紫玄の告知
003
千葉蓉子は憤然としながら校門に歩を進めていた。
まったくあの莫迦は。この大変なときに何を考えているのやら――
声にせず毒づく。頭に血が上り、歩幅はいつもより一〇センチ以上広がっているだろう。
それもこれも、全部あの大うつけのせいだった。
よりによって告白の手引きとは。親友が失踪してショックを受けている幼馴染にだ。
まったくあり得ない話であった。
カズマには罰として図書室へ行きを命じてある。今頃、正座の上で〈瀧澤義彦文学館8「十一の心」〉の書写に勤しんでいるはずだ。
精々、中世フランスの年代記から騎士道のなんたるかを学べば良い。
しかし――
と、ヨウコはにわかに歩調を緩めた。いからせていた肩からも力を抜く。
カズマがあんな絡み方をしていなかったら、放課後のあの告白イヴェントはもっと気の重いものになっていたであろう。それをあの莫迦がコメディにしてくれた。考えようによっては、そうとも解釈できる。実際、あまりの馬鹿馬鹿しさに少し笑えたことは認めざるを得ない。
否、それこそがカズマの狙いであったことは、本当のところ分かっていた。
礼など言ってやらないが、実のところ感謝さえしている。
思えば今日は一日中、神経を張り詰めていた。朝一番で親友の失踪を知ってから常にだ。カズマはそんな幼馴染の緊張をほぐそうとしてくれたのだろう。手段として奇行を選ぶのは彼のいつものパターンである。
カッとなって一度爆発してしまえば、あとは逆に落ち着く。そうった相棒の性格をカズマは知り尽くしている。逆にヨウコもカズマの気のつかい方を察することができる。
最近、その関係性を周囲に説明するのが面倒になりつつあるが、彼がいない日常など考えられないし、向こうもそう思っているだろう。
双子の姉弟みたいなものなのかな。そんな風に考えて、ヨウコはひとり微笑んだ。
こうなると、周囲の様子に目を向ける余裕も出てくる。
校内から失踪者が出たせいだろう。今日の放課後はあちこちに教員が出張っていた。
校門前にもジャージィ姿の体育教師が立ち、下校していく生徒達に声をかけている。
ヨウコは彼とおざなりに挨拶を交わし、正門を潜った。短く緩やかなコンクリートのスロープを下って通りに出る。
そのとき、控えめなクラクションの音が耳朶を打った。
無意識にそちらを見やる。
ほぼ同時、ヨウコは足を止めた。
二度まばたきして、もう一度それを見た。今度は凝視だった。
驚くべきことに、手前側の路肩に停まっているのは黒塗りの乗用車であった。クルマには詳しくないためメーカーも車種も分からない。だが、グレードが決して低からぬことは分かった。佇まいからして既に風格の違いを醸し出している。
だが、問題はグレードうんぬんではない。
その後部座席から合図をよこしている男の存在であった。
背中まで伸びる、女性と見紛うような長髪。しかし、その相貌を形作る輪郭は極めて男性的なラインから生み出されている。目蓋からほとんど距離のない一直線の太い眉。表情の読み取れない切れ長の瞳。
間違いなくカズマの後見人、楠上紫玄である。
「えっ、シゲンさん? なんでこんなとこに」
思わず駆け寄って声をかけていた。
「カズマに何か用ですか?……あいつなら今ちょっと」
ヨウコはそこで口を噤む。
私の命令でフランス文学を書写しています、とは言いづらい。
「ええと、居場所なら心当たりがあるんで、なんでしたら呼んできますけど」
「いや」低く深みのある声が言った。「私の担当は君だ」
「はい?」
気のせいか、シゲンが軽く嘆息するような動作を見せた。すぐにヨウコと目を合わせて言う。
「遺憾ながら、私は君に用があって来たのだ。カズマではなく」
「私?」
「まあ、ここで話せるようなことではない。乗ってくれんか」
「いや……でも、私はちょっと予定が……ニュース見てません? この辺で高校生のコが失踪したんですけど。あれ、実は私の友だちで。捜索を手伝えないかと思ってるんです」
「それは、柴田夏梨のことだな」語尾に被せるようなタイミングだった。そしてフム、と小さく頷く。「それなら、彼女の行方とも繋がりのある話だよ。君の今後にも非常に大きく関わる。極めて大きく関わる。乗りなさい。君はそうすべきなのだ」
絶句しているところに、ふと別の気配を感じた。それも至近距離からだ。
「――ご案内します。こちらへどうぞ」
いつの間に接近を許したのか、運転手の男が慇懃に頭を下げていた。
こうなるともう抵抗する気も起きなかった。直感も「従え」と告げていた。
ヨウコは運転手について、開かれたドアから後部座席に乗込んだ。
