しゅうらくどまり!
019
運ばれてきたのは丼サイズの粗末な木椀だった。
職人の手によるもの――そもそも商品になるとはとても思えない大雑把な成形で、仕上げなどはないも等しい。厚みが不均等な縁は加工も荒く、親指をかけるとガサついた感覚が伝わった。
セットになったスプーンも同様であった。蚤で適当に削り出しました、といわんばかりの雑な代物である。持ち手は質の悪い油が染みついたようにベタつき、黒ずんでいた。口を付けて大丈夫なのか。清潔な日本で生まれ育ったカズマからすれば、一抹の不安を覚えてしまう。
「どうぞ、良かったら召し上がってください。大したものがなくてすみませんが」
言って、女は上品に膝を折り、そのまま床に敷いた敷物に座った。
言葉に釣られるように、カズマは椀の中に視線を落した。
薄らとした湯気と共に立ち上ってくるのは、ミルク系のえもいわれぬ甘ったるい芳香であった。その発生源は、病人食を思わせる黄色がかった粥に似た何かだ。所々に混じっている小さな茶色の固形物は乾肉の類であろうか。もしくは、乾燥させた椎茸のようなものなのかもしれない。恐らく、実際口に入れても分からないのだろう。
とにかく、たったそれだけの質素な飯だった。カズマの感覚から言えば、とても客人に振る舞うご馳走とは思えない。
だが、風が吹く度に盛大な軋みをあげそうな安普請と、使い古した雑巾を縫い合わせたかのような女の着衣を見れば、これが彼女なりの精一杯のもてなしであることは分かる。
なんなく、斜め隣に座るエリックと顔を見合わせた。
ふたりが辿り着いたのは、村にすらなり損なったような、ごく小さな集落であった。あるのは――まさに掘建て小屋を体現したかのごとき――廃材で無理やり組み上げた家屋が数軒。それを今にも朽ち落ちそうな木柵でおざなりに囲っただけの貧素な村里である。夕餉に近い時間であろうに、話し声の一つも聞こえてこない陰気の巣くう場所だった。
長く風雨にさらされたのだろう。集落を囲う柵は腐蝕が進んでおり、隙間も目立った。カズマとエリックは特に気にすることなくそれを跨ぎ越え、集落の内部に入った。
出歩いている者こそいなかったが、二軒目、裏手の勝手口近くで最初の住人を見つけた。夕食の後始末か、木製の食器をブラシでこすり洗っている女だった。
彼女は、オキシオやオックスたち、例の商隊メンバーたちとは明らかに人種が違った。
オキシオたちは全員が小麦色の肌、色素の薄い明るめの色の頭髪、そして鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を持っていた。
また彼らは一様に骨太であり、細身ながらも筋肉質なアスリート体型であったのが印象深い。最初に出会ったオキシオたち皆が特徴を同じくしているため、この国の人々は基本的にああいった身体的特徴なのだとばかり思っていたが――-違うらしい。
現に、村娘は黒みがかった焦茶色の頭髪と、カズマが知るアジア系に近い肌、そして茶色の瞳を持っていた。背は一六〇センチ台半ばと高めだが、骨格は華奢で全体的な肉付きも薄い。墨をたっぷり含んだ筆で力強く引いたような太く濃いめの眉、全体的な彫りの深さ等を別にすれば、かなり日本人に近い造形と言えた。混血児でなら通りそうな容貌である。
多方、服装――少なくともデザインに関する限り――は、オキシオたちとほぼ方向性を同じくしているように見えた。すなわち、和服に近い前合わせの長衣を腰帯で留め、その下に長ズボンというスタイルだ。ただ、そこは男女の違いなのか、村の女は膝丈のレギンス、あるいはスパッツと呼ばれるような脚のラインがくっきり出る薄手のものを履いていた。
彼女はカズマたち闖入者の姿に一瞬、恐怖の表情を浮かべた。
ふたりは夕日を背負うように立っていたため、逆光で相手がシルエットになっていたことも拍車をかけたのかもしれない。びくりと跳ね上がり、悲鳴をあげそうになっている彼女を、カズマは慌ててなだめなければならなかった。
どうか怖がらないで欲しい。自分たちは異国から来た旅の者で、インカルシへの道中、野盗に襲われた。仲間ともはぐれ大変に難儀している。もし、あなたの慈悲にすがることができなければ、明日をもしれないことになってしまうであろう。
早口にそう告げ、両手をあげて害意がないことを伝えると、女は一転して安堵の笑みを浮かべた。風土がそうさせるのか素朴で善良な人間なのだろう。そこからは話も早かった。女はカズマたちの境遇に深い同情の念をあらわし、さして警戒する様子もなく自宅に招いた。
軒を潜り彼女の案内で中に通された瞬間、カズマはこの集落についての印象を決定づけた。
屋内は十畳程度。広さはあるが、窓といった上等なものは一つもない。建材は土台部分に石を用いているほかは、大部分が木材であった。いずれ極めて質が悪く、とりわけ壁板が生む無数の隙間は酷いを通り越してカズマとエリックを呆然とさせた。夜闇の侵蝕を受け始めた内部に、その穴ぼこから斜陽が筋となって差し込んでいる。冬などは隙間風で屋外とほとんど変わらない極寒の地獄と化すことだろう。
入口すぐのもっとも広いスペースは居間らしく、中央に囲炉裏があった。その四方に剥いだ獣の皮でこしらえたらしき敷物が広げられている。板張りの床は足を踏み出す度に不安になるような軋み音をあげた。
粗末な、貧素な、劣悪な。
そんな枕言葉が、何をあらわすにも付きまとう。
土地、建物、そして住人。すべてに労苦と諦念が深く染み渡っていた。娯楽や思い出などない。今日を生きるにも精一杯の人々の姿と生活がそこにはあった。
「あの、何か……粗相がありましたでしょうか」
客人たちが揃って粥に手を付けないのを怪訝に思ってか、女が不安げに問うてくる。
囲炉裏を挟んでカズマの正面に座った彼女は、改めて見ると二〇台後半から三〇歳あたりであるように見えた。化粧気はないに等しく、装飾品と言えば首からさげた小貝を連ねたネックレスのみ。ほつれ毛の目立つ黒髪は後ろで大雑把に束ねられ、そのまま背中に流されている。鼻梁や頬には日焼けが目立ち、赤黒く変色している。そのせいもあり、年齢の割に小皺が目立ってしまっていた。水が貴重品であるため、沐浴やこまめな洗浄が間に合わないのであろう。細く繊細そうな指先も荒れ果て、爪の間に染みこんだ頑固な油汚れが黒く残っていた。
「ああ、いえ」カズマは慌てて首を振る。「急に押しかけたにもかかわらず、こんなご馳走を振る舞って頂けて感動しています。食事らしい食事は久しぶりなので、なにかこう――現実感を欠いてしまいました。すみません」
それからエリックに日本語で言った。
「僕らがなかなか食事に手を付けないから不安がってます。貴重な栄養源であることに違いはないでしょうし、エリックさん、遠慮せずに頂きましょう」
「そうだね。彼女にお礼を伝えてくれる?」
