ランコォル種とテズピ村
020
車輪が大きめの石を踏みしめでもしたのだろう。荷車が一際大きく跳ねた。
近くから、誰かが不平の怒鳴り声をあげる。少し遠く――御者台からであろうか、やり返すように尖った声が返った。
結果として、これらが楠上カズマを再度、覚醒に導いた。
今度は寝惚け眼をこすりたくなるような感覚はない。すっぱり完全に目が覚めていた。記憶も一瞬で完全に蘇った。意識もしっかりとしている。
その明瞭になった思考はすぐに現状を把握し始めた。
騙され、馬車の荷台に乗せられたことまでは覚えている。ガラガラという車輪の回転音とひっきりなしに伝わってくる大小細々とした振動は、まだ馬車が移動の途中であることを意味している。
どれくらい眠っていたのか。その間に、どれくらいあの集落から離れてしまったのか。
周囲はまだ暗い。まだ夜は明けていないのだすれば、まだそれほど時間は経っていないのかもしない。
一瞬、そう思いかけたが、違った。
視野の大部分は闇で覆われているが、所々に竹編みの笊を思わせる極小の穴が虫食いのように開いており、そこから針のように細く陽光が差し込んでいる。
それでようやく、カズマは自分が麻布のような目の粗い布製の袋を被されていることに気付いた。
否、被されているというより、シーツで作ったような巨大な袋に、全身を丸ごと詰め込まれているらしい。
覆いがあるなら暗く感じるのは当然である。しかし、現実にはとうに夜は明けていたのだ。
判明したのはそれだけではない。左の肩口に一際、固く平たい感触と強い振動を感じることからして、心臓側を下に向ける体勢で横たわっていることも分かった。
荷台が窮屈なのか、袋の大きさの関係なのか、どうやら胎児に似た格好で丸まっているらしい。
五〇センチほど後方から聞こえる緩やかな息遣いは、同様に丸めて放り込まれているエリックだろう。呼吸のリズムからして、こちらはまだ覚醒には到っていないようであった。
なぜ、馬車があげる騒音の中から――しかも、二枚もの袋越しに――微かな寝息を探知できるのか。不思議に思わないでもなかったが、今は優先して考えるべき事が他に幾つもあった。
まず、今がいつなのか。
移動中なのは確かだとして、どの辺りをどこへ向かっているのか。
そして、これから自分たちがどうなるのか。
また、何ができ、何をすべきか。
日が出ている以上、薬を飲まされ眠り込んでから一晩明けたことは確実である。しかし、本当に一晩で目が覚めたかは断定できない。二日後の朝であるかもしれないし、考えたくないが三日後の昼であるという可能性も捨て切れまい。
判断材料があるとすれば、カズマ自身のコンディションだ。つまり、喉の渇きこそあれ、さほど空腹感は感じない。もし、日をまたいで馬車に揺られていたのなら、もっと激しい飢餓状態にあってしかるべきだろう。
無論、薬で朦朧としている間、何か栄養剤のようなものを与えられ、それを完全に忘却してしまったということも考えられはする。
しかしそれでも、やはりエォラを名乗る女に引っかかったあの晩から、恐らく数時間が経過しただけの翌日なのであろう――というのがカズマの出した結論であった。
というのも、一度、何かの拍子で短期間目を覚ましたとき、「インカルシまで二日で届ける」といったやりとりを耳にした記憶があるからだ。
あれが夢や幻でなく現実であったなら、二日も三日も経っていながらまだ馬車の上というのは少し考えにくい。
馬車はインカルシへ向かっている。
当然、その速度はカズマとエリックが街道を歩くより何倍も速いはずであった。
もとは徒歩で最低七日間と言われていた旅路だ。それを二日間に短縮できるとなれば、まさに渡りに船と言えるだろう。ただし、ロープで手足を縛られ、袋詰めされた上で、奴隷商人に売り飛ばされるのでなければ、の話だが。
そこまで思考をまとめたとき、御者台の方から低い男の声が投げられた。馬車の騒音に負けぬようかなり声を張り上げてのものであった。
「おい、もう一刻もすればテズピだぞ」
「そうか。本当に早いんだな、ランコォル種はよ」
聞き覚えのある声が、想像より遥かに近いところから答えた。
何者かはすぐに思い出せた。
エォラに部下のごとく指示され、カズマを縛り上げた男だ。
恐らく荷台に、カズマたち商品の番を兼ねて同乗しているのであろう。
そして、彼の声に覚えがある以上、やはりあの人格が入れ替わってしまったかのようなエォラの変容、拘束され馬車に乗せられるまでの一連の出来事は夢ではなかったということになる。
「風向きの恩恵も大きい」
御者が言った。直後、会話をしやすくするためか、馬車の速度が大きく落された。それと分かる慣性を生むほどではなかったが、車輪のがたつく音が明らかに大人しくなったのが感じられた。
「追い風基調なもんでかなり調子が良いんだ」
「遅れた分は余裕で取り返したな」
エォラの手下が上機嫌で声を弾ませる。
対する御者の方は、必要以上の抑揚を感じさせない落着いた語り口であった。
「で、どうする。当初の予定じゃテズピで一泊の予定だったが。この調子なら、頑張ればツクフまで行けるぞ」
「いや、予定通りでいこうや。ランコォル種だって休憩はいるんだろう?」
「まあな」
「なら、無理させるより、たっぷり休憩させて明日も頑張って貰った方が良いさ」
カズマはこの時点で、決断の時が近いことを知った。
人攫いたち――もはやこう断じて問題ないだろう――の会話を信じるに、インカルシに到着するのは明日。
それまで無抵抗を演じ、インカルシのごく近付くまで敢えて運ばれるか。それとも今のうちから自由のために動き、馬車を奪うかの二択だ。
なんにせよ、このまま奴隷として売られてしまうわけにはいかない。インカルシに着いてしまう前にアクションを起こす必要がある。
そして選択肢によらず、御者とエォラの手下とは高い確率で戦闘になるであろうことは覚悟しておかねばならない。
もちろん、すんなり制圧できればそれが最善である。
しかし、状況によっては勝利条件が逃走の成功にシフトすることも考えられた。
その場合、事はインカルシに充分近付いてから起こす方べきであろう。
逃げ込みやすいというのもあるが、人攫いを振り切った後のことを思えば、連中の馬車の速度を最大限利用して旅の日程をできる限り短縮しておいた方が良いからだ。
一方で、この選択は失敗したときのリスクが高まる。
結局、「勝ちも逃げ切りもできなかった」というケースでは、目前に迫っているインカルシですぐに奴隷商へ引渡されてしまう。二度目のチャンスは巡ってこないだろう。
そして奴隷商の管理下に入ってしまうともう、相手は組織だ。
当然、商品管理はより厳しくなるであろうし、脱走を企てる奴隷対策も講じているはずである。最悪の展開だ。
ならば明日を待たず、今のうちからトライすべきか――。
こちらを選んだ場合、たとえ一度は反抗に失敗しても二度目、三度目のチャンスが期待できる。少なくとも時間的な余地はあるはずだった。
もちろん、「逃げるだけで精一杯」という状況に陥った場合、馬車で一日の距離を三日かけて歩いて挑む旅に逆戻りすることになってしまう。
一度は振り切った人攫いに、馬車で追い回され、再び厄介ごとになるリスクも高い。
果たしてどちらが正解か――
本来、頭を悩ませるところであったが、カズマは迷わなかった。
というより、そんな精神状態ではなかった。実のところ、最初から結論は決まっていた。
頭の中で念じ、義手型封貝を一度、右腕から外した。
これで、もう両手を背中側で拘束する縄は無効化される。
近くにいるはずの荷番に気付かれないよう、馬車が振動するタイミングに合わせて、〈*ワイズサーガ〉ごと左手を素早く身体の前に戻した。
それから、また義手を右腕に装着し直す。
当然、手首同士を結びつけたロープはそのままだが、後ろ手にされているよりはマシだ。
問題は足の方であった。こちらばかりは縛られたままというわけにはいかない。闘うにせよ、逃げるにせよ、足が動かないとどうにもならないだろう。だが、よほど特殊な結び方をしているのか、手探りで試しても一向に解ける気配はなかった。
腰に装備していたはずの剣鉈は――当然ながら――没収されていた。