下校中の生徒に見られれば噂の一つでも立てられようシーンであった。しかし、今はそんなことも気にならなかった。酷く現実感を欠いている。
車内は、外観から想像するより広々としていた。座席の並びは列車の中さながら。壁に背もたれを沿わせる形で配置されている。座るとシゲンとは――やや斜め気味に――向かい合う構図になった。
振動がまったくなかったため、ヨウコはクルマが走りだしたことに数分間気付かなかった。話があるともちかけつつ、シゲンはシゲンで口を開く気配もない。両目を閉じ、むっつり黙り込んで、一種の彫像と化していた。ほとんど拷問のような沈黙の時が続く。
それは三〇分か、あるいは十分に足らない程度の辛抱であったのか。
居心地の悪さで結局、どれだけの間乗っていたのかも分からなかった。
運転手が再びドアを開けたことで、ヨウコはようやく目的地への到着を知った。
目眩にも似たものを感じつつ降りる。すぐそこには全面ガラスの回転扉とドアマンが見えた。白亜の宮殿を思わせる意匠をこらした巨柱。鏡のように磨き込まれた大理石の床。
どう考えても、五つ星ホテルの車寄せだった。
ヨウコの記憶が正しければ、楠上シゲンは製薬会社に勤務する一介のサラリーマンに過ぎない。カズマの表現をそのまま引用するなら、肩書きは「なんとかのチーフ」という程度。課長だか係長だかの中間管理職であるはずであった。少なくとも、運転手付きの黒塗り高級車を乗り回せる身分でないことだけは確かだろう。
じゃあ、これはなに――?
シゲンに連れられ高速エレヴェータに乗込んでも、その問いに答えは出なかった。
むしろ逆だった。スカイラウンジに到着し、恋人たちが夢に見るような展望レストランに誘われるに到って、ヨウコの混乱は極致に到った。
「いらっしゃいませ、楠上様。いつもありがとうございます」
入口で待ち受けていたウェイターが、慇懃に頭を垂れた。
ファミレスのそれとははっきり異なる威風をまとった壮年の男性だ。
顔パス――? それとも何かの勘違いか。単に予約をしていたからとか……。
否、それなら名乗る前にいきなり個人を特定してきたのは不自然だ。
ウェイターの立ち振る舞いは、明らかに常連客を迎えるそれだったように見える。
もう何も分からなかった。
人数確認もない。喫煙の有無も問われない。ただ事前の段取りがあったかのように、ウェイターはもっとも眺めの良い特等席へとヨウコたちを案内した。椅子まで引かれる。
「すっごいお店……」
店員が敬々しく頭を垂れて下がっていくと、周囲を見回しながらシゲンに訊ねた。
「よくご利用なさるんですか?」
「仕事で稀にね。眺めが良いだろう? 客人は大抵、気に入ってくれるのだ」
シゲンは市内を一望できる三六〇度のガラス張りを軽く見やる。
そして、「君もそのはずだ」というような無言の視線をヨウコに向けた。
ここが分かれ目だと感じた。気後れしては、もう負けが確定してしまうような気がする。
ヨウコは真っ向からシゲンの視線を受け止めた。ずばり切り出す。
「――で、私にお話っていうのは?」
「それが少し込み入った話でね。あとふたりゲストの到着を待たねばならんし」
「他にも人が来るんですか」
「私としてもさっさと済ませて、カズマの救出に向かいたいところなんだが……」
苦悶するように顔を歪ませ、シゲンが唸る。
「救出って?」
「あの牝狐からに決まっているだろう」
もちろん、シゲンがこう表現する相手は一人しかいない。
同居人の玉池サトミだ。苗字が違う時点で明白だ――とはいえ、大量移民の影響で夫婦別姓の議論が再燃化されつつある――が、彼等は夫婦ではない。もちろん兄妹でもない。血縁関係にもないと聞く。
彼等はただ、カズマの後見人としてのみ立場を共通している。それだけだった。両者の間に横たわるのは、ひとつの聖地を巡る異教徒のそれと同じ対立構造である。同じ物を求めながら、互いに争う道しか選べない。
「我々はコイントスで担当を決めた」シゲンが言った。「もちろん、私とカズマは運命で繋がれている。当然の帰結として、コインはカズマの担当に私を割り当てるはずだったのだ。しかし、出た結論は非情なものだった。あの牝狐が悪魔的なイカサマでもって、波動関数の収束に不正関与したに違いない。ああ、心配だ。今頃、あの牝狐はその毒牙を私のカズマの柔肌に突き立てようと舌なめずりをしているだろう」
シゲンは遂に頭を抱え込んだ。
