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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
38/64

スリィ・フィールド・システム

▼ピーテル・ブリューゲル/穀物の収穫 (The Corn Harvest) 1565年

挿絵(By みてみん)

 農民の生活を季節ごとに描いた連作月暦画のうち、8~9月を描いたと言われている作品。

 テーマとなっているのは、春に種を蒔き秋に収穫する春麦の収穫であると思われる。

 中世の春麦としては大麦や燕麦(オート麦とも。またカラス麦)、小麦の古代種とも言えるスペルト麦などが知られている。

 左下に描かれている男性たちが象徴しているように、麦の刈り取りにはもっぱら鎌が用いられた。死神と共に描かれるような大鎌が使われることも多かった。鎌は常に左向きに湾曲していた。小型の刈り鎌の場合、右手に持ち麦の束をたぐり寄せ、それを左手で引っつかんで根から二〇センチほどの部分を下から上へ持ち上げるようにして刈り斬った。

 大鎌の方は本来、牧草の刈入れ用として用いられていたが、絵にある中世後期以降は穀物にもよく使われるようになったという。この大鎌を使う場合は、根元付近から根刮ぐようにバッサリ刈るのが普通である。

 このように刈り鎌は中世期の農業にあってもっとも重要な農具の一つであったと言われている。

 とはいえ、大鎌は話がまた別だった。牧草用の道具を神聖なパンの原料である麦の刈入れに使うのは、キリスト教の価値観的には本来、忌避すべきことだった。

 しかし、従来刈入れに参加していなかった(男性が刈った穀物を束ねるのがかつての彼女たちの役割だった)女性にもこの大鎌を持たせ刈り手として動員しなければならないほど、当時の労働力不足は深刻だったのである。

 事実、ペストが大流行した14世紀以降、女性が収穫で大鎌を振るう様が絵画に多く描かれるようになっている。

  037


 早朝の稽古を追えネクロスに戻ると、目覚めた首都はその様相を一変させていた。

 城門に近付いただけで、たかる人波から立ち上る熱気、壁を超えてあふれ出してくる喧噪がまるで二時間前とは別物だと分かる。

 目抜き通りに入ると、人いきれも一際だった。

 いもの子を洗うような混み合いに一行は早々、真っ直ぐ歩くことすらあきめさせられる。

 なにか祭りでもあるのか。

 思わずかんぐったお上りは、カズマばかりではなかっただろう。

 注意していてなお、すれ違う誰かと肩を何度もぶつけかけた。

 この湯気すら立ち上りそうな混雑は、レイダースの支部に到って頂点を迎えた。

 カズマは昨日この場所を一度訪れている。

 加盟登録のため、確かに出入りしたはずであった。

 それとも、あれは何かの幻だったのか――? そう思わせるほどに、今朝の支部周辺は別世界だった。

 カズマが最初に連想したのは、始業ベル間際の通学路だ。

 何百からなる生徒の黒山が、うぞうぞと引っ切りなしに校門へと雪崩れ込んでいく。

 あの朝特有の光景が今、ここにあった。

 否、活気を考えれば明らかにあれ以上だ。


「――来たれ、若人! 手を取り合わねば何事をも成せぬ。これぞ、レイダーにおいてはさん変わること無き鉄則。我等は〈アエロキター〉! その名を忘るることなかれ。我等の門戸は常に開かれている! 古きレタルの言葉そのままに、君は我等の側にある」

「我こそは先の動乱において本土西部戦線にその名を轟かせた、ゼイク・オックマン。我と共に歩まんとするプラトォンこそ、真の栄光を約束されよう」

「封貝の有無はレイダーとしての優劣を決定づける。あたかも普遍の真理がごとく叫ばれるこの無理解に、苦汁をめさせられてきた人々に告ぐ! 貴方こそ求める人材です! 痛みを知り、無力に苦しみ、弱さを知る者にしか見えない世界がある! そして弱者に寄り添うその視線でしか救えないものがある! まだ、貴方がそう信じられるのなら――」

「本日も、テックオー地下迷宮に挑戦する臨時パーティを結成します。条件は白級以上の戦闘要員! 人数にて等分の分け前を保証! 先着三名ですが封貝使いは優先します。ご希望の方はお早めにお声かけ下さい!」


 朝日を弾いて煌めく川面を眺めながら、白い石造りの大橋を渡りきる。

 そこから連盟支部まで続く大広場は、多種多様な種族からなるレイダーたちで早くもすし詰め状態だった。

 恐らく母校のグラウンドに匹敵する面積を誇るであろうこの空間を人間が隙間なく埋め尽くす眺めは、いっそ壮観ですらある。

 その外周を縁取るようにして並んでいるのは、木組の骨組みに白い帆布を被せた簡易テントの群れだった。

 匂いからして料理を出す屋台だろう。

 朝食を求めてそこへ集まる者もあれば、仕事を求めて支部に続く行列に加わるもいる。

 だが中でも一際目立つのが、積み上げた木箱の上に仁王立ちする(きら)びやかな装備の呼び込みたちだ。

 少なくとも、彼らのぶち上げる演説が場の熱量を一段高めているのは間違いない。

「あれは、戦力を拡充したい派閥プラトォンの勧誘。そして、その逆。有力派閥から声をかけて貰うために、自分を売り込んでいるレイダー個人のパフォーマンスだ」

 カズマの視線と表情から何かを察したのだろう。

 肩を並べて歩くケイスが言った。

 意図的に声量を大きめにしているのは、周囲の喧噪にかきけされないようにするためだ。

「あとは聞いての通り、臨時で仲間になってくれる仲間のしゅうだな」

「凄いですね……。昨日、来たときとは大違いだ」

 カズマは素直に感嘆の声を漏らす。

「朝は大体、いつもこんなもんだ。連盟ギルドは基本的に新しい仕事が入り次第、依頼書を掲示板にり出していく。運が良ければ、ひまを見てぶらりと立ち寄った時に偶然、条件の良い儲け話にありつけこともある。

 ――だが多くのレイダーは支部が開く朝、そして午後の窓口再開の瞬間を見計らって集まってくる。この二回は、長めの休み時間を挟んでるから追加されるクエストの数が多いんだ」

「依頼は早い者勝ちなんですか?」

「基本的に、そうだ」

「それにしても、レイダーというのは沢山いるんだな。私は一〇〇人くらいだと思ってたぞ」

 ナージャはきょろきょろと物珍しそうに周囲を見回している。

「まさか。ここにいる奴らすらほんの一部さ」

 ケイスが苦笑交じりに言った。

「カズマには早い者勝ちと言ったが、実際のところ、大手派閥や上位ランカーには指名で仕事が入る。だから奴らはこの時間、この場所に姿を現わすことはない。仕事の話は、自分たちのレストで優雅にお茶でも飲みながやるもんだ」

「レスト?」

 カズマはおうむ返しに訊いた。

「休憩所という意味だ。トップクラスのレイダーには、特典として連盟支部内に専用の個室が与えられる。それを業界ではレストと呼ぶらしい」

 言いながら、ケイスがくいと顎をしゃくった。

 彼が示したのはレイダーでごったがえす広場の向う正面。

 そびえ立つ連盟ネクロス本部の上層だった。

 つまり、そこにレストがあるのだ。

「上位派閥やランカーに指名の仕事が入ると、係員――時として大きな案件の場合は幹部職員が直々に連中のレストを訪問する。まあ、派閥の幹部は多くの場合、レストなんかにはいないがな」

「いない?」

「レスト持ちの大手は、基本的に未踏破の超大型迷宮の攻略にかかりきりだ。つまり遠征に出て、ほとんどレストには返ってこない。レストに置かれているのは連絡用の下っ端か、非戦闘員系の幹部連中だけだな」

「ああ――」

 カズマは首肯した。

 つまりは刑事と同じということだ。

 ドラマの舞台にもなる警視庁の刑事部捜査一課は、腕利きのが顔を揃える花形部署だ。

 しかし、彼らのオフィスは大抵がほとんど無人に近い状態だという。

 捜査で忙しく現場を飛び回っているため、刑事はたまにしか帰ってこないのだ。

「そもそも前線でばりばり働いている奴らは、朝からこんな呼び込みや売り込みをしている暇はない。結局、ここにいるのは大手派閥の後方支援要員や、中堅から弱小派閥のメンバーってわけだ」

「一軍はスタジアムで公式戦の真っ最中。宣伝のビラ配りは二軍三軍の選手と、チームの下っ端事務員の仕事ってことか……」

「それに、ここはあくまでレイダース連盟のフ=サァン方面本部だ。ネクロスだけでも他に支部があと二つある。レイダーはそっちにも分散しているから、ここだけを見て数を把握することはできないぞ」

「この街には、あと二つもこんな場所があるのか?」

 流石に驚いたらしい。

 ナージャが小さく目を見開く。

「流石に本部と比べれば規模はひとつ小さくなるがな。それでも、大勢が詰めかけていることはには変わりがない」

「レイダーって全部で何人くらいいるんですか?」

 ふと気になってカズマは訊いた。

「どうだろうな……。俺も外部の人間だから、正確な人数までは把握してない。レイダーと一口に言っても、無印ブランクの更に下には、臨時の協力員である〈オブザーバー〉という連中もいる。彼らまで含めると、フ=サァンだけでも万単位になるだろうな」