ならば、力業しかない。
そう判断し、解くのでも斬るのでもなく、ねじ切る方向にやり方を変えた。〈*ワイズサーガ〉の人差し指と親指で縄をつまみ、こするようにして何度もねじりを加える。
義手にも固く鋭い爪があれば――と思わされたが、疲れることも、それによって握力が低下することもない人外の力を頼れるだけ、まだ状況は恵まれていると考えるべきなのだろう。
それに、何となく〈*ワイズサーガ〉の馬力が上がっているような気もした。
〈フォックス・ツー〉が出現したことによるボーナス効果なのかもしれない。
それとも、単なる気のせいか。
それでも親指ほどの太さがある固い縄が、思いのほか早い速度でほつれていくのは気のせいではない。
たっぷり一〇分は要したであろうが、その倍ほどはかからなかっただろう。ほとんどオート感覚で動きを固定し、ひたすら縄に負荷をかけ続けてしばらく。不意に〈*ワイズサーガ〉の指先から繊維の感触が失われた。
と同時、荷台の揺れに合わせて足首が動き、その間隔が少し離れるのが分かった。
ロープが切れ、縛を脱したのだ。
長く固定されていたせいで、かなり強ばってしまっている。
袋の中でストレッチさせ、関節をほぐした。
もちろん、大きな動きになってしまわないよう注意しなければならない。だが、ここまでくればもう気付かれても最悪、仕方がない。そんな気にもなっていた。
かつてないほど、自分のなかの獰猛な部分が剥き出しになっている。
カズマはそれをどこか他人事のように感じていた。
到底、冷静になどなれない。慎重な行動など取れない。
そうまでカズマを駆り立てているのは激怒だった。
はらわたが煮えくり返り、血が沸騰するような怒り。今まで一度として、これほどまでの憎悪を他人に向けたことはない。
「――〈Fox 2〉」
カズマは低く、冷たく唱えた。
袋の中、主に触れるほど近い場所に、計四個の白い球体が召還された。
同時、それらはビリヤードのブレイクショットのごとく、四方へ勢いよく散る。
その球体の一つひとつが、一〇〇キログラムを優に越える負荷を簡単に受け止められる力を秘めている。布を切り裂く耳障りな音が響き、千切れた繊維が飛散した。外装が紙袋もかくやというように儚く破れ散る。
瞬間、網膜を焼かんとする強い日光にさらされ、カズマは一瞬だけ目を細めた。
揺れる荷車の上、ゆっくりと立ち上がる。
「なっ……」
二歩先、御者台と接する荷車の木縁から、屈強な巨漢が弾かれたように腰を上げた。
「てめえ――ッ」
目を丸くしカズマを凝視したあと、ほとんど無意識に腰の後ろに右手を回す。そのグローブのように分厚い手が抜き出したのは、赤ん坊の腕ほどもある大型ナイフの柄だった。
その後ろでは、御者も驚愕の表情でチラチラとこちらの様子を窺っている。
カズマは袋を破いた四つの封貝を、足元に転がるエリックの近くに寄せて守らせた。
同時、口訣を省略して追加を四つ召喚する。
自分の前に防壁として並べた。
そうして半ば男達を無視するように手元へ視線をおとし、〈*ワイズサーガ〉に巻いた包帯を、可能な部分だけゆっくりと解いていった。
徐々に露わとなっていく鉄の腕を見て、男が中腰に構えるナイフの切っ先が揺れた。
骨折の添え木とでも誤認したのだろう。縛り上げるとき、この義手の存在に気付かなかったのが彼らの最大の失敗だった。
「封貝……!」
心なしか声音にもヒステリックな響きが混じる。
「てめえ、封貝使いだったのか」
「刺激しないように伏せてただけだよ」
カズマは静かに言った。
「キミたちは違う理由で素性を隠してたみたいだけど」
屈み、エリックの袋に手をかけた。この状況でもまだ薬がきいているようで、彼はぴくりともしない。
「おい……おいッ、勝手に動くんじゃねえ」
ナイフを突き出しながら男が一歩踏み込んでくる。しかし、それは決して広くないカズマの間合に自ら足を踏み入れる行為でもあった。
「フォックス・ツー」
カズマは男を指差し、平坦な声で封貝達に命じた。すぐに自分の防御用に回していた四個が呼応する。
それらはカズマの意思通り、ジグザグに軽くフェイントを入れながら男に接近する。
対して人攫い《ひとさら》の巨漢は、集ってくるスズメバチをそうするようにナイフに加え、無手の左手まで動員して必死の形相で振り払わんと暴れだす。
だが、封貝は丸太のように太い腕の間を易々とすり抜けた。
そして、四方からその猪首に取付く。
「オッ……この……クソがッ、なんだこれは!」
最低でも計四〇〇キロの荷重に耐えるこの死のネックレスは、男の動きを完全に封じた。
窒息させない程度に肌に密着し、そこからはもう何としても微動にしない。
男は最初こそ矢鱈めったらにナイフを突き立て封貝の破壊を試みていたが、すぐに無理であることを察した。
武器をかなぐり捨てて、今度は素手に切替える。
両腕で封貝のひとつを引っつかむと、ご自慢の膂力をもって引っぺがそう悪戦苦闘している。
だが、無駄なあがきだった。
顔をどす黒く変色させ、こめかみに血管を浮かせて力を込める男の手も、無慈悲な封貝はまるで意に介さない。
その間、カズマは放られたナイフを拾い上げていた。
まず、口に咥え両の手首を縛り付ける縄に切れ目を入れる。
あとは〈*ワイズサーガ〉に力を込めるだけで容易に縛を立ちきることができた。
四肢に完全な自由を取り戻すと、次はエリックの番だった。
彼の入った袋は口を紐で結ばれていたが、これは一端を引っぱれば容易に解けるものであった。
ただし、四肢を雁字搦めにしているロープに関してはこの限りにない。こちらは素直にナイフを再利用させてもらった。
手入れされた大型ナイフはさほど力を込めずとも、輪ゴムを切るように簡単に紐を断つことができた。
これらの作業の間も、エリックは目を覚ます気配を一向にみせなかった。
この薬の効きの差は体質なのか、封貝がもたらす耐性の差なのか――。
「エリックさん。聞こえますか?」
軽く頬を叩きながら呼びかける。反応はない。
一瞬、不安になるが、血色は悪くなかった。
ゆっくりと上下する胸板を見る限り、自然に目覚めるのを待つくらいで良いような気もした。
少なくとも、今はまだ慌ててどうこうという時間帯ではない。
カズマは立ち上がり、改めて人攫いたちと対峙する構図を取った。
「小僧ォ! これ外せや、コラァ」
途端に罵声が飛んでくる。
カズマは威嚇の意味を含め、無言で指を鳴らした。
パチンと甲高い音が響く。
一拍遅れて、男が悶絶する聞き苦しいノイズが周囲にバラ撒かれた。
男の頸部を圧迫する封貝に命じ、その戒めを――たった一センチに過ぎないが――強めたのだ。
これによって野球の硬球にも似た白玉が喉に食い込み、微妙に男の気管を締付け始める。
男は湯だったように顔面全体を紅潮させ、首元の球体を両手で掻きむしりながら両脚を必死にばたつかせている。
「ここから先は、僕の質問に答えるとき以外は発言しないで欲しい」
もがく男を一瞥し、その横を素通りしながら言った。
「馬係の人。ちょっと道から逸れたところで馬車止めてもらえますか?」
カズマは意図的にナイフを見せつけ、その刃の先端を適当な木陰に向けた。
街道から左斜め前方へ二〇メートルほど外れた地点に、太さ、高さ共に祖国でお馴染みのソメイヨシノと似通った木々が四、五本密集しているのが見える。
「わかっ……分かった」
御者は神経質に何度もナイフの刃を見やり、がくがくと震えるように頷く。
実際に馬車がそちらへ向かいだしたのを確認し、カズマは巨漢の首元の封貝を緩めた。
途端に、詰まっていたケチャップが飛び出てくるように激しく咳き込む声が聞こえ始めた。最後の方はヒューヒューと空気漏れのような呼吸を繰り返している。
正直、殺したいほど腹が立っていたが、実際にそうするつもりはない。
少なくとも今は、まだ。
彼が持っているはずの情報にはそれだけの興味があった。
「ああ、この辺で良いですよ。停めてください。ゆっくりね」
封貝をひとつ飛ばし、御者の耳元で囁く声を流す。
仕組の分からない御者にはこれが震え上がるような恐怖であったらしく、もはや声もでないと言う様子で必死に首を上下に振る。
