シン・ザ・ドラゴン
029
口訣された直後、黄金に輝く力の奔流が――鼻先をかすめるように――カズマの眼前を横切っていった。
半歩前でカズマを守っていた、ナージャを呑み込んで。
まるでホーム通過の特急列車だった。
ドンという破裂音にも似たあの音は、ナージャと何かの接触時に発生した衝突音か――?
「……ッ!?」
風圧で捲り上げられていた前髪が、ふわりと額に下りて揺れを止める。
それでようやく、カズマは遅まきながらの呻き声を発した。
慌てふためき、ナージャが吹っ飛んでいった右方向へ視線を投げる。
ナージャの姿は二〇メートルほど先ですぐに見つかった。
カズマの眼前からナージャの元までは、地面を深々と抉って続く二本の筋が真っ直ぐに刻まれていた。
考えるまでもなく、何者かの突進を受けたナージャの両脚が残したものだ。
封貝使いである彼女をそこまで押し込んだ存在の突進力を称えるべきか。
あるいは咄嗟に防御を展開し、列車の衝突にも匹敵しそうなそれを受けきったナージャをこそ賞賛すべきか。
カズマは唖然としながら、半ば現実逃避的にそんなことを思う。
「ぐっ……ぬう……」
と、ナージャが息張りの呻きを発する。
踏ん張りをきかせた受けの体勢をそのままに、ギアを上げていくのが分かった。
やがてそれが臨界に達すると、振り絞った力を一気に解放する。
突っ込んできた物を押し返し、逆に大きく跳ね飛ばした。
否、ナージャに対していたそれは、彼女から押し戻される力を受けて、そのまま後方へ跳躍。間合を稼ぐために逆利用したのだった。
その巨躯に似つかわしくないふわりとした優雅な着地が、一連の動きが計算に基づいたものであったことを如実に物語っている。
「こいつは――火眼金晴獣か。でも、この程度の幻獣型封貝じゃ私の足止めはできないぞ!」
対峙する巨獣をきっと睨み据えながらナージャは啖呵を切る。
カズマは改めて、ナージャのいう火眼金晴獣を見やった。
敢えて言うなら、それは黄金に淡く輝く大型の馬だった。
この魔物こそ、現出と同時、凄まじい速度でカズマの前を駆け抜けていった物の正体であるらしい。
巨獣は猛然とナージャにぶちかましを喰らわせ、そのまま二〇メートル先まで押し込んでいったというわけだ。
この獣において、何より目を引くのはその両眼である。
鳩の血色の紅玉を思わせる妖輝な煌めきを持つ深紅の瞳と、微妙にその色合いを変化させ続ける金色の虹彩は、合わさって双眼に炎が封じられているかのにも見える。
成人男性を二、三人まとめて背負えそうなサイズ感。
蹄を持った屈強な四足。
胴の先端から伸びる長い頸部。
これらは総合すると確かに馬を連想させるものになるが、細部の観察を深めれば、馬とは似ても似つかない化物であることも同時に分かる。
特に頭部はやや丸みを帯びており、面長、馬面と表現される馬特有のシルエットからはほど遠い。
また、馬ならほとんどの種に見られる、あの豊かな鬣も持ち合わせていなかった。
先程見せた後方への鮮やかな跳躍を含め、動作、姿勢、骨格や肉付きに到っては、むしろ猫科の大型肉食獣に近似しているとさえ言えた。
幻獣型。
生き物の姿をした封貝が存在するというのは聞いていたが――
これが……という思いと共に、なぜかカズマは奇妙な既視感を覚えた。
なぜか〈*ワイズオレイター〉がうずく。
否、封貝ではなく、かつてそこにあった右腕が、だろうか。
〈世界の果て〉を越えた際、カズマは予見されていた通り、オルビスソーについての予備知識をはじめ、多くの記憶や情報を失っている。
自分がどうして右腕を切断されたのか、ヨウコがどのようにして行方不明になったのか。
それすらも記憶が朧気だ。
だが、身体は覚えている。
そう言わんばかりの何かが、腕のうずきからは感じられた。
――火眼金晴獣……これを前に見たことがあるとでも?
