赤繭
017
重たい鉄格子の扉を押し開けば、そこには人ひとりがやっと、という地下への狭い下り階段が待っていた。
足を踏み入れると、淀んだ空気が揺れ、生物の吐息のような湿り気が頬に触れた。そのせいか、靴底で触れた石段にも水気を感じた気がした。一歩目の足を躙り摩擦を確かめたが、特に濡れて滑りやすいということはない。
気を取り直し、歩を進めていく。一段下る度、靴音の反響が一際高く、くぐもって聞こえた。
元より地下だ。昼夜を問わず深い闇の巣くうこの場では、本来、壁面に添えた自分の左手すら視認が難しい。でありながら、松明の使用は禁じられているのは、火災を恐れるためだ。石造りの下り階段を別として、大部分の内装と補強を木材に頼る設計とあっては、ひとつ取扱いを間違えば深刻な事態を生みかねない。
無論、だからといってそのままでは歩行すら困難である。そのため、右手側の壁面には貴重なヒカリゴケを使った照明器具が等間隔に設えられていた。
下り階段はそう長くなかった。一フロア分以上、だが二フロア分の深さには到らない、と言ったところか。なんにせよ、程なく下りきってしまう。と、そこからは、頭をこすりそうになるほど天井の低い通路が、一〇歩分ほど真っ直ぐに伸びていた。
ここにくると、四方を囲んでいたタギス木の補強はなくなる。土をくり抜いた原始的な坑道に迷い込んだようであり――しかし、それは歩を進めるにしたがって、岩盤に囲われた自然の洞穴へ装いを変えていった。
「これは朱雀隊の――」
突き当たり、革鎧の軋む音と共に男の低音が聞こえてきた。分厚そうな鋼鉄の扉を背にしていた立番の兵だ。護士組で見た顔ではない。とあらば、封貝を持たぬただの人間なのだろう。
彼は慌てて姿勢を正し、頭を垂れようとする。
それを片手で制し、名乗った。
「急にすまないな。朱雀二番隊のケイス・ヴァイコーエンだ」
「はっ、ヴァイコーエン隊長」番兵が踵を鳴らして敬意を示す。「お目にかかれて光栄です」
「俺が叩き落とした侵入者、ここに運ばれたんだろう? ちょっと気になってな。一目、見られるか?」
「もちろんであります。ただいま解錠致しますので、しばしお待ち下さい」
頼むと答えると、番兵は直ちに背後の扉に取付いた。
まず、子供の胴体ほどもある極太の閂が三本。これを上から順に、全体重をかけて引き抜いていく。加えて、大の男でも両手でなければ支えられない重量を誇る、特大サイズの南京錠も外される。
封貝使いを幽閉するのだ。これくらいしたくなるのも分からないではない。
「ヴァイコーエン隊長、お待たせしました」
ややあって、軽く息切れしながら番兵が直立不動の構えを取った。
「どうぞ、お通り下さい。なお、申し訳ありませんが、規則でまたすぐに施錠をさせていただくことになります。ご退出の際は、内側にいる係の者にお声かけください」
と、番兵は扉の上方に吊された巨大な鈴へ、視線を誘導する。
「向こう側にある紐を引くと、こちら側であの鈴が鳴ります。正しい順序で正しい回数鳴らされれば、こちら側からまた鍵を開けるようになっておりますので」
「分かった。覚えておこう」
言って、扉を潜る。
瞬間、一気に視界が開けた。フラスコの口から狭道を抜け、底に広がる空洞に出た感覚だ。
「失礼、朱雀二番隊のケイス・ヴァイコーエン隊長とお見受けします」
すぐに扉脇に待機していた内側の番兵が声をかけてきた。
「そうだ」
「此度の騒動、ヴァイコーエン隊長が見事収められたとか。やはり、その捕虜の様子を――?」
「ああ。上から許可を貰ってきたということはないんだが。面会できるか?」
「はっ、特に制限を設けよという指示は受けておりませんので」
ケイスは理解の証として頷く。
「捕虜については現在、玄武九番隊の方々が調査中ですが、問題なく立ち会って頂けると思います。扉は施錠されますので、御用向きがお済みになりましたら私にお声かけください」
「作法は聞いている」
答えた直後、背後で金属のこすれ合う微かな音に、ケイスは軽く振り返った。扉の向こうで、再び閂がかけられようとしているのだろう。
視線を前に戻す。
入口から続く通路は真っ直く奥の壁面まで続いており、その両脇に無数の小部屋が等間隔に並んでいる。各部屋の出入口は通路に面したひとつのみ。それらは全て、成人男性の二の腕ほどもある極太の格子戸で塞がれていた。
とはいえ、どの房にも囚人らしき姿は見当たらない。鉄の孔子は、湿り黴びた空気を閉じ込めているだけだ。
「ここは近年、封貝使い専用の地下牢として使われているそうだが?」
ケイスは番兵を見ずに訊いた。
「はい。しかし、ご覧の通り普段はその役割を果たしておりません」
「――のようだな」
これは当然と言えば当然の話だった。
なぜなら、このインカルシで封貝を使って暴れ回る犯罪者などいはしない。まったく割に合わない重罪であり、それを護士組によって必ず償わされると誰もが知っているからだ。
理由はもうひとつ。「封貝使いは拘束が難しい」という事情も、この状況を生んだ大きな要因として無視できるものではない。
亜空間からいつでも強力な武具――すなわち〈封貝〉を呼出せるペルナ所有者に対し、通常の手錠や拘束具の類は用を成さない。
ならば口を塞いで、召喚の呪文を唱えさせなければ良い。そう主張する者もあると聞くが、これは素人の誤った認識だ。「〈Fox 1〉」や「〈Delta 1〉」等と、呪文ともつかない言葉と共に封貝が呼出されるところを見たことから、そのような勘違いが生まれたのだろう。
しかし実のところ、口訣はあくまで符丁に過ぎないのだ。
つまり、影響範囲が既存の武器より桁違い広く、破壊力が高い封貝を使う際、味方に注意をうながすために敢えて口にしている側面が強いのである。先の大戦中、封貝使いの集団戦が活発になったことから生まれた習慣だ。
