陽だまり色の再会
031
胎児というのは、きっとこんな感じなのだろう。
楠上カズマは半分、夢見心地でぼんやりとそんなことを思っていた。
とろりと半分だけ目を開けば、そこに見えるのは柔らかなオレンジ色の揺らめきだった。
手のひらを太陽に透かして見る、あの瑞々しくも無垢な、陽だまり色。
それが、護るように自分を包んでくれていることに気付く。
そしてそこに満ちる、まるで羊水のようなエーテルの祝福。
羊水……
――みず?
と、そこで、楠上カズマはいきなり覚醒した。
居眠りを決め込んだ授業中、強面の教師に丸めた教科書でぽこんと頭をやられたような。
それはまさに飛び起きるという表現がぴったりの寝覚めだった。
ばっと上半身を引き起こす。
途端、テーブルクロス引きのように、オレンジ色の皮膜がびゅるんとどこかに引っ込んでいった。
ご覧下さい。テーブルに置かれたグラスは倒れておりません。
隣で、芸人が恭しく客に一礼でもしていそうな、それはほとんど瞬間芸であった。
直後、ばしゃんという水音と共に、カズマは背中から地に落下した。
痛みはない。
公園の滑り台から砂場に下り立ったような、優しささえ感じる着地だった。
「えっ……あれ……?」
状況が掴めない。
記憶が繋がらない。
混乱しながら、夜と思わしき薄暗い周囲を見回す。
「おっ、ダーガが起きたぞ!」
だしぬけに、喜色を隠そうともしない少女の元気な声が聞こえた。
次いで、跳ねるような足取りで気配が近付いてくる。
「ダーガ」
自分をそう呼ぶ人間は、地球とオルビスソーを合わせても一人しかいない。
そのことに気付いて、カズマははっと顔を上げた。
「元気になったか?」
ナージャ・クラウセンだった。
彼女は前屈み気味に顔を突き出し、にこやかに手を差し伸べてくる。
その白い手を呆然と眺め、カズマはつぶやいた。
「ナージャ……?」
「大丈夫、カズマくん」
遅れてエリックが、背後にオックスやオキシオら仲間たちを引き連れて歩み寄ってきた。
焚き火と篝火、加えて月光の照り返しが、夜間にあっても彼らの浮かべる心配そうな表情を精緻に描写していた。
――否、ひとりだけ、特に感情のない顔をした者が混じっている。
最後尾、どこか遠巻きにこちらを窺う、見慣れぬ妙齢の女性がそうだ。
「ああ、えーと……」
カズマは思い出したようにナージャの手を取った。
よいしょと声を上げて立ち上がる。
培養液に満たされたカプセルのような空間を漂っていた、あの光景は夢か?
まったく濡れていない服と肌を見て、カズマは内心、小首を傾げる。
「とりあえず、状況を教えてもらえますか。なんで僕はこんな――ことに?」
「もちろん話すよ」
エリックが微笑んだ。
「でも、その前に何か食べる?」
「ダーガ、水もあるぞ!」
ナージャが誇らしげに水筒を掲げてみせた。
喉も渇きも飢えも感じなかったが、とりあえず水は受取った。
それから仲間達に誘われて、焚き火の近くへ移動する。
自分が自分がと主張するため、ナージャが中心となって事の顛末を説明してくれることとなった。
とは言っても、事はそこまで複雑ではない。
ショウ・ヒジカに殺害される寸前、朱雀二番隊のケイス・ヴァイコーエンに助けられたカズマは、その指示に従ってナージャと地下水脈に進入。
ナージャの槍が噴く炎を頼りにしばらく木樋の暗がりを歩いたが、途中で力尽きたらしい。
ヒジカのユニーク封貝〈*カースブランド〉により神経系に多大な負荷を受けていたことが原因だったのだろう。
「――それで、私がダーガを担いで出口まで進んだのだ。そしたら、エリックや先住民たちと一緒に、こいつが待っていたんだ」
こいつ、という部分でナージャが当該人物に人差し指を突きつける。
その示す先にするのは、カズマが顔を知らない例の女性であった。
彼女が護士組の一員であることは、その装いを見れば一目瞭然であった。
上半身を覆う優美な乳白色の鎧には、フ=サァンを象徴するという正三角形を背景に、鯨のそれに似た尾鰭をあしらった紋章が刻まれている。
間違いなく、インカルシ護士組を示すものだ。
「で、そちらの女性は?」
おっかなびっくり問うと、当人が半ば睨めつけるようにして視線を返してきた。
「私は、マオ・ザックォージ。朱雀二番隊でヴァイコーエン卿の補佐をする者です」
二十代半ばといった容姿とは少しイメージを異にする、まだ幼さを残した少女の声音だった。
冷ややかな才媛を思わせる外貌が惑わせるが、意外にかなり若いのかもしれない。カズマは第一印象に小さな修正を加える。
「ええと、つまり朱雀二番隊の副リーダーさんということですか?」
「その認識で間違っていません」
義務でしかたなく答えている、という顔と声音だった。
ケイス・ヴァイコーエン卿は積極的に手を貸してくれたが、彼女はそういうわけではないのかもしれない。
また、カズマは心のメモに追補を加える。
「そこの方々には既にお話ししましたが――」
と、小さく嘆息してから彼女は続けた。
「私はヴァイコーエン隊長の頼みで、彼が到着するまでの間、貴方たちの身柄を保護する任を負ってここにいます。そこの〈赤繭〉を冤罪の被害者と見る彼の考えを信じればこそ。なので、それまでは私の指示に従って行動していただきます」
一方的な物言いに、カズマはつい「はい、すみません」と答えかける。
なんとなくヨウコを相手にしたときと似ていた。
しかし、いきなり指揮下に入れとは穏やかではない。
既に話を聞いていたという仲間たちはどういう印象を持っているのか。
半ば助けを求めるように彼らの顔を見回すと、一様に困惑と諦念の入り交じった苦笑を浮かべている。
ナージャは最初から関心がまったくないらしく、ひとり輪から外れランコォル種となにやら戯れていた。
「それで、ええと……ザックォージさん?」
呼びかけると、彼女は一瞬、ぴくりと柳眉を震わせた。
明らかにこちらの物言いが気に入らない様子だが、名を呼んだだけでそうなる理由が分からない。
様付けしろとでも言うのか――?