カズマは考えた瞬間、自らその思考を否定した。
こちらにならまだしも、日本でこんな化物を見たというのは考えにくい。
ならば、似た猛獣に襲われた?
それがヨウコの拉致と何か関係している?
「今なら、許してやるぞ。大人しく私とダーガを通せば、お前も火眼金晴獣もこの場は見逃してやるのだ」
ナージャのその声に、カズマは我に返った。
そうだ。今は答えが出ない問題をごちゃごちゃ考えている場合じゃない。しっかりしろ。
自戒の意味で、自分の頬を両手で挟み叩く。
「心配するな。宴の主賓をもてなすのに、この程度なわけがないだろう」
ショウ・ヒジカは不敵な笑みと共に、そう宣った。
「追加のゲストだ」
言って、すっと右手を掲げて真横を示す。
そして口訣した。
「――〈Victor 2〉」
「なッ……」
ナージャが驚愕の声をあげる。
それから眼前で繰り広げられたのは――ここが異世界だということを鑑みても――もはやこの世のものとは思えない光景であった。
最初は、空の異変から始まった。
森の木々を透かして仰ぎ見る蒼穹が、気付けば重々しい灰色の雨雲に覆われている。
そのことにカズマが驚くと同時、液状化した黒雲がどろりと垂れ落ちてきた。
一瞬、目を疑った。
そもそも、「雲が液状化」という時点で辻褄が合わない。
雲が液体と化して降ってきたなら、それは単に雨だ。
しかし、カズマが目撃している現象は、相転移として語られるそれとは全くの別物だった。
黒炭色の曇天そのものが、カズマたちの直上の一部分だけトロけ、トルコアイスのような粘り気を持つクリームと化したのである。
糸引くように降ってきたその紐状流体は、地上に近付くと伸ばし過ぎた輪ゴムのごとくブツリと切れた。
そして蛍光灯さながらに白い光を放ちながら、生物的に蠢き始める。
空を泳ぐ、大蛇――
カズマが現実感を欠く頭でどこかぼんやりそう印象を結んだ瞬間だった。
だしぬけに、身体をもっていかれそうな程の突風が吹き付けた。
風というより、物質化寸前まで固められた空気の壁だった。
それが次から次へと正面からぶつかってくる。
目を開けられないどころか、水中さながらに呼吸すら許されない。
叫び声もあげられない。
カズマはたたらを踏んだ後、両腕で顔面を守りながら必死にその暴力が過ぎ去ってくれるのを待った。
感覚的には随分と長いこと苛まされた気こそすれ、実際には一瞬の出来事だったのだろう。
風は訪れたときと同様、唐突に消え去っていた。
一体、何が起っているのか分からない。
だが、これが終わりでないことは何となく分かる。
次には何が来るのか。
畏れと混乱に思考を乱されながら、カズマはゆっくりと目蓋を開く。
――そして見た。
ディテールを伴わない紐状の半液体に見えたそれは、今や完全に受肉を果たし、生物としての特徴を細微に到るまで備えていた。
先程見た火眼金晴獣にも引けを取らない太さの胴体は、全長五メートル以上はあろうか。
その尋常ならざるスケールが遠近感を著しく損ない、カズマから目測の正確性を狂わせている。
故に確かなことは言えない。
だが、人間を丸呑みできるサイズの大蛇の身体を持つことは、どう見ても疑いようがなかった。
だが、頭部に到ると蛇としての特徴はもはや失われ、鹿のそれに似た一対の巨大な角がまずその印象を決定付けている。
突き出された口吻と鼻面に到っては、同じ爬虫類でもむしろ鰐に近い。
上下に大きく裂けた顎門には巨大な牙がずらりと並んでいた。
その口元には、これも左右一対の鯰を思わせる長い髭。
そして、一際眼を引くのは、獅子舞のそれを彷彿とさせる真っ赤な鬣だった。
頭部からやや下ったところには、猛禽類そっくりの鉤爪を備えた腕が生えており、この腕部や頭部を含め、全身が白を基調に虹色の光沢を放つ重厚な鱗にびっしりと覆われていた。
伝説に聞く、東洋の龍。
