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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第一部「恋しかるべき、君」
2/64

一真

  001 


 楠上なんじょうカズマは、その朝も激しい口論の声で目を覚ました。

 よく飽きないな。

 寝惚け眼をこすりながら、半ば他人事のように感心する。

 片や芯のある、男性としてはやや高めの声。

 片や透き通ってはいるが刺のあるメゾソプラノ。

 前者が溜めのある砲撃だとすれば、後者は間断なく火を吐く機関銃といったところか。

 もう数えきれないほど聞いてきた同居人たちの罵り合いだった。

 わざわざ第三者の部屋でやりあうこともあるまいに。そう思いつつ、

「最近、この光景を受け入れつつある自分がちょっと怖いんだよね」

 ため息をつきながら、カズマは起き上がった。

 途端に口論の声がぴたりと止む。

「ああら、カズちゃん。おはよう」

 代わりに聞こえてきた猫なで声と同時だった。

 カズマは柔らかな人肌の感触に包み込まれた。

 昔ならここで無意味にもがいたところだが、最近はもうあきらめていた。

 ただ、なだめるように二度だけ相手の腕を叩いた。落ち着きを払って言う。

「おはよう、聖美サトミさん。寝起きに刺激が強いのは健康上よくないから、ちょっとだけ離れてもらえるかな」

「その通りだ。即座に離れよ、そして恥を知れあばずれ」

 その声に一転、まなじりを釣り上げながら――そして逆にカズマを抱く腕に力を込めながら、玉池たまいけサトミが背後をめつけた。

「カズちゃんにならともかく、あなたに言われる筋合いはありません。軽いスキンシップをともなった朝の挨拶は、明るく健全な家庭生活を維持していく上で必要不可欠な潤滑油なのよ」

「たわけ。お前のそれは度が過ぎているだろうが。なにより、カズマ当人が不快感を示しているではないか」

 おのれに突き立てられる視線を涼しげに受け流し、男の声は泰然として応じる。

 明らかに、他人へ命じることに慣れた者の口ぶりだった。

 成人男性の平均に収まる背丈。余分な贅肉を刃物で削ぎ落したような痩身。

 どこにも特異な部分はないのに、見上げる彼はそびえ立つ城壁のように堅固けんごで分厚く目に映る。

 それが、楠上なんじょう紫玄(シゲン)という男だった。

「カズちゃんは少し恥ずかしがってるだけよ。この子と私は将来を約束された間柄。太極に通ずる陰と陽。生命の神秘に触れ、繁栄に到るべく祝福を受けたこの絶対的構図を前に――シゲンさん、あなたの入り込む隙間がどこにあるって言うの?」

「だからお前は暗愚だというのだ」と、シゲンは鼻を鳴らす。

「そのような旧態依然とした在りようが人類の進歩を妨げてきたことにも気付かん、その思考の居付きこそ害悪。カズマの今後の人生にお前の出番など欠片もありはせんわ。カズマは生まれてきた。そう、私と出会うために」

