白虎四番隊
015
ナージャが作戦の失敗を悟ったのは、まさに「都市まであと少し」という所にまで迫った時であった。
それまでは極めて順調な道のりであったと言って良い。
出発から三〇分ほどで陽が傾き始め、それから急速に夜が近づいた。こちらの世界では、電気照明のような気の利いたものはない。中世のように、日の出と共に置きだして、日が落ちれば眠りに就く。そのため、完全に暮れてしまう前に小さな集落を見つけ出さねばならなかったが、これすらも計画通りにいった。オキシオたちの商隊が旅の際、いつも寄っている馴染みの場所まで予定通りに辿り着くことができたのだ。人口三〇人ほどの、本当に村にもなりきれないささやかな人里であった。
そこでは水を分けてもらうことに成功した。また、オキシオ愛用のナイフと交換で、生薬と包帯も得られた。これにより、毒を受けた娘に水を与え、怪我人の傷口を洗って縫合することができた。そうして包帯を綺麗なものに交換すると、挨拶もそこそこに慌ただしく再出発した。
それからは、城塞都市〈インカルシ〉まで一直線である。約二時間、ほとんどノンストップで飛び続けた。途中、進路が少しずれたため修正したが、大幅なタイムロスに繋がるほどではなかった。
やがて月明かりの下、視界の向こう側にうっすらと城塞都市を囲う石造りの防壁が見えはじめる。
あとちょっと――
目的地が見え、気が緩んだちょうどその隙を狙い澄ましたかのように、それは現れた。
まずは音だった。馬の蹄が未舗装の大地を抉る響きだ。それが右手、やや後ろ気味の横側から徐々に大きくなってくる。そうであれば良かったのだが、野生動物の群ではなかった。明らかに人間、あるいはそれに類する知的生命の制御下におかれ、統制された動きがもたらす音である。
なんだ、と思わず止ってしまったのが間違いであった。
無視して封貝を吹かせば、完全には振り切れないまでも、先に〈インカルシ〉へ辿り着くことができただろう。
だが、ナージャは地上二十メートル地点で静止した。目を凝らし、相手を見極めようとした。相手が動物なら、自分の封貝の方が速い。乗っているのも普通の人間だろう。ならばどうとでもなる。そんな計算もあった。
「いかん! なぜ、こんな時期に連中が……」
後ろで、〈*旋火綾《Fox 2》〉に掴まれているオキシオの叫びが聞こえた。
もちろん、彼は封貝によって強化された存在ではない。が、こちらの人間は総じて、大変に夜目が利くようであった。現実世界でも、アフリカの草原地帯などで生活する一部原住民などは視力が良いらしい。
こっちにはマサイ族って凄い連中がいてね。俺も、そしてナージャ、当然キミもそうだけど、封貝使いの視力は条件次第で彼らにも匹敵し得るんだよ――
とは、いつかクラウセンに聞かされた話であった。
そして、こちらの人間は三・〇から八・〇――時として一〇・〇を超えると言われるまさにマサイ族そのものの視力を持つことがあり、また暗がりの中でもよく物を見通せるようであった。少なくともオキシオは間違いなくその類だ。巨大な月が世界を青白く浮き上がらせてくれているとはいえ、まだ一〇〇メートルは離れているであろう相手の顔を見極めたらしきことからも、それは如実に窺える。
「ナージャ様、急いでこの場を離れるべきです!」
オキシオは声量を抑えつつも、鋭く警告を発した。が、すぐに一転、ほとんど聞こえないような小声で「いや、遅きに失したか……」と諦観めいたつぶやきが加えられる。
「奴らを知っているのか?」
ナージャは彼を一瞥したあと、再び眼下に視線を戻しながら訊いた。
近付いてくるのは武装した男性四名からなる武装集団であった。全員が金属製の防具――いわゆる甲冑をまとい、オキシオたちの商隊とは種類の違う精悍そうな馬に跨がっている。装備は全員が基調を同じくしていた。この辺り、あちこちから略奪してきて自分の物にしたのであろう、昼間の野盗たちの統一感のなさとは対照的だった。
