イカ焼きとハイヒール
021
〈リベリの馬預り所〉は、テズピ村の入口近く、街道沿い面する一角に構えられていた。ほとんど玄関口という位置にあるため、大変にアクセスが良い。村に立ち寄った者はまずここで乗騎を預け、それから村の中へ――という具合に事を運べる仕組だ。経営者が同じなのか、牧場の一部を切り取ったようなスペースに山小屋風の丸太小屋があり、そこが受付となっていた。
「ええと、この村で一泊するんですよね。明日までなら一日って契約になりますけど」
カウンターで手続きを始めたオックスが、そう言えば……というようにカズマたちを振り返った。それで問題ないか、と窺うように首を傾げてみせる。
「いや、可能なら今日のうちに次の――ツクフだっけ、そこまで進んでおきたい」
「ツクフ村ですか?」オックスがキョトンとした顔で言う。「確かにランコォル種なら問題なく今日中に着けると思いますし、一応、宿くらいはあったと思いますけど。でも、この村ほど色々都合は良くありませんよ? ナージャさんのとの待ち合わせの件もありますし」
「いや」
そのランコォル種を取り戻すため、元の持ち主が追いかけてくるかもしれない。
この村にいては今夜中に追いつかれる危険性がある。
一方、ツクフまで行けばそうした心配もなく、完璧に振り切れるであろう。
そうした事情を説明するか迷い、カズマは結局、首を左右するだけに留めた。
「僕もできれば落ち着けそうなこの村で休みたいけど、そうもいかない。是非とも今夜中にツクフまで進んでおきたいんだ」
「そうですか」オックスはごねる気もないらしく、すぐに頷いた。「カズマ先生がそう仰るなら、そのように手続きします。じゃあ、預け時間は一刻ということで?」
「――ええと、その一刻ってちょっと本格的な食事して、作戦会議して、ランコォル種にツクフまでの体力を充填させるに充分な休憩タイムになる?」
「ええ……まあ」
その問いに、オックスはあからさまに面食らった様子を見せた。
これはカズマとしても理解できる。
恐らく一般常識に関する質問をしてしまったのだろう。それなりに歳を食った相手から、「ねえ、一時間ってどのくらい?」と三歳児のようなことを訊かれれば、誰でも不審に思うに違いない。
「そのくらいの時間にはなると思いますけど。あの――」
「じゃあ、それで」
何か言いかけたオックスを強引に遮り、カズマは押し切った。
流石にこれ以上、押し黙って成り行きを見守っている店主を待たせるのも悪い。オックスもそれを分かっているのか、あいまいに頷いて受付に戻る。
「あ、そうだ。オックスくんの馬も預けなきゃだよね」
「ええ――まあ」
「で、相談なんだけど。それって、売っちゃわない?」
「えっ……はい?」
狼狽するオックスと裏腹に、カズマには冷静な計算があった。
「いやね、インカルシへはスピード勝負でしょ。合流できた以上、オックスくんの茶色い馬より、ランコォル種の馬車に全員乗っていった方が明らかに早いと思うんだよね。もちろん、オックスくんと荷物の分だけ負担が増えるから速度は多少落ちるだろうけどさ。それ含めても、まだ普通の馬一頭より、ランコォル種二頭の方が速いと思うんだけど」
これはあくまで素人であるカズマの見立てでしかない。が、今回に限ってはご明察といったところであったらしい。――確かに、低速での安定性を除けば速度もパワーもランコォル種の方が優れている。オックスはそう認めた。ちらと視線を投げて店主にも意見を求めたところ、彼もまた仏頂面で同意を示す。
ならば、とカズマは舌も滑らかに続けた。
「もし、ここで馬の買取りもしてるなら――そして、オックスくんが自分の馬に特別な愛着を持っているとかでないなら、ここで売ってランコォル種の速度を活かした方が賢い。遅い方に合わせるとランコォル種の利点が死ぬし。時間ももったいないでしょ。
この件が片付いたら、僕らは一頭あれば充分だから、ランコォル種の片方はオックス君の部族に提供するよ。それなら損はないし、馬を売った分を怪我人の治療費に回せる」
しかし、と遠慮するオックスを「これは友好の証である」と説き伏せ、無理やり納得させる。そして、間もなく彼はその手続きを終えた。
契約内容は期間が一刻。標準サーヴィスとして食事、洗浄が付く。ランコォル種は盗難保障のための警備費が高くなるため、基本料金も比例してあがる。結論として、費用は銀貨八枚――すなわち八〇G。
これがどの程度の価値を持つのかカズマにもエリックにも全く理解できなかったが、オックスに言わせればこのくらいが相場ではあるという。
「栗毛種は引き取りなら、六〇〇Gだ」
店主のリベリが唸るように言った。
これも相場から大きく外れた提示ではないらしく、オックスはすぐに応じた。
「それで構いません。買取りお願いします」
「ランコォル種の預り賃を差し引き、五二〇Gになる。受取れ」
オックスは契約に伴う諸手続を行い、白っぽい貨幣五枚と見たことのない黒ずんだコインを二枚受取った。
「さっき、黒っぽいコインを受取ってたけど」
店を出ると、カズマはすぐに疑問に思っていたことをオックスにぶつけた。
「はい。銀貨ですね。五二〇Gですから、金貨五枚と銀貨二枚です」
「えっ、金貨?」意外な返答にカズマは一瞬、脚を鈍らせる。「もしかして、さっきの白っぽいやつ?」
「はい」
オックスは合わせるように立ち止まり、にっこりとして頷いた。それから周囲から見えないよう、手で囲いを作りながらその中で手持ちの硬貨を広げてみせる。
並んでいる硬貨は四種類。
ひとつは錆に近い赤銅色をした、日本にはない四角形の薄い金属片。
ひとつは同じ赤銅色で、こちらは普通の円盤型をした十円玉に近いもの。
そして、今しがた釣り銭として貰ったばかりの黒ずんだコイン。
最後に金貨であるという、白っぽい金属の硬貨。
――この四種だ。
「まず、一番価値が低いのがこの四角いやつです」
言って、オックスは該当する貨幣を摘まみ上げた。笑顔でカズマに渡す。
受取ったものを手のひらで転がしてみた。
大きさは小指の爪ほど。角が微妙に丸まった長方形のプレートで、長い方の辺ですら一センチ前後しかない。幅はその半分以下。厚みとなるとミリ単位で、貨幣というには何ともちゃちな代物に見えた。
この頼りなさは重量の面にも及んでおり、風が吹けば紙片のように吹き飛びそうな不安があった。握るにしても、力加減誤ると折れ曲がるか割れるかしそうな気がしてくる。
カズマはなんとなく怖くなって、さっさとエリックにそれを回した。
「今、お渡ししたのは〈エンヘル方貨〉と呼ばれる補助通貨です」
「ほじょつうか?」
「はい。ご存じのように、オルビスソーの共通通貨はグラティアでしょう――?」
「少なくとも、〈統一王〉がオルビスソー全土の完全支配を成し遂げたときに導入して以来は、そうだね」
エォラから聞いた話を思いだし、カズマは知ったかぶりで言う。
これにオックスは深く頷いた。
「そう。フ=サァンでも戦時中の一時期を除いて、共通通貨〈グラティア〉が普通に使われてきました。そして、そのグラティアの最小単位がこのグラティア銅貨になります」
オックスはそう言って、今度は十円玉似の赤銅コインを新たに摘まみ上げる。
「この銅貨が一枚で一G。これはカズマ先生たちもご存じだと思います。でも、先生のように高貴なお方には縁遠い世界の話かもしれませんが、こういう小さな村だと一Gよりも値段が安い商品が存在するんですよ」
「へえ……たとえば?」
「たとえば、貧民の子供が路上で売っている花なんかがそうです」
「つまり、基本的にその十円っぽい銅貨が一番小さな額面のコインだけど、それで買おうとしたらお釣りを貰わなくちゃいけない売り物があるってことだね」
「はい。で、そのお釣りとして使われているグラティア銅貨より安い価値のコインが、今、エリックさんが持っておられる四角形の――エンヘル方貨です」
このエンヘル方貨は一〇枚で銅貨一枚分の価値、すなわち一Gになるという。
これは、現実世界でのドルに対するセントと考えて良さそうだった。
海外通貨に限らず、日本でも一円の下には銭という単位がある。
なんとなく、カズマはその言葉を聞くことが多いニュースの為替相場コーナーを思い起こした。そう言えば、もう何日もTVを見ていない。
ともあれ、一銭は一円の一〇〇分の一という、方貨に輪をかけて小さな単位だ。日常生活の中ではあまり関心を払われることがない。
恐らく似たものと考えてよいのだろう。大体そのように解釈し、カズマは理解の証としてひとつ首を縦に振った。
「でもさあ、金貨がその白っぽいのっていうのは納得がいかないな。どう見ても金色ではないよね、それ。白いよね」
どちらかというと銀貨ではないのか。カズマが唇を尖らせ不満を露わにすると、オックスは何がおかしいのかくすぐったがるように笑った。
「そんなことを言う人は初めて見ました」
「誰もがやらないことをあえてやる、スタイリッシュ・カズマですけえの」
でたらめな方言を駆使して、カズマはぐっと胸を張る。
「先生がおっしゃる本当に金色をした硬貨って、王貨のことでしょう? あれは商人が大きな取引とかに使う特別なもので、先生のような偉い方々はともかく、僕ら庶民は一生一目も見ることなく終わる存在ですよ」
「あれって普通の金貨でいうと何枚分の価値なんだっけ」
カズマはさもど忘れしちゃった、という口調で訊いた。
「一〇〇枚みたいですね。聞いた話が間違っていなければ」
もし間違っていたとしても、自分には絶対に関係しないであろう。オックスはそう言ってまた無邪気に笑う。
「とにかく、先生が銀貨だと思われていたこの白っぽい方が、一般に出回っているグラティア金貨です。そしてこっちの――確かに銀というには少し黒っぽい――方が、グラティア銀貨っていうことになりますね。それにしても先生、お金の管理はいつもお弟子さんに任せておられたですか?」
「ん――いや、まあ一概にそうとばかりは言えないんだけど。僕の故郷ではまた違った通貨が流通しててね」
カズマは早口に言い、笑って誤魔化す。
異世界人ということを隠したままでは、流石にもう話を進めるのが難しくなってきている。もはやこれは認めざるを得ないところだった。正直に打ち明けるかを含め、エリックとは色々と相談しなければならないだろう。
「――さて、と。エリックさん。まず、どうしましょうか?」
カズマは空気を変えようと、先程からいまいち覇気に欠ける相棒に声をかける。
自分は旅の仲間のためになんら貢献できていない。むしろ足手まといになっている――。まだそんな自己嫌悪から抜け出し切れていないらしいエリックは、カズマの言葉に無理やり作ったことが分かる笑みで応えた。
「そうだね……」
言って、エリックは一瞬、口を噤んだ。言葉を発するのも辛い。今の彼には、そういった疲労すら感じさせるもたつきがある。
「お金があるなら、これからの行動に必要な物を買い揃えておいた方がいいかもしれないね」
「必要な物、ですか」
