカクテルがあれば、それを。なければマスターに任せる」

 ケイスが言うと、執事服のウェイトレスは燃料を投入されたかのように再起動した。

 慇懃に一礼し、地を滑るような歩法で遠ざかっていく。

「面白い店でしょう?」

 彼女の後ろ姿を見送る〈灰の眼〉が、にやりとしながら言う。

「確かに」

「しかし、旦那とネクロスでお会いすることがあろうとはね」

「俺も、お前がこんな店に出入りするほど手広くやっているとは思っていなかったよ」

「インカルシだけが縄張り(シマ)じゃないとは言ってあったでしょう」

「まあ、ネクロスでなければ仕入れられない情報というのもあるだろうからな。それにしたところで、随分とこの街に馴染んでるようじゃないか」

 〈灰の眼〉は既に注文を済ませていた。

 手元に黒塗りの瀟洒な杯が置かれている。

 中身は分からない。

 彼はそれをちょびちょびやりながら、つかの間の談笑を愉しんでいるようだった。

 だが、それもケイスに注文の品が届くまでである。

「旦那はお忙しいんでしょう?」

「含みのある訊き方だな」

「いやいや。環境が変わればしばらくはどうしたって落ち着かないもんです。そういう一般論的な話ですよ」

「まあ、実際にそれは否定できないな」

「とあらば、前置きはこの辺にしといて、早速ご報告といきましょうか?」

「頼む」

 ケイスがいうと、〈灰の眼〉はおうようにひとつ頷いた。

 そして切り出す。

「動きは三つです。ひとつ、旦那が姿を隠したと同時、行方知れずになっていた白虎さんとこの狂犬ですが――」

 ショウ・ヒジカか。

 ケイスは胸の内だけでつぶやき、無言で先を促す。

やっこさん、どうやら本格的に隊を抜ける気みたいですね」

やつは俺との戦闘で傷を負っている。獣がそうするように、穴倉で癒えるのをじっと待っているだけじゃないのか?」

 あの日、カズマ・ナージャ組とショウ・ヒジカの戦闘に乱入したケイスは、最終的にヒジカとリーサルフォックスをぶつけ合うことになった。

 勝利したのはケイスだ。

 実力に差があったのではない。

 戦場に飛び入る前、ケイスは狙撃の距離からヒジカに不意打ちを食らわせていた。

 そうしなければ、カズマは殺されていたからだ。

 しかし、見方によっては卑怯のそしりをまぬがれえない行為でもあった。

 とまれ、即死こそ避けたものの、ショウ・ヒジカはその不意打ちで重傷を負うこととなった。

 切りリーサルフォックスをぶつけ合うまでもなかった。

 それ以前の段階で、もう勝負は決していたのである。

「しかし、傷を治すだけなら別に姿を消す必要はないでしょう」

 〈灰の眼〉が静かに指摘した。

「むしろ、出ていった旦那に全ての責任と罪とをひっかぶせて、自分は堂々と本部に戻って治療を受ければ良い。護士組にゃ、腕の良い治癒封貝の使い手もいるでしょう」

「まあ、そうだな」

「奴は虎というよりヘビだ。蛇は執念深い生きもんです。ただでさえ、旦那とは普段からそりが合わなかったんでしょう? 復讐とまではいかずとも、再戦を求めて後を追っかけてくることは、充分考えられるんじゃないですか?」

 ケイスは自分のカクテルを一口含んだ。

 酒と一緒に、〈灰の眼〉の言い分を吟味する。

 そして頷いた。

「あり得る」

 そう認めた上で、訊いた。

「奴の行方についての情報はないのか?」

「残念ながら、そこまでは流石の〈灰の眼〉でもお手上げでさ。ただ、足抜けは一人でやる気みたいですね。部下はまるきり放置ですよ。狼は集団で狩りをするはずですが、はぐれものは事情が違うってことでしょうかねえ」

「あいつは蛇なんじゃなかったのか?」

 ケイスは口角を吊り上げて冷やかす。

「尻尾が蛇なんですよ、きっと。本体は狼だ」

 〈灰の眼〉がにやりとしながらやり返してくる。

「まあ、奴はそれで良いとして、だ。俺とザックォージはどういう扱いになっている?」

「ええ、それが動きのふたつめです」

 〈灰の眼〉がすっと笑みを引っ込めた。

 刹那、言葉を探すような間をはさんで続ける。

「ただ、これがちょっと複雑でしてね」

「だろうな」

 ケイスはすぐに言った。

 これは容易に想像できることであった。

 ケイス単独でしゅぽんしたのなら、話はシンプルだっただろう。

 だが、そこに思いがけずマオがついてきた。

 護士組における彼女は副隊長。

 ケイスの一部下に過ぎない。

 多方、血筋を見ればこの構図は逆転する。

 平民の出であるケイスに対し、マオは名門ザックォージ家の直系だ。

 継承権を持たぬとは言え、貴族なのである。

「お察しのようですが……護士組の動きには、みっつめであるザックォージの動きが関係してきます。おたくのご令嬢は、とかく微妙なポジションですからね」

 〈灰の眼〉は言うと、また例の笑い声を微かにあげた。

「やはり、ザックォージが俺についてきたことは、早々に本家に知れたか」

 想定はしていたことである。

 だが、ケイスは思わず唸っていた。

「まあ、フ=サァンきっての軍師の家系ですからねえ。国中に情報網を持ってますよあのおいえは」 

「それで、ザックオージ家はどう動いた?」

「それなんですがね、どうにも血生臭いというか、物騒なことを言い出したようです」

「物騒――?」

 訊くと、〈灰の眼〉は杯に伸ばしていた手を止めた。

 その体勢のまま、静かにケイスと視線をからめる。

 そして言った。

「娘を連れ戻せ。ただし抵抗した場合、関係する周辺人物を含めその一切の生死は問わない」

「なに……」

 ケイスは身を強ばらせた。

 〈灰の眼〉は仕事の話に冗句を持ち込まない。

 それを分かっていてなお、裏にある真意を見透かさんとばかりに凝視してしまう。

「断っておきますが、私には貴族様のお心なぞ分かりゃしませんぜ?」

「それは……そうだが、しかしなんだってそんな話に……」

「もともと旦那んとこのご令嬢、ザックォージの本家からは冷遇されていたんでしょう? まあ、そりゃそうだ。あれだけ強烈に封貝の拒絶に走ってきた一族だ。積み重ねてきた歴史もあって、もうあれは妄執の域にある。