無論、精神統一やルーティン、自己暗示による効果の増強、召喚成功率を高めるため――という意味合いもあるにはある。たとえ、ほんの数パーセントから、良くて一割程度のボーナス効果しかもたらさないと言われていてもだ。その僅かな差が時に勝敗や生死に直結することがあることを、実戦経験を積んだものは骨身に染みて理解している。結果、プロフェッショナルに徹する者ほど口訣を惜しまない傾向にあるわけだ。
一方で、幾つかのリスクを負う覚悟があるならば、封貝は念じるだけで呼び出せる。
口を塞がれようが、声帯を焼き切られようが、彼らの多くは封貝を呼び出せる。
薬物で眠らせ、拷問で心神喪失に追い込んだとしても、危機を察知した封貝が勝手に出現することすらあるのだ。
そうして現れた〈射撃用封貝〉の多くは、たとえ主が身動きひとつできない状態でも、その戒めをやすやすと破壊せしめるだろう。〈移動用封貝〉は、追手を悠々《ゆうゆう》振り切り罪人を野に放つであろう。
すなわち現状、ペルナ使いが封貝を召喚するのを妨害する有効手段は、ない。
例外的に、幾つかの封貝はそれを可能とする能力を有しはする。が、極めて数が少なく、また効果や持続時間も限定的である。
結局、封貝使いを牢に繋ぎ止めておくためには、四六時中、罪人と同等レヴェル以上の封貝使いを――できれば複数――監視とて置くしかないのだ。そうして、囚人が暴れ出したら封貝の力で抑え込む。実に非効率的で、対症的な手段と言わざるを得ない。
信頼のおける封貝使いが限りある稀少な人的資源であることを考えると、多くの場合、このような資源の裂き方は到底割に合わないと判断される。
それであるなら、もう封貝を持つ囚人の無力化、収監は諦める。手っ取り早く殺してまった方が良い――。
それがコスト的にはベストな処理法になるのだった。
市井も封貝使いの脅威を認識しているため、この「罪状によらない一律の死罪判決」は現状、そう抵抗なく受け入れられている。繁華街で人を襲い喰らう虎が、治安維持部隊に斬り殺されたとして文句を言う町人はいない道理だ。たとえその虎が、実際には屋台のヤキトリを少し囓った程度であったとしても。
このような事情がある以上、封貝使い側にも一定の心得が生まれる。
つまり、何らかの事情で治安部隊に拘束された場合は、大人しく武装を解除し、交渉の構えを取る。そうして賠償金を支払い、永久にその界隈には近付かないという誓約書にサインした上で、強制退去の処分を大人しく受け入れる。
これでなんとか極刑だけは免れよう、というのだ。
すなわち、この〈赤繭〉のように封貝でガチガチに周囲を固めるというのは、心得た連中からすれば悪手の極みでしかない。
もちろん、本来なら懲役であるところを金で弁済するのだ。その賠償額は天文学的なものになる。ちょっとした騒動を起こしただけでも、割に合わない高額の罰金支払い義務が生じるとあらば、誰も無茶はしたがらない。
この地下空洞がもう長いこと無人であり続けた所以である。
そんな事情がありながら、今、右手一番奥の小部屋前に人集りができている。少なくともこの二年近く、一度もなかった異常事態だ。
ケイスは迷いなくそちらへ歩み寄っていった。
やがて、足音に気付いたか、出口最寄りの位置にいた者が振り返る。
茸形に整えられた髪に、幾つも寝癖の跳ねをつけた若い人間の女だった。羽織る灰色の長衣はいつから着続けているのか皺だらけで、正体不明の染み、汚れが無数に付着している。また、明らかにサイズが合っておらず、右側の衿などは今にも肩からずり落ちそうに見えた。身だしなみという概念を全く持たないのだろう。
封貝使いでない人間は、年齢を外見から読み取ることが可能な数少ない種族だ。確認したことはないが、彼女の場合、まだ二〇歳そこそこだろう。その針金のような細さと、男性と遜色ない上背の取り合わせには見覚えがあった。
「おっ、あなたは確か――朱雀の隊長さんですね」
茸頭の娘は、珍種の昆虫を見つけた少年のように口元を綻ばせた。
「二番隊のヴァイコーエンだ。お前は玄武の九番隊で見たな」
「ええ、はい。ジュリ・チノーです。現在、総長さんに仰せつかって、捕虜の調査をおこなってるっす」
「そうか」ケイスはひとつ頷いてその労をねぎらう。
護士組を統括する玄武隊は〈本部〉、〈本隊〉、あるいは〈中央〉などと言った俗称でも知られる組織の中枢だ。普通は四番までしかない小隊を一〇以上持ち、お抱えの隊士数的も三桁近くに及ぶ。
人事、司法、研究開発、装備管理、情報、医療関連の部署を内包しているため、封貝を持たない人員の割合も群を抜いて高い。
「それにしても、ヴァイコーエン隊長。ちょうど良かったっすよ」チノーが目を輝かせて言った。「この封貝マスターと直接交戦されたんですよね? つきましては、あなたから是非、幾つかお話をうかがいたいと思っていたんっすよ。まずですね――」
「控えんか、チノー」
彼女の背後、牢の内側から「見かねた」というように嗄れた声が響いた。
見ると、チノーの胸元までしかない短躯の老人が、白く豊かな眉の下から猛禽のような双眸を光らせている。
玄武九番隊を率いる、シッド・ラマチャンドランその人であった。
自身も一〇〇歳を超える経験豊かな封貝の使い手であるが、現在は数ある封貝のデータベース化や戦術研究に従事する、護士組最古参だ。
人間とクルプンのハーフと噂される彼だが、なるほどその分厚い体躯と背の低さは、クルプンの特徴を色濃く現わしていた。
「すまんなあ、ヴァイコーエン殿。引き籠もって研究ばかりやらせとると、なかなか作法も身につかんでな」
「いや」ケイスは薄ら笑んだ。「俺も、この国の堅苦しい礼儀作法には馴染めない質なのでね」
「そう言って貰えるとありがたい。ほら、お前も頭のひとつでも下げんか」
言いながら、ラマチャンドラン老はぴしゃりと愛弟子の背を平手で叩く。その衝撃に「ひあっ」と素っ頓狂な悲鳴を上げたチノーは、慌てた様子で茸頭を垂れた。