「妄想たくましいこと。カズちゃんは、良い匂いがする女の子とむさくるしいおっさんのどっちが好き? うん。聞くまでもないよね」

 サトミが頬に口元を寄せてくる。

 微かに水っぽい音がして、気化熱のすっとした感覚がカズマの神経をくすぐった。

「貴様ァ、カズマの頬に吸い付くなッ! 汚染されるだろうが」

「神聖なる儀式を汚染とのたまうとは……どうも、あなたとは一度本気で決着をつけなくちゃいけないみたいね」

 離れ際にぎゅっと力を込めると、サトミはカズマを解放してベッドから降りた。

 ゆらりと立ち上がり、シゲンと対峙する。

「勝負などとうに決していることにも気づけぬ哀れな女よ。そこを退けい。お前のような紛い物ではない本物のスキンシップ、漢と漢の熱き結合というものを見せてやる!」

 シゲンは不敵な、それでいて冷たい笑みを浮かべる。

 そして、やおら羽織っていたワイシャツを脱ぎだした。

嫌な予感がした。

 シゲンの上半身が露わになった。

 布越しからは想像もできないほど鍛え上げられた胸板が見えた。

 本人は自慢にしているようだが、バットマン・ロゴそっくりの形をした胸毛がカズマの目にはまた暑苦しい。

 シゲンが袖から腕を抜いた。

 リングインした格闘家がガウンをそうするようにシャツが放られる。

「ちょっ……シゲンさん? なんで脱いでんの」

 カズマは顔を強ばらせた。そして、ベッドの上で後ろ向きに距離をとろうと試みる。

 が、頭側の小棚と側面の壁のせいですぐに退路は断たれた。

「さあ、カズマ。汗と筋肉。雌性しせいの入り込む余地などない世界を、この物分りの悪い女に見せつけてやろうではないか」

「冗談、だよね?」

「そうよ、私の可愛いカズちゃんが怯えてるじゃないの。さっさとその見苦しい胸モジャを収めて」

 サトミが盾のごとく立ちふさがった。

 しかし、当のシゲンは微塵も動じる気配を見せない。

「下品な下着で着飾るしか脳のないかわいそうな動物には、鍛え抜かれた男の肉体より滲み出る内面の美になど理解も及ばんのだろうな? フン、ガードルレースにネグリジェか。頭の軽い人間には実に似合いの格好よ」

「安い挑発じゃない。でも、のってあげる」

 サトミは氷の微笑を浮かべると、半透過性のネグリジェを手品のように脱ぎ捨てた。

 それに留まらず、後ろに回した両手を肩甲骨の間に持っていく。

 下着のホックに指先がかかった。

 嫌な予感がした。

 今後の展開が怖いほど読める。

「ちょっと、サトミさんまで」

「いいでしょう、見せてあげようじゃない。優美にして繊細。かつその中に強かさすらも潜ませた曲線を。その芸術性を。それが、男には決して及ぶことのできない高みにあるこということを知りなさい」

「全裸だ。もはやこの女に引導を渡すためには全裸で対抗するしかない」

 カズマの声などまるで聞いてはいない。ふたりはますますその対立を激化させていく。

 だがその時、救いの主は現れた。

 ノックなし。蹴破らんばかりの勢いで部屋のドアが開かれた。

 現れたのは真新しい制服をまとった少女だった。

 濡れているのではないかと錯覚しかけるほど艶やかな黒髪。白磁のようにきめ細かな肌。

 大和撫子の体現ともいうべき純和風の女性だが――

 彼女が深窓の令嬢然として見えるのは、口を閉ざしている時と睡眠中のみであることをカズマは知っている。

 その儚げな容貌とは裏腹に、そしてドアの開け方ひとつとっても分かるように、「慎ましやか」だとか「奥ゆかしさ」だとかいったものとは対極の位置にこの人物の本性はある。

 同じ分譲共同住宅(コンドミニアム)の隣室に住まう彼女は、カズマに先んじること二日前に誕生し、千葉蓉子(ヨウコ)の名を受けた。

 以来、産婦人科にはじまり幼稚園、小・中・高校と、常に環境を同じくして育ってきた。

 筋金入りの幼馴染である。

 そんな彼女だからこそ、一瞥しただけで状況を正しく把握することも可能である。

 すべてを理解したらしきヨウコは両肩を落とし、大きく嘆息した。

「ハァ……またですか」

「そうなんだ。ヨウコ、このふたりを止めてよ」

 カズマは頼りになる隣人に早速すがりついた。

 経験上、自分が動くより彼女に収拾を任せた方が成功率が高いことはよく分っていた。

「まったく。毎朝まいあさ、よくもまあ飽きずに続けられるもんだわ……ほら、シゲンさんもサトミさんも離れて。もう、その辺にしてください。いい歳した大人がなんだって半裸なんですか」