白い胴体と真っ赤な体毛を持つ、巨大な白龍。
それが今、ショウ・ヒジカに付き従うようにその右側方の宙を漂っているのだった。
「蛟竜――!」
ナージャが頭上を振り仰いだまま叫んだ。
「それもシン種か。まさか、幻獣型の移動用封貝を二つも持ってる奴が……」
「護士組はフ=サァンが誇る精鋭だぜ?」
ショウ・ヒジカが今さらか、というように小さく首を傾けた。
「国家最高戦力ってやつだ。その頂点ともなれば、この程度は当然だろ?」
「くっ、ダーガ!」
ナージャはカズマと合流せんと〈脚踏風火〉を噴かせる。
だが、これを化物たちが黙って見過ごすはずもない。
「――おっと」
ヒジカが愉悦の表情を浮かべて言った。
「〈赤繭〉。お前はそいつらだ」
主の言葉に、火眼金晴獣と蛟竜が即応する。
素早くナージャの行く手を阻むその動きは、完璧な連携を伴っていた。
「連れは俺が相手をしておく。安心しろ。退屈はさせない」
人型の化物はそううそぶき、身体ごとカズマに向き直った。
「収穫の時ってのは良いもんだ」
言って、散歩するような足取りで歩き出す。
「――〈Fox 1〉」
低く口訣された次の瞬間、ヒジカの右手には飾り気のない長剣が握られていた。
金色に輝く獣やドラゴンを見た後では、同じ封貝でもインパクトに大きく欠けて見える。
それは武器屋の隅、傘立てに似た筒状の籠に一〇本まとめて突っ込まれ、「どれでも銀貨五枚」と殴り書きの張り紙がされた――そんな安物の普及品にすら見えるのだ。
「おい、緊張感を持てよ」
言葉とは裏腹にヒジカはのんびりとした口調だった。
「一瞬も気を緩めるな。相手を観察して、考え続けろ。実戦の中で進化しないと……死ぬぜ?」
「進化しても、貴方には勝てないじゃないか」
精一杯の気力を振り絞り、なんとかそう返した。
無理にでも言葉を吐き続けていなければ、心が折れる。
否、とっくに折れてしまったことにまだ気付かずに済む、といったところか。
「分かってるじゃないか」
言って、ヒジカは立ち止まった。
「だが、勝てないのと負けるのとは別物だ。負けさえしなければ、この場を切り抜けられる可能性はある」
剣の刃がついていない部分――剣脊で、凝りでもほすように肩をトントンと叩き出ながら続ける。
「何でも使え。お前が駄目なら、どうにかなりそうな何かを見つけろ。頼むから、初撃なんぞで死ぬなよ?」
ショウ・ヒジカが歩みを再開する。もう、その距離は五歩もない。
剣のリーチを考えるならもっと――
そう思い至った瞬間、カズマは後ろ向きに大きく飛び退き、間合をとった。
〈*ワイズサーガ〉を前に突き出す形で構える。
どう考えても、刃物を相手に防御を優先するなら、金属製の腕に受けは払いをやらせるべきだろう。
その思いに衝き動かされた形だった。
だが、これは左利きの構えだ。
本来、右利きであるカズマに向くスタイルではない。
でも、やるしかないじゃないか。
カズマは自分に言い聞かせた。
同時、腰の後ろに左手を回す。
革の鞘からナイフをそっと抜き取った。
右に金属の腕、左に武器。
〈*ワイズサーガ〉の利点を殺さないためには、やはりこの構成が最善なのだろう。
そして、先手を取る――。
最初の一撃に全てを賭けて、一気に終わらせる。
勝機に近いものがあるとしたら、もうそこにしかない。
今ならまだ油断がある。
相手はまだ本気になっていない。
時間をかけてデータを取られた後では、地力の差がそのまま結果になってしまうだろう。
出会い頭の一発で、素人と舐めている相手へ想定外の攻撃を入れる。
「隊長、後ろですッ!」
突如、森の奥からヒジカの部下、副長と思わしきあの髭の隊士の絶叫が木霊した。
ヒジカは鍛えられた戦士の本能で反射的に横に身体を倒し、背後からの謎の脅威に対応する。
その時にはもう、カズマはショウ・ヒジカの懐に潜り込んでいた。
――その声は偽物だ!