「向かう予定であった〈インカルシ〉の正規兵団です」
緊迫感を持たせた口調で、オキシオが言った。
驚きはなかった。まあ、そうなのだろうな、というのが素直な感想だった。
最後尾の男が掲げている一見してそれと分かる軍旗からして、彼らがどこかの騎士団員の類であることは想像が付く。馬の全力疾走で激しくはためくその旗に刻まれた意匠は、白い虎の頭部を正面から描いたものであった。間違いなく、兵団を象徴する紋章なのだろう。
「インカルシ護士組の白虎四番隊です。間違いない」
「白虎か。そのまんまだな」ナージャは唇の端を吊り上げた。「で、それのどこが問題なのだ? 私たちが向かっている都市の兵隊なんだろう。事情を話せば、むしろ案内とかして貰えるんじゃないのか?」
ナージャの問いに、オキシオはとてもとても、と言うように首を左右した。
「インカルシ護士組自体は、どこにでもある普通の騎士団です。しかし、それが白虎四番隊であるというなら特別な注意を払わねばなりません。なぜなら、護士組の各隊は、良くも悪くもそれを率いる隊長の性格が全体に色濃く反映されるからです」
「白虎四番隊の隊長は、悪い奴なのか?」
「四番隊隊長ショウ・ヒジカは、狡猾で欲深い。それが我々のような商売目的の余所者の間で統一された見解です。彼は時々、こうして都市の外辺をうろついて、目に付いた商隊や旅の一座に接近します。そして色々と難癖を付けては袖の下を要求することで良く知られているからです」
ナージャにとって、「袖の下」という表現は耳慣れないものであった。
が、意味に大体の想像はつく。文脈からいって、それが金銭という意味でなかったらむしろ驚きだった。
つまり、四番隊・隊長のヒジカとやらは、街に出入りするための税金などとは別に、自分の小遣いにするための金、いわゆる賄賂を要求してまわっている。そういうことなのだろう。
「それは面倒そうだなあ。ぶっ飛ばして良いなら別だけど、それは駄目だってダーガにきつく言われてるし」
そもそもナージャは一文無しだ。袖の下だろうが上だろうが、要求されても袖なしには関係がない。そう思う。したがって、金銭的な意味でヒジカの存在に脅威は感じなかった。
だが、小悪党に付きまとわれると時間を浪費することになる。こちらは何としても避けたかった。カズマからも、一秒も無駄にしてはならないと強く言い含められている。
ならば、ここはオキシオの忠告に従い、逃げの一手か。
街が見えてきたこともあり、この辺りからは地上に下りて徒歩に切替えるべきであったのかもしれないが、仕方がない。どの道、都市を守護する衛兵にはこうして見つかってしまったのだ。
「オキシオ、飛ばすぞ。しっかり掴まっ――」
が、ナージャのその言葉は、意外なほど良く通る下からの声に掻き消された。
「そこの者、封貝使いと見受ける!」
隊長ヒジカではなかった。その半馬身後ろに右腕然として位置取る、副官らしき男が声を張り上げている。
「インカルシ護士組白虎四番隊、隊長ショウ・ヒジカの名において命じる。即時、武装を解除して降下し、都市に危険をもたらす意思がないことを証明せよ。繰り返す。ただちに降りて、害意なきことを示せ」
「――どうする?」
ナージャはオキシオだけに聞こえるよう問いを投げたが、彼が答えるより早く、またしても下から怒号が響いた。
「速やかに命令に従わない場合、武力をもって排除する」
その言葉が虚勢でないことはすぐに知れた。地上付近で、にわかに封貝の気配が膨れあがる。「Fox 1」、「Fox 2」、「Victor 1」が複数同時に口訣され、それぞれ封貝が顕現する。
白虎四番隊は、その全員が封貝使いなのだ。
というより、護士組とやら自体が封貝使いで構成された騎士団なのだろう。