 室内へずかずかと入り込み、落ちていた衣服を手際よく拾い上げる。

 そしてヨウコは、慣れた様子で男女の間に割って入った。

 手にした服をそれぞれの主へ鋭く突き出すことも忘れない。

「おはよう、ヨウコちゃん。毎朝ごくろうさまね。でも、これは家庭の問題なの。あなたは少し外していてもらえないかしら」

「そうだ。大体、君はいきなり入ってきて、なんなのだ? 隣人付き合いが長いからといって、うちのカズマを毎朝迎に来る必要はないはず」

「確かに、その点においてはこの暑苦しい胸モジャおやじの言うことにも一理ありそうね」

 現れた少女を共通の敵とみなしたらしい。

 彼らは一時停戦を決め込み、共同戦線を展開しはじめる。

「いきなりじゃありません。インターフォンのチャイムならちゃんと鳴らしました。お二人ともヒートアップしてたから気付かなかったんですよ」

「しかし、それはカズマにつきまとう説明にはなっていないな。何なのだ。君は、なにが目的でカズマに近づこうとする? まさかとは思うが、あわよくば私のカズマとつがおうなどとは……」

「許しません。そんなの許しませんよ」とサトミが同調する。「カズちゃんはずっと私とふたりで仲良く暮らすんです」

「あなたたちが揃いもそろってそんな具合だから、カズマはいつまでたっても自立できないんでしょうが」

 両の拳を握り締め、ヨウコは真っ向から返した。

 ドンと一歩踏み込む。

 シゲン、サトミ、カズマの順に全員を睨みつけて説教の構えに入った。

「私だって、好きでご近所の揉め事に毎日首突っ込んでるわけじゃありません。カズマに近づいて欲しくないなら、おふた方ともいい加減にカズマ離れしてください。こんな依存関係、不健全だし不健康ですよ」

 これには、極太マジックで塗りつぶしたようなシゲンの眉がぴくりと震える。

「依存? ではなにか、君は自立したからといって酸素を吸わずに生きていけるようになるのか」

「はい。今、この胸モジャが珍しく良いことを言いました。人間が一生酸素を吸い続けたって、それは酸素に依存した人生とは言わないでしょ。カズちゃんはそれと同じなの。私がカズちゃんのかわいらしいほっぺにチュッと吸いついたところで、それは酸素を吸う行為となんら変わらない、生命維持活動の一貫に過ぎないのよ」