心の中で叫びながら、左のナイフを突きだし身体ごとぶつかっていく。
ドンという重たい手応えを感じても、カズマは止まらない。
「アァアアァ――ッ!」
間髪入れず、腰を回転を利用して〈*ワイズサーガ〉の右拳を横薙ぎに振り抜いた。
どこをと、具体的な狙いは定めない。
そんな余裕はなかった。
どこでも良い。
何でも良い。
当たってくれさえすれば。
そんな願いと共に渾身の力を振り絞った。
だが、返ったのは反動だった。
岩を殴りつけたかのような、本来ダメージを与える側が逆に傷を負わされる――圧倒的な格差から生じる逆転現象。
「お前、見所があるな?」
思わぬ収穫をみたのか、微かな喜色を漂わせてショウ・ヒジカは言った。
胸の前で両腕を交差させる形で、左は素手でナイフを鷲掴みに、右の長剣で〈*ワイズサーガ〉をそれぞれ受け止めている。
「音の出る封貝を、俺の背後に召喚したのか?」
推理小説の謎解きを楽しむような表情と口調であった。
「一度聞いた声を再現できるのか。確かに、奴はお前の前で喋った。それを元に声を合成して、俺の注意を引く……」
その一瞬の隙をついて、ナイフと拳の二連撃。
独り言のようにつぶやき、ヒジカはにやりと愉悦の笑みを浮かべた。
ご馳走を見るように、その視線上にカズマをとらえる。
「良いぞ、その調子だ」
弾む声と共に、薙ぐように左脚が飛んできた。
さして力を込めたようには思えないそれは、だが丸きり交通事故としか思えない衝撃をカズマの臓腑に響かせる。
最低でも、原付バイクの衝突程度はあっただろう。
偶然〈*ワイズサーガ〉に当たらなければ、その一撃で危険な骨折を負い戦闘不能に陥っていたかもしれない。
だが様々な要素が幸いし、カズマは三メートルほど吹っ飛ばされるに留まった。
もちろん、勢い込んで倒れた際に打撲を負い、摩擦で複数箇所に大きな擦過傷をこさえはしている。
が、命の取り合いの中にあって、それらは負傷の勘定に入るものではない。
「封貝を手に入れてから、まだ間もないと言っていたな? 確かに、お前は基本すら理解していないらしい。発想は良いが、封貝の特性を充分に理解してのものじゃない」
まるきり、教官の口ぶりだった。
「封貝使いと戦いたければ、封貝を知ることだ。当然のことを言ってると思うか? だが、その当然すらできない馬鹿がこの世には多い」
「ッ……ウ……」
カズマは痛みに顔を歪ませながら、ゆるゆると立ち上がった。
地面に激突するというのは、思いのほか精神に来る。
瞬間、そこで思考がブツンと途切れる。
それを思い知っていた。
強制シャットダウンしてしまったOSを再起動させるようなものだ。
どうしても、次への対応が遅れてしまうものらしい。
「倒れると思ったら、そのことを強く意識しろ。地面に激突した瞬間、取るべきアクションを頭の中でイメージして用意しておけ。訓練すれば、思考が一瞬飛んでも、その間に身体がオートで準備していた動きを実行してくれる」
レッスン・ワン。
見透かしたように、ショウ・ヒジカが講釈を垂れた。
心理、思考。全てを読み切られている。
戦士としての経験の差だ。
秘められた才能や、覚醒した潜在能力では絶対に埋められない、積み上げた物の違いだ。
この男に、勝てない理由だ……
目の前が暗くなる思いで、しかしカズマはなんとか顔を上げる。
今はひとりではない。
自分は勝てないかもしれないが、時間を稼げばナージャの助けを期待できる。
彼女と二人がかりなら、まだ芽はある。
その思いが、なんとかカズマの精神を支えていた。