 話ながらだと、行列の待ち時間もさほど長くは感じなかった。

 意外に回転も速いようで、一〇分ほどでカズマたちは正面広場を抜けきることができた。

 二度目とな連盟ネクロス本部は、やはり広大の一言に尽きた。

 ワンフロアが体育館さながらに広々としているため、大勢を一度に収容できる。

 昨日来たときは無駄に多過ぎると感じた窓口の数も、今朝見れば一転して頼もしさを感じるばかりであった。

「今日は初回だから俺がやってみせるが、今後は全員に機会が回ってくるはずだ。仕事の取り方はきちんと覚えておいてくれ」

 エントランスを潜ると、一度振り返ってケイスが言った。

「まず覚えておかなくちゃいけないのは、掲示板の位置だ。仕事の種類によって、依頼書を張り出す掲示板の場所も変わる。あれを見てみろ」

 と、ケイスは頭上を指差した。

 吹き抜けになったホールの上方三メートルほどの地点には、道路標識のように金属製の巨大プレートが掲げられている。

「文字が読めない奴もいるからな。色と図でエリア分けが案内されている。

 それを説明しているのがあれだ。オルビスソーの全支部で共通してるから、一度覚えれば世界のどこであろうと困ることはないぞ」

 見るとなるほど、看板には文字がほとんど使われていなかった。

 かわりに多用されているのがイラストだ。

 たとえば、剣と牙が交差してぶつかり合う絵。

 コミカルに単純化されたこの絵図は、真っ赤な分厚い線で縁取りされていた。

 察するに、戦闘を伴うクエストを示しているのだろう。

 その隣、緑ラインに囲まれているのは馬車マークだ。

 こちらは隊商の護衛あたりか。

 階段と貨幣コインを組み合わせたイラストは、迷宮探索を意味するであろうことが直感的に分かる。

 カラーは黄色。

 獣と弓のマークは、間違いなく狩猟系だろう。

 シンボルカラーは白になっている。

 他には、薬瓶と植物の絵柄で示された採集系。

 鎌と稲のような穂付き植物を組み合わせたマークもある。

 もしかすると、これが――

 カズマがぼんやり気づき始めた時、

「お前さんが買ってきたコロパスなんかは、猫が混じってるだけあって人間ほど色を明確に識別できない。いわゆる色盲というやつだ」

 ケイスが言った。

 はっと我に返るカズマを尻目に、彼は続けた。

「レイダーには色んな種族がいるからな。最終的には絵を見るだけで、どこのエリアの掲示板に向かえば良いかが分かるようになっている」

「猫は色が分からないのか?」

 初耳だったのか、ナージャはきょとんとしている。

「そう言えば……犬や猫は、赤系の色は認識できないって言うね」

 カズマはいつか見たTVの動物番組を思い出した。

「じゃあ、私の〈*旋火の綾〉はどう見えているのだ?」

 言いながら、ナージャは自分の首元に視線を落す。

 指先で赤マフラーを摘まみ上げると、興味津々という目でカズマを見た。

「僕が聞いた話だと、分からない色は白黒モノクロ表現になるって言ってたね。だから多分、ナージャのマフラーは灰色に見えるんじゃないかな」

「なら、昨日食べた赤シーボルディも、奴らには灰色シーボルティになってしまうのか?」

 シーボルディ――。

 一瞬考えたが、すぐに思い出した。

 果物屋で買った、こちらの世界でいうリンゴに近いフルーツだ。

「それは……なんだか美味しくなさそうだな」

 灰色リンゴを想像したのだろう。

 ナージャは一人で顔をしかめている。

「逆に、鳥は人間よりその意味で優れてるんだ。犬猫は青系と黄色系の二色型。人間は赤・緑・青(RGB)の三色の組み合わせで色情報を認識する三色型。でも、鳥はその三色に紫外線領域の一部をプラスした、四色型色覚なんだ」

 オウムしかり、孔雀しかり。

 鳥類には異様にカラフルな羽を持つ種が存在する。

 その事実こそ、彼らが人間を遥かに超えた色彩感覚を持つ証拠だ。

「トカゲや魚も紫外線見えてるって言うし……どんな世界なんだろうね」

「レイダーにはエインもいれば、猫も鳥もいる。だから、色が分かろうが分かるまいが支障ないよう工夫されてるわけだ。実際、素人のお前さんたちも、あれで大体のイメージはつくだろう?」

 迷走し始めた話題を、ケイスが元の軌道に戻す。

 カズマはあえてそれに乗った。

「つきます、つきます」

「では、問題だ。

 今日は土木系の仕事を受けたい。

 エリアはどっちだ?」

「土木……」

 カズマはぽそりと繰り返した。

 改めて他人の口から聞かされると、やはり異様だ。

 レイダーとは元々、遺跡やふんを荒らすトレジャーハンターの類であったと聞く。

 当時はべっしょうだった。

 だが後年、隊商が彼らを道案内や護衛として使い始めた。

 レイダーたちはしたたかではしき、生き抜く術を充分に心得ていた。

 商売柄、遺跡を根城にする盗賊のあしらい方にも手慣れていた。

 忘れられた古道にも精通していた。

 味方につけた彼らはこの上なく心強い存在であったのだ。

 以降、レイダーの世間的評価は変わり始めた。

 様々な人々がレイダーの潜在能力に気付きはじめたのである。

 そうして、レイダーは次第に冒険者的意味合いを強め始めた。

 話にはそう聞いている。

 だが、そこに土木要素は一切無い。

 強引に結びつけるなら、遺跡探求の際に穴を掘るなどの作業が行われることもあったであろう、程度のものだ。

「あのう……レイダーが土木ってどういう?」

 カズマはこらえきれず、胸のつかえをそのまま吐き出した。

 ケイスがちらとカズマを一瞥する。

「イメージしにくいならかいこんと言い換えてもいい」

「開墾?」

「農業とも強い関連がある」

「農業?」

 自分で口にすると異様さもひとしおだった。

 レイダーとはそもそも、古代文明の遺跡や王墓を荒らすトレジャーハンターの類であった。

 そのはずである。

 カズマはもう一度、聞いていたレイダーの歴史を頭の中で繰り返した。

 やはり、そこに農業要素は一切無い。

 強引に結びつけようとしても、どうしたって無理だった。

 なんとしても結びつかない。

 ジョーンズ博士は、古代迷宮で転がる巨岩に追われることならあっただろう。

 だが、田植えをすることはなかったはずである。

 フェードラ帽をかぶり鞭を武器にした彼は、しかし麦藁帽子を着用してくわを振るうことはしなかった。

「僕のなかで、レイダーがゲシュタルト崩壊しつつありますよ」

「農業というなら、あれではないのか?」

 頭を抱えるカズマをよそに、ナージャが明るい声を上げた。

 その指先の延長線上には、鎌と麦にも稲にも見えるイラストを刻んだ案内板が見える。

 イメージカラーは茶色。

 下部に該当エリアの方向を示す矢印もある。

 そちらに顔を向ければ、果たして天井付近に同じシンボルがペイントされた壁や柱が幾つかあった。

「正解だ。じゃあ、実際に行ってみようか」

 言うが早いかケイス歩き始める。

 気をよくしたナージャが威勢良くそれに続いていった。

 カズマも慌てて後を追いかけた。

 依頼書の掲示板は、教室の黒板を横方向へ倍加した感じの木板だった。

 脚はなく、やはり黒板のように壁へ張り付ける形で固定されている。

 板上にはびっしりと用紙が貼り付けられていた。

 ハガキより少し小さめの黄ばんだ紙だ。

 これに群がるレイダーは、丸きり購買部のパンに群がる昼休みの学生であった。

 空腹で殺気立っていることも含め、そっくりそのものとしか言いようがない。

 連中は目を血走らせ、押すな割り込むなと野太い怒声を発しながら醜い争いを繰り広げている。

 中には若い娘の姿もあるのだから、こちらの女性はたくましい。

「目的のエリアに辿り着いたら、人波を掻き分けて掲示板に向かう」

 ケイスは群れを横目に、レクチャーを再開した。

「守るべきルールは幾つかある。まず、依頼書はパーティごとに一枚しか取ってはならない。あれもこれもと独占しようとすると――」

 言葉を途切らせ、彼は親指で斜め後方を指した。

 百聞は一見にしかずということだろう。

 顔を向けると掲示板の脇、泥酔したように顔を真っ赤にした男女がちょうど殴り合いを始めるところだった。

 止めようという者はなぜか一人として現れない。

 むしろ輪を作って取り囲み、喝采をあげて観戦モードを決め込んでいる。

 どの顔にも弾けんばかりの笑顔が浮かんでいた。

 彼らがこの上ない娯楽として状況を愉しんでいることは明白だった。

「手前、関係もないくせに毎度毎度、耳もとでキンキン喚きやがって。いい加減にしやがれ!」

「規則も守れない奴が偉そうに吠えてんじゃないよ。言われたくないなら、セコイ真似をするな。毎度毎度、こそ泥みたいに二枚も三枚も依頼書胸に抱え込んで。我慢ならないんだよ、自分さえ良ければ良いって小物は」

「大女がお上品ぶるな。柄じゃねえんだよ。金魚の糞みてえに気付けば後ろから人のことばっかり監視しやがって。なんで俺なんだよ。他にもやってる奴は腐るほどいんだろうが」

「ああ、いるね。屑の同類は腐るほどいる。心配するな。一人ひとり時間をかけて潰していく。だからそう、まずはあんたからだ」

 女性の方は、少なくとも外見上はまだ二十代そこそこの若さに見える。

 だが、恐らくエリックやケイスよりも上背があった。

 加えて、まとった金属鎧から伸びる二の腕は丸太のように太かった。

 種族が純粋な人間エインかは微妙なところだ。

 コロパスのような、エインに近い獣人だとしても驚くに値しない。

 少なくとも、地球でこれほど恐ろしく鍛え上げられた女丈夫を探すのは困難だろう。

 男の方も身長こそ一七〇前後と高くはないが、体格は丸きりプロレスラーだ。

 そんな両者が殴打の応酬を繰り広げているのだ。

 轟く打撃音は、肉体の激突が生んでいるとは到底思えぬドゴンという重低音ばかりであった。

「まあ、ああいう騒ぎに巻き込まれることになる。不正はしないようにな」

 ケイスが他人事のように言う。

 実際、自分には無関係だと考えているのだろう。

「良いんですか……止めなくて」

 カズマはあわあわと指をくわえながら問うた。

「気にするな」

 軽い声が返った。

「日常だ。支部内でのにんじょう沙汰は御法度だし、封貝を使っての私闘も禁止だ。だが、両者合意の上で素手同士で殴り合うなら、ほとんど多くの場所で、それは違法行為にはならない。衛兵も取り締らない」

