サタンの誘い
038
診療台に並べて横たえられたコロパスは、ふたりとも仰向けのまま眠り込んでいた。
四肢を放り出し、腹を開けっぴろげにしたその姿に肉食獣の野生は残滓すら感じられない。
その胸元にゆっくりと顔を寄せていくのは、腹まで届く見事な白ひげをたくわえた医療師だ。
彼の頭頂部に聳り立つ白い柔毛に覆われた長大な耳が、コロパスの身体を毛布のように覆っていく。
うさぎの亜人として知られる〈ラパョン〉ならではの聴診術であった。
「――呼吸も心音も安定しておりますな」
顔を上げたラパョンの老医療師が、好々《こう》爺然とした笑みをゆっくりと口元に広げた。
「傷の具合は?」
部屋の端で診察風景を観察していたケイスは、短く問う。
「問題ないでしょう。
大きな子の方の背中の傷は非常に深く、一部骨にまで達していたはずですが、今は完全にふさがっています。小さい方も、痒みを感じて掻きむしった結果、傷が悪化したり化膿した痕跡が見られますが、これもうまく治療されているようです」
痕は残るかもしれないが、薄らとしたものだろう。
猫型であれば毛皮に隠れ、人型であれば服で見えなくなる。
医療師はそう結んだ。
「肌のただれた部分は? 感染症だという話だが」
ケイスは丸椅子に座ったまま脚を組みかえる。
「問題はそれですな。子どものコロパスは特に抵抗力が弱いため、この手の皮膚の病気になりやすいのです。原因も寄生虫、免疫系、雑菌系と様々で、この子たちはどちらも全てのパターンで病気になっていますね」
ただ、とラパョンの老医療師は顎ひげをなでた。
自分のところへ来る前、既に大がかりな治療を受けてきたのではないか?
質問というより、確信をそのまま口にした感じで言い、また続ける。
「発疹――赤いぶつぶつは、〈ウィムズ〉という寄生虫が原因であったはずですが、もう綺麗に除かれています。自然に消えることはないので、それなりに値の張る薬物を使われたのでしょう」
ケイスは内心、首を傾げた。
薬など使った覚えはない。
単にナージャの回復液に一晩浸からせていただけだ。
だが、表情には出さず、相手にそのまま話を続けさせた。
「サマレツィア皮膚炎や膿皮症も出血を伴うかなり酷い状態だったはずですが、やはり的確な処置のおかげでかなり治癒が進んでいます。
壊死した組織や滲出物も綺麗に除去されておりますね。状況を考えるとほとんど死ぬ寸前まで追い詰められていたのでしょうが、よほど優秀な方に診てもらったようだ。あと数時間放置しておけば死ぬというところで、高レベェルのポーションを使って一気に治療を進めたような……」
そこで彼は意味ありげに言葉を区切った。
「エインの御仁。この子たちは、ずいぶんと大切に扱われているようですな?」
探るように言う。
綿毛のような白い眉毛の下、半ば隠れていた細い双眸が一瞬、理知の光を過ぎらせた。
ケイスは、老人が自分のレイダー証に気付いたことを悟る。
「ああ、レイダーをやっている都合、派閥にいる治癒の力を持った封貝使いを頼ることができてね」
「なるほど、流石レイダーさんは違いますな」
「せっかく買った奴隷だ。投資分を回収するまでは生きてもらうさ」
情けは人のためならず。
そんな言葉が故郷にあるのだ、とカズマが笑っていたのをふと思い出した。
人に優しくすれば巡り巡っていつか自分に返ってくる。
だから親切に生きよ、という意味らしいが、この世界では通じない理屈だ。
オルビスソーではお人好しは尊敬されない。
むしろ侮られる。
そして、いい獲物にされる。
死にかけた奴隷を同情心だけで買い取るような究極のお人好しがいることを悟られないため、時に偽悪的にふるまうことも必要だった。
「この調子で治療を進めれば、いずれ全快すると考えても良いのかな?」
「ふむ」
医療師は咳き込むように頷いた。
「おそらくそうなるでしょう」
「そうか……それは重畳」
ついでに、コロパスの生態についても幾つか聞いておいた。
ケイス自身、過去に何人かのコロパスに会い、知人として交流を持ったことはある。
戦場で命のやりとりをしたことも幾度かあった。
だが逆に言えばそれだけだった。
寿命が短い。
かわりに身体能力が高く、また非常に発達した聴覚を持っている。
知っているのは、要するに軍で学んだ兵士としての特徴が全てだ。
「コロパスは猫の姿で生まれてきて、一ヶ月間はそのまま猫として育ちます。彼らは寿命が短い分、成長が早いので、この時点でもう歩き出し、人間でいう一歳児程度くらいには育っていると考えて下さい」
そして一月目から二月目にかけて、猫から人間の姿へ急速に変わっていくのだ、と医療師は続けた。
乳歯が生えそろうのもこの頃であるらしい。
「こちらの小さな方、女の子ですが――」
老ラパョンが昏睡状態のままぴくりともしないコロパスを優しくなでた。
「彼女が、ちょうどその段階です。人間で言うと二歳程度」
「とすると、彼女やさらに大きな方までもが猫の姿というのは……」
「良く知られていることなのでご存じかもしれませんが、死ぬ寸前まで衰弱したためです。重病を患ったり、極端な飢餓に陥るとコロパスは人間の姿を保っていられなくなります」
人間と同じサイズであった身体を猫に変え、小型化する。
そうしてかき集めたエネルギィを生命維持に回すためだという。
「今でこそ猫の姿をしていますが、傷と病気が回復傾向に向かい、体力が回復してくれば、彼らは人間の姿を取り戻すでしょう。もちろん、耳と尻尾、個性によってはごく一部に毛並みは残りますが」
「この調子で治療を進めると、どれくらいが目処になるだろうか」
「どんな封貝でどのような治癒が行われているのか分からない以上、はっきりしたことは言えませんが……」
前置きしつつ、医療師は答えた。
「まあ、そうですな。二、三日のうちに眠りから覚めるでしょう。早ければ今日のうちに何らかの徴候が見られるかもしれませんな」
彼は、効果的な栄養の与え方、養育上の注意点なども詳しく聞かせてくれた。
やはり亜人のことは亜人に聞くのが一番であったらしい。
もちろん、多種多様な亜人を一括りにするのも乱暴な話ではあるが。
「神の勘気に触れて生み出されたコロパスは、種族として蔑視されることが多いと聞く。かく言う俺たち人間の間でも、そういう空気はあるようだ。今日、偏見を持たない医療師と出会えたのは幸運だったんだろう」
「お大事に」
会計を済ませると、ケイスはまだ二匹の猫でしかないコロパスを両手に抱いて医療所をあとにした。
通りに出て空を見上げる。
陽がずいぶん高くなっていた。
そろそろ四刻の鐘が鳴る頃である。
昼食時だ。
派閥〈ワイズサーガ〉は、午前中の仕事が終わると、一度拠点である〈欠け戦斧亭〉に集合する予定だった。
