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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
19/64

かいどうあるき!

  018


 木材に特有の、断末魔ともつかない耳障りな軋み音が盛大にあがった。と同時、草をすりつぶしたような青臭さが周囲に強く香り漂う。

 エリック・アカギは、楠上カズマと出発前の最終作業に取りかかっていた。竹に似た植物の伐採ばっさいである。

 日本人にとっては周知の通り、竹は殻のような固い表皮と、内部の空洞から成り立っている。うまくすれば、くだビンがわりの容器として広く使える資源であった。現代の水筒すいとうの原型となったものも、元は竹で作られた筒に他ならない。

 竹に似た植物が、内部構造まで竹そっくりであるのなら、自分たちの旅でも重宝される。予備の水筒になるのはもちろん、甘い樹液をシロップ代わりに持ち運べるようになるのだ。これはベリィにかける貴重な糖分にも、集落に運べば金に換えられる商材にもなり得る可能性があった。是非とも手に入れておきたい。

 だが、相手は自然である。何事をも上手く運べるというのは、幻想に過ぎないのだった。

「失敗……だね、これは」

 エリックは肩を落として言った。我ながらしおれた声だった。

 ですね。嘆息しながら、カズマもそれを渋々認める。

 確認するまでもなく、それは無惨なまでの失敗であった。

 現在、エリックたちが対峙しているのは、ふたりがかりで抱きついたとしても手を回しきれないほどの巨樹であった。

 ただし、立派なのは胴回りのみ。幹の高さはせいぜい二メートルほどしかなく、変わってそこからは青竹に酷似した節のあるしなやかな枝が、まるで噴水のように四方八方に広がっている。

 エリックたちはこの枝の一つを、剣鉈で叩き斬れないか挑戦していた。

 問題は、この植物の枝が日本の竹同様、非常に固い繊維せんいで身を守っていたことだ。つまり繊維が縦方向に通っており、この木目ともいうべき流れに沿って――いわゆる幹竹からたけ割りの要領で――真っ二つにする分には容易だが、逆に流れに逆らった輪切りは困難を極めるのだ。

 最後は剣鉈けんなたを放り投げ、カズマと協力して力任せにへし折ろうということになったが、結果がこの失敗である。頑固な繊維を綺麗に断つことはできず、折れ曲がったストローのような奇妙な折れ目を作るのがせいぜいであったのだ。

「もっと細いのがあるといいんだけどね」

「いや」腕で額の汗を拭いながらカズマは言った。「あまり細いと、今度は容器として機能不十分になりますよ。カゴや竹槍の材料にはなるかもですけど」

「かといって太いと苦労するもんだね。僕らの腕より細いのってないんじゃないかな」

「どうします? あんまり時間かけると、出発が遅れちゃうし体力も無駄になりますよ」

 言いながら、カズマが中天ちゅうてんを仰いだ。エリックも釣られるように頭上を見上げる。

 木々の隙間からのぞ蒼穹そうきゅうは広くみ渡り、まさに雲一つない快晴であった。ラベンダー色から紺碧こんぺき、そして薄水うすみず色にかけて移り変わっていく神秘的なグラデーションが良く見通せる。相変わらず、昼間でも満天の星空のように煌びやかな空である。

「もう一回だけやってみよう」顔を戻すと、エリックは景気良く声をかけた。「今度はできるかぎり剣鉈けんなたで切り口を入れて、それから力と体重をかけて折るって感じで」

「あ、じゃあせっかくだから、アレ試してみません?」

 カズマの言葉に、エリックは数度、素早くまたたいた。

「アレ?」

「簡単に瞬間的な出力を一二〇パーセントまで高められるテクニックがあるんですよ」

「えっ、本当に?」

 そういった話に心当たりがないわけではない。

 たとえば、古武術の応用がそうだ。人体を小さな力で持ち上げる。移動させる。これらは科学的、医学的にも認知されており、介護サーヴィスの現場でも取り入れられていると聞く。

 より身近なところなら、事前に腹筋をしたり足の裏を刺激することで、一時的に身体を柔らかくし、より深く前屈できるといった裏技も有名だ。

 つまり、そういった類の方法論を知っているのか?