 むしろ治安当局すら、握り拳で観戦に加わることすらあるという。

「ようし、じゃあ次は私がやるぞ!」

 よくわかっていないなりに血は騒ぐものらしい。

 ナージャが物騒なことを口走り始める。

「異世界怖い。そして、仲間の女子も怖い……」

「外野にとってはむしろチャンスさ」ケイスが微笑した。

「殴り合いは庶民の娯楽だ。大抵の奴は手を止めてそっちに気を取られる。賢い奴はその隙に――」

 まあ、見ていろ。

 ケイスはそう言い残して歩き出した。

 そのまま、掲示板の前の人集りに突入していく。

 確かに、彼の言う通りだった。

 白熱する素手の殴り合い(ベアナックル)に意識を引っぱられ、群衆は掲示板のことを一瞬、忘却してしまっている。

「大好きなんだろうなあ、殴り合い……」

 昼の購買部でいうなら、カウンターの近くで美少女が突然、服を脱ぎ始めたようなものだろう。

 男子高校生が大好きといえば美少女だ。

 空腹とパンの購入も忘れて、そちらへ視線釘付けになることけ合いである。

「一部、クールな人間だけが、その隙に売れ筋のパンをきっちり購入して戻ってくる。観戦はそれからでも間に合うしなぁ」

 実際、ケイスはものの一分もせずに戻った。

 手には再生紙のように茶けた感じのメモ用紙を握っている。

 何か文字が書き込まれているが、カズマには読めなかった。

「まあ、こんな具合だ。あとは、これを窓口まで持っていって正式に契約する。パーティで請け負う場合は、代表者が手続きすれば良い。その時にメンバーを申告すれば、それが公式記録になる。いちいち全員が顔を揃えて手続きしなくていい反面、これは注意すべき点でもある」

「なんでだ?」

 ナージャが訊いた。

「問題は、臨時でパーティを組んだ時だ。良く知らない奴にリーダーを任せた上、手続きまで丸投げしてしまうと、あとで面倒なことになる。

 たとえばナージャ。そのよく知らないリーダーがお前の名前をわざと抜かして依頼を受けてしまったらどうする?

 仕事を終えて返ってきて、さあ報酬を山分けだという時になって、お前はパーティとして登録されていない。仕事に参加していないことになるから、報酬も貰えない……と言われたら?」

「なんだそれは!」

 実際にそう宣言されたかのごとく、ナージャは地団駄を踏み出した。

「そういうトラブルも起こりえるということだ」

「実際、ありえるんですね?」

 カズマは質問というより確認の体で訊く。

「実際、よくあるトラブルだ」

 ケイスは頷き、続ける。

「俺たち弱小プラトォンは、怪我や何かの事情で仕事に対し充分な頭数を揃えられないことが今後でてくるだろう。臨時パーティを組む機会もそれなりにあるかもしれない。

 そういう時のために、なるべく色んな奴と話して、誰が信頼できそうか情報を集めておけ。助けを求めている同業者には、損をし過ぎない範囲で手を貸して、恩を売れ。横の繋がりは、この商売、非常に重要だ」