 そんな家に、護士組に入れるような封貝使いのバケモノが現れたんだ。扱いにも困るってもんです」

 確かに、それは〈灰の眼〉の言う通りだった。

 マオ・ザックォージは当主のちゃくにありながら、生後即座に継承権を奪われ、離れの屋敷に封じられた。

 事実上の幽閉である。

 ほとんど罪人に課すような扱いであった。

 否、ザックォージ家においてはまさに罪なのだろう。

 封貝を持って生まれてくるというのは。

 マオも物心がつくと、自分が家族に忌まれていることを悟ったらしい。

 どうやっても、何があろうとも、父親は受け入れてくれない。

 母親は自分に微笑みかけてはくれない。

 一生、扱いは変わらない。

 その事実を受け入れざるを得なかったのだ。

 ケイスは、それらしいことをマオ自身の口から少し聞いたことがある。

 本人は強がるように笑っていたが、知った当時はとてもそれどころではいられなかったはずである。

 結局、マオは家を飛び出し、インカルシ護士組の門戸を叩いた。

 本家は当初、これに難色を示したらしい。

 封貝を使い、それを生業とするザックォージなど存在自体が恥。

 醜聞をばらまくな。

 勝手な真似をするな。

 そういうことだったのだろう。

 だが彼ら自身、マオの処遇に苦慮していたのも事実だ。

 幼いながらに国内屈指の戦闘能力を持つ封貝使いが相手だ。

 成長し、自我を持ち始めた今、おりに閉じ込めておくのも簡単ではない。

 ならば、護士組に預けるという形にしてはどうか。

 同じ封貝使いに監視させれば面倒もない。

 よくあつされてきた本人は、それで自由を得たと勘違いするであろう。

 あとは、海千山千の護士組幹部たちにそれと分からぬよう抑え込ませれば良い。

 飼い殺しにさせれば良い。

「ザックォージは表向き、自分の娘を貸し出すという形で護士組に託した。実際には、便利に使えるおり代わりに護士組を利用するつもりでな」

「護士組も護士組で――」

 〈灰の眼〉が引き継ぐように言った。

「表向きはお預かりさせていただくという形ながら、実際にはザックォージの忌み子のおもりを引き受けた。面倒な監視と管理を引き受けることで、ザックォージにひとつ貸しを作るのが真の目的だった、と」

「そう。ところが今回、そのマオが護士組から姿を消してしまった」

 ザックォージ家は騒然となっただろう。

 だが、それ以上に顔を青くしたのはインカルシ護士組だ。

「護士組はおりとして仕事を果たせなかった。監視役だったってのに、かんとくとどきをさらしてしまった……ってところですね」

 〈灰の眼〉がそうしめくくる。

 ケイスは一瞬、黙り込んだ。

 鼻の下のくぼみ――じんちゅうを人差し指の腹で軽くこする。

 その沈黙をどう解釈したのか。〈灰の眼〉がまた口開いた。

「つまり、今回のご令嬢の出奔は、護士組側のミスということになります。

 ザックォージはそこにつけ込んだ。

 信頼して預けていた娘を、お前たちは管理の不備で行方不明にしてしまった。責任を取れ、という理屈です」

もりという面倒な仕事を引き受ける代償に、ザックォージ家に恩を売る。当初の目論見が裏目に出た形だな」

「そうです。今なら、ザックオージ家は護士組に多少の無理難題を突きつけられる。そこで、普段なら通らないであろう汚れ仕事を、早速押しつけることにした」

 話を聞きながら、ケイスは両の目蓋を閉じた。

 上体をゆっくりとソファの背もたれに押しつける。

 黙って腕組みする。

 鼻から重く息を吐き出した。

 目を開くと、静かに言った。

「長年のけんあん、忌み子の始末か……」

 そうです。

 〈灰の眼〉は冷徹に認めた。

「おたくのご令嬢は、本家にとっちゃ今やガンも同じだ。いっそ消えてくれた方が肩の荷もおりる。

 今まではしゅうぶんになるし、失敗した時のリスクがでかすぎるから、自分で手を下すわけにはいかなかった。

 実際、家出して護士組に入るくらいならかわいいもんだったんですよ。ザックォージ家は幸運だった。変なうらまれ方をして、憎悪を直接ぶつけられるようなことになった日には――

 内側にいきなり国家最強クラスの殺し屋が出現するようなもんだ。本家もただじゃすまない。しかしその娘の始末も、今なら護士組にやらせることができます」

 その結果が、

「娘を連れ戻せ。ただし抵抗した場合、関係する周辺人物を含めその一切の生死は問わない」

 なる命令というわけだ。

 これはすなわち「連れ戻すという建前のもとマオを殺せ。

 彼女の協力者も例外なく道連れにせよ」というべきものだ。

 事実上のまっさつ指令である。

「前後が入れ替わっちまいましたが、これがみっつめであるザックォージの動きです。で、これに影響するふたつめ、護士組の反応ですが――」

「受けたか」

「はい」

 〈灰の眼〉は首肯した。

「受けました。連中も動き始めています」

 これはやむを得ないことだった。

 殺すかどうかは別として、どの道、護士組は何かしらの行動をとっただろう。

 たとえザックォージ家からの圧力がなくとも、である。

 ケイス・ヴァイコーエンにマオ・ザックォージ。

 加えてショウ・ヒジカ。

 幹部三人に脱走を許した。

 実質、裏切られたのだ。

 しかも死刑囚〈赤繭〉を奪われ、北の森に大火災まで起こされるという大失態とセットときている。

 もはやこれは、護士組にとってメンの問題なのだった。

「それで、動いたというと具体的には?」

 ケイスは訊いた。

「ここ数日は、森林火災と市内で多発した爆発音の調査でゴタゴタしてたようですが、ザックォージの圧力もあって、昨日付で正式に追跡部隊が編成されました。

 任務の概要は、マオ・ザックォージの捜索および保護。また、〈赤繭〉の捕縛もしくは処刑と、これを連れ去った〈地底の嘆き〉なる集団の調査・追跡ですね。

 もちろん、これは表向きの話。実際のところはさっき言った通りの内容になっています。対象は令嬢だけでなく、何らかの事情を知る重要参考人として旦那やショウ・ヒジカも含まれています。しょうそくすじによると今日、正式な辞令が下りるそうで」

「追跡部隊のメンバーは?」

「これがまた難航したようですよ」

 〈灰の眼〉が愉快そうに唇を歪めた。

「なんせ最悪、隊長格が三人も相手ですからね。しかも〈赤繭〉を奪い去っていった奴らもかかわってる可能性がある。組織のメンツがかかってるから、手ぶらじゃ帰れない。挙句、外圧を受けてかつての同僚を消せときている」