疑問が渦巻くが、とりあえず笑顔で誤魔化す。
「指示に従えとおっしゃいますけど、具体的にはどのような」
「とにもかくにも、ヴァイコーエン隊長の合流を待ちます。現在、インカルシは混乱の極致にあるため、大々的な捜索隊を組織できる状態にはありません。ですが、近くの町村だとチェックが入る危険があります。なので、隊長と打ち合わせていた候補地を転々としながら野営で凌ぎます」
「ああ、それで野宿の準備を……」
どうやらカズマは丸半日眠り続けていたようで、時間は奪還計画に入った早朝から、一気に夜まで飛んでいた。
作戦はナージャがこの場にいることからも分かるように、結果だけ見れば成功。
市内で支援してくれていた巫女のネネや、医療師のシュウも問題なく逃げ切れたらしい。
何食わぬ顔で、もう日常生活に戻っているという。
だが、インカルシ自体はそう簡単にはいかないようだった。
もちろん、本物の爆弾テロが起ったわけではないので、その意味での混乱はすぐに収まっている。
しかし、インカルシから北へ数キロの地点で起った謎の大爆発は事情が少し違った。
力を持った封貝使い同士の戦闘によるものであろう――と目されるこの明らかな人災は、インカルシ北部に広がる森林地帯の五分の一を荒野に変え、さらに大規模な森林火災を巻き起こした。
現在、各部署が総出で消火作業に当たっているが、いまだに鎮火の気配は見えていないという。
市内でまことしやかに囁かれている噂を鵜呑みにするなら、火災の中心部――爆心地と見られる場所からは巨大なクレーターが発見されたらしい。
調査に乗り出した護士組は目下、これを最終決戦封貝同士がぶつかり合って生じたものだと見て、更なる情報の収集に奔走している。
また、この騒動を境に、白虎隊からは四番隊隊長のショウ・ヒジカ、朱雀隊からは二番隊隊長のケイス・ヴァイコーエンの行方が分からなくなっていた。
被害はそれだけに留まらず、リーサル同士の激突によって発生した大爆発に呑まれ、死刑囚〈赤繭〉を護送していた玄武隊の処刑班数名が負傷。
逃走したのか、爆発に巻き込まれて消滅したのか。
〈赤繭〉自体もまだ発見されていない。
事後処理で中心的な役割を果たす護士組は、一連の騒動の最中、処刑部隊を襲ったという〈地底の嘆き〉についても情報を求めているらしい。
市内で発生した同時多発テロもどき、およびリーサルフォックスの激突による大爆発。
〈地底の嘆き〉は、この両件に関して深く関与が疑われているようである。
捜査当局が血眼になってその行方を追っているというのも無理からぬ話と言えた。
――〈地底の嘆き〉などという組織は存在しはしないのだが。
「それと、あなた方が人質に使っていたスコッチ・スウォージですが、彼はどうやらどさくさの中で死亡したようです」
最後にマオ・ザックォージが事務的口調で告げたその一言は、カズマに無視できない衝撃をもたらした。
表情を凍らせるカズマをよそに、彼女は淡々と説明を続けていく。
「隊長とのヒジカのリーサルフォックスに巻き込まれたのでしょう。身体の大部分は消し飛んだようですが、肉片の一部がかなり離れたところから発見され、それに嵌っていた指輪などの装飾品から本人が特定されたようです」
「これで……僕も本物の人殺しの仲間入りか……」
ナージャが離れた場所にいるのは幸いだった。
思わず零れたそのつぶやきは、恐らく届かなかっただろう。
自分を助けるためにカズマが手を汚した、などと彼女が解釈し始めたら負の連鎖に収拾がつかなくなる。
変に辛い顔はできない。
苦悩なら、誰もいない場所でひとりでやれば良い。
きっと、これからそんな時間はいくらでも取れるだろう。
影のようにつきまとい、その事実は自分の精神を蝕むだろう。
「……それで、ヴァイコーエンさんの方はどうなんですか?」
カズマは意図して話題を変えた。
「考えようによっては、そんな爆発の中心にいた彼が一番危険だったはずですけど」
問うと、マオ・ザックォージはつまらない冗談を聞いたように鼻を鳴らした。
「隊長があの程度で――ショウ・ヒジカごときに遅れをとるわけがないでしょう。無事に決まっています。心配せずとも、そのうちひょっこり現れますよ」
「当たりだ」
思わぬ声に、全員が度肝を抜かれながら声がした方へと顔を向けた。
オキシオなどは、条件反射で腰の剣に手まで伸ばしかけている。
その険呑な空気を弛緩させたのは、
「隊長!」
という、マオ・ザックォージの喜色を帯びた叫びだった。
その咲くような笑顔は、今までツンケンしていた女性とあまりにイメージが違いすぎた。
彼女が尻尾を持つ亜人であったなら、間違いなく千切れんばかりに振られているはずである。
もはや人格が入れ替わったとしか思えない。
お前は誰だと真剣に問い質したくなる変貌だった。
女性というのは、好む相手と無関心な相手の前とでは完全な別人になれる生物らしい。
「よう、待たせたな」
口調は軽かったが、足取りは対照的だった。
顔からはそれと分かるほど血の気が失せており、左手で右肩を抱えている。
既に乾いているようだが、血が滲んでいるように見えた。
足取りもどこかおぼつかない。
「隊長、お怪我を?」
跳ね上がったマオが、泣きそうな顔で駆け寄っていく。
「流石に百人長級が切り札をぶつけ合えばな――」
ケイス・ヴァイコーエンはマオに支えられながら、焚き火を囲う輪に加わる。
彼の忠実な副官は、上司が腰を落ち着けたあともその傍らを離れようとしなかった。
食料や酒を差し出し、甲斐甲斐しくその世話をやいている。
「それで、隊長。ショウ・ヒジカとはどうなったんですか……?」
「奴か」
マオの質問にゆっくり首を左右してから、ヴァイコーエンは口を開いた。
「分からん。気付いた時には消えていた。あの男のことだ。あれくらいで死んだとは思えないが……それでも、相当の深手を負ったのは間違いない」
「少なくとも隊長以上の、ですね?」
「ああ。リーサルフォックスでも打ち負けた感じはなかった。そもそも奴は最初の狙撃で、普通なら戦える状態じゃない傷を負っていたんだ」
「そう、隊長のあれを躱すだなんて……」
マオはまだ信じられない、というように顔をしかめる。
「知覚外からの狙撃だったのに。どう考えても、勘で避けたとか。しかもその後、隊長と互角に戦って、リーサルフォックスまで……あの男は人間じゃありません。獣ですよ」
「確かにな。だが、しばらくは戦線離脱だ」
そこまで言うと、ようやくカズマたちの存在に気付いたように、彼は一行に視線を向けた。
改めて、という調子で名乗る。ただ、ヴァイコーエンの姓は口にしなかった。
それが護士組の隊長という肩書きに添えられた家名であることは、カズマも話に聞いている。
つまり、隊を抜けるという彼の言葉は、嘘でも誇張でもなかったということだ。
「ただのケイスだ。そう呼んでくれ」
薄らとした微笑と共に告げるその声を、隣でマオ・ザックォージが寂しげな顔で聞いていた。
「この度は、我らの計画にご助勢いただき感謝の言葉も御座いませぬ」
オキシオが先住民族を代表するように頭を下げた。
「御陰をもちまして、大恩あるナージャ殿を咎無き処刑よりお救いすることができました。――改めまして、此の方オキシオと申します。オクスゥはチュゴ族に連なる者に御座る」
オルビスソー、あるいはフ=サァンの流儀なのだろう。
オキシオは酒を注いだ杯を片手に、その腕を反対の手の人差し指、中指でトントンと二度、叩いた。
ちょうど注射の際、ナースが静脈の確認のためそうする仕草に似ていた。
それから再び黙礼し、杯を相手方へ差し出す。
ケイスは黙してこれを受取った。くいと二度杯を傾け、中身を飲み干す。