 それから窓口に行き、着任の手続きを行った。

 横からケイスの指示を受けつつ、カズマが代表者として契約を交わす。

 仕事は個人ではなくパーティで受けた。

 メンバーはカズマ、ナージャ、そしてエリックの三名。

 ケイスは加わらない。

 自分の面倒は自分で見る。

 それがレイダーの流儀だ。

 いつまでも彼に頼り切るというわけにはいかない。

 何より、自分たちで依頼をこなしたという自信がカズマや――とりわけエリックには必要なはずだった。

「どうだ。次から、俺がいなくても仕事を取れそうか?」

 ネクロス本部を出ながら、ケイスが訊いてきた。

 カズマはナージャと揃って首を縦に振る。

「そう難しい手続きでもないですしね。これならいけるでしょ。僕が、依頼書の文字を読めないということをのぞけば」

「私は読めるぞ!」

「なら、カズマは文字の勉強をしつつ、マスターするまではナージャの助けを借りれば良い。当面はな」

「任せておけ」

 ナージャは得意げに胸を張った。

「よし。じゃあ、お前たちは先に北門に行って待機していてくれ。俺は宿に戻ってエリックをそちらに向かわせる。コロパスの方は任せておけ。午前中に医療師に診せておくよ」

 この辺は、話し合ってお互い納得ずくのことだ。

「よろしくお願いします」

 ケイスとは広場の巨大な橋を渡り終えたところで別れた。

 ネクロス市内では、封貝による飛行や高速移動が禁止されている。

 そのため、ケイスやナージャはもっぱら徒歩に移動手段を限られる。

 そもそも移動系を所有しないカズマに到っては、言うまでもない。

 通りには流しの辻馬車も走っているが、庶民にとっては高値の花だ。

 少なくとも日本人にとっての電車ほど身近な存在ではない。

 どちらかと言えばヘリをチャーターするくらいの遠い存在だろう。

 そういったわけで、カズマはナージャと並んで朝の大通りを歩き出した。

 どうせエリックが追いつくのを待たねばならない。

 急ぐ必要は全くなかった。

 露店を冷やかしながらぶらぶらと北門を目指した。

「ナージャはさ、レイダーの土木仕事ってどんなのか知ってる?」

「なにも。なぜなら、私はできる限り仕事というものから距離を置く主義なのだ」

「なんてことだ。僕と同じじゃないか」

 ふたり見つめ合った。

 固い握手を交わす。

 彼女とより深く通じ合えた気がした。

 馬鹿な会話を繰り返しながら、たっぷり二〇分ほどかけて北門に辿り着いた。

 このまま外に出ても良いが、内側に留まることにした。

 待ち合わせにはその方が都合が良い。

 往来の人々の邪魔にならぬよう、端の壁際に寄ってエリックを待った。

 待つと言っても、彼はものの五分もしないうちに姿を現わした。

 人混みの中からでも正確にそれを察知できたのは、エリックに持たせていた封貝のおかげだ。

 カズマのフォックス・ツー〈*ワイズオレイター〉は、攻撃力が皆無である一方、珍しい特性を幾つか有する。

 たとえば、「封貝の気配をほとんど発さない」。

 そして「別の封貝を使っている最中も消さずに留めておける」。

 主にこの二点がそうだ。

 後者はショウ・ヒジカ戦以降、新たに確定した機能だが、これによって〈*ワイズオレイター〉は常時顕現型に近しい性能を有したと言える。

 実質、ナージャの〈*旋火の綾(マフラー)〉やカズマの義手のようなものだ。

 なぜなら、他の多くの封貝は、別種類の封貝を召喚した瞬間、入れ替わりに消えてしまう。

 だが、〈*ワイズオレイター〉は「浮く」「音を出す」などの能力こそ失ってしまうが、存在自体は消えずに留まるのだ。

 もちろん、カズマが特別にそう願えば、という条件がつくが。

 この特性を利用して、カズマは派閥プラトォンメンバー全員に自分の封貝を渡していた。

 親指の先ほどに小さくした〈*ワイズオレイター〉だ。

 これを持たせていれば、封貝の有効射程内に彼らが接近した場合、カズマだけはそれを察知することができる。

 体育会の混雑の中、同じ体操着を着た無数の生徒の中から、我が子だけを正確に見つけ出す母親のように。

 現状、〈*ワイズオレイター〉の有効射程は安定していない。

 その日の体調にも左右される。

 だが、おおむね一〇〇から二〇〇メートルの間には収まるようであった。

 以前までは五メートル前後で精一杯であったのだ。

 それを思えば格段の進歩だ。

 カズマは半径二〇〇メートル内の雑踏のどこかにエリックが出現したのを感じると、封貝を使って彼に語りかけた。

 自分たちの方へ声で誘導し、無事に合流する。

 それからはとんとん拍子だった。

 まず、レイダー証を見せて門を潜る。

 このライセンスがあれば、その日の内なら何度出入りしても関税が免除される。

 そう聞いてはいたが、事実であったらしい。

 門兵はちらとそれを一瞥しただけですぐにカズマ一行を通してくれた。

 そうして外に出ると、ナージャが早速〈*旋火の綾〉を広げた。

 左右の両端それぞれでカズマとエリックを引っつかみ、〈*脚踏風火〉で上空へと舞い上がる。

 それから仕事の現場であるヒタ村までは空の旅だ。

 空からかんすると、ネクロス圏の地形は非常に美しかった。

 街の東側には、オルビスソー本土へと連なる大洋が広がっている。

 つまり、ネクロスはフ=サァンの東端に位置するのだ。

 これを岸沿いに南へ向かえばインカルシに着くはずだ。

 東京でいうなら、ネクロスは港区。

 インカルシが羽田空港といった感じか。

 そのぼうようたる大海に流れ込むのが、遥か内陸の奥深くから伸びてくる大河だ。

 ほとんど陸地を真横に貫くように横たわるこの河川は、恐ろしく雄大だった。

 もっとも広い場所だと、岸からその対岸までの幅は恐らく五〇〇メートルを超えるのではあるまいか。

 輸送船の類だろう。

 大型の船舶が無数に行き交っているのが見える。

 このたいせんは、ちょうど海の手前でふたまたに分岐していた。

 Yの時を右向きに押し倒したような形だ。

 その叉の間にあるのが、首都ネクロスだ。

 あのフ=サァン最大の要塞都市は、いわゆるさんかくの上に気付かれた街であったらしい。

 これから向かうネクロス北部は、なだらかに続く丘陵部を挟んで、広く穀倉地帯となっているようだった。

 これだけ海が近いと土壌に問題があるのではないか。

 カズマの余計なお世話を余所に、農民たちはどのような理屈でか充分やれているらしい。

 南を流れる大河が四方八方に支流を張り巡らせているため、少なくとも水源の苦労がないのも大きいのだろう。

 収穫を控えた黄金色の豊かな海は、稲穂の重みを誇るかのごとく風にゆたっている。

 ――ヒタ村まではとにかく真っ直ぐ北上すればいい。

 そのうち、南北にまっすぐ流れる川に二連水車が見えてくる。

 特徴的だからすぐ分かるだろう。

 ケイスの言葉を頼りに飛行を続けること一五分弱。

 目印に気をつけて速度を自動車(クルマ)程度に落した甲斐あり、カズマたちは目的の二連水車を見落とすことなく発見することができた。

 ――農民を刺激せぬよう、少し手前で下りて歩くといい。

 同様に与えられていた助言にも従い、カズマは早々にナージャへ降下を指示した。

「応」と答えた彼女は、ゆっくりと高度を落していく。

 川とその脇を並走するように伸びる道の間へ、柔らかに着地する。

 周辺には、陽光を受けてつややかに輝く鮮やかな緑の牧草地が広がっていた。

 穀物の畑は、川と道を含むこの牧草地帯を挟み左右両側に遠く続いていた。

 少し歩くと、既に作業を始めている農民の姿がぱらぱらと散見され始める。

 そのうち一際大きな集団に目を付け、カズマたちはそちらへ向かった。

 程なく彼らもカズマたちに気付き、何事かと手を止めて視線を注いできた。

「すみませーん。レイダース連盟から依頼を受けてきた者ですが」

 カズマは努めて明るく声をあげた。

 すると、ろんな目つきだった彼らは表情を一変させた。

「おお、依頼に応じて下さったか」

 ぱっと顔を輝かせ、わたわたと駆け寄ってくる。

 その数、総勢五名。

 四人が男で、一人は――近くでよく見ると胸の膨らみでようやくそれと分かる――女性であった。

 誰もが例外なく一〇歳以上の子を持っているべき年代で、少なくとも外見上は人間エインに見えた。

 誰もが紫外線による劣化によって多くのしわを肌に刻んでおり、その溝に詰まった土汚れが更に肌を黒く見せている。

 鉱山労働者のように半裸をさらしていることもまた、薄汚れた印象を助長していた。

 申し訳程度に身につけている物にしたところでまつの一言だった。

 祖父の代から受け継がれてきたボロを、穴があく度に補修して使ってきた――というような代物ばかりだ。

 彼らは代表者らしき男を先頭に、ボーリングのピンのような配置で並び、笑顔と揉み手でカズマたちを迎え入れた。

「連盟からいらしたと仰いましたな? 助かります。よくぞおいで下さった」

 口先だけでなく、心からの歓迎に見えた。

 むしろ、不自然とも思える熱烈さに怖さすら感じる程だった。

「ええと、その、僕らは……」

 いささか鼻白み気味にカズマは言った。

「レイダーというのは事実なんですけど、全員、まだ無印級(ブランク)の新人でして」

 途端に男達の表情が曇った。

 先頭の代表者こそ平静を保っているが、後ろの方では顔を見合わせている。

 なにか不安そうに囁き合う様子も見えた。

「もしかして、お三方は封貝(ペルナ)使い(マスター)では……いらっしゃらないので?」

 懸念はそこか。

 得心のいったカズマは、半分安堵した。

「ああ、いえ……ええと、この女の子は凄腕の封貝使いです」

 カズマはナージャの両肩を引っつかんで、盾にするように自分の前に立たせた。

「インカルシ護士組をご存じかは分かりませんが、その隊長クラスと互角に戦えるくらいの手練ですよ。レイダーのクラスが低いのは、単に昨日なったばかりだからに過ぎません。しかし、実戦経験も豊富で実力は折り付き。我がプラトォンのエースです」

 おおっ、という感嘆の呻きと同時、ナージャへ視線が集中した。

 注目されるのが大好きなナージャは、鼻高々といった様子でそれを受け止めたらしい。

 背中越しにでも得意げな笑みが目に見えるようだった。

「かくいう僕は、残念なことに、彼女と比較すると随分グレードの落ちる中途半端な封貝使いです。キャリアを抜きにしても、純粋に無印ブランクに相応しいレヴェルの実力しかありません」

 だが、間違いなく封貝使いではある。

 カズマは右腕の〈*ワイズサーガ〉をさりげなく誇示することで、それを忘れず主張した。

 農民たちも、ほうと興味深そうに義手に関心を寄せてくる。

「で、こちらの大柄な青年ですが」

 と、最後にエリックを指してカズマは説明を続けた。

「彼は今のところ封貝を持っていません。また、残念ながら言葉も話せないというハンデもあります。ですが非常に体力があり、ご覧の通りよく鍛えられていて、りょりょくも充分です。必ずや農作業に役立ってくれるでしょう。――以上、この三名の無印級レイダーが、本日お世話になるプラトォン〈*ワイズサーガ〉のメンバーです」