ほとんど、幽冥から響く死者の声を聞いたような表情であった。
その様子を見ている分には、もうこちらに関しては反抗の心配はなさそうに見える。
が、油断はすべきではない。
自分が同じ立場ならと考えると、恐怖にすっかり屈服したように見せかけ、虎視眈々《こしたんたん》と反撃の機会を窺うくらいはするだろう。
ならば、それなりの警戒はしておくべきである。
「じゃあ、運転手の人は馬車から降りて」
カズマは手にしたままのナイフでクイと指示を送る。
御者が従うと、今度は回り込んで荷台に来るよう命じた。
同時、カズマは封貝で捕らえている巨漢を荷台から追い出すべく、動かし始めた。つまり、四個の封貝を陣形を崩さぬまま、横へ滑らせるように移動させる。
これにより中に閉じ込められた男の首と、それに繋がる胴体は、引きずられるように同じ方向へ向かわざるを得ない。
「はい。これ、ロープ」
荷台の巨漢を封貝ごと地面に落すと、回り込んできた御者に縄を投げ渡した。
「それで、お仲間を縛って下さい。僕らにしていたのと同じように。終わったらチェックします。その時、逃げやすいように細工をしていたのを見つけたら――」
「クソが、調子に乗るんじゃねえぞガキィ!」
耐えかねた巨漢が唾を飛ばしながら怒声を吐きかけてくる。それから剥いた目だけで御者の方を向き、彼にも同様に喚き散らした。
「エトー、てめえもだ。何、こんな素人にホイホイ従ってやがる!」
「黙れ、木偶の坊。その素人相手にお前はどういう有様なんだ」御者も怒鳴り返した。「封貝使いなんぞ掴ませやがって。これはお前やエォラのミスだ。きっちり落とし前つけてもらうからな」
「口汚い口論を聞かせろとは指示してませんよ。それに、質問に答えるとき以外は勝手に口を開くなと言っておいたと思いますけど」
カズマは低い声で言った。
言葉と共に、自分の守りを固めていた残りの封貝たちを、蛇がその鎌首をもたげるように空中で動かしてみせる。一緒に、冷ややかな言葉を添えた。
「思い出したいですか?」
「いや、俺……少なくとも俺は従う! 逆らうつもりはない」
御者は慌てふためき、早口に言った。
ほらこの通り、と言うように素早く放られたロープを拾い上げる。
それを広げ、巨漢の相棒に巻き付け始めた。
「てめぇ、エトー。裏切る気か、オイッ」
「だからうるせえって言ってんだ!」
四肢を暴れさせ抵抗する巨漢に、御者も激昂を露わにする。コンパクトに振り抜かれたその拳が、巨漢の水月に埋め込まれた。
くの字に折れた仲間の巨躯から弛緩するように力が抜けた隙を見て、素早く足首を縛り上げる。
それからの御者の動きは、まさにお手本のようであった。
巨漢の右横に回りこむと、続けざまに二度、今度は脇腹へブロウを叩き込む。
急所である肝臓に充分なダメージを伝わったと見るや、相手の腕関節をきめて自由を奪った。
そうしてあれよという間に背中側で巧みに両腕を縛り上げてしまう。
一連の動きを見るに、やはりこの御者も只者とは思えなかった。
なるほど、暴れる相手はこうして押さえつけ、拘束すれば良いのか。
こんな時にありながらも素直に感嘆し、今後の参考にしようとすら思えてくる。
「ご苦労様。少なくともひとりは話ができる人で良かったですよ」
カズマは言うと、荷車から飛び降りた。
「じゃあ、貴方は」と御者に目配せして続ける。「少し離れて下さい。服を脱いで、武器を隠し持っていないことを証明して欲しい」
その要求に御者は刹那、苦々しく顔を歪めた。
が、賢明にも抗議の声は出さない。
後ずさるように大股に三歩距離を取り、降参するように一度両手を上げてみせると、帯を解き始めた。
太腿あたりまで伸びる浴衣のような薄手の長衣を帯で留め、余った裾は後ろ側に流す。下半身は男性の場合ノータックチノを思わせる折り目のないロングパンツ。女性は脚線を際立たせるスキニィパンツや膝上までのレギンス。
オキシオやオックスら隊商の人々、また集落で会ったエォラにも共通していたこのファッションは、やはりこのフ=サァンの――あるいは〈オルビスソー〉における民族的な生活衣装なのだろう。
人攫いの巨漢はもちろん、御者も例外ではないらしく、帯を解くと彼もまた着物のような上着を脱ぎ捨てた。
見たところ、上半身には肌着を纏ってはいない。
しかし、ノータックの長ズボンの下には、五分丈の下着を履いていた。
ガーゼのように薄く編み目の粗い生地で、細身のシルエットを持つトランクスをそのまま膝近くまで伸ばしたようなデザインであった。
腰部分のサイドには左右ともに五センチほどの切れ目があり、そこに通された細い紐でウエストの調整をするらしい。
御者の男は腹回りに投げナイフを何本も収めたホルスター、右の腿にも刃物を隠すための革ベルトを巻いていた。
カズマが両方とも外し、自分の方へ放るよう指示すると、彼は不請不請ながらそれに従う。
カズマはそれを拾い上げ、服の上からそれを自分に身につけた。
腿のナイフベルトは全くサイズが合わなかったため、こちらは馬車の荷台、エリックの側に置いておく。
「じゃあ、キミたちふたりにはこれから個別に質問をさせてもらう」
言いながら、カズマは封貝で捕まえている巨漢の方へ向かった。
者に縛らせた両手、両脚の具合を確かめる。
不自然な緩み、たるみ、逃がすための切れ目などがないことを引っぱって確認しつつ言葉を続けた。
「正直に答えればこれ以上、危害を加えるつもりはないよ。でも嘘を言ったり、隠し事をしたり、聞き出した答えが双方の間で食い違っていた場合は……相応のペナルティがあると思ってね」
言って、カズマは巨漢の首元から封貝をどかせた。
支えを失った男は、そのまま地に倒れ込み、芋虫のように転がる。
縛られるとき御者から受けた打撃のダメージがまだ消えてないらしく、巨漢は苦悶の呻きを漏らすばかりだった。
「じゃあ、キミからだ。話を聞かれないように、ちょっと離れよう。念のため、首の後ろで両手を組んだままね」
カズマはナイフの切っ先で御者を指名し、一〇メートルほど離れた木陰へ移動するようジェスチャで命じた。
「知ってると思うけど、封貝使いには射撃の手段がある。逃げられるか試してみても良いけど、それは同時に背中から撃たれて生き残れるかのチャレンジにもなるから気をつけてね」
男は神妙な顔で頷き、そちらへゆっくり歩いていく。
カズマはその後を追って歩き出す前、倒れ込んだ巨漢の顔の近くに封貝の白玉をひとつ置いた。
――これはキミを監視する。妙な動きをしたら爆発したりするかもしれない。気をつけてね。
邪気を消した笑みで告げ、その場を離れた。
「発言を許可して貰えるだろうか」
馬車から充分な距離を取り、指定の木陰に入った時点で御者が背を向けたまま言った。
「発言を許可するよ。手はそのままに、こっちを向いてもらって良い」
カズマの声に従い、御者が慎重な動きで身体の向きを変える。
「あんたが封貝使いであったことを見抜けなかった時点で、俺はもう負けを認めてる。逆らう気はねえ。あっちの筋肉馬鹿とは違う」
カズマは近くの木にもたれかかるように腰を落し、仕草で続けるよううながした。
御者は宙に浮き、生き物のように絶えず小さな動きを止めない封貝の群れをチラチラと窺いながら、乾いた唇を舐めた。
「つまり……つまり、俺が言いたいのは、何を聞かれるにせよ俺は嘘をつかないってことだ。もし、仮に奴との間で話が食い違ったとしても――」奴という部分で離れた馬車の方を顎で示し、男は続けた。「嘘を言っているのは奴の方だ。俺じゃねえ」
真偽を判断するのはこちらだ。
そう答えることもできたが、カズマは沈黙を選択した。
言葉より無言を返す方がより強いプレッシャーを与えられることが時にあり、恐らくであるが今がまさにその局面であるように思えた。
「俺が言いたいのは……それだけだ」
男が力尽きたようにそう言うと、やや間を置いてカズマは口を開いた。
「じゃあ、僕も質問の前にひとつだけ断っておこうかな」
その言葉に、御者は軽く仰け反るようにして警戒を示した。
構わずカズマは続ける。
「現状、僕は人命を奪うことに躊躇いをもてないほど気が立っている。だけど、それは自分が騙されて、奴隷商に売り飛ばされかけたからじゃない」