だが、あの宿屋はレイダース連盟の提携店だ。
一階の居酒屋兼食堂は大いに混雑するだろう。
それを見越して帰り道、何か食料を買って帰ろうかと思ったが、やめた。
ケイスの両手はコロパスたちで塞がっている。
それに、別行動のマオが同じことを考えるかもしれなかった。
そのマオ・ザックォージとは、〈欠け戦斧亭〉の入口前でばったり鉢合わせた。
「隊――」
隊長と口にしかけ、彼女は慌てて訂正した。
「ケイスさん。偶然ですね。その子たち、どうでした?」
「問題ないそうだ」
案の定、宿屋周辺は鐘の前からレイダーの姿でごった返していた。
邪魔になるので、早々に借りている二階の部屋に場所を移す。
「では、ナージャの封貝は効果があったんですね?」
「それも、かなりな」
ケイスは自分の寝台にコロパスを並べて寝かせながら応じた。
「傷をふさぐだけじゃなくて、除菌や殺菌効果もあるらしいな、あれは」
「汚れも取れると言っていましたからね。浄化作用にその辺りも含まれるということでしょう」
「恐らくな」
「治療費は、どれくらいかかりました?」
銀貨三枚で釣りがきたと答えると、彼女は驚いた顔を見せた。
三〇グラティア弱は確かに、死にかけていた子猫二匹の治療費としてかなりの安さだ。
「封貝の治癒が効いていたおかげだな。処置の必要がなかったんだ。医療師は簡単に状態を確認して、小量の薬を渡すだけで良かった」
「ああ、それで……」
予想通り、マオは昼食用に様々なものを買い込んできていた。
屋台で売られている様々な料理は、薄く削りだした樹皮や〈包み大葉〉と呼ばれる緑色の巨大な木の葉で巻かれたものが多い。
港町でもあるネクロスでは、やはり海産物が食の中心だ。
「それで、あの子たちですけど。使い物になりそうでしたか?」
テーブルに料理を広げながら、マオが訊いた。
あの子たちとはカズマやナージャのことだろう。
ケイスが今朝早く、彼らに訓練をつけたことはマオも知っている。
「どちらにも驚かされたよ」
端的に答えると、マオが作業の手を止めた。
顔を上げる。
「というと――?」
「ナージャは現時点でも、かなりの完成度を誇る使い手だ。リーサルフォックスこそ持っていないようだが、好守共にバランスの取れた強力な封貝でコンポが組まれている」
それに、戦闘時には性格が一変するのだ、とも伝えた。
「性格が? まあ、大人しい人が急に攻撃的になるケースは良く見聞きしますけど」
「ナージャの場合は逆なんだ。別人のように――寡黙かつ冷静沈着な戦士になる。顔から一切の表情が消え、緻密な計算に基づいて高度な戦術を瞬時に組み上げてくる厄介な相手だ」
「隊長が見てそう思うレヴェルですか……」
そこまでは予想していなかったらしい。
マオは元から大きな目を更に丸く見開いている。
「欠点があるとすれば極端な個人型、一騎当千タイプだということだな。性格的にもペルナの性能的にも集団戦にはあまり向きそうにない。他人とのコンビネーションなど考えたこともないタイプだろう」
「迷宮探索には向かない、と?」
「まあ、その辺は経験を積むうちに修正できるだろう。手練だというのは間違いない。所持している封貝のほぼ全てがユニークだしな」
もちろん、稀少品や唯一無二であれば、必ず強力な封貝であるというような法則はない。
外見、性能ともに良くあるタイプとほぼ変わらないのに、なぜかレア扱いされている物も意外と多く存在している。
だがユニーク封貝で固めている者に強者が多いのも、また傾向として否定できない事実ではあった。
「肝心な、我等が団長殿はどうなんです」
「団長閣下は、戦闘員としてはまだ標準の域に達していない。実戦に出せば生きて返ることはないだろう」
「まだ、ですか」
「そう。あれは生まれたての赤ん坊だ。まだ才や限界を語れる段階にはない。そもそも封貝が揃ってもいない」
「でも驚かされたんですね?」
ケイスはにやりとしながら、そうだと答えた。
そうして、模擬戦においてカズマが見せたパフォーマンスについて詳しく話してきかせる。
「生まれて初めて防御系を使った子が、防御ではなくいきなり間接的な攻撃手段として使ったんですか?
つまり、初手で〈風の縁〉を再発見したと?」
マオの声が半オクターヴ高くなる。
ある意味、ナージャの話より衝撃を受けているようだった。
「しかも、その次は足場ときてる。あの発想の自由さ、柔軟さは普通じゃない」
「とは言え、手持ちのカードが拳とあの音が出る球体でしょう? 攻撃系がまるで使い物にならないというのもあればこそでは?」
「否定はしないが、それでも期待くらいはしていいさ。戦闘に向くタイプではないかもしれないが、面白い奴なのは確かだ」
言いながら、ケイスはポーションの小瓶を空けた。
医療師から渡されたばかりの湿布薬だ。
言われた通り、中の液体で清潔な布を少し濡らす。
それを、眠るコロパスたちの目元に丁寧にかけてやった。
ちょうどその作業が終わったとき、話題の主達が帰還した。
カズマとナージャのふたりである。
ただエリックの姿だけが見当たらない。
「ただいま帰りました」
少年たち――とりわけカズマ――は上機嫌だった。
予想していた通り、農作業を通し自信をつけて帰ったのだろう。
「エリックはどうしたのです?」
マオが怪訝そうに眉根を寄せた。
「エリックなら、残って仕事を続けたいというから置いてきたのだ」
ナージャが弾んだ声で言う。
「夕方、また迎えに行く約束をしてきた」
「ひとりだけ延長ですか。でも、昼食はどうするつもりなんでしょう?」
これにはカズマが答えた。
「農家の人が出してくれるみたいなことを言ってましたよ。言葉が通じないなりに、身振り手振りで結構やれてましたし。まあ大丈夫なんじゃないですか?」
マオが口にした「延長」という表現は、厳密にいうと正しくない。
午前中の野良仕事は連盟を通した依頼であり契約だ。
カズマたちがノルマをこなした時点で完遂。終了している。
エリックが午後も続けるというなら、それは個人として、連盟を介さずに受ける私的な手伝いという扱いになるのだ。
「三人合わせて、二四〇八グラティアの稼ぎになりました」
カズマが誇示するように、ワイズサーガの右腕を掲げてみせる。
正確には、その手首に嵌められたレイダー証だ。
今回のような現場のヘルプを請け負う場合は、仕事を終えたときに代表者が完了証明を受取る。
とはいっても、証明書のようなものがあるわけではない。
依頼者から血液を一滴と、仕事の完了を認める宣言を得るのだ。
それらはレイダー証によって記録される。
「二四〇〇か……」
ケイスは思わず唸った。
「驚きました。大したものですね」
調子を合わせるでもなく、マオが賞賛の念を露わにする。
それは決して大袈裟な反応ではない。
