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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
15/64

ホワイト&ホワイト

  014


 カズマはすまし顔で歩くと、幌馬車ほろばしゃの後部に向き合う位置で足を止めた。

 元の主から破棄されてしまったこの哀れな馬車は、現在、「他の通行人の邪魔になるから」と街道の端に移動させられている。

 傍目はために見れば、酔っ払った馬の暴走によって森に突っ込み、樹木にぶつかってようやく停まった――といった絵面だった。

 左側の車輪が脱落し大きく傾いていた荷車は、ナージャの〈*火尖鎗フォックスワン〉により右側の車輪までもが吹っ飛ばされ、今や「車」の要素を完全に失っている。ただの荷台と化したことにより、水平だけは取り戻した格好だ。

 その荷台の縁に、エリックがぼんやりと腰かけている。短い間に何度も生死を分けるシーンを演じることになった彼は、実際、身も心も疲弊しきっているようだった。

「では、これより、第一回状況総括(そうかつ)を行いたいと思います」

 カズマはひとつ咳払せきばらいの真似まねを置き、おごそかに宣言した。エリックがぱちぱちと御座おざなりに小さな拍手で応じる。

「えー、我々はこの森に置き去りにされてしまいました!」

 カズマはできるかぎり嬉しそう聞こえるよう言った。

「僕とエリックさん以外、人間はいませぇん」

 言葉と同時、お手上げというように両手を高々とかかげてみせる。ほとんど自棄やけだ。

「僕たちはヨウコを助けるために異世界こちらに来ましたが、今はむしろ助けを求めています!」

「……元気だね、カズマくん」

 いささかゲンナリとした顔でエリックが言った。その声音はもはや弱々しいを通り越してれかけている。

「ロウソクは燃え尽きる寸前、一瞬だけ強く輝くと言いますしね」

 カズマは両肩を力なく落すと、ひとつ大きく息を吐いた。それからエリックに少し場所を譲ってもらい、彼と隣り合わせて荷台の縁に腰かける。そしてまた深く嘆息した。

 場に、気だるい沈黙がおりた。

 ここにナージャでもいれば、また状況も違ったのだろう。

 だが今、彼女は不在である。

 ――事は二〇分ほど前にさかる。

〈*旋火綾マフラー〉の左右に重傷者とリーダーをそれぞれ巻き取り、中毒状態の娘を抱き上げるか、もしくは背負うかして〈*脚踏風火ヴィクターワン〉で都市まで飛ぶ。

 このプランを提案した瞬間、カズマはいきなり握りつぶさんばかりの膂力りょりょくで両腕をつかまれた。恐るべき速度で間合を詰めた、商隊の長である。

「その話、まことであるか。まだ、我々に救いの手を差し伸べて頂けるのか!」

 額に青筋を浮かせ、血走った目を剥きだしにしての追求であった。

「ええ……まあ、はい」

 カズマは笑顔をひきつらせつつ、顔を少し引いた。腰の方は腕を掴まれた時点で既に引けている。

「可能な限りはお力添えしますので、あの、もう少しお手柔らかに扱っていただかないと僕、泣きそうなんですけど……」

 言葉の後半部分は届かなかったらしい。オキシオと名乗った商隊長は感激にむせび泣きそうな勢いでぶるぶると全身を震わせると、カズマを握り締める手により一層の力を込めた。そうした上で、ぶんぶんと上下運動まで加えてくる。拷問だった。

 悲鳴を何とか飲み込んだカズマは、素早く策をった。この話を聞かない馬鹿力から一刻も早く解放されるための手立てだ。

「――で、ナージャ。キミの封貝は、僕が今言ったみたいに三人抱えた状態で、馬より速く飛ぶことって実際できるのかな」

 本人に確認の言葉を送ると、期待した通り、オキシオはカズマの腕を放り投げてそちらへ興味を向けた。

「――ん、確か馬で一日半の距離だっけ?」

 ナージャが小さく首を傾げて言った。

 疑念や不安からそうしたというよりは、「3+5の答えが分かるか?」といった類の出題に困惑している、といった感じなのだろう。

「それなら怪我人を気遣いながらゆっくり飛んだとしても、二時間か――まあ、余裕をとって三時間見ておけば充分だと思うけどな」

 瞬間、「おおッ!」と商隊長が歓喜の声をあげた。

 だが一方で、カズマはかげで小さく眉間にしわを寄せていた。

 負傷の深刻度を考えると、それでもぎりぎりのラインであるように思えたからだ。

 もっとも、死が確定していた未来に一石を投じられるのは事実だ。なんとか命に望みを持てる。その意味において、オキシオの喜びようも間違いとは言えなかった。

「じゃあ、ナージャ。悪いけど、頼めるかな?」

「私は構わないけど」と再び小首を傾げ彼女は続けた。「ダーガは大丈夫なのか?」

「ん――?」

「だって、もうすぐ夜になるぞ。ダーガとエリックは、ふたりでここに残ることになる。さっき上から見た限りじゃ、この森は結構深い。野生動物もきっと沢山いるぞ。こっちの獣は熊より大きくて凶暴なのも多いんだ」

「えっ……そうなの?」

「ならば、私どもの方から誰か残しましょう。野営の仕方も心得ておりますれば」

 オキシオが申し出る。

 が、これは少し考えれば無理な話だと分かる。

「オキシオさんは道案内とか病院の手配とか交渉とか、そういうので絶対必要だからナージャと一緒にいく三人のうちに入れないと駄目ですよね。それとも、簡単に指示しておけばナージャに任せても問題なかったりしますか?」

 カズマの問いに、しばし黙考した商隊のおさは、苦悶にも似た表情を浮かべてゆっくり首を左右した。

「――これから向かう〈インカルシ〉という街は巨大な城塞都市です。中に入るためには、門の前で所定の税を支払い、行政手続を取らねばなりません。これは私がいた方が、遥かにスムーズにいくでしょう」

 また彼は、都市には治安維持を任務とする衛兵えいへいがいるのだ、とも指摘した。

 街を守る彼らの中には、複数の封貝使いが存在する。見通しの利かない夜、ナージャが強く封貝の気配をただよわせて不用意に接近すると、これを刺激することになりかねない。

 よって都市に近付いたら、適当な場所で封貝の出力を弱めなければならない。場合によっては少し手前で降り、徒歩に切替えることも考える必要がある。

「その見極めは、確かに自分のような慣れた人間がいないと難しいかもしれませんな」

「飛んだまま街を囲む壁を超えて、直接、医者の所までいくのは駄目なのか?」

 ナージャがいかにも彼女らしい発想を披露する。

「間違っても、そのようなことはすべきでありません」

 厳かにオキシオはそう告げた。続く説明によれば、それは立派な違法行為であるという。

 見つかれば面倒なことになる。と言うより犯罪者として間違いなく罰せられる。

「カズマくん。お金の問題はどうなんだろう?」

 エリックに指摘され、カズマはそのままバケツリレーの要領で問いを通訳した。

 受取ったオキシオが、また渋面を作る。

「それは――実際の所、大きな懸念の一つです。解毒や致命傷に近い大怪我の治療には大金がかかります。しかし、我々は商品として運んでいた荷の多くを奪われてしまいました。残った分だけでも早急に金に換えたいところですが、怪我人を優先する以上、それらを封貝ペルナ使い殿に運んで頂くわけにもいかない。物理的にも無理でしょう。商品の多くは反物たんもののように大きく重い物ですから」

 これはその通りだった。

 ナージャは重傷者二名とオキシオの三名を抱えるのに手一杯で、荷物までは持ちきれない。患者は運べるが、換金用のアイテムは無理というわけだ。

「幸いインカルシの街には、付き合いの長い医療師がおります。彼になら事情を話せば後払いで治療を頼めるかもしれません。もちろん、それでも頭金のような見せ金は必要ですが――」

「うーん」カズマは軽く唸り、全員を見回した。「ちょっと、話を整理しましょう。まず、重傷の二人とオキシオさんの三人は、ナージャと一緒に空路で街を目指す。で、もうひとりいる怪我人は比較的、程度が軽いから――まあそれでも、身動きできないくらいの大怪我みたいですけど――元気なオキシオさんの仲間が馬に乗って、一緒に連れて行く、と」