「なるほど、ご丁寧にありがとうございます。

 ペルナマスター様がおられるということで安心しました」

 これは嘘偽りない本音であるようだった。

 事実、全員が不安の払拭された輝くばかりの笑顔を取り戻している。

 干ばつに苦しめられた人々が、天に雨雲でも見たかのようだった。

「では早速ながら、今回お願いする仕事についてご案内させていただきます」

 実際に現場を案内しながら説明するつもりらしい。

 五名の案内人たちは、ゆっくりと移動を開始した。

「仕事は今の時期、三つあります。まずこの辺りで行っているのが、ご覧の通りこうです」

「はあ、リコー……」

 その言葉をカズマは理解できなかった。

 日本語に翻訳されているのだろうが、それでも意味が分からない。

 だが、周囲で行われている作業を見ればイメージは容易だった。

 むしろ、作業者たちが構えているすきくわ、スコップの類を見れば一目瞭然とさえ言えた。

 人間だけではない。

 畑には、ぽつぽつとだが牛や馬もいた。

 彼の四足動物たちは、車輪の付いた重そうな金属製の専用農具をかされ、ゆっくりと畑を往復していた。

 ここではあれがトラクター代わりというわけだ。

 これらを総合すると結論はひとつ。

 田植え、種()きに備えた土壌の整備。

 すなわち耕運こそが「リコー」なのだ。

「上から見たとき、畑が綺麗に三分割されてるのに気付いた?」

 カズマと肩を並べる位置に移動しながら、だしぬけにエリックが言った。

 えっ、と声にするより早く、エリックは自ら言葉を継いでいく。

「春に収穫するさくもつ用の畑。秋に収穫する作物用の畑。

 そして、土地の力を回復させるために休ませておくための畑。ここでは多分、畑を三種類に分けて役割をローテーションさせながら作業してるんだと思う。

 これって、社会の教科書にってた輪作だよね? 中世ヨーロッパで主流だったっていうさん制。スリィ・フィールド・システムそのものなんじゃないかな」

 喋りながら、エリックの言葉に熱が籠もっていくのが感じられた。

 自分の発見に興奮しているらしい。

「それでいうと、今ってケイスさんによると夏と冬の間らしいから、これからリコーして種をくなら……」

「秋に種蒔きするなら、収穫は春だ。それ用の畑ってことだね」

 エリックがすぐに答えた。

「なるほど」

 カズマは会話の内容をそのまま案内人たちにも伝え、確認を取った。

 すると、彼らは揃って首を縦に振って返す。

「はい。お連れ様と言われる通りです。この一帯は、今の時期から種をき始め、次の年の春から初夏にかけて収穫する〈ポーン麦〉の畑になっております」

「ええと、ポーン麦というと――」

「はい」

 途中で言葉をにごしたのを、どのように解釈したのかは分からない。

 代表はどこかせきりょう感のある苦笑を浮かべた。

「ご存じの通り、ポーン麦の大部分は製粉されてパンになります。街住まいの方々の主食ですな」

 ならば分類上は、日本語でいうところの冬麦。

 パンになるというなら、具体的には小麦であろう。

 エリックが小声でそう告げた。

 彼の耳には〈ポーン・グァバ〉と聞こえたらしいが、これはオルビスソーにおける小麦に相当する穀物なのではないか。

 彼はそのように自説をまとめる。

「それからあちら、西側をご覧下さい。ポーン麦の畑のひとつ向こう側に、穂を実らせた作物の畑が見えると思います。あれが、収穫をひかえた〈ウルチ麦〉です」

 ウルチ麦。

 こちらには聞き覚えがあった。

 オルビスソーに着いて以来、初めて飲食店に入り、そして初めてまともな食事として口にした物。

 それがウルチ麦だったからだ。

 忘れもしないテズピ村。

 その〈セリィと銀の蜥蜴トカゲ亭〉で出された、野菜とビーフンのいため物がそうである。

 ビーフンは別名をライスヌードルという。

 つまり米で作っためんに他ならない。

 こちらでいうなら、ウルチ麺といったところか。

グァバと言いつつ、かなりお米に近い食べ物だったなあ。あれは美味しかった。お腹空いてきた……」

 不注意にもカズマがこぼすと、反応したのはナージャだった。

 耳ざとく聞きつけたらしい。

 憤然とした語調で詰問してくる。

「なんだ、なんだ? 私はそんなの食べたことないぞ!」

「ああ、うん。あの時……ナージャは、その、いなかったからね」

「なんでだ!」

「いやあ、なんでって……捕まってたからねえ。

 インカルシで」

「ダーガだけ、ずるいではないか」

 憤慨する彼女をなだめすかし、なんとか落ち着かせる。

 それから話を再開するよう、カズマは目だけで案内人に合図を送った。

「ええ――」

 咳払いひとつ、男が話しはじめた。

「ウルチ麦の収穫も是非、お持ちのペルナのお力を貸していただきたい作業のひとつです。

 それともう一つ、少し離れたブドウ園で収穫したものを酒に変える作業もあるのですが、こちらは儀式的な要素も含まれますし、人手も足りております。

 我々としましては、やはり封貝の有無で作業効率が大きく変わるこうと収穫にこそ、レイダー諸兄よりお力添えをいただきたいのです」

「稲刈りと、畑の耕しか……」

 カズマは思わずうなった。

 ――果たして自分が前者の役に立つのか。

 封貝使いになってから異様に発達してきている視力をいかして、その作業風景を改めて観察してみる。

 もちろんコンバインなどという便利なものは、どこを眺めても見当たらなかった。

 かといって、牛や農耕馬を使う様子もない。

 刈入れはリコーよりも遥かに繊細な作業なのだろう。

 結果、手作業とならざるを得ないようであった。

 人々は中腰になり、多くの場合、三日月型の鎌を使ってウルチ麦を斬り倒していた。

 既にかなりの人数が動員されており、皆それなりに楽しそうにやっているのが分かる。

 自然を相手に勝ち取った、農家にとっての戦利品を集めているのだ。当然だろう。

「収穫の歌」のようなものがあるのだろうか。

 彼らが揃って口ずさむそのいかにも景気の良い歌声が、風に乗って届いてくる。

「時々、刈るのをやめて手元で何かごにょごにょしてるのはなんです?」

 カズマは今まさにその仕草を見せている男を指差しながら、代表者に問いかけた。

「あれは、切れ味の鈍った鎌のいでいます。鉄の刃物は頑丈ですが、植物を斬り続けると切れ味が鈍ってきます。鈍ると、体感でそれと分かるほど作業能率、速度が落ちます。一日で終わる仕事が三日にもなるのです」

 なるほど、鎌を持っている者は腰に巾着のような小袋をげている。

 ほぼ全員がそうだ。

 中に切れ味を戻すためのいしが入っているのだというなら、納得だ。

「砥石だけでなく、あの袋には小量の塩、パンくず、貨幣コイン、フェネルなども一緒に入れています。種蒔きの時も同じ物を用意します」

 そうすることで豊作になりやすくなると信じられているのだという。

 カズマは頷きながら話を聞き、最後に訊ねた。

「ふうむ……じゃあ自分の封貝と相性がよさそうな者は、あの刈入れを手伝えば良いんですね?」

「左様です。封貝の剣は、決して切れ味が落ちることなく、常に新品同様の状態が維持されると聞き及んでおります。実際、来ていたただける時はいつもレイダーさんにお手伝いをお願いしてるのですが、彼らはまるで蜘蛛の巣を断つように、凄まじい勢いで麦を刈り取っていかれるものです」

「なるほど、それで封貝かあ」

 だが、そうすると適性を持つのはナージャだけだ。

 カズマには切断系の能力を持つペルナがない。

 多方、彼女ならそれが複数ある。

「じゃあ、ちょっと使えそうな封貝を試してみたらどうかな」

 エリックの提案に乗る形で、全員で春麦畑に移動した。

 近付いてみると、ウルチ麦は非常に背が高かった。

 日本の稲は大きく育っても一メートル前後が精々だろう。

 だが、ウルチ麦は平均しても小さな女性に近いくらいの背丈がある。

 数字にすれば一四〇センチに届こうかというレヴェルだ。

「じゃ、ナージャ。ちょっとこれぶった切ってみてくれる? 槍は炎出すと燃えちゃうから、あの八つ裂き光輪的な〈Fox 2(フォックスツー)〉で、こう……ズバーっとさ」

 カズマはジェスチャー付きで言った。

 イメージした動きはフリスビーのとうてきだ。

「〈*乾坤圏〉か? いいぞ。どのくらいの高さで斬れば良いのだ?」

 そのナージャの問いには、案内人の中の紅一点が答えた。

 実際にウルチ麦の側にしゃがみ込み、「この辺りです」と指で示す。

「結構、下の方か。ようし、分かったぞ。――試しに斬ってみるのは一本だけか?」

「いやあ、僕としては一息でどれくらいまでいけるか見てみたいな」

「任せておけ」

 威勢良く言うと、ナージャは不敵に笑った。

 作業員が念のために距離を取ったのを確認し、畑に正面から対峙する。

 そうして高らかに口訣した。

「いくぞう、〈乾坤圏(フォックスツー)〉――ッ!」

 瞬間、Tの字さながら両腕を肩の高さまで持ち上げたナージャの両脇に、それぞれ一枚ずつ円盤が現れた。

 ユニークペルナ〈*乾坤圏〉である。

 その半径は、喫茶店などに並ぶ丸形カウンター席の座面程度。

 中心部はドーナツさながらに大きく穴が空いており、輪は大部分が刃となっていた。

 鏡面さながらの艶を持つそれは、全体が黄金色に光り輝いている。

「――疾ッ」

 ナージャの両腕が胸の前で交差されるように勢いよく振られた。

 同時、封貝が鎖から放たれたがごとく飛び出していった。

 唸りを上げて高速回転しながら、沈む混むように地上数十センチまで一気に高度を落すと、そのまま稲穂の海に突入していく。

 それからの光景は壮観に尽きた。

 スパスパとウルチ麦を切断、薙倒しながら凄まじい速度で滑空していく。

 文字通り、滑るような動きだった。

 重たい穂を支えつつ、それでも雄々しく直立していたウルチ麦が一斉に地に伏していくその様は、まるで大規模なドミノ倒しを見るような爽快さがある。

「オオォ……!」

 低い、嘆声にも似たどよめきが案内人たちの口から漏れ出す。

 大部分をに近しい驚嘆が占めこそすれ、一部には隠しきれない確かな興奮の色が滲み出ている。

 無理からぬ話だった。

 気分はカズマも変わらない。

 ナージャの〈*乾坤圏〉は一〇〇メートルほどの距離を疾風のごとく一気に直進し、そこで鮮やかなターンを決めた。

 封貝を実際に見ることはできないが、切り倒されていく稲穂が動きを教えてくれる。

 そうしてまた数拍。

 引き返してきた円月輪は、投げられたえだくわえてきた犬のごとく、主の手元へ戻った。

 所用時間は口訣から実に三〇秒にも満たない。

 まさに瞬く間の出来事だった。

「分かってはいたけど……これは本当に……」

「凄い、ですね……」

 カズマは思わずエリックとつぶやきあった。

 刈入れとは本来、経験豊かなプロフェッショナルが鎌を片手にどのくらいのペースで行うものなのか。

 事前に、比較対象を見ていたことも大きい。

 衝撃はむしろ彼ら経験者ほど大きかったのだろう。

 周囲の作業者たちの多くが手を止め、呆然と立ち尽くしている。

 誰しもが封貝の生み出した異様に言葉を失っていた。

 ナージャがものの数十秒で刈ったのは幅一・五メートルの範囲で、これが一〇〇メートルほど先まで続ている。

「これだけの仕事……我々人の手では、二人がかりでもどれだけかかるか」

「単純な比較はできんが、半刻かかることもあろうや」

「切れ味の落ちない剣で、ずっと止まらずに刈っていくレイダーさんなら今までにもいたが、よもや指の一本も動かさずにこんな……」

 案内人達も開いた口が塞がらない様子だった。

 何事も、行きすぎれば本能的恐怖が先立つ。

 たとえそれが、本来的には喜ぶべきものであったとしても、だ。

「でも、どうやら決まりみたいだね」

 カズマは彼らをけするように声を上げた。

「収穫は、封貝の性能と異様に相性が良いナージャに任せよう」

「今の感じでここのを全部、斬り倒してしまえば良いのだな?」

「そうそう。頼める、ナージャ?」

「任せておけ。一本も残さず皆殺しにしてやるのだ」

 満面の笑みだった。

 気性的にもこういう単純労働に向くのだろう。

 役を任されたこともあって、しばらくは上機嫌でいてくれそうだった。

「でも、ダーガ。それなら空を飛んでも良いか?」

「は――? 空?」

「上からの方が全体を見やすいと、ナディアが言っている。私の〈*乾坤圏〉は広範囲に渡って動かすなら飛んだ方が都合が良いのだ」

 ナディア――。

 空を飛ぶための〈*脚踏風火〉と攻撃《Fox》系や防御《Delta》系の封貝を同時使用した際に出現する、ナージャの別人格だ。

 少なくともナージャは、そのように振る舞っている。

 カズマも、そのナディアとは何度かは顔を合わせていた。

 理知的で冷静沈着。

 口調も事務的になるなど、普段のナージャとは確かに対照的な性分と言える。

 単にモードが切り替わっているだけなのかもしれないが、別人格と言われて違和感のない変化ではあった。

「もちろん、その辺はナージャの判断に任せるよ。鳥瞰した方が色々把握しやすいっていうのも頷けるしね」

「ダーガとエリックは、一緒にやらないのか?」

「エリックさんは分からないけど、僕は刈入れには向かないからね」

 カズマは元来た方を振り返りつつ、続けた。

「あっちで、種蒔き前のリコーって作業を手伝うことになると思う」

 ただね、とカズマはナージャの肩に手を回した。

 すっと休閑地の方を指差し、口調を改めた。

「ナージャ君。私の理想は、あれだ」

「あれ?」

 不思議そうな顔でこてんと首を傾げる。

「あっちは、なんか動物さんたちが草やらむしゃむしゃしてるだけの何もないスペースだよね。ここみたいに作物が育ってるわけでも、僕が今から耕しに行くところみたいに、今から種蒔きをするわけでもない」