「――かたじけない」
言うと、空になった杯を返す。
その際、オキシオのそれをちょうど鏡映しにした動作を見せていた。
「して、ヴァイコーエン卿」
「ケイスだ」
オキシオの言葉を遮り、彼はすぐに訂正した。
「本当にそれで良い」
「では……あー、ケイス殿」
どこか言いにくそうにオキシオは言い直す。
「お力添えには感謝致しますが、しかし何故、貴殿のようなお立場の方が……このようなことを?」
「このようなこと、と言うと同じ護士組の隊長と同士討ちを演じた上、北の森を吹っ飛ばし地形を変えた挙句、インカルシ市内にまで少なからぬ混乱をもたらした――一種の背信行為のことかな?」
皮肉めいた口調で言ったケイスは、だが一転、すぐに真顔に戻った。
「信じて貰えるかは分からないが、以前から考えていたことでね。いや、もちろん、これは護士組を抜ける意志のことだが。森が吹っ飛んだ件や、その余波が市街地にまで及んだことは、俺としても遺憾に思っている。が、あれはヒジカの暴走が生んだものであって、俺はむしろ被害を抑えるために自分のリーサルフォックスをぶつけたに過ぎない」
言葉通り、彼の語り口に自己弁護の色合はない。
ゆっくりとした口調で言きり、一旦、口をつぐんでゆっくりとした間を置く。
カズマは焦れるものさえを感じながら、話の先を待った。
一体、このケイス・ヴァイコーエンという男は何者なのか。
助けてはくれたが、本当に信頼が置けるのか。
何を考え、何を望んでいるのか。
自分たちをどうする気なのか……。
カズマのみならず、仲間の誰もが同じ心境であるらしい。
それは最も彼に近しいはずのマオ・ザックォージも同じであった。
否、彼女こそがもっとも熱を帯びた顔で耳をそばだてている。
この少女もまた、昨日まで尊敬する同僚、仲間、上司であった男の真意を探り、知りたがっているのであろう。
「俺が戦いの場を求めているというのはショウ・ヒジカも言っていたことだが――」
ややあって、ケイスがまた話始めた。
「あれは確かに間違いじゃない。俺は本来、戦場から離れることを許されるような立場じゃないんだ」
「離れる、ということは昔、戦争に行ったことがあるんですね?」
カズマが確認すると、彼は無言で一つ頷いた。
「昔、もっと若かった頃――護士組に入る前の話だ。お前の言う通り、俺にはしばらく兵士をしていた時期があった。短かったのか、長かったのか……」
当時を思い起こしているのだろう。
語尾を引っぱりつつ、焚き火をどこか焦点の合わない目で見詰めながら、ケイスは言葉をついだ。
「その戦場暮しの中で、俺は少し特殊な経験をした。あまり愉快な話とは言いがたいから詳細は避けるが――ただそれは、なんと言うか、許されざることだったらしい。故郷で俺の帰りを待っていた人々たちにとってさえ……受け入れられないような。一つの禁忌だった」
「隊――」
口を開きかけた副官を手振りで制し、ケイスはどこか悲しげに、それでいて他人事を語るように続けた。
乾いた、淡々とした口ぶりであった。
「感覚がすっかり麻痺してたんだろうな。俺は――その周囲の反応を見て、ようやく自分がそういう存在になってしまったんだと気付いた。帰ってきたからって、もう彼らとは生きられない。彼らにとって、俺はもう俺じゃない。生きて戦場から戻って良い人間は、条件が限られる……」
その言葉を最後にケイスが口を閉ざすと、重たい沈黙が場におりた。
「だから、貴方は常に戦場に身を置いておかねばならず、護士組に席を置いたままでは温すぎると。それで、地位まで捨てて?」
到底信じられない、という表情でサイトが静けさを破った。
それは一種、苦痛を伴う呻きにも聞こえた。
彼らオクスゥは、その日生き延びるのにも必死――という決して裕福ではない人々だ。
大怪我を負えば、財産を削って治療費を捻出しなければならない。
そんな人々からすると、自分から貴族の特権、裕福な生活環境を捨てようというケイスのごとき人間は理解しがたいものなのだろう。
カズマが身近な例で想像したのは、家に経済的余裕がないせいで高校進学を諦め、働きに出ようという中学三年生だった。
友だちにはいなかったが、当時、隣のクラスの名前だけ知っている子が、そのような進路を歩んだと聞いた記憶がある。
ケイス・ヴァイコーエンとは、その子から見た、学費全額免除の推薦入学を断る同級生のような存在なのであろう。
自分が泣きながら諦めた夢のチケットを、なんの惜しげもなく丸めて屑籠へ放る他人。
「頭のおかしな奴だと思うか――?」
ケイスが見透かしたように言った。
が、声にも表情にも、別段、気を悪くした様子は見えない。
それどころか、どこか自嘲めいた苦み混じりの笑みすら浮かべている。
「実際、兵士として人生狂わされた奴は、どこかしらそういうところがあるんだろうな。俺もそれは否定できない。できもしない。
ただ――俺の立場は、もうはっきりしてるだろう? インカルシでは行方不明扱い。森を消し飛ばし、街に混乱をもたらし、おまけにこうして死刑囚の逃走にも手を貸している。今度もまた、戻る場所はなくなったってわけだ」
「それは……」
確かに、その通りだった。
否、それ以前、彼の木訥な人柄とその語り口に、カズマは最初から疑い抱けずにいた。
今、本人が指摘した通りなのだ。カズマたちを陥れるために地位も名誉も、いわば人生を投げ打つ人間など、普通は考えられない。むしろ何らかの悪意を持ち、カズマたちを害したいと考えているのなら、護士組に留まりその立場を利用した方が遙かに効率的だろう。
そのこともあり、具体的な説明を避けてこそいるが、彼の話に嘘があるとはどうしても思えないのだった。
「行き場をなくした戦場の亡霊は、どこぞで野垂れ死ぬのが誰のためでもある。だから、俺はそういう場所を探してるってだけなんだ。護士組なら殉職のリスクと隣り合わせながら、せめて社会のために仕事をして消えられると思っていたんだが……実際は、犯罪者にすら恐れられるばかりで撃ち合いなぞそうそう起らない。何の因果か、部屋で書類の束を整理をする毎日だった」
だから、と彼は皮肉めいた笑みと共に肩をすくめてみせた。
「俺としては逆に聞きたいくらいだ。お前さんたちと行動を共にしていれば、俺は自分に相応しい境遇に身をおけるか?」
カズマは思わず仲間たちと顔を見合わせた。予想だにしていなかった問いである。
だが、答えることはさほど難しくなかった。
自分たちがこれから成そうとしていることを思えば、簡単な話である。
「正直、僕は今、自分が五体満足で生きていること自体、奇跡だと思っています」
カズマは言葉を慎重に選びながら言った。続ける。
「それくらい、今回の作戦は際どかった。実際、貴方が――ケイスさんが助けに入ってくれなかったら、間違いなくショウ・ヒジカに殺されていたでしょう。ですよね?」
「だろうな」
ケイスが認めた。
「今日だけじゃありません。ちょっと前には野盗に襲われて全滅しかけたし、それからすぐ、薬を飲まされて人攫いに捕まってしまいました。運良く難を逃れることはできましたけど、今頃、奴隷商に売り飛ばされていたとしてもおかしくありません。これからもきっと、そんなことが続くんだと思います。僕は、明日生きてるかどうかすら自信が持てませんよ」
それから、カズマは自分たちの身の上を詳しく話して聞かせた。
なぜ、そんな気になったのか。
自分でも不思議だった。
相手は出会って間もない、間違いなく真っ赤な他人だ。
助けて貰った恩はあるが、それ以上のものはない。
人攫いのエォラも最初は天女のように親切だった。
彼らがそうでない保証はあるだろうか――?