 ここまで間違いはないか。視線で全員に問い、口を開く者がいないのを確認すると、カズマは続けた。

「この時点で、オキシオさんの仲間は一人しか残りません。もし、僕たちの元に残すっていうなら彼を置いていくしかない。でも、これ無理ですよね?」

 質問ではない。事実上の確認だった。

 それを理解するオキシオが、沈痛な面持ちで黙り込む。

「彼は残った馬にありったけの商品を積んで、それを街まで届けないといけない。それもできるだけ早く。じゃないと、治療費を工面できないんでしょう? 町に入るための通行税みたいなのや治療の手付け金なんかは、オキシオさんの手持ちのお金でなんとかなるかもしれないけど」

 解毒や外科手術が必要な怪我の治療となれば、入院は間違いない。

 数日、ともすれば数週間単位の長丁場ながちょうばだ。

 その間、一銭も追加の入金がなければ、いかにもシビアそうなこちらの世界では病院から放り出されてしまうのではあるまいか。

 カズマはそう予想し、そしてこれはどうやら的を外してはいないようであった。

「おっしゃる通り、です……」オキシオが絞り出すように言った。「いかに顔が利くとはいえ、本来なら即金が基本の治療費は、そう長く支払を待っては貰えません。途中で投げ出されるリスクを避けるためにも、一刻でも早く金をそろえる必要があります」

「じゃあ、やっぱり、残るのはダーガとエリックだけか――?」

 ナージャがすぱりと結論を告げる。

「やっぱり、危険かな?」

 カズマは不安そのままに声のトーンを落す。

 誰にともなく発したその問いに答えたのは、オキシオだった。

「一時的に戦場と化したことで、この周辺の土は今、大量の血を吸っております」

 加えて、と彼は荷馬車越しに後方を振り返った。

「あそこには、まだ馬の死体が転がっている始末です。鼻の利く肉食動物は、既にこれを姿さえ見えない遠くからでもぎつけていることでしょう。今は様子見程度でも、陽が落ちれば状況は変わりましょう。彼らは狩りの構えに入る」