〈*脚踏風火〉は世界で一つの封貝だけあり、かなりの速度で飛べる。その気になれば多くの封貝使いを振り切って逃げられるだろう。だが、今は病人、怪我人を抱えている状態だ。全速力では飛べない。
逃げきれない――
その事実を悟った瞬間、ナージャの背を冷たい汗が伝った。
多分、オキシオが逃げろと言い出した瞬間、何も考えずそれに従っていたとしても微妙であっただろう。
ナージャは観念して、ゆっくりと下降の構えに入った。もっとも、無条件降伏する気はない。その気なら一瞬で着陸できるが、あえてそうはせず思考のための時間を稼ぐ。
どうする? 先ほどオキシオに投げた問いを、今度は自問として繰り返した。
選べるのは「逃走」か「降伏」のどちらかだ。しかし、どちらも解決にはならない。
遁走しても逃げ切れず、降伏しようにも賄賂として渡せる金がないからだ。ただ無抵抗を示したところで、ヒジカは納得しないだろう。オキシオなら幾らか手持ちの金もあろうが、それは税金、治療代として何としても欠くことができないものだ。
「私は確かに封貝使いだ。でも、ただの通りすがりだ」
エスカレータの二倍は時間をかけて高度を下げつつ、ナージャは語りかけた。
敏感に反応した兵士たちが、封貝をぴくりと震わせた。
ナージャはその様子を冷静に観察していた。
〈射撃用封貝〉を構えているのは後方の二名だけだった。見たままの印象が正しければ、一人がブラスト系か狙撃系、もう一人が突撃銃系だろう。
前者のブラスト系は一度発射したら次までかなりの時間を要する上、大雑把にしか狙いを定められない。いわば大砲だ。本来は大規模な戦闘で集団を遠くから削ったり、施設の破壊などに向くタイプとなる。大味な分、射程が非常に長く、全タイプ中最大の火力を誇る。
特殊効果で自動追尾でも付いていなければ、この場ではあまり怖くない。ハンデ付きではあれ、〈*脚踏風火〉の旋回力なら多分、回避できるだろう。ナージャはそう踏んだ。
問題は、そうではなく狙撃系であった時だ。
こちらも、射程が長く破壊力が高いという点ではブラスト系と傾向が似てはいる。が、狙撃系には集団を丸ごと攻撃するようなことはできない。面ではなく点。攻撃範囲を絞り、個を狙うタイプであるからだ。強みとしてはブラスト系とは真逆、最も精密な射撃ができることで知られている。もしこちらであった場合は、多少厄介なことになるのは覚悟せねばならない。
そして、もう一人が持つアサルト系。最大の懸念はこれだった。
いわゆる中距離タイプとして認知されるこの封貝は、威力、射程共にブラスト系・狙撃系と比べると随分と見劣りしてしまう。他方、一秒間に平均数発から二桁という次元違いの連射速度を誇るため、全く侮れるものではない。加えてある程度なら、精密射撃もこなせることが多い。ものによっては狙撃の真似事すら可能なほどだ。
これらの特性を活かし、個を蜂の巣にすることもできれば、大量の弾丸、あるいは光弾をバラ撒き、小さな集団をまとめて攻撃することもできる。相手に反撃の隙を与えずに制圧してしまう例もあるタイプだ。威力と速度、射程のバランスが非常に最も優れ、実際、この距離感だと何より脅威となるのがこのアサルト系になるだろう。
流石に正規兵。編成バランスが取れている――
ナージャは苦々しく思いながらも、表情には出さずに言葉を続けた。
「旅の途中、怪我人を拾ったのでお前たちの街まで運んで、治療を受けさせたい」
言いながら軽く身体を傾け、おぶっている毒を受けた娘の様子を見せた。
「ただそれだけだ。私たちにインカルシを侵害する意思はない」
「詳しく聞こう。まずは降りてこい」
応じたのは、またしても副官らしき隊士であった。この小洒落た口ひげが鼻につく壮年の男は、刀剣型の白兵用封貝を召喚していた。
後ろからブラスト系が睨みをきかせ、アサルト系が連射で相手を釘付けにしているところへ、この副官が間合を詰めて喉元をかっさばく。
まさに教科書通り、ガチガチの基本戦術だ。
――その点、こっちはどうだ?