カズマはあえて首を傾げてみせた。こちらが質問形式で終えれば、エリックは会話を続けざるを得ない。その間の分だけ、彼が重苦しい沈黙の世界に帰るのを遅らせることができる。
「ナージャさんがインカルシに行く途中で何らかのトラブルに巻き込まれたとしたら――」エリックが言った。「僕らも無事に辿り着ける保証はない。買物の機会も、この先何度あるか……」
確かに、テズピは物資調達に不自由しなさそうな村だった。街道から引き込まれた入場路はそのまま目抜き通りになっており、両脇に様々な屋台や商店が軒を連ねている。多くは食料品を扱っているようだが、全てがそうというわけではない。
気になるのは、街頭を彩るこれら露天や商いが掲げる看板だった。
日本はもちろん現実世界では、店名にはじまり目玉商品、その煽り文句など、看板やノボリの類にはでかでかと巨大フォントが踊るものだ。
しかし、こちらにはそれが少ない。
店を象徴するロゴの類が掲げられたり、売り物のイラストが描かれたりが精々《ぜい》で、文字の占める割合が明らかに小さいのである。
「――オックスくん。この辺って、もしかして識字率あんまり高くなかったりする?」
「ああ、はい。そうですね」オックスはなぜかばつが悪そうな顔で答えた。「読み書きみたいな教育を受けることができるのは、位の高い方々を別にすれば、やはりお金持ちの方々がほとんどだと思います」
「それでか」
そもそも村人のほとんどが字を読み書きできないなら、文字で色々かき立てた看板には意味がない。何を売るどんな店なのか直感的に分かる、イラストなどの方が遙かに意味を持つのだろう。
「そう言えばさっきの一刻ってやつだけどさ。こっちって時間についてはどういう考え方なの?」
「フ=サァンはオルビスソーの標準的な基準をそのまま採用しています。基本的に、日の出から日暮まで、太陽の出ている明るい時間帯を六分割して、その一つを一刻と考えます。都会では夜も同じように六分割しているようですけど、田舎では夜を特に分けるようなことはありません。陽が暮れたらすぐに寝ちゃいますから」
「つまり、一日が一二時間なんだ。へぇ……」
エリックにも教えると、彼もまたこれには興味を持ったようであった。
「朝から夕方までを六分割してその一つを一刻としているなら、日が短い冬と明るい時間が長い夏とでは一刻の長さが変わるね」
「あっ、そう言えば」
オックスに確認してみると、あっさり「その通りである」という答えが返った。
「海外ではサマータイムとか言って、なんか時間をずらしたりするって聞くし、時間が不変で絶対的なものであるっていうのは日本特有の考え方なんでしょうかね?」
カズマが言うと、エリックは微妙な表情で首を傾げた。
「そうだとしても、それは近代だけの話だと思うよ。江戸時代は、確かこっちと同じような考え方をしてたはずだ。というかほとんど同じなんじゃないかな。昼を六分割してそれを一つ、みたいな。博物館でそういう不定時法用の時計を見たことがある。季節ごとに時計盤を変えるんだ」
「えっ、江戸時代って一時間六〇分じゃなかったんですか」
初耳だった。思わず声量のコントロールに失敗してしまう。一瞬、衆目を集めたカズマだったが、道行く人々はすぐに関心を失い、そのまま人波として流れ去っていった。
「うん。確か日の出が九時で、それから八、七ってカウントダウンみたいに数字が減っていくんじゃなかったかな。昼近くなると四まで減って、そこからはまた九時になるらしい」
「えっと……つまり、三時から一時がないんですか?」
「うん。九からカウントして四まで。四の次はまた九に戻る。だからお昼に四時までカウントが進むと、正午近くからは九時からまたカウントし直すんだよ。それでいくと、今で言う二時から三時くらいが八時くらいになる。この午後の八時を当時は〈八つ時〉と呼んでいたらしい。これを語源にするある言葉が現代でも生き残ってるんだけど、カズマくん思いつく?」
現代の十五時――午後の三時で「やつ」。
それが由来となれば、思い当たるものはひとつしかない。
「もしかして、『おやつ』ですか?」
聞くと、エリックは笑くぼを作ってひとつ満足そうに頷いた。
「そう。三時に食べるお菓子をおやつって言うのは、その名残らしい。それで僕も覚えてたんだよ」
おやつか。
現実逃避的に考えながら、カズマはメインストリートを見回す。
ナージャの行方。人身売買の標的となった可能性のあるヨウコ。問題、心配、懸念事項は山積状態だ。のんびり観光気分というわけにはいかない。
しかし、冷静さを失うのが良くないのも分かっていた。そして今、自分は少し感情を昂ぶらせすぎている、というのも理解している。
――カズマはね、何考えてるか分からない時が一番怖いのよ。ふざけてるのか本気なのか分からない。油断してるととんでもないことを仕掛けてくる。相手にそう思われてるうちが、一番力を発揮できるんだと思う。
むかし聞かされたヨウコの言葉だった。
ゲームにせよ勝負にせよ、ディベートの類でも、確かに過去の実績を見てみれば彼女の指摘は的を射ている。ならば精神状態をそこへ近づけねばならない。だが、それは、言うまでもなく容易なことではなかった。
落着け。緊張するな。普段通りに。
そんな言葉を言い聞かせるだけで精神状態を理想に保てるなら、誰もがスーパーマンだ。
思考の迷路に陥りかけているのを自覚しつつあったカズマは、だからそれに気付いた瞬間、一も二も無く飛びついた。醤油風を彷彿とさせる芳ばしい匂いを周囲に漂わせる、小さな屋台の出し物である。
「おじさん、これなんて食べ物です?」
カズマはぱたぱたとそちらへ駆け寄ると、努めて明るい声で問いかけた。
「なんだ、おまえさん。余所者か」
屋台の主は炭火をあおぐ団扇の手を忙しなく動かしながら、ちらと胡散臭そうにカズマを一瞥する。
「これがハーフガファ以外の何かに見えるか?」
「僕の故郷では、多分それのことをイカって呼んでると思う」
「そうかい」店主はさして興味を持った様子もなく鼻を鳴らす。「で、買うのか?」
「いくら?」
「一本、二Gだ」
つまり銅貨二枚。ランコォル種の預け賃が銀貨八枚――八〇Gであったことを考えると、何となく手頃に思える。
「これは……イカ焼き? こっちにもあるんだ」
匂いを嗅ぎつけて追ってきたエリックが、後ろから露天を覗き込みながら言った。その声音には隠しきれない驚愕の色が滲み出ている。もっとも、その表情を見る限り彼はいかなる感情も隠すつもりがないようであった。
「僕もまさかとは思いましたけど」カズマは横目で彼を見やりながら言う。「こちらではハーフガファっていうみたいですよ」
「ストレートにイカと通訳されなかったってことは、完全に同じではないのかな」
エリックはもっとよく観察しようと身を乗りだし、さらにそちらへ顔を寄せていく。
それは白を基調に、どこか紫がかった体表を持つ、まさにイカにしか見えない外見をしていた。姿焼きというわけではないようで、かの象徴的な三角頭は部位として存在しない。一〇本あるはずの脚、いわゆるゲソも綺麗に全て切り落とされていた。
残った筒状の肉厚な胴体を竹串で縫うように刺し、それを炭火で炙り焼くという、祭りの屋台で良く見るイカ焼きとやや違った売り物だ。
「確かに、僕らが知ってるのと全く同じとは限らないかもですね」カズマは日本語で応じた。「日本の屋台でも、姿焼きじゃなくてゲソも何もないクリスマスツリーみたいな形に切り取られたイカ焼きが時々出回ってるでしょう?」
「そんなのあったっけ? そう言えば、最近そういう場所に顔出してないな……」
「とにかくそういうのがあるんですけど、あれは南米で取れる一メートルくらいのでっかいイカを小さく切り分けて、成形したものなんです」
これはスーパーの弁当売場に置いてある、安いカツ丼にも言えることだ。
カツ丼を三〇〇円で売れるのは、きちんとしたブタ肉を使っていないからである。
ハンバーグのようにぐちゃぐちゃにすり潰したクズ肉の塊、あるいは薄切りにスライスした肉を食品用の接着剤で固め合わせ、粘土でそうするようにトンカツの形にしているのである。
このいわゆる形成肉は安く、繊維が断裂しているため非常に柔らかく感じる。
「詳しいね」
「カツ丼のことはTVの知識ですけど、イカの方は中学時代、夏休みの自由研究で調べたんです。ヨウコと共同で。題して、〈お祭り屋台のぼったくり度調査〉」
クラスで発表したら、なかなか好評であったと、カズマは名誉のために自ら付け加えた。
「言われてみると気になるところだし、面白そうだね」フム、という表情でエリックは少し考え込んだ。「綿菓子なんかは、材料費と売値の差が大きそうだ」
「綿菓子に必要なのは粗目糖と割り箸ですけど、あれは合わせても一〇円しません。そのふたつより、むしろカラーでキャラクターとかのプリント入れてる袋の方が高いんですよ」
「ああ……。袋入りのやつか。子どもはあれが嬉しいんだよね」
「イカ焼きはもっと原価安いはずですけど、綿菓子の砂糖と違って材料に保存が利かないですから、その分ぼったくり度も高いみたいです」
「生ものだもんね。売り切れなかったら材料破棄も含めて損をしやすいわけだ」
「そういうことです。お面とか綿菓子とか、あの辺と比べると高リスクなんですよね」
「――おう兄ちゃん。結局、どうすんだ」
痺れを切らした店主が、凄みを利かせた声で訊いた。
確かに店の前、聞き慣れない言語でぺちゃくちゃやられるのは一種の営業妨害だろう。
「ああ、ごめん親爺さん。じゃあ、食べてみるよ。三本ください」
言って、カズマは半歩後ろに控える気配を振り返る。
「オックスくん、勘定お願い」
「はい、先生」
「三本だな」
店主は不機嫌そうに――もっとも、これが彼の通常の話し方らしい――言うと、手早く仕上げ作業に入った。
作業自体は単純なものだった。刷毛のような物をタレの入った壺に突っ込み、イカの表面に何度も薄くのばして塗っていく。だが、その手際が物凄い。何十年も毎日続けているというような、流れるがごとき洗練された動作であった。もはや、どこか色気さえ感じさせる熟練の技巧だ。
塗っては炙り、炙っては塗りを手際よく繰り返し、時おり裏返しては焼き加減を調節する。そうして仕上がった三本は直後、ワインを注ぐソムリエのような優雅な手つきで、包み焼きに使われるような巨大葉の上に乗せられた。
「はいよ。三本だ」
ずいと差し出されるそれをカズマが受取る。
同時、半歩踏み出たオックスが、店主の手に銅貨を六枚落した。
「六Gですね」
「確かに」
カズマは歩き出しながら、一本をエリックに、もう一本をオックスに渡した。
「えっ、僕もいただいてよろしいのですか」
小動物的に目をくりくりとさせる年少者に、カズマは弟を見たような感覚を得て思わず微笑む。
「そのために三本買ったんだよ」
「ありがとうございます、先生。ご馳走になります!」
「ところでこのイカって、インカルシから仕入れたんだよね」