「あのっ、隊長さん。どうもすみませんっす」
「まったく、このアホタレ娘は。手順を踏まんとどうにもならんのは、研究も人間関係も同じだと常から言い聞かせているだろうが」
そのやりとりはまるで愛孫と、それを慈しみつつも叱りつける祖父、といった構図を彷彿とさせた。
ケイスは苦笑し、気にするなと身振りで示した。そして彼らの間に割って入り、牢の奥に封じられたものへ視線を向けた。件の封貝使いである。
「これが、例の……?」
誰にともなく問うと、「フム」とラマチャンドラン老が相づちとも唸りともつかない声をあげた。
「便宜的に〈赤繭〉と呼称することにした」
「私が考えたんです!」
チノーが人差し指で忙しく自分を示しながら主張する。
ラマチャンドランはそれを一睨みして黙らせ、またケイスに向き直った。
「こいつは卿が堕としたと聞いとるが、事実かね」
「最後の一撃を加えた、と言う意味では」
その後、あとの始末を部下に任せたこと、自分は他に侵入者の警戒に回ったことなども合わせて伝える。
「――そうか」老兵はひとつ頷き、続けた。「その後始末を任された隊士たちが捕縛しようと群がった時には、もうこの状態だったらしい。卿に斬られて倒れた瞬間、変化したということだろう」
そこに横たわるのは、予想していたような傷つき昏倒した封貝使い、四肢を鎖に繋がれ壁際で項垂れる侵入者の姿ではなかった。
たとえるなら、それは確かに繭だった。
巨大な真紅の繭である。
人間の太腿くらいはあろうか。幅広な布が爪先から頭頂部までを隙間なく巻き覆い、封貝使いの姿を完全に隠してしまっている。
その様は、まるで獲物を絞め殺そうとする大蛇を見るようだが――実際は真逆だ。
間違いなく封貝であろうこの紅い綸子は、傷ついた主を外敵から守るためのバリアとして、この形態をとっているに違いなかった。
では、果たしてその内部はどのようになってるのか――
身体のラインに沿ってというのではなく、卵の殻のように細長い球体を形成しているため、中の封貝使いの状態は一切知ることができない。封貝の研究・分析を専門に行う玄武九番隊さえお手上げというのも頷けた。
「俺が斬ったのは、確かに人間の姿をした封貝使いだったが……」
ケイスがつぶやくと、
「だろうなあ」隣でラマチャンドラン老が首肯した。
「それそれ、それです」
チノーが学習の成果をまったく発揮せず、ダボハゼのように食いついてきた。夢中になると、他の全てを忘れてしまうタイプらしい。ほとんど師匠を押しのける勢いだ。
「具体的にはどんな風貌でした?」筆記具を片手に目を輝かせながら詰め寄ってくる。「最大の関心事は、やはりこの紅い繭です。倒す前まではどんな形態だったんでしょう? というより、戦闘中から顕現してました? それとも戦闘不能状態に陥るのに合わせて、オートで出てきたんでしょうか」
「おい、チノー!」
叱責の声をあげるラマチャンドランを片手でおさえ、ケイスは口を開いた。
「闇の中だったから細部まで観察する余裕はなかったが――、そう、子供のように見える華奢で小柄な人物だった」
もちろん、チノーと違って封貝使いは実年齢が見た目通りとは限らない。子供の姿をしたまま、一〇〇年を生きる封貝使いも存在するのだ。
「種族は? 人間だったっすか」
「分からない。若いエインのようにも見えたし、シルエットからすれば幼少期のレタルであってもおかしくない。線が細い小柄な人型という意味では、クルプンの女性にも特徴は合致する。俺が得た資格情報からでは特定は不可能だ」
「じゃあ、武装の方はどうでした?」
「俺が確認したのは〈白兵専用封貝〉のみで、それは良くあるフレイムスピアの一種のようだった。足下には無機系の移動用封貝があって、それで飛行していた。少なくともそちらは、俺が今までの戦場で見たことのないタイプだったと思う」
「ふむふむ。稀少なのか無二なのか、気になりますねえ。で、その封貝のどちらかでも、何か特殊な効果を発揮したりということはなかったです?」
「なかった。というのも、俺が対峙した時点でそいつはもう、ほとんど戦える状態ではなかった。無数の傷を負って、全身血塗れだった」
「ああ、はい。それらしい話は聞いてるっす」
チノーはペンの柄先でこめかみの辺りを掻く。
「まず、壁の外側で巡回中の白虎四番隊が遭遇。交戦に入ったんですよね。報告ではそうなっています」
「あの――ショウ・ヒジカの部隊だな」
老体が苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。
無害な旅人や行商に半ば脅しをかけ、祝儀などを名目に、強引に賄賂を要求している――。そんな悪評が絶えないショウ・ヒジカだ。内外から批判の声があがっているのは、ケイスも知っていた。もっと率直に「護士組の面汚し」と唾棄するような嫌悪感を露わにする者も見かける。
一方で、狂犬のように獲物を追い立てる彼は検挙実績が高く、その意味で有能な人材でもあった。悪い噂に関しても、尻尾を掴ませるほど愚かではなく、誰もがそれを表立っては問題化できていない。
「風評をさておけば、まあ封貝使いの実力としては確かな男ではある。奴の部隊と交戦したというのなら、手負いであったというのも頷けはするな」
このラマチャンドラン老の分析に、ケイスも異論はなかった。
ただ、ほとんど瀕死の状態まで追い詰めておきながら、みすみす外郭を越えさせたという事実にはいささかの不自然を感じざるを得ない。
そこ弱らせたのなら、とどめを刺すこともできたはずだ。たとえそこまでは到らずとも、都市内部への侵入は何としても防げたのではあるまいか。
そこまで考えたところで、ケイスの思考は中断された。
「で? で? あの紅い綸子は?」チノーの無遠慮な追求である。「あれも見たところ特殊な封貝のようですが」