「うむ。あれはなんなのだ?」

「作物は、そこにある土から栄養を吸い上げて成長する。何度も栽培を繰り返すと、作物が全部吸い上げてしまって土の栄養はすっからかんのゼロ状態になっちゃうんだ」

 そのため、また栄養が戻るまで農業には使わず、休ませねばならない。

 それをきゅうかん地、あるいはきゅうこう地と呼ぶらしいのだ、と説明した。

 これはどうやら、中高の社会の時間に習ったことであるという。

 だがカズマ自身、エリックに先程教えられるまでは完全に忘れていたことだった。

「ナージャ君。私は常々、大地のように器の大きな男になりたいと考えてきた。そこに来て、あの休閑地に出会った。そして悟ったのだよ。あれこそが私の目指すべき姿だ、と」

 怪訝そうな顔をする彼女に、カズマはふっと微笑んで見せた。

 赤ん坊のように柔らかい彼女の亜麻色の髪を優しく撫でた。

「いいかね、ナージャ君。休閑地は働いていない。農地として機能していない。さりとて、決してサボっているのではないのだよ。休んでいるだけ。来たるべき日に備えてエネルギィを蓄えている。そう、つまり英気を養っているだけ。そのうち本気出す。いつかは本気出す。だが、まだその時にはあらず。今はただ雌伏の時。――まるで僕のようではないか」

「なにかこうしょうなことをいているようで、内容を良く聞くとまったくそんなことないっていうのも、ここまでいくと逆に凄いな……」

 エリックは感心半分、呆れ半分といった顔だった。

 もちろん彼も、カズマが本気で言っているとは思っていない。

 その証拠に、すぐあと「カズマくんらしいね」と破顔一笑してみせた。

 カズマたちの割振りが決まると、ガイドたちもここで二手に分かれると言い出した。

 ナージャに細かい指示を出すため二人がその場に留まり、残る三人がカズマたちと共に冬麦の畑へと引き返す。

「では、おふたりは犂耕の方をお手伝いいただけるということで――?」

「ええ、はい」

 代表してカズマが応じた。

「ええと、カズマ様でしたか。貴殿はどのような封貝をお使いに?」

 明らかな年上から貴殿などと気を遣われた経験はない。

 どうにも落ち着かない感じがした。

「僕は腕が封貝なので、シャベルや農具の代わりに手で土を掘り起こしても良いんですが、なんか腰が痛くなりそうなので――」

 と、無口訣で〈*ワイズオレイター〉をひとつ呼出した。

「これを使おうと思います」

「おおっ」

 三人の男達が、三つ子のように揃って目を見開く。

 〈*ワイズオレイター〉はこの世にひとつしか存在しない、ユニークペルナだ。

 当然、初めて見るのだろう。

 恐らくは似た物すらだ。

 カズマは、彼らに封貝の性能を簡単に説明した。

 ナージャの〈*乾坤圏〉同様、手で触れずとも自在に動かせることも伝える。

 この機能を利用し、土中に埋めた状態で動かす。

 そうすれば結果的に土を耕すに似た効果を得られるのではないか。

 それがカズマの考えだった。

「最悪、あの牛にかせてるでっかい車輪付きすきを借りて、あれを封貝で押し動かすとか」

「なるほど……初めてお見受けするタイプの封貝です」

「あの、お話のところすみません。僕は農業初心者でもあるので、非常に初歩的な質問になるんですけど――」

 前置きと共にエリックが言うと、カズマはそれを通訳した。

こうというのは、具体的に何を目的としたどういう作業なんですか?」

「あ、それは僕も聞きたかったです」

 これ幸いとカズマも尻馬に乗る。

 だが、小学生に「さらりーまんって何する人?」と訊かれるようなものだったのだろう。

 案内の農民たちは一瞬、きょとんとする。

 それでもすぐ、理解と寛容の微笑を浮かべて頷き始めた。

「そうですな。そもそも、麦作でもっとも重要な作業が、このたがすということなのです」

 一番年嵩の男がもごもごと口を開いた。

 どこか懐かしむような口ぶりだった。

「昔、私たちの祖父やもっと前の時代には、まだ農具のすべてが木製でした。鉄はありましたがまだしょうで、農民が手にできるようなものではなかったのです。ご想像通り、木の農具を固い大地に叩きつけてもなかなか刃が立ちません。大変な作業で、できることにも限界があったそうです」

 しかし、後に鉄が普及した。

 農具にも鉄の刃先が付いた。

 牛がく農具は、車輪のある金属製の重たいすきとなった。

 結果、犂耕の効率は大きく跳ね上がった。

「伴って、穀物の収穫量も激増しました。どこでも、成長率はこの一〇〇年で五倍を超えたと言われています。条件の良いところでは七倍八倍といった飛躍的な成果が出たとか」

 鉄の農具と重量有輪犂。

 両者の登場と普及がもたらしたのは、要するに犂耕回数の増加だ。

 木製時代は時間的に一度しか耕せなかった畑を、二回三回とき返せるようになったのだ。

「今の時代、休閑期を挟んでポーン麦の種を蒔く前は、特に念入りに畑を耕します。この耕すというのは、まず固まった土をほぐし、やわらかくすること。そして、表面に生えた雑草を土の中に混ぜ込んで養分にする効果を期待する作業です。これによる地力の回復効果は、実際絶大です。二回しか耕さなかった畑に対し、三回耕した畑は作物の育ちが二倍から三倍になることすらあります」

「そんなに……」

 エリックが口を半開きにする。

 気持ちはカズマにも理解できた。

 まさか、そこまで違いがあるとは思わない。

 リコーとやらが、最重要過程と言われるのも納得だった。

「そんなに大事なら、ちょっと気合いを入れてやらないとね」

 エリックは表情を引き締めて本気モードだ。

「生えた雑草を地中に混ぜ込むって部分がポイントっぽいですよね」

 カズマが指摘すると、彼は生真面目な表情で頷いた。

「だね。農具でざくざく切れ目を付けていくだけじゃだめなんだ」

「僕も、耕すって土をふんわりさせるためにやるものだとばかり。でも、そうなると……埋めた封貝を地下で走らせるだけじゃ駄目ですよね。最初はそれでいけると思ってたけど」

 冬麦の畑に着くと、実際足で土を踏みしめながらふたりして考えた。

「封貝をこう、ローリングさせてみたら?」

 ちょっとした思いつき、という口調でエリックが助言をくれた。

 何やらクロールの水かきのような動きをしている。

「土中から初めて、地表を割って出て、また潜りなおす。このパターンを繰り返せば、混ぜるっていう動作になるんじゃないかな」

「なるほど……」

「僕も身振り手振りでやり方を教えてもらいながら頑張るよ」

 エリックはそう言ってにこりとする。

 彼は既にすきを借り受け、その握りの感触を確かている最中であった。

 やはり身体操作が抜群に巧いのだろう。

 軽く始めた素振りも堂に入ったものだった。

 もう一〇年以上振り続けてきたかのようでさえある。

 彼はこれからカズマと離れ、人力組に加わる予定だ。

 他の農民とペースを合わせるため報酬も時間給で計算される。

 額は農民の取り分と同じだ。

 多方、封貝を使って一気に数十人分の仕事を片付ける封貝使いは、事情が違った。

 出来高制で報酬も割高だ。

 カズマの場合、これから三時間ほどかけて、でるだけ広い範囲を耕して回る。

 首尾良くサッカーコート分ほどの面積を片付けられれば、一〇〇〇グラティアを得られる約束だった。

 約一〇万円の稼ぎだ。

 手始めにカズマは封貝を一つ召喚した。

 テニスボール大の〈*ワイズオレイター〉だ。

 現れた球体をさっそく足元に投げ転がし、そのまま地下に潜り込むよう命じた。

 応じた〈*ワイズオレイター〉がずぶずぶと土に埋まっていくのを見守る。

 もっとも、目的はそうして土を押し潰すことではない。

 土中への進入には真下にではなく、斜め前へやや角度をつけさせた。

 小さくても、この封貝にはパワーがある。

 カズマとエリックが二人がかりで体重をかけても、微動だにさせられない堅固さだ。

 モグラの真似事などわけもない。

 五センチほど潜らせたところで、カズマは〈*ワイズオレイター〉を方向転換させた。

 封貝は命に従い、り上がるような軌道で浮上に転じた。

 すぐに黒土の地を割って、白い球体が姿を現わした。

 球体が完全に地上に出たところで、カズマは一旦停止をかけた。

 しゃがみ込み、自分と目と手で直接、地面の具合を確かめた。

「――これ、どうですかね?」

 傍らで様子を見守っていたガイドたちに声をかける。

「そうですね」

 彼らはすぐ隣に屈み込み、節くれ立った指で土に触れた。

 しばらく検分すると立ち上がる。

 手を打ち合わせ土を払いながら言った。

「悪くはありませんが、理想的とは言えません」

「何がいけませんでした?」

「最初に強く押しつけすぎたのでしょう。その時に圧縮された土が最後まで封貝にへばりついたまま移動し、一緒に塊になって外に出てきてしまっていますね」

「ああ、なるほど……」

 カズマは顎をさすりながら目を細めた。

 もちろん、最初から満点の答えが出るとは思っていない。

 試行錯誤して最適解に辿り着けば良いのだ。

「サイズを小さくして、その分だけ数を増やして攻めるべきかな」

 半分、ひとつようにつぶやいた。

 すると、それを耳ざとく聞きつけたガイドがたずねてくる。

「大きさや個数は、それなりの調整できるのですか?」

「できます」

「動きも自在とのことでしたが、それも同時に?」

「何十個もの封貝に、それぞれ独立した複雑な動作をさせられるかは微妙です。多分、現状では無理でしょう。逆に言えば、非常に単純な動きならプログラムできると思いますよ」