ナージャは考え、危うく皮肉に笑みを作ってしまいそうになった。
怪我人を落っことしてしまわないよう、〈*旋火綾〉は常に有効化しておかねばならない。イコール、同時使用ができない攻撃用封貝は封じられたも同然だ。
しかも、〈*旋火綾〉は荷物の運搬に手一杯で、本来の仕事である防御に回すことができない状態だ。かてて加えて、この割れ物注意のお荷物を壊してしまわぬよう、移動用の〈*脚踏風火〉もフルスロットルでは吹かせないときている。
つまり、まともに使える封貝は一つとしてない。
逃げられない。守れない。戦えない。――金もない。
「詳しく話してる暇はない」
ナージャは言い放った。切羽詰まった感じを演出する必要はなかった。自然と、その色が口調に乗ったからだ。
「一人は意識不明の重体で、もう一人も猛毒の矢を受けている。何度も言うが、私はこいつらを街に運びたいだけだ。それが済んだらさっさと出ていく。大人しく行かせろ!」
最後は威嚇めいた怒声になっていた。
「インカルシに悪意持つ者が怪我人や病人の搬入を装って侵入をはかろうとした例が、これまで一度もなかったと思っているのか?」
副官が嘲笑を浮かべて言う。剣先をクイと下に引っぱって、少し焦れた口調で続けた。
「良いからさっさと降りてこい。撃ち落とされたいか? 時間を無駄に使っているのは貴様らの方だ」
「お前たちに渡す金目のものはない。怪我人の傷を見せてそれが本物だと証明されれば、納得してすぐに私たちを街に入れると約束するか?」
「我々はいかなる約束もしない。それは任務ではないからだ。お前たちのような者から、インカルシに害をもたらさないと約束を得ることが護士組の使命である」
「分からず屋め」思わず歯噛みする。
「ならば、街までご同行願い、我らの言動をつぶさに監視されるがよろしい!」
と、後ろからオキシオが叫びを上げた。その声は逼迫したこの状況下、悲痛ささえ滲ませている。
「なんぞ不審な素振りを見せたなら、その時は武力なりなんなりで制圧していただいて結構」
「お前たちは、己を客観視するということができないらしいな」
再び冷ややかに見下す視線と共に、髭の副官が鼻で笑う。
「夜闇に紛れ、得体の知れぬ封貝使いが先住民族をつれて都市近郊をふらついているのだ。既に充分すぎるほど不審なのだよ、貴様等は」
言って、にわかに表情と声音を険しくした。
「問答はもう良い。三つ数えるうちにこれへ降り、我らに従え。でなければ攻撃する」
「おい――」
ナージャが抗議を声をあげかけるが、副官はそれを一蹴した。手振りで後方の部下達に指示を出し、発砲の構えを取らせる。
これで、もう説得の可能性はなくなった。三秒後、連中は間違いなく攻撃を開始するであろう。それを悟ったナージャは、無駄と知りつつ感情のまま怒鳴りあげた。
「こいつらが先住民族だとして、なんだ。命の価値が下がるとでも言うのか。知ってるぞ。それを、差別というのだ」
私は、穏便に事を済まそうと最後までがんばったのだぞ。胸のうちでカズマに言い訳しながら、言葉を継ぐ。
「ダーガにお願いされて、私は良いことをしている。人助けだ。死にそうな奴の命を助けるんだ。それを邪魔するお前たちは悪い奴らだ!」
「ひとつ――」
髭の副官が数えた。
アサルト系とブラスト系がすっと腰を落した。その銃口付近に封貝の力が収束していくのを感じた。超級と呼ばれる程、飛び抜けた力こそ秘められてはいない。だが、平均的な能力は充分に備えた封貝なのだと分かる。
満足に防御もできないまま喰らえば、大きなダメージを受ける。少なくとも人間が銃で撃たれ、肉体に鉛弾を埋め込まれるのと同程度には。
「ふた――」
またカウントが進められようとした矢先、ナージャは決断した。
ほとんど予備動作を起こさず、〈*旋火綾〉を思い切り振り抜いた。オキシオと重傷の男を背中側――インカルシの街へ向けて思い切りぶん投げる。と同時、〈*旋火綾〉の効果をキャンセルしてフォックス系の口訣に入った。