カズマは素早くうなずくと笑顔を作って女に視線を戻した。私の従者も、ご厚意に大変感激している。そう伝えた。
言葉の通り、エリックはカズマの従者という設定であった。
それがどのような受け止められ方をするか分からない以上、馬鹿正直に〈果ての壁〉を越え大切な人を探しに異世界からやってきました――などと馬鹿正直には話せない。恩人に嘘は気が引けたが、仕方がなかった。
詳しいことは話せないが、自分たちはとある国の辺境を治めていた領主の血縁である。しかし跡目にまつわる血生臭い事情に巻き込まれ、着の身着のまま海を渡ってこの地に流れ着いた。今までは緑色の目をした人々に匿われていたが、野盗の襲撃を受けた際にはぐれてしまって途方にくれている――。
カズマは咄嗟にそんな話をでっちあげ、なんとか押し切った。
エリックを従者ということにしたのは、受けた教育の差ということにすれば言葉を喋れないことを説明できると考えたためである。
事実、世事に疎いらしい女はすんなりそれを受け入れた。貴族の後継者争いがどうのという大嘘についても、どこか遠い世界の物語を聞くように「そうなのでしたか」とただ感嘆をあらわにするばかり。それどころか、「高貴なお方をこのような狭苦しい場所にご案内してしまい、誠に申し訳御座いません」と謝罪すらした。
「いやあ、しかし、これは甘くて美味しいですね」
カズマは続けざまに三度スプーンを口に運び、数度の咀嚼を挟んで一気に口の中の物を飲み込んだ。甘いような生臭いような、生理的にどうにも馴染めない匂いが鼻腔を突き抜けていくが、意思の力でねじ伏せた。
「それにこれ、お肉ですか? なんとも言えないアクセントになっていて、実に素晴らしいですね」
「エコンデの乾肉でございます。もっとお出ししたかったのですが、あいにく当家にはそれだけの備蓄しかございませんでした。申し訳ありません」
やはりそうか。思いながら、カズマはとんでもない、と返した。
もちろん、エコンデというのがどのような生物なのかは全く分からない。知らない方が良い気もする。なんであれ、女がなけなしの肉を差し出してきたことは、伝説の〈エルトゥールル号遭難事件〉を彷彿とさせる話であることは確かだった。
〈變成日〉の何百年も前のことである。明治時代の末期に、オスマン帝国――現在のトルコにあたる国――の軍艦が、和歌山県沖で遭難。座礁するという事故が起った。台風が迫る中、強引な航海に出たことが原因であったとされている。
日本への親善大使としてやって来た乗組員たちは船を捨て救助を求めたが、台風で荒れ狂う海を泳ぎ、無事に岸辺まで辿り着けたのは一部のみであったという。
この軍艦〈エルトゥールル号〉の難破は、すぐに近隣の村人達の知るところとなった。彼らは総出で救難活動を行い、搬送されてきた怪我人たちを手厚く見舞った。彼らは貧しい生活を送っていたが、それでも衣類や食糧を惜しまず避難者に提供したと言われている。非常用に飼っていたニワトリすら潰し、貴重なタンパク源として差し出したのである。
この事実はトルコ本国にも伝わり、教科書に載って歴史として教えられたこともあるらしい。今日まで続くトルコと日本の友好関係の端緒となった出来事であり、今でも和歌山県で行われる〈エルトゥールル号〉関係のセレモニィには、トルコから遺族や関係者が訪れる。
この村娘もおそらく、同じ事をしているのだ。カズマはそう感じた。
集落の有様と村人の暮らしぶりを見れば一目瞭然である。彼女にとって、肉は特別な時にしか食べられないご馳走であるのだろう。その僅かばかりの蓄えを、女は突然現れたふたりの旅人のために全て使ってしまったのだ。
本心を言えば、美味いとは到底思えなかった。日本人的感覚を持ち込むなら、ほとんど残飯かそれ以下の食べ物である。
だが、金持ちに振る舞われた肉汁滴るステーキよりも、貧しい者が自分の腹を鳴らしながら分けてくれた小さな乾肉の方が尊い。
少なくともカズマは、幼馴染から男の道としてそう教育されており、たとえその教えがなくとも、自然と同じ考えを抱くに到っていたであろう。
だから、米の一粒、水分の一滴すら残さず、カズマは夢中でそれを平らげた。
空になった食器を床に置いたとき、自然に頭を垂れていた。
これまで何千と食事を繰り返し、運が良ければそれは今後もまた何千と続くであろう。しかし、今日この日の食事のことだけは生涯忘れまい。そんな確信があった。そして、いつか逆の立場で誰かを迎えたとき、自分は彼女と同じように振る舞わねばならない。そうも思った。
「――じゃあ、エォラさんは基本的におひとりで暮らしてらっしゃるということですか」
食後しばらく、カズマはベリィをつまみながら言った。
封貝を使ってカズマたちが森から持ち込んだ荷の一部である。これに加え、囲炉裏で照明代わりの火を点している薪も、一宿一飯の礼としてカズマとエリックが家主に提供したものであった。
エォラと名乗った彼女は、この贈り物を大層喜んだ。特に薪は、集落において物々交換に好んで用いられる一種の通貨として機能しているのだという。刑務所ではタバコが似たような機能を果たしたと聞く。文化レヴェルでは両者に大きな差はないということなのかもしれなかった。
「はい、もう長いこと独り暮しです。子どもはおりませんし……夫が戻るのも早くて冬になるでしょう」
出稼ぎに行っているという伴侶の姿を懐かしんでいるのか、エォラはどこか遠い目で言った。
聞けば夫の留守中は、時おりカズマたちが抜けてきた森に向かい、自然の恵みを得て生活の糧にしているのだという。これらの仕事は多くの場合、集落の住人たちが力を合わせて行うらしい。
「森と言えば――」カズマはふと思いだし、気になっていたことを訊ねた。「途中、本道からの分かれ道を見かけました。あれについて何かご存じですか?」
「それは多分、私たちが〈泉の小道〉と呼んでいるものでしょう」
エォラは即答した。近所にあるコンビニがどのグループのチェーン店かを問われたかのような、ごく身近な物について問われた者の態度だった。
「〈泉の小道〉は、一〇分ほど進むと文字どおり泉に着きます。地下水が湧き上がるとても美しいところで、獣たちもそこでは争いを起こしません。全ての生物にとって貴重な水飲み場であり、安全に魚を手に入れられる食料庫なんです」
「飲める水があったんですか……! 魚も捕れる?」
「ええ。湧き水なのでそのまま飲んでも問題なく、食べられる魚も年中豊富です。この集落の生命線の一つと言えるでしょう」
「もっと早くにそのことを知りたかったですよ。でも、そんなに便利な泉があるなら、どうして森からこんなに離れた所に集落を作ったんです?」
「あの森は〈統べる者〉がいる、その意味で管理された領域です」
「すべるもの?」
「森を支配している異形の生物です。実際に目撃して生きて返った者が少ないため詳細は未だ不明ですが、かつて森を切り開こうと近くに集落を作った人々は、〈統べる者〉に率いられた魔物たちの群れに襲撃され、滅ぼされたと聞きます」