「ならば、そう――軌道に角度をつけて、二つのそれが混じり合うように動かしてみてはどうでしょう。上から見ると×に見えるような感じで」

 ガイドの片割れが身振り手振りを交えながら言う。

「それと、球体以外の形は取れないのでしょうか?」

「今のところ、形はボール型だけです」カズマはすぐ答えた。

「でも、動きの方は再現できそうですね。試してみましょう」

 天文学でいうところの公転の動きだけではなく、自転の動きを加えてみるのも面白い。

 封貝自体がスピンするなら、土もへばりつきにくくなるであろう。

 そう考え、実際に試してみる。

 それから半時間ほど、案内人らの助言を得ながらテストを繰り返した。

 最終的に、封貝の大きさはピンポン球大に落ち着いた。

 それを二個一組として横に二〇ペア、前後二列の構えで並べる。

 ペアを組ませた封貝は、たとえるなら見えない惑星の周囲を回る双子の衛星だ。

 片方は惑星の線に当たる軌道をなぞらせるように。

 そしてもう片方にけい線をトレースさせるかたちで動かす。

 そして、見えない惑星自体にも土に出たり入ったりを繰り返すように円運動をさせる。

 あとは、封貝の群れ全体をゆっくり移動させていけば良い。

 実際、列を乱さず一〇メートルほど前進させてみると、計算通りの成果が出た。

 土くれを手にすくって確認していたガイドが、そのかくはんぶりに笑顔を見せる。

 喜色いっぱいに「完璧です」の一言が後に続いた。

 こうなると後は楽だった。

 準備は大変だが、それさえ済めば一気に進む。

 封貝を使った仕事はその典型だ。

 〈*ワイズオレイター〉製の自動耕運機を伴い、カズマはゆっくりと畑の往復を繰り返すだけでよかった。

 力も何も必要ない。

 ポケットに両手を突っ込み、鼻唄混じりでもやれる。

 本当に散歩そのものの足取りで、カズマは周囲を歩いて回った。

 ――おい、お前ら。凄いぞ。来てみろ!

 ガイドがはしゃぐように呼びかけたせいで、いつしか作業を放り投げた多くの農民が周囲に集まってきていた。

 手にまめをこさえ、それが潰れて固まるまで鍬を振り続ける。

 汗水流し、肌を陽に焼かれながら連日大地と格闘する。

 多大な時間と労力をかけて行うべき仕事が、丸きり冗談のような速度で進んでいく――。

 最初は目を点にしていた外野だったが、そのうち状況をたのしみだした。

 どこか開き直りもあったのかもしれない。

 途中からはやんやの喝采と共に、景気づけの農民歌の合唱まで始まった。

 カズマも持ち上げられる形でのってくる。

 特に音楽は得意分野だ。

 〈*ワイズオレイター〉本来の能力をフル活用して、彼らの歌に旋律を付けた。

 単純なおかげで歌詞を早めに覚えてからは、自らも声を出した。

 これに対する農民たちの反応は、そっくり封貝の時の焼き直しだった。

 最初は、なにか信じがたい光景を目撃したように忘我する。

 自失の硬直から意識を取り戻すと、揺り返しのような熱狂の嵐を吹かせ始める。

 音楽に関しては、どこの世界も変わらないか――。

 それがカズマの率直な感想だった。

 実際、彼らの反応はカラオケに行った時の日本の友人たちのそれと大差がない。


 なんじょう、歌うまいらしいじゃん。

 えっ、マジで? なんか中学同じだった奴らとかが言ってた。

 ちょっと引くレヴェルらしいよ。

 うわ、なにそれ。超聴いてみてえ。

 ねえ楠上君、なんかちょっと歌ってみてよ。得意なのとかあんの?


 音楽は好きだ。

 歌も例外ではない。

 だがそれは、あくまで気の向くまま自分の自由にやれればの話だ。

 他人に強要されるのは好きではなかった。

 さあ宿題だと意気込んだことろで、親から「勉強しろ」と言われた子のような気分になる。

 サトミやシゲンから、実際そんなことを言われた経験はないが。

 ともあれ、周囲が騒ぎ出すとそこから逃げ切るのは難しくなる。

 わいのわいのと騒ぎながらマイクを押しつけられて、仕方なく応じることもあった。

 もっとも、経緯がどうあろうと、その後のパターンは大体が同じだ。

 出だしは野次馬根性まるだし。

 口笛でも鳴らそうかという調子ではやし立てられる。

 弄られる。

 しかしそれも――曲目にもよれ――中盤にさしかかるまでの話だ。

 その頃には水を打ったような、いっそ不気味とも言うべき静寂が場を支配している。

 誰もが手拍子の途中で動作を凍らせた、奇妙な格好のまま固まっている。

 選曲がバラードやラヴソングの類ともなれば、感受性豊かな幾人かが涙ぐんでいることも珍しくはない。

 はっきり落涙している者すら良く見る。

 それもこれもカズマにとっては慣れた光景、慣れた反応だ。

 曲が終わり旋律が周囲に溶け込むように消えると、ひとり淡々とマイクを置いて座席に腰を落ち着ける。

 聴衆たちがいんの残したしびれから解き放たれるのは、その少し後だ。

 この時吐かれる「マジ、すげえ」の言葉は、歌い始めの頃とはニュアンスがまるで別物だ。

 口をぽかんと開き、どこか呆然とした口調で零される。

 それが常だ。

「レイダーの兄さん、あんたすげえな」

「その細っこい身体のどこからあんな声が出んだ」

「今の歌も、封貝の力なんですかの?」

「音楽を鳴らせる封貝があるなんてな!」

 異世界の農民が相手でも事情は変わらなかった。

 一方で、彼らにはカラオケの同伴者とは違った素朴さがあった。

 未知なものは未知と、不思議なものは不思議と、そう素直に受け止められる感受性の差だろうか。

 皆いい歳の大人なのに、塾帰りの疲れた中学生よりよほど輝いた瞳をしている。

 その眼差しにほだされたのかもしれない。

 気付くとカズマは、常になく丁寧に応対していた。

 自分の封貝には攻撃能力がないこと。

 代わりに様々な音色、旋律を自在に操れること。

 しかし、自分の歌唱技能は封貝に特別な恩恵を受けた物ではないこと。

 一つひとつに辛抱強く答えていった。

「おい、こら。レイダーさんを困らせるな。お前らいつまでも持ち場ほっぽりだしてねえで、そろそろ仕事に戻らねえか」

 見かねた監督役が割って入ってくれる。

 蜘蛛の子を散らすように作業員たちが逃げていくと、彼はご機嫌うかがいの笑みを浮かべた。

 そうして、ぺこぺこと頭を下げさげ非礼を詫びてくる。

「どうも失礼しました。娯楽に乏しい田舎の農村では、こういう話のタネになりそうなことに目がないんです。田舎者のすることと思って、どうかお見逃し下さると助かります」

「いやあ、お気になさらず」

 カズマは微笑を返しながら言った。

「ですが、私も驚きました。収穫の方を手伝って下さっている方といい、ここまで完璧に適応した封貝を見せていただいたのは初めてですよ。私どもが大勢揃って一〇日かけてやる仕事を、二刻足らずで終わらせてしまうとは……しばらく語りぐさですよ、これは」

「そうなんですか?」

「ええ、それはもう」

 でも、普段から募集してるなら、僕より優秀な封貝使いなんていくらでもいたでしょう。

 言いかけて、カズマは言葉を飲み込んだ。

 考えてみれば実際、目の前の男の言う通りなのかもしれない。

 にわかにそう思えてきたからだった。

 たとえばケイスやマオ、それにショウ・ヒジカなどは、カズマとは比較にならないレヴェルの封貝の使い手だ。

 次元が違う。

 比較の対象にすらならない大物たちだ。

 だが、分野を変えればどうだろう。

 ケイスの光線を発射する二挺拳銃《Fox 2》より、カズマの〈*ワイズオレイター〉の方が、たとえば犂耕に対する適性は間違いなく高い。

 戦闘能力だけが、レイダーの――封貝使いの実力を計る唯一のモノサシではないということだ。

 思えば、カズマたちが初めて受ける依頼として、ケイスは異常なほど土木系にこだわっていた。

 こうなってくると、もはや間違いないのだろう。

 あれは、今感じたようなことを実感させる狙いがあったのだ。

 朝の稽古で、戦闘面での無力をことさら強く実感させる。

 その上で違う分野に放り込む。

 封貝の使い方を違う角度から考えさせる。

 結果、出力や破壊力の大きさだけでは計れない、封貝の多様性が際立つ。

 一〇〇の言葉で語られるより、体験をともなって深く心に刻まれる。

「あの人、今朝の稽古も含めて全部このために計算してたんだ……」

 学校では「こんな勉強が何の役に立つんですか」と文句を言っていれば良かった。

 それが努力を放棄する言い訳になった。

 周囲にも許された。

 だが、レイダーの世界では違う。

 何の役に立つか分からないもののかし方。

 それが武器になる分野、世界の発見。

 どれだけ柔軟な発想と機転によって、これらを考え出せるか。

 生み出せるかが勝負なのだ。

 音を出すだけしか能がない。

 攻撃力がないからまるで戦えない。

 そのことに失望し、くされていたらそこで終わる。

「こんなもの何の役に立つんだ」で片付ける奴から負け犬になる。

 レイダーとは――否、レイダーに限らず本来、世界とはそんなものなのかもしれない。

 オルビスソーだけではなく、地球でもそうだったのかもしれない。

「いやあ、今回はレイダー初心者の僕らにも仕事を下さって助かりました。おかげで色々と良い勉強になったと思っています。また機会があれば是非お手伝いさせて下さい。なんなら、〈ワイズサーガ〉の指名で」