だが、相手も訓練された兵士であった。脊髄反射かと思わさせる速度でトリガーを絞ってくる。アサルト系の発砲音が夜の静寂を切り裂き、周囲に轟き渡った。〈*旋火綾〉がただのマフラーと化したほとんど一瞬の間隙、刹那の無防備を逃さず、それは正確にナージャをポイントしていた。
直後、ナージャの体内で、複数の灼熱感が跳ねた。内臓がぐちゃぐちゃにかき回されるような衝撃を肚に感じる。痛みより、溶ける寸前まで熱され、真っ赤になった鉄の棒を突き立てられたかのような、殺人的ともいうべき熱さを感じた。
逆流してきた血液が、たちまち口内を内側から満たす。こふっと小さく咳き込んだ習慣、それは口の端から流れだしていった。
ナージャはそれでも無理やり声にした。
「〈*乾坤圏《Fox 2》〉――ッ」
円盤型の封貝を二つ同時に召喚し、地上に向けて真っ直ぐ叩きつけた。隊士を直接狙うことはしなかった。というより、そんな余裕はなかった。元より、相手を殺すことが目的ではない。あくまで、逃げるための一瞬の隙が作れれば良い。
ただし速度については、野盗の時以上の微妙な調整が求められた。
全力で放てば、この封貝は音速を容易に超えてしまう。正確には分からないが、恐らく〈熱の壁〉さえ。
そんな速度で超エネルギィを秘めた封貝を大地へ叩きつければ、それこそ本当に空対空ミサイルか、それ以上の爆風と破砕を生んでしまう。
その際、生じるであろう衝撃波は、封貝使いにとってこそ微風のようなものかもしれない。が、普通の人間にとっては間違いなく致死の暴風となるだろう。
結論として、一対の〈*乾坤圏《Fox 2》〉は馬の墓穴を掘った時とは比較にならない、大型爆弾の炸裂にも匹敵する破壊エネルギィを生み出した。大地を断ち――想定通り――莫大な量の土砂を周囲に巻き上げる。その爆風はナージャ当人すら巻き込んだが、これもやはり計算のうちだった。これ幸いと真っ向から衝撃波を受け止め、それを推進力に変えてその場を急速離脱する。
一方、流石に白虎四番隊は、不意の一撃に対しても迅速かつ的確に反応していた。円輪が地面に着弾する寸前、彼らは既に散開を始めていた。と同時、防御用封貝を呼出し、土砂、衝撃波、轟音、そして破壊エネルギィを完全にシャットアウトする。
だが、それだけでも一瞬の隙を生み出すには充分といえた。
堪えてください――
ぐったりとした背中の娘に無言で呼びかけつつ、〈*ナディア〉は〈*脚踏風火〉の出力を上げる。脇目も振らず、インカルシに向けて加速した。
その間、〈*乾坤圏〉は自動追尾モードに設定し、白虎四隊を足止めをさせる。それも、先ほど放り投げ、まだ宙を舞っているオキシオたちに追いつくまでであった。彼らを補足するや、〈*ナディア〉は〈*乾坤圏〉を引っ込め、と同時、〈*旋火綾〉に交代させた。その時にはもう、〈*旋火綾〉は主の意を酌み、自らその手を伸ばしてオキシオたちの空中回収を終えている。
ほっとする間もなく、〈*ナージャ〉から人格の主導権を渡されたナージャは、背中に殺意を感じ、顔を強ばらせた。
背負った病人を護るため、咄嗟に身体を反転させた。そのアクションの完了とどちらが速かったか。また雪崩を思わさせる地響きめいた轟音が空間を引き裂いた。アサルト系封貝が二射目の火を吹いたのだ。オキシオたちを空中捕獲する時、一瞬、速度を落すことを見越されていたのだろう。まだ、追手からは数百メートルしか距離を稼げていない。確かに、それは未だアサルト系の有効射程内であった。
届いた最初の一発こそ、左耳を掠めるように通り過ぎていくだけで済んだ。
しかし、アサルト系の攻撃は単発では終わってくれない。縦に数字の1を描くようにバラ撒かれた弾丸の大多数はなんとかナージャを逸れていき――しかし、そのうち幾つかは「爆発したのか」と思わせる衝撃を左の肩口に残していった。
屈強な二人の大男から同時にドンと突き飛ばされたような重さ、衝撃。そして例の灼熱感がナージャの神経を焼いた。
「……ぅ……ッ」
まばたき一つするほどの極短時間、ナージャは意識を手放した。ぐらりと空中で身体が傾く。それでも意地で完全失神は耐えた。