ケイス自身、カズマとナージャは農耕に向くであろうと考えていたが、ここまでとは予想していなかった。
「ずいぶんと荒稼ぎしてきたな。俺やマオでは、その半分の稼ぎにしかならなかっただろう」
「私も頑張ったのだ」
ナージャが得意げに胸を張る。
「〈乾坤圏〉でズバーっと沢山の麦を刈取って褒められたぞ」
「ナージャは本当に凄かったですよ。あまりに仕事が早いから、途中でストップがかかったくらいです。本職の人たちの仕事がなくなるからって」
ケイスは頷いた。
農民にとって、収穫とは単なる作業ではない。
神聖な儀式でもある。
豊穣神〈シノ・アマム〉に感謝の祈りを捧げながら、賛美歌や神楽を交えつつ恵みを受取る。
いくら手間が省けるからと、日雇いの封貝使いに全てやらせるわけにはいかない。
報告によると、ナージャはさっさと自分のノルマをこなすと、その後は片手に一本ずつ鍬を握り、小さな嵐のように畑を耕して回ったらしい。
そのパフォーマンスと姿はいっそ神々しくさえあったという。
実際、〈シノ・アマム〉が遣わした使徒だと、中にはひざまずいて拝みだす農民もいたとのことだった。
「じゃあ、あとで支部に寄ってくると良い」
ケイスは微笑んで少年たちを労った。
「仕事の完了をそのレイダー証と一緒に報告して、認められれば報酬を受け取れるはずだ」
「はい」
カズマはにこりとして言ったが、すぐ一転、真顔に戻った。
「それで、コロパスたちはどうでした?」
「聞き込みで亜人――ラパョンの老人がやっている医療所を見つけて、そこで診てもらったよ」
「ラパョンの医療師ですか?」
マオが横から言った。
「珍しいですね。フ=サァンにはほとんどいないはずですが」
ナージャがラパョンとは何だと問うてきたため、ウサギの亜人だと教えた。
ベースは人間でウサギの長い耳と尻尾だけを持つ。
コロパス同様、非常に身体能力に優れた種族である事実も添えて伝えた。
「ただ、コロパスが神の怒りを買って生まれた呪われた種族である一方、ラパョンは真逆だ。神を歓迎する宴で火にその身を投じ、神に自らを供物として捧げたウサギが、祝福を受けて生まれた種族だと言われている。
長く生きるうちに人間に近い姿に変化する術を学び、その子孫が今の姿になったらしい。だから、コロパスのような寿命の短さはない」
実際、今日出会った仙人さながらの老ラパョンは、恐らくゆうに一〇〇年以上の齢を重ねた存在だろう。
恐らくはラパョンの上位種。イゼル・ラパョンではないか。
ケイスはそう目していた。
「とにかく、コロパスたちの予後は良好とのことだ。今のまま、ナージャの封貝で治療を続ければ数日中、早ければ今日にも意識を取り戻すだろうと言っていた」
そう伝えると、カズマは明らかに安堵の表情を見せた。
ナージャも気をよくしたらしく、早速、赤い綸子の封貝を桶型に編み上げ、中に治癒液を満たしていく。
仲の良い兄妹のように見える彼女とカズマは、正真正銘の兄妹であるコロパスたちを愛おしげに抱き上げ、寝台から封貝へと移動させる。
その後、準備が整ったところで昼食となった。
マオとナージャもそのまま男子部屋に留まり、広げた料理をつつき始める。
「ところで、派閥としての財政管理だが」
ケイスは、魚肉ボールを木櫛で突き刺しながら切り出した。
口に放り込むと、ごく微かな苦みの後に、さっぱりとした肉の旨みが広がる。
どうやら、ウイス魚のすり身で作った肉団子であったらしい。
「財政管理、ですか?」
カズマが黒パンを半分に裂きながら、目をぱちくりさせる。
「俺たちが派閥で稼いだ金は、誰かがまとめて管理する必要があるということだ。レイダーとしての活動に金がかかることは分かるだろう? 宿賃はもちろん、コロパスの診療費やこの昼食の代金にしたところで――今回は俺やマオが立替えておいたが――本来なら、派閥の金から支払われるべきものだ」
「なるほど。そりゃそうだ」
「資金の管理は重要だぞ。俺たちには、本土に渡るための渡航費用の積み立てもあるだろう? それに、税だ。人頭税や冥加金、神殿におさめる一〇分の一税あたりを、お前は代表者としてきちんと考えているか?」
「もちろん、何も考えてませんでしたとも!」
なぜか、堂々とした口ぶりだった。
「むしろ、税金のこと自体、言われて今気付いたくらいです」
「なら財政管理は、マオに頼むのが一番だと考えるが――どうだ? 貴族として教育を受けた彼女が、我々の中で最もそのあたりのシステムに精通している」
カズマの思考時間は極めて短かった。
すぐに「ですね」と首肯する。
「マオさん、押しつけるようで申し訳ないですが、しばらくだけでもお願いできますか?」
上目遣いにうかがうカズマに、マオはツンとした口ぶりで応じる。
「ケイスさんの頼みとあらば、無下にはできませんね」
「本当ですか? いやあ、助かります」
「ですが、そういうことでしたら全員、今後の稼ぎはひとまず私のところへ持ってくるようにして下さい。そこから個人の取り分を分配し、残りは派閥の資金として私が管理することにします」
「マオ、ついでだ。午前中のお前さんの成果について聞かせてくれ」
「そうですね」
彼女は食器を置いて、姿勢を正した。
「皆さんと別行動をしている間、私は単独で狩猟のクエストを受けました。
クライアントは、ネクロスから南西へ馬で一日ほどの場所に広がる森の周辺住民で、付近でピー・カヴの目撃例が多発しているので、確認し、事実なら討伐して欲しいという依頼でした」
「話から察するに、そのピー・カヴってのは害獣の類みたいですけど?」
苦労してパンを噛み千切っていたカズマが、口をもごもごさせながら言った。
「ピー・カヴは、猪を巨大にしたような魔獣だ」
ケイスが説明の口を開くと、後をマオが継いだ。
「元は猪そのものだったとも言われていますね。天然の宝貝を取り込んで何百年とかけて徐々に魔獣化した種ではないかと考えられています」
成体はかなり巨大で、そのサイズはちょっとした小屋ほどにもなる。
重量たるや馬の一〇頭分にも相当するだろう。
全身を針金のように固く頑丈な毛皮で覆っており、一般人が農具で殴りかかってもまるで歯が立たない。
「しかも、動きはかなり素早かったですよ。普通の馬では全力疾走でも逃げられないくらいの速度でしたね」
「えっ、バスとか大型トラックくらいの大きさなんですよね? そんな筋肉の塊が、馬より速く走り回るんですか?」
なにを想像したのか、カズマがあからさまに顔をしかめた。
「そんなのに襲われたひには……電車に跳ねられるようなもんじゃないですか。身体ばらばら……」
「しかも、獰猛である一方、警戒心も強いからな。マオでもなければ、普通はちょっと行ってちょっと狩ってくるなんてことは不可能だ」
子どもたちの「どういうことだ?」という顔に、本人が口を開いた。