「まあ、誰も手は挙げたがらんだろうな」

「そう。普通ならね。

 ですが一人いたんですよ。そいつが希望通り筆頭になりました。護士組は玄武三番隊の〈青薔薇〉がそうです。彼女を頭に、同隊から計五名の封貝使いが選出されています」

 言って、〈灰の眼〉は残りの顔ぶれを一人ずつ挙げていく。

「〈青薔薇〉か……」

 うめくケイスの心情を代弁するように、

「旦那にとっちゃ、厄介なのがでてきましたね」

 〈灰の眼〉が真顔で言った。

 実際、ケイスの頭にあったのはそっくり同じ思いだった。

 〈あお〉の異名を取るメイヴ・スカイアナハは、マオと双璧を成す護士組のホープだ。

 やはり名門スカイアナハ侯家出身の貴人で、一〇代と若い。

 それでいて好守、機動、感知の全方面に強力な封貝を揃えたオールラウンダーとして名を馳せている。

 カズマ同様、彼女もまた成長型で、まだその能力は完成を見ていない。

 にもかかわらず、既にその実力は百人長グリーン級。

 近い将来、間違いなく黄金ゴールドに到達し、最強の座をうかがうことになろうと目される逸材だ。

 確かに彼女が出てくるなら――そして残り四名がそれを適切に補佐するのなら――追跡部隊は、ケイスやマオを抹殺し得る。

 その可能性を持つ。


 一通り必要な情報を聞き出すと、〈灰の眼〉に報酬を支払い、ケイスはひとり店を出た。

 部隊構成員の決定が昨日。

 正式辞令は本日。

 ならば通常、〈青薔薇〉たち追跡部隊が本格行動を開始するのは、明日からだ。

 元関係者としてそのあたりの流れには想像がつく。

 だが、帰路は行きとは比較にならないほど尾行に気をつかった。

 もっとも、こうした努力はもはや無意味なのかもしれない。

 こちらが〈灰の眼〉という情報屋を使って、護士組の動きをこうまで把握しているのだ。

 ならば、同じ事を向こうもしていると考えるべきだろう。

 ケイスがマオと行動を共にしていること。

 〈赤繭〉と見られる封貝使いもそれに加わっていること。

 全員がライセンスを取得し、レイダーとして活動し始めていること。

 〈欠け戦斧亭〉を拠点としている事実。

 全てがつつ抜けと見ておかねばならない。

 確かに、〈青薔薇〉たち追跡部隊はまだ動いていない。

 だが、護士組には専門の情報部員や現地協力者が大勢いる。

 彼らは国中の街に潜伏し、日々活動を続けているのだ。

 それにしても、抹殺指令の件はマオにどう伝えたものか――。

 悩みながら歩いたせいか、気付けば宿に着いていた。

 流石に午後も五刻を回ると、〈欠け戦斧亭〉の客入りも落ち着きを取り戻している。

 カウンターに亭主の姿が見えたため、ケイスはまずそちらに寄った。

「俺たちが部屋にひとり、客人を招いていることは知っているか?」

 声をかけると、白い薄手の絹シャツを汗染みで汚した亭主がこちらを向いた。

 どうやら、帳簿だか宿帳だかの整理をしていたらしい。

 全部が親指のように見える太く短い指が、器用にペンを握っていた。

「ああ、さっき娘さんが下りてきてな」

「追加料金は受取ったか? 恐らく、その客人は今夜泊まることになる」

「金はまだだ」

「客人はエインの若い娘だ。女性が三人になる。同じグレードで、ベッドが三つある部屋があるならそちらに移りたい。ないなら、今の部屋のままで構わん。一人分の追加料金を支払おう」

「部屋はない」

 親爺はしおの固そうな口髭を震わせ、口ごもるように言った。

「すまんが今の部屋を使ってくれ」

 了解の旨を告げ、一日分だけ追加料金を渡した。

 客人の宿泊期間は延びる可能性がある。

 三人部屋が空いたら知らせて欲しい。

 そう頼み、二階に上がる。

 最初にマオと話しておくべきだろう。

 階段を上りきる間に、そう決めた。

 女子部屋に向かい、扉をノックする。

 すいを返される前に「俺だ」と伝えたこともあり、ドアはすんなり開かれた。

 隙間からマオが顔を覗かせる。

「お帰りなさい。早かったですね」

 護士組の隊員なら、自前の情報屋を持っているのは当然のことだ。

 マオはケイスが〈灰の眼〉と知り合う切っ掛けになった事件にも関わっており、今まで彼と話していたことも知っている。

「とりあえず、中へ」

 大きく扉を開いて招かれる。

「ああ」

 ケイスは素早く室内に滑りこんだ。

 椅子を勧められたが断る。

 時間をかけず、さわりだけ話すつもりだった。

 ただ、その前に依頼人の様子は見せてもらった。

 彼女は、二つある寝台の片方に横たえられていた。

 今は、死んだように静かに眠っている。

 皮脂や老廃物、その他の汚れが落されたからだろう。

 目の下のくまや左の口角まわりの内出血はそのままだが、初見の時より随分と健康的に見える。

 風呂に浸かったまま寝たと聞いていたが、裸のままベッドに放り込んだわけではないらしい。

 毛布からのぞく首元に着衣が見える。

 体格が比較的近いマオのものを貸したのだろうか。

 元からのものとは違うものをまとっていた。

「よく眠ってるようだな」

「ええ。よほど疲れていたんでしょう」

 ケイスと肩を並べる位置から、マオも同じように娘の寝顔を覗き込む。

「何者だと思う?」

「首輪がありますからね。貧民街に潜伏していたことを考えると、どこからか脱走してきた奴隷あたりでしょうか」

「フム――」

 それはケイスの見立てと大体同じだった。

 そもそも、依頼を出していながらあの警戒の仕方だ。

 直接姿を見せず、呼出したレイダーを遠くから観察し、安心できそうか値踏みする。

 会う気になっても、距離を置いて背後に回り込む。

 注意深いというレヴェルではない。

 なんらかの事情があることは間違いないのだろう。

「この調子だと、今日はもう起きないかもしれないな」

 ケイスが言うと、マオは肩を軽くすくめた。

「こちらには急いで彼女から依頼内容を聞き出さなきゃいけない事情もないですし。別に良いのではないですか? 宿代は無駄になりますが……なんなら後でこの娘に請求しても良いでしょう」

 同じ女性だけあって、必要以上の同情心はわかないということか。

 マオの対応には、カズマと随分な温度差が見られた。

「ああ、その支払いだが――この子の分は今、俺が立替えておいた。三人部屋は空いていないから、ここを使って欲しいそうだ。ベッドが足りない分、少しまけさせたよ」

「いくらですか?」

「三八グラティア」

「分かりました。あとで正式に請求して下さい。経理担当として、立替えてもらっている分はまとめてお支払いしますので」

「分かった。――それで、〈灰の眼〉から仕入れてきた話なんだが……」

「はい」

 ケイスの表情と口ぶりに、ただならぬものを感じたのだろう。

 マオが居住まいを正す。

 ケイスは事前に考えていた通り、努めて事務的に語り始めた。

 〈灰の眼〉から得た情報は全て、包み隠さず話した。

 もちろんえだの不要な部分は除いた。

 だが、肝心な部分については省略も脚色もない。

 歪曲な表現も避けた。

 ありのままを直接、淡々と言葉にした。

 受けた衝撃をダイレクトに表現し言葉を失うか。

 静かに聞き入り――ケイスがそうであったように――事務的な処理に徹するか。

 マオの場合、反応はこの二つのどちらかであると考えていた。

 実際には後者だった。

 彼女は終始、表情を変えなかった。

 というより、それが顔から抜け落ちていた。

 今この時だけは、何を耳にしようと人形のようにあろう。

 そう決めているようにも見えた。

「そう、ですか」

 全部聞き終えた彼女は、一言そうつぶやいた。

 他には何も言わなかった。

 自分を捨てた親が、遂に自分を殺すことを決心した。

 そして、それを実行するよう命令を出した。

 そんな事実を知った一〇代の娘は、本来どんな顔をするのか。すべきなのか。

 子どもと接点の少ない人生を歩んできたケイスには分からない。

 ただ、マオが普通でないことは理解できる。

「〈青薔薇〉たちは早ければ今日中、遅くとも明日には行動を開始する。情報部からの報告を受けて、まっすぐこの街に来る可能性も高い。抹殺が目的なら、街中で襲撃をしかけてくることはまずないだろうが……」