カズマは、その理由について想像を巡らせる時間を充分に与えた。
「僕が聞きたいことは一つ。最近、キミやキミの仲間が、僕らに仕掛けたのと同じような手口で少女を騙し、捕らえなかったか。彼女を奴隷として商人に売り飛ばした事実があるか、だよ」
「俺はただの運び屋だ。別に奴隷だけを扱うわけじゃねえ。それも数いる同業の一人に過ぎない。エォラのとこだって、俺以外にも何人かの運び屋と契約してる。都合や条件が合ったときに、その中から都合の良い誰かが選ばれるんだ。だから、全ての事情を知ってるわけじゃねえ」
「――それで?」
「確かに、ここ数日で女は何度か運んだ。エォラ以外からの仕事を含めれば、だが」
「僕が知りたいのは、年齢十代半ばから二〇才くらいの、黒髪、黒い瞳、日焼けのない白めの肌をした女性のことだよ。僕らのように、こちらでは珍しい、一風変わった服装をしていたはずだ。そして彼女は、多分こちらの言葉を使えなかっただろう」
御者はどこか安堵したように口元を綻ばせた。明らかに難を逃れた、という表情だ。
「だったら、俺は知らねえ。黒っぽい眼や髪の女はいたかもしれねえが、そんな目立った服を着た奴はいなかった」
「キミの仲間がそういった娘を奴隷商に運び入れたという話は?」
「運び屋同士では、仕事に関する詳しい話はしねえ。依頼人がそういった情報の漏洩を嫌がるからだ。たまに美味しい仕事にありつけたとか、滅多にねえ良い女を乗せたとか、そういう与太話は問題ない範囲でしたりするが」
「僕が聞きたいのは質問の答えだよ」
感情を伴わない声で警告した。
「ああ、分かってる」
男は急いで取り繕った。
「つまり、俺はその質問に対する正確な答えを持たねえ。聞いたことはない、としか。ただ、アグリっていう同業の野郎が、金になりそうな上玉を運んだって自慢してるのは聞いた」
腰を浮かせ、形相を変えて詰め寄りそうになる衝動を、カズマは必死の努力で抑え込まねばならなかった。
軽く目を閉じ、気付かれないよう鼻だけで深呼吸する。
「その上玉っていうのは?」
「アグリはエォラなんざとは違ってもっとヤバイ、組織だった野盗やらとも付き合いがある、俺より数段ディープなタイプの運び屋だ。詳しくは分からねえが、上玉の話もそういうルートから入ってきた仕事だろう。ちょっとこの辺にはいない感じの若い娘を運んだと、昨日会った時に吹いていた。滅多にないことだが、金の代わりにその女を……つまり、味見させて貰ったと言っていた。それを報酬に仕事を引き受けるくらいには、そそる女だったってことだろう」
今度は抑制など到底できなかった。
聞くに堪えなかった。
カズマは唇を戦慄かせながら御者に掴みかかり、気付けば左手でその頸を締め上げ、右手のナイフを喉元に突きつけていた。
加減を完璧にあやまり、皮膚を切り裂いた刃が薄く鮮血を滲ませる。
それがヨウコであったら。
もし、ヨウコがそんな目に遭わされていたとしたら――
「それはいつの話だ」
「勘弁してくれ」
男は脂汗を流し、震える声で懇願する。
「頼む、俺は関係ね……」
「いつかって聞いてるんだッ!」
カズマは耳元で怒鳴った。
こんなにヒステリックな叫びを上げたことは、かつて経験にない。
ナイフを持った手が小刻みに震えている。
柄を固く握りしめた指の関節が白く浮き上がっている。
気を抜けば凶器のままにそれを振り抜き、御者の喉を動脈ごと切り裂いてしまう。もう、その寸前まで自分は来ている。
本能的にそれが分かった。
「知らねえんだ! 本当だ。勘弁してくれ。本当に、奴は……最近だとしか言ってなかった。本当にそれだけしか言わなかったんだ」
「そのアグリは今、どこにいる」
「奴は……待ってくれ、奴は……」
御者は汗でびしょ濡れになった頬をてからせながら、血走らせた目をぎょろぎょろとさせた。
必死に記憶の糸を手繰っている。そんな形相だった。
「そうだ。昨日の昼に店で――つまり、同業者がたまり場にしてる酒場でその話をしたあと、また別件の仕事を受けてすぐに出ていった。〈尾剣山脈〉を越えて、西海岸の方に行くとは言っていた。だけど、具体的にどことまでは聞いてねえ。いや、それが俺らの間では普通なんだ。とにかく、もうこの辺にはいねえ」
このままでは殺してしまう。怒りにまかせてナイフの刃で全身を滅多突きにし、地を吹き出すただの肉片にこの男を変えてしまいかねない。
なけなしの理性がそう判断した。
カズマは自分から逃がすように、左手で掴んだ首元を押し出すようにして御者を突き放した。
虚を突かれた相手がよろよろと揺らめき、尻餅をついたのが分かるが、もはや気にしている余裕もない。
野盗に故もなく拉致され、散々なぶり者にされた上、味見と称して運び屋にまで辱められたその少女のことを思うと――それがヨウコである可能性を考えると――、今にも気が狂いそうだった。
「アグリという運び屋は、その少女をどこに運んだ」
「それは、まず間違いなく〈インカルシ〉か〈ネクロス〉だ」
男は腰砕けのまま、両手両脚を総動員してカズマから距離を取ろうとしている。
取り合わず、カズマは聞き慣れない言葉を繰り返した。
「〈ネクロス〉――?」
「知らねえ、のか? 城塞都市〈ネクロス〉。つまり、この国の首都だ。インカルシから北に二日ほどいったところにあるフ=サァン最大の港町だ。本土の〈レプシュム王国〉や〈オルダ〉とも海を隔てて交流がある。
昨日、この辺にいたってことは、アグリが荷物をネクロスかインカルシにおろしたことは距離的に言っても間違いねえ。フ=サァンで奴隷をさばいてるのはその二大都市か、西側の〈ディシマ〉だけだ。けど、〈ディシマ〉はこの場合、遠すぎて考えにくい」
「アグリという男が奴隷を運び込んでいる業者の名前は?」
「それは俺たちと同じだ。〈乱捕〉ウォーカーって呼ばれてる奴隷商で間違いない。インカルシにもネクロスにも同じ男が経営してる店があって、俺らは大体そこと取引してる」
通称、〈乱捕〉ウォーカー。
カズマは強い殺意と共に、その名を心に刻んだ。
「この国では、奴隷はどういう扱いを受ける?」
「まず奴隷商に売られる。仲介者も奴らが兼ねているから、そこから奴隷を欲しがる奴のところに売られていく。
奴隷商は幾つかの力を持った組織が運営していて、〈乱捕〉ウォーカーはそのうちのひとりだ。組織はそれぞれの紋章や印を持っていて、それを刻んだ奴隷用の首輪を作ってるんだ。奴隷はそれを嵌められて所有権を明確にされたあと、客に売られる。娼婦と違うのは、奴隷には基本的に身請けの権利がないってことだ。少なくとも、所有者とそういう契約をしない限りな」
ここでいう身請けとは、一種の身代金を意味するらしい。
つまり、奴隷が一定の金を払って、主人から自由を買い取るシステムのことである。
娼館に売られた芸妓などの場合、客が彼女たちを足抜けさせるために金を支払うパータンが一般的だ。
娼婦に惚れ込んだ男が哀れに思い、組織からその女性の身を買い取って自由を与える、というのが一番分かりやすい構図なのだろう。
しかし奴隷の場合は、自分で自分を買い取るのが一般的であるようだった。
しかも娼婦は金さえ払えば買い取れるというシステムがあるが、奴隷にはそんな保証はない。
主人が金さえ払えば自由にしてやっても良いと認めなければ、そもそも身請け自体が不可能だというのだ。
「フ=サァンではそんなことが認められてるのか……」
「ああ。少なくとも、奴隷の売買は国家が認めた産業だ。〈オルビスソー〉では大概の国がそうだろ?」
「たとえそうでも、僕がそれを受け入れる理由にはならない」
「まさか、〈乱捕〉ウォーカーに喧嘩売る気か? 売られた小娘を取り戻すために?」
信じられないというように御者が目を見開く。
「無茶だぜ。悪いことは言わねえ。あんたも封貝を使えるようだが、奴隷商は往往にしてその潤沢な資金に物言わせて高レヴェルの封貝使いを大勢抱え込んでるもんだ。
ウォーカーだってそうさ。奴お抱えの筆頭封貝使いが百人長級だってのは有名な話だ。並の封貝使いが一〇人がかりでかかったところでどうにもなりゃしねえ」
「――それはご忠言どうも。キミへの質問は以上だよ」