 これにて論破、とでもいうようにサトミは胸を張る。

 ――この連中は本格的に駄目だ。

 カズマは改めてそう確信した。もう、色々と手遅れに思えた。

 だが、これは明らかな好機でもある。

 争っていたふたりの意識がうまいことヨウコに引き付けられているのだ。

 カズマは目を盗んで、素早く身支度を整えた。

 最後に学生鞄をひっ掴む。

 同時、迷うことなくドアへ駆け出した。

「ヨウコ、行こう!」

「OK」

 カズマの合図に、相棒は唇の端をいたずらっぽく吊り上げた。

 バチンとウインクでも添えてくれそうな表情だった。

「それじゃ、おじさんおばさん。行ってきます」

 艶然とした笑みを浮かべると、ヨウコは優雅に一礼してみせた。

 その時すでに、カズマはスキャットバックのごとく大人たちの横をすり抜けていた。

 ヨウコと合流すると、一気に子ども部屋を離脱する。

 背後から聞こえる同居人の呼び声を置き去りに玄関を飛び出した。

 ようやく脚を休めることができたのは、コンドミニアムの内庭に辿り着いてからだった。

 いわゆる団地住人の憩いの場であるこのスペースは、ちょっとした芝の公園といった風情の場所だ。

 外周はコルク弾性舗装のウォーキングコースが囲っており、その内側に遊具や水飲み場、ペット用シャワーに加えて無数のベンチ、自動販売機などが設置されている。

 同居人たちの喧嘩が毎朝の恒例行事となっている以上、自宅では満足に洗顔もできない。

 そのため、ここの水道を使って身繕いするのがカズマの習慣となっていた。

 学生鞄に旅行用ハブラシセットが仕込まれている所以でもあった。

「まあったく、カズマのとこは。いい加減はどうにかしてほしいわ、ほんと」

 カズマは蛇口から迸る冷水で顔を洗いながら、幼馴染の愚痴を聞いていた。

 顔を上げた瞬間、絶妙のタイミングでタオルが差し出される。

 ヨウコ本人もほとんど意識した様子のない、身体に染みついた動作だった。

 礼を言って受け取った。黙って顔を拭く。

「ちょっと、カズマ。聞いてる?」

「聞いてる、聞いてる」

 近くのベンチに移動しながら返す。

「カズマももう少ししっかりしてよね」

 ヨウコはぶつくさ言いながらも、座ったカズマの後ろへ回っていった。

 ほどなく、ブラシで髪をすく感覚が伝わってくる。

 カズマは髪質が細く寝癖が付きやすい。

 幼馴染はそれをいつもこうして整えてくれる。

 きっかけは何であったか――。

 もう思い出せないほど昔から続いている儀式であった。

 恐らく、不器用にまごついている幼き日のカズマを見て「ちょっと貸しなさいよ」とでもなったのだろう。

 苛立ちを隠さない口調とブラシを引ったくる手つきまで、はっきり想像がつく。

 なんにせよ、この一時はカズマにとって心の落ち着ける瞬間だった。

 いつものように目を閉じ、いつものようにその心地よさに身を委ねた。

 知らず知らず鼻歌がもれる。

「もう高校入ったんだし、そろそろあの程度の騒ぎはひとりでさばけるようになってよね」

 鼻唄をそのままに、少し身体を揺すってカズマは応じた。

「唄、いつもとちょっと変わったね」

 口調から、彼女が返事を求めていないのが分かった。

 やがてヨウコも同じ旋律を小さく口ずさみ始める。

 毎日聞くうち、自然と覚えてしまったのだろう。しばらく、そんな時間が過ぎた。

「あれえ? そこにいるのはヨウコさん。いやあ、奇遇だなあ」

 唐突に、大根役者が台本を棒読みしたような声が聞こえた。

 内園のゲートの向こう、自転車にまたがった長身のシルエットがこちらに手を振っている。

 背中の左側から突き出た棒状の突起は、忍者の背負い刀を連想させた。

〈果ての壁〉に近い関東では、朝の七時台はまだ薄暗い。

 三十メートルも離れていると、相手の姿はほとんど影のようにしか視認できないのが普通だった。

 だが、そんな条件下ですら個人の識別が容易な人種も存在する。

 声の主はその典型例であった。

「エリックさんじゃないですか」

 ヨウコが咲くような笑みを浮かべ、青年めがけて駆け出した。

 数歩遅れて、カズマも歩きながらあとを追う。

 近づくにつれ青年の姿はディテールを伴いはじめ、まとっている制服が他校のブレザーであることや、背負っているバットとそのケース、アジア系とは明らかに異なる肌の白さが徐々に明らかとなっていった。