 安心はできなかった。

「すぐにでもここを出ますか?」

「それはいつでもできる。もう、ここにいることはバレてるだろうからな」

 そもそも、ケイスは最初から本気で隠れようとは考えていない。

 カズマの方針でレイダーとして活動することが決定している以上、本格的な潜伏など最初から無理なのだ。

 たとえ偽名でレイダー登録していようと、すぐに発見されてしまう。

 連盟には新入りをチェックしてデータ化している者もいれば、レイダー関係を専門にする情報屋もいる。

 連盟本体が独立性を遵守し調査に協力せずとも、〈ワイズサーガ〉の存在など一日で探り当たられてしまうのが現実だ。

 あとは人を雇い、派閥のメンバーが支部に現れるのを待てば良い。

 依頼を探すにも、報酬を受取るにも、いずれは支部に顔を出さなければならないのだ。

 そこから尾行されれば、どこに拠点を移しても意味がない。

 簡単に居所は突き止められてしまう。

「俺も隠れ家(セーフハウス)は持ってるが、この人数で使えるのは一つしかない。最悪、そこに移ることも考えてはおくがね」

「そうなると、レイダーとしては活動しにくくなりますね」

「まあ、方法はないでもないが……」

 迷宮探索や隊商の護衛が、その例だ。

 しかし、コロパスを抱えてとなるとどちらもまた難易度が上がる。

「俺は向こうの出方を見てみたい。初回限定なら、襲撃を受けても振り切れる手段を用意しているからな。本格的に潜伏するのはそれからでも構わないさ」

「そう、ですか……」

「大丈夫か?」

 思わず、ケイスは言った。

「なにがです?」

 マオは柔らかな笑みで返す。

 よく知らない者が見れば、それは完璧な擬態として有効だっただろう。

 だが、ケイスには通用しない。

「そうだ。隊長、言うのが遅れましたけど、こちらからも報告があります。男子部屋の方でコロパスに変化がありました」

 いかにも今思い出した、という口調でマオが言った。

 明るい声だった。

 ケイスは敢えて、調子を合わせることにする。

「コロパスが? 目覚めたのか」

「いえ、まだそこまでは。でも、ナージャなんか、依頼人そっちのけで向こうに行ったきりですよ。隊長も様子を見てきたらいかがですか」

 意訳すれば、「ひとりにしてくれ」となるのだろうか。

 ケイスは頷き、彼女の言葉に従うことにした。

「マオ」

 扉を半分開けたところで、振り返って声をかけた。

 彼女が顔を上げる。

「はい?」

「お前の都合の良いときでいい。ふたりで話をしたい」

 彼女はまた「はい」と繰り返した。

 今度は幾分――完全ではなかったが――笑みから先程の不自然さが薄れていた。

 少なくともケイスにはそう感じられた。

 今度こそ女子部屋をあとにし、廊下に出る。

 そのまま男子部屋に入ると、ドアの開く音を聞きつけたふたりのエインがすぐに駆け寄ってきた。

「ケイスさん!」

「大変だ!」

 口々に叫びながら、子たちはケイスを取り囲んだ。

「どうした?」

 言い終えるより早く、複数の声が被さった。

「コロパスが大きくなりました」

「猫だったのに、人間になったのだ!」

 ナージャに到っては、早く見に来いと服の裾を引っぱって離さない。

 彼女自身が、マタタビに酔った猫のようだ。

「分かった、分かった。少し落ち着け」

 待てと言って犯罪者が待つことがないように、落ち着けといって落ち着く子どももそうはいない。

 ケイスはナージャによって強引に寝台まで連行された。

 見れば、確かに二匹だったコロパスは、ふたりのコロパスに変わっていた。

 女子部屋の依頼人同様、ベッドに仰向けに横たえられている。

 ただ、あちらの娘とは違って毛布はかけられていない。

 かといって適合する服もないため、裸体をタオルで包むことにしたようだった。

「状況を教えてくれ」

 ケイスがうと、カズマとナージャは同時に喋り始めた。

 総合するとこういうことらしい。

 依頼人の娘が眠ってしまい、ナージャの首巻きの封貝が空いた。

 そのため、彼女は男部屋で治癒液の風呂を造り、コロパスたちを再びその中に入れた。

 そうしてしばらく。

 具体的には、彼らの言うところの今から三〇分ほど前――四半刻前という意味らしい――唐突にその変化は訪れた。

 最初は小さな方からだった。

 ふと見ると、サイズが一・五倍ほどになっていたのだ。

 第一発見者であるカズマは、最初、気のせいかと思ったそうだ。

 しかし、ナージャに確認させると、やはり大きくなったように見えると言う。

 そうこうしているうちに、コロパスの女児はさらに巨大化した。

 最終的に二倍ほどまで成長し、そこから急速に猫から人間に変わり始めた。

 こうなると、もう目の錯覚では済まされない。

 加えて兄の方にも変化が生じ始めていた。

 妹から遅れることカズマたちの感覚で一〇分――即ちじっかつこくほど。

 やはり全身から毛が消え、あれよという間に人間の姿に変わっていったのだという。

 この時点でふたりはマオを呼び、彼女の指示に従ってコロパスたちを治癒液から出した。

 そうして寝台に寝かせた。

「――えっと、医者は人間の姿になったらすぐ目を覚ますって言ってたんですよね?」

「ああ」

 カズマの問いにケイスは頷く。

「そういうようなことを言ってたな」

「じゃあ、こいつらはもうすぐ起きるのか?」

 ナージャは不思議なものを見るように、コロパスたちを見詰める。

「どうしよう。なんか……、なんか用意しとかないとですよね」

 そうは言いつつも、具体的なアイディアはないらしい。

 カズマはヒントを探すようにきょろきょろと室内に視線を巡らせている。

 何かしていないと落ち着かないのだろう。

 だが、何をすべきなのかはまるで分からない。

 妻が出産の時を迎えた時の夫が、しばしば似たような状態に陥ると聞く。

「そうだ! お腹すいてるかもれしれない。食べ物……っていうか、ミルク? あと、ベビィ服とかって、こっちにはあるんですかね」

「そういえば、コロパスは何を食べるのだ? ネズミか?」

「そう慌てることはないだろう」

 ケイスは穏やかな口調で言った。

「ナージャの〈*せんあや〉だったか? あれの回復液には栄養補給の効果もあるんだったろう。それに長くつかかってたなら、少なくとも極端な空腹状態ではないばすだ」

「えっと……そうですね。そうか。じゃあ、あれは? 言葉とかどうなんですか。小さい方は、二歳くらい?……でしたよね」

 カズマが助けを求めるように視線を投げてきたため、ケイスは答えた。

「そうだ。小さい方が人間でいう二歳前後。大きい方が六歳前後らしい。医療師の見立てが正しいならな」

「二歳って喋れるんだっけ?」

「さあ」

 ナージャが首を傾げる。

「覚えてないけど、私は賢いからきっと喋れたに違いないのだ」

「だとして、コロパス語とかあるんじゃないの? 言葉通じるのかな」

 土壇場になって、不安が泉のごとく湧きだしてきたらしい。

 カズマは軽い混乱状態に陥っている。

 と、その時、ケイスはベッドの上の様子に気付いた。

「おい」

 視線をそちらに固定したまま、小さく言う。

 ふたりにはそれだけで通じた。

 ケイスに顔を向けていた彼らは、弾かれたように振り返った。

 そうしてベッドの上を見て絶句する。

 いつからそうしていたのだろう。

 小さな方のコロパスが、いつの間にか目を覚ましていた。

 それどころか起き上がって、寝台の上にぺたんと座っている。

 寝起きでまだ意識がはっきりしていないらしく、どこかぼんやりとした顔だった。

 頭の上には、コロパスであることを示す巨大な正三角形の耳が直立している。

 サイズは人間化に伴い比例して大きくなっているが、形状は猫であったころと全く変わらない。