誰にともなく素朴な疑問を投げかけながら、カズマは自分の分に齧り付いた。甘みとコクを兼ね備えた、どこか醤油を思わせるタレの旨みと、熱を帯びたイカだけが放つ特有の芳ばしさが口いっぱいに広がる。
日本の祭り屋台で味わえるお馴染みのそれとは、またどこか風味が違った。しかし、「これもありか」と思わせるには十分な味と言えた。
「先生がおっしゃる通り、このイカ焼きはインカルシで水揚げされたものだと思います」
齧歯類のように一生懸命にイカを咀嚼しながら、オックスが言った。
「でもこれ生ものだよね。冷凍車とかこっちにあるわけないし、馬車だと運んでる間に腐っちゃいそうだけど」
「そこはたぶん、温度操作系の宝貝を使ってるんじゃないでしょうか」
「――ん、宝貝? 封貝ではなくて?」
訊くと、オックスは刹那、虚を突かれたような表情を見せた。
が、すぐに一転。何か自分の中で合点がいったらしく、得心顔で首肯し始める。
「そうですよね。本物を持っている人は、その劣化版や廉価版なんて眼中にないですよね」
「封貝の劣化版があるの?」カズマはまじまじとオックスの顔を覗き込む。「それが宝貝?」
「そうです。封貝のように色んな効果が封じ込められた鉱石の一種です。――あ、逆かな。特殊な鉱石があって、それに生活に役立つ様々な効果が付咒されている、と言った方が正確ですね。
火をおこす、氷を生み出す、光を放つ……効果は色々ですが、基本的に封貝とは比較にならないほど弱く小規模で、しかも一度引き出せばそれきりの使い捨てなんです」
一方で、宝貝は誰もが簡単に使うことができる。選ばれた者だけが所持し、選ばれた者しかその力の恩恵にあずかれない封貝との最大の相違点であり、優位点でもある。
「コンピュータソフトの無料体験版とか、ああいう感じかな。それともホテルに用意されてる使い切りの袋入りシャンプー?」
話をエリックにも伝えると、彼は難しい顔でそうつぶやいた。
カズマとしてはどちらの喩えにも頷けるものを感じる。
「じゃあさ、このイカとかの場合、温度を下げるとか、物を凍らせるとか、そういう能力の魔石的なものを使って、インカルシから鮮度を保って運んで来てるってこと?」
「おそらく」
オックスが短く言った。彼の表情は、それがごくありふれた日常風景であることを物語っている。
「その宝貝っていうのは、簡単に手に入るものなの?」
「お金次第ですね」
オックスは軽く肩をすくめる。
「つまり、市販はされています」
貧民にとっては高価な代物だが、インカルシのような大都市では多くの人間が日常に取り入れている。水や衣類のように、生活を支える基本的な物の一つなのだ。そう、彼は付け加えた。
「専門店とかあるの? この村にも売ってる店ある?」
「宝貝は、大きく三つのルートで売買されています。一番、大きな市場が先生の仰った専門店です。宝貝を専門に扱う商人が、契約している付咒職人の組合から多種多様な宝貝を大量に仕入れ、店舗で取り扱っています。これは、テズピ村にはないでしょう」
「他の二つは?」
「ひとつは、付咒の才能を持った個人が細々と露天なんかで売りに出してる分ですね。テズピで宝貝を手に入れることができるとしたら、このルートです」
「個人で売りに出してる人が、職人にならずギルドにも入らない理由はなに?」
「まず、ギルドに入るためには一定の技術検定がありますから、才能があるからといって望めば誰でも、というわけにはいきません。入れたとして、新入りは長い下積みを求められます」
「保護を受けられる反面、義務や制約も付きまとうってことか」
「そうです。だから、職人になれるほど我慢強くないとか、技術がないとか、縛りが嫌だっていうタイプは個人でやってます。彼らは野良職人とか言われてますね」
彼ら野良職人の製品には、ギルドのそれと違って品質保証がない。一方で、ギルドの純正品と比較した時、大変に安価である。このことから、貧しい者たちはこちらへ流れることが多いという。
――電化製品なんかと同じだな。
それが、話を聞いたカズマの印象であった。
性能が良い上に故障も少なく、咥えてサポートも手厚い国産品。安いが品質にバラつきがあり、もしもの時の補償がほとんど期待できない途上国の廉価品。現実世界でも、どちらを選ぶか収入によってある程度、棲み分けができていた。どの世界にも似たようなことは起こりえると言うことだろう。
「で、三つ目のルートってのは?」
「三つ目は、冒険者たちが遺跡や迷宮などで手に入れた戦利品としての宝貝が生む市場ですね」
そこまで言うと、説明に迷ったように一瞬、オックスは口を結んだ。
「これはちょっと特殊なんですが――」断った上で続ける。「ええと、彼らは発見した宝貝を連盟に売るんです。そして連盟は、それを必要とする別のレイダーや、一般客に売ります」
「それのどの辺が特殊なの?」
「一般にもとは言いつつ、基本的に加盟者へ優先的に融通するのがお約束になってるんです。だから、ほとんど連盟内だけで需要も供給も回っちゃってるのが現実なんですよ。だからこのルートに限っては、お金より人脈や連盟内での地位が大きく物をいうんです」
「なるほど。レイダーが仲間内で売り買いしちゃうから一般人には回ってこないんだ」
と、そこでカズマは顔を上げた。
「そうだ。僕、レイダーについてオックスくんに色々聞きたいと思ってたんだよね」
「レイダーですか?」
「うん。あとで詳しく話すけど、僕とエリックさんはちょっと人を探しててさ。だったらレイダーになって連盟の情報網を利用するのが一番の近道だって、ある人に言われたんだ。これは正しい?」
カズマの問いに、オックスは一度、深く頷いた。そして厳かに言った。
「疑問の余地なく、正しいと思います」
「そっか」
とすると、エォラは少なくともその部分において真実を語っていたことになる。
これは最初から予想がついていたことだ。
最終的に騙して売り飛ばすつもりにせよ――否、だからこそか――彼女はカズマたちから信用を勝ち取らねばならなかった。油断させるために親切な女を装う必要があった。ならば最低でも薬が効き始めるまでは、下手な嘘を吐いたりはしなかったであろう。
「レイダー連盟は世界各地に支部を展開してるって聞いたけど、もしかしてこの村にもあったりするのかな」
カズマは無意味と知りつつ、それらしきを探すように周囲を見回してしまう。
実際には該当する建物があったとしても、字もシンボルも知らない以上、気付きようがない。それ故の無意味だ。
「いえ、さすがにこの規模の小村に支部はありません。でも、出張所ならありますよ。もう通り過ぎちゃいましたけど、村の入口近くにあるんです」
言って、オックスはそちらを振り返る。
「えっ、そうなんだ? それはちょっと興味あるな」
カズマも釣られて背後へ視線を投げた。会話についていけないエリックが、それを見て怪訝そうに瞬く。
「でも、先生。今日はお休みですよ」オックスが苦笑した。「出張所には支部と違って常勤の職員がいないんです」
ではどのように機能しているのかと問えば、四日に一度、当番の職員がインカルシからやって来るのだという。その際、限られた手続きだけまとめて処理する。たとえば、先程の話にあった宝貝などの買取りも対象業務の一部だ。この他、連盟への依頼受付、完了した依頼の結果報告などもそうである。
「でも、新規メンバー登録はその事務内容に入ってません。だから先生がお望みであっても、テズピ村でレイダーになることはできません」
「それは残念だなあ」
言葉とは裏腹に落胆はなかった。
レイダーになる。連盟に加入する。これらの優先順位は、現状においてさほど高くない。
今、求められているのは一秒でも早くインカルシへ辿り着くこと。そしてナージャの行方を捜し、また奴隷商に売られたという少女がヨウコであるのかを確認することだ。
「そろそろ、どこかに腰を落ち着けたいね」
言って、カズマは隣を歩くオックスに顔を向けた。
「どこか、あまり人に聞かれたくない話を落着いてできるところってあるかな?」
「でしたら、〈セリィと銀の蜥蜴亭〉はどうでしょう?」
どんな店か。問うと、この村に三つある酒場の内のひとつだ、という返答があった。
その名の通り、セリィという女性が一人で切り盛りしているこじんまりとした店らしい。夕食には早いためまだ客は少ないであろうし、なによりこの〈セリィと銀の蜥蜴亭〉には、酒場には世にも珍しい「個室」がある。
これは、セリィの父親がまだ存命であったころに作られた訳ありのスペースなのだ、とオックスは説いた。
というのも、重度のアルコール依存症であった彼女の父は、店の酒に手をつけては客にくだを巻くため、商売を続けるためにも速急な対策が必要になったのだ。
結局、身内の悪行に業を煮やしたセリィは、父に酒瓶を抱かせ、尻を蹴っ飛ばして鍵付の小部屋に叩き込むことを思いついた。自宅に追い返しても、その度にフラフラと店へ舞い戻ってくるため意味がない。第一、それだとセリィは何度も店を空けてしまうことになる。なんとしても、店内に隔離空間が必要であったのだ。
「もう、そのお父さんは亡くなって、誰かを閉じ込めるための個室は必要なくなりました。今では半分、物置みたいになっています。でも、セリィさんにお願いすれば個室として使うこともできます。村人はほとんど使わないそうですけど、たまに僕らみたいな余所者が商談だとか、そういう用途で必要としますから。まったく需要がないわけでもないんです」
「良いね」
カズマはイカ焼きの串をパイプのように咥えたまま微笑んだ。軽く吸うと、まだ芯に残ったタレの味が微かに染み出てくる。蓋の裏についたアイスを舐めるような――ヨウコあたりに言わせると品位を欠いた――真似であるが、カズマはそういうのが嫌いではない。
「そのお店の場所、教えてくれる?」
「えっと……」オックスが柔らかそうな眉を少しハの字に近づけた。「良かったらご案内しますけど」
「うーん。でも、時間も節約したいんだよね。オックスくんはちょっとこの辺回って、インカルシまでの間に必要な物を買い揃えて欲しいんだ。食糧とか水とか、他にも僕らが気付かないような道具とかね。これは、相場を知ってる君にお願いするのがベストだと思うんだよ」
逡巡する様子を見せながらも、最終的にオックスは了承してくれた。カズマがエリックと二人で何か相談したがっている、ということも察した上でのことだろう。短い付き合いの中からでも、彼の聡さはもう充分に伝わっている。
オックスと別れ、エリックとふたり通りを歩いた。
目抜き通りをこのまま真っ直ぐ――。言われた通り、気をつけて道の左手に注意していると、目的の店はすぐに見つかった。
そもそも人口一〇〇人前後と思われる小さな村だ。宿場町として余所者が多く逗留しているにしても規模などたかが知れている。目抜き通りは全長でも精々《ぜい》数百メートル程度。金属を切り抜き、蜥蜴のシルエットを象った看板は五分もせずに発見できた。