恐らく、もらったうちの二発は身体を貫通している。だが、幸いにもオキシオたちにその流れ弾は到っていないようであった。
だが、詳しく確認している暇はない。自分の怪我の具合さえ、正確に把握していられない。
インカルシまではもう一キロ前後のところまで迫っている。怪我人たちを殺してしまわない、ぎりぎりの速度で飛べば三〇秒も必要ないはずであった。
が、それが遠い。
武装した四人の特殊部隊員から、丸腰のまま走って三〇秒間逃げ切れ。途中、特に身を隠せる場所はない。――このような難題を押しつけられたら、恐らく現実世界の誰もが「到底、生き延びることはできない」と答えるだろう。
状況は同じだった。
否、それ以下であった。なにせ、こちらは抱えている三人の非戦闘員を守り切るというオプションまで達成する必要がある。
だが、なんにせよやらざるを得なかった。
「オキシオ――しばらく、辛抱して……貰うぞ」
スムーズに言葉が出てこない。それでも、掠れた声で言った。
返事を待っている暇はない。ナージャはすぐさま、〈*旋火綾〉に掴ませていたオキシオを解放した。支えを失った彼の体躯が一瞬、重力から解き放たれたようにその場で静止し――直後、思い出したように自由落下を開始する。
ナージャは首を伸ばし、落ち始めた彼の腰帯――ベルトのあたりに食らいついた。なんとか、イメージ通り上手くいった。問題は思ったより負荷を大きく感じたことだが、是非もない。歯を噛みしめて重みに耐える。
撃たれた左腕はもう完全使えない状態だった。右手は、臀部を下から押し上げるような形で娘を背負うのに使っている。もう、自由なのは口くらいしかないのだ。
「ナージャ様――ッ?」
狼狽したようなオキシオの声が聞こえたが、もちろん言葉を返すことはできなかった。
彼には気の毒だが、このままクレーンゲームのぬいぐるみよろしく、街まで宙づりで我慢してもらうよりない。その分、空いた〈*旋火綾〉の片側は防御に回せる。現状、これがベストなフォーメーションであるはずだった。
直後、早速ナージャの正しさを証明する機会が到来した。
銃声ともまた違う奇妙な轟音が連続し、百人からのカメラマンが一斉にフラッシュ撮影を始めたかのように世界が眩く点滅する。
間髪入れず、唸りを上げて飛来した弾丸の群を受け止めてくれたのが〈*旋火綾〉だった。
ナージャとオキシオ達に命中する分だけ正確に、そして最小限の動きで弾き返していく。
それでも、ナージャの中に安堵が芽生えることはなかった。
まだ逃げ切ったとは到底言いがたい。それもあるが――
この追撃は、明らかに甘い。
事実、先程から飛んでくるのはアサルト系封貝の光弾だけだった。実質、1人しか動いていないのである。ブラスト系が性質上、待機しているのは分かる。が、残る二人――隊長のショウ・ヒジカや副官はなぜ動かないのか。
背後の気配から、白虎四番隊がつかず離れずの距離を維持したまま、まるで爆弾を遠巻きにするかのような慎重さで追ってきていることは知れていた。このままでは、先にナージャがインカルシの街に到達してしまう。それを何としても阻止するのが護士隊の任務であり、血眼になって仕留めにかかってくるのが当然とばかり思っていた。
考えが読めない。
一つ確かなのは、必死に追いかけているが追いつけない、というのではないことだ。何か考えがあって、あえて彼らがそうしているのは間違いない。
それは、隊長ヒジカが召還した霊獣型封貝ひとつとって見ても明白である。火眼金睛獣と呼ばれるその赤目金眼の生ける封貝は、飛行能力こそないが超高速鉄道のような速度で大地を疾走できる。その気になれば、深刻なハンデを負う今の〈*脚踏風火〉になど五秒で追いつくだろう。
どうやら奴らは本当に金を持っていないらしい――。ショウ・ヒジカはそう悟り、やる気を失ったのか。殺しては金にならないと単に手加減しているのか。それとも、なにか思いもかけぬ理由が他にあるのか――
爆発、爆音、激震、閃光。街のすぐ側でこれだけの騒ぎが起こっているのだ。既にインカルシ内部に詰めている衛兵たちも、ナージャの存在に気付き、臨戦態勢に入っていることだろう。