 ふわふわとした柔毛も、気品漂う蒼灰色ブルーグレイそのままであった。

 不思議なのは、丸い顔の側面に人間と同じ耳も存在することだ。

 コロパス自体が、猫と人間の合成獣キメラであることと関連があるのかもしれない。

 進化やそれが伴うとう退たいというプロセスと彼らは無縁であった。

 一夜にして猫でもなく、エインでもない種族として誕生し、そのまま続いてきたのだ。

 その意味で、彼らは常識的な生物学や進化論のらちがいに存在している。

 ともあれ、猫の耳を持つこと以外、彼女はほとんど人間エインに見えた。

 少なくともケインは、自分の同族の二歳児と違いを他に見出せない。

 新しく分かったことがあるとすれば、瞳の色だ。

 ようやくの開眼によって明らかになったそれは、鮮やかなすみれ色であった。

 寝起きの双眸はようやくケイスたちを捕らえたようで、不思議そうにこちらを観察している。

 ぽかんとした表情を見る限り、明らかに状況の把握には到っていない。

「やーやんはー?」

 だしぬけに、甘ったるい声がたどたどしく言った。

 まさか、カズマの言うようなコロパス語であろうとも思えなかった。

 そのような言語の存在など耳にしたこともない。

 彼らは共通語を喋る種族だ。

 だが現実、その二歳児が何を言ったのかケイスには理解できなかった。

 語尾の上がり方から、なんとなく疑問文を投げられたのではないかと推測が立つだけだ。

「えっと……」

 カズマはひざを軽く曲げ、そこに両手をついた。

 そうして視線の高さを落すと、引き攣った笑みで怖々問う。

「なあに?」

「やーやんはぁ?」

 コロパスが繰り返した。

「やーやんってなんだ?」

 ナージャがものじすることなく問い返した。

 それどころか、彼女はずかずかと女児の元へ歩み寄っていった。

 ケイスの目に、その背は今に限って、不思議と大きく見えた。

 精神年齢が近いため、見えない障壁がないのだろう。

 同じレヴェルで接することができる。

 この場にいる他の誰にもできない行動を、唯一彼女だけがとれるのだ。

「やーやんってこいつか?」

 ナージャはコロパスの前で止まると、まだ目覚めていない方を指差して訊いた。

 幼児が釣られるようにしてそちらに視線を向ける。

 そこに眠るのが兄であることを確認すると、ぷるぷる首を振った。

 そして言った。

「やーやんないよ。おにいちゃん」

 ナージャが柳眉を片方だけ吊り上げる。

「ん……あれ?」

「おにいちゃん」

 幼児がまた繰り返した。

 言葉と同時に両手がでたらめな軌道を描いて動かされるが、恐らく特に意味はないのであろう。

「おかしいな。こいつの名前かと思ったんだけど。じゃあ、やーやんってなんのことだ?」

 ナージャがしかつらでつぶやくが、コロパスの方はもう聞いてはいなかった。

 一方的に始め、一方的に終わる。

 興味のあることしか見ず、興味の対象自体もころころと変わる。

 この理不尽こそが幼児というものなのだろう。

 ともかく、コロパスは兄を発見したことで、「やーやん」とやらのことはひとまず忘却してくれたらしい。

 今は寝台の上で、ふらふらと立ち上がろうとしている。

 だが、尻と頭があまりに重いのだろう。

 布団の柔らかさで足元が安定しないのもあるらしい。

 二本足で立つという作業にすら苦戦していた。

「なんか、物凄い勢いでよだれ垂れてますけど……あれは正常なんですか?」

 横からカズマが不安そうに訊いた。

 彼はケイスと肩を並べ、寝台から少し間合を置いてぼう観を決め込んでいる。

「子どもの頃、ああやって口元から胸元まで、よだれでびしょ濡れにしていた幼児を見たことがある。俺やお前も、二歳のころはああだったのかもな」

 やけに遠く感じる、故郷の村での思い出だ。

「ケイスさん、きょうだいはいないんですか?」

「今はな。以前は上に二人、下にひとりいた。長男は俺が幼い頃、兵役にとられて戦死した。正直、顔も覚えてない。その下の長女は死産だったらしい。弟は一歳のとき、流行病で死んだ。だから、ああいう幼い子の面倒は見たことがないんだよ」

 子どもが生まれても成人まで無事育つとは限らない。

 だから、オルビスソーで一人っ子は珍しい。

 もちろん、ケイスのように結果的にひとりだけ残ったというケースは別だ。

「そっちはどうだ?」

 何となく予想はついたが、ケイスは訊いた。

「僕は最初から一人っ子だから、ちびっ子の扱いはよく分からないですね」

「マオも隔離されて育ってるからな。ウチの派閥には、そういう奴しかいないんじゃないか?」

 そうこうしているうちにコロパスはようやく起立を果たした。

 短い足をぎこちなく動かし、よたよたと兄の元へ寄っていく。

 そしてモミジを思わせる小さな手で、彼の身体を揺すり始めた。

「おにいちゃん」

 舌足らずの言葉で呼びかける。

 相手はただ眠っているだけだと思ってるらしい。

 呼べば目覚めるに決まっている。

 そう、心から信じ切っているようにも見えた。

 実際、彼女の思い込みは正しかった。

 五度目の「おにいちゃん」で、眠るコロパスが顕著な反応を見せた。

 ケイスの耳にも、微かなうめき声が聞こえた。

 今の位置からでは確認しづらいため、ケイスとカズマはベッドへ少し近付いた。

 それを待っていたかのようなタイミングだった。

 コロパスの男児がごろりと寝返りをうつ。

 目蓋がけいれんするように震え、ゆっくりと開いていった。

 妹とはなぜか色の違う、アイスブルーの瞳が露わになった。

 寝惚けまなこが、ややあって焦点を結ぶ。

「ミーファ……?」

 少しかすれた声がつぶやいた。

 衣擦れの音があがる。

 男児が上体を起こしたのだ。

 彼はそこに到ってようやく、室内にいるのが自分と妹だけではないことに気付いた。

 最初にナージャ。

 次にケイス、カズマと、順に視線を巡らせていく。

 最初は「誰だろう」というような素朴な疑問だけを感じていたようだった。

 しかしある瞬間、彼は冷水をかけられでもしたかのごとく、いきなり表情を変えた。

 身体が浮き上がるほどビクリと大きく震え、零れそうなほど目を見開く。

 蒼白な顔で彼がまずやったのは、首元に手を向けることだった。

 その指先が、奴隷の首輪の感触を確認する。

 それがスイッチとなった。

 彼は完全に現実に引き戻された。

 一瞬にして、自分が置かれている状況を理解したのが、はたにも分かった。

 彼は寝台の上を素早く移動し、妹を背後に隠した。

 それから額をシーツに埋めるようにして、必死に頭を下げた。

「私たちを買い受けて下さった、ご主人様とお見受けします!」

 声質にこそ相応の幼さを感じるものの、堂々とした口ぶりだった。

「ご迷惑をおかけして申しわけございません。今後は身を粉にしてお役に立ちます! 妹が幼い分は、私が二倍働きます! ですから、どうか……」

 流石に見ていられなくなったに違いない。

 カズマが困惑顔で、一歩進み出た。

「えーと、起きたばっかりで状況もろくろく分からないだろうから、とりあえず状況を説明しておきたいんだけど」

「はい。ご迷惑をおかけします!」

 コロパスの男児はへいふくしたまま、悲鳴のように叫んだ。

 ミーファと呼ばれた女児は、そんな兄の姿を不思議そうな顔で見ている。

「まあ、ええと……そんなんじゃ話もしにくいだろうし、顔を上げてよ」

 カズマは寝台の傍らにしゃがみ込み、コロパスたちより視線を低くした。

「まず、自己紹介しとくね。僕はせいナンジョウ、名をカズマという者です。一六歳の人間エインで、一応、奴隷のお店で売られていたキミたちを買い受けるお金を出したのは、僕っていうことになる……かな?」