セリィは俗に言う「肝っ玉母ちゃん」を体現したような、恰幅のよい中年女性であった。酒樽を模したような胴体に、カズマの太腿ほどはあろう二の腕。アームレスリングを挑んだ日には開始一秒で身体ごとテーブルに叩きつけられ、手首の関節を奇妙な方へねじ曲げられることになりかねない。
この女なら、確かに質の悪い酔っ払いを相手に独りで酒場を切り盛りすることも可能であろう。強くそう確信させる人物だった。
オックスの予想通り店内はまだ閑散としており、セリィとの交渉も落着いて行うことができた。店主はオックスの名をしっかり覚えていた。彼の名を出すと途端に相好を崩し、要望通り個室に案内してくれる。
店は狭く、カウンターの後ろには酒瓶だけではなく日用品の類が所狭しと並べられており、酒場というよりは雑貨屋の様相を呈していた。
話にあった個室は、狭い店の右奥隅にへばりつく、本当に物置然とした小部屋であった。奥の二方は外に面した店の壁。もう二方は、酔っ払い共が奇声をあげて暴れても問題ないよう、それなりに分厚くがっしりとした木材で隙間なく組まれていた。ドアはもちろん、どの壁にも窓は一切なく、外から丸太のように頑丈そうな閂をかけられると、内側からは出られないようになっている。
「僕らの感覚でいうところの、コンビニみたいな存在なのかな。ここは」
個室内に設えられた四脚の椅子のひとつに腰を落ち着け、エリックがつぶやいた。
「コンビニですか」
テーブルを挟み、その対角線上の席に位置取ったカズマは、座る前にまず腰のナイフベルトを外しにかかった。人攫い一味の御者から奪ったものだ。
「うん。日本のコンビニチェーンって、元は酒屋をやってた個人商店を取り込んで、看板を変えさせる形で広がっていったらしいよ」
へえ、と思いながら椅子に腰掛ける。瞬間、鋭い痛みがカズマの臀部を突き抜けた。思わず悲鳴を上げて飛び上がる。
「えっ、なに?」エリックが血相を変える。「大丈夫?」
カズマは片目を閉じて痛みと闘いながら、手振りで問題ないと伝えた。
「長いこと馬車の運転席に座ってたんで、どうもお尻が――」
「痛いの?」
「坐骨って言うんですか、お尻の尖った骨。あの辺がズキズキします」
「ランコォル種はスピードが速いし、道はがたがたで結構、振動がきてましたからね」
カズマは痛む尻を撫で宥めながら、今度はライオンに餌を差し出そうとするようにそっと腰を落ち着けた。それでも痛みが走るが、さっき程ではない。
「――それにしても、コンビニってお酒の専門店が何でもお酒も扱う何でも屋に方向転換してできたんですね。知りませんでしたよ」
「二〇世紀の話だからね。とにかくそれでいくと、ここは色んな生活雑貨も扱ってるみたいだし。似たような位置づけなんじゃないかなと思って」
流石、博識だな。素直に感心しているところへ、巨大なシルエットが出入口を塞ぐように聳え立った。
「それで、なんにするんだい」
セリィが威勢の良い声を発する。
「ええと、我らが財務大臣ことオックスくんが財布を持ってくるまで、僕らは預かってきた七G分の銅貨しかないんですけど――」
そんなはした金しか持たずにウチの暖簾を潜ったのか。激昂した彼女から分厚く巨大な平手打ちが飛んでこないことを祈りつつ、カズマはおっかなびっくり切り出した。
「とりあえず、これで注文できるものはありますか?」
「腹、減ってんのかい?」
「ええ。ここのところ、ほとんどまともな食事をとれてなくて」
「二人で七Gなら、白身魚を揚げてほぐしたものに、豆とウルチ麦で作ったヌードルを混ぜたものが出せるよ。それが一番、量も稼げて腹持ちも良い。クセもそんなに強くないから、余所者でもたぶん口に合うはずだよ」
ただし、酒は無理だ。彼女はそう言った。何か飲みたいなら水以外にない。テズピ村は水資源に大変恵まれているため、料理とセットなら飲料水は無料でサーヴィスできる。
「じゃあ、その料理とお水で」
「はいよ。ちょっと待っといで」
扉が閉められる。遠ざかっていく重たい足音を聞きながら、カズマはエリックに向き直った。オックスが帰ってくるまでに、どうしても話しておくべきことが幾つかある。どれも持ち出しにくい話題ばかりであるが、まごついている時間はない。
カズマは鼻から大きく息を吸い、そして吐いた。正面からエリックと目を合わせた。
「えっと、僕らを騙した人攫いたちから色々と情報を引き出したことは言ったと思います」
卓上、両手の指を組み合わせて話し出したカズマに、エリックは無言でひとつ頷いて返した。
「でも、時間の関係もあって、彼らから聞き出したことの全てをお話できたわけじゃありません。最悪に酷い情報がひとつあります。ただ、それを言う前にひとつ相談事を済ませておきたいんですけど。構いませんか?」
「うん。僕はなにか要求できる立場にないしね。カズマくんに任せるよ」
「相談事っていうのは、オックスくんに僕らのことを話すかどうかです」
「と言うと、異世界から〈果ての壁〉を越えてヨウコさんを探しに来たということを知らせるってこと?」
「そうです。何度か試してみて痛感したんですけど、やっぱり伏せたままだと話を進めにくいんですよ。オルビスソーの住人であれば当然のように知ってることは、質問するとどうしたって不自然になります。僕らくらいの年代で、お金の価値をまったく知らないとか普通に考えてあり得ないでしょ?」
「だね」エリックは眉間に小さく皺を寄せて認めた。「色々隠しながら不自然さを感じさせることなく情報を得るっていうのには、確かに限界があると思う。実際、僕は見てることしかできなかったけど、幾つかの質問にオックスくんが変な顔をしていたのは感じられたよ」
「そう。宝貝のこととかね。あれってたぶん、僕らで言うならクラスメイトからスマートフォンってなに?……って聞かれるくらい奇妙な質問だったと思うんですよ。どう考えてもおかしい。普通に生活してたら知らないわけがない」
羽が生えたばかりの天使のように無垢なオックスだからこそ、まだ助かってはいる。だがいつまでも誤魔化せるとは思えなかった。なにより、彼に対して不誠実でもある。
「ころっと騙されたばかりなのに、会って間もない相手を全面的に信用して、自分たちの秘密をほいほいオープンしちゃって良いのか、って話もあると思うんですけど……」
「そこは悩みどころだよね。オキシオさんやオックスくんを見る限り、彼らは信用していい気もするんだけど。でもカズマくんの言う通り、あっさり騙されて売り飛ばされるところだった前科を考えると、自分の判断力にそう信頼を置けそうにない」
だが、結局のところ選択の余地はないのではないか――。エリックはそうも考えているようだった。
話すことにリスクはある。だからと言って、話さなければオルビスソーではやっていけない。
「勝利者になれるのは、リスクを承知で恐れずに勝負をしかけられる者だけ、でしたっけ」
言って、カズマはうろ覚えなりに言ってエリックにちらと視線を投げた。こちらに来たばかりのとき、彼の口から聞いた記憶のある、一種の哲学だ。
「そう」薄ら笑みを浮かべつつエリックは認めた。「今はその勝負の時である気がするんだ」
「じゃあ、オックスくんが来たら、とりあえず基本的なことは打ち明けて助力を請うという方向で?」
「うん。そうするしかないと思う」
その一言を最後に、短い沈黙が場におりた。いつもと違い、どこか重々しさを伴った息苦しい間である。
幸いにも直後、セリィがやって来て山盛りの料理二皿と共に湿った空気を一変させてくれた。大型水差し《ピッチャー》満載の水もつけてくれ、カズマとエリックはまずこれに飛びついた。
料理の方は、皿いっぱいに敷き詰めた半透明の麺の上に、衣をつけずに揚げた白身魚のほぐし肉と、小量の卵、グリンピースに似たものとエンドウのような莢付、二種類の豆を混ぜた、エキゾチックな一品であった。セリィの言う通り、豆を除いてはあまり香りが強くなく、味付けも塩をベースにかなりシンプルに仕上げられていた。
「これ、ビーフンじゃないかな」
エリックは二股の細長いフォークに麺をからめ、まじまじとそれを観察している。
「あ、やっぱりエリックさんもそう思いますか」
「少なくとも僕には違う物には思えない」
「エォラさんが出してきた眠り薬入りのお粥を見た時も思いましたけど――」
「うん。フ=サァンだっけ。この国って、食文化が日本に近いよね。ビーフンって確か、米から作った、いわゆる米製の麺食品だったはずだし。彼らはお米を食べるんだ」
「イカ焼きにしてもそうですし」
「セリィさんはこのビーフンを、〈ウルチ麦〉のヌードルって言ってたんだよね? と言うことは、オルビスソーでは僕らが米と認識しているものにかなり近いものをウルチ麦って呼んでるのかもしれない」
「お米が食べられそうってのは嬉しいなあ。長居したいとは思えないけど、そうならざるを得ない場合、食の問題は大きいでしょうしね」
努めて明るい話題を維持し続けているのは、この後に待っているものが何であるかを知っているからだった。
だが、いつまでも避け続けるわけにはいかない。
皿が空になり食器の鳴る音が途絶えてしばらく、カズマは意を決して話を切り出した。
それはもちろん、ヨウコのことだった。
ここの数日のうち、アグリという運び屋が若く美しい少女をインカルシに運んだこと。彼女を捕まえたのは恐らく野盗のような集団であり、連中から――そしてアグリからも――女性としての尊厳を踏みにじるような虐待を受けたであろうこと。その後、奴隷商に売り飛ばされてしまったこと。彼女を買ったのが〈乱捕〉ウォーカーの通り名で知られる力をもった奴隷商であること……。
人攫いを痛めつけて聞き出した情報の全てを、包み隠さず話した。一部、あまりの居たたまれなさに表現を濁したところは、確かにあったかもしれない。が、前後の文脈から容易に事実を察することができるような説明にはなっていたはずである。
そのことを裏付けるように、話を聞くエリックの顔からは血の気と表情が急速に失われていき、最後は震える手で頭を抱え動かなるに到っていた。
そんな……。
カズマが気付いた限り、彼は掠れた小声で五度以上、そんなつぶやきを繰り返した。それから突然、腕を解き、ばっと顔を上げて天井を振り仰いだ後、また食卓に齧り付くようにして突っ伏す。
「僕も話を聞いたとき、血が沸騰したような感じになりました。気が狂いそうだった」
聞こえているか怪しいものであるが、それでもエリックのつむじ辺りを見詰めながらカズマは言った。
「ただ、今は幾分落着いています」
「よくも――」
弾かれたように上体を起こし、エリックが恨めしげにカズマを睨めつける。
だが、彼に皆まで言わせず、カズマは言葉をかぶせた。
「僕は、その少女がヨウコである可能性は低いと考えています」
エリックは体勢と表情をそのままに、ただ下顎だけをかくんと落した。
声も出ない様子の彼に、カズマは諭すような口調で続けた。
「現実世界側から〈壁〉を越えた人間は、オルビスソーのどこかへ無作為に転送される。思い出したんですが、確かサトミさんからそんな話を聞いた覚えがあります。シゲンさんも同じようなこと言ってたかな――?