つまりこういうことらしい。シゲンとサトミは、それぞれカズマとヨウコに何らかの重大な話をしなければならなかった。別々に、だが同時にだ。その際、誰がどちらと話をするかは、硬貨を投げ裏表を当てるゲームにて決められた。結果、シゲンはヨウコを、サトミはカズマを担当することとなった――。
「そのお話というのが、私の友達が失踪したことと関係するというのは事実なんですか?」
あるいは、話に乗せるための方便か。そんな勘ぐりもあったが――
「事実だ」即答だった。
「それって、彼女の失踪についてシゲンさんが何かご存じということになりますけど」
「実際、存じているよ。私は、柴田夏梨の失踪について……と言うより巷を騒がせている失踪事件全般において、ヨウコ君が欲しているであろう情報をかなりのところまで提供できる立場にある」
自分で訊いておきながら、シゲンの真っ直ぐな返答に衝撃を受ける。
思考が一瞬止った。
「そうだな」シゲンが一つ頷きながら言葉をついだ。「残りのゲストが揃うまで、君には予備知識を得てもらうことにしよう。まあ、ゲストと言ってもキミのご両親なわけだけどね」
「私の――?」
「彼らには先週、キミに先んじて事情の大筋を説明しておいた。告知した、と言い換えても良いだろう。それをいつ行うかに関しては、我々も色々と悩んだものだよ。事が事だけに当事者たちに知る権利があるのは当然として、しかし知ったところで結末を変えることができる話でもない。むしろ、知らない方が良かったと言われることも想定された」
つまり、とシゲンは珍しく言葉を探すように間を取った。
「強い衝撃を受け、確実に日常生活にも支障を来すであろうことが分かっているだけに、早く伝えすぎるのは単に苦痛を長く味わわせるだけだ、という意見があった。我々は総意としてそれを認め、最適なタイミングを見計らった。キミたちにはできるだけ何でもない日常を送り、できるだけ心穏やかに過ごして欲しかったからだ」
「なんか、QOLの話をされてるみたい」
言いながら、ヨウコは自分の口ものとが引き攣りつつあるのを感じていた。
クオリティ・オヴ・ライフ。
極めて狭義的には、病気などで「助からない」と宣言された患者の、残された短い人生――その質を問う概念だ。病室に閉じ込め、無数のパイプに繋ぎ、強い副作用をもたらす薬剤や放射線を浴びせかけて、僅かばかりの延命をはかるか。それとも苦痛を伴う治療を放棄し、自宅に戻るなどして、最後のひとときを家族や友人と穏やかに過ごすか。
いわば、人生の最後の半年の過ごし方である。
「私の家族に、誰か末期ガンを患ったひとでもいるんでしょうか?」
口に出した瞬間、ヨウコはすぐに自ら首を左右した。
誰か、ではない。そうではないのだ。
この手の話は、まず周囲の人間に情報を与える。外堀から埋める。当事者への告知は最後の最後だ。それが常道。セオリーなのだった。そしてシゲンは先程、「両親には先んじて事情の大筋を話してある」と口にしている。
すわなち、当然の帰結として――
「私が……」
声が震えていなかったかは、もう自信がなかった。
「私に、なにかあるんですね?」
「そう。最初から言っているようにね」シゲンは重々しく、だがあっさりと認めた。「我々はキミのご両親に、近いうち娘を失うことになるであろう、とそう告げた。根拠となるデータを添えてね。当然、彼らは最初、それを信じようとしなかったが――この数日で、渡されたデータを検証する余地を得た。今はもう、我々の予測が避けがたいものであることを、少なくとも理屈の上では理解しているだろう」
だから、彼らは今日の呼び出しにも「必ずうかがう」と応じたのだ。そうシゲンは結んだ。
ヨウコは、自分の身体から体温が抜け落ちていくような錯覚を覚えた。指先に走る痺れを抑えようと、卓上で両手の指を組む。心臓が金属化し、四角くなったような錯覚に襲われた。ひとつ脈動する度、鋭利な角が周囲の内臓を傷つける。尖った痛みが全身を駆け抜ける。
――言われてみれば、思い当たる節はあった。
たとえば母だ。
彼女が、「職場で風邪をもらってきたらしい」と体調不良を訴えだしたのは先週の今頃ではなかったか。確かにここ最近の母は食欲が落ち、床に就くのも早かった。どこか覇気のない様子が続いていた。あれが、娘の生死に関わる宣告を受けた心的ショックを隠す方便だったとすれば――、風邪というわりに発熱も咳もなかったことの説明はつく。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、ヨウコはようやく口を開いた。
「私は……、死ぬんですか」
「この世から存在が消え失せることを死というなら、そうだ。キミの死期は近い」
「近いってどのくらい」