 つまりこの一帯は、サメがうようよいる海域に新鮮な生き血をバラ撒いた状態に等しい、ということなのだろう。

「血の臭いと馬の肉に引き寄せられて、肉食系の危険な獣が大挙して襲ってくる、と?」

 カズマの簡易翻訳を聞いたエリックが、思わず口を半開きにする。

「一〇〇パーセント確実に襲われるな」

 間髪入れず、ナージャが日本語で断言する。

「馬は早急に埋葬まいそうしよう」

 カズマはパンと膝を叩いて言った。

「僕とエリックさんだけで可能なら、みんなを見送った後に二人でってのがベストだけど。でも馬って体重、何百キロってあるんだよね?」

「本来、我々がなすべきこと。皆様のお手をわずらわせることになってしまい、お詫びの言葉も御座いません」

 グローブのように分厚い手を固く握り締め、オキシオは項垂うなだれるように頭を下げた。

「時間をかけられないなら、穴は私が掘ってやるぞ」

 ナージャは一方的に宣言すると、すたすたと道の左側に広がる草むらへ歩いていった。

 密集する灌木かんぼくをすり抜け、五メートルほどの地点で立ち止まる。

「この辺で良いかぁ――?」

 彼女が両手を広げてアピールした。

 一応、質問の形を取ってはいる。だが、返事など最初から求めていなかったのだろう。カズマたちに応じるいとまを一切与えず、ナージャはさっさと封貝を呼出した。

 口訣こうけつされたのは〈Fox 2(フォックス・ツー)〉であった。

 本人が〈*乾坤圏(けんこんけん)〉と呼び、カズマには勝手に〈八つ裂き光輪〉と仮称されているドーナツ型の円盤が、再び世界に顕現けんげんする。

 ナージャは、この物騒な投擲武器(フォックスツー)をそのまま足下へ向けて力任せに叩きつけた。

 刹那、発生したのは比喩ひゆでもなんでもない、文字どおりの地震であった。

 ドンという轟音と同時、周辺の空気がふくれあがる険呑けんのんな気配をカズマは皮膚ひふに感じた。

 この時点で鼓膜が破れなかったのは、ほとんど奇跡だろう。

 直後、その圧は暴風と化してその場の全員を襲っていた。

 森の木々が狂ったようにざわめく。ばらばらと大量の木の葉が舞い落ちてくる。鳥類の群が一斉に飛び立つ羽音が頭上をめ尽くす。

 間髪入れず、地中を伝ってきた巨大な振動波が足の裏から人体を縦に貫通し、引っかき回してミンチにしようかとするように臓腑ぞうふを滅茶苦茶に揺さぶった。

 その衝撃の凄まじさは一瞬、地面から無数の人体を引きがしたことが物語る。

 ばちで乱打される和太鼓の皮面に小人が立たされたとしたら、恐らくこんな気分と感覚を味わうのだろう――

 宙に浮かされた一瞬、現実逃避的にそんなことを考えたカズマは、だが、銃弾が通り過ぎる時そっくりの風切り音で、強制的に意識を引き戻された。

 否、音だけではない。

 実際、何か小さなかたまりが幾つか、殺人的速度で自分の身体をかすめていくのを感じた。

 かすめると言っても、実際には数十センチ先を通り過ぎただけなのだろう。

 それでもひやりとした風圧を感じ、本能的な恐怖をかきたてられる。

 そんな恐るべき凶弾きょうだんであった。

 まさか、野盗の残党が矢を――

 戦慄がカズマの着地を失敗させた。

 たたらを踏み、尻餅をつきかけた身体を慌てて〈*ワイズサーガ〉で支える。

 立ち上がるべき? いや、このまま転がって移動した方が良いか――。

 立ち籠める土煙つちけむりで、視界はほとんど完全にきかない。

 そんな中、一瞬であれ判断に迷ってしまったカズマに、次の災難は文字どおり降りかかってきた。

 池に大岩を叩き落とせば巨大な水飛沫が上がるように、地面に同様の暴挙を働けば土が舞い上がる。

 すなわち、それは土砂降どしゃぶりりであった。

 土砂降りの「雨」ではない。雨のように降ってくる――正真正銘、土砂そのものだ。

 質量、直撃時の衝撃が、水滴とはまるで違う。ほとんど殴打だ。大勢に囲まれ、脚で踏みつけられているようにさえ感じる。

 慌てて頭を抱え、しゃがみ込んだ。

 その時にはもう、先ほど敵襲と勘違いした飛来物が、賊の弓矢などではなかったことをカズマは理解していた。

 同時、昔見た動画のことを思い出す。

 核実験かなにかの大規模な爆発を、何十キロも離れた荒野から撮影した実録映像だ。

 ――そうだ。あれでも、同じ事が起っていた。

 目を固く閉じ、背中に打ち付ける土塊の重たい衝撃を感じながら、思った。

 動画の中では、生理的恐怖をかき立てる風切り音が連続していた。

 チュン……という、ハリウッド映画で使用される銃弾用エフェクトは、限りなく現実に近しいものであったのだ。

 事実、何十キロも飛んできた小石は銃弾そのものだった。

 それが、撮影者の乗ってきた自動車のフロントガラスにぶつかっては弾ける。

 充分な距離があったため、速度をほぼ失った状態でしか飛んでこず、おかげでガラスが粉砕されるまではなかったようだが――

 あれがもっと爆心地に近い場所であったなら、石はどれほどの殺傷能力を秘めていたか。

 もちろん、ナージャが繰り出したのは核撃ではない。

 だがそれは、例の動画と同様、土砂や埋まっていた石の類を――まるで夏の花火のように――放射状にバラ撒いたのだ。

 その一部は密集する森の木々に命中しては木管楽器さながらの甲高い音を響かせ、またある一部は崩れかけた荷馬車に命中して無惨な破砕音を奏でている。

 呆れたことに、降ってくる土砂と濛々《もうもう》と立ちめる砂煙は、それからたっぷり二分間は収まらなかった。

 ようやく視界がクリアになり、大幅に出遅れた小石の一つが荷馬車の幌にぶつかってポスンという間抜けな音をあげるに到って、ようやくカズマは事態の収束を認めた。

 立ち上がる。

 まず、ナージャの姿を探した。見つけると、両目を閉じて大きく息を吸った。

 倍の時間をかけて息を全て吐きだし、そしてまた吸った。

 目蓋まぶたをゆっくりと開く。

「ヌゥアァアジャア――ッ!」

 怒号をあげながら、今世紀最大の愚か者へ向かって突進した。

 当のナージャは「おっ?」というきょとんとした表情だった。

 自分がしでかしたことをまるで理解していない。

 カズマは彼女に充分接近すると急制動をかけた。

 殺しきれない慣性に身を任せ、その両肩を引っ掴む。

 がくがく揺さぶった。

「死にかけてる重傷者が複数いるって話したよね。なんでいきなり地震起こすの! むしろ僕なんか、怪我とか関係なく死にかけたんだけど。山賊より悪質な惨劇生み出しかけるとかどういうこと? なんなの? 殺す気なの?」

「まったく、ダーガは大袈裟だなあ」

 彼女は右手で一度、何か招くようなジェスチャをした。

 もう、やだねえ。そんなこと言って。

 近所のオバちゃんが、ちょっとした冗談を笑い飛ばす時の仕草そのものであった。

 この顔相手には、なにをどう言っても何ら通じないだろう。

 毒気を抜かれたカズマは、ナージャの双肩からずるずると手を引いていく。

 深く、長く、溜め息が漏れた。

「――で」

 追求を断念し、すぐ側にできた隕石孔クレーターもどきに視線を投げた。

 エリックとオキシオ、それに商隊からもうひとりが、様子見に近寄ってくる。

 カズマは彼らの到着を待ってから、また口を開いた。

「しかし、どうやったらこんな大穴を一撃で……」

「ただ封貝をぶつけるんじゃなくて、横から見たらUの字に見える感じで掘り抜いたのだ」

「ここに馬の死体を埋葬しろって言うんだね?」

「そうだ」

 にっこりと自慢げに笑み、ナージャは深く頷く。

「これなら充分だろう」

 確かに、充分だった。

 深さはおそらく三メートル近くあろう。

 もし落ちたら、自力での脱出はすぐに断念するかもしれないな、とカズマに思わせるだけのものがある。形状もクレーターと聞いてイメージするすり鉢状ではない。底が大きく広がり、墓穴として過不足なく機能するように思われた。

 これならば、間違いなく子馬ポニィを横に並べて埋められる。

 見に来た全員がそれを認めたため、すみやかに作業は開始された。

 重傷者を待たせているのだ。一秒も無駄にできないことは誰もが理解していた。

 まずは割り当てだが、これはすんなり決まった。

 ナージャが単独で馬の死体の一つを担ぎあげ、鼻歌交じりに運んでいったからだ。

 その驚愕の光景をしばし呆然と見送ったおとこしゅう五人は、気を取り直すと、総出でもう一体の亡骸なきがらに取りかかればよかった。

 が、こちらは封貝使いとは違って、ひょいと持ち上げるとはいかない。

 小型とはいえ分厚い筋肉で満遍まんべんなく覆われた馬体の質量は、一回り以上大きなサラブレッドにも匹敵すだろう。

 仮に五〇〇キログラムとして、五人がかりなら一人当りの負荷は当然、一〇〇キロに及ぶ。

 冷蔵庫を一人で運べというようなものだ。

 それも五、六個ドアがあるファミリィタイプのを、だ。

 おまけに生物は、決して持ちやすい形状をしてもいない。

 結果、四人がそれぞれ一本ずつ馬の脚を掴み、綱引きの要領で引っぱる。

 あまった一人――まだ十代前半と思わしき、一番小柄な商隊の少年――が背中側に回り込んで押す。

 そういったフォーメーションが固まった。

 せぇの。

 全員が所定の位置につくと、オキシオが最初の号令をかけた。

 残りの男衆が野太い気合いの声で応える。当然、カズマもこれに加わった。

 これが本当に運動会の綱引きなら、声だけ出しながら一人だけサボることも考えただろう。

 しかし今は、それどころではなかった。

 まるで大岩を相手にしているようだった。手を抜ける余裕などまるでない。

 何度目になるか。

 また、オキシオが発破ハッパをかける。

 全員が息が続く限り――血管と筋繊維きんせんいがプチプチ切れるほどの力を込めた。

 奥歯がギチギチときしむ。

 それでも、数十センチ単位でしか動いていない気がした。

 慣れない重労働で、全身はたちまち汗まみれであった。

 すべって掴みが緩くなるため、せわしなくシャツで手汗をぬぐった。

 そんな必死の努力さえ、街道の端へ移動するまでしか通じなかった。

 森に入れば、生い茂る木々や茂みが障害物となる。

 前後の脚を引っぱる形では、幅を取り過ぎて進めない。

 かてて加えて、ナージャが〈*乾坤圏(フォックスツー)〉をぶっ放した時に薙ぎ倒された樹木が、嫌がらせのように道を塞いでいた。

 結局、息も絶え絶え、その場に座り込む男達を尻目に、ナージャが二頭目の馬も担ぎ上げることになった。

 と言うより、ゴムのように伸びたマフラーが馬の胴に巻き付くと、まるで重力を感じない動きでひょいと持ち上げた、と言うべきか。

 彼女はそのまま木立の向こうへ消えていく。

 程なく、馬を穴へ放り落す重たい地響きが、臀部でんぶを通してカズマにも伝わった。

「あのマフラーにバット握らせたら、どこまでボールをかっ飛ばせるか――ホームラン競争で見てみたくなったよ」

 エリックがどこか遠い目でぼやいた。

 途中、汗で重くなったTシャツを脱ぎ捨てた彼は、現在、上半身裸の状態でカズマ同様、地べたに腰を落している。

 両手を背中の後ろに付き、荒げた息を整えようとしていた。

 分厚く発達した胸板が汗で艶々と照り、呼吸の度に大きく上下しているのが分かった。

「僕はボール握らせて、時速何キロの球を投げてくるかスピードガンで計りたいですよ」

 カズマが言うと、エリックは目を細めてどこか悲しげに微笑む。

「ど真ん中でも、どうやら僕はそれを打ち返せそうにないな」

 彼だけではなく、たとえメジャーリーガーでも無理だな、というのがカズマの見立てだった。

 仮に当てることができたとしても、たちまちバットがへし折れるだろう。

 エリックが使っているような金属製であっても、だ。

「しかしあの様子を見る限り、馬に二人ずつ乗せてそれを丸ごと運ぶことも可能なんじゃないかな」

 カズマは思いつきをそのままつぶやいた。

 これでいけば、オキシオに加えて重傷者三名を一気に運搬できる計算だ。

「安全性を度外視すれば可能かもしれないね」

 エリックがカズマを一瞥して言った。

 それからまたナージャの背中に視線をなげつつ、ただ――と続ける。

「馬二頭分となるとマフラーの長さが足りるかは微妙な所だし、飛んでる間、馬が怯えず大人しくしてくれるとも限らない。乗ってる方も途中で落馬しちゃったら即死だし、あんまり速く飛べば空気抵抗の問題も出てくるからね。少なくとも今回のケースでは、ちょっと現実的とは言えないんじゃないかな」

「なるほど……やっぱり、怪我してる人になるべく負担をかけずっていうのがネックだなあ」

「矢でボロボロにされてさえいなければ、僕はむしろ馬車の荷台に全員乗せて丸ごと運んで貰えないか提案してたと思うよ。あの有様じゃ、途中で空中分解しそうだから、ちょっとそれも無理そうだけどね」