「それで、近くには住居を構えられない?」
エォラはこくりと頷いた。
「節度を守り、自然の恵みを感謝とともに得ようとするだけなら、〈統べる者〉はそれに寛容です。しかし、環境を破壊し文明を持ち込もうとする者に対しては安全な存在ではありません」
「なるほど。単に危険な存在というわけではないと。いずれにせよ、そんな存在に鉢合わせせずに済んで良かったですよ」
ナージャが例の〈八つ裂き光輪〉で何十本もなぎ倒し、馬の墓穴を掘るために爆発を巻き起こしたことを思いだし、今更ながらにぞっとする。
エリックにも〈統べる者〉の話を伝えたところ、彼も同様の感想を持ったようだった。
「ところでエォラさん。この集落に、僕らのような旅人が訪れるのは珍しいことですか?」
「そう、ですね……」
と、エォラは複雑な色を湛えた笑みを見せた。それが何を意味するのかを読み解くのは、少なくともカズマにとって容易なことではなかった。
わけも分からず、なぜか胸がざわつく。それを尻目にエォラが続けた。
「街道を通る方はそれなりに見かけますが、多くの場合、この集落は素通りされてしまいます。無理もありません。本当になにもないところですから」
「昨日の夕方から夜にかけて、街道を中心に何か変わったことはありませんでしたか?」
「さあ」きょとんとした表情でエォラは首を傾げる。「私に限って言えば、いつもと変わらず何もない一日だったと思います」
あるいは飛行するナージャを見たかとも思ったが、それもなかったらしい。
考えればこれは当然だった。そもそも、人目につかぬよう高度を上げて飛行するよう彼女に指示したのはカズマなのだ。それに、空を移動するのなら真っ直ぐインカルシへ向かえば良いのであって、わざわざ街道沿いに進路を取る必要はない。
オックスたちに陸路組にしてもそうだ。聞けば、この集落の人々は朝日と共に目覚め、日暮ともに寝る生活を送っているらしい。とあらば、時間的にオックスたちがこの近くを通ったのは、住人達が寝静まった時間帯ということになる。目撃証言は期待できない。
嘆息を気付かれぬよう鼻から抜き、カズマは話題を変えた。
「では、この国について色々お訊きして良いですか? なにぶん生粋の余所者ですし、温室育ちの世間知らずなもので」
「私のような無学がどれほどお役に立てるか分かりませんが。何をお知りになりたいのでしょう?」
「奇妙なことを訊くものだと思われるかもしれませんけど、まず地理的なことを知りたいです。本当に基本の基本から教えていただけると助かります」
「それは、フ=サァンがどういった国かということですか?」
――フ=サァン。
なるほど。それがこの国の名称か。当たりを付けつつ、カズマは話を合わせた。
「それもそうですし、フ=サァンがその……全体から見てどの辺に位置してるのかとか、そういう根本的なことから知りたいんです。えっと、地図とかはお持ちではないですか?」
「地図、ですか」
エォラは茶色い目を白黒させた。揺れる囲炉裏の焚き火に照らされ、その瞳は万華鏡のように揺らめき輝いている。ややあって、彼女はふっと弛緩するように口元を綻ばせた。
「カズマ様は本当に高貴なお方でいらっしゃるのですね」しみじみとした口調だった。「そして――失礼ながら――仰るように私たち市井の者どもの事情をあまりご存じでないようです」
地図は貴族など身分の高い人々が独占する、高度な地理情報である。このような辺境の集落にあろうはずもない。彼女は続く言葉でそのように説明してくれた。
「ああ――なるほど。どうも、僕はとんでもない無知をさらしちゃったみたいですね」
カズマは頭を掻き、話の内容をエリックに通訳して聞かせた。
エォラに視線を戻すと、彼女はフォローするように自分から話を再開した。
「ですが、地図はなくとも一般に知られている程度のことならお話しできます。たとえば、そう――私たちのフ=サァンは、〈オルビスソー〉の中で三番目に大きな島なのだそうです。地理的には〈オルビスソー〉本島のすぐ左側の海に浮いていると言われています」
そう語りつつ、彼女は右手で握り拳をつくり、手の甲側をカズマたちに向けて眼前に掲げた。
「この握り拳の甲を〈オルビスソー〉の本島だとすると――」
言って、彼女は左手の親指の腹を、右拳のすぐ側に添えた。
「この親指が、フ=サァンです。比べたときの大きさも大体これくらいの差だと聞いています」
また聞き慣れない言葉だ。しかし、文脈から大体の意味は推察できる。
たとえば先程から繰り返されている〈オルビスソー〉という言葉。これは、こちらの世界そのものを示すものなのだろう。あるいは「アジア」だとか「ヨーロッパ」だとかいう、大陸規模の大雑把なくくりなのかもしれない。
「えっと」カズマは頭の中でイメージをまとめながら言った。「では本島からは割合、近いんですね。……渡ってきた本人が言うのもなんですが」
「少なくとも他の島国よりは近いと聞いています」
「エォラさんは、その〈オルビスソー〉の向こう側の世界へ渡っていった人々の伝説を聞いたことがありますか?」
概ね、打てば響くような素早い応答していたエォラが、このときは少し返答に窮するような様子を見せた。
「それは、ユゥオの北にある〈大北壁〉越えて――という意味ですか?」
もちろんユゥオだの〈大北壁〉だのは聞いたことすらない。だが、カズマは訳知り顔で「そうだ」と答えた。
「そうですね……」記憶の糸を手繰るように語尾を伸ばし、エォラは言った。「神々の中には〈大北壁〉を越えてあちら側の世界と〈オルビスソー〉を行き来する方がおられる、というような話を聞いたことはあります。でも、私も詳しいことは……。少なくとも命あるレイダーや冒険家、行商人の類が〈大北壁〉を越えたというような例はないとは思いますけど」
あちら側。〈大北壁〉。また聞き慣れない言葉である。
が、それらは特別、カズマにとって無視しがたい響きを帯びていた。
なにせよ、いかにも〈果ての壁〉を連想させる。あからさまと言って良い。
あるいは、その〈大北壁〉とやらがこちらの言葉でいう〈果ての壁〉に相当し、それを越えることで元の世界に戻れるのかもしれない。そんな都合の良い解釈すら浮かんでくる。
だが、それもこれもヨウコを取り返してからの話だ。そして、更にその前にナージャを見つけ出さねばならない。
思考を切替える意味も含め、カズマはまた話題を改めることにした。
あぐらをかいた両膝に肘をつき、指を組み合わせて少し身を乗り出す。
「このあたりは比較的平和に見えましたけど、フ=サァンは今、どのような情勢なんでしょうか?」
「もうずっと大きな戦争はないですし、〈オルビスソー〉の中では国として安定している方だと思います。少なくともユゥオが不穏な動きを見せているという本島などに比較すれば」