「封貝には特殊効果がある。お前の相棒の〈赤繭〉。奴が使う槍の炎なんぞは分かりやすい」
二頭の封貝獣たちを相手に立ち回る彼女にちらと視線をやり、ヒジカが続けた。
「特殊効果は、封貝の種類によって付く個数や効果の大きさが違う。同じ白兵専用封貝でも、槍は間合が広く素の威力が高い分だけ特殊能力は少なく弱い。恐らく〈赤繭〉のあの槍も、単に炎の属性が付くだけだろう。それに比べると、間合も威力も槍よりは落ちる刀剣類は、特蛛効果が少し強くなる」
ここまでは分かるか。
ショウ・ヒジカは首を微妙に傾け、無言で問うてくる。
「さて――そこでお前のその拳だ」
ヒジカは〈*ワイズサーガ〉を指さし、滔々《とう》と続けた。
「身体に直につけて殴る蹴るするタイプは打撃型と呼ばれている。お前の〈*ワイズサーガ〉も恐らくそうだ」
ここまで聞けば、話の向かう先にも予測が付く。
槍や剣の猛威を潜り抜け、懐に入らなければ有効打を入れられない打撃型は、恐らくあらゆる白兵専用封貝の中でもっともリスクを負わされるタイプだ。
「気付いたようだな」
カズマの表情から何か察したのか、ヒジカは唇の端を吊り上げた。
「打撃型はリーチが極端に短い分、他の封貝の中でも最も強力な特殊効果が付く。辺りさえすれば即決着になるような、一撃必殺の能力も多いと聞くぜ?
場合によってはそういう凶悪な奴が複数付くこともあるそうだ。それを知っていて、特殊効果をきちんと乗せられるよう使い慣れているなら、お前のさっきの戦術は悪手であったことも分かる」
カズマは呆然としながら聞いていた。
特殊効果の話など聞いたこともない。
教えてくれる者もいなかった。
旅立ちの前、恐らくサトミあたりは詳しく教示してくれていたに違いないが、その予備知識は〈果て〉を越えた時に〈壁〉に奪われてしまったのだろう。
そして、ショウ・ヒジカの指摘は、今なら強く頷けた。
封貝使いを普通の武器で傷つけるのは困難を極める――というより、ほとんど不可能に近しい――という話は、こちらに来てからナージャに教えられていたことだ。
「お前は最初にナイフで刺し、それから拳を当てる組み立てを選んだ。そこにはナイフの方に高い効果を期待している心理がある。いかにも封貝を知らないド素人の発想だ」
追い打ちをかけるようなその指摘に、だがカズマは素直に頷かざるを得なかった。
あらゆる封貝の中でも最高クラスの特殊効果が乗るなら、せっかく懐に入り込んで、それを優先して叩き込まない手はない。
ナイフではなく、〈*ワイズオレイター〉を優先して繰り出すべきであったのだ。
「まあ、特殊効果と一口に言われても、なかなか想像が付かないだろう。特に、お前の拳に宿っているはずのものは、〈赤繭〉の炎程度じゃないはずだからな」
そこで、実践だ。
言って、ショウ・ヒジカは俄に双眸をぎらつかせた。
背中に冷たい者を感じ、カズマは無意識に構えを取る。
「言ったな、刀剣型の特殊効果は〈赤繭〉が持つ槍鉾型より優秀な性能だと。どう優秀か、理解は身体でしておいた方が良い。――うまく受けろよ?」
言葉の終わりとどちらが早かったのかは分からない。
はっと目を見開いた時にはもう、ショウ・ヒジカが目の前にいた。
吐息が感じられるほどの至近距離。
瞬間移動としか思えない速度で、三メートル以上あったはずの間合を破られている。
完全に剣の殺傷力圏内であった。
瞳孔が開く。
うなじが泡立ち総毛立つのが分かった。
――口訣せよ。
だしぬけに、頭の中で声が響いた。
誰の? 口訣? 何の?