 たずねると、カズマは曖昧あいまいな笑みを浮かべた。

 感覚的な問題であるだけに、言葉では説明しにくいのだろう。

「えっと――エリックさんが言ってるのとはちょっと違うかもしれませんけど、まあ、古くから伝わる結構有名なやつなのは確かですよ」

「そうなんだ」やはりか。納得しながら頷く。「じゃあ、是非ぜひ試してみよう。駄目でもともとだしね」

「じゃあ、より効果をあげるためにちょっとアレンジ加えたいんで、僕はその用意を封貝でします。エリックさんは剣鉈で竹に切り込み入れる方をお願いできますか」

 快諾かいだくし、鉈を受取った。

 続いて、全体の手順についてカズマから大まかな流れレクチャーを受ける。

 その中で明らかにされた「テクニック」とやらは、言葉にされると「えっ、それだけ?」と拍子抜けさせられるものであった。

 しかし、この手のコツというものは往々《おうおう》にしてそうしたものなのだ、という説明には一定の説得力があった。

 深く追求する時間も惜しい。エリックは了解の意を示し、早々に自分の作業に入った。

 まず、無数に生い茂る枝の中から、適当なサイズのものを見繕みつくろう。

 手にとってじっくり観察しても、それはやはり青竹にしか見えない。

 しかし太い幹の上端から、さながら釣り竿のような放物線を描いて垂れ下がる奇妙な成り立ちからして、どんなに似ていても竹モドキなのだろう。

 このモドキの両断は、馬車を解体した時のようにはいかない。強いしなりを持つ竹モドキは、へし折ろうとしてもぐにゃりと曲がって力が逃げてしまうばかりなのだ。

 くの字に折り曲げるくらいでは足りない。広げたバタフライナイフを折り畳むように、一八〇度押し切る必要がある。

 したがって、作戦はこうなる。

 まず、垂れ下がる竹と正面から向かい合う位置に、カズマが陣取る。

 彼は組み合った相撲取りを土俵際まで追い出すように、前に向かって竹の枝を押しやる。

 同時、その反対側、枝の裏側に位置取ったエリックは、自分の方に追いやられてくる枝を綱引きするように引っぱり、さらに折る角度を深めていくのだ。

 あらかじめ切れ目を入れておいた部分には、浮かせた四つの白玉封貝をあてがっておく。動いて力が逃げてしまわないようにするためだ。

 これで上手くすれば綺麗に枝を折りきれるはずであった。

「――エリックさん、そろそろ始めましょうか」

 双方の下ごしらえが終わると早速、カズマが音頭を取った。

「オーライ」エリックは所定の位置について片手を上げる。「いつでも良いよ」

「これ、タイミングと勢いが命なんで。頭からっぽにして、一気にいっちゃってください」

 言いながら、カズマは竹モドキに手をかける。右足を一歩後ろに引く。腰を落し、重心を前に傾けた。

「分かった。思い切りいくよ」

「じゃあ、いきます」

 言うと、カズマは胸を反らして大きく息を吸い込んだ。

 ――来る。直感し、エリックは気を引きめた。

 直後、取り込んだ空気をそのまま爆発させるように吐き出した。同時、その足は全力疾走を開始している。

「ファイトォ――ッ」

 彼が叫んだ。

「いっぱあぁつ!」

 エリックも教えられた通りに叫び返した。

 それがスイッチだったのだろう。周囲にバラ撒かれた無数の封貝たちが呼応し、

「ソイヤ」「ソイヤ」「ソイヤ」「ソイヤ」「ソイヤ」

 と、謎のかけごえを発しはじめる。

 まるで祭りの御輿みこし担ぎだった。

 先程、アレンジがどうのとカズマが言っていたのは、これを仕込むためであったらしい。

 言葉の意味はよく分からないが、とにかく威勢の良さだけは伝わってきた。

 エリックはこれにえてノせられてみることにした。全身の筋肉を引き絞り、裂帛れっぱくの気負いをもって竹モドキを力任せに引っぱる。

 本当に一二〇パーセントも出力が上がっているのかは分からない。

 とにかく、何も考えずに走った。

 頭上で、抗議するような激しい葉擦れの音が響く。手の中で竹モドキが激しく暴れる。まるで自らの意思を持つかのようなのたうち方だった。

 限界はすぐに訪れた。

 まず、カズマが竹モドキのしなりに屈し、足を滑らせた。そのまま弾き飛ばされ転倒する。

 当然の帰結として、彼の分の負担はすぐに、丸ごとエリックにのしかかってきた。

 これには流石に対応しきれず、握っていた枝を手放してしまう。

 自由を得た竹モドキは恐ろしい勢いで空を一閃。そのまま高飛び込みの選手が踏み切った後の板台のように、狂ったように激しい上下運動を繰り返した。千切れた笹に酷似した葉が、大量に降り注いでくる。

 改めて確認するまでもない。完膚無きまでの失敗であった。

 しばらく、激しい徒労感に声も出なかった。カズマとふたりその場にへたり込み、そのまま荒い呼吸が収まるのを待った。

「この竹っぽいの、どうやら僕らじゃ……」

 カズマが封貝をつきだし、そこから自分の声を流した。

 息切れしている今、自らの声帯を震わせて言葉を発するより、封貝に代弁させた方が楽。そのように考えたのだろう。

 随分とものぐさだが、合理的な判断ではあった。

「無理だったね……」

 エリックは苦笑しながら、こちらは自分の声で返す。

 肩で息をしながら、あらためて自分が挑んだ竹モドキを見上げた。

 やはり、この難敵を輪切りにするには、糸ノコギリのようなものが必須であったらしい。

 時間と労力さえかければ今ある道具だけでいけるのかもしれないが――そうまでして得るべき素材かといえば、とてもそうは思えない。

「無駄な体力、使っちゃいましたね」

 カズマが今度は直接口にした。

「どうも、そうみたいだ」

 あの「ソイヤ」に到っては、体力以上に封貝の無駄遣いだとしか思えなかったが、それは口にしなかった。独特の感性をもつカズマが、同じ感想を持ったとは限らない。

「ところで、さっき封貝に再生させてたかけ声的なものは、カズマくんの声じゃないよね?」

 飲み込んだ言葉の代わりに、エリックはそんな問いを口にした。

「ええ、架空の合成音声です」カズマがにこりとして答える。「TVのニュースとかで、たまにお祭りの映像流してたりするでしょ? その時に聞いたりした、おじさん達の声を僕なりに再現してみました。イメージは白いフンドシして御輿を担ぐお腹はちょっとメタボ気味だけど、腕とか足とかは結構筋肉質なよく分からない中年です」

「確かによく分からないけど、なんとなく分かるよ。でも、そういうこともできるんだね」

「そうみたいです。エリックさん」

 その返答を聞いたエリックは、思わず叫び声をあげかけた。それは実際に口をついて出ていれば、悲鳴と呼ばれるものになっていただろう。驚愕のあまり自分でも気付かないうち腰を跳ね上げ、体勢は半分立ち上がりかけたものになっていた。

 答えたのが、明らかに千葉ちばヨウコの声であったからだ。

 探し求めつつ――だが、ここにいるはずのない人間の声であったからだ。

「今のはちょっとたちが悪かったですね。すみません」

 カズマが半分申し訳なさそうに、だがもう半分は悪戯を成功させた子供の顔で言った。

 種明かし、というように左手に乗せた封貝をちらと見せてくる。

「あ、じゃあ……今のは……」

 ようやく理解が追いつき、エリックは言った。まだ動悸が収まらない。

「楽器の音をあれだけリアルに、忠実に再現できるなら、良く聞き知った人間の声もいけるかもしれない。まあ、ちょっと考えれば普通に出てくる発想ですよ」

 事もなげなカズマの台詞を聞きながら、エリックは二度、深呼吸した。

 とんだ飛道具もあったものだ。ようやく落着くと、皮肉めかしながらも素直にそう感嘆した。

 確かに射撃攻撃にはてんで使えそうではない。少なくとも、現状でその見込みはない。

 一方で、カズマのこの白玉封貝は実に多彩だ。アイディア次第では敵やその攻撃を邪魔する防御にもなり、大きな荷物の重量をゼロにすることも、スピーカーやレコーダー、恐ろしく高性能なヴォイスチェンジャーにもなる。

「驚いたよ……そっくりだし、本人が隣にいたとしか思えない、自然な聞こえ方だった」

「まだ慣れてないし、長台詞ながぜりふは難しいですけどね」

「今の、カズマくんは喋ってなかったよね。録音してたの?」

「いえ。頭の中でイメージしたヨウコの声、ヨウコの喋り方を、リアルタイムで封貝が表現してくれたんです。封貝に音源が内臓されてるっていうよりは、やっぱり僕のイメージを具現化してくれてる感じみたいですね」

「その封貝の録音や再生はカズマくん以外にも可能なのかな?」

「試してみます?」

 興味があったらしく、カズマは実験に乗り気だった。封貝を一つ渡される。

 カズマが言うには、大抵の動作は単に念じるだけで可能であるらしい。確かに、ヨウコの声を合成した時も、特に口訣のようなものは聞こえなかった。

 試しに、頭の中で「録音モード」と念じてみた。封貝を口元に寄せる。急であったので、適当な言葉を思いつかない。本日は晴天なり。出てきたのはマイクテストのような陳腐な一言だった。

 結論から言えば、この試みは失敗であった。

 言葉を変える、フォックス・ツーと口訣めいたことを口にしてみる。様々にやり方を変えてみても、録音やスピーカーとして封貝が機能することはなかった。

 逆に、カズマが隣からスピーカーになるよう命じたり、録音をしたいと願うと一転、それはエリックの声を拡声し、また封じ込めて繰り返し再生することができた。

 つまり、封貝自体は他人に譲渡することができる。しかし、その機能は主であるカズマにしか扱えない。分かったのは、当然といえば当然の事実だった。

 ただし、一つだけ例外もあった。

 録音した音声の再生だ。

 カズマが事前に「それを許可する」という許可指示(プログラム)を組み込んでさえおけば、あとはエリックひとりでも操作が可能であったのだ。

 カズマが特別指定をしなければ、録音は何度でも繰り返し再生ができた。多方、回数を予め設定しておけば再生回数に制限がつけられることも判明した。そして、制限付きの場合、残りの再生回数がゼロになった時点で、封貝自体が消滅することも確認された。

 これらの事実から、エリックとカズマが同時に思いついたのが伝言としての使い道だ。

 喋る手紙として送ることもできるし、置き手紙の代わりにすることもできる。

 カズマが「自分にしか再生できない」と指示した封貝は、エリックには再生不可能であったので、この機能を活用すれば指定した相手にしか伝わらない、確実な意思伝達手段として活用することもできる。

 気付けば、実験に夢中になるあまり、随分と時間が過ぎていた。

 気付けば息切れはすっかり収まり、体力も完全に戻っている。

 エリックは腰を上げ、ジーンズの臀部でんぶに付着した砂を払った。

「さて、そろそろ行けそう?」

 相棒に手を差し伸べながらたずねる。

 彼はにやりと笑い、無言でその手を掴んだ。

 ふたりで一度、馬車の残骸と焚き火のあるキャンプ地に戻った。

 カズマが伝言を封じ、ナージャとオキシオたちにのみ再生を許可した封貝を、目立つ場所に置くためであった。彼らはこの封貝のことを何も知らないが、もしこの場に戻れば、間違いなく不思議に思って手に取ることだろう。