 社交辞令的な口調ながら、それはほとんど本音そのものの吐露だった。

「そう言っていただけると、こちらとしても助かります」

「でも、人手と時間をかければできちゃう仕事ではあるんですよね。僕らがそれを今日、一日でさっと終わらせたことで何かメリットが出るんですか?」

「それはもちろん」

 男は黄ばんだ大きな歯を剥き出しにして笑った。

 こちらもけ値なし。間違いなく本音の笑みだ。

「作物の育ちは天候次第。どんな豪商でもここだけはどうにもなりません。つまり、収穫の時期はどこも一緒だということです。ですから、収穫物をどれだけ早く市場に流せるかは、純粋に作業スピードの勝負になります。

 今日、レイダーさんのお力をお借りできたことで、我々は他に先んじて乾燥に入り、製粉を済ませ、余所より何日も早く市場にポーン麦をおろせるでしょう。その年の初めに出てくる商品は、基本的にご祝儀価格で高く、また確実に取引されます」

 犂耕も、回数を重ねるだけ効果が上がることは実証されている。

 彼はそうも言った。

 カズマが今日済ませてくれた分、今年は犂耕の回数を一度増やせるだろう。

 それは収穫量の違いとなって確実な成果を生む。

「時に、事は相談なのですが」

 突然、声を潜めながら代表が顔を近づけてきた。

 彼は他人の耳を気にするようにわざとらしく周囲に視線を巡らせる。

 そして、小声で続けた。

「これは他言無用に願いたいのですが、製粉の方にもご協力いただけないかご一考いただけませんか?」

「せいふん?」

「はい。製粉です」

 なんでも、ポーン麦は粉末にしなければ売れないという。

 麦をいて粉に変える。

 小麦を、日本でいう小麦粉にする作業だ。

 オルビスソーにおいて、この製粉は指定された水車を使って行う決まりになっている。

 そういう法律なのだ、と代表はそう語った。

「ああ、水車ならネクロスでも見たなあ。川にかかってる橋の間に水車が設置してあって、そこに小舟出して買物に来てる人を見かけましたよ」

 では、あれが? 視線で問うと、彼は厳めしい顔で頷いた。

「そいつらも粉ひきですね。まあ、それはポーン麦ではなく、結晶で売られている香辛料などを扱っていたのだと思いますが」

「なるほど。じゃあ、製粉はその粉ひきがやってくれるんですよね?」

「問題はそこです。河川は国家の持ち物あり、水車は地方領主の物です。そして、粉ひきは彼ら支配層から特権を認められた者が運営しています。つまり、連中は農民ではありません。我々と一緒に畑で働くことはない。あのいやしい奴らは、我々が汗水たらして作ったポーン麦を、水車と製粉機にかけて粉にするだけで金を取っているんです」

「水車なんて、川の流れで自動的に動いてるだけですからねえ」

 カズマはなんとなく、農民と粉ひきとの関係に想像がつき始めていた。

「そうです。楽なもんですよ」

 日頃から蓄積された鬱憤は相当なものらしい。

 語るうちに興奮していく代表の顔は、既に湯だったように紅潮していた。

「なにより、粉ひきには――〈シノ・アマム〉のしゃべんにかけて――誰ひとりまともな奴などいやしません。公正なんて言葉、聞いたことすらないに違いない。我々から受取ったポーン麦を粉にして、アガリをちょろまかした上で、受取った分は全て粉にしてやったぞ、と素知らぬ顔で渡してきます」

「ピンハネかあ……」

 ただでさえ、手数料や利子で儲ける商売は嫌われる傾向にある。

 これはどの世界でも変わらない。

 それでも手数料と引替えに利便性を得ているなら、まだ客も我慢するだろう。

 だが農民は、貴族が指定する水車で製粉することを強制されているという。

 自分たちで水車を作る自由もないらしい。

「その上、粉になる時のどさくさに紛れて上前までハネてるとなると……そりゃ納得いかないのも分かるなあ」

「でしょう!」

 額に青筋を浮かべた顔が間近に迫ってくる。

 カズマは「ええ」と調子を合わせながら、微妙に身体を反らした。

「なので、我々は何代も前から、手回し式のうすを使って抵抗の意を示してきました」

 手回し式の臼と言われても、現代っ子のカズマには想像が付かない。

 だが、水車でやる仕事を人力でやるのはさぞかし骨だろう程度の考えは及ぶ。

 思ったままを、目の前の男にも投げかけてみた。

「確かに大変な労力が必要です。法律上、明確に禁じられた行為でもあります。実際、厳しいところでは頻繁に立入り検査で、臼の存在が調べられると言います」

 そこで封貝使いというわけだ。

 五〇〇キロ前後はあろう馬の死体をひょいと持ち上げるナージャしかり、彼らはりょりょくも化物的だ。

 大男が数人がかりで回すような装置があったとしても、片腕一本、鼻唄混じりで楽々と動かしてしまうだろう。

「あー、事情はなんとなく分かった気がします」

「おお、では!」

 再び鼻息荒く迫ってくる顔を、カズマは反射的に引いてかわした。

 引きつり気味の笑顔で、なんとか相手をなだめる。

「ただ、事が事だけに僕の一存でお返事はできません。持ち帰って派閥プラトォンとしての了解を取らないと……」

 大概のレイダーからも同様の返答を受けてきたのだろう。

 代表はすぐに落ち着きを取り戻し、理解の構えを見せた。

 そうしょうな、やはり。

 重々しい口調で首肯してみせる。

「しかし、封貝使いは遺伝とは関係なく、どこにでも一定確率で生まれてくるんでしょう? この村にも、これだけ人がいるなら何人かいるのでは?」

「お戯れを」

 男はどこか自嘲めいた笑みで言った。

「封貝使いとして生まれれば、農村に留まる理由などありません。もっと稼ぎの良い仕事が、都市部には引く手あまたで待っているのですから」

「ああ……」

 カズマは納得しつつも、言葉尻を濁した。

 その農村の住人を相手にして、馬鹿正直に「それもそうか」とは言えない。

「まあ、なんです」

 慌てて話題を変えた。

「うちのエリックも、封貝こそ使えませんがここの仕事が肌にあったようです。今日も予定を変更して、もう少し作業をしていきたいとまで言っているようですし……」

「ええ。さすが、若くして鍛えられているだけあって、あのレイダーさんにも助かっておりますよ。使う筋肉が違うそうで流石に万事がうまくとはいきませんが、慣れれば熟練の者と変わらぬ活躍をしてくださるでしょう」

「僕もナージャもお役に立てて嬉しいですし。白い粉のお話はまた別として、収穫やリコーでまたお手伝いできることがあれば是非とも参加させていただきたいです」

「おお、そう言っていただけるだけでもありがたいですよ」

 ずしりとした分厚い手が、カズマの右手を包み込むように握った。

 この仕事は正解だったな。

 カズマは改めて実感した。

 ケイスが狙った効果ももちろん大きい。

 だが、封貝を持たないエリックにとっても、土木系の仕事は救いになったらしかった。

 農業ですら封貝の有無が大きく物を言う。

 やはり自分は使えない。

 現前とした格差にまた悩みを深くしてしまう恐れもあったが、それ以上に異世界で仕事にありつけた喜びは大きかったようだった。

 言葉も分からず、封貝もない。

 そんな自分でも稼げる。

 宿屋にひとりとり残され、ただ無為に時間を浪費するだけではない。

 派閥の一員として役割を担える。

 その事実の発見は、彼が掴んだ一つの光明なのだ。

 できれば、もう少し働いていたいのだが――。

 珍しく、わがままを口にしだしたのも、その喜びをもう少し噛みしめていたいがためであろう。

「ケイスさん、ここまで計算してたのかもしれないなあ……」

 ちらと聞いただけだが、彼も元は封貝を持っていなかった時代があったという。

 正確には全くの無能力者ではなかったようだが――本人の言葉を借りれば「非力な封貝を一つ持つだけの半端者」ではあった。

 だからこそ、封貝の有無にまつわる劣等感というものにも理解が及ぶのだろう。

 彼なりにエリックのことを心配してくれていた、ということは充分に考えれる。

 僕だけじゃなくて、ケイスさんにも自信をつけさせるために?

 実際、土木系に向かうパーティメンバーを決めたのはケイスだ。

 そこにエリックを含めてきた。

 ならば、彼なりの必然性があったと考えるべきだろう。

 やはり、全て計算尽くか。

「――早朝稽古といい、今朝はあの人にやられっぱなしだな」

 カズマはにやりとしながらつぶやいた。

挿絵(By みてみん)

▼あとがき


 JA全農山形によると、手で稲刈りをしていたころは、一〇〇×一〇メートル(1(たん))の刈入れに、大人ひとりが丸一日かけていたそうです。

 ナージャが〈*乾坤圏〉で刈ったのは一〇〇×一・五メートル。

 人間が一日かけて行う仕事の一〇分の一くらい。これが約三〇秒。


 ちなみに、コンバインだと同じ面積は二分かかります。

 ただし、封貝に劣るわけでは決してありません。

 なぜならコンバインは、稲を刈るだけではなく同時に脱穀もして、ワラからもみを外すまでやっているからです。

 さらに、もみを内蔵のタンクに溜めたあと、いらなくなったワラを細かく刻んで、肥料としてそのまま田んぼにバラ撒くまでの作業をいっぺんに行うという化物だからです。


 農業に特化しているだけあって、どんな封貝でもかなわないグレートでチートなマシンなんですね。

 今度からコンバインを見たら、神を目撃したくらいの気持ちで謙虚に接しましょう。

 というか、あれは紛うことなく農業界の機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナに他なりません。


 あ、メリークリスマス。

 本作、ワイズサーガは今日で一周年を迎えます。

 ウェーイ!

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