御者はそれを死刑宣告と取り違えたようで、酷く狼狽した様子を見せた。
「キミのその態度は僕に余計な疑念を持たせるよ。嘘や隠し事がなければ危害は加えないって言ったよね。なのに殺すなって懇願するってことは、ルール違反をしたって告白するも同然なんじゃないのかな」
「違う! そういう意味じゃねえ。俺はただ――」
カズマは御者を黙らせ、とにかく答え合わせが先だと告げた。
ふたりで馬車と放り出した巨漢のところへと戻る。
見れば、エリックはまだ荷台の上で眠り込んでいた。
芋虫状態の人攫いもほとんど動いた形跡がない。
「――じゃあ、これからもう一人への質問タイムだ。既に質問が終わってるキミは何があろうと、絶対に一言も喋らないように」
カズマは御者へ向けて釘を刺す。
「声を出した瞬間、理由を問わずに二度と声を発せなくするからそのつもりで」
御者が米つきバッタのように首を振るのを見届けると、カズマは巨漢の頭側にしゃがみ込んだ。
尋問を開始する。
とは言え、こちらの方は御者ほど話が通じやすくはなかった。
罵詈雑言を並べ立てるだけで、カズマに口を開く暇すら満足に与えようとしない。
いい加減、辟易したカズマは、御者に向け「両者にキチンとした質疑応答を行えない場合、連帯してペナルティを与える」と告げた。
つまり、この筋肉ダルマが大人しく質問させないのなら、お前にも責任を取らせると申し渡したのだ。
これを受けた御者は、巨漢が素直に口を開くよう文字どおり骨を折ってくれた。
やるなら脚の方から。そう指示を受けた御者は巨漢の靴を脱がし、転がっていた大きめの石を使って説得を開始した。
思い切り打ち付けられた指が、幾つか本来曲がらない方に歪むと、巨漢はようやくカズマに協力することを約束してくれた。
以後は事もスムーズに運ぶ。
結論として、両者から聞き出した情報に矛楯や食い違いは特に見当たらなかった。
巨漢の方は運び屋ではなく、あくまでエォラの協力者でしかないため、御者ほどの情報を持たなかったこともある。
とはいえ、かねてから迷い込んだ旅人を騙し、奴隷商に売り飛ばしてきたことは認めた。
カズマやエリックはあくまで最新の被害者でしかない。
その一方で、カズマたちは約半月ぶりの獲物であり、ヨウコに該当するような若い娘を捕まえたことは、少なくともここしばらくはなかったとも証言した。
「良いか、騙される方が間抜けなんだよ」
結果的にエォラを売ることになってしまった後ろめたさからか。あるいは脅しに屈してしまった恥辱からか。
男は全て吐き終えた途端、開き直ったように喚き始めた。
「てめえだって肉入りの飯を脇目も振らずかき込んだクチだろが。その日会ったばかりの奴から破格の施しを受けておきながら、その裏を考えもしねえ馬鹿どもが。
てめえらは一宿一飯に見合う対価を持たなかった。だから、その身を金に換えて支払って貰うことにした。ごく当然の取引ってやつだろが。それに何の文句があんだ、あァ――?」
カズマは答えず立ち上がった。
罵詈雑言の連帯責任を負わされるのでは、と御者が身を竦めるのが分かる。
そんな彼を安心させてやろう、等とは毛ほども思わなかったが、ただ事実としてカズマは言った。
「キミたちは僕らの質問に対して、必要な回答をした。約束通りこれ以上、僕が直接的に傷を負わせるようなことはしない。ここで解放するよ」
その言葉に、御者はたちまち表情を明るくした。
「ありがてえ」
「ただし」
言下のもとカズマは言い加えた。
「武器と馬車は没収する。残念だけど、これらを残しておくとキミらが僕らを追いかけてきて、再び危害を及ぼす怖れを否定できなくなるからね」
「そんなことはしねえ!」
御者が大きく両手を広げつつ、鋭く叫んだ。
「今さらあんたらに逆らうつもりなんざ、さらさらないって。それに、分かるだろ? あれは俺の貴重な商売道具なんだ。その上、身ぐるみ剥がされてこんな所に放り出されたんじゃ……」
カズマは静かに首を振った。
「身ぐるみ剥いで他人を奴隷に落してきた人間が言えた台詞じゃないよ、それは。正直、僕は何度もキミたちを殺しかけた。衝動自体は今も全く収まってないんだよ。キミたちのためにも、僕の気が変わらないうちにさっさと行かせて欲しい」
「糞がッ!」
転がされた巨漢がのたくりながら怒声を発するが、カズマは取り合わなかった。代わりに、青い顔をした御者の方へ首を回す。
「最寄りの街――なんて言ったかな。さっき、もうじき着くって言ってた所?」
「……テズピ村だ」
蚊の鳴くような声が答えた。
「あの馬車で向かった場合、徒歩で向かった場合、それぞれの所要時間は?」
「馬車なら日暮れ前に着く」
となると、一時間前後か。陽の高さを確認しながら、カズマは目算した。
「歩くとなると……早くても着くのは夜中だろう」
「その一個先は?」
「ツクフは、どっちかっていうと村というより集落よりの所だ。あそこまで行くとなると、ランコォル種でも夕と夜の境目辺りになるだろう。徒歩の場合は……想像もしたくねえ」
「なるほど」
言って、カズマは馬車の荷台に上がった。
一番奥に木箱が幾つか積んであり、思っていた通り、そのうちの一つには携帯食と水筒のセットが複数詰められていた。
カズマはそれぞれ一つずつピックアップして、また地面に下りた。
「これは今の情報料だよ」
御者の足元に投げ放って言う。
「テズピ村くらいまでなら、これでもつんじゃないかな」
「それは――」
「あと、お仲間の縄を切るためのナイフも提供しておくよ」
カズマは言葉通り、服を脱がせた時に取り上げた御者の腰用革ベルトから投げナイフを一本抜き取った。
一度、相手にも良く見えるよう前に突き出してみせる。
そして、先程いた木立の辺りを狙って渾身の力で放り投げた。
「直接、手渡しするとすぐに攻撃されちゃうかもしれないしね。本当にお仲間を助けたいなら、今のを探しに行くと良い」
カズマは言うだけ言うと、周囲を封貝で固め守りながら、御者台に向かった。
そこには彼らのいうランコォル種が二頭、横に並べて繋がれていた。
馬かと思いきや、近くで見ると似たところはあれ、地球にはいそうにない未知の生物であることが分かる。
面長の頭部に、先端の尖った耳。白目がほぼ見えない、黒くつぶらな瞳。胴の大きさや脚の本数。その比率。これらはオキシオたちの商隊が連れていた馬とほぼ違いがない。
一方で、鹿を思わせる左右一対の立派な角と、体毛の代わりに全身を覆うマットブラックの鱗は、むしろ中国の瑞獣〈麒麟〉を彷彿とさせるところがあった。
そして一際目を引くのが、鮮やかな緋色の鬣である。
両耳の間から頭頂部を抜け、長い首のうなじを走り、人でいう肩胛骨の辺りまで伸びたそれは長く艶やかであり、まるで燃えさかる炎を象ったように逆立っていた。
それでいて、赤ん坊の産毛のように柔らかそうに見える。
魔物と呼ばれておかしくない巨大と強面であることは否定の余地もないが、正面に立って目を合わせるとその印象は一瞬で裏返る。
伶俐な光を湛えた瞳はどこまでも穏やかで、大森林の深奥に秘匿された、妖精の集う神秘の泉を思わせる。
カズマはそこに自分と同等、あるいはそれ以上の思慮深さをが宿っているのをなんとなく感じた。
こちらが恐怖すれば、相手はそれを察するだろう。
そんな気もしたため、カズマはへたに躊躇わなかった。
真っ直ぐ手を伸ばし、鼻先をそっと撫でた。
ランコォル種は静かにそれを受け入れ、しばらくすると心地よさそうに目を細めていった。
やはり顔も大部分は鱗のような物に覆われているが、胴体のそれと比較してサイズが小さく、カズマの親指の爪ほどのものが癒着し合って輪郭をほぼ失っている。
それはもはや鱗というより、微妙な凹凸を持つサイやゾウのような固めの皮膚を連想させた。
実際、触れてみればその印象は一層強まる。
魚のような滑つきは皆無で、どちらかというと乾燥したサラサラとした感触が指先に伝わるからだ。
これもどちらかというと人間の爪の質感に近い。
そのせいか、不快さは全く感じなかった。
「僕を乗せてくれる?」
撫でながら日本語で問うと、ランコォル種は馬が時おりそうするように小さく鼻を鳴らした。