 埋葬が終わると、順次、負傷者の搬送が始まった。

 まず、商隊のひとりが先陣を切った。

 彼は程度の軽い負傷者を自分の背中に縛り付けて固定し、その状態で馬にまたがった。

 そのまま先行して陸路で街を目指す。

 少し遅れてその後を追ったのはナージャ組であった。

 しつこいほど礼の言葉を繰り返すオキシオと、今まさに死にかけている男女二名を抱えた彼女は、封貝で空から街を目指す。

 数分後には先に出た馬組を追い越し、夜のうちに城塞都市〈インカルシ〉に辿り着く見込みだ。

 その後、ナージャは一人だけ来た道を引き返す。

 馬組の所まで戻り、三人目の搬送を引き継ぐためだ。

「――本当に、僕は残らなくて良いのでしょうか」

 生真面目な性格をそのまま外見に反映させたような少年が、苦悩に表情を歪ませて言った。

 変声期を前にした声音はまだ高く、身体の線も細い。

 まだローティーンなのだろう。決して高い方ではないカズマと比較しても、優に頭一つ分は身長が低い。

 栗色の柔らかそうな頭髪は、男性にしては少し長め。

 幼少期特有のウェイヴがまだ抜けきっておらず、緩やかな曲線を描いていることを含め、遠目だと少女に誤認されそうな容貌であった。

「仕方ないよ、オックスくん」

 カズマは思わずその頭をでてあげたくなる衝動を押し殺し、言った。

「キミの任務は、その馬に積んだ荷物を街に運んでお金に替えることだ。それが、キミの仲間を助ける治療費になる。僕らは馬に乗れないしね。今、残ってる中ではキミだけができることだ」

「ですが」

 エメラルド色の真っ直ぐな瞳が複雑な色をたたえて揺れた。

「こうまでしてくれたあなた方を、こんな森の中に放り出して行くなんて……」

 彼の心理は理解できた。

 商隊にとってカズマたちは、冬山で遭難しているところに駆けつけてくれた救助隊のようなものだ。

 その救助隊から防寒具と装備品を取り上げた上、その場に置き去りにして自分たちだけ下山しようとしている――。

 オックスは自分たち商隊の行いを、恐らくそんな風に見ているのだろう。

 そして、それは客観としておおむね正しい。

「大丈夫。オキシオさんたちを運んだナージャもなかなかの封貝使いだけど」

 不敵な笑みを作って、カズマは〈*ワイズサーガ〉の右腕を胸の前で構えた。

「私もまた封貝使いなのだよ。そう、あの子の兄貴分といったところかな」

 その言葉に、彼がばっと顔を跳ね上げた。

「旅の方――カズマ様。その腕、もしやと思っていましたが」

「もっとも、私はとある事情でその力の大半を封印しているのだよ」

 真実を正確に伝える言葉ではないが、嘘でもない。

 カズマはまゆのあたりに力を込める感じで引き締めた表情を作りつつ、続けた。

えて――そう、敢えて自らの力を抑え込み、それに頼らぬ姿を見せることで、妹分を導きたい。私はそのように考えているんだよ。先ほどの有様を見ても分かるように、あの子はまだまだ封貝の使い方が荒いのでね。安易に力に頼り、それを無分別に使ってしまう」

 悲しいことだ、というようにカズマは二、三度首を振って見せた。

「なんという……カズマ様、僕はあなたほど高潔な人にであったことがありません」

 感受性が豊かな方なのか、少年はまなじりに涙さえ浮かべていた。

「どうか、僕も教えをいただきたく。あなたを師と仰ぐことをお許し下さい、カズマ先生!」

 カズマはコンマ五秒のうちに、素早く思考した。

 まず感じたのは、「なんだか、妙なことになってきた」という危機感であった。

 軽い冗談のつもりであったのだが、この純真な少年は思いのほかそれを真に受けてしまったのだ。

 これがヨウコ辺りだったら、「嘘よねぇ~ん」だとか言って舌でもぺろと見せれば、事態の収拾もたやすい。代償として半殺しにはされるが。

 しかし、羽が生えたばかりの天使を思わせる天然の無邪気は踏みにじれない。

 それに――先生と呼ばれるのは、初めての経験だがまったく悪くない気分であった。

「私もまだ修行中の身。だが、年長者として何か示せることもあるかもしれない。また、その過程で私自身キミから学ぶこともあろう」

 カズマは優しく少年の肩に手を置いた。それから一つ、厳かに頷く。

「先生……」

「では、行きたまえ、オックスくん。これも試練と心得るがよかろう」

 オックスは一瞬、ハッとした表情を見せると「はい!」と力強く応じた。「カズマ先生、それにお連れの方も。どうか、ご無事で。僕たちを恩知らずのまま終わらせたりなさいませんよう」

 少年は慣れた身のこなしで鞍にまたがる。馬の腹をかかとで軽く蹴った。落ちた矢でも踏み折ったのか、動き出したひづめが木片を砕く音がする。揺れる馬上から何度も後ろを向いては手を振り振り、オックスの姿は街道の向こうへと消えていく。

「何を話してるかよく分からなかったけど、良い子みたいだね。彼は」

 一歩引いてやり取りを見ていたエリックが、カズマに並びながら言った。

「恐ろしくピュアな子でしたよ」

「途中からパハァ=カズマって呼ばれてた気がしたけど――あれはどういう意味だろう?」

「僕が封貝を持っていると知って、特別な敬意を払ってくれたみたいです」

 適当に誤魔化す。エリックはなるほど、と言って納得してくれた。

 ともあれ、これでナージャ及び商隊の生き残り全六名が去ったことになる。カズマは彼らから渡された、ごくわずかな乾肉と飲料を、エリックと分け合った。

 もはや遥か昔のことに感じられるが、物を口にしたのは、今朝の軽いブレックファストが最後であった。エリックも同様である。

 あれからこちらの世界に来て、しばらく彷徨さまよい、歩き、走り、飛び、戦闘を経験して、馬の死体だの荷車の残骸だのを処分する重労働に駆られた。シャツを絞れば汗がしたたり落ちるほど、水分を失っている。飢えと渇きは極限に近い。

 それが今や黄金より貴重であることは分かりきっていたが、カズマとエリックは、なんとしても手にした乾肉と水に手を付けざるを得なかった。

 わずかに塩気が効いた乾肉は、ほんの一欠片しか与えられていない。ふたりはこれを瞬く間に消化してしまった。水も一口ずつ飲む。それでようやく、水分を得るためなら自分の汗を舐めるのもいとわない、という状態からは脱却できた。もちろん、それでも満足というにはほど遠かったが。

 補給後は、相談して少し休むことにした。

「私が大きな音を立てたから、しばらくは警戒して近付いてくる動物も少ないと思う」とはナージャの談だが、これにはオキシオたちも同意してくれた。ナージャもナージャで、まったく何も考えていないというわけではないらしい。

 とにかく、軽い昼寝をするくらいなら見張りは必要ないということらしい。カズマとエリックは各々、木陰や幌の下で短い休憩を取った。

 そして、現在に到る、というわけである。

「――そろそろ、ナージャ、向こうに着きましたかね?」

 問いかけとも独り言ともつかない言葉をつぶやき、カズマはエリックの横に腰掛けた。

 野盗の襲撃でガタのきた幌付きの荷車が、ギッという軋み音をあげる。

「流石に、まだじゃないかな」

 計算していたのかもしれない。エリックが微妙な間を置いて答えた。

「オックスくんだっけ。彼を見送る時、馬がどれくらいの速度で走ってるのかちょっと注意して見てたけど――思ったより速くなかったんだよ」

「こっちの馬は、速度タイプというよりパワータイプみたいですからね。見るからに」

 これは死体の運搬時に思い知らされた。身体は小さいが、筋肉が物凄い。足首も太く、全体的にがっちりしていた。人間でたとえるなら、自分の学校だと柔道部かラグビー部員といったところだろう、というのがカズマの考えであった。

「そう。元々そういうタイプだっていうのもあるだろうし、長距離を移動しなくちゃいけないっていうのもあると思うけど――走り方が、速歩きか小走りくらいの感じだったね。あれだと、僕が一〇キロ・ロードワークに出た時のペースより、ちょっと速いくらいかな」