「あれは〈防御用封貝〉だろう。俺と対峙した時は、襟巻のように終始、首に巻き付いていた。人間の大人ふたり分くらいの長さで、色は確かにあんな鮮やかな紅色だったと思う」
あんな、の部分で奥の封貝使いを眼で示し、ケイスは言った。
「つまり!」鼻孔を膨らませてチノーが顔を寄せてくる。「あの綸子は〈炎系の槍〉を使っている時にも具現化して、使用者の胸元にあったと」
「となると、永久かはともかく常時顕現形と考えるべきだろうな」
ラマチャンドランがまとめる。
「今となっては、俺にもそう思える」言って、ケイスは同意を示す。
「主がダメージを負い戦闘不能になった瞬間、自らの意思で丈を伸ばし、包帯で覆うように全身を巻き包んで繭状外殻を形成した、と」
老兵は分析を口にしながら、捕虜の紅繭へ歩み寄っていく。
足取りをそのままに、口訣した。
「――〈白兵専用封貝〉」
求めに応じ現れた封貝は、異形の刀剣だった。刃渡りこそ一般的な長剣と変わらない。一方で片刃の刀身は異様に幅広で、もっとも大きな部分は斧かと思わせるサイズだった。
ラマチャンドラン老は繭を見下ろす位置で立ち止まると、得物を上段に構えた。次の瞬間、裂帛の気合いと共に振り下ろした。反復を繰り返し骨身に染みついた動き。無造作ながらも、流れるような動作であった。
が、その一閃はドンという籠もった低音と共に、真っ赤な繭に跳ね返される。
「この通り――」
くるりと身体ごと振り返った彼は、半ば呆れたような表情で肩をすくめた。
剣の峰で肩をトントンと叩きながら続ける。
「たとえ封貝を使ったとしても、生半可な衝撃ではこの〈赤繭〉を砕くことはできんようでな」
言葉の途中、その手から役目を終えた封貝が消えていく。
それから、彼はまた首を縮めるように肩をすくめ、口をへの字に歪めた。
「この事実が問題を難しくしていることは言うまでもない。隊士を何人か集めて集中砲火すれば叩き割れるだろうが、じゃあそこからどうするって話になるからな」
それはケイスにも理解できた。
現在、封貝使いは繭の中でじっと治癒に努めているだろう。
しかし、その速度は予測ができない。自然治癒に任せていればかなりの時間がかかるだろうことだけは分かる。――が、卵の殻のように主を守るこの〈赤繭〉に回復を早める能力があれば、状況は大きく変わる。場合によっては、こちらが繭を破壊した瞬間、既に回復を終えた捕虜がカウンター攻撃の体勢をすっかり整えて飛び出てくる可能性もあるのだ。
そこで間髪入れず、大火力の〈超大出力封貝〉でも放たれたら――
捕まれば殺される可能性が非常に高かったにもかかわらず、追い詰められた〈赤繭〉はそれでも切り札を使わなかった。それがもし、温存であったとしたらどうだろう? 最初から捕まることも計算のうちであったとすれば。
同じ考えに玄武九番隊のふたりも行き着いたらしい。チノーがぼそりとつぶやいた。
「そもそも、〈赤繭〉はなにが目的でインカルシに突撃しかけてきたんでしょうね。目撃証言では、ふたりから三人の人間を抱えていたって話もありますけど」
「ヴァイコーエン隊長」
ラマチャンドラン室内に持ち込まれた木椅子にどかりと腰を落し、続けた。
「貴卿が〈赤繭〉を発見した時、そういった他の人影は見なかったのかね」
「いや、単独だった。他のいかなる封貝の気配も感じなかった」
「なら、他の隊士の見間違いですかねえ?」チノーが首を傾げる。「でも、複数の証言があがってるんですよね」
「そいつらの証言に誤りはないだろう」そちらを見てケイスは言った。「俺の隊の部下もシルエットだが、それらしきを目撃したと言っていた。何より、〈赤繭〉はあれだけの傷を負って、あれだけ大勢の隊士に追われながら、わざわざ出てきて正面からぶつかってきた。戦闘員の動きとしては不自然過ぎる」
外壁を越えたあと、護士組たちは一度、この侵入者の姿を見失っている。
あのまま闇に紛れ逃げに徹すれば、また結果は変わっていたかもしれない。
にも関わらず、〈赤繭〉はわざわざ火を噴く槍を片手に、護士組の群に飛び込んできたのだ。「私はここです」と言わんばかりに。
「――目的が陽動であったとすれば、その不自然も理解できる?」
横目で問うラマチャンドランの言葉に、ケイスは黙って頷いた。
それを確認すると、老公は難しい表情で唸る。
「工作員を潜入させるのが目的だった、ということか」
「確かに、見慣れない服装だった」ケイスは記憶の糸を手繰りながら言った。「フ=サァン人ではないというのは、考えられるかもしれない」
「とすると、ありそうなのは西のお隣さんか、ユゥオ辺りかねえ?」
「加えて、この封貝使い自身もその工作員のひとりなのかもしれませんよ」
チノーがすっと目を細めて補足した。
「捕まったのはわざとなのかもしれないです! 当然、囚人は牢屋に移送されるわけで、その牢屋ってのは大抵、お城の地下とか組織の中枢に近い所に置かれるっすから」
その後、尋問や処刑のために殻は力尽くで破られる。
封貝を破壊するために数名。中から出てきた敵の不意打ちに備える防御係として数名。素早く囚人を拘束するために更に数名。監督者、指揮者の類を含めると、それは恐らく二桁の人員を動員した大がかりな作業になるだろう。そのほぼ全員が封貝使いだ。
狙いはそこなのかもしれない、というのがチノーの指摘の核心だ。
「殻を無理やり破られるまではむしろ計算通り。その瞬間、破壊系ならまだしも、毒蟲を広範囲にばらまくみたいな大群系の〈最終兵器〉を放たれたりすると、場合によっては大損害を被ります」
「五番隊のジモンが使うようなやつか」
ラマチャンドランは渋い表情で顎を撫でている。
「そっす。封貝使いはまだ自分の身を守れるでしょうけど、自分みたいな一般人はどうしようもないですよ」チノーが得心顔で頷く。「繁華街なんかに出られた日には、インカルシは壊滅的被害を受けるかもしれません」
「しかし、そういう工作が可能かどうかは封貝使いの実力にもよるだろう」
ケイスは指摘する。