それでも、自分の秘密を離すことにカズマは不思議と抵抗感を覚えなかった。
それはなくとなく、身の上話をするときにケイスが見せた、どこか寂しげな表情と無関係ではないような気がした。
自分がヨウコを失ったように、彼もまた命にも等しい何かを喪失したのではないか。
理屈抜きに、そう感じられたのだ。
カズマはエリックとナージャにも許可を得て、自らが〈果て〉の向こうから来た異界の者であることを話して聞かせた。
加えて、旅の仲間にさえ初めて聞かせる内容も、ついでとばかりに打明けることにした。
「それと……これはショウ・ヒジカと戦ってるとき、彼が使っている封貝の化物を見て思い出したことなんですが……僕たちが探している女の子――ヨウコがどうしていなくなったか、多分ですけど、記憶が戻ったような気がするんです」
これに最も顕著な反応を見せたのは、ケイスではなくエリックだった。
「えっ――!?」
顎を大きく落し、半ば腰を浮かせて碧眼を大きく目を見開いている。
「カズマくん、思い出したの?」
大きく身を乗り出しながら問い詰めてくる。
「はい」
彼が形相を変えることは想定していたため、カズマは落ち着いていた。
「とは言ってもごく一部、ヨウコをさらっていった相手の特徴だけなんですけどね」
カズマの対応で、エリックも幾分、冷静さを取り戻したらしい。
浮かしていた腰を戻し、幾分トーンを落して続ける。
「それでも凄いじゃないか。でも、どうして急に?」
「きっかけは、さっきもちょっと言ったけどショウ・ヒジカとの戦闘です。しかも、そのときは既視感めいたものだったんですけど……」
それが整理されて記憶として復元されたのは、今しがたの睡眠中であった。
カズマの疲労を心配したナージャによって、マフラー封貝の繭に入れられていたのが良かったのかもしれない。
あの羊水に似た液体には高い治癒効果があると聞いている。
もしかすると、それは記憶の復元など、脳神経系にも一定の効能を発揮するのかもしれなかった。
――とにかく、とカズマは話を先に進める。
「僕はヨウコが連れ去られた夜、ショウ・ヒジカの封貝と似た、巨大な獣のバケモノに会っています。〈果ての壁〉を越えるときに記憶を奪われて忘れてたけど……あれは確かに、良く似たものでした。今思えば、幻獣型移動封貝だったんでしょうね。
ただ、ショウ・ヒジカのは馬に似た封貝だったけど、ヨウコを連れ去った男が乗っていたのは、人間を串刺しに出来るほど大きな角を持った、見たこともないほどでっかい、鹿っぽい感じのバケモノだったと思います」
そして、その蹄に踏み潰されぐちゃぐちゃの肉塊と化した右腕に、とどめを刺すがごとく振るわれた――あの武器。
背骨のような節を無数に持ち、普段は剣のように形を留めながら、必要とあらば何倍にも丈を増し、鞭のように撓ってどこまでも追いかけてくる封貝についても話す。
説明を続ける内に、カズマはケイスとマオ・ザックォージの顔からみるみる血の気が引いていくのにカズマは気付いた。
どうしたのかと問うと、ケイスが代表して返答の口を開く。
「異世界への扉を開けるというだけで、封貝使いの中でも別格の存在だが――その上でかつ、巨大な角を持つ鹿に見まごう乗騎と、人間の背骨に似た節を持つ白兵戦用封貝を持つ男と言えば……俺はひとりしか思い当たらない」
「心当たりがあるんですか」
「誰なんです?」
〈*ワイズオレイター〉を通して通訳を受けていたエリックと、カズマは口々に問い詰める。
「――シガー・イングリス」
ケイスと、その副官が声を揃えた。
それきり怯えたように顔をうつむかせたマオにかわり、ケイスが続ける。
「オルビスソー本土の北に〈ユゥオ〉という超大国がある。イングリスはその国の重鎮だ。〈*ワイズサーガ〉のカズマ。お前が見たその巨獣は幻獣〈四不像〉に間違いないだろう。
そして奴が持っていたという背骨に似た剣のような封貝は、最強の白兵戦用封貝と言われるケイン系の一つ、〈*ディシーダ・ケイン〉だと思う」
「おっ、なんだなんだ。私たちの敵の正体が分かったのか?」
ショウ・ヒジカにも劣らぬ野生の勘で何かを察したのか。
ランコォル種と遊んでいたナージャが場違いな笑顔をひっさげて駆け寄ってくる。
「シガー・イングリスなら私も名前は聞いたことあるぞ!」
奴をぶっ飛ばせば良いのか?
脳天気な彼女の言葉に、ケイスが強ばらせた表情の中に不敵な笑みを作り出す。
「……お前ら、ユゥオに喧嘩を売ろうとしていたのか。あのシガー・イングリスに」
見れば、その名を知るらしき先住民族たちも沈痛な面持ちで黙り込んでいる。
ナージャを例外とすれば、事情を把握できていないのはカズマとエリックだけらしい。
「あのう、なんか皆さん、いきなりお通夜みたいなムードになっちゃってますけど……」
通夜という風習や概念があるか、言ってから気付いたが――
仕方がない。
幸いにもそこは心配がなかったらしく、カズマの言葉はとりあえず通じたようだった。
「そうだな……お前さんたちが本当に、あの〈雷帝〉ヒウンや〈処女王〉ジャンヌのようにオルビスソーの外側から来たというなら、そういう世事に疎いのも当然か」
ケイスは苦笑交じりに言うと、詳細を聞かせてくれた。
それによると、ユゥオとは、オルビスソー最大の面積を誇るばかりでなく、歴史や軍事力においても世界をリードするこの世界のヘゲモニィ的存在であるという。
「ユゥオは豪族連合と言うのかな。各地に土着の有力者が散らばっていて、連中が治めるエリアが地域を決定している国なんだ」
――豪族。
歴史の教科書でも度々見かけた言葉だ。
「豪族の支配で農民が苦しんだ」などという記述が漠然と思い起こされる。
「豪」という言葉の響きからも、荒々しい乱暴者の権力者――というイメージが、カズマの中にはあった。
ただ、それが正解であるかは怪しい上、こちらの豪族が日本史のそれと性質を同じくするとも限らない。
そんなことを考えていると、オックスがはじめてその口を開いた。
「まず地域があって、そこを誰が支配するかを決めるのではなく、ですか? まるで僕たちオクスゥみたいだ」
遠国のこととあって、その内情までは良く知らないらしい。
目をぱちくりさせる少年らしい仕草だった。
「ユゥオはフ=サァンが幾つも並んで収まるほど広く、真っ平らな所が多いからな」
ふと、ケイスが弟に向けるような優しげな笑みを微かに浮かべた。
「そこに土地を分ける明確な線など、最初からあろうはずもない。全ては人間が決めるのさ。起伏に富むフ=サァンでは山や河が境界を決めることが多いせいで、自然との融和や共生を第一とする思想が強い。
対して、ユゥオは厳しい自然とどう戦っていくかで歴史を紡いできた。やつらは自然と聞けば克服や支配といった考えをまず持つ」
ともあれ、ユゥオはこの豪族を社会の構成単位とした社会であるらしい。
また、ユゥオでいう豪族の特徴としては、ルーツを同じくする氏族としての側面も挙げられるという。
共通の先祖から枝分かれした遠い血縁関係と思えば良いのだろう。
なのでユゥオは氏族制度の国とも言える。
ケイスはそのように補足を続けた。
「豪族は、地域を支配する小さな王のようなものだ。そして、その小さな王たちが定期的に集まる会議上で国家の方針を決めている。だからユゥオは、歴史の大部分において国王や皇帝に相当する絶対的な君主が存在しないところでもあったんだが……」
「だが――?」
エリックが続きを促す。
「先の独立戦争のとき、この豪族をまとめて立ち上がったのが――イングリスたちの一党なんだ。埋蔵資源量、国土面積、人口、気風……もともと潜在力を見れば、あの国は文句なしにオルビスソー最強の国力を持っていたんだ。
今まで奴らがユゥオの枠中に収まっていたのは、豪族の独立性が高く、それぞれが好き勝手やっていたせいで連携なんて概念を持たなかったからに過ぎない」
そこにきて〈統一王〉ケヴレスである。
かの覇王がユゥオまで呑み込み、オルビスソーを一度、支配してしまった。
これは結果として、独立のためにユゥオの豪族たちを結束させてしまう結果となった。