だとしたら、〈壁〉へのアプローチが全く違った僕らとヨウコが、広いオルビスソーの中でこんなにも近い距離感を保って転送されるとは思えない。普通、もっとバラけるでしょ」
火星からランダムワープで地球に向かったタコ型星人が、そろって日本の東京に実体化したようなものだ。世界の広さを考えれば、これは天文学的な確率になるだろう。陸地限定に設定されていたとしても、サハラ砂漠と中国山奥くらいに散けるのがむしろ当然なのだ。
「エォラさんの話によれば、オルビスソーは本土って呼ばれてる大陸があって、そこが大部分を占めてるはずです。このフ=サァンはオルビスソー本土から外れた、小さな島国に過ぎない。僕らとヨウコが同じ国のしかも同じ森近辺に転送されるなんて、ちょっとできすぎですよ」
「じゃあ……つまり、奴隷にされたっていう女の子は……」
地獄で見つけた蜘蛛の糸が幻でないことを願うように、エリックの口調はほとんど哀願に近いものになっていた。
「それは、ヨウコさんに条件が良く似た別人……ヨウコさんじゃないってこと? そうなのか、カズマくん」
「希望的観測かもしれませんけど、少なくとも僕はそう考えています」
一拍おき、エリックは魂まで抜き放つかのような長い溜め息をついた。それから全身を弛緩させ、どっと背もたれに崩れかかる。
自分がガンではなかったと知った患者のようだ。カズマはなんとなくそう思った。
健康診断で腫瘍の存在を指摘され、ガンを――その果てにある死を半ば覚悟した者。それが精密検査の結果、良性腫瘍であったと知らされたとき、きっと同じような反応を見せるのだろう。
「――というわけで、僕らは異世界人です」
オックスが戦利品のように購入物の数々を引っ提げ、〈セリィと銀の蜥蜴亭〉に合流したのは、それから一〇分ほど経ってからだった。
カズマは「重要な告白がある」と着席をうながし、オックスが駆けつけに一杯の水を飲み干すのを見届けるとすぐに口を開いた。事前の打ち合わせ通り、話せる限りの全てを語った。膝の上に両手を揃え置いて畏まるオックスは、黙って耳を傾けてくれた。質問を挟むことはおろか、一度として小声すらあげることなく聞いていた。
自分たちが地球と呼ばれる、月が一つしかない世界の出身であること。そこへ突如として〈果て〉が発生し、世界の半分が喰われたこと。続発する神隠し。謎の人体消失。
そして、千葉ヨウコという名の少女と、彼女にまつわる物語。
かいつまんだつもりだったが、思いのほか長い話になった。しかしおかげで、恐らくは
必要なことを包み隠さず語ることができただろう。
もちろん、問題がなかったわけではない。そもそも、信じてもらえるのか。まともにとりあって貰えるのか――?
なによりそれが、それがエリックとも共通する最大の懸念であった。
が、目を丸くし、口をぽかんと開きながら聞き入っていたオックスが最初に発した一言は、そうした予想の斜め上をいくものであったと言わざるを得ない。
すなわち――
「……じゃあ」と乾いた唇をちろと舐め、「……じゃあ、あの……先生方はつまり……神なのですか?」
上目遣いに彼はそう問うたのである。
「えっ、神?」
これにはむしろカズマたちの方が驚愕させられたと言って良いだろう。
「なんで? えっ、今の話からどうしてそうなったの?」
「だって、現在、このオルビスソーに御座す神々は、誰もが別の世界から降臨されたっていうじゃないですか。新たな現人神の一柱として数えられ始めている彼の処女王ジャンヌも異世界から来たと広く明言されておられますし」
カズマは無表情でその言葉を受取り、右から左へ流すようにエリックに通訳して伝えた。
それから同様に顔を能面のように変えてしまった彼と、たっぷり一〇秒ほど見つめ合った。
「あの……この世界には神様がいるのかな」
硬直が解けた後、カズマは油ぎれを起こしたようなぎこちなさでオックスに向き直った。
「はい」
お前には心臓があるか、と聞かれたかのようにオックスは頷く。
「おられます」
「存在すると信じられているではなく、いるの? 実際に会ったり話した人がいると?」
「もちろんです」
それはまたしても力強い肯定であった。
「僕たち先住民族が信仰する女神イレス様などは、時々、オクスゥの集落においでになりますよ。あの方はお祭りの神様でもありますから、大規模なお祭りが催される時は飛び入りでよくおいでになります。陽気を好むとても活発でお優しい女神様ですよ。
一番新しい神として信仰の対象になり始めている処女王ジャンヌ様に到っては、その称号通り、本土南東に浮かぶ女性だけの島国、神聖ヴェイレス王国を統治される元首として、日々執務に追われておられるじゃないですか」
「いや、じゃないですか――と言われても。女王様が神様の国があるってこと?」
カズマは呆然とつぶやき、またエリックと顔を見合わせる。
日本の天皇もかつてそうであったと聞くが、ある国の王や皇帝がその権威を裏付けるため、自らを「神の化身」や「代弁者」と位置づけることは珍しくない。
もちろん、地球でのそれらは一つの例外もなく騙り――すなわち勝手に決めた設定上の話に過ぎなかった。
しかし、異世界では少し事情が違うらしい。少なくともカズマにそんな予感を抱かせるほどには、オックスの態度は強い確信を秘めていた。
「で、なに。その神様ってスゴイの?」
「もちろんです。神出鬼没だし、姿を自由に変えたり、そもそも人間の姿をしていない神もおられます。姿を変えないこともできます。たとえば、イレス様もジャンヌ様も一〇〇年前からずっと同じ姿をされています。また、基本的に死の概念を超越しているため人間が滅ぼすことはできません。もちろん、封貝使いにも同じ事が言えます。
逆に、神に挑み、その怒りに触れて殺害された封貝使いの中には、事実上の最高位である伝説級レイダーすら何人も含まれています。だからこそでしょうね。数年前に邪神イスを単独で殺した〈雷帝〉が、神話級の称号を与えられたのは」
「〈らいてい〉?」
その響きに何か引っかかるものを覚えながらも、カズマは訊ねる。
「――〈雷帝〉ヒウン。オルビスソーの誰もが認める、世界最強の封貝使いです」
まるで忌み名を口にするように、オックスは声をひそめた。トーンを下げたまま続ける。
「もともとその最強説を裏付ける〈破壊の杖〉は全封貝中最強の破壊性能を持つともっぱらの噂で、やもすれば神すら滅せるのでは――とまことしやかに囁かれてはいたんです。邪神イス殺しは結果的にそれを証明したことになり、あれがきっかけで彼女は名実共に最強の座を確固たるものにしたんです」
「彼女ってことは、〈雷帝〉は女のひとなんだ?」
「はい。〈雷帝〉は若い人間女性の姿をしています。素性を知る者は少ないですが、結構色んなところで目撃されてますから間違いありません。先程お話しした処女王ジャンヌとも懇意にしているそうですし、僕も映像でなら見たことありますよ。背中まで伸びる黒髪に、同じ色の黒い瞳。肌の色も含め、伝えられている姿は人種的な意味で、先生に共通する部分が多いですね――そう言えば」
「上位の封貝使いって、そんなにヤバイのがいるんだ……」
「彼女の持つ〈ヴァナルガンド〉は不定形のケイン系封貝で、無限大の射程と雷速の攻撃速度を持ち、封貝使いの肉体は勿論、影や魂、概念といったものまで焼き尽くしてしまうと言われています」
「えっ、雷速ってそれ、光の速さってこと? で、射程無限大? 反則じゃないか……勝てるヴィジョンないでしょ、そんなの」
森の木々をマッチ棒のように薙ぎ倒していくナージャにも驚かされたが、彼女はまだ可愛いレヴェルであるらしい。
「だから神殺し――神話級の称号持ちなんです」
「そんなのいたらさ、たとえばフ=サァンが攻められたとして、全軍あげて抵抗したとしても勝てなかったりするんじゃないの?」
「もちろん、その危険はあります。そもそも数人集まれば国家転覆の危険があるというのが、英雄級の認定基準ですから。その上の伝説級、神話級ともなれば、危険があるではなく不可避になるでしょうね」
それはもはや歩く水爆じゃないか――。思いはしたが、口には出さなかった。
あの原爆を単なる起爆装置として扱い、桁違いに強力な破壊を生む水素爆弾。通称、水爆。そんな現代兵器を持ち出したところで、オックスに通じるはずがなかった。
「とりあえず、ヒウンって名前の女の人と会ったら、犬として可愛がってもらえるよう全力で媚びるか、無言で財布渡して許してもらうことにするよ」
「僕は女神イレスに祈ることにします」
「はっきりさせておくけど、僕は異世界出身でもそういう変態的な人たちとは違うから。もちろん神でもなんでもない。封貝は一応持ってるけどね」
「そう、でしたか……」
オックスはどこかぼんやりと囁き、定まらない焦点を手元のコップに向けている。水の注がれた木製のグラスは今、彼の少女のそれと見まごう繊細な両手で包み込むように握られていた。
「信じられない?」カズマは微笑みながら問う。
「あ、いえ――」オックスはぷるぷると急いで首を振り、「そういうわけではありません」すぐに落ち着きを取り戻した口調で続けた。「と言いますか、お話をうかがって合点がいったというか、どちらかというと腑に落ちる部分が多かったので」
「あ、やっぱり?」
エリックにも伝えると、やはりばつの悪そうな苦笑いを浮かべている。
「時々、先生がたは……その、失礼ながらどこか浮世離れしすぎた雰囲気がありましたから」
オックスが言葉に気をつけながら、といった様子でカズマを見詰めた。
「たまに不思議に思ってはいたんです。でも、確かにオルビスソーの外の方だというなら、説明はつきますし納得もいきます」
セリィが皿を下げに来たため、カズマたちは追加をオーダーした。
店にはそろそろ夕食を求める客が集まりだしたらしく、開け放たれた扉の隙間からこれまでなかった喧噪が忍び込んでくる。
しばらくして運ばれてきた、塩で味付けされたヤキトリは絶品であった。久しぶりに取り込んだタンパク質と、口の中で弾ける肉汁が染み込むように全身に吸収され、そのまま活力となっていく感覚があった。萎れかけていた細胞が目覚め、活性化された気すらした。
その後も、皿は続々と届いた。
親指ほどのエビと、こりこりとした食感が心地よいクラゲ風の白い海産物を混ぜた野菜炒め。胡椒に良く似たスパイスのきいたオニオンベースと思わしきスープ。向こうが透けて見えるほどの透明度を持った、鯛のように紅い皮を持つ魚の刺身……
シーフード料理の洗練度においてはオルビスソーの最先端をいく。そんなオックスの触れ込みとセリィの太鼓判は伊達ではなく、カズマたちはその多彩なフ=サァン料理に舌鼓を打ち、柑橘系の甘酸っぱさが爽やかな果物のフレッシュジュースで存分に喉を潤して、多幸感に包まれながら店を出た。
「そう言えばさ、オルビスソーってどうやって時間を把握してるの?」
膨らんだ腹をさすりながら、カズマははたとそのことに気付いた。
「見たところ、時計的な物は普及してないみたいだし……」
「インカルシやネクロスみたいな大都市には時計台がありますよ。商人たちは店舗に時計を置いていますし、懐中時計を持っている人もいます」
言って、オックスは目抜き通りの奥に向けて、まっすぐ右の人差し指を伸ばした。
「こういう村では大抵、時刻を知らせるための鐘楼が存在するんです。テズピにも――ちょっと見えにくいですが――この先にありますよ」
「えっと……」
すぐには理解できず、カズマは眠った語彙を掘り起こす必要があった。