「おはようございます、ヨウコさん。いやあ、今日もまたお会いしましたねえ。四日連続なんて、神様のお導きかなあ」

 エリック・J・アカギは、短く刈り込んだライトブラウンの後頭うしろあたまに手をやり、ぎこちなく笑ってみせた。

 やはり、芯から演技に向かない性格であった。

 あらさまに目が泳いでいる。

 気付かないのはヨウコくらいのものだろう。

 この三文芝居からは想像しにくいが、エリックは地方紙のスポーツ欄を――しばしば写真付きで――賑わせる高校球児なのだった。

 学年はカズマ、ヨウコよりひとつ上の高校二年。

 特待生として二桁に及ぶスカウトを受け、その中から都内の有名私立校を進路に選んだという。

 そんな地元の英雄とヨウコとの出会いは、約半年前。

 ヨウコによれば、春休み中に催されたコンパの席上でのことであったらしい。

 双方とも人数合わせのために仕方なく参加させられた身の上であった。

 が、その立場の一致が逆にきっかけになったのである。

 話してみたところ見事に意気投合したのだ。

 以来、彼らは少なくとも二週間に一度の間隔でデートを楽しんでいるようであった。

 頻度が低いのはエリックの英雄たるさがだ。

 全国クラスの高校球児ともなれば、練習のためなかなか私的な時間も作れない。

「――ええ、それがですね。なんかクレープのようで違うようで、アイスなんかも入った、とにかく新感覚のスウィーツなんだそうです」

 エリックは身振り手振りを交え、会話を盛り上げようと必死の形相であった。

 どうやら、近頃人気の甘味を話題に頑張っているらしい。

「まあでも、むかし流行ったものの復刻アレンジ版らしいんですけど」

「あ、それちょっと聞いたことあるかも」

 こちらは到って自然体のヨウコが受け答えする。

「どうでした? 美味しかったですか」

「いや、その、実は僕も話を聞いただけでして。それであの、もしよろしければですけど、その、ですね。今度、もし休みに予定が入っていなかったりするようでしたら……」

「あ、もしかして食べに行くんですか? 感想、聞かせてくださいね」

 なんでそうなる?

 ヨウコの驚異的な鈍感ぶりに、カズマは吹き出しかけた口元を慌てて手で塞いだ。

「え、いや……できることなら、ですね。実は、もしできればで良いんですが」

 片や高校球界を代表するスラッガーであり、かつ精悍な顔立ちと美しいブルーアイズという二物に恵まれた青年。

 片や学年の垣根を超えて広くその美貌を知られ、面倒見の良さと竹を割ったような性格から同性にも広く支持をうける少女。

 並べてみるとこれ以上ないほど絵になるふたりでありながら、繰り広げれている物語はなぜか喜劇ときている。

「お話中なんだけどさ。ヨウコ、そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」

 口元を引きつらせないよう努めて笑みを押し殺し、カズマは少し離れたところから声をかけた。

 ヨウコとエリックは、それぞれ携帯電話と腕時計で時刻を確認する。

「ほんとだ。いつの間に……」

 折りたたみ式の端末を閉じながら、ヨウコはにっこりとボーイフレンドに微笑みかける。

 ボーイフレンド、ガールフレンドとはまたいささか古い表現だが、彼等には何故かそれがしっくりくるのだ。

「じゃあ、エリックさん。私たち、これで失礼しますね」

「あ、そうですね。ええ、僕もそろそろ行きませんと。なんと言いますか、楽しい時間はあっという間ですねえ」

 甲子園通算六ホーマーの大打者は、デートに誘いきれなかった失意を隠そうと力技で微笑を浮かべようとして――客観的にはほとんど失敗している。

 その切ない表情に、さすがのカズマも気の毒になってきた。

「ねえ、ヨウコ。興味があるなら一緒に連れていってもらいなよ。そのお店」

「ちょっ、横からなに勝手なこと言ってんのよ。そんなのエリックさんに迷惑じゃない」

 振り返ったヨウコに睨まれる。

 憤慨半ば、戸惑い半ばといった様子だった。

 一方、エリックは瞳を一気に輝かせた。

「いやいや、それは良い考えですよ。実に素晴らしい。天才的な発想と言える! 女性向きの店ですし、僕一人では入りづらいので誰か誘えたらとは思ってたんです、ええ」

 エリックは顔を真っ赤にしてまくしたてる。

「楠上くん、ありがとう。本当に素敵なアイディアだ」

「いやいや、僕のアイディアが素敵なのはいつものことです。じゃあ、決まりってことで、でもそうなると詳しい打ち合わせが必要だな。エリックさん、次に練習を早く切り上げられるのはいつですか」