「一週間と考えて欲しい」
「……どういうことなのか、聞かせてください。今のところ体調不良とか、そういうことは一切ないんですけど」
「病死ではないよ。あれの予後やら生存率なんぞは、天気予報と同じ不確かなものだ。予測や予想の域を出ない。しかし、私が言っているのは予知に近い。そして、薄々勘づいていると思うが、これは世界の〈果て〉と密接に関係した話でもある」
つまり、物理的に説明のつかない状況で頻発する、不可解な人体消失。神隠し。あるいは失踪。これらのことを言っているのだろう。それだけは麻痺しかけた頭でも分かった。
シゲンが続ける。
「キミの友人、柴田夏梨君と同様の失踪事件は、その状況の異常さから巷では常に〈果て〉と結びつけて語られてきた。これは共通の理解であると思う」
ヨウコはまばたきもせず、黙ってそれを認めた。都市伝説と言われればそれまでだが、かといって〈果て〉の関与を否定できる材料も特にない。
そして今、シゲンの口から柴田夏梨と〈果て〉というワードが同時に語られようとしている。
「本当に、一連の失踪騒ぎは〈果て〉と関連があるんですか?」
「当然だろう」シゲンが鼻で笑う。「そもそも失踪報告は〈變成日〉に重なって出るようになった。これで関連性を疑わない方が不自然というものだ」
「それは、確かに」
「結論から言えば、君の友人である柴田夏梨は〈果て〉に取り込まれたのだ。生死は別として、今はあちら側に帰属している。こちらでの捜索に加わろうという君の努力は、したがって私が止めなければ全くの徒労に終わっていただろう」
「にわかには信じがたい話ですけど……」
失踪事件にせよ〈果て〉の存在にせよ、専門の組織が長年を通じて捜査、調査、あるいは研究してきたことなのだ。その上で、いずれの問題も未だ解決の見通しが立っていない。両者の因果関係を証明する材料が見つかったという報告もない。
「失礼かもしれませんが、シゲンさんのお話し一つでそれを事実として受け入れろというのは、ちょっと難しいです」
「失礼などではないよ。科学的な思考だ」さして気を悪くした素振りも見せず、シゲンはあっさり認めた。「キミのご両親もまったく同じことを言われた。これも至極当たり前のことだ。だから私は、手っ取り早く物的な証拠を提示した」
と、シゲンは一瞬、ヨウコから視線を外した。奥に控えている給仕に手振りで合図する。
すると、スタッフのひとりが黒革のブリーフケースを抱えて近付いてきた。美術品を扱うキュレーターさながらのうやうやしさで、それはシゲンの手元に渡される。彼は受取った鞄を開き、中から分厚い茶封筒を取りだし、ヨウコの方へやった。
「あの、これって?」
「封を解いてもらって構わない。それはキミのご両親に渡した資料とまったく同じものだ。いずれも原本ではなく抄本だが」
言われて、ヨウコはそれに手を伸ばした。ミステリ小説などに出てくるマニラ封筒というものだろう。実際にはマニラ麻製ではなく、何かの本革で代用された非常に高級感のある茶封筒であった。上下にボタン状の留め具があり、その両方を紐でぐるぐる巻きにすることで封が成されている。実物は初めてということもあって、解くのには少し手間どった。
「その資料の出所に関しては、全員が揃ったところで改めて説明しようと考えている」
作業の手を見守りながらシゲンが言った。
「今は、そうだな。乱暴なまとめ方になるが、とある石碑に刻まれた文章の写しということだけ説明しておく。まあ、翻訳してあるし、意訳になっている部分すらあるから、その意味では完全なコピーではないがね。ロゼッタストーンを想像して貰えると近いイメージを得られるかもしれない。こちらは建築物に近いサイズの、それ自体が遺跡のようなものだったから、そこが違いだ。小さな文字がびっしりと刻み込まれた、材質の分からない一枚岩のプレートだった」
「そんな遺跡、存在自体が大ニュースになってると思いますけど」
「なるわけがない。碑文の刻まれたその遺跡は、〈果て〉の向こう側の世界に存在するんだからな」
ヨウコはえっと顔を跳ね上げる。
向けられた視線を泰然と受け止め、それに見合う口調でシゲンは続けた。
「こちら側の人間であれを実際に見た者は、私や牝狐を含めて片手で足る程度のごく限られた人間に過ぎない。まあ、これについてはゲストが揃い次第、まとめて説明しよう。そこまで十分な時間が取れるかは分からないが」
喋りながら、彼は「今はとにかく資料に目を通せ」と視線で指示してくる。
ヨウコは言われるままに、中に収められていたA4紙の束をめくっていった。
名簿――?