つまり、フ=サァンは統一された島国ということか。つまり日本と同じような。
納得しながらカズマは質問の深度を深めていく。
「僕らが向かおうと思ってるインカルシですけど、あれはどんな都市なんでしょう」
「フ=サァンで二番目に大きな港町であり、国内最強の誉れも高い封貝使いの集団〈護士組〉に守護された堅固な城塞都市でもあるところです」
「ごしぐみ――? 封貝使いの集団が詰めているんですか」
「はい。ですからインカルシは非常に治安の良い街としても知られています」
一瞬、驚いたカズマであったが、これは考えてみれば当然の話だった。
ナージャを見ても封貝使いが社会を脅かし得る存在であることは間違いない。それに備える治安当局が、同等の異能者で固められるのは自然な流れだ。
「そういう人たちがいるなら、確かに安心そうですね。彼らはインカルシの統治者に雇用されているというか――仕官しているんですか?」
「ええ。ですから、私などからすれば護士組の隊士というだけでもう雲上人です。中でも特に隊長各の幹部ともなれば、領地を与えられ、それに由来する姓を名乗ることが許されるそうですよ」
「つまり彼らはインカルシを護る騎士団であり、その幹部に到っては貴族でもあるって解釈で良いんですかね」
「少なくとも私たち平民の多くはそのように考えていると思います。護士組は実力主義で、秀でた才を示しさえすれば元の身分は関係なく出世できるそうです。ですから、彼らは私たち庶民の夢の存在ですね」
「その護士組でしたか、彼らはどの程度の規模の集団なんですか」
「末端の関係者まで含めると三桁に及ぶ大所帯だと聞きますが、私などが詳しく知るところではありません」
「その全員が封貝使い?」
表情が険しくならないよう、努めて平静を装いつつ問い重ねる。
「いえ、一部は封貝を持たない普通の人間が含まれるそうです。でも、実働部隊は基本的に封貝を使う方々ばかりだそうですよ」
だとすれば、仮に敵対した場合を考えると、充分にナージャを倒し得る戦力と言える。
実際、ナージャの身に何が起ったのかは分からない。だが、護士組の存在は念頭に入れておいた方が良い。直感的にそう思った。
「ご存じの通り、僕らは徒歩で旅しているんですが、この集落からインカルシまでどのくらいかかるかご存じですか?」
「どの程度、旅慣れているかや体力にもよると思いますけど、通常なら七日ほどかかります」
聞き出した日数をエリックにも伝えると、彼は眉間に皺を刻み低い唸り声をあげた。表情に関して言えば、恐らくカズマ自身、似たり寄ったりの状態だろう。
念のため、インカルシまでの道のりについて訊ねてみたが、分かった範囲で最大の問題になるのは、やはり距離のようであった。途中、街道沿いに村やちょっとした宿場町があるため、路銀さえあれば補給や寝床には困らない。森、渓谷、山岳地帯などの難所や危険地帯はなく、野犬や強盗にさえ気をつければそれほど困難な旅にはならないであろうという。
「路銀というと、要するにお金のことですよね。フ=サァンにはやはり通貨経済のシステムがあるんですか?」
「無学な私には、おっしゃっていることが難しすぎて意味を良く理解できずにいますが――」
そう断った上でエォラは続けた。
「カズマ様が言っておられるのは、かつて〈征服王〉ケヴレスが〈オルビスソー〉を全土統一したときに導入したといわれる共通通貨のことですよね?」
もちろん、〈征服王〉や共通通貨など全く知らない。聞いたこともない。しかしカズマは、思わせぶりな微笑を浮かべつつ、泰然と頷いて見せた。
そう私は全て理解しているが、あえてキミが自分で気付いてくれるのを待っていたのだ、とでもいうようにである。
「確かに、〈征服王〉が亡くなったあと、本島がそうであったようにフ=サァンでも独立戦争が起き、各所で内乱が起りました。この島国もフ=サァンとして独立するまでは勢力争いが起きて、島内でも対外的にも色んな摩擦が生じたと聞きます。もちろん、私は当時を知りませんが――それでも先祖から伝え聞く限り、やはり戦時中は一時、独自の通貨が出回ったというようなこともあったようです。でも、フ=サァンでは内乱が収まるとまた共通通貨が使われだしました。そして、それは今も続いています」
しかし、その共通通貨とやらは、インカルシのような大都市でしか使われていない。彼女はそうも話した。大都市以外では、商取引や兵士への給金といった形でしか用いられるのが精々であるという。この集落のような辺境の地までは貨幣も出回らず、物々交換がメインで行われていることも多いらしい。
「なるほど、参考になります」
カズマは大仰に頷きながら話を続けた。ただし、本当に知りたかったのはこれから聞くことにある。
「ときに先程お見せしたベリィと薪が僕らの全財産なんですが、あれはインカルシまでの道中、立ち寄った村々で物々交換や取引材料として充分に機能するでしょうか? つまり、僕らはあれだけでインカルシまで辿り着けるでしょうか?」
この問いに、エォラは刹那、表情を曇らせた。
怪訝に思ったカズマは首をひねり、そして気付く。
よくよく考えれば、ベリィや薪の価値をここではっきりさせてしまうのは、彼女にとってあまり行儀の良い話ではない。仮に、「お前たちが持っている荷くらいでは一食分の対価にもならないであろう」というような宣言をすることになった場合、それはすなわち、「食事と宿を提供した自分に礼として全ての荷を置いていけ」というような要求をするも同然のことになり得るからだ。
言いにくいことならば無理に話す必要はない。カズマがそう取り繕おうとした矢先、エォラが重たい口を開いた。
「薪は――間違いなくどこの村でも歓迎されると思います。特に、ここから二日から三日いったあたりの集落では、近くに森がないこともあって比較的高い価値を持つでしょう。逆に、そこまでとそこから先の地域では、薪もベリィもそれほどの貴重品としては扱われないと思います。ベリィは生で鮮度が高いほど価値があり、干した物はあまり喜ばれません。それでも薪ならある程度の量を渡せば水や――場合によっては軽食と引替えにできる希実はあります。でも、そうして旅を続けられるのは二、三日ではないかと」
今度ははったりではなく、本当の意味でカズマは笑みを浮かべた。ただしそれは皮肉、苦み、そして自嘲が混じり合った、とてもポジティヴとは言いがたいものであった。
要するに二、三日行けば薪を高値で売りさばける。しかし、その二、三日の旅を続けるために、お前たちは手持ちの薪を全て使わねばならないだろう。エォラが言ったのはそういうことなのだ。
「途中、僕らのような世間知らずでも何かしらでお金を稼ぐ方法はあるでしょうか。たとえば、新しくベリィを摘みなおすだとか、魚を釣るだとか」
「四日目の場所に、少し大きな河が流れています。そこでは魚がとれるはずですが、その前後には簡単に素材を収拾できる場所はあまりなかったかと」