「それ、時速で言うとどれくらいです?」

 カズマは背中の後ろに両手を付き、脚をプラプラさせながら訊いた。

「十五キロ以上、二十キロ未満」

「競馬のサラブレッドは、確か一分で一キロくらい走るんでしょ?」

 ゲームセンターで仕入れた知識であった。ミニチュアの馬が競争し、どれが一着に入るかを当てるメダルゲームである。そのゲーム盤にはあちこちに競馬関係のウンチクが書かれており、その一つに速度関係の豆知識があったのを覚えている。

「いや……」

 エリックが小さく目を見開くのが見えた。彼は一瞬、言葉を詰まらせるようにして、しかし続けた。

「それは知らなかったな。事実なら凄いね。競馬はせいぜいが二、三キロの距離勝負っていうのもあるんだろうけど――それでも時速六〇キロとなると、街中のクルマより速い」

「それに比べると、こっちの馬は速いのか遅いのか」

 カズマは腕を枕にして、後ろ向きに寝転がった。

 なんとなく、出発前にシゲンがくれた旅用自転車ランドナーを思い出していた。舗装路なら、あれでも時速一五から二〇キロという数字は出せるだろう。

「とにかく、時速二〇キロ前後の馬で一日半の距離なんだよね」エリックが脱線しかけた話題を元に戻す。「一日半と言っても、夜は野盗や獣が危険だって言うし、商人は基本的にが出てる間しか移動しないものなんじゃないかな」

 その言葉に視線を投げると、エリックが指折り計算しているのが見えた。

「休憩や食事の時間もいるだろうし、天候や路面の問題もあるし。月が二つもある世界の一日が二四時間なんて保証はないけど――まあ、一日で走れるのは実質、八時間から一〇時間くらいだと仮定しておこう。その場合、一日の移動距離は一五〇キロ前後ってことになる」

「一日半だと二〇〇キロちょっと――?」

 言うと、エリックはカズマをちらと振り返って、無言で頷いた。それから身体ごと横向きになり、荷車の側面に背を預ける形で座り直した。長い左足を乗り口の縁に沿うようにして伸ばし、右足は外側に垂らしている。幾分、リラックスした姿勢だった。

 彼が横目にカズマを見ながら続ける。

「マフラーを背中側に回して、ナージャさんが自分の身体を風よけにするなら、怪我をした人たちの風圧的な負担は軽くなる。時速一〇〇キロくらいで飛んでも、まあ耐えられると思うんだ」

「一〇〇キロですか……」

 封貝での飛行は、電車や自動車とは違う。剥き出しの生身でそんな速度に耐えられるものか――?

 一瞬、考えかけたが、ジェットコースターの最高速度も上位陣は軒並み時速一〇〇キロを超えていたはずだ。バイクにしたところで、高速道路では空気抵抗を身体に受けながら、一〇〇キロくらいで走ることもあるだろう。

 カズマは目を閉じてざっと計算してみた。

 時速一〇〇キロは、風速に直すと約二八メートル。

 これは、台風の中心近くで吹き荒れている暴風と同等の負荷だ。怪我人にはこくかもしれないが、負傷や毒を放置しておくほどではあるまい。

「速度のこともあるけど、空を飛ぶわけだから馬と違って直線的に最短ルートを行ける。単純計算でいいなら、二時間もあれば向こうに着けると考えて良いんじゃないかな」

 つまり存外、ナージャが出した数字は正確であったということだ。

「でも、彼女が出発してから、まだ二時間までは経ってないと思うな」エリックが言った。「それに、都市の衛兵を刺激しないように、途中で下りてそこからは歩くかもしれないんだよね。中に入るまでの手続きも考えると、なんだかんだと三時間くらいはみておいた方が良いかもしれない」

「ですね。着いたら着いたで、すぐに引き返して陸路組からもう一人の怪我人を引き継がなくちゃいけないし――」

 カズマが言うと、その言葉尻を拾うようにエリックがまた口を開いた。

「多分、オックスくんからも荷物を受取って、また行き来することにもなるだろうね」

「それにも四、五時間はかかるでしょうし、帰りにもまた二、三時間かかると」

「そう。早くても深夜、なにかあって遅くなると、戻ってくるのは翌朝ってことになるかもしれない。少なくともそういう覚悟はしておくべきだろうね」

 見ると、エリックは膝の間に立てかけた金属バットを、目的もなくつついている。

 しかしその目は、鬱蒼うっそうと茂る木々と、その向こう側に広がっているはずの蒼穹そうきゅうに向けられていた。

「――大分、暗くなってきたね。太陽、低くなったのかな」

 その視線を追うように、カズマも頭上をあおいだ。

 左右から街道を覆うようにして伸びからまる木々の枝葉は、さながら天然の天井だ。悪天時は雨風から旅人を守ってくれるのであろうが、晴天時には貴重な日光を遮ってしまう。

 エリックの言う通り、黄昏たそがれせまろうというこの時間帯、隙間をって差し込んでいた木漏れ日も薄れ、もはや周囲は早々に夜の装いといったところだった。天然の天井には、ところどころ腐って崩落した古屋根のようにポッカリとひらけた部分も目立つが、そこから覗く空の色も随分と暗くなっている。ほどなく、広げた本の字を読むこともできなくなるだろう。

「今日は、ここで野営だね」

 エリックがぽつりとつぶやく。

 ほぼ同時、何かが弾ける甲高い音が響いた。いで、積木が崩れるような乾いた音が――こちらは少し控えめに――聞こえた。

 カズマは馬車から降りて、音の方を見た。

「そろそろ、薪を補充すべきかな」

 言いながら、腰から剣鉈を抜いた。荷車を御者席の方に回り込む。刃を振り、適当な箇所を木片に替えた。数度同じ作業を繰り返すと、抱えた新しい薪を焚き火へ向けてまとめて投入した。

 火は、出発前にナージャが〈*火尖鎗(フォックス・ワン)〉を使ってつけてくれたものであった。あの炎をまとった槍は、なるほどキャンプにおいてはライター代わりにも使えるらしい。

「――でも、こちらの獣の多くは、別に火を恐れたりはしないぞ」

 彼女はそう物騒なことを言い残して去っていったが、ないよりはマシだった。たとえ火が獣の脅威とならずとも、闇はカズマたちにとって大きな脅威になるからだ。火事にさえ気をつければ、夜気が忍び寄りはじめた今、火は心理的な支えとしてその存在感を増していくだろう。

「ナージャさんたちが帰るまで、どうやって飢えをしのぐかを考えないといけないね。分けてもらったビーフジャーキィみたいな物は、もうなくなってしまった。水筒の水もほとんど残ってない」

 エリックの言葉に、カズマは振り返った。

 彼はまた体勢を変え、今は普通に荷車の縁に腰かけた状態だった。その上で、いつなんどき脅威が訪れても即時対応できるよう、バットを自分の身体に立てかけている。首元に寄せられたグリップエンドは、まるで彼に甘えてしなだれかかる恋人の頭ようだった。

「問題は水だね」エリックが続けた。「半袖でも過ごせるくらいの気温だ。戦闘に巻き込まれたり、それなりの距離を走ったりして、汗もかなりかいてる。正直、リットル単位で補給すべきところだよ。現状で、僕らは脱水症状の一歩手前くらいにはなってるかもしれない」

 それはカズマも実感をともなって理解していた。

 なにせ今の時点でさえ、強い喉の渇きがあるのだ。貰った水を飲みはしたが、それも一〇〇ミリリットルほどに過ぎない。まるで足りないのは分かりきっていた。口の中の不快なネバつきも、如実にょじつにそれを物語っている。

 商隊の名誉のために急いで言及しければならないのは、決して彼らが分け前をケチったわけではない、ということだ。こちらの世界において、飲料水や食料は立派な略奪の対象である。商隊は野盗の被害を逃れた分の大半を、カズマたちに渡してくれた。それでも、一口ずつの肉と小量の水にしかならなかったのだ。