 コロパスが弾かれたようにおもてを上げた。

 驚愕の表情でカズマを凝視すると、なぜか一度、戸惑ったような視線をケイスに向けてくる。

 そしてまたカズマを見詰めた。

 察するに、明らかな最年長者であるケイスを新しい主人だと思い込んでいたのだろう。

 それが実はカズマであったことを知り、一時的に混乱したらしかった。

「あ、あの、よろしくお願い致します」

 ドンと湿った重低音が鳴るほど、コロパスは勢いよく額をベッドに押しつけた。

「僕――」

 言いかけ、彼は慌ててていせいした。

「私はコロパスがゼーゼマン族の子、リックテインと申します。コロパスです! 後ろにおります妹のミーファティア共々、私たちをそろってお買い上げ頂きましたこと、感謝の言葉もございません! どうか、末永く……ふたり揃って末永くお仕えさせて下さい。一生懸命働きます!」

「あー、うん」

 命懸けで一言一句を絞り出してくる相手に、カズマはあからさまに気圧されていた。

 どうすれば良いものか扱いかねた様子で、生返事を口にするのが精一杯である。

「おにいちゃん、やーやんは?」

 その時、妹――ミーファティアが言った。

 場の空気に一切(とん)ちゃくしない、子どもならではの無邪気な一言だった。

「ミーファ!」

 これを重大な粗相であると認識したのだろう。

 リックテインが血相を変えて妹に振り返る。

「駄目だよ」「ミーフィア、しーっ」

 一方的にまくし立て、二歳児の小さな身体を抱き締める。

 そうして彼女を胸に押しつけたまま、強引に土下座の体勢に入った。

 見ようによっては、妹をケイスたちから隠そうとしているようでもあった。

「なあ、お前。さっきからそのちびっ子が言っている、やーやんとは何なのだ?」

「はい……母の、ことです。僕たちの母親です」

 リックテインなる男児は、寝台に額をこすりつけたまま答えた。

 やはりそうか。

 ケイスは思わず首肯する。

 二歳のおさなが、眠りから目覚めて一番に求めるもの。

 最後の記憶で一緒にいたはずの兄かとも思ったが、それはもう否定されている。

 ならばもはや可能性は一つしかない。

 ――母親だ。

「リックテイン君たちの境遇を考えると、多分、つらい話になると思うけど……一応、責任者として訊かせてね」

 そうことわってから、カズマは改めて声をかけた。

「ふたりのご両親は今、どうされてるのか分かる?」

 コロパスの少年は答えなかった。

 否、正確には答えようと努力はしていた。

 その証拠に、面をあげては何度も口を開き、その度に声にならない声を微かにしぼり出した。

 ただ、うまく言葉をつむげないのだ。

 その苦痛故か。

 あるいはもっと複雑ななにかがあるのか。

 必死に涙をこらえているのが分かった。

 やがて観念したのか、彼は精根尽き果てたようにうなだれた。

 連動するように、猫の耳も後ろ向きにぺたんとしおれる。

 リックテインは最後に、力なく首を左右した。

 それが、今の精一杯の返事ということなのだろう。

「――そう」

 カズマは優しく言った。

「良いんだ。無理に話すことはない。じゃあ、最後にもう一つだけ、ごめんね。

 もし奴隷から解放されたとして、ふたりは帰れる場所がある?」

 しばらくの間こそ必要としたものの、今度のコロパスはその問いへきちんと返答してみせた。

「……いいえ」

 それは、一〇年ぶりに声を出した老人のようなかすれ声だった。

 乾ききり、ひび割れた痛々しい響きであった。

「分かった。ミーファティアちゃんだっけ。小さな子のすることでいちいち腹を立てる人なんていないから、離してあげて良いと思うよ」

 なんか、苦しそうだし。

 カズマが諭すように言うと、リックテインは恐る恐る言葉にしたがった。

 ようやく解放されたミーファティアは、巻き付けたタオルが剥がれおち、裸の状態だった。

 もっとも、本人はその状態になんの感情もないらしい。

 もう兄に捕まるまいと、さっさと逃げ出す。

 だが、たったの三歩目でシーツに足を取られた。

 もちろん下は布団だ。

 転倒も問題ない。

 普通ならそうだった。

 問題は場所だった。

 あまりに縁に近い。

 下手に転がってしまうと、寝台から落下する可能性がある。

 ケイスはもしもの事態に備えて腰を軽く落したが、その時にはもう、ナージャの赤マフラー〈*旋火の綾〉が動いていた。

 スライムのように一瞬で伸張したかと思うと、素早くコロパスの腹に巻き付く。

 まるで獲物を捕らえるカメレオンの舌だった。

「お前、歩き方がペンギンみたいだな」 

 ナージャは生真面目な顔で言うと、〈*旋火の綾〉でミーファティアを持ち上げた。

 そのまま手元へ引き寄せる。

 脇の下を支え、受賞杯トロフィかかげるようにかかえあげた。

「ちょっと足が短すぎるんじゃないのか? こんなだからペンギンみたいになるのだ。足の裏もだ。なんか、これ――ぷっくりしてるぞ。これでは転ぶに決まっているでしないか」

「二歳児ってのは、誰もがそんなもんだ」

 ケイスは横から指摘する。

 下ろしてやれと言いかけたが、それは途中でやめた。

 当のミーファティア自身が、キャッキャと大喜びであったからだ。

「なんだ。お前、高いところが好きなのか?」

 笑顔で言うと、ナージャは何かを思いついたらしく、カズマに顔を向けた。

「ダーガ。こいつを抱えて、ちょっと空飛んで来て良いか?」

「良いわけないじゃないか」

 即答であった。

「なんでだ」

 裏切られたような顔だった。

「こいつも喜ぶに決まってる」

「緊急時でもないのに、封貝で市壁の内側を飛行するのは禁止って言われたでしょ。その子たちは体調だってまだ万全じゃないんだよ。

 しかも、僕が良いって言った瞬間、全裸のまま連れて飛び出すつもりだったよね?