「流しの馬車などはないんですか?」
なんとなくバスやタクシィを思うかべながら問う。
「基本的にないと思います。運が良ければ馬車の行商人と遭遇して、交渉次第では荷台に載せて貰うことができるかもしれません。でも、可能性はあまりないでしょうね」
頭の痛い問題だった。
ベリィだけなら、恐らく節約すれば一週間分はある。あとは薪を飲料水に換え、夜を野宿で乗り切ればインカルシまでなんとかならないではない。
しかし、それでは時間がかかりすぎた。
もう、ナージャが迷子という甘い見込みは通りそうにない。何か考えたくない種のトラブルが生じたと見るべきなのである。良くて何らかの脅威から身を隠しているか、悪ければ捕縛されてたり、半死半生の重傷を負っていることも覚悟せねばならない。
故あって善良な者に保護されているのでなければ、彼女とて女性だ。ヨウコにもそのリスクが強くつきまとうように、拷問――性的な暴力を受けていることも考えれる。
想像もしたくないが、否定はできないのだ。
そんな状況下で一週間。これは絶望的な時間と言える。
最悪、馬ドロボウや、昨日撃退した野盗の同類に成り果てるしかないかもしれない。
エリックが否と言わなければ、そんな決断を近々迫られるかもれしない――。
「あのう、カズマ様」
迷走し始めた思索は、しかしエォラから遠慮がちにかけられた声で中断された。
「ああ、はい――なんでしょう?」
慌てて笑みをつくり、呼びかけに応じる。
「お連れの方は」とエリックを控えめに一瞥しつつ、彼女は続けた。「カズマ様の護衛というお話でしたが」
「ええ。言葉はできないのですが、身辺警護においては大変頼りになります」
それが? という顔で話の先をうながす。
「もしかして、封貝を使われるのでしょうか」
そう問う彼女の双眸には隠しきれない畏怖の念が見え隠れしていた。
そういうことか。納得すると同時に、カズマは安心させるように笑くぼを作ってみせた。
「それこそまさかですよ。僕ごときが封貝を持つ護衛など持てるはずもありません」
もちろん、自分がその封貝使いだ、とは言えない。
何処の馬の骨とも知れぬ自分たちを家に招き、食事までご馳走してくれた女性を無意味に怯えさたくはなかった。
やはり、念のため右腕封貝を隠しておいたのは正解だった。カズマは今、しみじみそれを痛感つつあった。
エォラが見せる封貝使いに対する警戒心は、カズマの予想を超えたものであった。
この世界の人間にとって封貝使いとは街中に突然現れた肉食獣や、散弾銃を抱えた不審者に匹敵、場合によってはそれらを越える脅威ということだろう。ナージャを見る限り、さもありなんと言ったところではある。
ならば、半端者ではあれ、同じ封貝使いである自分も、不用意に近付けば過剰反応――パニックをもたらす危険性がある。集落を発見した時点でそのように考えたカズマたちは、即座に対策を講じていた。
まず優先したのは、右腕の封貝を隠すことだ。これは幌を割いて作った包帯でぐるぐる巻きにすることで解決した。宙に浮かせていた荷台も地に下ろし、死んだ馬から取り外しておいた手綱で引っ張って運べるように改良した。もちろん、運搬用に出していた白丸封貝も全て引っ込めなければならなかった。そうして無害な旅人として、カズマとエリックはこの集落に足を踏み入れたのである。
これは今見れば先見の明であったと言えた。おかげで野盗に襲われ右腕に怪我を負った哀れな少年として、村人に扱われている。
「封貝使いでないのでしたら難しいかも知れませんが――」
幾分、警戒を緩めた様子でエォラが言った。もう一度、今度はそれなりに好意的な視線をエリックに走らせつつ、続ける。
「お連れの方はとても大柄で屈強な体つきをされていますし、もしかしたら道中の村々で旅の護衛として欲されることがあるかもしれません」
一瞬考え、カズマはすぐに言わんとしていることを理解した。
「ああ、なるほど。つまり村を見つけたら、買い出しにインカルシに行く予定みたいな人がいないかチェックしてみよ、ということですね? 僕の従者に、僕だけでなくその人たちも一緒に護衛させることで、馬車の荷台に乗せて貰ったりすることができるかもしれない」
「はい」エォラは艶然と微笑む。「幸運に恵まれればそんなこともあるかもしれません」
「とても良い考えですね。僕らにも相手にもメリットがあり、それでいてデメリットはない」
「本来ならば、そういった護衛はレイダース連盟の専売特許ですし、彼らを通して探すのが筋なのはご存じの通りです。ですが、私たちのような貧しい集落には探求者を雇うお金はありませんし、レイダーもまた貧民を相手にはしてくれません。ですので、チャンスはあると思います」
「失礼ながら、確かにそういったところはあるんでしょうね」
心情をお察しするといった表情で、カズマは適当に言った。
実際には、また登場した耳慣れない単語――レイダーとやらがなんなのか戸惑っていたが、もちろんそれを顔に出すことはない。エォラの口ぶりからすれば、この世界の住人なら知っていて当然の事柄であるように思えたからだ。
「そう言えば、フ=サァンのレイダーはどんな感じなんですか? 一口にレイダース連盟といっても土地によって毛色が大きく異なることもあると聞きますし、まして海を渡ればその傾向も強まるように思えるのですが」
適当に当たり障りのない表現をでっちあげ、探りを入れる。さらに付け加えた。
「と言うのも、僕の故郷の連盟には少し閉鎖的なところがあって不満の声があがってたんですよ。フ=サァンでも似た傾向があるなら、ちょっと厳しくなるなと少し不安に思っていたんです」
カズマの嘘八百をどのように解釈したのか、エォラは同情的な顔で小さく頷いた。
「フ=サァンでは、カズマ様がおっしゃっているような心配はないと思います。もちろん、私など風聞で聞き知る程度なのではっきりしたことは申せませんが――それでも、気風としてこちらの連盟は開放的な方だという話はちらほら耳にいたします」
「僕らのような、事情があって身元を明かせない余所者でも問題なく受け入れられるでしょうか?」
「毛色に違いがあるとはおっしゃいましたが、伝統的な気質についてはどこも変わりないと思います。それが建前に過ぎないといった話は聞いたことがないですし、この集落からも若者がレイダーを志してインカルシへ出ていったことがありました。依頼者として連盟の力を借りるにせよ、自分がレイダーとして連盟に登録するにせよ、ルールさえ守るなら身元に関して特別、問題視されることはないと思います」
聞いている限り、彼女のいう「連盟の伝統的気質」とやらは、以下のように要約できるようだった。
すなわち「連盟に対して誠実である限り、依頼人として、また加入志願者としてその人物の素性、出自を問われることはない」。