 カズマはさっさと話を進めていく。

「いやあ、それが実は右のふくらはぎに軽い張りがあってね」

「えっ」

 ヨウコが大きな目をさらに大きく見開く。

「大丈夫なんですか?」

「ああ、全く問題はないんです。昨日の走塁練習の時に少し違和感が出た程度の話でして。念のために二、三日休養を取れと部長に命じられてしまっただけです」

 なんでも今日は病院で検査。明日は脚を使わない上半身と体幹のトレーニングのみ。

 そんなスケジュールになっていたらしい。

 エリックはスタープレイヤーのくせ、練習場へ毎日一番乗りする。

 そして最後まで居残る。

 これを当たり前にやる人間だ。

「あいつを殺すには、トレーニング機材を取り上げれば良い」等と、むかしのレスラーみたいなことを囁かれているとも聞く。

 良い機会だから少し休ませよう、という周囲の思惑は理解できた。

「じゃあ、今日明日は半分オフみたいな感じで?」

 カズマが指摘すると、エリックは照れたように笑った。

「うん。まあ、そんな感じかな」

「なら、二日のうちのどっちかは、遊びに行くための計画を練るために使えるじゃないですか。エリックさん学校終わったらヨウコの家に来て下さいよ。デートプランを考えましょう。今日が良いですか。それとも明日?」

「ちょっと、カズマ。なに勝手にポンポンと」

 さすがにヨウコが口を挟んでくる。

「だって二人に任せておくと全然話が進まないじゃないか。ヨウコだって、別に今のプランに問題があるわけじゃないんでしょ」

「そりゃあ、まあ、確かに良い考えだとは思うけど。エリックさん、せっかく休養日もらったんだから、ゆっくり休みたいかもしれないし」

「いやいや、そんなことは全くありませんよ!」

 地元の星は手と首ををぶんぶんと振り回す。

「完全に休むというのはあまり良くないんです。負荷がかからない程度に動かし続ける方がむしろ身体には良いんですよ」

「じゃあ、決まり。今日は病院にどれだけ時間かかるか分からないし、部への報告もあるでしょうから、明日の放課後。ヨウコの部屋で。それで良いですよね、エリックさん」

「ご迷惑でなければ、はい。是非。いやあ、カズマ君。君は本当に冴えたプランを提供してくれるね。そのセンスには天賦の煌きを感じるよ」

「いやあ、当然のことですよ」

「では、自分はこれで。なんだか思いがけず長話になってしまって申し訳ありませんでした」

 エリックは元来の爽やかな笑顔を取り戻して言った。

 それからカズマとヨウコそれぞれに丁寧な挨拶をよこし、ペダルのトゥクリップに靴の爪先をかける。

 走りだしてからも何度もブレーキをかけ、その度に振り返っては手を振りつつ、だがとても自転車とは思えない速度で視界の向こうに消えていった。

「エリックさんて、面白い人だね。全国的なプレイヤーなのに話やすいっていうか、オーラがないというか」

「それは一面よ」

 歩き出したヨウコは、振り返りもせずに続けた。

「カズマはまだ彼の試合、近くで見たことなかったっけ。ユニフォーム着たら、また全然別の顔になるのよ。専門のことについては同い年とは思えないほど考え方がしっかりしてて、刺激になるんだから」