本来、脳裏を駆け巡るべきそうした疑問は、何故だか一切湧いてこなかった。
それどころか思考を巡らせるより早く、唇が勝手に動き出しでもしたように、カズマはもう唱え始めていた。
気付けば自分の口訣の声を聞いていた。
「――防御用封貝」
叫びと同時、無造作に振るわれたショウ・ヒジカの長剣が、見えない何かに弾かれたのが、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
遅れて、金属と金属が搗ち合う、剣戟のそれにも近しい硬質の高音が響き渡る。
「なに……」
回避や〈*ワイズシーカー〉による防御ならまだしも、不可視の壁に阻まれるというのは想定外だったのだろう。
たたらを踏む無様こそ晒さなかったが、ヒジカは半歩後退して、見えない盾が出現した辺りを凝視した。
「まだ持っていないと言っていたが……咄嗟に獲得したのか?」
小さく驚きを口にするヒジカだったが、当のカズマ本人は比較にならないほど大きな驚愕に見舞われていた。
盾が出た――!?
自分が召喚したものだとは信じられない。
まるで実感が湧かなかった。
あまりの不信感に、カズマは戦闘中にありながら思わず自分の両手を持ち上げた。
手のひらをまじまじと、半分呆けつつ見詰める。
「――不可視型か。だが、なぜそうまで驚く?」
また剣を肩に担ぐようする姿勢を取ったヒジカは、とっくに平静さを取り戻していた。
「不可視は防御系で一番ポプュラーな特殊効果だ。〈赤繭〉の綸子を見慣れていたせいか? ああいう、目に見える上に常時顕現しているやつの方が特殊なんだがな」
まあ、良い――。
小さなつぶやきと共に、ヒジカは付着した血糊でも払う要領でブンと剣を一閃させる。
「これで、特殊効果と一緒に防御のレッスンもやれるわけだ」
言葉と共に、銀線が袈裟懸けに閃くのが見えた。
それでも、裂帛の気合いと共に、という然ではない。
明らかに手を抜き、腕の振りだけで繰り出されている。
それでも、カズマにとっては見慣れぬ真剣であり、刃物であった。
その鋒が皮膚を裂いて体内に入り込み、血飛沫と共に激痛をもたらしながらブチブチと筋繊維を断っていく。
臓物を無惨に切り裂いていく。
そんな想像をしただけで悲鳴をあげたくなる。
「恐怖は筋肉を硬直させる。動きを妨げ、その思いと裏腹にお前を死に近づける」
ショウ・ヒジカが淡々と告げた。
カズマはもはや口訣の余裕すらなく、白刃が閃く度に全身を縮こまらせながら〈Delta 1〉を展開していく。
「――おい」
と、苛つき混じりの底冷えする声と共に、前蹴りが飛んできた。
催眠術の五円玉を追うように、ただひたすら刃物の動きだけに血眼だったカズマにとって、それは完全に不意をつくものであった。
土手っ腹を撃ち抜くようなその一撃に、カズマの身体はくの字に折れ曲がる。
逆流する胃液と一緒に、肺から強制排出を促された空気が声にもならない苦痛の呻きとなって口から漏れる。
「お前、ちゃんと思考してるか? 目血走らせて剣の動きを追う先に何がある? 動きを読み、相手の裏をつかない限り状況は覆せない。分かっていながら、なぜやらない」
口の端から唾液の糸を引いて嘔吐感と戦うカズマに、再び靴底が唸りを上げて飛んできた。
封貝も間に合わず、左の肩口に直撃を受ける。
「ァがッ……」