「ピー・カヴの捜索には、私の移動型第二封貝――〈動物寓意譚〉を使いました。これは、ある程度くわしく知っている動物の幻を生み出す封貝です」
「なにっ、動物? じゃあ犬も出せるのか」
ナージャが興奮気味に身を乗り出す。
「犬も猫も、良く知っている種類のは出せますよ。隊長の――ケイスさんの〈アンハングェラ〉すら、頻繁に見ているうちに再現できるようになったぐらいです」
「アルなんとかって、あのプテラノドンみたいな封貝ですよね? あんなのまで……」
流石にカズマも驚いたらしい。
口を半開きにして唸っている。
「まあ、〈アルハングェラ〉のように強力な幻獣だと、劣化版になる上、長く維持するのは不可能ですけどね。反面、鼠のように小さく弱い生物なら、同時に何匹も召還して長時間操ることができます。
そして、再現したのがどのような生物であれ、私は自分の意識を彼らに憑依させることが可能です。これが、〈動物寓意譚〉の最大の強みですね」
そこまで聞けば、手品のタネにも察しが付いたらしい。
カズマがあっと声をあげた。
「じゃあ、幻の小動物をいっぱい呼出して、その目や耳や鼻を借りて森中を探し回ったんですね?」
「その通りです」
「おい。完全に意識を移すと、その間お前の本体は無防備になるはずだろう」
その光景はケイスも何度かその目で見ている。
魂が抜け、人形のように崩れ落ちてしまうのだ。
ちょうど、昏睡状態が続く今のコロパスと同じような状態である。
「大丈夫です。そこは近くの集落に安全地帯を確保して、万全の態勢を整えましたから」
「いや、でもそれ色々とすごく使えそうな封貝じゃないですか」
カズマが羨望の眼差しで言った。
「マオさんは索敵や探知が得意なタイプだとは聞いてたけど、だからだったんですね」
「まあ、そういうことです」
「その様子だと、仕事は依頼は完璧にこなしてきたようだな。首尾良くピー・カヴを見つけ出して、狩ってきたわけか」
ケイスが言うと、マオは艶然とした笑みでそれを認めた。
「でも、狩猟なんて初めてでしたからね。ちょっと、失敗もありました」
「――ほう」
「あとで猟師から聞いたのですが、ハンティングの際は氷結系の宝貝を持っていくのが常識らしいですね。
なんでも殺した獲物は、泉に沈めたり川に入れたりして速やかに冷さないと、臭みで肉の質が大幅に落ちてしまうのだとか」
ご存じでしたか、というように視線で水を向けられたため、ケイスは頷いて返した。
兵士をしていれば行軍中、食料の現地調達などザラだ。
誰しもが狩猟のイロハを自然と身につける。
「斬ったり撃ったりで動物を殺すと、その傷口から雑菌が入り込む。その雑菌は血液を媒介に体内で爆発的に増殖していき、これが悪臭を放ちだすんだ。肉の臭みはこれが原因だと言われている」
「ああ、血抜きって聞くけど、もしかしてあれはそれ対策の作業なんですか?」
意外にも多少の知識があったらしく、カズマがそんなことを言い出した。
「そうだ。血抜きというから、血液そのものが臭みの原因になると考える者もいるが、それは誤りだ。原因はあくまで雑菌。
そして雑菌というものは、温かい場所で爆発的に増殖するからな。とにかく、獲物の体温を下げるのが急務なんだ」
「でも、心臓が止まったら血の流れも止まるでしょう?」
マオは得心がいかないという表情だった。
「傷なんて一部につく小さなものじゃないですか。なのに、そんなに急激に広がるものでしょうか?」
「血液は栄養の宝庫だからな。カビだってそうだろう。水浸しの部屋を、あっという間に真っ黒にしてしまう。菌の増殖速度は、本当に爆発のような勢いなんだよ。気付けば毛細血管の隅々にまで行き渡っている」
心臓がとまったからといって、死体はそう簡単に冷えはしない。
冬でも内臓を取り出そうと腹を割った瞬間、腸のあげる熱で大量の湯気があがるほどだ。
そこにきてピー・カヴだ。
あれほどの大物となると、動かすのも大事である。
仮に池に沈められたとして、今度は引き揚げる手段がない。
そこで氷結系の宝貝の出番である。
誰にでも扱える、使い捨ての劣化封貝。
そんな特性を持つこの魔石の中には、冷却効果を持たされた物も多い。
ネクロスで水揚げされた海産物が、鮮度を保ったまま山奥で売られているのにも、この宝貝が一役買っている。
同様に、氷結効果を利用して一気に獲物を冷せば、理想的な状態を保ったまま解体を行えるわけだ。
「封貝という力を持つとは言え、やはり新人は新人ですね。今回は良い教訓となりました」
マオは殊勝な心がけで、今回の失敗を受け止めたらしい。
「しかし、じゃあ今日はどうしたんだ?」
「何もせず、そのまま近くの村まで運びました。肉の分配を条件に住人たちに解体をやらせています」
表現が現在進行形なのは、実際にまだ作業が続けられているためだろう。
ちょっとした肉の山が相手だ。
貧民の持つなまくら包丁では、解体も一苦労だろう。
まず血抜きの段階で、周囲に文字通りの血の池ができあがってしまう。
「支部には届けたか?」
「ええ、集落の狩人に助言をもらったので」
もちろん、と言うようにマオは首を縦に振った。
レイダース連盟はこういう時のための専門家を抱えている。
獲物の運搬。解体。
素材の分離、洗浄、処理、簡易加工、鑑定。
そして使い道のない一部内臓など廃物の処理。
これらのエキスパートだ。
職員として自前で抱えているか、適性のある派閥を雇用しているか。
支部によって方針こそ違う。
だがどちらの場合も、その道に特化した職人集団であることに変わりはない。
加盟員は自力での処理が困難なら、彼らに代行を依頼する義務がある。
もちろん相応の手間賃を取られるが、面倒だからと無視して巨額の罰金や除名処分を受けるよりはマシだろう。
後処理の徹底が求められていることには、もちろん事情がある。
適切な処理を怠って放置した場合、死体が陰相転化し、アンデッドモンスターとなる可能性があるからだ。
それが、ピー・カヴクラスの大物となると、もはや一種の災厄だ。
幾つもの集落や村が地図上から消滅しかねない惨事にもなり得る。
「ピー・カヴ討伐の報酬は七〇〇グラティア。ですが、肉や内臓、皮はもちろん、爪、角、一部の骨も素材として買い手が付くそうです。
うまくすれは数万グラティアにもなると聞いていますが……今回は私のミスもあって、それほどにはならないでしょう。事後処理を丸投げしたので、少なくとも三割は彼らに持っていかれるはずです」
「レヴェルはどうなった? 狩りや討伐に成功すると、ライセンス証が戦闘記録から、経験点とやらを自動算出してくれるって話だろう?」
「ああ、レヴェルは……」
言われて思いだしたように、マオは手首に通したライセンス証をちらと一瞥した。