 大体、ナージャは、そろそろエリックさんの迎えに行く時間じゃないか」

「あ――」

「でも正直、大事な話の間に遊んでやってくれるのは助かるよ。だから、それはお願いしたいな。あんまり大騒ぎにならない範囲で、だけど」

「しかたがない」

 ナージャは嘆息しつつも、すぐに気を取り直した。

「じゃあ、これで我慢するのだぞ」

 囁きかけると、彼女は〈*旋火の綾〉でミーファティアを再び掴みあげた。

 天井付近まで持ち上げ、右へ左へとゆっくり移動を繰り返す。

 擬似的な空中散歩気分を味わえているのだろう。

 ミーファティアは尻尾をぶんぶん振り回してはしゃぎ声を発していた。

 ナージャが「ぶーん」と飛行音らしきを再現すると、真似て「ぶーん。

 ぶーん」と繰り返しはじめる。

 ケイスはその様子にひとつ苦笑を漏らしつつ、注意を地上付近に戻した。

「リックテインだったな。まだ話を聞ける精神状態か? それとも、何を聞いても頭を素通りしそうな状態か?」

「えっ――」

 はじめて投げられたケイスの声に、コロパスの少年は少し戸惑ったようだった。

 相手が明らかな成人であるからか、表情に少し怯えの色も見える。

「無理をして、不正確な自己申告はするな。話を聞いた事実より、それを理解できた事実の方が大切なんだ」

「ええと、つまりね」

 カズマが困ったような微笑で助け船を出す。

「大事な話をしたいけど、それをいつ聞くかはリックテイン君が決めて良いよってことだよ。今でも良いし、疲れてるなら少し休んでからでも良い。

 休んだからと言って、きみのことを駄目な奴隷だと思うことはないから安心して考えてみて」

 コロパスは口を半開きにして、話に聞き入っていた。

 なにか信じがたいものを見る目でカズマを凝視している。

 ケイスにも気持ちを察することはできた。

 休んで良い。

 お前が決めて良い。

 どんな選択をしても評価が落ちることは決してない。

 ――奴隷の多くは、どれか一つであれ一度も耳にすることなく死ぬだろう。

「あの……」

 リックテインは二、三度目を瞬いたあと、ようやく言った。

「大丈夫です。今、聞かせてください」

「そう?」

 カズマはそれでも心配そうであった。

 そうだ、何か飲む?

 まるで立場が入れ替わったような台詞を吐いて、またコロパスを驚かせていた。

「自己紹介の続きになるけど、そこの大人の男の人が、ケイスさん。

 それから、ミーファティアちゃんと遊んでる女の子がナージャ。

 他に、僕と同じくらいの歳のエインで、姓をアカギ、名をエリックっていう男の人と、隣の部屋にはマオさんっていう綺麗なお姉さんがいる」

「はい。ケイス様、ナージャ様、アカギ卿、マオ様ですね」

 背筋を正し、リックテインはきびきびと復唱した。

「……うん。別に、そんな急いで覚えなくても良いんだけどね」

 いささか鼻白み気味でカズマは続けた。

「僕らは多くが封貝使いで、全員がレイダーでもある」

「――はい」

 ケイスは、返事をするまでの一瞬のうちに、リックテインがカズマの右腕、そしてナージャの〈*旋火の綾〉に素早く視線を走らせるのを見た。

「僕らはこの五人で、派閥プラトォン〈ワイズサーガ〉を結成している。書類上は一応、僕が代表者になってるし、リックテイン君とミーファティアちゃんを連れてきたのも僕だけど、でも、ふたりのことは派閥として迎え入れるつもりだから、そのつもりでいてね」

「はい。お世話になります」

「うん。で、君たちの今後の扱いなんだけど――」

「……はい」

 リックテインが表情をにわかに硬くする。

 奴隷は与えられる仕事次第で、寿命が決まる。

 幼いながらにそのことを理解しているのだろう。

 また、覚悟もしているらしい。

 コロパスは平均二〇年という短寿命故、成長速度が圧倒的に速い。

 人間エインが一年かける歩行の開始も、コロパスなら二週間で達成だ。

 比例して彼らは精神的な成熟も早いと言われている。

 生まれて一年もすれば恋をし、子どもを作る。

 だが、それでも今のリックテインは人間の六歳相当にすぎない。

 異常なほど大人びた子と言えた。

「ウチの派閥では、奴隷という言葉とシステムは使わない。どっちかというとしゃちくに近い。つまり、奴隷のようでいて、実際にはいくつかの権利や自由が保証されている。

 たとえば、命令に対する拒否権。業務命令には基本的に従わなきゃいけないけど、明らかにおかしな命令には従わなくていい。……ええと、意味は分かる?」

「すみません。シャチクというのははじめて聞きました」

 それはそうだろう。

 ケイスは思わず声にしかけた。

 恐らく、オルビスソーではじめて使われた言葉であるに違いない。

 当然、ケイスにとっても初耳だ。

 恐らくカズマは、自分の世界で使われている概念をひょいと持ちだしたのだ。

「あ、それは良いよ」

 案の定、カズマは軽い口調で言った。

「そうじゃなくて、拒否権とかのこと。少し難しい言葉だけど……」

「それは理解したと思います。言うことを聞かなくても許される、ということでしょうか」

「うん。そうそう。……いやあ、なんかリックテイン君って、ちょっとその歳じゃ考えられないくらいしっかりしてるよね。

 人間の六歳くらいだって聞いてたけど、話し方も大人びてるし、その辺のおない年の子とはかなり違う気がするなあ?」

 カズマが同意を求めるようにケイスを一瞥してくる。

「俺もそう感じていたところだよ。コロパスの成長速度を加味しても、特別な例だろう。あるいは貴族かそれに近い家の出で、幼い頃から厳しい教育を受けてきたんじゃないか?」

「それは――」

 リックテインが言葉に詰まったように顔を伏せる。

 それに気付いたカズマは、話題を変えようと明るい声をあげた。

「ですよね! いや、おかしいと思ってたですよ。六歳っていったら、小学一年生とかでしょ? その頃の自分を思い出してみると、なんかこう違和感があって」

「どういうことだ?」

 ケイスも流れに乗った。

「小一って言ったら、学校帰りに乾燥した犬の糞を発見して棒でつついて喜んでるところをヨウコに凄くさげすんだ目で見られたり、隠れんぼで追い詰められたとき、思わずヨウコのスカートの中に隠れようとして学級会議で吊し上げられたりしてましたからね。

 比べてみると、リックテイン君はちょっとだけ六歳の頃の僕とは雰囲気が違う感じだなあ、と」

「ところどころ言葉の意味が分からないところはあったが――、想像で補う限り、それはちょっとで済む違いじゃなさそうだな」

「まあ、見方によってはそうかもしれませんね。でも、言いたいのはリックテイン君はなんだか凄い気がするってことですから」

 ケイスも、その部分については訂正の必要を感じなかった。

「とにかく、なんだっけ……」

 と、目玉を一瞬だけ斜め上にしたカズマは、すぐに思い出して続けた。

「あ、拒否権の話か。

 拒否権はリックテイン君の言った通りの意味で――とは言っても、全然言うこときかないのは困るんだけどね。

 ただ、どうしても無理なことは無理だと言って良いってことで。

 つまり、絶対服従の奴隷とは違うってことを分かって欲しいんだよ。

 それから、仕事を選ぶ権利ね。

 リックテイン君たちにはこれも限定的に認められます。

 どういうことかと言うと、体力的に無理だったり、危険すぎたり、適性があまりにも低かったりする仕事は、相談の上で避けて別の役割を探すことができる。好き嫌いは受け付けないけどね。

 つまり、能力的にできない仕事はしなくて良いってこと。派閥のみんなのために、できる範囲のことを、できる限りやってほしい」

「はい……でも、良いんでしょうか?」

「ん、なにが?」

「いえ、そういう奴隷の扱いは聞いたことがないので」

「まあ、時代を先取りしてると思えば良いんじゃないかな」

 カズマはへらっと無責任なことを言い出す。

「奴隷は身分ではなく仕事。そう考えちゃいなよ。仕事であるならば選んで良いし、辞めても良い。生活していけなくなっても構わないならね」

「それが、お前がさっき言っていたシャチクとやらか?」

 良くはないと分かっていたが、ケイスは横から口を挟んだ。

「まあ、そうです」

 カズマは顔だけこちらに向けて答えた。

「彼らは実質的な奴隷として死ぬまで働かされることもありますが、ルール上はそれを避けられるはずなんです。特に仕事を辞める権利は、僕の故郷では法律でとても強いものとして認められていますから」