喉が勝手に鳴り、奇妙な音を吐き出す。
と同時、カズマはもんどり打って後ろ向きに倒れた。
「最初だけか、お前。ちょっと刃物ちらつかせただけでそのザマ……随分とぬるい世界で生かされてきたらしいな」
小鹿のように震える膝の皿を左手で掴みながら、カズマはなんとか立ち上がろうと試みる。
ショウ・ヒジカの指摘は間違っていない。
鼻の奥に血の臭いを感じながら、認めた。
油断すれば食事に薬を盛られる。
人身売買の標的になる。
日本では考えられなかったことだ。
優しい顔で油断させ、奴隷商に売り飛ばそうとする人間になど、こちらに来て初めて会った。
刃物を、殺意を向けられたことも、故郷ではなかった。
人間がいつか死ぬことは当然のように理解していたつもりだが、自分がいつどんな死に方をするかは、どこか漠然とした遠い世界の話だった。
老人になった自分など、ほとんど他人だった。
戦争も知らない。
その日の食事にありつけず、残飯漁りをしたこともない。
夜どこで眠るか、床の心配が必要な生活など想像もしたことがなかった。
それをぬるい世界というなら――確かにそうなのだろう。
当たり前だと思っていたものが、この世界では当たり前ではない。
カズマはふらつきながら立ち上がる。戦闘態勢を取り直そうとした瞬間、
「――もう死ぬか? お前」
何の感情も乗らない平坦な声が言った。
同時、剣が真横に一薙ぎされる。
カズマは反射的に腰を引きながら、全力で後ろ向きに飛び退った。
この時、回避に成功した理由は、幾つか考えられる。
まず、その振りが相変わらずフォームも何もない雑なものであったこと。
それから、これまで受けに回り続けた中で、ショウ・ヒジカのリズムに慣れ始めていたこと。
もっともそれでさえ、何もかもが完璧であったわけではない。
鋭敏になった神経は、剣の先端がサイズの合わないダボついた上着を引っ掻くように切り裂いたことを察知していた。
加えて、臍の辺りをまさに薄皮一枚、場合によっては血すら滲まないほど浅くだが、斬られたことも分かる。
だが、それだけだった。
痛みはないに等しい。
後ろに飛んだ勢いを着地と同時に反発力に変えれば、攻勢に転じることができる。
空中で、カズマはそう判断した。
動きを読み、相手の裏を付く。状況を覆す――。
まさしく、ショウ・ヒジカに言われたことだ。
「……おい、何を安心している」
その声に、カズマは着地したまま思わず動きを凍らせた。
好機を逸したという感覚はなかった。
ショウ・ヒジカはそれを潰すために声をかけるようなタイプではない。
相手が思わぬ反撃してきたなら、むしろそれを歓迎するであろう戦闘狂だ。
だからこそ、カズマは真意を探るように相手を見詰め返した。
「言ったろう? 刀剣型には特殊効果が乗ると」
指摘の内容が脳に浸透し、はっとさせられた瞬間だった。
剣が掠めていった腹部に、異様な灼熱感が広がった。
濛々《もう》と煙を上げるほど空焚きされたフライパンの底を、地肌にそのまま強く押しつけられたような――
それは精神を歪ませるほどの、この世ならざる痛みだった。
カズマは意思とは無関係に、獣のごとき絶叫を迸らせた。
その場に膝から崩れ落ちる。
何が起ったかも分からず、ただただ自分の腹部に視線を落す。
両手をあてがう。