「エリックさん。口の中が気持ち悪いのって、確か、水分不足が原因なんですよね」

 確認するように問うと、スポーツ科学にも通じる高校球児は、流石にすぐ反応した。

「身体の水分が少なくなって、唾液だえきが出なくなったせいだね。唾液には口内細菌の増殖ぞうしょくおさえる働きがあるけど、それが駄目になって細菌が増えちゃったんだ。僕らは部活で、その症状が出る前にこまめに水分を補給するよう、厳しく指導されてるよ」

 運動とは、水分補給の仕方を覚えることから始まるのだ。彼はきっぱり言い切った。

「じゃあ、今のエリックさんは、監督に見つかったりすると大目玉?」

「うん。小一時間、お説教だね」

 それが何かとてつもなく平和な話に思えて、エリックとひとしきり笑い合った。

 水を飲まないと叱責しっせきされる世界。飲料水にまったく困らない世界。

 現状を考えると、冗談か夢といったところだ。あまりのギャップで、本当に笑えた。〈壁〉だ〈果て〉だと言いつつ、いかに自分たちが恵まれていたのか、改めて思い知る。

 その最中さなかだった。

 だしぬけに、カズマは頭の中に声を聞いた。――聞いたような気がした。

 無意識に両耳に手をやる。まばたきが止った。

「カズマくん――?」

 異変は傍目はためにも感じられたのだろう。エリックが声をかけてくる。

 カズマは応えなかった。ただ、脳裏をかすめるようにして去っていった声をもう一度とらえようと、無言で神経を集中する。エコーをかけすぎてひずんでしまったような、解像度の荒い声だった気がする。それでいて、どことなくはかなさを感じたのは、それが気のせいかと思うような一瞬の出来事であったからか――。

 心配したエリックが、こちらに寄ろうと立ち上がるのが分かった。

 それでようやく、カズマは声の追跡をあきらめた。エリックの方を向いて、大丈夫だというように笑んでみせる。耳を押さえていた手も下ろした。

「どうしたの、カズマくん。具合でも――?」

「いや、そんなんじゃなくて……」カズマは説明の言葉を探すため、言葉尻を少し引っぱった。「何というか、僕は、あれかもしれません。目覚めちゃったかも」

「――ん?」

 エリックがあからさまに怪訝そうな顔をする。無理もない。

「今、頭の中で声が聞こえた……ような気がするです。目覚めろ、と言われたような。これって、もしかして封貝の囁きなんじゃないかなあ、と」

「その義手が――」義手、のところでカズマの右手に視線をやり、エリックは続けた。「語りかけてきたってこと?」

「多分、ですけど。他に考えられないので。ほら、僕の封貝って新品のグローブがどうとかみたいに最初のうちは性能を一部しか引き出せないとか言われてたじゃないですか。徐々に馴染んでいって、時間を追ううちに使いこなせてくる、みたいな」

 事実、カズマが幾ら口訣しても、ナージャのように〈Fox 2(フォックスツー)〉や〈Victor 1(ヴィクターワン)〉は現れずにいる。現状、右手の〈Fox 1(フォックスワン)〉が、触覚まで伝えてくれる完璧な義手とて振る舞っているというだけだ。それはそれで大変に助かっているが、封貝のコンポセットとしては完全とは言えない。

 しかし――

「今なら、行ける気がする」

 何か確信にも似たものを感じながら、カズマはそっとつぶやいた。〈*ワイズサーガ〉をぎゅっと握りしめる。

「封貝の性能を極限まで引き出して、何かできそうな予感がします」

 そう、たとえば――と、立木たちきの一つに視線を向ける。焚き火の明りが樹皮の上で揺らめき、それを脈動する巨大蛇アナコンダの腹のように見せていた。

 一抱えもあるあの太い幹すら、今のこの〈*ワイズサーガ〉なら、あるいは。

 試してみたくなって、カズマはすでにそちらへ歩き出していた。

 拳が届く距離まで近付くと、脚を肩幅に開いて止った。どっしりとした木肌きはだに左手で触れる。

「カズマくん、どうする気?」

 不安そうな声のエリックを、カズマは不敵な笑みで振り返った。

「まあ、見てて下さい。〈*ワイズサーガ〉の真の力をお見せできるかもしれませんよ」

 改めて眼前の木を見据える。

 なんとなく、高校の武道場にあったサンドバッグを思い出した。柔道部、剣道部、そして空手道部が共同で使っていたあの場所には、隅っこにボクサーが使うような大型サンドバッグが鎖で吊されていた。授業で柔道が行われる際、それはこぞって生徒の玩具代わりにされていた。

 カズマも一度、思い切り殴ってみたことがあったが――その時は、素人にありがちな悲劇に見舞われた。

 鍛錬されたことのない手首が、パンチの衝撃に耐えられなかったのだ。くきっと内側に九〇度曲がって、ちょっとした捻挫ねんざを負うはめになったのを覚えている。

 もちろん、目の前にそびえ立つ大樹は、あのサンドバッグとは比較にならない。遥かに重く頑強だ。ヘビィ級のチャンプでも、殴れば手の方をやられるだろう。

 しかし、覚醒した――ような気がする封貝使いは、ただの人間ではない。

 カズマは両の目蓋を閉じた。ひとつ息を吐いて、心を落ち着ける。

 思考は鏡面を思わせる穏やかな水面のごとく。されど心は烈火のごとく。

 この腕を授けてくれた人々の想い。願い。それらに対する深い感謝の念。そしてヨウコの眼差しを心に描きながら、ゆっくりと右腕に力を収束させていく。

 カッと目を見開くと当時、裂帛れっぱくの気合いを発する。左足を半歩突き出し、落し気味にした腰を鋭く回転させた。

「フォックス――ッ」

 全体重を乗せ、肩から突き出すように右腕を振り抜いた。直後、爆発にも似た衝撃をバラ撒き、文字どおり根こそぎ吹っ飛ばされていくであろう立木の末路を、はっきりとイメージしながら。

「――ワンッ!」

 瞬間、くにっと見事に手首が曲がった。

 木は微動だにしなかった。

「オゥ、ノォー」

 そのあまりの心理的衝撃を、カズマは思わずイングリッシュスタイルの絶叫に変えていた。

「くにっていった……くにって……!」

 そのまま腕を抱えて転がり回ったのは、捻挫ねんざの痛みがえがたかったからではない。そも、封貝製の義手に捻挫の概念はない。ただ、そうせざるを得なかった。過去の酷い失敗を思い起こして、ベッドの上を転げ回らざるを得ないことが、男にはある。今がそのときであった。

 声は、本当に聞こえた「気がした」だけであったのだ。そして目覚めは今、訪れた。何にも目覚めていない、という現実と共に。

 思わせぶりに、耳などふさがなければ良かった。目を見開いて、身体を硬直させるなどすべきではなかった。心から後悔した。なぜなら、最初から誰もカズマに語りかけてなどいなかったのだから。

 とは言え、このままのたうち続けていても過去は消せない。収拾はつかない。

 カズマは前転の途中であったのをこれ幸いと、その勢いをうまく借り、流れるような動作で立ち上がることに成功した。それはちょうど、柔道の授業で習得した前回り受け身の要領に良く似ていたはずである。

「えー……では、開幕ジョークを無事終えましたところで、これより本題に入りたいと思います」

 何事もなかったように言った。その間、決してエリックの方は見ないように心がけた。彼の浮かべている表情が――憐憫れんびん、同情、呆然――なんであれ、それを眼に映してしまったが最後、ひざを折ってしまうであろうことは分かりきっている。膝と共に、心まで折ってしまうわけにはいかない。ならば勢いで誤魔化す以外、道はなかった。

「やはり、僕としてはアレなわけです。ナージャは空をびゅんびゅん飛べて良いなあと。実は前々から、密かに羨ましく思っておりましたわけで。今回の怪我人の件で、やはり機動力は大切だなとも痛感させられたこともあり、まず最初は移動用封貝の召喚を試してみたく思います」

 カズマは早口にまくしたてた。エリックに何か言わせるいとまを与えない。

「個人的には、映画〈バック・トゥ・ザ・フューチャー〉の空飛ぶスケードボード的なものを期待しているところであります。しかし――さてはて、こういった希望は現実に反映されるものなのでしょうか」