「エリックさん」

 積み荷の最終チェックに当たってエリックは、その呼び声に振り返った。

 パス、という言葉と共に封貝が下手投げ(アンダースロー)で放られる。エリックは反射的にキャッチの体勢に入った。

 それが手に収まった瞬間、封貝が自動起動した。

「はーい、カズマです。これは封貝〈*ワイズオレイター〉。音声を封じ込めた僕のユニーク封貝(ペルナ)です。僕の友だちが触ると、自動的に再生する仕組になってます。知らない人にとっては、ただの意味不明な白玉ダンゴです。

 さて、これを取ったキミがナージャなのか、オキシオさんなのか、それとも他の商隊メンバーの人なのかは分からないけど、とにかく伝言。みんなの帰りが遅いので、僕らもインカルシに向かって出発することにしました――」

「おっ、うまくいった」

 その声に顔を上げると、カズマが嬉しそうに笑っている。

「これ、どうやったの?」

 手の中の封貝とカズマの間で視線を行き来させながら、エリックは訊いた。

「決まった人が触ったら、自動で再生が始まるようにしてみたんです。再生回数は特に設定なし。なんで基本、制限なしの無限ですね」

 その説明の間にも、封貝の音声再生は続いている。

「ちなみにこのメッセージは一度、封貝から手を離して、もう一度触ると何度でも聞けるよ。もう良いと思ったら、他の友だちも見つけられるように封貝は元の場所に置いといてね。あなたのカズマより。愛を込めて」

 なるほど、と思いながら指示通り、封貝を焚き火の側に置いた。

 このプログラム内容なら、指定した人間だけに伝えたいことを伝達できる。相手が字を読み書きできなくても問題ない。そして、極めて安全だ。暗号化せずとも、誰も内容を盗めない。近くで一緒に聞かない限りは。

「で、これを〈*ワイズオレイター〉って紹介してたみたいだけど。それはどこから?」

「いや、それが僕も釈然しゃくぜんとしないんですよね。これを用意してるとき、唐突に思い浮かんだんです」

 聞けば、自分の中から出てきた発想とはどうしても思えないらしい。耳元で誰かに囁かれたよう、とはカズマ本人の表現だ。

「封貝が自己紹介した感じなのかな?」

 半分冗談のつもりで言ってみたが、思いがけずカズマはそれに真顔で同調した。

「僕にもそう思えるんですよ。一通り、僕が使い勝手を理解したのを見計らって教えてきたようにしか……」

「ユニークペルナっていうのは?」

「僕もよく分からないけど、この世に一つしかない封貝のことらしいです。今思えば、ナージャの〈*旋火の綾(マフラー)〉なんかもそうですね」

「特別なものと考ええて良いのかな?」

「単純にそういうことでもないみたいです。それ言うなら、この森に存在する木の葉っぱだって、一枚いちまい形や色が微妙に違うユニークな存在ですけど、だからって全てが特別な葉っぱってわけじゃないでしょ?」

「なるほど……」

 気になる部分ではあったが、検証しようにも情報が少なすぎる。

 考えて仕方がないことは、考えないようにする。常に可能というわけではないが、それが信条だ。エリックは今回もそれに従い、思考を切替えた。

「まあ、なんにしてもこれは良いよ。凄く使える。今の僕らにとって、ほとんど理想に近い置き手紙になるんじゃないかな?」

「でしょ」カズマがにっこりして、心持ち誇らしげに胸を反らした。「これで後顧の憂いなく出発できます。誰か関係ない人が拾って持っていっちゃうとアレですけどね」

「まあ、それはしょうがないよ。どんな置き手紙にも付きまとうリスクだし」

 他の準備はすっかり整っていたため、そのまま滞りなく出発ということになった。とりあえず街道を辿り、森林地帯を抜けるのが当面の目標となる。

 正確な時間こそ分からないものの、まだ昼前後であることは間違いない。同じく日没についても正確な数字は不明ながら、普通に考えれば五、六時間は移動に使えると考えていいはずだった。カズマの封貝のおかげで、荷物の負荷による移動速度の低下や、疲労増は勘定に入れる必要がない。歩行速度は普通に時速四キロ前後と見積もって良いだろう。となると、休憩を一時間取るとして約二〇キロは進める計算だ。

「しかし、ちょっとキツイね……インカルシまで二〇〇キロと仮定すると、順調に進めたとしても一週間はかかってしまう」

 街道を進み始めながら、エリックは指折り計算して言った。

 まだ、ナージャは戻らない。陸路組のふたりも同様だ。もはや非常事態なのは確定として、今はそれがどんなものか――程度の心配をしなければならない段階に到っている。

 焦燥感は募るばかりだった。

「途中で、オックスくんと合流できるかが勝負ですね」

 しばらく何か考えるようにしていたカズマが、ぽつりと言った。

「と言うと?」

「前にちょっと話したじゃないですか。馬さえ手に入れば、僕がそれに乗って荷台を引っぱることで全体の移動速度が倍以上になります」

「ああ、その裏技か」

 エリックは首肯した。

 カズマの封貝は、相対座標を指示して三次元的に固定できる。これが何を意味するか。

 つまりは、犬の散歩のイメージである。

 カズマは一メートル離れていろ、と命じれば封貝をその場所に固定できる。一メートルの犬紐リールで繋いだペットの犬と同じなのだ。カズマが歩いて移動すれば、リールに引っぱられて犬もついてくる。一メートル以上、決して離れることはない。もしカズマが馬に乗れば、封貝はそれと同じ速度でぴったり一メートルの距離を維持したまま追従する。まるで紐で繋がれたように。それでいながら、犬のように疲れることも、電柱にマーキングするため勝手に立ち止まることもない。

 改めて歩き始めた木陰こかげ道は、もはや街道と呼ぶ気にはなれない代物だった。コスト削減を第一に考えたのだろう。行く手に岩や根が固い種類の木が現れると、いさぎく抵抗をあきらめ迂回うかいに走っている。おかげで、特に方向音痴というわけでもないエリックすら、五分もしないうちにすっかり方向感覚を失ってしまった。カズマにも確認したが、彼も同様の状態であるらしい。

 そのカズマだが、彼の足元を飾っているのが野外活動アウトドアに不向きな種のスニーカーであることに、エリックは今さらながら気付いた。ゴム底は薄く平坦で、歩行時の衝撃を充分に吸収し得る構造ではない。これから最大二〇〇キロを歩くとなると、かなり際どい装備である。

「――カズマくん」たまらず声をかけていた。「これからはひたすら歩き続ける持久戦だよね? 僕が知ってる山歩き用の技術になるけど、よかったら効率的な歩き方についてアドヴァイスさせてもらえるかな」

「それは願ったり叶ったりですよ」

 やっぱり、そういうのってあるんですね、と彼は微笑む。

「カズマくん、一〇〇メートル走って何秒くらい?」

「一〇〇メートルは測ったことないです」

 なぜそんなことを訊くのかという表情を見せつつも、彼は律儀に答えてくれた。

「体育で五〇メートル計った時は、六秒と七秒の間くらいでしたけど」

 数字を聞いて、やはりなと思った。悪くないタイムだ。普段、運動をしないタイプとすれば速い部類ですらあるだろう。

 後ろから見る限り、カズマは歩くとき、爪先に強く体重を乗せる傾向があった。これは小さなころからけっこが得意であったタイプに多く見られる特徴だ。事実、陸上短距離――それもオリンピック級の選手となると、その専用シューズはかかとが切り落とされ、そもそも接地しないようになっていることすらある。多方、足全体でベタ付きの着地するタイプは「なんとしても九秒台の壁を切れない」という鈍足タイプになってしまう。