どのような意味合いなのかは分からなかったが、確かな知性を感じさせる仕草であった。
微笑みかけて、御者台に腰を落ち着ける。
もちろんカズマにとっては馬車など操縦はおろか、実物をその目でしっかり見るのすらほとんど初めての経験である。
が、背に直接またがって操るよりはマシだろう。
希望的観測を頼りに、手綱を握った。
手綱は、ランコォル種の左右から一本ずつ、きし麺状の革紐――というよりはベルトとして、御者台の手元まで伸びている。
この二本の手綱の先端は、想像と違ってバラけていはいなかった。
輪ゴムのような円環をなし、最終的に一本の革綱になっている。
馬に相当する物が二頭いるため、これが二組。
何が正解か分からないまま、とりあえずカズマはそれらを両手で一本ずつ手に取った。
問題はここからだった。どうして良いのか分からない。
悩んでも仕方ないと、ためしに出発の合図として軽く引っぱってみる。時代劇での描写も思いだし、「ハッ」と小さく声も合わせた。
すると意を読み取ったか、ゆっくりとランコォル種が動きはじめた。合わせて後ろの荷台と車輪が軽い軋み音を上げる。
念のため後方を確認すると、人攫いたち最後に見た時と同じ位置で固まっていた。
状況を受け入れられず呆然としているようにも、敗北にうちひしがれているようにも見える。
カズマからすれば、邪魔をする様子さえなければどちらでも良い話だった。
徐々に馬車に速度が乗り始める。
カズマは顔を前に戻し、操縦に集中した。
スケートにせよ一輪車にせよ、この手の技術論において足元に視線を固定し続けることがプラスに働くという話は聞かない。
恐らく、馬車もそうなのであろう。
勝手にそう判断し、視線はなるべく進行方向へ遠目に投げることにした。
前方は大きく開け、その六割を緑の草原が、残りを灰色の大地が占めている。
起き上がった直後の布団くらいには細かな起伏もあるが、概ね平原と言って良い地位だろう。
街道を探すと、これは右手へ数十メートルほど離れたところですぐに見つかった。
思い返せば、人目に付かないよう、ここへはわざわざ道を外れて来たのである。当然、戻るためには馬車を右へ大きくカーヴさせる必要があるが、問題はそのやり方が分からないことだった。
南極だか北極を探検する映画で、犬を使ったソリの操縦は観たことがある。
あれも馬車と同様、操縦者は手綱のようなものを握っていたものの、同時に声での合図も盛んに出していた。
乗馬ではそういった話は聞かない。恐らく、ほとんどの指示は手綱の加減や、韃、あるいは踵で胴を小突くなどといった動作で完結するはずである。
結局、ある程度の傾向が理解できたのは、試行錯誤の上でたっぷり三〇分以上走った後のことだった。
その頃にはもう、周囲の景色は大きく様変わりしていた。
近付いているテズピ村はそれなりの規模誇るらしく、明らかに野菜や穀物を栽培するための畑が一面に広がっている。
民家ではなく飼料小屋の類なのであろうが、遠目にはちらほらと建築物も見えるようになっていた。
景色に意識をやる余裕ができたのは、カズマの第一印象は正しかったからだった。
すなわちランコォル種は大変に利口な生物で、それは手綱を通した短いコミュニケーションの中からでも充分によく確認することができた。
基本的な指示の出し方さえ覚えれば、あとは彼らに任せてなから問題ない。路面状況を的確に察し、勝手に速度や進路を判断してくれる。
また事前の情報通り、ランコォル種はその快足を遺憾なく発揮してもくれていた。
カズマの体感を信じるならば、街中での原付バイクと自動車のほぼ中間。数字にするならば時速三〇キロ台半ばから四〇キロ前後と推測された。
仮に三〇キロと低めに見積もっても、五時間走れば一五〇キロ進める計算である。
エォラのいた集落からインカルシまでを二〇〇キロメートルと考えた場合、確かに二日もあれば余裕であろう。
朝に出れば、もしかするとその日の夜には着いてしまうかもしれない。
どうやら、テズピ村までもうかなり近い――。
周辺風景とすれ違う農夫の数からそう見当を付け始めた時、エリックが目覚めた。
異変があればすぐ感知できるように。報せてくれたのは、そう考えて荷台に一つ置いておいた拡声オプション付の封貝である。
聞こえてきた微かな呻き声を聞きつけ、カズマは軽く手綱を引いた。馬車のスピードを落して後部の荷台を振り返る。
その時にはもう、エリックはもぞもぞと起き出しかけていた。
「……ぇ……あれ――?」
エリックは掠れた声でつぶやき、どこかぼんやりとした顔で辺りを見回している。
薬の影響が残っているためか、まだどこか思考がはっきりしないらしい。
カズマは、自分の近くで浮遊待機させていた封貝の一つを荷台へ飛ばした。
「エリックさん、起きましたか?」
無線スピーカー代わりにして声を飛ばす。
念が届く範囲でなら頭の中で形にした言葉をそのまま再生できる、という特性の応用だ。馬車があげる騒音の中、いちいちそちらを向かずに話かける分には有効な使い方といえた。
「――あ、カズマくん」
寝起き特有のガラついた声が聞こえた。
「えっと……え? なんで?」
御者台に思わぬ姿を見つけ、彼は更なる混乱状態に陥ったらしい。
どうして? 馬車? 確か……
切れ切れの言葉をしきりに繰り返し、必死に状況の把握と記憶の確認に努めている。
「説明をしても良いんですが、話はできそうですか? 頭が痛いとか、具合が悪いとか」
「いや、それはないけど」
「多分、もう一〇分もしないうちにテズピっていう村に着くと思います。経緯を今すぐ知りたいですか?」
「そう……だね」
周囲の田園風景を呆然と眺めた後、彼は頭の中の靄を振り払うように頭を忙しく左右させた。
そして、幾分しっかりした声で言う。
「できれば、うん。状況についてはすぐ知っておきたいかな」
「じゃあ、かいつまんで。結論から言いますと、僕らは騙されました。エリックさんの最後の記憶、小さな村に辿り着いて、エォラっていう親切な女の人の家に世話になったところで多分、途絶えてますよね?」
「あぁ、そうだ――うん。そうだね。エォラさん。それは覚えてる」
「その彼女は、親切な〈村人A〉ではありませんでした」
「えっ?」
どんな顔をしているか気になったため、カズマはそのどこか頓狂な声に後ろを振り返った。
案の定、胡坐に近い格好でぺたんと座り込んだエリックは、ぽかんと口を半開きにしてカズマを見詰めていた。
思わず声なき笑みを浮かべつつ、カズマは顔を前に戻す。そして言った。
「つまり、彼女は一種の人攫いだったんです。僕らみたいに村に迷い込んだ人を家に連れ込み、親切に迎え入れる風を装って、クスリを仕込んだ食べ物や飲み物で相手を眠らせる。そして、村の男たちや運び屋の専門家を使って、インカルシの奴隷商人に売り飛ばす」
「え、……えっ? じゃあ、騙されたっていうのは……」
そうだ、と認めると彼は大変な衝撃を受けた様子であった。
これは無理からぬ話だった。
優れた容姿を持つ甲子園の英雄として、エリックは地元でちょっとしたアイドル的存在であった。
部活の最中は、余所の学校からも女生徒が押しかけ、頬に金網の痕を刻みながらその練習風景に食いついていたとも聞く。
当然、様々な女性に言い寄られてきたであろう。
誰もが彼に熱をあげ、その寵愛を得るために純粋に尽くそうとしたに違いない。
無論、一部にはエリックを単なるステータス、優越感を満たす戦利品として打算を働かせていた悪女もいたはずだ。
が、エォラほどの大物がいたとは考えにくい。
だが彼をより苦悩させたのは、カズマが人攫いたちと一戦交えたという事実であった。
仲間が命を賭して闘った。その最中、自分はなにをしていたか。
答えが、眠りの神とよろしくやっていた、という現実。これを生真面目な彼は、大いなる失態と捉えてしまったらしい。
「いやあ、でもほとんど危険はなかったんですよ。連中、ナイフが精々《ぜい》の装備でしたし。ホラ、その辺、置いてあるでしょ?」
カズマは荷台の方を一顧しつつ言う。
森で大活躍した剣鉈。エリックが日本から持ち込んだ金属バット。そして、ベリィや薪といった初期アイテムは全てエォラに取り上げられていた。