 頼む。頼むから、何か出てくれ。

 まだ見ぬ封貝たちに懇願こんがんしながら、しかしあくまで表情には出さない。なんでもないことのように、ごく自然な口調を心がけて唱えた。

「我が求めに応じ――」開いた右手を真っ直ぐ突き出すようにして、軽くポーズを取る。「でよ、移動用封貝ヴィクターワン!」

 ポーズをそのままに、少し待ってみた。

 封貝には意思があるという。内気シャイなタイプも存在するかもしれない。

 そうに違いない。

 ――だが、いくら待っても沈黙は破られなかった。

 無色の炎を棚引かせ、景色を歪ませながら飛び回る車輪も、空飛ぶスケボーも現れはしなかった。

 もう一度、無言で〈*ワイズサーガ〉をブンと振ってみたが、結果は変わらなかった。

「あの、カズ――」

「いや、まあ……あれですよね!」

 なにか言いかけたエリックの声を、カズマは急いで掻き消した。

 そのままの勢いで続ける。

「ヴィクター・ワンは汎用タイプの移動系封貝だってナージャも言ってたし。戦闘用に特化したヴィクター・ツーしか持ってない人もまれにだけどいるとかいないとか。僕もそれかもしれないですし。一応、試しておかないとですよね?」

 カズマは自分の言葉に何度も頷くと、一度、大きく息を吸った。

 何度か逡巡しゅんじゅんしたが、今さら止めることもできない。

 結局は、半ば自棄気味に叫ぶことになった。

「ヴィクター・ツー!」

 森は、静かだった。

 一瞬、風がそよぎこずえがざわめいたが、それはあくまで自然現象に過ぎなかった。封貝とは、関係がない。

 駄目だと認めてしまう前に、カズマは口訣を変えて唱えた。

「ヴィクター・スリィ!」

 そんなものがあるかすら知らず、とにかくすがるように叫んだ。

 もう、〈バック・トゥ・ザ・フューチャー〉がどうだ等という高望みはない。出てくれるなら、空飛ぶおまるでも構わなかった。たとえそれがアヒル型でも受け入れる。一生大事にして、むしろ三日に一度はワックスをかけると誓っても良い。そのくらいの覚悟ならあった。

 が、願いは届かず、何も出現はしてくれなかった。おまるすらも。

 夜のとばりが周囲を本格的に包み始め、どこからかフクロウに似た奇妙な鳥、あるいは動物の鳴き声が聞こえてくる。それだけであった。

 だが、この瞬間、カズマの脳裏を占めていたのは絶望ではなく、希望であった。

 天啓を得た、と言って良い。

 夜。闇。見えない。視認不可能。これらの要素が有機的に結びつき、一気に形となる。

 もう、封貝を呼び出せないのは仕方がない。声などなかったのだ。したがって、覚醒などもしていない。もっと長期的に、地道な鍛錬の末にしか体得できないものなのだろう。

 しかし、それでもこの場は誤魔化せる。

 見えない封貝が出たことにすれば良いのだ。カズマはそれを知っていた。サトミやシゲン、ナージャからも情報を得ている。いわく、「防御の封貝――いわゆる〈デルタ系〉の中には不可視の盾、壁のようなものを生み出すものがある」。そしてこれらは、決して稀有な例ではない。

 プランはこうだ。

 最後に、カズマはデルタ系の召喚を試みる。もちろん、度重なる過去の事例と同様、実際には何も起らない。が、設定としては奇跡的に何かが形になったこととする。エリックには見えず、また感じられもしないが、封貝使いであるカズマは違う。その出現を、使い手特有の感覚で確信するのだ。したと言い張るのだ。

 エリックは触ってそれを確認しようとするかもしれない。だが、これは上手く回避する。

「うっ……初めての封貝の召喚で思いのほか気力を消費してしまった。僕の力では、不可視の小さな盾を一瞬だけ維持するのが精一杯のようです」

 完璧であるように思えた。これなら押し通せる。確信があった。

 もちろん、一定の確率でエリックは真実を察してしまうだろう。しかし、親切な彼は優しい嘘をついてくれるはずだった。カズマの言い分をそのまま信じたように振る舞ってくれるに違いない。

 その後、いたたまれない沈黙を経験することになるだろうが、それはもう受け入れるしかなかった。何かを得るためには、何か痛みを伴わなければならない。

 問題はそこに到る流れだ。

 思いついたからといって、すぐにそれに飛びつくのは下策のように思えた。何かワンクッション挟んだ方が良い。少し考え、まだ試していない射撃用封貝フォックス・ツーを使うことにした。

「あっ、今はの何か感覚が違った。形にするには到らなかったけど、何か掴めたような気がしますよ、エリックさん!」とでも言って、これを伏線にすれば説得力も増すだろう。

 にやりとしてしまわないよう、気をつけながらカズマは構えに入った。

「エリックさん――」

 疲労感を声に乗せて、カズマは呼びかけた。あくまで、彼の方は見ない。

「ん、……うん?」

 やや上擦うわずり気味の声が応えた。

「少しずつですけど、呼吸みたいなのが分かってきた気がします。多分、僕はイメージが先行しすぎていたんです。どんなのが良いってガチガチに固めすぎたから、それが災いして上手くいかなかった。子供と同じなのかもしれません。レールを敷いて、そこからはみ出さずに歩かせようとすると反発される。もっと信じて、自主性を重んじて、広く受け入れないといけなかったんだ」

 それらしいことを口から出るままに並べ立てた。真に受けたエリックが、感心したように頷く気配がなんとなく伝わる。

「野球のフォームのことを思い出したよ」彼が少し熱の籠もった口ぶりで言った。「ピッチングにしてもバッティングにしても、基礎は大切だけど、そこから先の細かい調整はそれぞれの個性に合わせるべきなんだ。体格、筋力、関節可動域。それぞれ皆違うわけだからね。変に教科書通りの型に押し込めると、ある程度からは伸びが鈍化したりする」

 彼はその好例として、振り子打法で知られる歴史的アヴェレージ打者ヒッターや、トルネード投法で旋風を巻き起こした伝説的投手の名を持ちだした。

「いけるんじゃないかな、カズマくん」

「はい。僕もそんな気がしてきました。でも、駄目だったら慰めて下さいね」

「打者は優秀でも七割は失敗する。それを労うのは得意だよ」

 カズマは頷き、精神集中に入った。

 ここからは演技ではない。もっとも見破り難い嘘は、本人が真実だと信じ切っている嘘だ。

 それに、エリックに期待されてしまった以上、手を抜けば不誠実になる。この後の展開を考えれば、せめて可能なところは真っ当にいきたいと思った。

「可能性が一番高いのは、やっぱりワンが既に形になっている攻撃フォックス系の封貝だと思うんです」

 カズマは言った。

「つまり、フォックス・ツーだね?」

「はい。試してみます」

 宣言通りイメージは捨てた。スケードボードだおまるだと、色々と考えすぎない。

 希望も持たない。相手に委ねる形で、ただ想いだけを封貝に向けて放つ。

「〈Fox 2(フォックス・ツー)〉――ッ!」

 胸の前で握り固めた両の拳を、わきしめめたまま腰の辺りまで引く形で、声を絞った。

 瞬間、とすっという軽い落下音が足下で聞こえたような気がした。

 無意識のうちに固く閉じていた目蓋を開く。薄暗がりの中、焚き火の明りを頼りに音の方を探った。不思議と、期待も不安もない、非常に落着いた気分だった。ただ、さっきのはなんだろう? という、素朴な疑問に衝き動かされての行動だった。

「カズマくん、それ……!」

 先に反応したのは、エリックの方だった。大きな声を上げると、慌てたように駆け寄ってくる。

 最初のパンチの時に立木へ寄ったせいで、現在、カズマは街道と森の茂みの境界線近くに立っている。周囲は、湿った土と混じり合った腐りかけの落葉、地表を割って張り出した木の根などで凹凸が激しく、また暗さも相まって落失物の類は見つけにくい。