「しょうろうって鐘のことだっけ。それを決まった時間にカランコロンやるってこと?」
学校の予鈴のように、とまでは言わなかった。当然、オックスに通用するわけがない。
「大体、そういうイメージで正しいと思います」
オックスはにこりとして認めると、表情を戻すと同時に話題を新たにした。
「それで、これからどうしましょう。まだ少し、馬の引取りまでは時間があるみたいですし」
訊ねると、彼はカズマとエリックに検討に必要な時間を充分に与えた。そして、自らまた――今度は提案の――口を開いた。
「良かったら、少し汗を流しませんか?」
えっという顔をするカズマに、オックスは井戸の存在を教えた。
つまり、テズピ村が水資源に全く不自由していないことには何ら誇張はない。その証拠として、村のあちこちに公共の水場が開かれている、というのだ。
「実は、古着が安く売られていたので、先生たちの分を買っておいたんです。やっぱり、今お召しのものはフ=サァンでは人目を引いちゃうので、着替えついでに水浴びでもどうかと。先生に中古品なんて失礼かと思ったんですけど、旅人を装う以上は、ある程度、着慣れた感じがあった方が良いと思いまして。すみません」
確かに、オックスの指摘には一理あった。
ナージャさんのことで色々と動かなければならないことが想定される以上、変に目立つのは得策ではない。
服なら例の運び屋から奪ったものが一着あるが、カズマには大きすぎ、エリックにはやや小さいという中途半端さだ。こちらの社会を熟知するオックスの目から、それらしい着衣を選んでもらった方が何かと無難であろう。
エリックも、オックスの提案と先見を素晴らしいものとして賞賛した。全員の意見が合ったことで、水浴び案は即時採択される。
オックスの案内で手近な公共井戸に向かい、農作業の汗と泥を洗う住人達に混じって水を被った。
これはまた、食事とは違ったたまらない爽快さがあった。
もちろん、石鹸のような上等なものなどない。裸になる。頭の上で、水満載の桶をひっくり返す。オックスが調達してきた手拭いで身体を拭く。ただそれだけ、最低限の沐浴であった。
だが、ここ数日は、垂れ流しの汗を服か腕で払うことしかできなかったのだ。
数々の肉体労働と、長期間の徒歩での移動……
指で頬をこすれば、しゃりというザラついた感触があり、確かめてみると白く結晶化した汗がついている。そんな状況であったのだ。
全身、汗と得体のしれない汚れでどろどろ。ベトつき、髪も皮脂に塗れて不快感は頂点に達していた。
カズマはもともと幼児のように薄い方だが、肉体的に成熟したエリックなどは頭髪より少し濃いめの、茶色い無精髭が頬にまで目立ち始めていたほどである。
ほどよく冷えた大量の清水で、一気に汗を流し落す爽快感。毛穴に詰まった油汚れがすっと消えていく心地よさは、なかなか筆舌に尽くせるもではなかった。
「エリックさん。オルビスソーって、香辛料はあんまり貴重品じゃないっぽくなかったですか?」
ランコォル種の馬車を引取り、馬上の人に戻ったカズマは荷台に寝転がったまま、日本語で言った。
現在、御者席にはオックスが座っており、後部から発された声は恐らく車輪があげる轟音に遮られて彼までは届いていない。
「地球ではインドからシルクロードを通して、西洋諸国に遙々《ばる》運んでたらしいからねえ」エリックが同調してくる。「おかげで下手すると黒胡椒が金より高価な時代があったとか教科書に載ってたよね」
「こっちではそういう一極集中とか独占みたいなのがないんですかね?」
「と言うか、生態系からして違うみたいだしね。塩が植物から採れたり、何かの花粉がそのままカレー粉みたいな味だったりするかもしれない。たぶん、僕らの常識や知識はあまり通用しないんじゃないかな」
「じゃあ、スープの味付けに使われてた胡陞っぽいやつは、実はモンスターの糞を乾燥して粉にしたものかもしれないってことですか?」
「だとして、僕は全く驚かないな。むしろそれくらいの覚悟はしておくべきだよ。たとえばカズマくん、僕らが知ってる地球で一番高価なコーヒーを知ってる?」
「高級ホテルのコーヒーでしょ。一杯千円くらいすることもあるとかないとか」
遠い世界の話に、カズマは鼻を鳴らしながら軽く肩をすくめる。
「そうじゃなくて、豆の種類だよ。結論からいうと、〈コピ・ルアク〉っていう高級品種があるんだけどね」
続く解説によると、なんでもそれには動物の糞が関与しているのだという。
ジャコウネコという動物が、その〈コピ・ルアク〉の豆を食う。これが未消化のまま排泄されたところを集める。それが、商品としてのコーヒー豆になるというのだ。動物の体内で腸内細菌がからんだり、発酵が進んだりして、独特の風味を生むという理屈らしい。一種の珍味と言えるのかもしれない。
「えっ」
カズマは露骨に顔をしかめ、喉輪を喰らったような呻き声を漏らす。
「それって早い話、うんこコーヒーじゃないですか」
「実際――」エリックは声を出さずに短く笑った。「そういう俗称もあるらしいよ。タイではゾウの糞から出てきた豆が〈黒い象牙〉とか言って高値で取引されてるっていうし」
「食事の前に聞かなくて良かったですよ」
だが、考えてみれば日本人が好んで食す納豆にしたところで、外国人からすれば腐って糸を引くグロテスクな豆だ。
生卵も同様である。
世界的にみると、鶏卵はサルモネラ菌に汚染されているのが普通なのだ。火を通さずに食べるのは、日本人と偉大なる〈イタリアの種馬〉くらいだと言われる所以だ。
「食については、ヨウコと仲間を別にすれば最優先の研究課題かもしれないですね」
このカズマのつぶやきには、エリックも神妙な顔で共感を示してくれた。
「プロ野球の外国人助っ人を見る限りでも、冗談抜きでその通りだと思うよ。食文化が合う合わないはとても大事だ。それに、何が食べられるのか、何に毒があるのかを知っていれば、森の中でもあれほど危機的な状況には陥らなかっただろう」
「あ、そう言えば――うんこコーヒーで思い出したけど、トイレってこの先、どうなるんでしょうね?」
「ああ――」
エリックは語尾をのばしながらそう言ったのち、難しい顔で考え込み始めた。
ここまでも当然ながら、そういう機会はあった。小用ならばそのまま、大きな方はエリックが携帯していたポケットティッシュを使い、木陰で、草陰で済ませてきた経緯がある。
だが、そのティッシュもいまや底を突き、補充のあてはない。
「こっちの人って、たとえば馬車での長旅の間とかどうしてるんでしょうね。というか、何で吹いてるんだろう」
「葉っぱ……とか? ことによると、それ専用のものがあるのかも」
考えたくない、といった硬い表情でエリックが言う。
「そもそも、ちゃんと拭いてたんだろうか」
「それに到っては、可能性として考えたくもないなあ。でも、そういう悪臭対策として香水が生まれた経緯を考えると、一概に否定もできない」
「中世ヨーロッパとか、街中でもその辺でやらかしてたんでしょ? 酷いトイレ事情だ」
「ツボや箱型のおまるにして、窓から道に投げ捨てたとか聞くね。まあ、場所にもよるんだろうけど」
「散歩してたら、上から人糞が降ってくるとか悪夢ですね」
「実際、日傘も紳士の帽子や外套も、窓から降ってくる汚物から身を守るための装備だとかなんとか。都市伝説かもしれないけどね。ただ、女性が着るぶわっと傘みたいに広がった足首まである長いドレススカートが、舞踏会で立ったまま用を足すために開発されたってのは事実らしいよ。当時のマナー本に記述があるとか」
「それ系のことは僕も聞いたことがあります。ヨウコがハイヒール絶対に履かないって言ってたし」
神妙な顔つきで言うと、意味が分からなかったのかエリックが怪訝そうに首をひねる。
「――ハイヒール?」
「中世フランスの人たちって、エリックさんが言ったみたいに家の窓から糞尿を投げ捨てるもんだから、街中の通りがその、排泄物で酷いことになっていたらしくて」
これを踏まずに歩こうという目的で使われていたのが、踵の高い靴。すなわちハイヒールであるのだ、とカズマは説明した。
「まあ、今の女性用のアレと違って、靴の上から重ねて履く下駄っぽいものだったらしいんですけどね」
「あれ? でも、どっかでは紀元前から踵のある靴、履いてなかった?」
「あ、そうなんですか? ならたぶん、長い歴史の中で、出てきたり廃れて忘れられたりを繰り返したんじゃないですかね。開発経緯とかもそれぞれで違ったんじゃないかな」
「今みたいに、純粋に背を高く見せるとか、脚を長く見せる美容方面から出てきた例もあったかもね」エリックが得心顔でいう。
「国が違うと文化自体入ってこないことも多かったでしょうし、価値観も違ったはずですからね。そもそも開発経緯と、実際の使われ方が同じとは限らないし。上流階級と庶民とでも用途や認識が違った可能性が高いんじゃないかなあ。たぶん、起源とか考えても無駄ですよ」
「で、今残ってるハイヒールはその排泄物避けの系譜に入る可能性がある、と――?」
「少なくともヨウコはその疑いを晴らせないから嫌だ、みたいに言ってましたね。まあ、一番の理由は外反母趾になりたくないからだったようですが」
「履かない理由がそうやって複数あるように、昔、ハイヒールが求められた理由も複数あったんだろうね」
「僕としては、糞尿回避がオマケ程度であったことを祈るのみです。綺麗な脚のお姉さんがハイヒール履いてるのを見る度、こんな話を思い出してがっかりするのは嫌ですよ」
そこで、一端会話は途切れた。
車輪が四角形になったように荷台が激しく揺れ始めたからである。
何事かと路面を覗き込むと、街道はのっぺりとした土ばかりのそれから、不揃いな石を雑に敷き詰めたできの悪い石畳へと姿を変えていた。
開けた両側が一面の穀倉地帯であることを考えると、答えはひとつ。
やはり、この辺りでは農道としての側面がより強調されているのである。
つまり、作物を積んだ荷馬車の車輪が重みで空転しないよう、石を滑り止めにしているのだ。である以上、路面は滑らかな平面ではなく、石の間に適度な隙間が生じたものである方が望ましい。
それは農民たちが滑りにくさと引替えに、振動というデメリットを受け入れたということでもある。迂闊に口を開こうものなら、舌を噛むこと必至の激しい凹凸を、だ。
無言地帯こと石畳区間は、おおよそ二キロほど続いた。
オックスの御者としての腕は確かなものらしく、その間、大きくは速度が落ちることもなかった。
街道周辺は相も変わらぬ田園風景が続いていた。
ちょうど稲作地帯であるらしく、水を張った田んぼに緑色の苗が等間隔に並ぶ、日本でも恒例の眺めが広がっている。
家畜、人間の糞尿を使った伝統的堆肥を使っているのか、湿り気を帯びた風に乗って独特の強い刺激臭が漂ってきた。これを揶揄的に〈田舎の香水〉と言うことがあるとは、誰に教えられたことであったか――。
到底無視できる匂いではないが、忌避するほどでもない。少なくともテズピ村では、窓から投げ捨てた排泄物が目抜き通りを覆っているようなことはなかった。それで充分である。
そんなことを思いながらカズマは一度目を閉じ、そして何度かゆっくりと呼吸を繰り返した後、同じくらいゆっくりと目蓋を開いた。
腕を枕、荷物の木箱を脚乗せ代わりに見上げる空は、〈果ての壁〉を知る世代からすれば現実感を欠くほどの快晴であった。
濃紺から菫色、そして澄んだ水色へと移ろって群青色に還っていくグラ―デーションは今日も息を呑むほど美麗だが、それは透明な天蓋が、ただ外側に広がる銀河を透かしているだけなのかもれしない。