ケヴレスという共通の敵を得て、ユゥオの豪族は一つになってしまったのだ。
その象徴として出てきたのが、かのシガー・イングリスなのだ、とケイスは語った。
「今のユゥオは、ケヴレス朝を打倒して独立を勝ち取った勢いそのままに、イングリス主導でオルビスソーへ逆統一を仕掛けようという雰囲気らしい」
「なんと!」
これは最年長のオキシオ把握していなかったことらしい。
口髭を震わせて驚愕を露わにする。
「ユゥオがオルビスソーの全土支配に乗り出したと?」
「まあ、海を挟んだ遠い辺境の島国だ。フ=サァンがあまり危機感を持てないのは仕方がない。だが、陸続きの隣国であるイドリースやシャイレーンは戦々恐々だ。もう、ユゥオは周辺国家侵略のための準備に入っているという噂だからな。事実なら、そう遠くないうちにまた戦争が始まるだろう」
戦争……。
日本人としてもまた、どこか実感の遠いその言葉にカズマは黙り込んだ。
ここしばらく安定していたというフ=サァン人であるオクスゥたちもそうなのだろう。
また、場に重たい沈黙が流れた。
「シガー・イングリスというのは、そういう国のトップにいる男だ」
焚き火の弾ける音すら響いて聞こえる静寂のなか、ケイスが言った。
「お前たちがヨウコという娘を巡ってイングリスを追うというのなら、それはユゥオという国家に喧嘩を売るということになる。場合によっては、これから広がる戦火の中に突っ込んでいくこともにな」
「しかし……隊長。なぜイングリスほどの者が、危険をおかしてまで異世界まで出向いたのでしょう?」
ほとんど口を開かなかったマオ・ザックォージが、まだ少女の響きを残す声音でつぶやいた。
カズマたちは視界にすら入っていないようで、彼女は常にケイスに寄り添い、ただ彼だけに熱っぽい視線を注いでいる。
気付いていないのか、興味がないのか。
ケイスは特に表情や態度を変えることなくそれに応じた。
「確かに、奴ほどの大物が娘ひとりを徴用するのに直接動くというのは不自然だ。王位継承問題の鍵を握るだとか、そういうレヴェルの超重要人物の保護あたりならいざしらず」
「いやあ、ヨウコの出自ははっきりしてますし。実は亡国のお姫様だったみたいな裏設定は間違いなく存在しないと思いますけど……」
とカズマ。これにはエリックも同調の動きを見せた。
やや口を開くのが遅れたのは、封貝によるカズマの通訳を介しているせいだ。
「それに、連れ去られたのはヨウコさんだけじゃない。僕らの世界では、謎の神隠しで年間数十万人規模の失踪が起っています。全員がシガー・イングリスという男に直接連れ去られたのではないにしても、オルビスソーがらみの行方不明者は大勢いるでしょう。人数的に見て、継承がどうとかではないような気がしますね」
一瞬、思案する素振りを見せたケイスは、しかしすぐにその構えを解いて言った。
「その辺は分からんな。恐らく、ここで考えても結論は出ないだろう」
「――ですね」
カズマも同意する。
「だが、ひとつ確かなこともあるぞ」
「なんですか」
訊ねると、ケイスはくいと口角を持ち上げた。
聞かずとも知れているだろう。
無言でそう語るかのような笑みだった。
「イングリス――延いてはユゥオに噛みつこうというなら、命が幾つあっても足りはしない。そういう話になる。俺はそれが気に入った、ということだ。そう、少なくとも護士組を抜けるだけの価値はある」
途端、「隊長ッ」とザックォージが悲鳴にも似た叫びをあげた。
「まさか本当に……? 本当に行ってしまわれる気なんですか!」
「ああ」
ケイスは泰然として頷いた。
「俺はこのまま出奔する。だが、ザックォージ。お前は戻れ。俺のことはどのようにでも、お前に迷惑がかからないように報告して良い。ただ、討伐隊が組織されるようなことがあっても、できればそこには加わらないでくれ。かつての部下と戦うのは流石に――」
「嫌です!」
みなまで言わせず、彼女はきっぱり言った。
が、次の瞬間、その顔がいきなりくしゃくしゃになる。
「なんで、ついてこいと言ってはくださらないんですか」
涙混じりの声は、哀願するようにもなじるようにも聞こえる。
恐らく、どちらでもあるのだろう。
「その一言さえいただければ私は……」
「無茶を言うな」
聞き分けのない妹を諭す口調だった。
「お前、家はどうする? 俺と違って、お前は仮にも名門ザックォージ家の娘だぞ。しかもまだ幼い。護士組での将来もある。そんな子に、俺のような根無し草がそんな科白を吐けると思うか? 第一、これは俺個人の問題だ。なぜ、お前を連れて行く必要がある」
「嫌です! 連れて行って下さらなくても、勝手に行きます」
「……ザックォージ」
「マオと呼んで下さい!」
「……そう呼んだら帰るか?」
ケイスは途方に暮れたように問うが、マオはいやいやをするように激しくかぶりを振るだけだった。
もはや問答をする気はないのだろう。
口を真一文字に結び、涙をぼろぼろ零している。
完全な駄々っ子の様相だった。
これが、インカルシ最強の封貝部隊メンバーとはとても思えない。
「マオ・ザックォージ。当人がどういう気であれ、お前がいなくなればザックォージ家が黙っていない。お前を預かっていた形の護士組としても監督責任を問われる。
俺ひとりが消えた場合とは問題のレヴェルが違う。目の色を変えて行方を追ってくるだろう。俺がそそのかして連れ去ったと誤解して、極めて危険な展開になることもあり得る。俺のためにも、ここは聞き分けてくれないか?」
マオ・ザックォージはまた無言でぶんぶんと首を左右した。
梃子でも動かぬ。
そう宣言するかのように、元上官を睨み据えて自分の意志を示していた。
ケイスが深々と嘆息する。
「それで……ええと、結局、僕らの一行にお二人様ご案内、ということで良いんでしょうか?」
カズマはふたりの封貝使いを交互に見やりながら、遠慮がちに問いかけた。
実際、百人長クラスの封貝使いが二名、ヨウコ奪還の戦力になってくれるのなら、これほどありがたい話はない。
シガー・イングリス。ユゥオ。
これらが今後、ヨウコを探す中でどう関わってくるのかは分からない。
だが、広い世界のどこにいるかも定かではない彼女を見つけ出すには、人手や力は幾らあっても困らないだろう。
つまり、彼らのような、だ。
そして既に、ナージャの奪還は成っている。
である以上、オックスたち先住民族とは近々お別れということになるはずだった。
そも、彼らはヨウコの捜索に協力してくれているわけではないのだ。
結果、パーティはナージャとエリック、そして封貝使いとしては半人前のカズマという初期の三人構成に逆戻りすることとなる。
弱体化どころではない。
活動資金と、世界中に捜索隊を派遣する組織力の入手。
これらは、最優先課題なのだった。
「見苦しいところをお見せしたが、そちらに問題がないなら、俺としては是非ともお前たちの馬車に乗っけてもらいたいと思――」
ケイスの言葉は、しかしまたしても途中で遮られた。
「私も乗ります!」
しゅっと鋭く挙手の構えを取り、ザックォージが宣言する。
「あー……」
ケイスが困惑に表情を強ばらせながら、強引に話を進めた。
「この娘ことはそのうち結論を出すとして、まあ、とりあえず俺の方は今後ともよろしく頼む」
この場合「馬車に乗る」というのは「道を同じくする」、「仲間に加わる」といった意味という認識で良いように思われた。
地球にも、西洋寄りの慣用表現として「バスに乗り遅れる」というものがあったはずだ。
あの「バス」には、ブームや時流といった意味合いがある。
ニュアンスは似ているのだろう。
「そういうことなら、カズマくん。今後の方針については、彼らに助言をもらって調整した方が良いんじゃないかな?」
エリックが脇腹を突くようにして顔を寄せてくる。
それでなくとも、カズマは最初からそのつもりであった。
「とりあえずは逃げおおせたけど、ナージャの嫌疑を晴らしたわけじゃないし、僕らは僕らでテロリストもどきになっちゃったし、なんだかんだいって追われる身ですもんね」