 ヨウコはそこで「あ、そうだ」と立ち止まり、首をひねってカズマと目を合わせた。

「今度、さっきの言ってたの食べに行く時、あなたも来る? ゆっくり話すいい機会になるかも」

 なんでそうなる。

 喉の奥でぎりぎり言葉を抑え込み、かわりにカズマは微笑を浮かべた。

「いや、それはさすがに……ホラ。あたし、ダイエット中だし」

 なんとか誤魔化す。

「あたしって。裏声でなに言ってんのよ」

「とにかく、そういうのはヨウコの一存で決めちゃ駄目だろ」

「もちろん、明日の打ち合わせでエリックさんの了承は得るって。彼なら良いって言うに決まってるけど」

「頭は良いのに、どうしてこっち方面だけこうもアレかなあ」

 歩き方ひとつとっても、なにか気品のようなものさえ漂わせる。

 そんな幼馴染の後ろ姿を眺めつつ、カズマは小首をひねった。

 と、不意にヨウコの背が視界いっぱいに広がった。急に立ち止まったのだ。

 カズマは危ういところで衝突を回避し、崩れた体勢を立て直した。

 抗議の言葉が口を出かかった。だが、すんでのところで呑み込んだ。

 いつもなら先に文句を言ってくるはずのヨウコが大人しい。

 それだけで異変を感じ取るには十分だった。

 カズマは固唾を飲み、ヨウコの視線を辿った。

 彼女が足を止めたのはコンドミニアムの正面ゲート前。

 正確には、その門扉近くに設置された掲示板前であった。

 これそのものは何ら珍しくない。

 カズマが生まれる前から立っているお馴染みの存在だ。

 掲示物もしかり。

 春祭りの案内、統一地方選挙の広報。エントランス消毒清掃の日時。代わり映えしないものである。

 だが、今朝はその掲示板の隣に、見慣れない立て看板が現れていた。

 最上部には、手のひら大の極太ゴシック体で「探しています」の六文字。

 迷子のペットなら問題ない。だが、中央に人間の顔、全身を写したものが一枚ずつ配置されている。

 失踪直前の状況詳細や連絡先は最下部に記載されていた。

 当時、身につけていた衣服の簡易スケッチがないことを除けば、お定まりテンプレートにのっとった――それはある意味でよくある看板だった。

 事実、この手の掲示は、街を歩けば自動販売機と同等の頻度で見かける。

 その背景には、十八年前の”果て”出現以来、世界中で頻発する行方不明事件の存在があった。

 説明の付かない人体消失。失踪。神隠し。

 どう表現するにせよ、日本におけるここ十五年の失踪人は年間平均で実に八十三万人を超えている。

 今この瞬間も、三分に二人のペースで日本国民が消えている計算だ。

 世界レヴェルだとこれがどれほどになるのか――。

 その数字もさることながら、行方不明者の消え方というのもまた尋常ではない。

 たとえば、ゴミ集積所に不燃物の袋を出しに行ったままサンダル姿で消えた主婦。

 夕食の途中、落したフォークの換えを取りに席を立ち、そのまま戻ってこなかった子ども。

 監獄に収監された当日、忽然といなくなった囚人。

 高度一万メートルの飛行中にジャンボジェットの中から消失した旅客……

 もっとも、ヨウコを棒立ちさせるほど打ちのめしたのは、密室がどうだという状況の不可解さではない。

 ただそこに、見知った人物の顔写真が「たずね人」として公開されていたからである。

 柴田夏梨、十六歳。

 それは半年前まで中学校で同じクラスだった少女だった。

「カズマ、これ――」

「うん」

 カズマは固唾を飲みながらうなずく。

「あの柴田さんだ」

 使われている写真にも見覚えがあった。

 場所は、中三の修学旅行で訪れた京都だろう。”果て”に二十三区の大部分を奪われた東京に代わり、新たな首都として返り咲いた、あの古都である。

 制服姿の柴田夏梨は、その旅先で銀閣らしきを背景に、女子特有のちょっと横倒しにしたVサインを決め、これまた女子がよくやる歯を意図的に噛み合わせるタイプの笑みを浮かべていた。