とすれば、太陽だけが真に己の色を持ち、暖色系の彩を世界へ添えようとしていることになる。
――だが、その認識は誤りだ。
カズマは、仰向けのまま顎をあげて視野をずらした。
すると、死角になっていた旋毛方向の上空に、オーロラを彷彿とさせる光のカーテンの揺らめきが見えてくる。
オックスたち先住民族の瞳と同じ、その清澄なエメラルドグリーンの煌めきは、オルビスソーの住人たちに〈ライヴストリーム〉と呼ばれる神秘だ。
死者の魂が還る場所。または、封貝たちの故郷。地球から〈果て〉に呼ばれ、散っていった者たちの群体――
そのすべてであるのか、どれでもあり得ないのか。カズマはその答えをまだ知らない。
いつ見上げてもそこにある超弩級サイズの満月は、その秘密と何らかの関係を持つのだろうか。時の流れから唯一隔絶された存在のように泰然と佇むその姿に、思わずそんなことを考えてしまう。
「――オックスくん。今、どの辺なのかな? 走りは順調?」
トランシーバー代わりの無線を一個、御者台の飛ばして問う。オックスの近くには、別に一つ、拡声器代わりの封貝をひとつ置いてある。
この二つを組み合わせることで、走行音が轟く中でも起き上がって喉を筋張らせながら叫ばずとも会話することが可能だ。
「はい、先生」
御者台から拡大されたオックスの声が飛んできた。指向性を持たせてあるため、音はあまり拡散せず、サーキュレーターの風よろしく真っ直ぐに届いてくる印象だ。
「ランコォル種はやっぱり凄いです」その声音が少し興奮気味であるように聞こえるのは、封貝の加工のせいではない。「僕らオクスゥの馬の倍は稼げてますよ。このままなら、あと半刻もしないうちに次の――ツクフ村まで行けそうです」
オルビスソーは一日を十二分割し、その一つを「一刻」と呼んでいる。
こちらの一日が地球の感覚同様、二四時間であるという保証はない。ただ、仮にそうだと仮定すれば、一刻はおおよそ二時間前後ということになるだろう。
半刻となるとその半分。大体、一時間を目安にして良いはずだった。
「あ、じゃあ暗くなる前に着きそうなんだ?」
「ええ」
「ランコォル種の状態はどんな感じ?」
「預り所で良く休めたのか、石畳で消耗した様子もなくまだまだ行けそうな感じです」
「このペースで突っ切れば、夜のうちにインカルシに着けると思うんだけど。それが可能そうなくらい?」
「そうですね……確かに今のペースを維持すれば、インカルシまで二刻は必要ないでしょう。それくらいなら行けなくもないと思います」
二刻というと約四時間。馬車の時速を三五キロと考えれば、一四〇キロメートル走破できる時間だ。確かにお釣りがくる余裕の計算だ。
「なら、行こう。途中、夜中でも開いてる店がある村とか、そういう所があれば休憩入れても良い。少し仮眠とったら、あとで僕も御者台に回るよ。エリックさんにも操縦を覚えて貰う。暗くなってからも手綱を任せられるとオックスくんが判断したなら、交代で回せば良い」
ならば途中、〈レンカショップ〉という大きな街がある。できるなら、そこに寄りたい。オックスはそう応じた。
「僕に先行して出発した、もうひとつの陸路組のことは覚えてますか? ナージャさんとの引き継ぎができなかったなら、彼ら――サイト兄さんは、怪我したシスさんをそこに運び込んだと思うんです。毒の治療や命に関わる大怪我は手に負えませんが、あそこにも一応、それなりの治療師がいます。時間のことを考えれば、そこで手当と考えたかもしれません」
「疑問に思ってたんだけど、オルビスソーでは血が足りなくなるほどの大怪我ってどうやって直すの? 輸血ってある?」
「ユケツというのは、僕にはちょっと――分からないです。すみません」
オックスはつっかえひっかえにそこまで言うと、すぐにペースを取り戻して続けた。
「なんであれ、傷や毒は薬が効けばそれで治します。血が足りないといった、薬では手に負えないものは、治療の効果を持った宝貝が使われます」
「そうか――宝貝か。誰でも使えるんだよね。なんか特別な使用法とかある?」
あるのなら、是非とも早い段階から覚えておく必要がある。
「荷台の木箱に、革製の肩掛け鞄が入ってます。そこに、さっき買っておいた一番安い回復宝貝が一本だけ入ってますよ。細長い透明なビンです」
開けてその目で確かめて見ろ、という言外の響きを伴わせ、オックスが答える。
カズマはエリックにも話を通し、二人して四つある中型ダンボール大の木箱を漁った。
目的のものはすぐに見つかった。
確かに細長い透明のビンである。見て、実際に手に取ってすら、しばらくカズマはそれがガラス以外の何物にも見えなかった。
が、違うことはすぐに明らかとなった。
きっかけは馬車の揺れである。否、それはもはやバウンドというべきものだった。
大きめの石でも踏みつけたか、荷台が軽く一〇センチほどの高さの宙を舞い、二秒ほど留まったあと、思い出したように地に落ちた。手にしていた物を落したとして、なんらその責を追求しようとは到底思えない衝撃だった。事実、落したカズマに対し、エリックはなんら叱責の声をあげようとしなかった。
彼の第一声は、「今の金属みたいな音だったね」であった。
ポーションのビンが落ち、荷台の上で跳ねた時の硬質な音を示してのことである。
実際、それはカズマの優れた聴覚にも、キン――という金属音に近しいものと認識されていた。固まった液体であるところのガラスが立てる音は明らかに性質を異にしたものであった。
カズマが「宝貝は鉱石に近しいものだ」という話を思い出したのは、恐らくエリックとほぼ同時だった。ふたりして顔を見合わせる。
「――職人は宝貝に回復の効能を付与すると、ビン型に成形します」とオックスが言った。
そちらを見ると、荷台をちらと振り返った彼と目が合う。
「そのビンに純度の高い水とか蒸留水などを入れると、その水に回復の効力が移り、ビンに収まっている間は持続します」
「えっ、じゃあなに。注いだ水を回復ドリンクに変える魔法のビンなんだ? ビン自体に触っても、囓っても回復はしない――?」
「ビンそのものに回復能力は宿ってません。ポーションに共通した特性です」
狙ってそうなるわけではない。元からそのようにできているのだ、というのがオックスの補足説明であった。火が熱いのと同じく、理由を問うても意味がない。そうと決まった、摂理であり公理なのだという。
「へぇ……」
エリックとひとしきり観察を終えたあと、そのラムネそっくりのビンをカズマは木箱に戻した。
ラムネといっても、祭りで売られるような炭酸入りの砂糖水ではない。
そのラムネを模した――本物よりたっぷり一回り以上小さな――プラスティック製の容器に、同じく「ラムネ」と呼ばれる固形の砂糖菓子を詰めた物の方だ。
長細い、半透明の容器。そのサイズ。緑色をしていない点と質感さえ除けば、本当にそれは駄菓子としてのラムネにそっくりだった。
エリックに指摘してみると、彼も「懐かしいね」と白い歯を見せる。外見こそ茶髪の白人だが、彼とて生まれながらの日本人なのである。
「僕は栄養ドリンクの方を連想したよ。ビンの大きさも近いし」
「ああ――」頷きこそすれ、カズマにはどこか曖昧なイメージしかわいてこない。
それを察したか、エリックが自嘲的な笑みと共に弁明口調でいう。
「僕らくらいだとちょっと縁遠いよね。僕の場合は、練習疲れたろって近所の人がよく差し入れてくれるから。ちょっと特殊なんだ」
一行の馬車がツクフの村をノンストップ通過したのは、それから程なくしてだった。
同時、この辺りから長く続いた穀倉地帯と田園風景に変化が生じ始めた。田畑が減り始める一方、これらに駆逐されていた森林の姿が戻り始める。
また、カレールゥに入り混じったジャガイモのように、人体よりも大きな岩が目立って現れだした。どれもその表面には苔がこびりつき、多くのケースで周囲には緑の草原が広がっている。
岩のサイズや形状、周辺の植生、地形などから、エリックはこの辺り一帯がかつて巨大な河川の一部であったのではないか、という仮説を披露した。その雄大な流れに削られ、運ばれ、どこからか大量の岩がここまで辿り着いたという考えらしい。
その正誤は分からない。
だが、大型の岩は確実にその数を増していき、なぜだかこれと足並を揃えるように街道の往来も活発化していきつつあった。
無論、それでも「混雑」といった雰囲気からは程遠い。
とはいえ、行商や旅人といった風情の人々を追い越したり、すれ違ったりする。これは今までほとんどなかったことだった。オックスのいう、やや大きめの街〈レンカショップ〉が近付いていることが原因であると考えられた。
そんな中、カズマは宣言通り仮眠に入り、恐らく小一時間ほど身体を休めた。
目覚めたのは、忘れた頃に馬車を襲う大バウンドで、一瞬身体が浮き、尾てい骨を強打したためであった。
尻をさすりながら起き上がる。
見回す周囲は当然のこと既に夜の装いで、御者台の前部には道を照らすためのカンテラが吊されていた。燃料は油か――あるいは話に聞いていた光を放つという宝貝なのだろう。
交代で眠るか。そう持ちかけようとしたが、エリックの姿は荷台に見当たらなかった。
いつの間に移動したのか、幅広に設計されている御者台の方へ移動している。オックスの横で、身振り手振りを通し馬の扱い方を習っているらしい。
「みなさん、こんばんは」
封貝を通じて呼びかけると、ふたりは揃って振り返った。
「先生、もうお目覚めですか」オックスが破顔しながら言う。
「うん。なんか、すっかり夜になってるね。今、どのへん?」
「タイミングとしてはちょうど良かったです。もうすぐ〈レンカショップ〉が見えてくるので、起こそうかと思ってたところでしたから」
その言葉を待っていたかのように、前方に月光を乱反射して輝く広い水面が迫ってきた。
フ=サァン最大にして最長の大河川〈チッコ〉である。
「チッコと言われると日本語的にちっこい的なイメージ先行するけど、これは日本でも一級河川レヴェルだなあ。デッカにすれば良いのに」
半分は独り言のつもりであったが、封貝を通して聞こえたらしい。こちらも封貝を通して、エリックのくすくす笑う声が聞こえてきた。
川面が近付くにつれ、四方八方から集った無数の枝道が街道に合流し始めていた。夜間にもかかわらず、これを数多くの馬車が行き来している。多くは荷物を満載した荷馬車で、そのうちのひとつはテズピまで冷凍イカを運ぶものであったのかもしれないかった。これまではあまり見なかった道案内の標識も目立つ。
「交通量が増えたので、ちょっと速度を落しますね」
御者台からオックスが言った。
ややあって、宣言通りランコォル種がその歩を緩め始める。
右斜め後方から流れてきたチッコ川は、そのまましばらく街道を並走するように伸び、やがて緩やかなカーブを描きながら垂直に交わる。ここにかかる木造の巨大な橋が〈レンカショップ〉の入口を兼ねた〈セノー大橋〉である。
〈レンカショップ〉は、古くからこのセノー大橋の関所として機能してきた宿場町である。橋のたもとに近付くと、そこには現代日本でいうところの検問のようなものが敷かれているのが分かった。現状、三台ほどの馬車が列を成しており、そこへ守衛のような複数の男達が群がっているのが分かる。オックスいわく、ここで荷のチェックと通行料の徴収が行われるらしい。
所定の手続きを済ませると、ここでようやくセノー大橋を渡ることが許される。