剣を交えただの、とどめを刺しただの色々言われはするが、実際は立っているのもやっと――という相手を、ちょんと突いて倒しただけだ。正直、相手の力を見極めたとは言えない。
もっとも、護士組の追跡をかわして外壁を越えたのだ。それだけで敵は相応の実力を証明したことになる。たとえ、ヒジカ隊の不可解な行動があったとしても、だ。
なにせ、接近をケイスたち内部の護士組に察知され、迎撃態勢を敷かれた上で、それを超えて都市内への侵入を成功させたのである。しかも、工作員らしき数名を守り切ってのことなのだ。並の封貝使いにできる仕事ではない。
「さっきも言ったが――」
と、ラマチャンドランは座ったまま爪先でちょんと囚人の繭に触れる。
「もし殻というか繭というか、まあとにかくこの〈防御用封貝〉らしきが永久常時顕現型であるのなら、それもひとつの目安にはなろうな」
「永久常時顕現型って、結構珍しいですよね。護士組全体でも……ええと」
チノーが宙に視線を彷徨わせ、指折り続けた。
「玄武の隊士だと、オウバさんとミュラーさんでしょ。あと、青龍のネーネさんが持ってる投げナイフみたいなのもそうでしたよね? ダン君の〈ヘイズワイパー〉も着装タイプの常時顕現型デルタワンだし」
「どれも名うてよなぁ」
ラマチャンドランが片眉を吊り上げ、感慨深げに言う。
確かに、チノーが挙げていった隊士は、ケイスでも手こずるであろう手練の封貝使いばかりだった。また共通して、彼らの持つ常時顕現型の封貝は攻略が困難な非常に強力なものとして周知されている。
「常時顕現型は警戒せよ。セオリーですよね」
チノーはなにが嬉しいのか満面の笑みを浮かべて、師とケイスの顔を何度も見やった。
「まあ、ショウ・ヒジカたちは実際、少なくとも相手に手傷を負わせるくらいの交戦はしとるわけだ。詳しいところは奴らから聞き出せばよかろうて」
ラマチャンドランは言い、小声でぼそりと付け加えた。
「奴らが大人しく喋るかは別問題としてな」
その時、ケイスは小走りに近付いてくる気配に気付いた。
足音はひとり分。子どもか女性ほどの体格で、やや爪先にかかった体捌きからうかがい知れる身体能力は低くない。訓練された者の身の熟しだ。
「あっ、ヴァイコーエン隊長。探しましたよ」
現れたのは、予想通り小柄な人間であった。名をマオ・ザックォージ。朱雀二番隊で副長の座につく才媛だ。すなわちケイスの副官である。
名があらわすようにフ=サァン国の名門〈ザックウォージ家〉の出だが、名ではなく実力で今の地位を手に入れていたことは、隊の誰もが認めている。
腰まで伸びる黒髪を左右の側面で束ねた髪型が象徴するように、その容貌は極めて若々しい。まだ、あどけなさすら残るとすら表現できるだろう。誰が見てもチノーと同年代――二〇歳前後――であるように映るだろうが、その見立てはあらゆる意味で正しかった。マオ・ザックォージは当然のこと封貝使いであるも、外見年齢と本来の年齢が合致している珍しいケースなのだ。
「どうした、ザックォージ」
二番隊の同僚がそうするように、マオと呼んで欲しい。かねてからの要請を例によって無視し、ケイスは彼女を呼んだ。対し、こちらも例によって微かに不満げな表情を見せつつ――しかし、マオはそれを口には出さず、事務的に応じた。
「総長がお呼びです。今回の襲撃者撃退の件で話を聞きたいとか。司令室に来るようにと言づかっています」
「分かった」ケイスは頷き、玄武九番隊のふたりに顔を向けた。「では、当方はこれで」
「あっ、マオ様。相変わらずお美しくて羨ましいっす。ところで、〈赤繭〉の捕縛には貴女も参加されたんですよね」
新たな情報源の登場に、さっそくチノーが食いつく。一応、自国貴族の令嬢相手に敬意らしきものを払いながらも、あくまで研究第一の姿勢は崩さない。非礼は非礼なのだろうが、いっそ清々しさすら感じられる姿勢だった。
「ええ……貴女のいう〈赤繭〉が、そこの封貝使いの塊を言っているのなら」
やや鼻白んだようにマオが応じる。
「良かったらその時のことについて、現場の目撃談を詳しくお話して欲しいんっす」
「ごめんなさいね、チノー」マオはすぐに平静を取り戻し、上品な口調で告げた。「私は隊長をご案内しなくてはいけませんから」
「そっすか……」
「貴女たちも一緒に出頭してはどう? それなら道すがらお話くらいできるわよ」
「えっ、いや――」
思いもよらぬ提案であったらしい。チノーは戸惑ったように上官の顔色を窺う。
これに対し、シッド・ラマチャンドランは即決で応えた。ぱんと自分の腿を平手で叩き、小気味の良い音をたてる。
「そうよな。じゃあお前、ご一緒させてもらえ。どうせ、ここで雁首揃えていても有用なデータは得られん。今、話していた内容を含め、現状で分かってることを総長に報告してこい」
「隊長はどうされるんすか」
「あほう。俺まで行ったら封貝使いがひとりも残らんだろ。誰ぞ代わりの隊士が来るまではここに残らざるをえんわ。看守は今のところ一般兵だ。繭の中の囚人が万一暴れ出したら対応できんだろ」
「あ、そうか……そっすね。じゃあ、すみませんけどここはお任せします」
「おう。ちゃんと行儀良くするんだぞ」と、蠅でも煩がるように手を振りつつ、ラマチャンドランはケイスとマオに視線を転じた。
「そういうわけで、ウチの若いのをしばらくお願いしたい。何ぞやらかしたら遠慮なくガツンとやっていただいて構わんでな」
「了解しました。ラマチャンドラン隊長」
マオが生真面目に会釈で応える。その傍らで、「そんなぁ」とチノーが情けない声をあげていた。
去り際、ケイスは一度だけ奥の囚人を見やった。
なにが目的だったのかは分からない。誰かの指示を受けていたのか。それとも、自分の意志でやったことなのか。全ては謎のままだ。いずれにせよ、この封貝使い〈赤繭〉は明らかに勝ち目のない戦いを挑んだのだった。
――立場が逆なのではないのか?