今あるのは、大男が腰に装備していた短剣が一振り。
それに、馬車を御していた細身の方がベルト付きで隠していた投げナイフと、腿に巻き付けていた大型ナイフ。
そして、彼から剥ぎ取ったフ=サァン風の衣類のみである。
「勝敗を分けたのは、僕が封貝使いだって気付いてなかったことです」
カズマは前を見ながら続けた。
「おかげでいきなり奇襲に成功して、あとはもう完全に主導権はこっちのものでしたから」
それは慰めのつもりもあったが、紛う事なき事実でもある。
「結局、相手は一度もこっちを攻撃する機会がありませんでした。楽勝ですよ」
実際に、封貝を使ってどのように事を運んだかの仔細を説明した上で、カズマはそう結ぶ。
それでも、エリックはまったく納得がいかない様子だった。
気落ちというより、自己嫌悪に近い状態にあるのだろう。
彼はしばし呆然と俯き続け、ほとんど忘れた頃に「ごめん……」と低く漏らした。
封貝の拡声補助がなければ、恐らく馬車の走行音に掻き消されていたであろう囁きであった。
「エリックさんが悪いわけじゃないですよ。すっかり騙されたのは僕も同じですし。多分、封貝がクスリに対して耐性をくれていたから、僕の方が異様に早く目が覚めたってだけで」
「しかし……こっちに来てから……いや、あちらの世界でもそうだった。僕はカズマくんやヨウコさんが抱えているものを知りもせず、こっちに来ても何の役にも立てず終いで、それどころか足を引っぱっている」
「そうですか? 僕も体力なくて、もっと歩けるはずのエリックさんの足手まといになってましたし。今のところはたまたま、エリックさんの体力とか身体能力を活かせる場面があまりないってだけでは?」
答えは返らなかった。
重たい沈黙が場におりかけるが、馬車が丘にもなり得ないごく小さな大地のこぶを乗り越え下り斜面に入った瞬間、開けた視界のすぐ向こうに村の入口が見えた。
カズマはこれ幸いと降って湧いた話題に飛びつく。
「エリックさん! 見えてきましたよ。多分、あれがテズピ村です」
もう七、八〇〇メートルと言ったところか。
街道の右手側には子供の背丈ほどもある木柵が長く張り巡らされており、内側には広い牧場が広がっていた。
そこで草を食み、まばらに幾つかの集団を作っている家畜は、距離のせいもあってまだ茶系の色をした何かであることしか分からない。
鶏よりは明らかに大きく、牛よりは小さそうに見える。
街道を挟んだ反対側、すなわち右手の方に広がっているのが、木製の支柱と石の基礎、土の壁を持つ平屋を主とした民家の群れであった。
その規模は流石にエォラのいた集落とはまるで比較にならない。
全てが住居とは限らないが、家屋数だけでも恐らくは五〇以上。流石に三桁の大台には届かないだろうが、遠目にも人々の往来が見え、その喧噪が届いてきそうな活気が窺えた。
――問題はここからだ。
カズマは思わず緩みかけた己に喝を落す。
エォラは企みがあったため、自分たちをすんなり受け入れた。
終始、愛想良く話を合わせてくれた。
しかし、素の反応を見せるであろうテズピの村人が同じように余所者に笑顔を見せるとは限らない。
ランコォル種を二頭もつけた馬車を操る子供。その異様な取り合わせと風体。見たこともない衣服。
どう考えても、好奇の目にさらされること請け合いだ。
宿を取ろうにも、システムが分からない。
馬車はどうするのか。一泊の相場は幾らなのか。他にも、何か知っていないと怪しまれる作法があるかもしれない。
宿帳にサインを求められたとき、オルビスソーの文字を読み書きできるかも不明である。できなかった場合、なんと説明するべきか。
そもそも――と、カズマはズボンのポケットを片手で探った。
指先に固い布の感触を得ると、それを引っ張り出す。
人攫いから服を奪った服、その懐中に収められていた財布であった。
中には薄く削りだした木の表面に、何か文字の書かれた札が数枚。
これは形や記載内容に統一性がないことから、貨幣の類とは考えにくい。メモか何かの符丁ではないか、というのがカズマの予想であった。
他には、小指の爪を縦に倍加したサイズの、薄い長方形をした金属片が十八枚あった。
赤銅色でどれも汚れ黒ずんでいたが、先の木札と違い、こちらは大きさと細かい意匠が共通している。
このことから、こちらはまさしく貨幣に通ずるものであると思われた。
貨幣と見られる物は他に二種類。
片方は同じ赤銅色の素材で、十円玉を彷彿とさせる円盤型の金属であり、もう一方は白っぽい金属でできた同サイズのコインであった。
十円玉似の方が八枚。白っぽい方は二枚。
人攫いたちは一泊してインカルシを目指すつもりであったはずである。とすれば、これらの金はそれに必要なだけの額面である可能性が高い。
しかし、確実なことは言えなかった。
路銀は巨漢の方が管理しており、御者が持っていたこのサイフには彼の少ない小遣いだけが収められていただけ、ということも考えられるからだ。
その場合、下手に宿を取ろうとしても、手持ちの金ではまったく足りないということもあり得る。
金の価値、使い方が分からない以上、余所者であることも手伝って、カズマたちは非常に動きづらい立場にあるのだった。
とりあえず、服だけは奪った物に着替えておくべきか――
そこまで考えた時、カズマは思わず手綱を強く引いた。
突然の暴挙にランコォル種は少し取り乱し、だが大人しく街道の脇に寄って完全にその歩みを止める。
カズマは御者台から身を翻し、地に下りた。
もう村へは一〇〇メートルあまり。
右手に広がる牧場に到っては、大きく取られた木柵がすぐそこまで迫っていた。
その柵の近く、数本生えた高さ一〇メートルほどの木々の木陰に、馬を従えた小柄な人間姿が見える。
まさかと思ったが、なぜかカズマは確信していた。
「オックスくん――?」
駆け寄りながら呼ぶと、一見、少女と見紛うような細身が身体ごと振り返った。
軽く天然のウェーヴがかかったボブカットがふんわりと揺れる。
小動物を思わせるくりくりと瞳の大きな目が丸く見開かれた。
「えっ……先生?」
「やっぱり、オックスくんじゃないか」
「カズマ先生!」
そのエメラルド色の瞳はもう少しで零れ落ちそうだった。
「先生がどうして……どうやってここに?」
それから彼は、はっとした表情で「もしかして先生の封貝で」と期待に目を輝かせた。
「残念だが、違う。私が封貝に頼らぬ姿を見せ、妹分のナージャを導かんとしていることは既に教えておいたはずだよ。オックスくん」
「でも、今――ナージャさんは一緒ではないんですよね」
「確かに、ナージャは今、使いに出している。その様子だと、まだキミのもとにも戻っていないようだ」
これは、彼の連れた馬がまだインカルシに卸すはずの荷を積んでいることからも明らかである。
予定なら、ナージャは一昨日の夜にオックスのところへ戻り、これを受取る手筈であった。
ナージャはこれを達成しないうちに何らかのトラブルに巻き込まれたということになる。
「でしたら」
オックスが怪訝そうな顔を見せる。
ナージャが一緒でないのなら、封貝の使用を制限する必要もないのではないか。
聞かずともその疑念は表情から読み取れた。
「共にいるときだけ封貝を禁じ、その目がなくなったら途端に手当たり次第、使い出す。そのような姿勢で、本当に人を導けるであろうか? 私は自分の道に問い、否という答えを得た。
妹分が見ていようといまいと、私は変わらず封貝に頼らず、自らのうちに活路を見出す。そうした姿勢を一貫してこそ、はじめて私の言葉は人の心を動かすにたる重みを得るのではなかろうかと」
「先生……」
実際の話、移動用封貝が出現していたらカズマはもちろん、それを喜んで使っていたことだろう。
だが、試した結果、出てきたのは音を出す白玉だけであった。
使いたくても使えない。むしろ、それが悔しくて地団駄を踏んだ。それが真相である。
したがって、言葉の重みがどうたらは口からでまかせ以外の何物でもない。
しかし、純真なオックスはころっとほだされ、今にも泣き出しそうなほどの感動に身を震わせていた。
「やはり、カズマ大先生。あなたは私が生涯に渡って師と仰ぐべき偉大なお方です」