あるいは、そういった混乱を街に直接持ち込ませることが、なにかヒジカの利益につながるのかもしれない。相手が街に深刻な被害をもたらした大悪党に育つまで待ってから縄にかけよう。そのように考えている可能性もある。単純に、まだ明らかになっていない奥の手封貝の存在を警戒しているだけ、ということも考えられなくはない。正確なことはなにも分からない。
なんにせよ、これは好機ととらえるべきだった。
恐らく、ナージャの身体にはもう一〇個近い風穴が空いている。肩を撃たれた左腕は、自分の意志とは無関係にだらりと垂れ下がっており、もう感覚がまったくない。胴と繋がっているのが実際見えていなければ、被弾時に引き千切れて吹っ飛んだのだと勘違いしたことだろう。
右足もいつからか奇妙に動きが鈍く、膝小僧あたりがひっきりなしに強く痛むが――今となっては、攻撃を食らって怪我をしたものなのか、高ぶった神経の勘違いなのかは判別がつかない。
最も多くの弾丸に抉られた胴体に到っては、さながら穴だらけのドラム缶のようだった。水やガソリンの代わりに、あちこちから鮮血が噴き出し、それは現在進行形で止る気配がない。
肺をやられたのか、肋骨を砕かれたのか、その両方なのか――とりわけ酷いのが呼吸の異常だった。鼻は錆びた鉄塊でも突っ込まれたように血の臭いで満たされており、奥の方には実際何かが詰まったような感覚があった。もはや空気の出入りどころではない。噛みしめた口の端からごぼごほと血を吐いて、代わりにわずかばかりの息を吸う。それが、今のナージャにとっての呼吸であった。鏡がなくとも、チアノーゼで唇が紫に変色しているであろうことが分かる。
もう一つ、血が失われる度、体温が失われていくのも確実に感じられていた。身体の芯から悪寒にも似た震えが湧いてきて、収まらない。視界が時々、ぼやけて歪むようにもなっていた。否、ぼやけはじめているのは意識の方か――
どっちでも良い。もう長くはもたない。
幸いにも、霞みはじめた視界の先にようやくインカルシの外壁が迫り始めつつあった。あと十秒の辛抱か。二十秒はかかるのか。いずれであれ、積み上げられた石のディテールが見て取れるほどには近付いている。物見櫓の上から、何か盛んに呼びかける声も聞こえる。
だが、それは囁き声のようにか細く、風呂場で反響しているように歪んでいた。
彼ら――インカルシ内部の護士組なら、事情を話せば保護してくれるかもしれない。誰もがショウ・ヒジカのような小悪党ではないだろう。だが、もうそれを試みている時間はなかった。「かもしれない」に賭ける余力は残されていない。
今度は前方から、複数の封貝の気配を感じた。最初は、後ろにいたはずの白虎四番隊に回り込まれたかとも思った。がすぐ、素直にインカルシ内部の別部隊なのかもしれない、と思い直した。もう、その判別もつかない。ただ、どこか他人事のように攻撃を受けていることだけは認識できた。
一枚、薄膜がかかったような視界の中で、自分を守ろうとしてくれる〈*旋火綾〉のせわしない動きが見えた。――見えた、気がした。
が、全てはさばききれなかったのだろう。次の瞬間、ナージャの右の腰骨辺りを、横から強烈な衝撃が襲った。体重一二〇キロの巨漢が真横からぶちかましでも喰らわせてきたかのような圧力と重さが全身を貫く。
内蔵が揺れひしゃげる。身体が傾ぐ。顎が緩み、オキシオを放してしまいかけた。
だが、なんの奇跡か、この横っ面をひっぱたくような衝撃こそが、ナージャの精神をごく短時間だけ目覚めさせた。眼前を覆っていたヴェールが消し飛び、視界がクリアになる。
その時にはもう、ナージャは見えないサッカーボールを蹴り出すように、左足を振り抜いていた。靴飛ばしの要領で、片方だけ〈*脚踏風火〉が遠ざかっていく。
狙いは勘に任せた。確か今、こっちから弾が飛んできた気がする。そう思った方へ、そちらを向くことすらなく放った。
それは未だ試したこともない攻撃方法であった。機動力を失ってまで期待するほどの威力は全くもって見込めない。故に通常、誰も試そうとすらしない。そんな、愚かで無意味な悪手だった。