不意にそう思った。そしてそのことに、ケインは少なからず衝撃を受けた。
約二年前、このインカルシを訪れたのは、確かに護士組の一員になるためであった。
しかしそれは、地位を欲したからでも、インカルシの平和を守りたかったからでもない。
〈フ=サァン〉屈指の実戦経験を持つ部隊に入れば、様々な戦場を経験できるはず。そう考えたからだ。
より強大な相手を向こうにまわし、生命の瀬戸際に迫った戦いに身をおける。
常に死と隣り合わせの日常を手に入れられる。
俺は、そのために護士組の――
「隊長?」
訝しげなマオのその声で、ケイスは我に返った。
気付けば一瞥で済ますつもりが、ほとんど凝視という具合で〈赤繭〉を見詰めていたらしい。
「――いや、なんでもない。行こうか」
取り繕い、踵を返してさっさと歩き出す。はい、と返したマオがなにが楽しいのか、弾む足取りで肩を並べてきた。
出入口の扉に近付くと、声をかけるまでもなく、脇の休憩所に控えていた番兵が気配を察して駆けだしてくる。彼に退出の意を伝え、解錠の合図を扉の向こう側へ送らせた。
また閂の錠がかけられていく金属の摩擦音を背中で聞きながら、鍾乳洞めいた通路を三人で歩く。
「――実際の話、あの四重ロックの扉って、封貝使いを閉じ込めておくに充分な備えだとは思えないんですけど。そこの所、おふたり的にはどうっすか?」
地上への上り階段に入ると、周囲に声を反響させながらチノーが言った。
並んで昇降できる幅がないため、自然、ここに入ってからは階級順に縦列を組むことになっていた。すなわちケイスが先頭、チノーが最後尾という並びだ。
「あれは駄目ですね」
真ん中からマオがばっさりと切り捨てた。
「市井でいうところの青級以上の力があれば、扉などないも同然に突破されてしまうでしょう」
「逆に言うと、白級までであれば、あれで閉じ込められるってことで?」
「いいえ。今のは〈リーサル・フォックス〉を除いた場合の話です」
「ははあ」チノーが面白がるような声をあげた。「つまり、〈Fox 1〉と〈Fox 2〉だけでどうにかしようとしたら――って仮定での話ってわけですか」
「そうです。〈切り札〉まで惜しみなく切るのなら、それこそ無印にもあれくらいの扉を破れる者は大勢いるでしょう。とは申せ、あらゆる〈リーサル・フォックス〉が破壊力に特化しているとは限りません。これは私などより、貴女の方が精通していることでしょうが――」
「そうっすね。さっき話題にしてた毒蟲を大量にばらまくスウォーム系とか、ああいうのは扉を破るのには向きませんしね。催眠系とかもそうっす」
ケイスは一足先に階段を上りきり、地上へと続く格子戸を開けた。ややあって、ふたりの女性陣が続いてくる。
広い地上階に入りそうすることが可能になると、自分には定位置を守る義務がある――とばかり、マオは再びケイスの右隣に並んだ。そうして数歩後ろをついてくるチノーを軽く一瞥しながら、言った。
「見たところ、牢の入口の扉はウーツ鋼に宝貝を混ぜた合金製のようでした。あれだけ分厚ければ封貝に対しても――少なくともただの鉄扉などよりは――耐久性を期待できるでしょう。そこに先程お話した相性の問題を考慮すれば、白級の中位くらいまでは苦戦しそうなペルナ使いもいそうです」
もっとも、青級ともなれば、相性問題などを力押しで押し切ってしまえるであろう。彼女はそう結ぶ。
「なるほど、なるほど。やはり、封貝使いからのご意見は参考になるっす」
では、隊長さんはどのようにお考えか。
思いがけずチノーから問われたケイスは、素直に思ったままを答えた。つまり、マオの考えに特別付け加えることはない、とである。
実際、この優秀な副官の見立てに口を挟む余地は一切なかった。
名門の出として高い教養を備えた彼女の分析には、常より高い信頼を置いてさえいる。
またケイス自身、あの扉を見た時、まさに「これは青級以上には無意味だな」というようなことを考えたのだ。経験則からその辺りの判断を下せる兵士ならば、誰もが一見、同じ結論を得るということのだのだろう。
ここでいう〈白〉だ〈青〉だというのは、統一戦争以降、各国で広く使われだした兵士の戦闘能力をあらわす等級だ。
戦場で遭遇した際の脅威の目安。商隊や行商人が護衛とし雇う時の信頼性。各ギルド内での格付け。現在でも幅広く使われている、教育を受けていない一般市民ですら知る尺度だ。
封貝を持たない者、保有していても経験が浅く使いこなせない者、戦闘に向かないタイプなどを〈無印〉として最下層に置き、封貝の取扱いに慣れた中級者を〈白級〉、熟達した小隊指揮官クラスを〈青級〉等と定めている。
インカルシ護士組は、最低でもこの〈青級〉以上でなければ入隊資格を認められていない。これがケイスやマオ、ショウ・ヒジカ、先程のラマチャンドラン老など副長・隊長クラスにもなれば、一〇〇人にひとりという突出した才を認められた〈百人長級〉から、戦略レヴェルとして最大限の警戒を敷かれる〈英雄級〉相当の実力が必要とされる。フ=サァン最強の実戦部隊と称えられる所以だ。
「すると、あの〈赤繭〉は当然――」
チノーが意味有りげに語尾を引っぱる。
その先を引き受けるようにマオが言った。
「あんな扉など簡単に潜り抜けてしまうでしょう。あれはもしかすると青級に及ぶ力を持つかもしれません。そうでなければ、たとえ一瞬であれ防壁を越えて市内に入り込むなどできは」
マオが不自然に口を噤んだのは、言葉に迷ったからではない。対面から近付いてきた固い靴音のせいであった。
護士組の本部はインカルシ本城内に設置されており、その城内は侵入者対策として迷路状に入り組んだ構造になっている。このため無用の遠回りを避けるためには、計算されたタイミングで一度、外回りをぐるりと取り巻く回廊に出なければならない。そして、どれも同じ姿をした出入口のひとつから、目的地に対して最も相応しい入口を性格に見つけ出して進むのである。
近付いてくるのは、そうした事情に精通した迷いのない足音であった。
その響きから、もう相手が誰かを察したのだろう。ケイスの隣で、マオが微かに身を固くするのが分かる。
やがて角を折れ、気配の主が姿を現わした。肩で風を切るような独特の歩法。あちらもケイスたちの存在を早々に見極めていたのか、口元には挑発するような薄笑みを浮かべている。
白虎四番隊の長、ショウ・ヒジカとその取り巻きたちであった。
方向からして、彼らは一足先に総長に報告を行っていたのかもしれない。だが、ケイスには関心のない話だった。城内の大動脈ともいうべき回廊は、内部連絡路としてはもっとも幅が広く、数人が横並びになっても手狭な感はない。構わずそのまま歩いた。特に目を合わせることもなく彼らとすれ違う。さしものチノーも口を開こうとしない。
そうして互いにやり過ごし一歩、そして二歩。
マオが緊張を解き、軽く一息つくのが聞こえた。