「連盟に迷惑をかけず、ルールと金の約束を守りさえすれば、それがどこの誰であろうと受け入れる。なるほど、実に懐が深く節操がない。いかにもレイダースらしい話ですね」
カズマは、さも組織の内情を良く知る古株のような顔で言った。
「フ=サァンでも根源的な部分は変わらないと聞いて、少し安心しました」
「カズマ様は、インカルシで連盟に加入なさるおつもりですか?」
「そうですねえ」それは以前から考慮していたことだ、というようにカズマは顎を一撫でする。「本当に着の身着のまま故郷から逃げ出してきたので、今後の予定は全くたってなくて。多少、危険ではあれレイダーとして生計を立てていけそうなら、それも選択肢のひとつにすべきかな、とは思っています。――僕らでは難しいと思いますか?」
問うと、エォラはゆっくり首を左右した。
「封貝を使えるとレイダーとして有利であるのは、フ=サァンでも同じです。その面で少し不利なのは事実かもしれません。でも、それ以外の部分で秀でたところがあるなら、普通の人間でもやっていくことはできるはず。実際、封貝を持たないレイダーもフ=サァンでは沢山活躍していると聞きます。カズマ様とエリック様なら、きっとご立派にやっていけるでしょう」
それが根拠を問わない世辞、リップサーヴィスの類であることは明白である。
だが、カズマは全てを承知の上で礼を言い、受け入れた。
状況はやはり厳しい。
両手を腰の後ろにつき、カズマはぼんやりと天井を見上げた。
囲炉裏の火はその淡い光をなんとか梁まで届かせるのがやっとで、頭上の大部分は濃い宵闇の支配下にある。
届かない光。無限の深度を誇るかのような深い暗がり。
まるで自分たちの前途を案じているようではないか――。そう思った瞬間、カズマは身体の芯まで染み渡った重たい疲労を、軽い目眩を伴いながら感じた。
一行は今、ナージャという最強の駒を失いつつある。怪我人を街へと搬送している最中のアクシデントというのなら、責任はそれを決定、指示したカズマにきぞくする。
ヨウコを連れ去ろうという何者かに抗い、たが敗北し、自分は彼女を失った。
そして今度は、異世界に到着して早々別の女の子を危険にさらしている。また失おうとしている。
無力。度がしがたい無能。そんな誹りを受けてなんら文句の言えない失態だ。
何度、繰り返せば気が済むんだ。何人、女の子を犠牲にして、自分だけ助かる気だ?
僕に彼女たちを救える力はあるのか。自分自身すら満足に守れもしないのに――?
危険な迷路に嵌りつつあった思考を、カズマは頭を振って強引に振り払った。
反省、自己批評は常に重要である。しかし、延々と可能性を否定し続けたところで、状況は何ら好転しない。それでヨウコを、ナージャを奪還できる確率が上がることはない。
疲労が思考をネガティヴにしている。そう判断したカズマは気分を切替える意味で、エォラとの会話に戻ることにした。この調子では、今夜はもうそう長いことまともな情報整理はできないであろう。次の質問を最後に。そのつもりで何を訊くべきか考える。
「エォラさん。ひとつ知恵をお借りしたいことがあるんですが――」
「はい。なんでしょう」
「僕らには、故あって同じように故郷を追われて……まったく別ルートを辿って国外へ脱出した仲間がいます」
相応しい比喩表現を探しながら、カズマは訥々《とつ》と語っていった。
「とても大切な人たちなんです。なんとしても探し出して合流しなくちゃいけません。でも仲間がどこへ逃げたのか、今どの辺りにいるのか、今ところ皆目見当もつかない状態なんです。|この世界のどこかにはいるだろう程度の彼らを、何の手がかりもない状態から探し出すとして……その、何か有効な方法はあるでしょうか」
自分で聞いていながら、途方もない無理難題のように思えた。
どうしろと言うのだ。立場が逆なら、カズマはそう即答していたであろう。
だが無知だ、学がないだと言いつつ、エォラは想像以上に聡明な女性であった。
「方法は大きく二通りあると思います」
彼女はさして考える様子も見せず、伶俐な語り口で言った。
えっと顔を上げるカズマを正面から見詰め、彼女は静かに続けた。
「一つ目は、言うまでもなくレイダース連盟を利用するルートです。ご存じの通り、人捜しは各国に支部を持ち、広大な情報網を構築している連盟がまさに面目躍如とするところ。そのお仲間の行方に賞金をかけて人の手を頼るも良し、単に情報収集だけを求めるもよし。一番堅実な方法でと言えばこれだと思います。ただ、カズマ様がお訊ねであるのはこれを別にした、何か他の手段なのですよね――?」
なるほど、レイダーのギルドとやらにはそのような使い道があるのか。興信所や何でも屋の類に傭兵を合わせたような職業なのかもしれない。カズマは新たに得られた情報に感心しつつ、
「ええ、そうです」
すまし顔でそう答えた。エォラも方も、であろうというように一つ頷く。
「そこで二つ目として私に思いつく方法ですが、こうなるとやはり知名度を上げるくらいしかないように思えます」
「ほう、と言われますと?」
「〈ロッド〉――つまり、ラング・オ・デジョウムです」
「ああ、なるほど」
頭の中が無数のクエスチョンマークで埋め尽くされていることはおくびにも出さず、カズマは「それは盲点であった」というように大袈裟に頷いて見せた。
「なるほど、〈ロッド〉ですか。僕はそうでもないですが、確かに熱狂する人は沢山いるようですね」
「ええ、フ=サァンでも大変な人気です。もうすぐシーズンですが、そうなれば国をあげてのお祭り騒ぎになるでしょう。もちろん、選手となるには封貝使いであることが前提となりますが――」
選手? カズマは眉が動いてしまわぬよう、意思の力で己を抑制しなければならなかった。
とすると、ラングなんちゃら――その略称が〈ロッド〉なのだろう――はなにかの競技、スポーツの類なのであろうか。
ないしは、現実世界でいう五輪のような競技会なのかもしれない。
様々に想像を巡らしつつ、カズマは話の続きを待つ。
「参加するだけなら必ずしも封貝使いである必要はありませんし、チームオーナーとして関与する方法もあります。これは大変な資金力が必要ですけど」
ともあれ、ラング・オ・デジョウムで結果を残せば〈オルビスソー〉に広くその名を知られることになるであろう。それが、エォラの主張だった。
そうなれば当然、尋ね人の耳にもその活躍は入る公算が高い。向こうから接触してくる分には非常に難易度が下がるし、知名度を利用した人捜しや情報収集も非常にやりやすくなる。
「色々とハードルはありますが、確かに方向性のひとつとしてはありかもしれませんね」
カズマはそう言うと、エリックにも聞いた話を通訳して伝えた。
ロッド。ラング・オ・デジョウム。これらになにか心当たりはあるか。ついでに確認してみたが、彼も初めて耳にする言葉だという。だが文脈から、彼もスポーツの一種ではないかと考えたようだった。このあたりは合流でき次第、ナージャに確認を取る必要があるだろう。