 しかし、今必要なのは一〇〇メートルを速く走るコツではない。

「ちょっと見てたけどカズマくん、さっきからちょくちょく木の根っことかに爪先をとられてるよね。で、転びそうになる」

「ああ、はい」カズマは照れたように歯を見せた。「困りますよね。蹴躓けつまずくだけでも結構、体力消耗(しょうもう)する感じしますから」

「そうならないためには、気持ちひざを高めにあげる感じで歩くのが良いと思う」

 また、踏み出した足の着地は靴の裏面全体で行うと良いのだ、とも伝えた。

 爪先から付くにせよかかとからにせよ、一〇〇メートルくらいならそれで問題はない。しかし、何時間も続けると骨や関節に負担がかかる。疲労の蓄積にもつながってしまうのである。実演を交えながら、そう助言した。

「あと、調子が上がってくるとついスピードも上げたくなっちゃうと思うけど、それはアウトドア業界ではあまり良くないことだと言われてるんだ」

 登山でもよく言われる「自分のペース」理論である。

 ただしこれは自分の気分でペースを決めよ、ということではない。自分の限界を知り、自制してペース配分せよ――の意である。

 故に調子に乗ってペースを上げるのは禁忌きんきなのだ。

 逆に、上り坂でペースが落ちたからといって、無理にそれを元に戻そうというのも避けなければならない。状況に合わせ、どのくらいが最も低負荷であるかを探る。それをもって自分のペースというのである。

「あと、路面状況によるけど、微妙にで良いからいつもより歩幅は狭くね。パワーじゃなくて小回りで稼ぐ感じ」

「ああ、それは分かる気がします。自転車でも重いギアでぐいぐい行くより、軽めのギアでシャカシャカやってる方が疲れませんからね」

「そう。負担は軽く。疲れないように。速くではなく、長く歩けることが大事だ」

 助言後、エリックは再び数歩下がって後ろからカズマを観察した。

 線の細さからは想像しにくいが、もともと身体操作は得意な方らしい。見違えるように安定したフォームになっていた。

 カズマのように運動し慣れない人間にとって、これからの二〇〇キロという距離は過酷だ。地獄だと言う者もいるだろう。ぶっ通しで歩くとなれば、必ず身体のどこかに深刻な痛み、故障が出る。筋肉が傷つき、マメが潰れ、疲労と激痛で心をへし折られる。そういったことが起こりえる距離だ。

 気持ちはあっても身体がついてこない――。その最悪の瞬間が訪れるのを少しでも遅らせるためには、できるだけ効率的な動作を習得しなければならない。

 とはいえ、出だしは好調と言えた。

 カズマなど、五分もしないうちに棒きれをひろい、ギターに見立ててご機嫌に歩を進めている。

 今の彼のように、ギタリストの動作を楽器なしで模倣もほうする行為を、俗に「エアギター」と呼ぶことがある。実際には演奏技術を持たない者がいかにもそれらしく振る舞うことも多いが、今回のカズマに限って言うなら、それとはいささかおもむきが違っているようだった。弾き真似にありがちな、動きの大仰さがないのだ。

 かつてヨウコに聞いた話を信じるなら、彼は主だった楽器の数々について、その扱いに精通しているという。ギターも実際に演奏できるのであろう。そのため、リアルに見せるための過剰演出が必要ないのである。求められる動きを――それこそ二〇〇キロを歩くときの足運びのように――無駄を削ぎ落とした合理的な軌道で正確に刻むことだけを追求しているように見えた。

 なにより、彼の動作に合わせて実際に音が出ているという点で、それはエアギターとは決定的な一線を画していた。ピックの位置に封貝を一つ固定し、そこから本物とまったく聞き分け不可能な音を出しているのである。つまりそれは弦のない、まったく新しい種類のギターと解釈すべきなのだろう。

 そこから流れ出てくる音色はハープを思わせるどこか硬質な響きを持ちながら、シャボン玉のように清涼で美しく、幻想的なつやがあった。弾けては消えてしまう、はかなささのようなものも感じられるが、しかし尽きることなく次々に湧き出てくる音の粒は、切なさを感じさせない。

 楽曲そのものが持つ雰囲気も、まさにそよ風を旋律に変えたような、穏やかで心地よいものだった。気付けば、目を細めて聞き入ってしまっている。一帯の空気が清浄化され、音とも風ともつかないその流れに触れているだけで心が洗われるようであった。

 ふと、エリックの目蓋の裏に、いつかTVで見た〈變成日へんじょうび〉以前の世界が鮮やかに描き出された。

 まだ〈果ての壁〉がなかった昔。頭上にはどこまでも続く青空が澄み渡り、輝く太陽が大地を光で満たしていたという、エリックたちの知らない幻の世界だ。

 視界を遮るものは何もなく、穏やかに降りそそぐ陽光の下では、麦畑が風に優しく揺らされ金色の海のようにさざめいている。その向こうには、瑞々しくきらめく新緑色の草原がどこまでも続いている。

 永遠に失われた、宝物のような風景。

 それが今、まるで遺伝子に残された祖先達の記憶を蘇らせるかのように、鮮やかに再現される。旋律が領域を支配し、そこだけ全く別の世界を作り出す。

 そしてまたエリックは、思い出した。今度は幻の風景ではない。いつかヨウコとデートに出かけたときのエピソードである。

「そう言えば、千葉さんは音楽とか聞かれるほうですか?」

 当時はまだ彼女を苗字で呼んでいた。まだ出会った間もなかったこともあり、話を探すにも必死だった。

「自分はそういうのにうとくて。もし、最近流行のものなんかご存じでしたら、是非とも参考にさせてもらいたいんですけど」

 彼女のことをもっと知りたい。どんなことでも良い。少しでも近付きたい。そんな思いから出た、あまりに他愛のない質問だった。

 私、音楽は買わないんです。

 それが彼女の答えだった。

 ――だから、エリックさんよりずっと無知だと思いますよ。

 どういうことかと問えば、幼馴染の楠上カズマがいるからだという答えが返った。ますます疑問を深めるエリックに、彼女は悪戯っぽい微笑のまま説明してくれた。

 つまり、カズマがいつも何かしら鳴らしてるんです。どういうわけか、彼はオーケストラの楽器全て抱えて生まれてきたようなやつで、私はその音楽を当たり前に聞きながら育ってきたんですよ。

 そんな彼女が、幼馴染の音楽――その特異性に気付いたのは、小学生も高学年になってからであったという。

 クラスメイトたちの音楽の話題についていけない。

 お勧めだと差し出されたイヤフォンを耳に嵌めても、首をひねりたくなる。借りたCDを聞いてみても、特別なものを何ら感じない。

 それらの大半が、少年アイドルグループ関連の楽曲であったこともあるだろう。しかし、それにしたところで驚くほど薄っぺらに聞こえた。

 対していつも聴いているヨウコにとっての本当の音楽とは、気付かず涙を流していたり、握りしめた手が興奮のあまりじっとりと汗ばんでいる、という現象を頻繁に起こすものだった。防御不能。嗜好しこうや好みといった問題を完全に無視し、蹂躙じゅうりんするように聴く者の魂を問答無用でさらっていく、一種、暴力ともいえるあの幼馴染の音、旋律とは比較にもならない。

「モーツァルトのお隣さんは、コンサートなんて行く必要なかったと思うんです。私も同じですね。いつも無料タダで聴いている音楽を基準にしたら、お金を払わなくちゃいけない音を探すのにとても苦労するようになっちゃった」