 だが、一部始終を見届けていたエリックはすぐにそれを探し出せたようだった。

「これだ――」

 そう言って一瞬屈んだ彼は、手のひらに白い球体を乗せていた。

「それ、エリックさんが持ってきた物ですか?」

 事情が飲み込めず、カズマは小首をひねる。

 ほとんど完全な球体で、ややクリーム色に近い白色はくしょく。大きさは、まさに手のひら大という表現が相応しい。より正確に言えば、エリックが部活で毎日触っているであろう、硬式野球の認定ボールに近しいサイズであると思われた。

「これ、ボールじゃないよ。縫い目がない。素材が、とにかく全然違う」

 えっと思いながらそれを受取った。〈*ワイズサーガ〉の上で転がし、感触を確かめる。

 確かにそれは硬式野球のボールではなかった。材質はまったく分からないが、革やプラスティック、金属等とは明らかに違う。鉱石でもない。芯はしっかりしているようだが、表面の極浅い部分にだけ微かな弾力を感じる。あえて言うならシリコンが最もイメージに近いように思えた。

 温度はごく普通で、少なくともあたたかさはない。かと言ってひやりとするほど冷たくもなかった。表面は滑らかで、バレーボールのような小さな溝が、見たことのないシンプルな文様を全体にかけてかたどっていた。

「えっ、これなんですか――?」

 カズマは思わず訊いた。口にした瞬間、我ながら愚かな問いだと思ったが、正直な気持ちだった。他に第一声として相応しい言葉は存在しないだろう。

「いや、僕には分からないよ。とにかく、キミが〈Fox 2(フォックス・ツー)〉って言った瞬間、それがどこからか落ちてきたように見えた」

「これが?」小指と薬指を除いた三本指でつまみ、手首の回転で様々に角度を変えながら検分してみた。「でもこれ、明らかに武器じゃないでしょ」

 球体と言えばなんとなく爆弾を思い浮かべるが、どうにもそんな気はしない。導火線がないのもそうだが、直感的に違うと感じた。

「えー、ほんとに何なんだ、これ」

 試しに剣鉈で斬りつけてみたが、刃が表面を滑るばかりで手がかりは得られなかった。

「よし。焼いてみよう」

「えっ、焼くの?」エリックが目を見開く。

「江戸時代、黒船で持ち込まれた石鹸せっけんを、庶民たちはどうしたか知ってますか?」

「ええと、たしか逸話では豆腐とうふの亜種か何かだと解釈して――」

「そう。とりあえず煮込んでみたんだとか。ここはひとつ、先人にならってみましょう」

「だからって焼くというのは。その先人、結果的に間違ってたんだよね?」

 エリックはなぜか難色を示していたが、カズマはもはやほとんど聞いていなかった。さっさと白玉を焚き火へ放り入れる。かたわらでエリックが「あっ」という小さな叫びを上げた。

 こうなると、もうどうしようもない。ふたりして、そのまましばらく様子を観察した。

「――もしかすると、火を通せば食べられる物かもしれませんよ」カズマは期待を込めて自説を披露した。「飢えてる時に召喚したから、それに応じたアイテムが出たのかも」

「でも、フォックス系は武器で統一という話じゃ……」

「空腹を倒す武器は、食料じゃないですか」

「そういう自由な解釈ってありなのかな、封貝って」

 エリックはまだ不安げにしている。

「そろそろ、火、通ったかな?」

 近くに積んであった薪の予備を手に取った。火箸ひばし代わりにして、白玉を突く。何度か繰り返すと、上手く焚き火から追い出すことができた。

 転がる白玉封貝は、少なくとも表面上、変わったところは見られなかった。

 火傷の心配のない〈*ワイズサーガ〉で掴み上げてみる。恐ろしく熱伝導率が低いのか、あるいは高すぎて瞬時に放熱されたのか、とにかく全く温度変化は感じられなかった。溶けた様子もなく、また柔らかさが増したということもない。何も変わっていなかった。

「耐火性能、凄いな」

「少なくとも食べ物ではなさそうだね」

 エリックはなぜか安堵の表情を浮かべていた。

「――エリックさん」

「ん?」

「ちょっと、バット構えてみてくれませんか」

 言うと、ほとんど条件反射のように彼はバッティングの構えを取った。何故かと理由を問うより先に身体が応えてしまった、といった感じだ。

 カズマは「ほい」と声に出し、下から優しく白玉を放った。ちょうど、トスバッティングと呼ばれる練習法をなぞる形になる。

 身体に染みついた習慣が、今度も思考するより早くエリックの肉体をき動かした。宙を舞う白玉を、鋭いスイングが正確にポイントする。真芯でそれをとらえたバットは、キィンというあの独特の響きを発した。弾丸のような速度で弾き飛ばされた白玉は、ほとんど一瞬で夜空の向こうへ消えていった。途中、ぶち抜かれた木々の屋根が、抗議するように鋭い葉擦れの音を立てる。

「あっ――」

 やってしまった、という顔でエリックが全身を強ばらせた。

「飛びましたねえ」カズマは白玉が消えていった方を眺めながら、ぼんやりとつぶやく。「やっぱりあれ、野球のボールなんじゃないですか? 良い音したし」

「いやいや、そんなことは絶対にないよ。なんてことを――」

 振り抜いた体勢から戻ると、エリックは猛然と言った。

「封貝は僕らの常識に収まらない超自然的存在なんだから、多少の無茶は大丈夫ですよきっと。あれがもし、本当に封貝ならですけど」

 それを確かめる簡単の方法があることに、カズマは直後、気付いた。

 なんとなく〈*ワイズサーガ〉の手を開き、甲を下にして肘を伸ばした。

 そして口訣する。

「〈Fox 2(フォックス・ツー)〉――」

 瞬間、手のひらに何か乗ったのが分かった。

「うわっ、なんか出た!」

 今度は間違いなく、カズマにも見えていた。

 それは一〇分の一回転ほど、ほんのわずかに手のひら上を転がり、やがて静止した。

 間違いなく、先ほどの白玉と同じ物体であった。

「えっと、もう一回〈Fox 2(フォックス・ツー)〉?」

 試しに唱えてみると、同じように前へ突きだした左手の上にも、白玉が出現した。

「えっ……!」

 ここまで何度か驚愕を露わにしてきたエリックだったが、その最大の振れ幅は恐らくこの瞬間に観測されたことだろう。元々大きな眼を、零れ落ちそうなほど見開いている。

「うわぁ、本当に封貝だよ、これ」

 カズマは少し顔を仰け反らせるようにしてうめいた。

 その声音から、自分がこの封貝をあまり歓迎していないことが分かる。

 心のどこかでは、ナージャの通称〈八つ裂き光輪〉のように、ど派手に飛び回り、周辺の地形を変えてしまうほどの破壊力を誇る超兵器を期待していたのだ。

 ともあれ、先ほど甲子園のスタープレイヤーがかっ飛ばした分が消えていなければ、これで三つ同時に同じ封貝が現れたことになる。

 元々、封貝とはそのような性質を持つのか――とも一瞬考えたが、カズマはすぐに否定した。もしそうなら、自分の義手は今頃、五個くらいにまで増殖していることだろう。ナージャも複数のマフラーをタコ足のようにして操っていたに違いない。

「同時に幾つも出せるんだね――」

 何か未知の物に触れようとするように、エリックが右手の人差し指でこわごわ白玉を突く。実際、それは未知の存在としか言いようがなかった。

「えっ、で――これって何に使えるのかな?」

 もう何度目になるだろう。まさしく同じ疑問に行き当たっていたカズマは、その問いかけに首を捻り続けることしかできなかった。

挿絵(By みてみん)

結構、早めに形になっていたエピソードなのですが、前半の15kb分がどうしても気に入らず、ボツにして一から書き直しました。

後半の白いの関係のやりとりは、変に筆が乗ってしまいなんか思いも寄らぬ方向へ……結果、50kbとかいう2番目の長さに。

おかげで、ちょっと公開が遅くなりました。なんでこうなった。

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