「確か、八まで上がってましたね」
あまり感心がないのだろう。
素っ気ない口調だった。
対照的なのがカズマだ。
「はちぃ?」
素っ頓狂な叫びをあげ、マオへ向かって駆け寄っていく。
「ちょっと見せて下さい」と鼻息も荒く情報表示プレートに食い付いている。
「一からいきなり八までか」
ケイスは静かに言った。
「ピー・カヴはそれなりに評価の高い獲物だったらしいな」
「ですが、あれだけ的が大きいですからね。飛行可能な封貝を持っていれば制空権をとって、ある程度火力がある遠距離攻撃系で一方的に立ち会える相手です。所詮は雑魚ですよ」
「この中では、僕だけ勝てませんね」
カズマの沈んだ声が言った。
「階段作って上空に避難はできるけど、そこからの攻撃手段がない」
「カズマ。お前は、封貝使いは封貝以外の武器を持ってはいけないと思い込んでないか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……武器も素人ですよ、僕」
「そこは鍛えれば良いでしょう。もちろん、すぐに身につくものではありませんけどね」
マオが突き放すように言った。
だが、裏にはどこか激励に近い温かみもある。
「宝貝は一般的に封貝に劣るとされていますが、それでも高額で取引されている物のなかには、封貝使いにとってすら脅威になるような物も含まれます」
「そうだぞ、ダーガ。今は勝てなくても、これから勝てるようになれば良いのだ」
妹分にまで発破をかけられれば否とは言えない。
カズマは些か引きつったものであれ、なんとか笑みを浮かべて見せた。
「それはそうと、連盟に寄った時に少し奇妙な依頼を見かけまして――」
食後、全員で昼食の後片付けを始めてしばらく、マオが思い出したように言った。
「カズマ。特に、貴方が興味を持ちそうだったので、一応内容を控えてきました」
「えっ、なんです?」
「それがどうも要領を得ないものでして。内容は、大雑把に盗賊団の壊滅としか書かれていませんでした。詳細は面談の上、とのことです」
「面談ね。依頼者は何者だ?」
ケイスは問う。
「一応、フォウサルタンとされていました。しかし、こちらも詳細は不明です」
「響きからして、明らかに名前ではなく姓だな。貴族か?」
「だとしても、フ=サァンの貴族ではないですよ。ちょっと調べてみましたが、該当する家名はありませんでしたから」
「まあ、姓があるからといって貴族とも限らないからな。で、報酬は?」
問い重ねると、マオは眉間に深く皺を寄せた。
「そこが一番奇妙なんですが、ただ奴隷一名、と」
「奴隷? どういうことだ――」
思わずマオを見やってしまう。
だが、彼女は彼女で「私に聞かれても困ります」とばかりに首を振るだけだった。
至極、当然の反応である。
規模にもよるが、盗賊団の壊滅は面倒な仕事だ。
一口に盗賊と言っても、元兵士や封貝使いのような危険な相手が含まれ得るためだ。
また多くの場合、彼らは拠点を複数持って各地に分散している。
時に危険を察知して潜伏しようともする連中なのだ。
イノシシの化物が相手とはわけが違う。
それを奴隷一名と引替えにもちかける。
率直に言って、狂気の沙汰だ。
取引として成立するわけがない。
スタートラインにも立てない。
「こんな、パン一切れで王族の暗殺をやらせるような依頼、一〇〇年待ったって誰も相手にしませんよ」
些か辛辣には過ぎるが、マオの弁ももっともである。
そんな中にあって、ひとりトーンを異にしているのがカズマだ。
「でも、気になりますね」
生真面目な表情で、ぽつりとそうつぶやく。
「盗賊に奴隷。個人的には無視できないワードが幾つか混じってますし」
「やっぱり……」
深々と溜め息を吐き出すと、マオは両肩をすとんと落す。
「そう言いそうだから、教えるか迷ったんです」
「まあ、良いじゃないですか。まだ受けると決めたわけでもないんだし。とりあえず、そのなんとかサタン氏に会ってみませんか? なんなら、僕とナージャだけで行きますけど」
「フォウサルタン」
マオが冷え切った声音で指摘する。
「そう、それ。フォウサルタン氏」
「で、そいつとはどこで話をするのだ?」
ナージャが素朴な疑問という顔をマオに向ける。
「それが……貧民街なんですよ」
「貧民街? 壁の外にあった、ぼろっちい家が固まってたところか?」
「そうです。単に貧しいものばかりでなく、素性の知れない犯罪者の巣窟でもあります。治安も悪く危険なエリアですよ」
貴族としてのマオからは縁遠い場所だ。
しかし、護士組としてのマオは職務で幾度か、インカルシの貧民街を見ている。
そしてネクロスであろうとインカルシであろうと、貧民街の事情というのは大差がない。
「午後のお前たちは、最初に軽く訓練を挟んで、今度はまたタイプの違った依頼を受けるのが良いと思っていたんだが――そうすると、プランを変更して貧民街に行ってみるか?」
ケイスが言うと、カズマはぱっと顔を輝かせた。
「可能なら、是非そうしたいです。おふたりには迷惑かけませんので」
「どの口が言いますか。貴方とナージャをふたりだけで貧民街に行かせるなど、嫌な予感しかしませんよ」
マオがぴしゃりと言う。
「それに、コロパスはどうする気だ?」
と再びケイス。
「遅くなるなら、エリックの迎えもある」
「コロパスは……やっぱり僕が責任者ですし、一緒に連れて行くつもりです。留守中に目が覚めちゃったりしたら、そこに居合わせないのは問題だと思うので。エリックさんの迎えは、流石に予定通りナージャに行ってもらえるでしょう。貧民街には話を聞きに行くだけだし、夕方まではかかりませんよ。多分」
「そうか。同行してやりたいところだが、俺が午後に入れていた予定は少し融通をきかせにくくてな。長引くなら、途中で抜けなくちゃならない」
話の展開から、選択の余地がないことを悟ったに違いない。
もう何度目になるか、マオがまた深い溜め息をついた。
「仕方がありません。私が付き添いましょう」
「えっ、いや大丈夫ですよ?」
「そうだぞ。ダーガの護衛は私に任せておけ」
子ども達が口々に主張するが、マオはまるで取り合わない。
「私が心配しているのはナージャ、むしろ貴女の方ですよ。
カズマを守るのは結構ですが、そのために貧民街を更地に変えてしまいかねない」
「それは、なにかいけないことなのか?」
「これですよ……」
マオが痛みを覚えたかのように眉間へ手をやる。
ケイスは苦笑しながら、その肩をに手を置いた。
「まあ、カズマたちの稽古を見てやる予定だった一刻分は、俺も付き合える。お前さん一人に負担はかけないさ」
そういうことで方針が決まる。
残りの後片付けを手早く済ませ、詩人が一曲吟じ終える頃には全員で宿を出た。