カズマは腕組みしてつぶやくと、加入が決まった新メンバーたちに話を向けた。
「やっぱり、護士組は特別捜査本部みたいなのを設置して、物凄い数の人員を投じて草の根かき分けてでも……って感じで追ってきますかね?」
「いや、それはどうかな」
意外にも、ケイスは小首を捻るようにしてこれに懐疑的な見方を示した。
「あれ、こっちではそういう対応はしないものなんですか?」
「政治犯や大規模な組織犯罪グループ相手なら、その手の大がかりな動員はある。だが、オルビスソーでは個人の犯罪歴は都市ごとに管理するのが普通だ。このフ=サァンでも同じ事が言える」
「ええと……?」
カズマがよく分からない、という顔をすると、ケイスはすぐに説明の口を開いてくれた。
「たとえばインカルシで人を殺しても、隣のネクロスでその罪を問われることはあまりない、ということだ。もちろん、手配書が回って、賞金稼ぎの連中から付け狙われたりすることはあるだろうが。
しかしよほどの事がない限り、別都市の公的組織が動くことは稀だ。実際、俺たち護士組も、ネクロスで発生した殺しの犯人を、インカルシで探して捕まえるというようなことはほとんどしたことがない」
「えっ? 国内リーグで受けた警告カードはそのリーグの中だけで有効で、別の大会ではカウントされないみたいな?」
エリックが目を白黒させながら驚愕を露わにする。
彼はサッカーのようなスポーツを思い浮かべたようだが、カズマはより直接的な事例でイメージを巡らせていた。
つまり、東京で犯罪者になっても、大阪に行けば捕まることはない、というようにである。
「そんなことが……あり得るんですか?」
カズマは思わずエリックと顔を見合わせる。
日本ではちょっと考えられない話だった。
「先生達の世界では違うのですか?」
オックスが不思議そうな表情で問いかけてくる。
「違ったよね」
カズマに同意を求める形で、エリックが答えた。
「犯罪者の情報は、どんな小さなものでも国中で共有されてたよ。罪を犯して遠い街に逃げたとしても、その罪は消えない。逃げた先の街で逮捕されるのが当然のことだった」
「そう、そう」
カズマは何度が頷いてみせたあと、ふと思い出して顔を上げた。
「でも東京の警視庁と神奈川県警とは仲悪くて連携がチグハグだから、県境越えると少し安心できる――みたいな話はありましたよね?」
「僕はその辺、全然詳しくないけど……それはシステムの運用上の問題であって、システム自体の問題ではないんじゃないかな」
「まあ、確かに。東京の犯罪者は神奈川に逃げれば絶対安全かっていうと、そんなことはあり得ませんしね。捕まるときは普通に捕まっちゃう」
「フ=サァンではそういことは珍しいわけだ。だから、当面の方針としてはインカルシを避けて、北の大都市〈ネクロス〉を目指すことを俺としては勧めたい」
ケイスが軽く肩をすくめるようにしながら言った。
「ネクロスはフ=サァンの首都であり、第一都市だ。人捜しがしたいなら、そこでレイダース連盟にでも登録するのが良いだろう。情報を集めながら、うまくすれば活動資金も稼げる。人材の確保面においても有利だ」
「おお……」
カズマとエリックは揃って簡単の声をあげる。
ナージャはまた退屈な話になったと判断したのか、いつの間にかいなくなっていた。
探すと、またランコォル種の所へ戻っている。
牛を相手にするように赤いマフラーをひらひらさせて挑発を繰り返しているが、理知的なランコォル種はアホの子を見るように優しくそれを眺めるばかりだった。
知性および精神年齢は明らかに彼らが上らしい。
カズマは場に視線と意識を戻す。
「ネクロスは国内最大の港町だから、色んな奴らが集まる」
ケイスが言った。
「フ=サァンは人間以外をあまり見かけない国だが、それでもネクロスには亜人種だって多い。珍しい容姿でもそれほど目立たないし、詮索もされにくいわけだ。追われる身である俺にしても潜伏先としてはベストだろう。ユゥオへ渡るにしたって、ネクロスから出ている定期船を使うのが一般的だしな」
「それで、首都まではどれくらいかかるんですか?」
「どうだろうな。徒歩なら一般人で二日。馬なら一日。ランコォル種なら数刻ってところか。封貝使いなら移動型であっという間だが……我々は混成だからな。まあ、この辺は街道も大きくて物流も活発だから安全だし、どうあれさほど苦労しないことは確かだ」
カズマは言われた数字を元に、ざっと暗算した。
いつだったか、エリックが分析したこちらの馬の走力は、時速一五キロから二〇キロの間であったはずだ。
一日の実走時間を六時間と仮定すると、一日あたりのの移動距離は約一〇〇キロ。
ただし、道というのは曲がりくねり、時に山や谷を挟む。
一日で一〇〇キロ進んだとして、直線距離的にはその七割か、下手をすれば五割を割り込むこともあり得るはずだった。
カズマは概算として、ネクロスまでは直線距離で五〇キロから七〇キロ程度と考えることにした。
「エリックさん。東京の中心から、五〇キロってどの辺ですかね?」
「なるほど」
聡い彼は一瞬で質問の意図を察したようだった。
「ネクロスまでの距離が、日本の感覚でいうとどれくらいかってことだね?」
彼はにこりとすると、すぐに言葉をついだ。
「五〇キロなら、そうだな。相模原、厚木……南側だと鎌倉か横須賀くらいじゃない?」
「なるほど。じゃ、近いと言えば近いか。でも歩けと言われたら凄く遠く感じますね」
「もちろん、途中に幾つか街はあるぞ。徒歩の場合は一泊するから、一日に歩くのは全体の半分だ」
ケイスが、カズマの懸念を読み取ったかのように言った。
「あ、そうか。ですよね。だけど、向こう着くまでに追跡隊みたいなのからは逃げきれますか?」
「現状、封貝使いを複数含む俺たちにとって脅威となる追っ手がいるとしたら、それは護士組の精鋭で組織された追跡班か、金で雇われた腕利きのレイダーだろう。
前者――護士組の方は、俺やヒジカ、ザックォージが抜けた上、処刑部隊がリーサル・フォックスの巻き添えを食ってダメージを受けている。森林火災の対応にも人員を割かれていると聞くし、穴埋めのための組織の再編も必要なはずだ。すぐに猛追跡――というのは少し厳しい。もちろん、メンツの問題だから追っ手は必ずかかる。しかし、最優先でというわけではない」
「ああ、なるほど」
エリックが感心したように首肯を繰り返す。
内部事情に詳しい人間の分析だけあって、カズマも大変な説得力を感じていた。
「レイダーに関しては、〈赤繭〉に賞金をかける程度が精々だと思う」ケイスが続けた。「依頼者は護士組だろうが、逃がした経緯が多分に身内の恥を含むだけに、流す情報は限定的になるらざるを得ない。
お前たちが使った架空の犯罪集団〈地底の嘆き〉だったか? あれも良い攪乱になるだろう。そっちの情報にも賞金をかける可能性はあるからな。その分、人手は分散されるはずだ」
「賞金かあ……」
カズマは思わず小さく唸った。
「アメリカのバウンティハンター制度みたいなのが、レイダース連盟の内部にもあるわけだ」
カズマも翻訳物の小説で知ったのだが、今は〈果て〉に侵蝕されてほとんど壊滅してしまったかのアメリカ合衆国には、かつて賞金稼ぎが実在したらしい。
多くは警察やその他、司法関連の実務経験を一定以上詰み、公的機関からの認可を受けた者だけが就ける専門職であったと聞く。
その主な賞金首は、もちろん犯罪者だ。
あちらでは、巨額の補償金を支払えば逮捕者が一時解放されるシステムが一般的だった。
その分、保釈中の犯罪者がそのまま逃げてしまうケースも多かった。
これが賞金首になったのである。
ただし、逃げた者に踏み倒した保釈金を払わせるのが目的の、一種の借金取りなので、生死を問わずとはいかない。
必ず生きて捕まえる必要があった。
多方、オルビスソーではそんな事情はないだろう。
殺して首を持ち帰ってもらった方が、当局としてもよほど手間が省ける。
同じアメリカでも、西部開拓時代の賞金首制度に近いと考えられた。