ショウ・ヒジカの足音がぴたりと止んだのは、まさにその瞬間であった。
「よォ、お手柄なんだってなあ」
どこか揶揄するような挑発的口ぶりであった。
ケイスは一瞬立ち止まる。
「いいよなあ、他人がお膳立てした獲物を横からひょいっといただくってのは。楽だし、手間もかからない。頭良いやりかたってやつだ。なあ、お前ら」
最後の一言は、引き連れた副官と隊士一名からなるふたりの部下に発したものだろう。彼らが調子を合わせたような笑い声をあげるのが聞こえた。
ケイスは取り合わず、結局、一度も振り返ることのないまま、再び歩を進め始めた。
それが癇に障ったのだろう。背後で複数、怒気が俄に膨れあがるのを感じた。うなじの皮膚がチリつく。
「――オイッ。テメエに言ってんだよ、ヴァイコーエン!」
荒々しい踏み出しの音と共に、ヒジカの怒声が迫り――
そしてそれは、なにか硬い音に掻き消された。
ケイスは表情を変えず、ゆっくりとそちらを振り返る。
表情を歪め、ケイスに掴みかかろうとするヒジカの右腕と、それを寸前で掴み止めたマオの姿がそこにはあった。両者は睨みを利かせ、その体勢のまま固まっている。
「チッ」
先に引いたのはヒジカだった。
忌々《いまいま》しげな舌打ちと共に、半歩下がりながらマオの手を振り払う。
が、もちろんそれは降伏を意味するのではなかった。
「ヴァイコーエン隊長さんよォ」
掴まれていた手首をひらひらと振りながら、彼が言った。
「コッチもあんまうるさく言うつもりはないがな。他隊が先にかかって仕留めかけてた獲物を、だ。横からかっさらって自分の手柄にしたってんなら、一言くらい挨拶があっても良いもんじゃねえか?」
「悪いが興味がない」ケイスは言った。「手柄がどうこういうなら、貴卿にお譲りする。総長にもそのように報告しておこう」
「ハッ――、カッコ良いねえ。クールだねぇ」
言葉とは裏腹に、唾棄するような口調であった。
「流石、できる隊長さんは違うわ。俺たちが必死に追ってた獲物程度は、譲って惜しくない小物でしかないとおっしゃる」
「必死に追っていた? そちらこそ謙遜がお上手でいらっしゃる。白虎四番隊ほどの手練がその気になれば、いつでも仕留められただろうに」
言葉の途中から顔色を変え始めたショウ・ヒジカが、言下のもと威嚇じみた怒声をあげた。
「あぁ? ヴァイコーエン、てめえ俺らがわざと逃がして、壁越えさせたってのか」
「違うとでも――?」
刹那、鋭く眦を吊り上げたヒジカは、しかし一転、唇をにやりと歪めた。
「俺には分かるって面だな、ヴァイコーエン殿よォ」
彼は軽薄な笑みを浮かべたまま近寄り、ケイスの肩に馴れ馴れしく手を回した。
「そりゃ、そうだ。お前は俺と同類よ。なあ? 立派な使命感に燃えてる他の隊士様には悪いけどよ。俺たちゃインカルシの治安なんぞ、どうだって良いんだ。そんなもの、端から求めちゃいない。だろ?」
ケイスは答えなかった。その沈黙をどう解釈したのか、ヒジカは我が意を得たりとばかりに捲し立てる。
「欲しいのは飢えを満たしてくれる獲物よ。お楽しみってのは、見つけた端から何でも狩っていけば良いってもんじゃねえ。待って、育てるのも肝心よ。分かるだろ? 収穫は一番良いタイミングでやらなくちゃあな――?」
「貴様ッ」
マオの鋭く凜とした声が、ヒジカに突き立てられる。
否、剥けられたのは言葉だけではなかった。いつの間に召還したのか、彼女は自分の〈細身剣〉を片手に、その切っ先をヒジカの喉元に突きつけている。
それが警告であることを示すように刀身は鞘に収めたままであったが、事がこれ以上に及べば躊躇はしない。そんな意思が感じられる振る舞いであった。
「隊長から離れていただきましょうか、ヒジカ隊長」
「おおっと」
ヒジカは降参というように両手をあげ、後方に大きく飛び退る。だが、その口元に浮かべられた深い笑みは、明らかに相手の神経の逆撫を狙ったものだ。
「お前もあんまり調子に乗るなよ、ザックォージ。これでも階級はテメエより上なんだぜ、副長さん」
ヒジカは唇を歪めたまま、双眸だけすっと細める。低く冷ややかな声音であった。
「名家の令嬢だかなんだか知らねえが、護士組みたいな実戦部隊じゃ訓練中然り、不幸な事故ってのがつきものなんだぜ?」
「フン――品性が安いと、挑発の言葉まで安くなるものか」
芸術的意匠のこらされた細身剣を一閃、空を切るヒュンという音を響かせマオは脅しを一蹴する。
「まあ、良いさ。総長は、捕らえた封貝使いの処分をもう決めたぜ。準備が整い次第、処刑だ。三日もかからんだろ」
言いながら、ヒジカは両の手をポケットに差し込んだ。ケイスたちに身体を向けたまま後ろ歩きに遠ざかりはじめる。
「だが、どうだろうな。護士組が守るインカルシに単身突撃しかけてくるような封貝使いだ。これで終わるとは思えねえ。終わってもらっちゃ盛り上がらねえ。土壇場で何がおこるか……楽しみだよなぁ、オイ。朱雀二番隊さんよ」
「戯言を」マオが鼻を鳴らす。「隊長、行きましょう。時間の無駄です」
「おうおう、健気にしたってくれる副長さんだな。だがなあ、ヴァイコーエン。お前、分かってるだろ。テメエの本質を理解してるのがどっちか。俺なのか、その嬢ちゃんなのか。お前には分かっているはずだ」
通路の先、ヒジカが耳障りな引き笑いを残し、悠々と引き揚げていく。
立ち止まったままのケイスを心配したのか、マオが気遣うような言葉をかけてきた。
「隊長。あのような妄言に耳を貸す必要などありません」
「ああ……」
なんとか返し、ケイスはまた歩き始める。
お前は俺と同類。インカルシの治安なんぞ――
ショウ・ヒジカの言葉が、脳裏にこびりついていた。
彼の指摘を決して否定できない自分に、ケイスはもうとっくに気付いている。
否、それは本来、誰かに指摘されなければ気付けないという質の問題ですらなかった。
そうだ。――ケイスは改めて認める。あの時、地下牢で〈赤繭〉を前にして、ようやく思い出した。なぜ、忘れていたのか不思議だが……
俺はインカルシを守ろうという使命に燃えて護士組の門を潜ったわけではない。決して、侵入者を斬り倒して喜ぶためではない。手柄をあげるためではない。
むしろ逆のはずだった。
自分こそ、五〇を超える手練のペルナ使いたち――まさしく護士組のごとき存在――を相手に回し、単身特攻をしかける側に回るべき存在なのだ。
本来、鎖に繋がれ檻に封じられているのはケイン・ヴァイコーエンでなければならなかった。
そのために――死に値する戦場を求めて、こんな辺境の地まで旅してきた。
最も死の確率の高い戦場。それを望んでいた。
「隊長? ヴァイコーエン隊長、どうかされましたか」
いつの間にか歩調が緩んでいたらしい。マオが物憂い気な表情で、ケイスの顔を覗き込んでくる。正確には長身のケイスの俯けた顔を、真下から仰ぎ見る構図だ。
「いや……」