農作業の疲れは残っていないか。
念のため確認したが、これが若さというところか、カズマもナージャも充実感だけを持ち帰ったらしい。
昼食だけで充分にリフレッシュできたとの答えしか返らなかった。
「しかし、貧民街まで歩くとなると、それなりに時間を喰うな」
通りに出ると、ケイスはヘルメットの据わりを調整しながら言った。
「城門まで歩くと一〇分前後はかかりますからねえ」
カズマのいう「じゅっぷん」のことはよく分からないが、時間が惜しいのは事実だ。
ケイスは振り返って、マオを見た。
「お前の〈動物寓意譚〉で馬を四頭都合できるか?」
「えっ、でも市内での移動封貝召還は御法度でしょう」
「インカルシではな。調べてみたが、ネクロスでは少し法が違う。通行人や馬車を畏怖させず、また馬に準ずる速度で走る物なら許可されるらしい」
「じゃあ、私が〈*脚踏風火〉で空を飛ぶのも良いのか?」
ナージャが期待に瞳を輝かせながら詰め寄ってくる。
だが、残念ながらこれには否と返さざるを得なかった。
「なぜだ。ゆっくり安全に飛ぶぞ?」
「飛行がダメなんだ。徒歩以外で許されているのは、基本的に騎乗できる生物のみらしい。だからといって、幻獣の多くも無理だがね。幻獣は一般的な馬を怯えさせたり、支配下においてしまう」
「そういうことなら」
マオは路地裏に入ると、周囲の目がないことを確認して口訣した。
すぐに、本物となんら見分けの付かない馬が四頭、縦列に並んで出現する。
主に軍馬として用いられるイセポ種だ。
ランコォル種より勇敢でも快足でもないが、農耕馬であるゲーリ種ほど臆病でも鈍足でもない。そんな中間的な種だ。
彼らは灰色の体毛を持つことで知られるが、稀に美しい純白の個体も生まれてくる。
マオが召喚した幻のイセポ種にも、一頭だけ白馬がいた。
「さあ、隊――ケイスさんはこの子を」
マオが満面の笑みで、その白馬を勧めてくる。
「いや、これは派閥の代表が使うべきだろう」
白いイセポ種は、一般的な灰色の同種より高額で取引される。
白いからと言って別段性能に優れるということはない。
単に見栄えの問題だ。
それでも軍では、ユニットリーダーなど長や幹部にあてがわれるのが普通だ。
「ああ、僕はそういうの気にしないんで。立派な戦士に見えるケイスさんの方が、〈ワイズサーガ〉の広告塔としては有効に機能しますよ。美人騎士的なマオさんでも良いと思いますけど」
それより、馬具がないのが心配だ、とカズマは主張した。
確かに、マオが召還できるのはあくまで生物のみ。
馬を呼出しても、鞍や手綱、鐙といったものは付属していない。
「問題ありません」
マオは封貝使いの身体能力を遺憾なく発揮し、ひらりと馬上へ身を躍らせる。
そうして極当然とばかりに愛馬の背に収まった。
優しく鬣を撫でながら続ける。
「乗心地は良くないかもしれませんが、この子たちは私が思念で完璧にコントロールできます。ただ跨がっていれば、それだけで良いんですよ」
「その、ただ跨がるってのが、既に素人には難しいんですけどねえ」
ぼやくカズマの身体能力は、まだ人間寄りだ。
マオよろしく、地を蹴ってぴょんと馬上に――とはいかない。
最後はナージャの紅い首巻きに胴をひっ掴まれ、荷物のごとく馬の背に乗せられることになった。
コロパスの兄妹も同様に彼女の封貝に包まれ、その状態で移動を開始する。
とはいえ、馬上で揺られるのは結局、城門を出るまでのごく短時間だった。
そこからは封貝の使用が解禁されるため、速度は一気に上がる。
結局、貧民街に辿り着くまで、カズマのいう「じゅっぷん」も必要とはしなかったはずである。
ネクロスの貧民街は、他の都市にも存在する同種の地区同様、街と呼べるような代物ではなかった。
より正確を期すなら、貧民窟とでも表現すべきだろう。
地上に所狭しと立ち並ぶあばら屋は、ただのはりぼて。
貧民窟の核は、地下を蜘蛛の巣のように這う下水の底にこそある。
そう主張する者も少なくない。
王族の婚儀といった慶事や重要祭祀の度に、治安部隊の手入れによって強制解体されてきたこの地区は、しかしほとぼりが冷めるや、引潮が戻るように再出現している。
外部との境界には土に突き刺した木の棒を支柱とする針金の柵が張り巡らされており、その内側には廃材で組み上げた掘っ立て小屋ともゴミの山ともつかない住居が無秩序に詰め込まれている。
三日空けて訪れれば、もう風景が違う。
絶えず活発な新陳代謝を繰り返すこの貧民窟は、さながら一個の巨大な生命だ。
「なんか、イメージと違うなあ……」
コロパスのうち小さな方を腕に抱くカズマは、しきりに周囲を見回している。
「なにがです?」
婦人用の手拭いで鼻と口元を覆ったマオが、くぐもった声で訊いた。
貧民街のメインストリートは、安物の油と熱を帯びた食材、行き交う人々の汗や体臭、未舗装の道から立ち上る土埃、そして建築資材として使われている廃材が漂わせる異臭等々が複雑に混じり合い、えも言われぬ匂いに満たされている。
彼女のように耐性のない者にとっては、慣れるまで時間のかかる環境だ。
「僕、貧民街って、みんな人生に絶望した虚ろな目をして、背中丸めて亡者みたいに歩いてるところだと思ってたんですよ」
「なるほど」
ケイスは得心しながら小さく言った。
そういったイメージを持っていたなら、驚くのも仕方がない。
貧民街は少なくとも表通りを見る限り、極めて活気に溢れた場所だ。
道の両側では盗品や手芸品、得体の知れないガラクタの類を所狭しと並べたて、それをあたかも財宝と信じ切っているかのような顔で、様々な種族が露店を開いている。
その狭間で飲食物を提供しているのは、逞しく生きる様々な年代の女たちだ。
彼女らはほとんど場所すら持たない。
窮屈な空きスペースに筒型の鉄籠ひとつ。
それが全てだ。
鉄の籠に薪を突っ込んだだけの焚き火の上で、粥やスープを煮立たせ、あるいは黄色い油を引いた鉄鍋をふりふり炒め物を回す。
同時に喉から迸らせる客引きの声は、どこか音楽めいた抑揚がたっぷりきかされていた。
そんな賑やかな往来を、ほとんど裸同然の格好で駆け抜けていくのは元気な幼児の集団だ。
彼らは貧しいながらも屈託なく、瞳をきらきらさせながら楽しげに笑い声を振りまく。
その素早さと落ち着きのなさは、屋根裏を走り回るネズミさながらだ。
「こんなの、貧民街の一面に過ぎませんよ」
マオが忌々しげに言い切った。
「一つ路地に入れば、そこは人を誑かし、傷つけることを何とも思わない陰気な人でなしの巣窟です。
そこでは、カズマ。貴方のご希望通り、生ける亡者のような連中が幽鬼のように彷徨う光景を嫌でも目の当たりにするでしょう」
「付け加えるなら――」
ケイスは補足的に言った。