それより気になったのはエリックの様子だった。
集落に保護されたことで緊張の糸が切れたのかもしれない。どっと疲れが押し寄せた様子で、話の途中、話の受け答えが急速に辿々しくなっていくのが分かった。
これは傍目にも明らかであったようで、エォラもすぐに様子を察し声をかけてくれた。
「お連れ様はたいそうお疲れのご様子ですね」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、女性らしい膝元を撫で押さえるような動作を見せながら立ち上がった。
「旅のお方にお話をうかがうなど滅多にない機会でしたので、私もつい夢中になってしまって。遅くまで気付かず申し訳ありません。どうそ、もうお休みになってくださいませ」
と、奥へ誘おうとする。囲炉裏がある居間代わりのスペースの向こうには突っ立てがあり、そこが一応の寝室になっているらしい。
自らあばら屋という通り決して広いわけではない屋内には、客室などあろうはずもない。案内しようとしているのは、エォラやその夫が普段使っている場所なのだろう。
当然、これをカズマとエリックに譲ってしまえば、彼女は寝床を失ってしまうことになる。流石にそれははばかられた。
「いえ、妙齢の女性がお独りでおられるところに、男ふたりがこれ以上、お邪魔するわけにもいきません。軒下をお貸し頂けるなら、そこで休ませてもらいます」
「何を仰いますか」カズマの言葉に、エォラはとんでもないという風情で目を見開く。「お客様を外で寝かせるなんて」
カズマは無意識に眉間を揉んだ。
エォラとの問答に辟易した、というわけではない。しばしば他人の欠伸を見るとそれが伝染するように、重い目蓋をこすり半ば朦朧とするエリックから眠気を半分貰ってしまったかのような感覚に襲われたのである。
自分で感じているより心身ともに疲弊しているのかもしれない。確かに、エォラの言う通り今日は早めに休んだ方が良いのだろう。
そう判断し、少し語気を強めて話を決めにかかる。
「とにかく、家主の――それも女性から寝床まで取り上げるようなことはとてもできません」カズマはきっぱり言った。「食事までご馳走になった上、宿まで提供していただくんですから。せめて、それくらいの遠慮は通させてください」
「ですが……」
すったもんだの末、結局、カズマとエリックは囲炉裏の近くで雑魚寝――というには人数が少なすぎるが――させてもらうことで決着した。
その後すぐ、カズマは軽く船を漕ぎはじめているエリックを残し、馬車から剥ぎ取ってきた幌を一度外へ取りに出た。戻るとそれをシーツ代わりに床に敷いた。
「ごめん、なんか……急に頭が重くなって……」
先に横になったエリックが、目元を腕で隠すようにして囁く。芯の抜けたそのかすれ声は、ほとんど寝言のようにさえ聞こえた。
「思考が上手く働かない……普段は、こんなこと滅多にないんだけど……」
「疲れてるんですよ。僕らはきっと、自分たちで思ってる以上に。色々ありましたから」
「そう、だね……じゃ、申し訳ないけど」
少し、休ませて貰うよ。そう続く最後の言葉は、ほとんど吐息と区別がつかないほと曖昧なものになっていた。と同時、強制シャットダウンされたPCのように、エリックはもう深い眠りについていた。
「じゃあ、エォラさん。すみませんけど僕らは休ませていただきます。今日は、本当に色々と親切にしていただいて助かりました」
「いえ、大したお構いもできませんで」
本心からそう思っているらしく、彼女はどこか申し訳なさそうな微笑を浮かべていた。
「せめて良い夢を」
続いてエォラから投げかけられたその言葉は、挨拶にしては些か奇妙に思えた。が、こちら特有の何か意味がある言い回しなのかもしれない。そう考え、カズマは同じ言葉を返す。そして軽く頭を下げ、すぐにエリックから少し離れた右隣に横たわった。
一旦目を閉じると、なんとしても再び開くことができそうにないと思えるほど、強烈な眠気が襲ってきた。エリックも眠気の強さに戸惑っていたようであったが、その気持ちが分かった気がした。
まだこちら――〈オルビスソー〉に来てから二日目だが、経験してきた数々のイヴェントは精神にとてつもないストレスを与えていたらしい。昨夜は交代制で見張りにつき、特にカズマは順番の関係で充分な睡眠を得られなかったこともある。今日も今日とて、生まれてから一番長く歩いた一日であった。何にも怯えることなく、安心して眠れる寝床。思いがけずそれを得て、箍がゆるんだのかもしれない。
これは、もう、駄目だ。
直感的に悟ったその時にはもう、カズマは意識を手放していた。
――途中、夢は見なかった。そう思う。
だが、眠りに落ちてどれくらいしてか、カズマは乱暴に身体を揺らされ、半分覚醒した。
「おい、乱暴に扱うんじゃないよ。痣でもできたらどうすんだよ」
風呂場で反響する声のように籠もった、どこか遠くから聞こえてくるその声――
それがエォラのものであることに、一枚膜がかかったような意識が気付くまで、一体どれほどの時間をようしたか。
「分かってるよ。黙ってみてるだけの奴がうるせえな」
その太く品性を変えた荒い声には、聞き覚えがなかった。男であることは分かるが、それ以上のことは分からない。思考がうまく働かない。
「やかましいのはそっちだろ。デカイ図体に力が有り余っていても、私がこうしてお膳立てしてやらなけりゃ、使い道もないじゃないか。インカルシまでちょっと運ぶだけで少なくないお零れに預かれるんだ。商品は丁重に扱いな」
まるで別人のようなそのエォラの語り口は、しかし夢の中だとどんな理不尽も自然に受け入れられてしまうように、今のカズマには特段琴線に触れるものではない。
「分かったよ」男の声がふてくされたように言った。「――しかし、この小僧どもは何者なんだ。こんな服、見たこともねえ」
「アタシにも分からないよ。どこぞ辺境の領主一族の末席に名を連ねる立場で、後継者争いのごたごたに巻き込まれて逃げてきただとか、そういったことを匂わせていたけどね」
「じゃあ、この細いのが田舎の若様で、そっちのガタイの良いのが御付の護衛か?」
「本人たちはそう言ってたけど」
「吹かしじゃねえのか?」
そう問う男の声が途中、微かにブレた。喋りながら力を入れたためだ。
同時、カズマは自分の左手首に、何か締付けられるような痛みを感じた。それでようやく、カズマは自分の腕が後ろ手に縄のようなもので縛り付けられつつあることを知った。気付けば両脚もぴたりと閉じられ、足首のあたりで固定されている。
「まったくの嘘って感じではなかったねえ。その着物、見たこともない生地だよ。おそろしくサラサラしててさ。色彩もどうやって染めたのか想像もつかないほど複雑で色鮮やかだ。そこらの平民が手に入れられるようなもんじゃないね」