川幅が五〇メートルに達しようかというチッコ川に懸かるこの木造の橋は、ランコォル種が最徐行に近いほど速度を落したこともあり、非常に長大なものに感じられた。
渡りきった対岸は開かれた大空間になっており、多くの馬車がたむろしていた。
商品の荷下ろしや休息、これらの人間たちを当て込んだ飲食系の屋台などが並び、〈レンカショップ〉が眠らない街であることを強く印象づけている。
この眺めにはどこか見覚えがある――。
そう感じたカズマは記憶の糸を辿り、思い当たったものにニヤリとした。
駅前のロータリィで客待ちをしているタクシィだ。目の前の光景は、どこかあの光景を彷彿とさせる。
「――さて、どうしましょう?」
広場の空いた一角にランコォル種を誘導すると、御者台から下りたオックスが言った。
顔はカズマたちに向けられながらも、その右手は労うようにランコォル種の首筋に添えられ、鱗に覆われたその体表を優しく撫でている。
「泊る気がないなら、わざわざお金出して預けるっていうのも問題ないし」
「ここに短時間置いて置く分にはお金は必要ないのかな」
エリックの問いをカズマはそのまま通訳した。オックスはすぐに頷いて答える。
「良識の範囲ないであるなら、さほどうるさくは言われないです」
「じゃあ、誰かに見張りをしてもらってる間に、サイトさんとシスさんだっけ? オックスくんの仲間の人たちがいないか探してみよう」
このカズマの提案はすぐに全員に受け入れられた。問題は誰が残るかだが、これは協議の結果、エリックということで収まる。幼いオックスや、細腕のカズマでは見張りとしてハッタリがきかない。それが決め手となった理屈だった。
「この街にいるとして、サイトさんとシスさんがいそうなのってどこ?」
移動を始めながら、カズマは訊いた。
あちこちで篝火が焚かれ、また無数のカンテラが淡い光を投げてメインストリートを照らし出してはいるが、やはり現代日本の繁華街には及ぶべくもない。
煌々《こう》と輝くネオンや、店内からあふれ出してくる照明光などが全く欠けていることもあり、夜の街は相応に暗く、細部まではなかなか確認しづらいものがあった。感覚としては街灯を頼りに、深夜の住宅街を歩くに近いものがある。オックスの案内がなければ、目的の店を探すにも苦労しそうだった。
「シスさんは、重傷ではあれ傷はそれほど深くなかったですし、時間をかけていいならポーションがなくても治療ができたはずです。サイトさんの手持ちではポーションを買えたかは微妙ですし、まずは〈シノ・アマム神殿〉に行ってみませんか?」
「神殿?」
「シノ・アマム様は大地を司る豊穣神です。また、医療神でもあります。レンカショップのような大きな街には、彼の信徒たちが建てた神殿があって、弱者の救済を行っています。貧しい者の治療や看護もその一部なんです」
「やさしそうな神様だね」
「信徒たちは、もっとも慈悲深き神としてシノ・アマム様を崇拝しています。実際、彼はその身を色んな姿に変えながらオルビスソー各地を巡り、それと名乗らず病や怪我に苦しむ人々を癒やして回っているそうです」
シノ・アマムの神殿は、馬車を止めた広場から一五分ほど、メインストリートからやや外れこそすれ、街の中心部に近しい場所に立っていた。
外観はおおよそ学校の体育館ほど。真上から見ると完全な円形をした、古代ギリシアの遺跡を思わせる形状が特徴的であった。白い大理石の巨柱のかわりに、どっしりした巨木を丸々一本使った柱が円周に沿って等間隔に並び、その奥に三六〇度どこからでも入り込める上り階段が続いている。
時間が時間ということもあり、神殿内部は静謐に包まれていた。関係者と思わしき白装束の男との交渉をオックスに任せ、カズマは少し離れて内部をぶらぶらする。
神殿は天井の高い一階建てで、衝立で壁沿いにスペースを細かく区切り、その狭い一つひとつの空間に治療用のベッドが設置されていた。恐らく無料か、相場よりかなりの安価で利用できるのだろう。何十とある寝台はカズマが覗いた限り全てが埋まっている。時おり、患者の喉から絞り出される微かな苦痛のうめきが、夜のとばりを破ってカズマの耳朶を打った。
やがて許可を得てきたオックスが駆け寄ってくる。その後、ふたりして本格的にサイトとシスを探してみたが、サイトとシスを見つけることはできなかった。
「どういうことだろう。レンカショップにはいない――?」
神官に礼を言って、またわずかばかりの寄付金を握らせて神殿を辞去すると、階段を降りながらカズマは訊いた。
「ノンストップで通り過ぎてきた村にいたのかもしれません」
オックスが憂い顔で首を左右する。
「ただ、この先には行ってないはずです。馬を潰すつもりで走っても、レンカショップに来れるか来れないかくらいがギリギリのラインだったはずですから」
この指摘はもっともであった。カズマが馬で先行していたオックスに追いつけたこと自体、ランコォル種を運良く手に入れることができたからに他ならない。別の馬では到底、こんなところまでは辿り着けなかったであろう。
「サイト兄さんは、レイダーのライセンスを持っています。もしかしたら、ナージャさんが引き継ぎにこなかったことを、連盟のツテを使って調べているのかもしれません」
「その場合、どこにいる?」
「レイダース連盟と提携した宿屋があります。僕らが一緒なら、村の商隊として贔屓にしている別の宿を使うでしょうが、サイト兄さんだけなら連盟提携店の方を選んだかもしれません。そこは酒場を兼ねているから、集まった同業や知り合いからも情報を集めやすいでしょう」
果たして、この読みはどんぴしゃりの正解であった。
神殿から歩くこと一〇分。ギルド支部にほど近い――と言われても、カズマにはそれがどこにあるのか全く分からなかったが――一角に、その宿屋はあった。
オックスがカンテラを掲げて照らした軒先には、木版に焼き印を入れた店の看板が下げられていた。その横には、一回り小さな金属製の細工看板。こちらは巨大な宝石を、左右から二本の短刀が突き刺すという印象的な紋章になっていた。
カズマの視線に気付いたオックスが、説明の口を開いた。
「その宝石と短剣の紋章が、レイダーのシンボルです。これを表示した店は連盟の直営か、提携を結んだ店で、レイダーは料金やサーヴィス面で大きな優遇を受けられます」
「一般人でも入れるの?」
「断られることもありますが、入るだけなら基本的にOKですよ。さあ、行きましょうか」
ノブに手をかけようとした瞬間、オックスは自らバックステップを踏んで入口前から飛び退いた。一瞬早く、何者かによって店内側から扉が押し開かれたのである。
オックスが驚愕に目を見開いたのは、ドアが開いたタイミングに対してではない。店から出てきた人物を見たからだった。そして、それは相手側も全くの同様であった。
「サイト兄さん!」
「オックスか――?」
二つの声が重なる。両者は示し合わせたように声を詰まらせ、まじまじと見つめ合った。
そこは年長者の余裕か、先に立ち直ったのはサイトの方だった。
「お前、もうここまで来たのか。一体、どうやって……」
重たさを感じさせない引き締まった筋肉をバランス良く備えた長躯は、典型的なアスリート体系。シャープな顎のラインと柔らかそうな茶系の頭髪。エメラルドグリーンの瞳。
改めて見るサイトは、第二次性徴を経て男性的に成熟した十五年後のオックスその人を見るような青年だった。
「先生――カズマ先生のランコォル種に同乗させていただいたんです」
「ランコォル種だって? そんな代物を一体、どうやって」
そこまで言うと、サイトは自らの言葉を否定するように首を振った。半歩踏み込んでオックスの両肩を力強く掴む。
「いや、そんなことはどうでも良いんだ。インカルシでの話は知っているか」そして彼は、オックスを捕まえたままカズマの方にも首を巡らせた。「ナージャ殿の身に何が起ったのかを?」
「ナージャ? 彼女のことをなにか知ってるんですか」
詰め寄るカズマに、サイトは沈痛な面持ちで頷き返す。
「インカルシからこちらに来たというレイダーたちから、情報を得ました。一昨夜、インカルシの外縁近くで封貝使い同士の大規模な戦闘が起ったと」
オックスが息を呑むのが分かった。あるいはカズマも無意識に同様の反応を見せていたかもしれない。どうあれ、サイトはそれらに構わず続けた。
「昨日未明のことです。インカルシ護士組、ショウ・ヒジカ率いる白虎四番隊が城壁外を巡回中、不審な封貝使いを発見。再三の警告にも従わず、封貝を用いて一方的な攻撃を仕掛けてきたため交戦に入りました。その後、封貝使い〈赤繭〉《あかまゆ》は追いすがるショウ・ヒジカの部隊を振り切り、外壁を越えてインカルシの南部市街地へ侵入。騒ぎを察して既に部隊を展開していた朱雀隊によって迎撃され、二番隊の隊長、ケイス・ヴァイコーエンに討ち取られた――。これが、一連のあらましです」
「えっ……」想定外の話に、オックスは半ばパニック状態に陥っている。「えっ、じゃあ……」
なかなかまともに言葉を継げない彼に変わって、カズマは言った。
「じゃあ、その〈赤繭〉とか呼ばれている封貝使いがナージャだと?」
「状況を考えると、そのようにしか考えられません」
眉間に深い皺を刻みんだサイトが苦々しく言う。
カズマはエリックへの通訳も忘れ、握り固めた〈*ワイズサーガ〉を口元に当てた。
「……その情報、オキシオさんと毒の女の子、大怪我したもう一人のことには触れてませんね。彼らは?」
「分かりません。ただ、封貝使いの争いに巻き込まれて、ただの人間が生きていられるとは思えない。ましてナージャ殿が破れたとなると……」苦悶に満ちたその言葉尻は、ともすれば消え入りそうだった。「情報に全くないのは、触れる価値もない添え物と解釈されたか――」
「ナージャが前もって逃がしていたか?」
「希望的観測が許されるなら、その可能性も考えれます」
だとすれば、想定していた最悪の事態は避けられたことになる。
ナージャが何者かに捕らわれた可能性も考えていたが、それが街の治安維持組織というなら、これもまだ救いはある。それこそカズマたちが引っかかったような奴隷商関連の人攫いや、犯罪者集団よりかは丁重な扱いが期待できる。
だが、それはお行儀の良い環境で育った日本人特有の楽観でしかなかったのかもしれない。少なくともサイトの発した次の言葉は、カズマにそれを痛感させるに充分な衝撃を秘めていた。
「とにかく今夜中にインカルシに行かねば……何ができるか分からないが」
「今夜中?」オックスが上目遣いに兄貴分の顔をうかがう。
「分かるだろう、オックス。インカルシに害をなし、護士組に捕らわれながら服従の意を示さなかった封貝使いがどうなるか」
返ったのは絶句の気配であった。
言葉を失ったオックスを見、それからサイトに視線を移して、カズマはその意を問う。
「どういうことです?」
「通常の対応として、不服従の封貝使いは処刑されます。そして、〈赤繭〉――ナージャ殿もその例外ではなかったことになる。これも……レイダー経由で確認を取った情報です」
語るサイトの相貌は、言葉が進むにつれそれと分かるほどに俯きがちになっていく。
「彼女は夜明けを待って……」
全員が固唾を飲み続く一言を待った。
それが絞り出されるまでたっぷり一〇秒、息を止めている必要があった。
「インカルシ護士組は、ナージャ殿の処刑が今朝、執行されると……そう公示したそうです」
ん……77キロバイト?