「レイダーをやっていくなら、仕事がら貧民窟には度々足を運ぶことになる。盗品を取り戻せなんて依頼では、この地区を無視することはできない。犯罪者が潜伏するのもやはり貧民街だ。情報屋も多いしな」
「ああ、それでわざわざ入口で下りて歩かせたわけですか。なんで、直接指定の場所まで飛ばないのか、不思議に思ってたんです」
カズマはやはり聡い。
与えられた状況から、その背景にある相手の思考や配慮を読もうとする。
「それで、サタンはどこで待っているのだ?」
場に問うナージャに、マオがずいと顔を寄せた。
「フォウサルタン。――ナージャ、人の名はきちんと覚えなくてはなりません」
それは貴族において最低限の嗜み。
義務、仕事の一部とすら認識されていると聞く。
実際、この点に関してマオは自分にも他人にも少し厳しい。
「依頼者が指定してきた場所は、地図によると――」
マオは依頼書の写しを片手に、周囲へ視線を巡らせる。
「どうやら、もう少し進んだところで路地に入らなければならないようです」
「相手の素性も分からない上に、迷路のような貧民街の路地裏が舞台か」
しかも、依頼内容が盗賊団の壊滅ときている。
困惑を通りこして、もう笑うしかない。
誰がこんな依頼を受けると考えたのか、是非ともクライアント本人の口から聞いてみたかった。
「ケイスさん、少し私の身体をお任せできますか?」
ふとマオが言った。
ケイスの耳元に顔を寄せ、随分と声量を落している。
要領を得ない言葉だが、経験からピンときた。
「偵察か?」
「鳥瞰と――スラム定番の鼠の目でも借りてみます」
「鼠はこの辺の住人にとって良いたんぱく源だ。狩られないよう気をつけろよ」
「心得ています」
にこりとして言うと、マオは一瞬躊躇の素振りを挟んで、おずおずとケイスに身体を預けてきた。
傍目には、甘える娘が恋人に寄り添うようにも見えただろう。
実際にはそんな良いものではなかった。
俯けがちにした彼女の唇が結ぶのは、愛の囁きではなく封貝召還の口訣だ。
同時、遥か頭上に鳥が一羽、路傍には無数の鼠の幻影が生み出されたはずである。
これらは素早く散開し、依頼人の指定場所やその周辺の地理、危険をつぶさに調べだすだろう。
マオに待ち伏せや罠は通用しない。
だが、引替えに彼女の本体は意識を失う。
操る動物たちに憑依するためだ。
今回は幻獣や神獣が相手ではないため、完全な昏睡状態は避けられたらしい。
それでも、泥酔した人間のように、ふらつきながら歩くくらいがやっとだ。
ケイスに身を寄せたのは、支えと進行方向のガイドを得るために他ならなかった。
彼女にかわり、ケイスは受取った地図片手に先頭に立った。
ややあって路傍に外れると、話にあった細い脇道へと足を踏み入れる。
そこからはもう、まるきり迷路だった。
方向感覚を意図的に奪わんとしているのか、地図は角で幾度も方向転換を強いてくる。
気付くと周囲から人気は遠ざかり、空気が湿り気を帯びてきたように感じられた。
貧民街は土地にかなりの起伏があるらしく、いつからか道は明らかな下り勾配になっていた。
うずたかく積まれた廃材の建築物が二階、三階ほどの高さまで伸びていることもあり、陽光が遮られて足元は薄暗い。
そんな中、前方にぽっかりと民家一軒分ほどの空き地が現れた。
ケイスはその入口付近で足を止める。
空き地は壁や瓦礫の山に囲まれた袋小路の終着点で、日照条件が悪いためか、雑草すら賑やかし程度にしか生えていない。
「うわ……行き止まりじゃないですか」
うんざりという口調でカズマが言った。
道に迷ったと思ったらしく、わずかに批難めいた響きも感じられる。
「いや、間違いない」
ケイスは地図を持ったまま小さく肩をすくめた。
「ここが指定の場所だ」
「誰もいないではないか」
ナージャが走って行って、空き地の中心からこちらを振り返る。
「――途中、後を付けてきた者が二名います」
だしぬけに、ケイスの腕の中でマオが身じろぎした。
彼女は肩を抱かれていたことに気付くと、頬を朱色に染めながら、ゆっくりとケイスから身体を引きはがしていく。
仲間にだけ聞こえる囁き声で続けた。
「人間の男性。片方が狩猟用の大型ナイフ、もう片方は長剣を装備していました。恐らく封貝使いではありません。会話を盗み聞きましたが、依頼とは無関係の第三者です。風景から明らかに浮いた私たちに目を付けて、様子を窺っているだけのようです」
「そいつらは俺も気付いていた」
「もう一人。最初からこの空き地の近くに潜んで、じっとこちらを観察していた者もいます」
「ほう」
そちらはケイスもノーマークだ。
「前方、突き当たった建物の屋上です。終始様子をうかがい、私たちがここに辿り着くと、一転して移動を開始しました。最後に見た時は、回り込むように動いて私たちの背後を取ろうとしていたようです」
「普通に考えれば、その人が依頼者ですよね」
カズマが言った。
「だろうな」
ケイスは同意する。
「罠なのか?」
誰にともなくナージャが問う。
「分からん。だが、依頼書の文面と地図からは、教養が感じられる」
これについてはマオも同感らしい。
「直感的に分かる、非常に分かりやすい地図ですもんね。知能の低い者に、これだけ情報を整理した地図は作れません」
「そう。この用心深さや、貴族を思わせる名前を使ってきたこともそうだ。
罠だとして、ただのゴロツキが相手とは思えん」
「で、どうします?」
カズマは身体を軽く揺すり、腕の中のコロパスを抱えなおす。
この子たちがいるから、荒事は避けたい。
そういうアピールだろう。
「話を聞くつもりなら、相手の出方をまつしかないだろう。こちらも四人からの封貝使いで固めてるんだ。貧民街の住人にそうそう遅れをとることはないだろうが――」
一応は警戒すべき。
みなまで語らずとも、全員がその意志をくみ取ってくれたらしい。
三者三様の首肯が返った。
「とりあえず、僕も調べてみますよ。マオさん、その人はどっちですか?」
声を潜めたカズマの問いかけに、マオが距離と大体の方向を教える。
もちろん、そちらを直接見る愚行はおかさない。
全員が来た道に背を向け、単に行き止まりを不思議がっているように見せかける。
「あ、見つけましたよ。多分、これです」
ややあって、カズマが言った。
埃のように小さな〈*ワイズオレイター〉を大量に送り込んで探らせたのだろう。
今の彼は、人間が点に見えるほど遠くまでこれを飛ばし、その場所の音を拾うことができる。
「足音が軽い。多分、子どもか女性ですね。走ってます」
集中するためか、カズマは両目を軽く閉じながら言った。
「息切れしてるし、こりゃ封貝使いの体力じゃないですね。僕と同じくらいのモヤシですわこりゃ」
モヤシが何かは分からなかったが、それが自嘲の言葉なのはなんとなく伝わった。