「確かに……。デカイ方に到っては、まだ若そうだが偉く鍛えられたガタイしてやがった。よっぽど栄養状態が良い環境で、かなりの鍛錬を積んでるぜ。手も何度もマメ潰して固く分厚くなった手のひらしてやがった。恐らく剣をやるんだろう。騎士かもしれねえ」
「逆に細い方は、食器より重い物なんぞ持ったことがないってくらい、綺麗で柔らかそうな手ぇしてんだよ。少なくとも相当に育ちは良いんだろ」
「貴族ってのもあながち嘘じゃねえってか」
男が思わぬお宝を手に入れた、というように声を弾ませる。
「だから言ってんだろ。それでなくても、若くてこれだけイキの良い素材なんだ。あたしらと同じアンカー系なんだろうけど、ちょっと毛色も違って見えるしね。女じゃなくたって、それなりに高く売れるのは間違いない」
「じゃあよ、この上物だって服、引っぺがして別に売っ払った方が良かったんじゃねえか?」
「それも考えたけど、セットの方が商品として箔がつくって考え方もできる。だから、手荒く扱って汚したり破いたりしないようにしなって言ってるんだ」
「へいへい」
熱に浮かされたように意識が遠い。全てから決定的に現実感が欠落している。
ただ一方的に流し込まれてくるだけの情報を、脳が思考と結びつけて処理しようとしない。記憶にない幼少期のアルバム写真を見るように、自分の身に起っていることながら全てがまるで他人事のようにしか感じられなかった。
「おう、エォラ。両方ともくくり終わったぜ」
男が一仕事終えたというように宣言した。
「ご苦労さん。でも一応、確認はさせて貰うよ。アンタにゃ前科があるからね」
言葉とは裏腹にまったく申し訳なさそうには感じられない声音で言い、エォラが足音を近づけてくる。男がチッと舌打ちするのが聞こえた。
「おい、その言いぐさはないんじゃねえか? そりゃいつの話だよ。俺はもう言われた通りにしてるぜ。今さら、血行止めちまうなんざ素人みたいな真似するかよ」
「だから念のためだって言ってんだろ。――しかし、足はまだかね」
「今回は、ランコォル種呼んだんだろ? 確かに、ならもう着いても良い頃だな」
「こいつら、どう見ても訳ありっぽいからね」
エォラの声と同時、何か固く尖ったものがカズマの腰あたりを横から突いた。おそらくは蹴るように爪先で軽く触れたのだろう。
「逃げてきたって話が本当で、もし追手みたいなのがかかってたら面倒だ。今回はランコォル種使ってでもさっさと運んで、早めに金に換えといた方が良いと思ったのさ。多少、金は余計にかかるが、それに見合うだけの高値でさばけるだろうからね」
「おう……そうか。ただ身なりの良さそうな上物だって喜んでちゃいけねえんだな」
なるほどなあ、と男は嘆声もしきりであった。
「これで身元がはっきり割れてりゃ、人質にして金要求するなり、追手に差し出して礼金いただくなりって選択肢も出てくんだけどね」
「起こして吐かせるなら、やるぜ?」男が底冷えする声で言った。
「馬鹿」対するエォラはそれを一蹴する。「痛めつけたら商品価値下がるだろ。引き出した情報が本物かどうかも確認が難しいし。ここは奴隷商に流すのが手っ取り早いし安全だよ」
しかし、遅いねえ。彼女は多少、焦れたように言うと、男に様子を見てくるよう命じた。
どうやらふたりの間には明確な上下関係があるらしい。男の方も、ランコォル種とやらの到着が遅いことは気になっていたらしく、文句をいうでもなく素直に従った。戸が開け閉めされる軋んだ音がして、質量の重そうな足音が遠ざかっていく。
が、それは弾かれたピンボールのように、すぐに戻ってきた。
「おう、ちょうど来てたぜ。どうやら馬が急に出産しだしたんで、その世話で出発が遅れたらしい」
はしゃいだように戸口から声を張り上げる男の後ろから、もうひとつ別の足音が聞こえてきた。
「おう、エォラ。遅くなってすまんな」
初めて聞く、もう一方と比べて幾分落着いた、深みのある男の声が言った。
「生まれたのはランコォル種の子かい?」エォラが静かに問うた。
「おうよ」二人目の男が応じる。「元気な男児って奴だ」
「なら仕方ないね。貴重なランコォル種が増えたってのは喜ばしいことだ。けど、遅れた分は急いでくれよ。こっちも良い仕事になりそうなんで下手は踏みたくないんだ」
「おう、エトー。お前はその細い方を頼むわ」
最初からいたほうの男が景気の良い声で言う。二人目の男は無言で答えたらしく、すぐにカズマの方へ歩み寄ってきた。足音が止り、うつ伏せにされていたカズマの腰が、米俵でも扱うような荒々しい手つきで持ち上げられた。そのまま担がれ、ゆっくりと移動が開始される。聞こえてくる虫の音の違いで、屋外に出たのが分かった。
「エトー。今からでもインカルシまで二日のうちに着けるかい?」
後をついてくる足音と共に、エォラが訊いた。
「まあ、順当にいけば大丈夫だろう。任せといてくれ」
しばらくして、担ぎ出されたときのように、カズマは突然、どこかに放り出された。背中に固い感触が伝わる。苦痛の呻きが口から漏れ出すかと思ったが、それは思いのほか小さな、ほとんど吐息に近いものとして空気中に霧散していった。
そして衝撃とは裏腹に、再びカズマの意識は遠ざかり始めていた。
その理由は分からない。だが、半分まどろみながらの意識でも三つだけは理解できた。
つまり、これが夢ではないこと。自分が間もなく、また深い夢の世界に落ちていって忌まふであろうこと。そして、エォラがただ親切なだけの村人ではなかったということである。
そんなカズマの思考をまるで読み取ったかのようなタイミングで、エォラの足音が近付いてきた。彼女が腰を屈め、二体の商品を冷たく見下ろしているのが気配で分かった。
「じゃあ、お別れだよ」
「こいつらだって、エォラにゃむしろ感謝してるさ。なにせ、乾肉入りのご馳走をただで振る舞ってもらったんだからな」
最初の男が下卑た笑い声を上げる。
「まあ、一緒に薬も入ってたんだけどね」エォラが苦笑の気配を漂わせる。「でも、コイツの言う通りさ、お若い貴族様。高貴なお方の口には合わなかったかもしれないけど、最後の晩餐としては悪くなかったろ。それに、良い気分で夢の世界に旅立てははずさ」
好き勝手なことを。
意識が明瞭でありさえすれば、言い返そうともしただろう。
しかし、もうカズマにはそれだけの思考力は残されていなかった。
ただ、残った欠片ばかりの部分で、薬か――とだけは思うことができた。ストレス。疲労。非日常に置かれたせいで、急な眠気の原因をそういったところに求めてしまっていたが、あれは確かな異常であったのだ。薬物によってもたらされた――
そこで、カズマは実に二度目となる意識の喪失に見舞われた。するすると砂のように自分を繋ぎ止める手綱が手の中から流れ逃げていく。止められない。
底の見えない深淵が迫ってきた。