 看板の内容によれば、彼女がいなくなったのは三日前の夜。

 遅い時間の入浴中に行方不明になったのだという。

 用意されていた着替の下着や夜着は脱衣所に置かれたままであったことから、全裸かタオル一枚に近い格好で消えた可能性が高い。

「柴田さんのとこだよね、ちょっと前に赤ちゃんが生まれたって言ってたの」

 カズマが記憶を掘り起こしながら問うと、ヨウコはすぐにうなずいた。

 見れば、その顔からは半ば血の気が引いている。

 当然だった。

 中学時代クラスが同じだった柴田夏梨とヨウコは、いわゆる「中間派」だとか「ナチュラル系」とされるグループに属しており、ふたりで談笑している光景も良く見られた。

 いかなるグループにも属さず、それでいながらどんなグループの人間とも常に対等以上の関与が許された、クラス内ヒエラルキィの頂点的存在であった。

「夏梨、かわいい弟ができたって、死ぬほど喜んでた」

 ヨウコがぽそりと言った。

 その瞳は看板にプリントされた友人の笑顔を見つめているようで、実のところは何も映していない。

 こうまで虚ろな表情は、カズマでもほとんど見たことがなかった。

「歳が離れてるし、本人自覚してたかは知らないけど、ほとんど母親みたいに溺愛しててさ。なのに、あの子を置いて自発的にいきなり消えるなんて、なにがあったって絶対あり得ない」

 正直なところ、”果て”がどうの、世界がどうのという大人たちの恐慌ぶりに、カズマはいまいちついていけないところがあった。

 大人は”果て”がなかった地球を知っている世代だ。

 が、十五歳のカズマにとっての世界は生まれた時から”果て”の存在するそれであったのだ。

 世界が変わる瞬間を体感した者と、変わり果てた世界に生まれ落ちた者。

 両者に認識や感覚の相違があったとしても、責められるものではあるまい。

 ただ、この奇妙な失踪事件に巻き込まれることの恐ろしさなら、カズマにも分かる。

 なぜなら被害者は今なお増加の傾向にあり、なにより従来の行方不明事件と異なり、戻ってきたという報告がただの一件も存在しないのだ。

 神かくし的に消えた者は、二度と帰らない。

 そんなジンクスがまかり通っているからこそ、失踪者たちは”果て”に囚われ、向こう側の世界へ引きずり込まれたのだ――という都市伝説めいた話が、巷で冗談にならないほどの信憑性を持ちはじめているのだ。

「で、ヨウコ、どうする?」

「どうするって、それは……」

「失踪人の捜索の場合、ある程度やることやったら、あとはもう人海戦術しか有効な手はないよ。僕たち個人にできることなんてないに等しい」

 しかも、状況が認められれば三ヶ月で死亡扱いが可能になる。

 同じ処置は、災害に巻き込まれて死亡が確実視されながら、しかし死体だけ見つからないケースなどにも適用される。

 すなわち、一般社会において両者はほとんど同等の扱いなのだ。

「うん。だから、ちょっと夏梨のお姉さんにメールしてみる。私、彼女とも友達だからさ。消防団で捜索隊作るとかなら、予定が合えば付き合えるかもだし」

 言いながら早速、ヨウコは鞄を漁りだした。

 すぐに携帯電話を取り出し、メールを打ちはじめる。

「電話で聞かないの?」

「もし私が夏梨の家族の立場だったら、電話のベルがなる度に消えた家族からの連絡じゃないかって期待すると思う」

「神経質にはなってるかもしれないね」

「うん。だから今は変に刺激したくない。メールも電話も着信音待ちの人からすれば同じかもしれないけど……返事する気力もないなら、文章の方が無視もしやすいし」

「そっか」

 カズマは微笑んだ。

 幼馴染の配慮を誇りに思った。

 だから言った。

「捜索隊、僕も参加させてもらえるようだったら手伝うよ。返信が来たら教えて」

「うん。ありがとう」

 ディスプレイから顔を上げ、ヨウコは柔らかく笑みを返してくる。

 エリックがこの場に残りその顔を見ていたなら、きっと惚れ直さずにはいられなかっただろう。

 あるいは顔を真っ赤にして卒倒していたかもしれない。

 そんな花のような笑顔だった。

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