 そのときは随分と大袈裟な物言いだなと思いつつ、ヨウコの手前、当たり障りのない笑顔を浮かべてみせるだけだった。

 しかし今なら分かる。

「――エリックさん?」

 その声に、エリックは思考を中断された。そちらを見やると、一〇歩ほど先で立ち止まったカズマが、怪訝そうな顔でこちらの様子を窺っていた。気付かないうちに歩調が緩み、彼と距離をつけてしまっていたらしい。

 心配そうな顔をしてはいるが、演奏の手が止っていないのは流石と言えた。それどころか、いつの間にか右肩の近くにもうひとつ封貝が現れ、ヴァイオリンの音色がハーモニィとして加わっていた。

「どうかしましたか」

「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてただけだよ」

 ばつの悪い思いをしながら、小走りに駆け寄る。

「ノリノリで楽器かき鳴らしちゃってる僕が言うのもなんですけど、盗賊が出現した実績もあるわけだし、集中力が切れてきたら無理しないで休憩するのもアリだと思いますよ」

「そうだね。きもめいじておくよ」

 神妙に認め、しかしエリックは取り繕うように続けた。

「でも、本当に大丈夫だから。まだ出発したばかりだしね。音楽付のウォーキングなんて贅沢させてもらってるんだし、そうそう情けないことは言ってられないよ」

「音楽は大事ですよ。きっと、人類最古の文化なんじゃないかな」

「それはアコースティック・ギターとヴァイオリンだよね?」

 肩を並べて再び歩き出しながら訊く。

「そうです。厳密に言えば、クラシックギターとヴァイオリンですね」

「不勉強で恐縮だけど、よかったら曲名を教えてもらえないかな。帰ったらCDを探したい。今はダウンロード販売なんだっけ」

 訊ねると、カズマはふっと柔らかく笑った。

「曲名はないです。CDもないと思いますよ。今、即興で作った曲なんで。よかったらあとで今の録音した封貝をあげますよ。ハイレゾやアナログより良い音で、しかも無料です」

「やっぱりオリジナルなのか……」

 半ば予想していながら、実際に言葉にされるとやはり驚きを隠せない。自分自身、作曲などということが、どうやったら出来るのか全く理解できないせいもあるのだろう。

「歌はつけないの? 昨日からカズマくんの曲は色々聴かせて貰ってるけど、全部曲だけだよね」

「まあ、そうですね」彼としてはやや歯切れの悪い返答であった。

「ヨウコさんによると、カズマくんは歌も凄いって聞くけど。むしろ、一番上手いくらいだって」

「歌は好きですけど、作詞っていうのが今いち苦手なんですよね。曲は大部分を感覚的にいけるんですけど、作詞はどうもそうはいかない感じで。多分、使う脳の部分が違ってるんじゃないですかね」

「ヨウコさんは、自分のための曲をひとつ書かせたって自慢してたけど?」

「ああ、覚えてる限り、最後に作った歌があれですよ」

 なにか苦い思い出を掘り起こされたように、カズマは微妙に表情を歪めた。

 聞きたいですか?

 低い声で問われ、エリックは半ば鼻白はなじろみながらも反射的に頷いた。

 もちろん、それは「詳しく話を聞きたいか」という意味の確認であったのだろう。改めて考えてみても、やはり興味をひかれる話題だ。

 カズマが嘆息する。やりきれない、という表情で二、三度ゆっくり首を左右した。それから短い沈黙を挟み、どこか重たげに口を開いた。

「中学時代の話なんですけどね。彼女がいきなり僕の部屋に乱入してきて、オイ金持ってるか。ちょっとジャンプしてみろ。と、こう言ったんです」

 どう思うか。そんな無言の視線を向けられたが、エリックは咄嗟には答えられない。

 あまりに想定の範囲を逸脱しすぎた語りだしであったからだ。

「僕としては、もう意味が分からないわけです」カズマが話を続け始めた。「今、お金はあんまりないんです。勘弁してくださいとしか答えようがありません。誰だってそうですよね――?」

「え……いや、どうなんだろう……」

 もし本当にそんな言動があったなら、エリックの知る千葉ヨウコ像からは、はなはだしく乖離かいりした事実と言えた。

 彼女がエリックに見せるのはいつもたおやかな微笑であり、何気ない所作にも気品を感じさせる淑女としての姿であった。

 カズマの語る千葉ヨウコは、同姓同名の他人の話にしか思えない。

「――とにかく、逆らうと何されるか分からないし、僕は言われた通りにその場で軽く飛び跳ねて見せたんです」

 カズマが話を再開する。

「すると、ベルトか何か忘れましたけど、微かにカチャカチャ音がするわけですよ。当然、それを聞き逃すヨウコじゃないですから、オウ、それはなんだと。鋭く追求されて、僕はまた泣きそうになるわけです。もちろん、言い訳しました。これは、アレなんです。頭蓋骨の中で僕の脳が揺れてるんです。本当にお金はありません、みたいに一生懸命――ええ、それはもう涙ながらに訴えましたよ。幸運にも、そのときのヨウコ様は、比較的機嫌が良かったようで、お前の脳はどれだけ小さいんだ。梅干しか? とか言いながら、なんとか納得してくれました。少なくともその音に関しては、ですけどね」

 一体、なんの話なのだと思いつつ、エリックは無言で話の続きをうながす。

 どうあれ、千葉ヨウコの知らざれる側面には興味があった。もし、今語られているのが実話であれば、の話だが。

「もちろん、そんなやりとりをするためだけに彼女がわざわざ出向いてくるとは思えません。案の定、ギラついた眼であの方は僕に言ったんです。――金がないなら仕方ない。身体で払ってもらおうじゃないか。ヨウコ様は無慈悲にそうおおせになると、何がなんだか分からず困惑する僕に飛びかかり、乱暴に押し倒しました。そして、オラ抵抗するなと。お前が役に立つとしたらこれくらいだろう、と。荒々しく僕のズボンに手をかけ……

 こうなるともう、僕としては逆らう術も無いわけです。言うこと聞くから痛くしないで、と乙女のように懇願こんがんするしかありません。大嵐を前にして、羊はただ早くそれが過ぎ去ってくれることを震えて待つことしか許されないのです。――その後、陵辱の限りをつくされさめざめと泣く僕をにやりと満足げに笑いながら見下ろすヨウコ様は、これだけじゃまだ足りないから、半月後に訪れる誕生日プレゼントとして我に一曲奉じよと。こうおっしゃいました。千葉ヨウコを象徴し、称え、生涯鼓舞する、そんな一生物の――いわばテーマソングを作れ。そういった要求でした。それでようやく、僕は彼女がなんのために自分の部屋に乱入してきたかを理解したわけです。つまり、今年のプレゼントはヨウコのテーマソングを贈らなくちゃいけないんだ、と」

「あの」

 思いのほか長引きそうな気配を見せ始めた話を、エリックは恐る恐る遮った。

「それって、どこまで真に受けて良いのかな」

「そうですね」

 沈痛な面持ちから一転、いつものひょう々《ひょう》とした顔に戻ったカズマは軽く首を傾げた。

「ちょっとジャンプしてみろから、陵辱の限りが尽くされたあたりまでを除けば、概ね事実に基づいた話だと思いますよ」

 つまり、ほとんどが捏造ねつぞうである、と解釈して良いのであろう。

 半分、安堵に胸をで下ろす思いだった。

 正しく再構成するなら、自分の誕生日の半月前、カズマの部屋を訪問したヨウコは、幼馴染の懐具合を確認すると、プレゼントは金をかけずに一曲、なにか自分のために作曲してくれるだけでよい、とそう告げたことになる。