「ショウ・ヒジカの話なら、本当にお気に止める必要すらないと思いますよ」
ケイスは遂に足を止め、ゆっくりと首を左右した。
「ザックォージ。奴の言っていたことは、あながち間違いでもないんだ」
「えっ?」
驚愕というよりは、言葉の意味を解しかねる、といった表情であった。
側ではチノーも似たり寄ったりの顔で、耳をそばだてている。
「俺はフ=サァンの人間じゃない。知っての通り、海を渡って最近、ここに来た余所者だ。ヒジカの言う通り、インカルシに特別な思い入れはない」
では、今もって全くの無関心なのか、と問われれば単純にそうとも言えない。少なくとも二年近くをこの街で過ごしてきたのだ。相応の思い入れくらいはある。
が、これもヒジカの指摘通り、フ=サァン人として愛国心を抱き、心からこの街を愛し、使命感に燃えて護士組の任務をまっとする――という熱心な隊士とは明らかな温度差があることは事実だ。
「インカルシを守るか、自分の生き方を追求するか。どちらかしか取れないような選択を迫られたとき、俺は後者を取るだろう。自身の欲求を優先しかねない。その意味で、同類だというヒジカの指摘は正しいはずだ」
「そんな――」
悲愴感漂う表情を浮かべると、マオはいやいやをするように首を振った。
「隊長は、そんなことありません。あんな……ショウ・ヒジカとは違います!」
その艶やかな黒髪にぽんと手のひらを乗せ、ケイスは言葉にできるだけ感情を込めた。
「ヒジカはともかく、俺もお前たち隊のメンバーのことは好きだ。義理もある。ヒジカと違って、意図してインカルシや仲間を危険にさらし、それを楽しむ火遊びのような真似をするつもりは、勿論ない」
しかし、と声にならない言葉が、胸のうちで続ける。
気付いてしまったからには――思い出してしまったからには、もうこのままでいることもできない。
「ザックォージ。もし、俺が護士組を抜けて、お前たちに迷惑をかけることがあるようであれば、その時は遠慮はするな」
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか。なんで、今になって」
彼女は顔を伏せ、腰の横で固く拳を握りしめた。関節が白く浮き上がり、その手は小さく戦慄いていた。
「元からだ」ケイスは静かに告げた。「俺は最初からこんな人間だった。この街に来る前から。この国に来たのも、単に死に場所を求めて漂いついただけだ」
なにか苦痛を噛みしめるような、あるいは嗚咽を堪えるような、そんな息遣いと短い沈黙があった。
「隊長に、何か大きな過去のようなものが……あるのは、気付いていました」
しばらくして、マオが絞り出すように言った。
「なんとなくですが、隊の仲間達もそれは気付いていると思います。でも……」
「あの〈赤繭〉を見て思ってしまったのが運の尽きだ。死に場所を求めていた俺より、それに相応しい動きをした奴がいて、それこそがこいつなんじゃないかってな」
「隊長、変です!」マオが弾かれたように顔をあげ、きっとケイスを睨み付けた。抗議するような口調で捲し立てる。「どうして今になって、急にそんなこと。あの封貝使いが現れてから、絶対変です。なんで、そんなに死に急がなくちゃいけないんですか。どうしてそんなに死にたがるの? 貴方は必要とされてるのにッ。何が……誰が隊長にそんなこと思わせたんですか」
それを一から説明するには、長い時間が必要だった。また、双方にある程度の覚悟と、同じくらいの忍耐が求められる。この場でそれを揃えるのが困難であることは、改めて問うまでもない。
「俺は若い頃から兵士だった。戦場を渡り歩いた。その内、ある戦場で死んだことになった。生きてはいるが、死人になったんだ」
「なんですかそれ」噛みつくようにマオが叫ぶ。「全然、分からない。分かりません!」
その剣幕に臆することなく、ケイスは淡々と続けた。
「……そんなことはない。良くある話だ。戦場では、肉片さえ残らない死に方が幾つもある。原型を留めない死体なんて珍しくもない。死者が大勢出た戦場で行方知れずになった兵士は、だから死んだものとして処理される。俺も、そんなありふれた例のひとつになったというだけだ」
「だからなんだって言うんです。貴方は、生きてここにいるじゃないですか。私は――少なくとも私だけは、出会った瞬間から今に到るまで、貴方を死人として扱ったことはありません。ずっと、生きた目の前の貴方だけを見てきたんです」
「しかし、死んだと伝えられた人間達は違う」
その一言で、チノーは何かを察したようだった。はっと息を呑む気配が伝わった。彼女が、ザックォージより比較的冷静であったことも幸いしたのだろう。あるいは、貴族の令嬢と違って、チノーはその点において少し世間を知っていたのかもしれない。
「俺は死んだ。もう帰らない。俺の帰りを待っていた連中はそう知らされたあと、それぞれの方法で、それぞれ必要な時間をかけて、それぞれ事実として認めていった」
ケイスの死を受け入れ、処理し、前に進み始めたのである。
ケイスのいない世界でどう生きていくかを考え、そのための生活を始めた。
「だから、実は死んでませんでした――と、後になって急に帰ってこられても困るんだ。そこにもう、俺の居場所はないんだから。死者はきちんと死んでいないといけない。蘇って感動のラストってのは、物語の中だけの話なんだ」
だから、とケイスは続けた。
「俺は死に直すことにした。戦場で、戦って、死ぬ。今度こそ確実にこの世から消える。そのために、それに相応しい場所を求めて今、俺は生きているに過ぎない」
もう言葉もない、というようにザックォージはしきりに首を振っていた。何も聞こえない、何も認めない。頑なな拒絶の構えだ。
ケイスは苦笑し、彼女の肩に軽く触れた。その体勢のまま、チノーに顔を向ける。
「どうやら、揃って総長に報告って雰囲気ではなくなったようだ」
「はは……」チノーはやや引きつり気味の笑みを浮かべる。「なんか、そっすね」
「すまないが、ザックゥージ副長を頼めるか? しばらくすれば落着くだろう」
「えっ……でも」チノーは力なく項垂れるマオとケイスの間でせわしなく視線を往復させる。「いいんですか?」
「戻ったら改めてきちんと話し合う。それまで見ていてやってくれ。すぐ戻る」
ケイスは返答を待たず、歩き出した。マオは反応を見せない。ただ、チノーが微かに「あっ」という小声を発するのだけが聞こえた。それでも引き留めようという気まではないようであった。どこか途方にくれたような嘆息の気配があった。
予告していたGW更新です。
今回はちょっと視点が変わって、新勢力サイド。
これは一度やっとかないと駄目だったので。
次回からは恐らく読者がもとめているであろう、主人公サイドに戻ります。
取り急ぎってことでほとんど推敲も校正もできてないので、後日、その辺はきちんとやって修正版出しますです。