その瞬間、指先どころか、両手全体にぐちゃりとした嫌な感触が伝わった。
同時、見てしまった身の毛のよだつ惨状に、カズマは喉を破らんとばかりの悲鳴を上げた。
意味が分からなかった。
わけが分からなかった。
胴が真横へ一文字、端から端まで深々と断ち裂かれている。
確かに躱したはずなのに、ばっくり斬られている。
鮮血が冗談のように噴き出し、下半身はとっくに真っ赤に染めあがっていた。
それどころか、ぱたぱたと乾いた音を立てて地面に降りそそぎ、一帯に粘り気を帯びた錆の匂いをバラ撒いている。
足元に馬鹿げた血溜まりを作っている。
今なお広がりつつある。
なによりカズマを恐怖させたのは、腹圧に押し出されて、だらりと外側へ垂れ下がっている内臓――腸だった。
――こんなの……これ、どう考えたって、致命……
カズマは正気を失いかけて、それ以上考えるのをやめた。
ひっ、ひっ、と悲鳴とも呼吸ともつかない奇音を盛んに発しながら、零れだした血を、はみ出した内臓を無意味にかき集める。
「戦場を知らんガキなぞ、所詮はこの程度か」
どことか遠く遥か頭上から冷たい声が降ってくるのを感じた。
「つまらんな。お前――」
耳に入りこそすれ、カズマの精神にはもう、それさえほとんど届きはしなかった。
▼データファイル
【火眼金睛獣】(かがんきんせいじゅう)
・幻獣型・馬種(特殊「凝視」「看破」)
・普及
・使用者:ショウ・ヒジカなど
移動用であるVictor系封貝のうち、幻獣型としては非常にポピュラーな乗騎。
紅い瞳と金色に輝く双眸は炎を連想させ(火眼金睛)、これが名前の由来となっている。
全身から淡い金色の光を放つ霊獣、神獣。
この火眼金睛は、下位の獣を睨んだだけで麻痺させる「凝視」と姿を偽る幻術の「看破」の異能を秘めている。
いずれの異能も基本的に自分より下位の能力、存在にしか機能しないと言われている。よって、封貝の〈三眼〉や〈魔眼〉による幻惑などには無効であることも多い。
性能的には基本的に馬の上位互換で飛行は出来ないが、歴史的には極めて稀に飛行できる*レア個体が確認されている。
【シン】(蜃:しん)
・幻獣型・龍種(特殊「飛行」「甲冑」「幻覚」「ブレス」)
・普及
・ショウ・ヒジカなど
移動用であるVictor系封貝のうち、幻獣型としてはやや稀な部類。
蛟竜の一種。鹿に似た左右一対の大角に紅い髭、豊かな鬣を備え、全身を肉厚の貝に似た形状の鱗で覆われている。また、腰下のそれは逆鱗であるとされている。
端的に表現するなら、「東洋型の龍」。蛇に似た長細い身体に四肢を持ち、飛行が可能。竜種としては小型。
全身を覆う鱗は「甲冑」の特殊効果を持ち、下位から中位の防御系封貝に準じる堅固性を誇る。
このため、少なくとも中位以上の封貝使いでない限りあらゆる者にとって脅威的な存在となり得る。
ショウ・ヒジカの使役する蜃は大型個体であるため、*レアに極めて近しく戦闘能力も高い。
牙による噛みつきや鉤爪による打撃、斬撃も充分な脅威だが、もっとも恐るべきはそのブレス。これは破壊的な攻撃力を備えるほか、対象の視覚を狂わせる「幻惑」の特殊効果を持つ。いわゆる「蜃気楼」の語源である。
上記の通り高い戦闘能力を持つため、移動用に限らず多くの封貝使いから戦闘時の強力なサポート要員として用いられることが多い。