「まあ、そういうわけで、僕は彼女の言葉に甘えさせてもらって、プレゼントは曲で我慢してもらうことにしたんです。あの頃、僕は新しいデジタル・オーディオ・ワークステーション用のソフトが欲しくてお金を貯めてたんですけど、彼女、それを知ってて気を遣ってくれたんですね」

「やさしいひとだね」

 言うと、カズマは自分がめられたように口元をほころばせた。

「でも、結構苦労しましたよ。まだ幼稚園とか小学生の頃は、深く考えずに適当に知ってる言葉を並べて歌も色々作ってましたけど」

 流石に語彙ボキャブラリが揃ってくる中学生にもなると、軽く作詞というわけにもいかない。カズマは苦笑気味にそう告げた。しかも、そのときはヨウコ本人をテーマに、その人間性を描写したテーマソング、あるいは応援ソングともいうべきものが求められていたのだ。ある意味、哲学を投げかけられたに近い。

 だから、エリックは無言で頷いた。

 作詞にせよ作曲にせよ、クリエイティヴなことからは縁遠い体育会系だ。それでも、分からないなりにそれが大事であることは理解できた。自分なら、半月どころか半年時間を与えられても、まったく無理であろうと思う。あるいは六年でも。

「そのときが、覚えてる範囲では最後の作詞経験ですね」

 どこか遠い目でカズマがつぶやく。追憶とともに、幼馴染を失った痛みを思い出したのだろう。彼女が今、自分の隣にいないという事実を憂いているに違いなかった。

「でも、そうですね。たまには良いかもですね。歌付の曲も」

 雰囲気を変えるように、カズマは明るく振る舞ってエリックに笑いかける。

 それからは、ヨウコにまつわる話題を含め、様々な話をしながら街道を進んだ。

 それが可能な速度で無理せず歩く。恐らく平均時速として四キロ前後であっただろう。徒歩の一時間はひとりだと長いが、途切れない会話と極上のBGMが供であれば苦も減じる。一方、それでも森は思いのほか深く、最初の休憩機会はまだ視界から鬱蒼と茂る木々が開けないうちに訪れた。

「森、どこまで続いてるんですかね……」

 木陰で座り込んだカズマが、軽くため息をつきながら言う。

 彼は地上三〇センチの高さに幾つかの封貝を密集して浮かせ、それを座面にして腰かけている。背中にした木の幹は、さながら背もたれといったところだろう。

 歩いている時からそうしていたように、彼は時おりひょいと荷台に手を伸ばしては、ベリィの実を口に放り込んでいる。熱中症対策には悪くない手だ。

 エリックの方はと言えば、アップを終えてそろそろ調子が出てきたといったところだ。立ったままストレッチで軽く筋肉をほぐす程度で充分である。日頃、部活でこなしている練習を考えれば、この程度の運動負荷は近所の散歩感覚だ。

「疲れた?」

 訊くと、カズマは自嘲じちょうめいた笑みと共に首を縮めた。あるいは、両肩をすくめる動作であったのかもしれない。

「こんなに運動したのは久しぶりですよ。一週間分くらいは動いた気がします」

「でも、日頃の運動として一般人に推奨されてるのは一日一万歩の運動じゃなかった?」

「それくらいは歩いたでしょう。僕としてはもう三万歩くらいいってる感覚ですよ」

「いやいや」エリックは爪先を地に付け足首を回しながら苦笑した。「まだ、出発して一時間くらいだと思うよ。時速四キロと考えても、まだ五キロ歩いてない計算だ」

 一万歩を稼ぐには、一般に六キロから八キロ歩く必要があると聞いたことがある。

 今のペースで途中休憩を含むなら、所要時間は二時間近くになるだろう。カズマにもそう伝えた。

 途端にげんなりした表情を見せるカズマだったが、まだ余力はあるようだった。

 じゃあ、いつまでも休んでられませんね。半分、自分に言い聞かせるようにつぶやくと、自ら再出発の一歩を踏み出していく。

 と、そのとき、彼の左腕――ちょうどひじの辺りに、なにか緑色の物が付着しているのが見えた。その色彩からアオムシの類かと思ったが、違う。

 ナメクジを思わせる長細い紡錘ぼうすい形。生物であることは間違いなさそうだが、その胴体はクリオネのように半ば透き通っている。その透明度といい、特徴的な緑色といい、まるきりホームセンターで売っている安物のゴムホースそのものであった。

 それがカズマの腕に張り付いている。色と半透明スケルトンボディを別にすれば、エリックはそれに酷似した生物を知っていた。

「カズマくん。それ、ヤマビルかなんかじゃないかな?」

 なるべく何気ない口ぶりで声をかけた。

 えっという顔でカズマが振り返る。その目がエリックの視線を辿り、自らの左腕に向けられた。そしてくだんの生物を捕らえたその瞬間だった。一瞬にしてカズマの顔から血の気が引いた。音さえ聞こえるような、見事な変貌であった。

「……ぅ……なっ、うわあぁ――ッ」

 悲鳴を上げ、腕をばたばた上下させながらその場をぐるぐると駆け回る。見事なほど典型的なパニックぶりだった。

「なんですか、これッ……血が……」

 カズマの言う通り、へばりついた蟲の周辺には鮮血が浮いていた。

「落着いて。手を出してくれ。僕が取ろう」

 諭すように言って、エリックは荷台に刺してある松明を抜き取った。

 野宿することになっても困らないよう、焚き火から分けて貰ってきたものである。マッチもライターもない以上、これがないと暖ひとつ取れない可能性がある。

「早く……早く取ってください」

 カズマは左腕を真っ直ぐ突きだし、顔を逸らしつつ固く目を閉じている。注射を怖がる幼児そのものだ。

 今から火を近づける。火傷を避けるため決して動いてはならない。注意をうながし、エリックはそっと焚き火を構えた。揺らめく炎の先端を慎重に吸血(ちゅう)へと寄せていく。半透明の緑色越しに、吸い取ったカズマの鮮血がはらに貯まり、内側から蟲の体皮を押し上げているのが見えた。確かに目を背けたくなる光景ではある。

 もう熱で全体を炙られているはずだが、吸血蟲は涼しい顔だった。これ以上近づけると、火傷を負わせてしまう。そう心配になり始めたとき、ようやく動いた。急に根負けし、ぽとりと地面に落下していく。

 カズマは何も感じなかったらしく、事が済んでもまだ目を瞑ったままだった。全身を硬直させ、呼吸さえ止めているように見える。

 もう大丈夫だと告げると、ようやく安堵したのか魂まで口から出てしまいそうなほど深く息を吐く。そして思い出したように、「(むし)怖い」、「自然怖い」と念仏のように唱えはじめた。

 一刻も早くその場を離れたいらしく、彼は疲れも忘れてすたすたと歩き始めた。

 エリックはその豹変振りに軽く苦笑しつつ、後を追いかける。

 カズマに借りた剣鉈で、何かに使えるだろうと持ってきた馬車の幌を細く裂き、簡易型の包帯を作った。ヒルは血液が止らなくなる物質を残していくため、一度吸い付かれるとしばらく出血が止らない。そう説明し、カズマの左手に巻いてやった。部活で自然とみについた、テーピングの技術が多少なりとも役に立った形である。

 治療が終わり、カズマの精神状態が落ち着きを取り戻した頃、植生に若干の変化が見られるようになった。

 ここまでは遥か頭上にまで幹が伸び、そこから張り出した枝葉が天井を成すように折り重なっていたが、徐々に木々の背が低くなり始めたのだ。比例するように枝木も短くなり、街道を覆うようなアーチを形成には到らなくなりつつあった。おかげで落ちてくる影と威圧感が減じ、澄み渡った蒼穹を広く見渡せる。