それが率直な第一印象であった。年月日と時刻が見だしになっていて、様々な人名がずらりと並んでいる。性別、年齢などのデータも添えられていた。
「なんとなく分かったと思うが、それはリストだよ。我々が所持している分を全て渡すとこのレストランいっぱいの量になるから、直近の五年、それも国内の分だけをまとめたものだがね。今のキミと同様、我々は長年、それが何の名簿なのか理解できずにいた」
「はあ――」
「最初に気付いたのは牝狐だった。もう何年も前になるが、〈果て〉が突然現れてからしばらく、世界中で不可解な失踪人が大勢出るようになり、それは我々の身辺でも当然のように起るようになっていってね。公開捜査が当たり前になり、ニュースで実名やプロフィールが報道逸れるようになるに到って……勘づいたのだ」
はっとして、ヨウコは顔を上げた。
これまでの話の流れ。そして、この名簿。合わせて考えると、ある推論が成り立ってしまう。そもそも、これは「物証」として提示されたものなのだ。
「気付いたな?」ヨウコの表情を見て、シゲンが目を細めた。そして彼はゆっくりと頷く。「そうだ。君が見ているのはまさにそのリストだよ」
「まさか――」
「頁番号がふってあるから、探せるだろう。三十九枚目をめくってみなさい」
言われるままにそうした。甲状腺亢進症であった祖母のように、指先がぷるぷると震える。ヨウコは一度ぎゅっと拳を握ってそれを打ち消すと、心を落ち着けて資料に戻った。問題のページを開き――
そして見つけた。
柴田夏梨。KARIN SHIBATA。日本。女性。十六歳。
失踪したばかりの、友人の名だった。
「日時が、彼女が消えたとされるタイミングと一致していることを確認してくれ。そうしたら、次はその二枚後だ。上から二段目の列を見て欲しい」シゲンが言った。
息を止めたまま、二枚分、ページを飛ばす。二段目。
彼が言わんとする部分は、すぐに探し出せた。
見逃しようもない。笑ってしまうほど簡単だった。
千葉蓉子。YOKO CHIBA。日本。女性。十五歳。
は――?
なぜか強ばった口元に笑みが浮かぶのを感じた。
その歪な表情のまま、ヨウコはシゲンの顔をうかがう。
彼は真っ直ぐ、明日、消える人間の目を見詰め返してきた。
「今日、君を呼んだ理由は分かって貰えたな? そのリストは、失踪という形でこの世界から消失し、そして二度と戻ってこない日本在住の人間のうち、直近の該当分を網羅したものだ。日時はこれまでのペースから目安として算出したものに過ぎないから、まあ、多少前後することはある。しかし、名簿に載った人間が失踪を逃れた例自体は一件もない。これは、追跡調査により確認済みの事実だ。キミの前の数人は、これから失踪し、捜索願が出る。各種報道で確認できるだろう」
「いや……でもこれ……」
シゲンの顔から資料へ、そしてまたシゲンへ。ヨウコは無意味に何度も視線を行き来させた。そうすることで何が変わるというわけではない。自分の名前が消えるわけでもない。だが、止まらなかった。
それでも、シゲンの語調はいささかも揺るがない。
静かな声が、諭しかけるように続けた。
「その資料には七日の午後とあるが、正確かは分からない。だが、あまり大きなズレは出ないだろう。既に言ったように、一週間以内と考えて欲しい。それまでに――ヨウコ君。キミは新たな失踪人としてニュースになるだろう」
以上、2015年クリスマス企画として3話分(約73kb)を一挙掲載した。
原稿用紙で80枚くらいになる計算のようだ。
以降は理想を週1、努力目標を隔週において連載の予定である。
現状、1ヶ月分のストックがあるが、年末年始の予定が流動的であるため先行きは全く楽観視できない。
業務連絡めいているが、システムがUnicodeに対応していないようであるため、一部表記を変更してお届けした。
本サイトの利用はこれが全くの初めてであるので、不備や改善点があったら遠慮なく指摘していただきたい。
いただいた誤字脱字の指摘などと同様、即時的な反映は難しいかもしれないが、少しずつでも良くしていけたらと考えている。