「――〈赤繭〉については、封貝使いの処刑部隊から逃れたことを考え、難易度は青から百人長と、かなり高めに設定されるだろう」
ケイスが言った。
「レイダーは大勢いるが、実力的に話に乗れる奴らはかなり限られる。そして奴らは、〈赤繭〉に俺がついたことを知らない。連中にとっては想定していた難易度がいきなり倍以上になるようなもんだ。対応できるパーティや隊団はそうそうないと考えて良い」
「あとは、ザックォージ家ですか――」
なにか不吉な言葉でも口にするように、顔をしかめながらマオが指摘した。
「お前や俺については、まだ連絡がつかないという状態に過ぎない」
ケイスが落ち着いた口ぶりで言った。
「本格的に行方をくらましたと判断されるまでは時間がかかるだろうし、護士組サイドはぎりぎりまでザックォージ家に情報を伏せようとするだろう」
「私もそう思います。いずれは動くかも知れませんが、所詮は放蕩の次女です。そう大がかりなことはしてこないかもしれません。ほんと、放っておいて欲しいものです」
「まあ、そういうわけだ」
ケイスが結論するように告げた。
「しばらくすれば本格的な捜査が始まって、凶悪な連中に追い回される可能性も出てくるが、ネクロスに辿り着くくらいまでなら何とかなるだろう」
その道の専門家がそう判断した以上、異論が出ようはずもない。
話が一段落したところで、明日に備えて就寝ということになった。
とは言っても物資は乏しい。
男たちはあたりの地べたで就寝。
マオ・ザックォージが持ち込んだ幌馬車は、彼女がそのまま寝床として使うことになった。
ザックォージは同じ女性であるナージャか、さもなくばケイスが自分と寝床を共にすべきだと主張したが、当の本人たちがいずれもこれを拒否したのである。
「見張りは、新入りの俺がつこう。封貝使いは眠らなくても死なないからな」
パーティに馴染もうと気をきせたケイスのこの一言は、しかし、またひと悶着を起こすきっかけとなった。
「はい。では、私もお付き合い致します!」
ザックォージが、また鋭い挙手を見せながら名告を上げる。
例の有無を言わせない口調と勢いだった。
「赤ま――もとい、ナージャ殿。馬車は貴女お譲りします。今宵はどうぞ、私の代わりにそちらで休んで下さい」
「ん? お前の馬車の中に入って良いということか?」
思わぬ展開にナージャが首を傾げる。
「はい。私は隊長と共に見張り役につきますので」
「おい、ザックォージ。お前……」
ケイスのあげる抗議の声音には、疲労が色濃く滲んでいた。
「野営においては、幻獣型封貝を呼出して見張りをさせるのが通常ですよね」
元上司と正面から対峙すると、ザックォージは早口に捲し立た。
「ああ――」
「しかし、今回はそうもいきません。追っ手が相手だと、封貝の気配は牽制にもなりません。逆に居場所を教えてしまうことになります」
「それは、そうだが」
「直接、見張り役をやるなら一人より二人の方が良いはずです。確実なはずです」
その剣幕に、もう何を言っても無駄であることを悟ったのだろう。
加えて論理的な反論の余地もほとんどない。
ケイスは刹那、観念したように沈黙を挟むと、深くため息を吐いた。
最後に軽く首を左右し、それきりむっつりと黙り込む。
無言の敗北宣言であった。
ただ、彼らには今後について話し合う時間が必要なのも事実だ。
ケイス自身が、一番それを理解しているのだろう。
この夜は、その語らいに相応しい時間となるに違いない。
ケイスと、その横――わざわざ肩を寄せ合う位置――に腰を落したザックォージ。
並ぶ背中を微笑で見守ったカズマたちは、彼らをふたりきりにするため、一様に踵を返した。
そのまま三々五々、メンバーが適度な距離を置いて散っていった後、カズマはひとり幌馬車に歩いていった。
「ナージャ、入っても良い?」
既に中に入っていった相棒に声をかける。反応はすぐに返った。
「おお、ダーガ」
内側から巻き上げ式の帆布が捲り上げられ、ナージャが顔を覗かせた。
「どうしたのだ。一緒に寝るか?」
「いや、何日も離れ離れだったから、顔を見て安心したくなったんだよ」
言うと、そうかそうかと笑顔で中に迎えられる。
キャビンは狭かったが、明るかった。
炎の槍を召喚し、その輝きで内部を照らしているのだ。
槍は穂先がどこにも触れぬよう角度を調整して、幌とキャビン本体の境目に差し込む形で固定されていた。
「ダーガ、怪我は良くなったか?」
向かい合って座ると、さっそく彼女が口火を切った。
「うん。ナージャのあのマフラーは凄いね。防御だけじゃなくて回復までできるんだ」
「その通り。私の〈*旋火綾〉は凄いのだ」
「ナージャも大怪我したって聞いたけど……」
「私もやられてからずっと〈*旋火綾〉の中に入っていたから、傷自体はもう良くなってるぞ。あとはたくさん食べて眠れば、ほとんど元に戻るはず!」
彼女は胸を張って得意げに主張する。
「ケイスさんはさっき、封貝使いは眠らなくても死なないって言ってたけど――」
問うと、基本的にはその通りで、自分もまた同じである、という明瞭な答えが返った。
だが、そういった生理的欲求に関しては、かなり個人差が大きくでるらしい。
また、負傷の回復などには睡眠や食事によるエネルギィ補給はそれなりに有効であるらしく、多くの封貝使いが積極的にこれを取り入れている。
ただし、これはあくまで人間の言うところの栄養ドリンクやサプリメント程度の位置づけらしかった。
眠り、食べずとも回復自体は可能で、これらの不足が原因で体調不良や過労死に到る例はほとどない。
「じゃ、僕もいずれ……封貝を使いこなせるようになるにつれ、そうなっていくのかな?」
「うん。多分な」
「そっか」
「うむ!」
何が嬉しいのか、ナージャはにんまりして大きく頷いた。
釣られて、自分の口元が綻んでいくのをカズマは感じた。
慈しみ、というのはこういうのを言うのだろうか。
ふと、脈略もなくそう思った。
縁側から、午後の日差しを身体いっぱいに浴びて庭を駆け回る孫を眺める老夫はきっと、こんな気持ちであるに違いない。
不思議なほど心穏やかで、多幸感に満ちている。
じんわりと陽だまりのあたたかさが胸に染み渡る。
近くにいるのに、遠くから眺めているかのような不思議な感覚。
とても静かで、優しい時間。
「……ナージャ」
「ん――?」
彼女がなんだとばかり、童女のようにこてんと首を傾げる。
その仕草がまたカズマの頬を緩ませる。
「ほんとにナージャなんだね」
「うん?」
ナージャが柔らかそうな眉を片方だけ、ひょいと怪訝そうに持ち上げた。
「どうした、ダーガ。なんか様子が変だぞ」
「そうかな?」
どこか現実感すら欠く思いで、カズマはゆっくり言った。
「変だ。絶対、なんか変だ。ぼーっとしているのだ。マンボウのようだ!」
「はは、まんぼうか。面白いこと言うなあ、ナージャは」
「もしかして、まだどこか悪いのか?」
「ううん、そんなことないよ。ただ、ナージャが無事で嬉しいんだよ。もう会えないかもしれないって、ずっと寂しかったから。目が覚めてすぐそこに元気なナージャがいてくれたことに、ちょっとびっくりしてるんだ」
「そうか!」
ぴんと背を張って、ナージャは小さく叫んだ。
「私がいなくて、ダーガは寂しかったのか。泣いてしまったのか?」
「毎日、涙がちょちょぎれる思いだったよ」
優しく答えて、カズマはまた微笑んだ。
「死にそうな怪我してたとか、捕まったとか、処刑されるとか……耳に入るのは悪い話ばかりだったからね。寝るとナージャが酷いことされてる夢ばかり見るから、夜もあんまり眠れなかった」
「そうか、そうか。チョチョ切れるというのはよく分からないが、ダーガは大変だったのか」
「――ナージャ、大丈夫だったんだよね? 酷いこと、されなかったんだよね?」
「私はあのケイスというやつにバッサリやられてしまった後は、すぐに〈*旋火綾〉包まってたから大丈夫だったぞ。ダーガと違って、ずうっとぐっすり眠っていたのだ! 気付いたらダーガの呼ぶ声が聞こえたから、傷も相当良くなってたし、外に出てきたのだ」
「そうかぁ……」