「だったら、なぜ死ぬまで働くような奴が出る?」

おう々《おう》にして、そういう人は真面目な性格なんですよ、きっと。責任とか、精神的重圧プレッシャーとか、そういうものでがんじがらめにされて、逃げるのに必要な力を奪われてしまう」

 主人から酷い目にあわされた奴隷にも、似たことが起りえるだろう。

 カズマはそうも告げた。

 痛めつけられ、ねじ伏せられ、人間性を否定されて、恐怖で屈服させられた者。

 彼らは、もし安全に逃げられる機会が訪れても、その気になれなくなる。

 一歩を踏み出す勇気を振り絞れなくなる。

 なぜなら、そんな状態にされることこそを屈服というからだ。

「トラックやでっかい魔物や剣が自分に向かってくるのに、動けないってあるでしょ? けなきゃ死ぬって分かってるのに。

 多分、同じなんじゃないですかね。頭で分かってることと、実際に行動できることとは別です」

「フム――」

 軍の新人教育にも似たところはある。

 五〇〇人もの若者がたったひとりの教官に絶対服従するのは、まず最初の段階で屈服させるからだ。

 お前には何の価値もない。

 クズにも等しい。

 呼吸をさせる価値すら本来はない。

 今、それを認めてやっているのは、これから使い物になるよう鍛えていくからだ。

 そう叩き込み、これまでの人生や価値観を完全に否定する。

「僕は、君たちの身元を引き受けるために、リックテイン君に四〇〇グラティア、ミーファティアちゃんに三〇〇グラティア使った」

 カズマはリックテインに向き直って、話を再開した。

「ふたりは病気や傷を負って死にかけていたから、治療もした。医療師に支払っただけでも約三〇グラティア。その他にも清潔な布や宿代、色々とお金がかかっている」

「それだけじゃない。金は今後もかかる」

 ケイスは指摘した。

「子猫の姿であれば少々色を付ける程度で済んだ宿賃も、人型ともなれば別だ。頭数分だけ請求されるようになるだろう。

 他に着る服もいる。食料もいる。レイダーとして手伝わせるなら、装備品も揃えるべきだ。もちろん税も支払わなくちゃならん。使う金はどんどん増えていく」

「まあ、ケイスさんの言う通りだね。つまり、リックテイン君たちは僕らに借金している状態だ。今の時点で、まあ八〇〇グラティアくらいかな」

 それはお人好しな計算と言えた。

 コロパスたちの感染症や深手の傷には、本来なら高級ポーションを用いなければならなかっただろう。

 今回はナージャの封貝がそれを運良く代用してくれたに過ぎない。

 その気なら、カズマは治療にかけた手間を相場換算して、治療費として請求することもできる。

 それは、数万グラティアという大金にもなり得ただろう。

「どんな仕事をしてもらうかはまだ決まってないけど、今後のリックテイン君の働きは、いくらくらいの価値があるか全て計算していくつもりなんだ。なんたって仕事だからね。労働力は提供した分だけ、対価を得られる。

 つまり、役に立ってくれた分だけ、ふたりの借金は減っていくっていうこと。これをゼロになるよう頑張っていくのが、ひとまずはリックテイン君の目標になると思う」

「ゼロになると、どうなるのでしょうか?」

 よく分からない、という顔だった。

 否。

 目に不安の色が見え隠れしているあたり、それ以上だろう。

 用済みと見なされ、他人に売り飛ばされる心配でもしているのだと思われた。

 だが、カズマが口にしたのはその危惧の真逆をいくものだった。

 すなわち―――

「そりゃ当然、完全なる自由だよ」

 リックテインがぽかんと口を開く。

「えっ……?」

「奴隷は終了ってこと。好きに生きて良い。ウチの派閥から離れて好きなところに引っ越しても構わないし、雇い主と使用人という立場じゃなく、僕らと対等な派閥の正規メンバーとして残るのもありだ。

 奴隷のままでいたいなら、未契約ブランクの首輪をしたまま新しい主人を探しても良い」

「え……えっ? いい……良いんですか?」

 それは見事なうろたえぶりであった。

 リックテインは「何が起っているのか分からない」という顔で、カズマとケイスを交互に忙しく見やる。

 いきなり牢の鍵を開けられ、「自由だ」と言われた重犯罪者さながらだ。

「ただ、君が権利を与えられるように、僕にも権利があることは忘れないようにね。君の働きぶりや態度が、ウチのプラトォンに相応しくないと思った時は、別のところに行ってもらう。

 ではウチと同じような扱いは受けられない。奴隷の身から自由になることもない。妹ちゃんとだって一緒にいられなくなる。どうか、〈ワイズサーガ〉に迎え入れたことを、後悔させないでほしい」

 リックテインが全身をこわばらせるのが分かった。

「はい! ご主人様のご期待を裏切らぬよう誠心誠意お仕え致します」

「固いなあ……」

 苦笑いしながらカズマがつぶやく。

「そのご主人様っていうのもそうだけど、奴隷っていう呼び名もなんか違うし。早く良い感じのオリジナル呼称を考えないと。ケイスさん、なんか良いアイディアないですか?」

「もちろん、ないさ」

 ケイスは肩をすくめて即答した。

「正直、俺は話についていくのが精一杯だ。お前の言っている奴隷は、俺が知っている――オルビスソーで一般的な奴隷とは明らかに違うものだよ」

 さっき言っていた「シャチク」という呼び方ではいけないのか。

 問うと、カズマは眉根を寄せて難色を示した。

「なあんか、語感が違うっていうか……そもそもシャチクって、商会にやとわれてる家畜同然の労働力って意味なんですよ。ウチはレイダース派閥(プラトォン)であって商会じゃないじゃないですか」

「家畜、ね。お前のも結構言うじゃないか」

 何にしても、カズマのいう新しい形の奴隷というものは、そう簡単に通用するものではない。

 ウチではそうします、だけで済む話ではないのだ。

 その事実を、いずれカズマは身をもって知ることになるだろう。

 奴隷制は社会的なシステムだ。

 それは、社会が共有する価値観と言い換えることもできるだろう。

 奴隷とはこういうもの。

 かくあるべき。

 そういう概念、仕組、理解は歴史の積み重ねの中で、広く社会に浸透し認められたものである。

カズマはそこに、自分の都合で違う価値観をぶつけようとしているのだ。

 話になるわけがない。

考えるまでもない。

つぶされて終わりだ。

 過去には、実例もあった。

 大切にしている奴隷を、同じ食卓につかせた貴族の話がそうだ。

 だが、その件はどこからともなく外にれた。

そしてくだんの貴族は、同じ貴族社会から非常に強い抗議を受けたと聞く。

最終的には、奴隷の扱いを強制的に改めさせられた。

 階級や階層の崩壊は、社会基盤の崩壊。

結局、そう考える者は多いのだ。

 カズマのやろうとしていることは、明らかに彼の分を超えている。

 しかし、本人は若さに由来する未熟故に、その自覚をまだ持てていない。

 ケイスは敢えてそれを指摘はしなかった。

むしろ、このままやらせてみようと考えてさえいる。

 カズマが本当に異世界からきたというのなら、そのせんれいは受けておくべきだろう。

ある世界で、違う世界のルールや考えを通そうとすることの意味、重さ。

それらは痛みという教訓を通してしか、恐らくは理解できないことなのだ。

挿絵(By みてみん)

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