「いやあ、そんな大袈裟だなぁ」
だらしなく頬の筋肉を弛緩させながら、カズマは近所のおばちゃんのようにパタパタと手を振る。
「あんまりおだてないでよ。恥ずかしいじゃないか、もう」
「いいえ、その禁欲的求道精神には恐れ入るばかりです。僕も大先生を見習って、その気高き精神を少しでも体現できるよう精進したく思います」
「そうかなあ。僕なんて大したことないと思うけど、まあ、あれだよ。オックスくんもなかなか見所があるというかなんというか」
ともすれば、片膝を折ってその場に畏まらんとするオックスに気をよくし、その背をばんばんと叩きながらカズマは鼻を伸ばす。
「それにしても、先生は一体この短時間で封貝も使わずどのようにして――」
言いかけたオックスは、それでようやく後方に控える二頭のランコォル種に気付いた。
釣られるようにカズマもそちらを見やれば、ちょうどエリックが荷台から下りてくるのが見える。
説明もなくいきなり馬車を止めたため、何事かと後に続いてきたのだろう。
「カズマ先生……あれって、もしかしてランコォル種では?」
「うん。私の徳故だろうか。道中、偶然手に入れるきっかけがあってね。あれを脚としてここまで飛ばしてきたというわけだよ。なんでも、こちらではそこそこの希少種であるようだけど」
「はい。僕も何度か見たことしか……身分の高い方や豪商、高ランクのレイダーくらいしか持たないと言われるランコォル種を二頭も……」
「なあに。妹分のナージャに何かアクシデントが発生したことに逸速く気付いた私は、道中、状況が分からず困惑しているであろうキミのことが心配になってね。一刻でも早く駆けつけて安心させてあげたい。ただそのように思って、あれを手に入れたのだよ。まあ、私の手にかかればそれほど苦労もないことだ」
「カズマ大先生……」
震える声で囁くオックスは、もはやそのまま平伏しそうな勢いであった。
「あなたはなんというお人なのでしょう」
「まあ、とりあえずだ。僕らもまだ把握できていないことが多い。ここは、お互いに情報を持ち寄ろう」
「あ、はい。そうですね。ナージャさん、なにがあったんでしょうか」
「分からない。確実なのは、予定通り事が運んでいないことだ。彼女は荷物を取りにキミの元へ来ず、全てを届け終わって僕らが待つ森に帰ってくることもなかった」
「そのようですね……オキシオさんたち、せめてインカルシには着けたんだろうか」
「カズマくん」
寄ってきたエリックが言った。
「彼、なんだって?」
「どうも、オックスくんもナージャのことは何も知らないようです」
日本語で答え、念のためオルビスソーの言葉でオックスにも確認を取った。
彼が言うに、馬でテズピ村まで進み、ナージャが荷を引き取りに来るのを待つ。これは当初からの予定であったという。
もちろん、時間の節約を考えるなら、行けるところまで進んだ方が良くはある。
しかし、夜にひとり街道を移動するのは危険であるし、空を高速で飛ぶナージャが見逃してしまう恐れもあった。
待ち合わせを成功させるためには、多少の合理性を欠いても落ち合う村、宿を決めておいた方が確実である。
そういった判断であったらしい。
オックスは一昨日の夜、予定通りテズピ村に到着。牧場そばの木陰――つまり、今カズマたちといるこの場所――で、打ち合わせ通り火を焚いてナージャを待った。
「しかし、彼女は来なかった、と」
エリックが先読みして言い、カズマはこれに無言で頷いた。
何かのトラブルで進行に遅れが出ているか。あるいは途中で道に迷ってしまったか。
とにかく、朝になってもナージャが現れなかったことで、オックスは決断を強いられた。
待つか、進むかである。
彼は待つ方を選んだ。
下手に動いてすれ違いが大きくなることを恐れたのだ。
待ち合わせ場所を勝手に変えた場合、ナージャは全ての町村に立ち寄り、一軒一軒、オックスがいそうな宿や酒場を探して回らねばならなくなる。
「でも、もう二回目の夜です。このままもう一晩ここで夜わ明かすべきなのか、勇気を出して進むのが正解なのか、もう僕、途方に暮れていて……」
オックスは今にも嗚咽を零しそうに震える唇を、きゅっと結ぶ。
「キミは正しい選択をしたよ。少なくとも、今日のうちに僕らと合流できたんだから」
エリックはそう言い、通訳してくれと目でカズマに合図する。
従ったカズマから労いの言葉をリレーされたオックスは、目を潤ませて深くエリックに頭を下げた。
「ところで、オックスくん。私の徳故であろうか、道中、迷える男達に少し教えを授けて上げる機会があってね。少し説教の真似事をしてしまったところ、お布施としてお金を受取ってしまった。いや、私は固辞したんだけどね。どうやら、私が何としても受取ろうとしないと知って、こっそり馬車の荷台に投げ込んでいたらしい」
これなんだが、と強奪してきた財布を見せる。
逆さにしてコインだけ全て出すと、丸ごとオックスに渡した。
「高度な精神修行の成果だろうか、私はどうも金銭などといった俗なものには価値を見出せなくなってしまったようだ。フ=サァンの事情に明るくないこともあって、それがどれほどの物なのがよく分からない。当面、キミにそれを預けるから、少しアドヴァイスをくれないかな」
「出会って間もない僕なんかをここまで信じていただけたなんて――」
何をどう解釈したのか、オックスは膝を震わせ、まるで心臓を預かったように恭しくその硬貨を手に包み込んだ。
「この村で僕ら三人、一泊するくらいの金額にはなるかな?」
「もちろんです。一〇人だって泊まれて、朝食とお昼用のお弁当まで買えますよ」
「それは良かった。ええと、宿を取る場合、あの馬車はどういう扱いになるかな」
「宿泊客用の馬小屋はあると思いますけど、多分、預けようとしても断られると思います。ランコォル種なんて、もしものことを考えると宿屋にはリスクが高すぎますから」
ランコォル種のような高級乗騎は、馬屋でなければ手に負えないだろう。それがオックスの見解であった。
ここでいう馬屋とは、日本人の感覚で言うとペットホテルに相当するものらしい。
曰く、彼らは駐車場のように時間あたり幾ら、もしくは一日幾らというような条件で生物を自社施設に預かる。
また、それぞれに合った食事を出し、身体を洗い、料金次第では装具の類の手入れも行うのだという。
「それがテズピ村にはある?」
「あります。宿泊施設があるフ=サァンの村には、ほとんど必ずあります。規模や業務形態は違いこそすれ」
「それの利用料金を含め、渡したお金で足りるんだね?」
「もちろんです、カズマ先生」
「いやいや、こういったことに関してはキミの方が先生だよ。オックスくん。僕が教えを請う側だ。是非、色々と教示してやってほしい」
「真に高潔な方は、僕のような目下の者にも時としてそういった謙虚な姿勢を取ることを躊躇わないのですね。権威や地位にあぐらをかくことなく、決して奢らず。――先生にまた教えをいただいた気分です」
カズマはにこりとして応えた。
「大切なのはそれが誰からであれ、常に学ぶ姿勢を忘れないことだよ。教えることは、同時に学ぶことでもある」
言いながら馬車に向かう。
ステップに脚をかけ、御者台に飛び乗った。
「じゃあ、行こう。とりあえず食事だ」
それも、調理されていない森の生物や妙な薬入りでない、まともな食事を。
カズマは独り胸の奥でそう言い添え、手綱に手をかけた。
馬車は日本でマイナーなせいか、本当に資料に乏しいですね。
しかも日本の場合は道路事情が…街中だと曲がる度に内輪差とか車両感覚がシビアになりますし。
主人公はその点、建物が全くない開けた場所で慣らしができたのが勝因だと思います。
あと偶然、最初に声をかけて撫でたのが親馬であり、これと仲良くできたのが隠れたポイントであったのでしょう。
親馬というのは、2頭引きの馬車の場合のリーダー。
より経験を持ったベテランで、慣れていないもう一頭をリードしたり、指導したりしてくれます。
通常、馬車ではどっちもルーキーみたいな選び方はせず、どちらかに必ず経験豊かな馬を入れ、またそれぞれのクセや性格から右側にするか左側にするかを決めるといいます。