カズマは全身を弛緩させながら、安堵の笑みを零した。
「よかったあ……」
心からの言葉だった。
「私はよく覚えてないけど、負けてしまったことはナディアと一緒に反省している。一応、ダーガに任された仕事はやり遂げたけど、ダーガの元に帰れなくなっては意味がないからなあ」
ナージャは腕組みすると、表情を少し険しくして顔を俯けがちにした。
彼女の言うナディアとは、複数の封貝を同時展開し、戦闘モードに入った時に出てくる、あの冷静沈着で優秀なナージャの別面のことだ。
ほとんど別の人格としか思えない様子の変化は誰しもを驚かせるものであったが――前々からその素振りを見せていたように――ナージャ自身、あれをもう一人の自分として位置づけているらしい。
「とにかく」
カズマは言いながら、両手を床について腰を浮かせた。
そのまま身体を前に進ませて、ナージャとの距離を詰める。
元より狭いキャビンの中、それは一瞬の作業に過ぎなかった。
「帰ってきてくれてありがとう。それと、ごめんね。危ない目にあわせて」
両手で彼女の手を握り、少し力を込めた。
「でも、やっぱりありがとう」
ナージャの細指は驚くほど繊細で、しなやかで、彼女もまた女性なのだと強くカズマに意識させた。
いつも槍を豪快に振り回していながら、マメも皮膚の硬化もまるでない。
女の子の手だった。
「私もナディアも、敗北から学べる優秀な封貝使いだからして、二度と同じ轍を踏むことはない。今回の経験でさらに強くなったに決まってるから、ダーガは今後も安心して私に全部任せておくと良い」
自信たっぷりに言い切ると、彼女はまたにぃと閉じた唇を横に伸ばして大きな笑みを作った。
その動きに押されて、ぷくぷくとしたつきたての餅のような頬が膨らむ。
不意にそれへ触れてみたくなったカズマは、尖らせた唇を近づけ、ちょんと突いてみる。
だが、このほとんど思考を介在させない衝動そのままの行為に、ナージャは思わぬ劇的な反応を見せた。
はわーだとかいうよく分からない奇声をあげたかと思うと、手足を四足動物よろしく総動員させて、かさかさと馬車の縁まで後退していく。
格好のわり、それはなかなかに機敏な動きであった。
「なんだぁ、今?……なんか、今のはあれだったぞ!」
「あ、ごめん」
カズマは流石に非礼であったかと、反射的に謝罪する。
「なんか思わずやっちゃった。嫌だった?」
カズマもこれが日本人の繊細そうな少女が相手なら、考えもしただろう。
だが、ナージャは後見人であるクラウセンと同じ、ノルウェー出身だと聞く。
外見的にも、彫りこそ浅めだが亜麻色の髪灰色がかった碧眼と、明らかに白人の特徴を備えていた。
ならば育ち的にも、頬にキスくらいは挨拶くらいの認識で済むだろう。
イメージ先行ながら、そんな思い込みがあった。
故に、ナージャのこの驚きようは、正直、カズマとしても想定外であった。
先程、羞恥もせず「一緒に寝るか」と誘ってきた人物とは到底思えない。
もちろん、それが決して艶っぽい意味で発されたものではないと理解はしていたが。
「なんか、本当に音がしたぞ。今の唇のやつ! 多分、私は今のを知ってるのだ。あれだろう。あの、サトミが言ってたやつ」
「えっ……? サトミさん?」
ナージャは数拍の間、記憶の糸を手繰るようにして顔と視線を斜めにすると、
「そう、チュッス!」
と、勢い込んで口にした。
「惜しい。女の先生をお母さんと間違えちゃうくらい、惜しい」
「なんで今、チュッスした!」
カズマを指差しながらナージャが質す。
だが、糾弾や罵倒という感じではない。
どちらかと言えば、背中から突然「わっ」とやられた人間が時おり見せる、軽いパニック状態に近く感じられた。
「なんか、こう……気付いたらというか。ごめんなさい」
「びっくりするだろ! 封貝使う時だって、味方がびっくりしないように口訣するだろ!」
「申し訳御座いません」
神妙に頭を下げると、落ち着いてきたのかナージャも萎れるようにトーンを落した。
なにやらぶちぶち言いながら、元の位置に戻ってくる。
「まったく。ダーガは私を好きになってしまったのか?」
「そんなの、会った時から良い子だなって分かってたよ」
「ほう……」
途端ににやにやしだす。
視線が、「もっと褒めみても構わないのだぞ」と催促していた。
「僕やエリックさんには明確な目的があるけど、ナージャはよく分からないのにこんな所まで一緒に来てくれるし。色々やらかしはするけど、頼んだことは一生懸命やってくれるし。裏表ないし。こんな良い子、僕に限らず誰だってすぐ好きになるよ」
ご機嫌取りのために乗った形ではあるが、本心でもあった。
彼女の保護者であるルネ・クラウセンは何か事情を知っているようだったが、ナージャはナージャなりに、彼女の持つ語彙では言語化できない種の、なにか大きな事情を抱えているのだろう。
だが、それを感じさせない無垢な言動、天真爛漫さには、カズマのみならず一行の誰もが一度は救われる思いを味わったはずである。
「とにかく、今回の件で嫌というほど分かったよ。僕は自分で思ってた以上に、ナージャやエリックさんのことが大切になってたみたいだって。そして、短い付き合いの中でもそんな思いに到らせてくれたキミたちに、僕は凄く感謝してる」
カズマは居住まいを正しながら、改めて胸中を吐露した。
「あと、サトミさんやシゲンさんの元を離れて、ヨウコやナージャと一時とはいえ会えなくなって……そういう気持ちはすぐに伝えるべきものなんだって分かったから。言葉にするチャンスはいつでもあるなんて、多分、恵まれた人間の傲慢だったんだよね」
「よく分からないけど、ダーガの言いたいことはなんとなくは分かった気がするぞ」
ナージャが薄らと微笑んだ。
それは彼女がいうところのナディアとも重なる、どこか大人びた笑みだった。
「まあ、そういうわけだから。ほんと、色々ありがとね。ナージャ」
「うむ。私もダーガの期待に添えるようますます精進するぞ」
「うん」
カズマはひとつ頷き、腰を浮かせた。
「じゃ、言いたいことは伝えられた気がするし、僕はそろそろ失礼するよ」
「あれ、一緒に寝ないのか?」
「特別に馬車で眠らせて貰えるのは嬉しいけど、あんまり僕だけ特別すぎると他の皆に悪いからね。それに、エリックさんたちにも感謝の気持ちを伝えてこなきゃ」
「なるほど。なかなか感心な心がけだな、ダーガは」
「でしょ?」
カズマはおどけた表情で言うと、出入口の幕をたくし上げた。
「じゃあね、ナージャ。お休み」
振り返って言うと、ナージャが返礼の口を開こうとする。
その一瞬の隙をつき、カズマは先程とは反対の頬に口元を寄せた。
唇は触れなかったが、欧米の人間が挨拶でそうするように頬を一瞬すり寄せる。
それからわざと水っぽい音を口で出し、素早く距離を取った。
身を翻して馬車から下り立つと、カズマはにぎやかに騒ぎ出すナージャの声を聞きながらその場を離れた。
▼データファイル
【フォリオン】(PHOLION)
・ブラスト系
↓二挺形態(威力C/射程C/連射A-/精密B+/特殊効果B「融合合体」「光線」「任意貫通」)
↓決戦形態(威力S/射程A/連射D /精密C /特殊効果B「分割二挺」「光線」「絶対貫通」「狙撃」)
・レア
・主な使用者:ケイス・ヴァイコーエン
光線・光弾を発射する特殊ブラスト系。最大の特徴はモードが2種類存在すること。
通常は拳銃型(ただし拳銃としては非常に巨大)で、二挺同時に顕現・使用できる。
この二挺形態では、弾は長さ15センチ、太さ7~8ミリ程度のちょうど断面が丸い鉛筆に近い形状。
デフォルトで貫通性能を持つが、任意で命中時に消えるよう調整することもできる。3点バースト発射可能。
二挺拳銃を融合させ、長さ二メートル前後の大砲型に形態変化させると標準的なブラスト型にもなる。
この場合、性質は粒子砲に近くなりビーム状の切れ目のない光線が発射される。貫通特性は任意では消せなくなる。
ブラスト形態時には射程、範囲、威力を絞ることで精密性を向上させた狙撃が可能となる。