「息切れのあえぎ声が……なんか、かわいいな。女の子っぽい? もう大分近いですよ」
その言葉からほどなく、ケイスも対象の気配を背に感じた。
マオの言った通り、回り込んで後ろを取る位置だ。
距離は、封貝使いなら助走なしで一気に踏破できる程度。
だが、周囲にそれらしい脇道などなかった。
恐らくは建物と建物のわずかな隙間から、身体を横にして抜け出てこようとしているのだろう。
「あのう……」
敢えて待つこと、数拍の時。
半分震える少女の声が投げられた。
四人が四人、相手を刺激せぬようゆっくりと振り返る。
それでも少女はびくりと身体を震わせた。
年の頃はカズマやナージャと同程度。
ふっくらと肉付きがよく、透明感のある白い肌は日陰にあってさえ眩しく感じられる。
最大の特徴は、カズマの黒髪に近い濃藍色の毛髪だ。
瞳も黒っぽい焦茶色で、これはオルビスソーでは珍しい組み合わせである。
全体的に薄汚れている上、左の口の端に殴打を受けたと思わしき赤い腫れと出血痕、右肩には大きな内出血の黒痣をこさえているが、それでさえはっとするような美少女であった。
肉付きや肌の色艶から察せられる栄養状態からして、貧民とは考えづらい。
ともすれば、貴族にすら見える。
首に奴隷であることを示す金属の輪すらなければ、だが。
「あのう、もしかして、依頼を……」
そこまで絞り出すだけで、なけなしの勇気を絞り尽くしたらしい。
彼女は萎れるように縮こまり、それきり俯いてしまう。
膝と膝がくっつくほどの内股で、生まれたての小鹿のように震えていた。
「こんにちは。僕たちはレイダーの〈ワイズサーガ〉というプラトォンです。僕はその代表で、楠上カズマと申します。
どうぞよろしく」
カズマが一歩進み出て、ぺこりと一礼する。
少女は呆然とその様子を眺め、随分してようやく自己紹介を受けたのだと理解したようだった。
慌てた様子で会釈を返す。
それから、脅迫によって強いられでもしたかのように自らも名乗った。
「エリナー・フォウサルタンです……あの、私、依頼を……」
「連盟に盗賊退治の依頼をされた方で、間違いないですか?」
カズマが笑顔で問うと、彼女はまたびくりと驚愕を露わにした。
それから半狂乱で周囲の耳を気にし出す。
その顔に色濃く刻まれているのは、恐怖だ。
「あ、すみません。仕事の話は誰にも知られたくない感じですか?」
その言葉に、エリナーを名乗った少女は一生懸命に頷いた。
「では、場所を移してはどうでしょう? 一度、宿にでも戻りますか」
このマオの提案は一考に値した。
少女は明らかに貧民街の住人ではない。
訳ありが一時的に逃げ込んだのだろう。
カズマとナージャも同じ考えらしく、黙って考え込んでいる。
一方、少女当人はと言えば、明らかに状況について来られていない様子だった。
おろおろするばかりで、声を発することすら忘れている。
「えっと、フォウサルタンさん? もし良かったら、ネクロス市内にある僕らの拠点にお招きしたいんですけど。そちらに、なにか不都合はありますか?」
カズマは幼子を相手にするように、優しくゆっくりとした口調で問いかける。
「いえ……でも……」
「僕ら全員、封貝使いです。しかも、国内トップクラスの強力で優秀な封貝使いでもあります。僕以外は。
なので、保証するとまでは言いませんけど、フォウサルタンさんの安全はできる限りの範囲でお約束しますよ?」
それとも、出直してきた方が良いのだろうか?
カズマが切り口を変えた瞬間、少女は勢いよく顔を跳ね上げた。
「待って!」
一言、勢い込んで叫ぶも、その後は尻つぼみになっていく。
「あ……の、待って下さい。いかないで……お願いします」
「えっと、じゃあどうしましょうか。ここで話をすると誰に聞かれるか分かりませんし、場所を変えた方が良いのは間違いないんですよね?」
「はい……」
「どこか、適当な場所に心当たりはありますか」
エリナー・フォウサルタンは俯いたまま、力なく首を振る。
「僕らの拠点に行くのはやっぱりダメですか? 宿屋さんだし、ご飯もありますよ。お疲れみたいですからお風呂にも入ってもらって」
流石に、これには少女も食い付いた。
目を丸くして、それが聞き間違えでなかったことをカズマの表情から確認しようとしている。
「この通り、女性も複数いますし。どうでしょう。色々と配慮もできると思いますけど。部屋は男女別れてますから、遅くなるようでしたら女子部屋に泊っていってもらうこともできると思いますよ。
ナージャ、細いから誰かと一緒のベッドでも平気だよね?」
「そういうことなら、私はダーガと寝るのだ」
ナージャの返答は思わぬものだった。
カズマは一瞬、面食らった表情を見せ、それから曖昧に笑む。
「いや……まあ、その辺はおいおい調整していくとして」
カズマは小さな依頼人に向き直り、あらためて「どうだ?」と目配せだけで問いかけた。
辛抱強く答えを待つ。
「あ、の……」
「はい?」
ようやく沈黙を破った少女に、カズマは柔らかな微笑で返した。
「おっしゃる通りに致します。その、よろしくお願いします」
では、飛行封貝で街まで飛ぶ。
そう告げると、フォウサルタンはまた嵐の中のリスのように小さくなって震えだした。
拒絶こそしないが、決して歓迎したい移動手段でもなかったらしい。
こうした悶着に、痺れを切らしたのがナージャだった。
はっきり「面倒だ」と口にすると、赤い首巻に命じて問答無用で少女を担ぎ上げる。
そうしてさっさと〈*脚踏風火〉を呼出した。
「ちゃんとゆっくり運ぶから、そんなにキャーキャー怖がることはまったくない。私を信じるのだ」
一方的に告げ、蒼穹へ向かって加速する。
少女の甲高い悲鳴が、木霊を伴って空に上がっていった。
新年、あけましてウェーイ!
どうも。槙弘樹です。
唐突ですが、皆さん。
油をは「ひく」もの「しく」もの?
今回、本文中でこの表現を用いるにあたり、少し考え込んでしまいました。
正解が「ひく」=「引く」であることは分かっていたのですが、深く考察していくうちにゲシュタルト崩壊みたいなことになり、むしろ「しく」=「敷く」という表現も公式に存在するのでは、どっちも正解なのでは、という疑問まで抱きだす始末。
で、調べてみました。
そのものズバリの研究が、〈NHK放送文化研究所〉にありました。
同メディア研究部・放送用語の塩田雄大氏の解説によれば、
>ヒクには、「ひっぱる」を中心としていろいろな意味があり、
>そのなかに「引き延ばすようにして一面に塗る」
>(中略)というものもあります。
とのこと。
「油を敷く」は誤用だと明確に指摘されていました。
油を引くは、わりと日常的にも使う表現なので、きちんと意味を理解して確信的に使えるようにしておいた方がいいですね。