 合わせて道幅も少しずつ広がり、迂回のためのうねりも心なし減ってきたように感じるのは、決して錯覚ではないだろう。森が終わり始めているのかもしれないかった。

「もうすぐ抜けられるかもしれないね」

 励ます意味もあって、エリックは明るく言った。

「抜けた瞬間、山に連なる急勾配の斜面が待ち構えていた――みたいなオチでないことを心から祈ってますよ」

 カズマが皮肉っぽく唇の端を歪める。

 当初と比較して若干、口数が減ってきつつあるが、まだその声には張りがある。少なくともゴムホース(ビル)の恐慌状態からは完全に脱したようだ。

 体力、気力に余裕があるうちにしかできない会話があれば、今のうちに済ませておくべきかもしれない。ふと思い、エリックは一瞬の逡巡しゅんじゅんを挟んだ後、それを口にした。

「カズマくんは……ナージャさんに結局、何が起ったって考えてる?」

 最初、声が届かなかったのかと思った。そう見えるほどの無表情、無反応だった。

 結局、それは単に答えを探すための黙考もっこうであったようだが、カズマがその口を開くまで十数歩足分の時を待たねばならなかった。

「パターンを三つ考えておくべきだと思います」

 彼が低く言った。

 無言で続きをうながすと、カズマは自ら言葉を継ぎ、話を続けた。

「もっとも都合良く考えるなら――前にちょっと話したと思いますけど――迷子です。これなら、そのうち無事に合流できるでしょう」

 ただ、夜のうちに戻ってくる予定が、一晩明けてもう午後に入っている事実は無視できない。迷子にしては少し度が過ぎるだろう。彼はそう付け加えた。

 これはエリックとしても認めざるを得なかった。時間を追うにつれて、迷子説はどんどん苦しくなっていく。

「その二。迷子よりは状況として酷いけど、最悪とまではいかないってパターンが、からめ手で無力化されて誰かに捕まるか、足止めされてるパターンだと思います」

 これも可能性のひとつとしては理解できた。

 が、エリックには具体的な情景までは浮かんでこない。

「というと?」

「たとえばインカルシの街でなにか揉め事に巻き込まれて、警察みたいなのに捕まったとかですね。考えられるのは。ナージャは良くも悪くも目立ちますし、僕たちも人のことは言えませんが一目でそれと分かるくらい余所者っぽいじゃないですか。街に入るときはチェックがあるって話だし、そのときにちょっとお前怪しいぞ――となって、取調べを受けるはめにおちいったりとかはあると思うんですよ」

「日本でいうところの、職務質問みたいな感じかな」

「そう。シゲンさんは一日二回、職質受けた記録を持つらしいですけど。あれと同じです。ナージャなら、なんでだ、私は何も悪いことしてないぞ! とか言って暴れださないか心配ではありますが、まあ、今回はオキシオさんや怪我人がいますしね。彼らをスムーズに通すのと引替えに大人しく捕まったかもしれません。もしくは途中で普通に盗賊とかと遭遇しちゃって、そいつらに無力化されてしまったとか」

「盗賊に――?」流石に考えてもみなかった可能性である。「昨日の例を見れば、その辺の盗賊に遅れをとる人だとも思えないけど」

「封貝を持ってるレヴェルの高い盗賊もいるかもしれませんし、お前の仲間を人質に取った。大人しくしろ、とか言われてそれを信じちゃったとかなら、あり得なくもないでしょう?」

 なるほど、それがカズマのいうからめめ手というわけだ。確かに、それならば考えられなくもない。そんな気がした。

 つまりそれは、振り込め詐欺の手口なのだった。

 具体的な名前を告げず、相手に該当する人間を勝手に想像させる。誤解を利用して、そのまま話を進める。「仲間」としか言わない相手に対し、馬鹿正直に「なに、ダーガに何かしたのか」などと返えしてしまうナージャの姿は、それこそ目に浮かぶようだ。

 おう、そのダーガとやらは預からせて貰っている。大人しくしろ――。

「うわあ、なんか凄くありそうに思えてきたよ……」

「でしょ?」

「でも、それすら最悪のパターンじゃないんだね?」

「そうです」カズマは神妙な顔つきで頷いた。「最悪のケースとして考えられるのは、盗賊なり衛兵なりに敵対者とみなされ、武力で制圧されたパターンです。もちろん、これはただの人間には無理です。複数の強力な封貝使いの存在を想定しなくちゃいけない。最悪の最悪だと……」

 カズマは言葉尻をにごしたが、ここまで言われればエリックにも分かる。

 最悪の最悪。それは、その封貝使いの集団に敗北し、ナージャが既に死亡している可能性だ。事によっては、これに搬送中の怪我人たちも加わる。すなわち全滅だ。

「生け捕りにされているにしても、ナージャを実力で倒すほどの連中から彼女を奪還するのは、僕たちには無理でしょう。絶望的な展開と言えます」

 エリックは黙り込んだ。

 カズマのいう最悪のパターンを、自分がまったく考慮してなかったことに今さらながら気付く。無意識のうちに避けていたのだ。

「森を出たら気をつけるべきです」

 カズマが追い打ちをかけるように言った。

「彼女が何者かに負けたのだとして、インカルシの兵隊にやられたとは限らない。街に辿り着く前に、何者かに襲われた可能性もある。それだけの力を持った封貝使いが、ここからインカルシまでのどこかに出現し得るリスクに関しては、常に念頭に置いておくべきです」

 はっとさせられる指摘だった。

 不安に駆られたエリックは、その場でせわしなく首を振り周囲に視線を巡らせた。

 無論、カズマがいうような凶悪な封貝使いが、そこらの森に意味なく潜んでいるとは考えにくい。彼らがその気なら、見えない位置から一方的に遠距離封貝で狙い撃ちできることも分かっている。だが愚かだと知りつつ、衝動を抑えることができなかった。

 幸いにもその後小一時間は、何事もなく距離を稼ぐことができた。

 途中、本道から脇に逸れる分岐が現れたが、相談の末、今回は無視しせざるを得ないということで意見が一致した。この深い森にわざわざ金と手間を使って、無駄な道を引く通りはない。工事にかかる以上の金になる何かが、この奥にはあるのだ。

 何らかの資源が得られる採取場ではないか。ここでもカズマと見解が揃ったが、今はそれを確認している余裕はない、という部分でもそれは同じだった。とにかく、今はナージャが何故帰らないのか、それを一刻も早く確認する必要がある。

「この街道は主要な路線じゃないのかもしれないね」

 エリックが独りごちるように言うと、

「はい?」とカズマが反応する。

 彼はエアギターに使っていた木の枝を今は杖がわりにし、疲労の色を刻一刻と酷使ながら歩いている。出発から休憩を含めて二時間から三時間。距離にして、既に一〇キロ前後になっていた。

「大動脈って言うのかな――そういうメジャーな大街道であるなら、昨日から今日にかけて、オキシオ氏たちの商隊以外の誰とも会わないって言うのは、少し寂しすぎると思うんだよ」

 もっと整備され、もっと直線的な街道が別にあるのかもしれない。それがエリックの考えだった。

 もしかするとそのメイン街道には各所に関所などが配備され、通り抜けるには手形や手数料が必要なのかもしれない。しかしが、多くの通行者は多少の手間やコストを払ってでも速度と安全をとるものなのだろう。

 比較してこちらはいわゆる下道的な位置づけで、わずかばかりの通行料すら払えない者や手形を得ようにも得られない後ろ暗さのある旅人が、仕方なく利用する道であると考えることもできる。少なくとも、通行量の少なさの説明にはなる仮説だ。