しかし、他にもう切れるカードなどないのだ。
結果は気にもかけなかった。ただ、残った右の〈*脚踏風火〉のスロットルを開けて、速度を上げた。それは大した加速ではなかったが、緩急の差が護士組たちを上手く幻惑してくれたようだった。ナージャとオキシオたちは、地上二〇メートル、厚みも二メートルはあろうかという石組みの外壁を一気に飛び越え、遂にインカルシの内部に入りこんだ。
もちろん、これは街の保安を司る護士組にとって、到底看過しがたい事態だった。彼らの怒号が方々から浴びせかけられる。
その全てを無視して、ナージャはふらつきながら高度を下げていった。そこが街のどのエリアなのかは分からない。だが、護士組から遠く、暗く、なるべく入り組んだ場所へ――。そのことだけ念頭に置き、ほとんど墜落同然に着地した。
口を開き、咳と一緒に血の塊を吐き出しながら、オキシオを放した。気付けば、ナージャは膝から崩れ落ちていた。右腕からも力が抜けた。ずるずるとすがりつくように、背負った娘が滑り落ちていく。〈*脚踏風火〉でぐるぐる巻きにしていた怪我人の男も、その場に下ろした。
――今や、怪我の度合いじゃ、私の方が上だな。
血の泡を口の端に浮かせ、激しく咳き込みながらナージャは皮肉に思う。
「ナージャ様! なんという……私たちのために……」
オキシオが血相を変えて詰め寄ってくるのが分かった。
小刻みに震える右手を横に払い、ナージャはそれを制した。
「……ぉ声だす、な……ぃけ……無駄…なる前に……」
意思の力を総動員して顔を上げ、言いながら笑んで見せた。
絶句の気配が伝わる。「しかし……」と、弱く囁くオキシオの声が聞こえた。
「……ックス……ワ、ン……」
息も絶え絶え、ナージャはもはや声にならない声で唱えた。
手元に出現した槍を右手に掴んだ。
それを杖代わりにして――二度ほど転倒しかけながら――なんとか立ち上がった。
自分からこの場を去らねば、オキシオは動けないだろうと思った。
それに、このままでは護士隊がオキシオたちに殺到するだろう。掴まれば拘束される。怪我人がいるからといって、あちらの現実世界のように急患として治療施設に送って貰えるとは限らない。人権という概念すら希薄な世界だ。
目立つ封貝使いが出ていって、兵士らを引きつけなければならない。
もう、それくらいしかできそうにない。
「……私が、おとり……に……あな……た達は、行って、くださ……」
そちらを見ず、〈*ナディア〉はそう告げた。それから〈*脚踏風火〉を再召還した。左右揃ったそれと、炎を纏った目立つ槍を手に飛び立つ。
奇跡の時間は去りつつあった。再び視野は狭まり、墨汁のシミがじわりと滲むように闇が視界の端から中央に向かって浸食を始める。そこに、ぐにゃりとストレッチまでもが加わり、もはや肉眼はほとんど情報入力装置として機能していない。
加えて、寒かった。震えで槍を上手く掴んでいられない。
せめて、リーサルフォックスが使えれば――
体勢が万全であれば――
しかし、今はそれを求めても詮無きことだった。実戦とは多くの場合、こちらの準備や態勢とは関係なく始まる。その中で何ができるかこそが実力。クラウセンにもそう教えられていた。
「カズマ……」
ほとんど吐息と区別できない声で、〈*ナディア〉は囁いた。
二桁に及ぶ封貝の気配が、自分を取り囲んでいるのが分かる。それはたとえるなら、蟲の羽音のようなものだ。位置や距離や数、種別。大体のことは見ずとも知れる。それらの幾つかは猛烈な速度でこちらに迫り、既に目と鼻の先――白兵戦の距離まで肉薄しつつあるのも感じられた。
もう、構えも取れない〈*ナディア〉には、どうすることもできなかった。
ただ、結末を待つしかない。それを受け入れざるを得ない。
「早く……わた、し……を、見つけて……カズ、マ……」
声なき声でなんとかそう紡いだのを最後に、〈*ナディア〉の意識は途切れた。
いやね、falloutにですね。手を出してしまったわけでして。
……失敗だった。気付くと執筆の時間がない罠。