 それから一キロもしないうち、前方の木立が休息に密度を下げ、まばらになり始めた。明らかに差し込んでくる光量が強く、大きくなりつつある。視界が開け、森の向こうに広がるなだらかな平原が木々の狭間に見えだしたのだ。

 呼吸が乱れ、もう口をきくのも億劫おっくうという塩梅あんばいであったカズマが、ぱっと顔を輝かせた。はやる足をおさえきれない、といった具合にピッチをあげはじめる。

 無論、これは褒められたことではない。だが、流石に制止する気にはなれなかった。気持ちはエリックも同じであるし、長い旅の途中にはちょっとしたご褒美も必要である。

 森は唐突に途切れ、終わっていた。入る前と同様、出た後も、見渡す限り――地平線の向こうが霞んで見えるほどの――広大な平野が広がっている。

「エリックさんの考え、当たってるかもしれないですね」

 カズマが久しぶりに笑顔を見せて言った。それから革の水筒に口を付け、ベリィの絞り汁に甘みのある樹液を混ぜて作ったジュースを喉を鳴らして飲む。

 ぷは、と一息つき、口元を拭ってから続けた。

「僕らが通ってきた道が本当に重要な動線どうせんなら、当然、敵が攻めてくるときの通り道にもなるでしょう。守るインカルシ側から見た場合、敵を食い止めるなら森の出口は都合の良い場所です。狭い森を抜けて出てくるところに兵を置いて、ふたをすれば良いわけですから。とすれば、この近くにはそのための兵を駐屯ちゅうとんさせる拠点なり砦なりがあって良い。そう思いませんか?」

「なるほど。でも、それらしい物は……」

 目を懲らして周囲を見回しつつ言う。

「見当たらないね」

「仮に今が平和な時代だとしても、昔使っていたやつが遺跡として残ってたりするものでしょう? でも、それすらない。そんなものがずっと必要なかったくらいこの国は長く平和が続いてきたのか、この辺はそもそも地理的に重要なポイントではないのか……どっちにしても、エリックさんの説を補強する材料になりますよね」

「なんであれ、気を引き締めて進もう。森と違って見通しがきく分、襲われたら逃げ場がない。余所者ストレンジャーの僕らは、この世界では弱者だ」

「それに」と蒼穹を仰ぎながらカズマが言った。「もう二、三時間もすれば陽が暮れてくるでしょうしね」

「そう。夜をどこでどうやって過ごすかも計算に入れながらペース配分すべきだ」

 インカルシへ続くだだっ広い平野は、実際のところ非常に緩やかな丘陵きゅうりょう地帯であった。風景が変われば街道もそれに従うらしく、森の中とはうって変わって蛇行や迂回がほとんど見られなくなっている。道はおおむね直線基調で、これは必然、斜度の小さな坂を頻繁に上り下りさせられることを意味した。徒歩かちにとっては負担の強まる行程である。

 この影響は、まずカズマを直撃した。

 森から出て三〇分もしないうちに、彼のペースは目に見えて低下した。

 時を同じくして、かかと、ふくらはぎ、太腿ふとももの痛みも訴え始める。顔からは表情が抜け落ち、話を投げても良くて生返事。ほとんどは答える気力もないとばかり、荒い呼吸が返るばかりとなった。

 当初はカズマが先頭、荷台を挟んで最後尾にエリックという順であった隊列もいまや完全に崩壊している。気付けばエリックが先に立って歩いており、頻繁に振り返ってカズマの様子を確認しなければならない。うっかりすると、八〇歳の老人のようにヨタヨタするカズマを置き去りにしかねないからだ。時に彼は、杖や浮かせた封貝にもたれかかり、足を止めていることすらあった。

「エリック……さん、ちょっと……休みませんか……」

「もう少し頑張ろう、カズマくん」

 蚊の鳴くような声に、エリックは足を止めて言った。

「あれ、見える?」

 通ってきた道を振り返り、見覚えのある灰色の岩を指差した。カズマが声に反応し、ゆっくりとそちらに視線を投げる。公園の滑り台ほどの高さがある双子の岩石だった。街道の走るこの平野にはたまにこうした大小の岩山が出現する。

 岩までは比較的距離が短く、目を懲らせば細部を詳細に見て取ることができた。実際、岩陰を素早く移動する、イモリだかヤモリに似た小さなトカゲ状の生物も確認できる。

「あの岩、覚えてるよね? カズマくんが休憩しようって言って、五分くらい休んだ場所だよ。あれからまだ一〇分くらいしか経ってないし、ほとんど進めてもいない」

「そんな……馬鹿な……」

 カズマは顎を落して呆然としている。

 進路方向に視線を戻せば、小高い丘に通じる上り坂が待ち構えている。このことも、カズマの精神的な疲弊ひへいに繋がっているのだろう。

 上り坂は目算で五、六〇〇メートルほど。頂上付近の高さは一五メートルから二〇メートルといったところだろう。計算上、勾配こうばいは三%前後。角度で言えば2度程度ということになる。

 エリックは出しぬけに、以前、自宅をリフォームした近所の叔父のことを思い出した。車椅子の母と一緒に暮らすことになった彼は、バリアフリーに大変気をつかっていた。「車椅子用のスロープ角度は四度まで」。その時、彼が念仏のように唱えていた言葉である。

 つまり、今、目の前にしている坂は車椅子の障害者用スロープよりも緩い。その程度のものでしかない。歩き続けでさえなければ、本来、何の苦もなく登っていけるレヴェルだ。

「――ね、頑張ろう。せめて休憩はあれを登ってからにしないと」

 エリックは激励しながら、すっかり丸まっているカズマの背に回った。

「ほら、僕が背中押すから」

 言って、前を押しやっていく。カズマが蹴躓けつまずくように歩き始めた。

 実際問題、カズマのこの弱りようは非常に深刻である。心身がこうまで弱っていると、突発的な事態には到底対応しきれない。ナージャによれば、危険な病原体を持った狂犬の群れはどこにでも現れる可能性があるという。加えて野盗、未知の封貝使い。

 備えなければならない脅威は多い。

 たとえ今からキャンプの準備に入り、すぐに休ませたとしても、一晩で疲労が全快することはない。筋肉の痛みはこれから長期にわたって、カズマをさいなむに違いなかった。

 と、カズマの背を押していた腕に強く抵抗がかかった。

 怪訝に思って確認すると、カズマが足を止めてしまっている。結果、足を突っ張る形になり、重さが増したのだった。

 カズマの背中を見続けていたため気付かなかったが、いつの間にか坂は終わりに近づきつつあった。とは言え、まだ天辺というわけではない。どうやらこの丘は登るにつれ斜度が急速にゆるくなるようで、頂上付近は平坦とほとんど見分けが付かない微妙な斜面が続いている。

 どうかしたのか。問おうとした矢先、カズマが口を開いた。

「家だ……」

 どこか熱に浮かされたような口調であった。

 ついに幻覚が見えだしたのか。あるいは――

 胸騒ぎを覚えつつ、エリックは手を離してカズマの横に回った。

 もはやそれと意識しなければ気付かないほどの傾斜しかついていないため、前方に視線をやればかなり先まで見渡せる。

 そして、エリックはカズマが正気であったことを知った。

 街道の右手側、通りからやや外れた場所に、家屋らしき木造の建築物が幾つかまとまって建っている。外周を粗末な木柵で囲っていることからして、間違いなく集落だろう。

 距離にして精々三、四〇〇メートル。夕餉ゆうげの支度でもしているのか、特定は不可能だが、どこかの家から立ち上る薄らとした煙も確認できた。

 村を発見したのである。

挿絵(By みてみん)

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