ザ・コールド・イクウェイション
013
襲われているのは幌馬車一台の、小さな商隊だった。
その中核たる馬車は、木製車軸が真っ二つにへし折れた上、左側が脱輪してもはや再起不能の状態にある。
横転こそ免れているものの、全体的に大きく傾いでしまっており、おまけに到るところに矢を突き立てられていた。
野盗どもの仕業か、ご自慢の幌も大部分が原型を留めなほど無惨に切り裂かれている。
停車時に振り落とされたのだろうか。
賊に持ち出される途中でぶち撒けられたのかもしれない。
周囲には、布で包装された荷らしきものまで散乱している。
馬車の他には、少し先の方に、栗毛と焦げ茶の馬が一頭ずつ見えた。
この哀れな家畜たちは、戦場の狂瀾にすっかり怯えきっており、御者の手綱を振り切って、一刻も早くこの場から逃げたがっている。
その背の後部にもちょっとした荷物が積載されていたが、こちらは無傷のように見えた。
もっとも、これは野盗の目から逃れたからではない。馬自体が狙われているためだ。
「馬ごといただいた方が手っ取り早い」
野盗側からすれば、そういうことになるのだろう。
これを迎え撃つ商隊の人数は、エリックに見える範囲で六人。
全員が、日本の着物のような帯付の長衣に、チノパンに似た無地の長ズボン、ショートブーツという――色や柄こそ違え――揃いの格好であった。
六人と言っても、その内ふたりは既にどう見ても行動不能だった。
片や昏倒して大の字に伏し、片や荷馬車の縁を掴んで片膝をついた格好のまま、身動きできずにいる。
右手で押さえている左の肩口には、鮮血をたっぷり吸ったどす黒い染みが大きく広がっていた。
他の四人にしても、未だに武器を振るって戦えているのは実質、二人の男のみ。
彼らは愛馬の手綱をそれぞれ片手で握ったまま、野盗たちを短槍で牽制して遠ざけようとしている。
だが、その旗色は明らかに悪い。
今のところはリーチの差で、短剣・長剣の賊相手に何とか立ち回っている。
さりとて多勢に無勢。
体力も尽きかけており、長くは持ちそうにない。
そして、半壊した荷車の中で縮こまって抱き合う残りの二人だ。
彼らに到っては一見、最初から戦闘要員ですらないように見えた。
しかしよくよく見返したエリックは、その見立てが少し間違っていたことを認めた。
力なく座り込んでいる者と、それを守る保護者。
幌が落す薄影の中で分かりにくいが、どうやら正しくはそういう構図であるらしい。
その証拠に、ぐったりとした小柄な人物を片手で抱きかかえるようにしている壮年の男は、空いた方の手で長剣を握っていた。
位置関係から察するに、彼らのいずれかがこの商隊の代表格ではないかとエリックは推測した。
ともあれ、この全滅寸前の商隊が、十人ないし十五人ほどの武力集団から一方的な襲撃を受けていることは間違いない。
どちらに付くべきかも、もはや迷う必要はなかった。
「カズマくん!」
走りながらエリックが叫ぶと、カズマは無言で頷いた。
むしろ、動き出したのは彼の方が早かったかもしれない。ふたりして商隊の馬車へ向かう。
最初に、俯せに倒れている男を助け起こした。
カズマが、何かエリックには分からない言語で声をかける。
これこそ二つの世界を橋渡しするという封貝の効用なのだろう。
本人は日本語で語りかけているつもりに違いない。
だが、口から出ているのは紛う事なきこちらの言葉だ。
ならば、介抱は彼に任せた方が良い。
そう判断し、エリックは周囲の警戒に入った。
カズマと患者を背中で隠すように立ち、両手に握ったバットを胸の前で立てる。
カズマの呼びかけが届いたのだろう。
ややあって、後ろから「うっ」というか細い呻き声が聞こえた。
肩越しにちらちらと様子を窺っていると、男の目蓋が痙攣するように震え、微かに開いていくのが見えた。
鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が薄らと覗く。
「エリックさん。この人、まだ息ありますよ!」
カズマが歓喜の声を上げた。
「そのようだ」
だが、状況はそれを素直に喜べるほど楽観的ではない。
彼の肌は本来、健康的な艶のある小麦色であるようだったが、今はチアノーセで病的に変色している。
短く刈り揃えたライトブラウンの髪も、左半分がべっとりと血に染まっていた。
返り血ではなく本人の血だとすれば、頭部に大きな傷を負っていることは間違いない。
「刺し傷だ……」
男の着物に似た上着をはだけさせたカズマが、絞り出すようにつぶやいた。
エリックも、声に釣られる形でそちらを一瞥する。
確かに、腹直筋の左側――ちょうど、先ほど「横腹が痛い」とカズマが押さえていたあたり――に縦長の大きな裂け目が見えた。
そのあまりの生々しさに、エリックは警戒に戻るふりをして目を背ける。
幸いにも、腹圧で内臓が傷口から飛び出て――ということはないように見えた。
だが、網膜に焼きつくほど鮮やかな血潮が、男の腹部全域を真っ赤に染めていた。
チアノーゼの原因は、あの大量出血なのである。
出し抜けに、布を裂く勢いの良い音が聞こえて、エリックはつい、またそちらに顔を向けた。
見れば、カズマが男の服を剣鉈で裂いている。
それを包帯代わりにしようと考えたようだった。
「縛ることには一家言ある」という言葉通り――包帯を巻くことが縛りの範疇に入るかはともかく――彼は手際よく傷口に布を巻き付けていった。
薬も何もない以上、止血は現状でできる最善の手当だろう。
エリックとしても凄惨な傷口を見ずに済むのは、心理的にありがたい。
その安堵が、一瞬の弛緩を生んだのかもしれない。
顔を正面に戻すと、すぐそこに目を血走らせた野盗の顔があった。
どこから現れたのか――
それ以前、いつの間にあと数歩という距離まで近付かれていたのか。
全く分からない。理解できなかった。
その混乱が、エリックを一瞬で恐慌状態に陥れた。
心臓と全身の筋肉がきゅっと緊縮する。
合わせて、身体がびくんと大きく跳ねた。
エリックの反応に、野盗がにやりと下卑た笑みを浮かべるのが見えた。
その唇の端から小量、唾液が垂れ流れる。
次の瞬間、腰だめに構えられた槍のカッターナイフのような形状をした――しかしカッターの十倍は分厚く、五倍は幅広な――刃がエリックに向かって突き出された。
矢の時とは真逆だった。
あの時は、精神が諦める一方、身体が勝手に動いて危機を凌いでくれた。
今回は「避けろ」という脳の指令に反し、硬直する身体が反応できずにいる――。
残酷なほどゆっくりと流れる時間の中で、刃がゆっくりとエリックの胸に迫った。
最初にその尖った切っ先がシャツに触れ、突き破るより早くその奥にある皮膚に触れる。
もちろん、そこで留まることなどない刃は、布と肌をまとめて突き裂き、肉を掻き分けながら内臓に向かって進む――。
そんな未来がコンマ数秒に迫り、明確なイメージとしてエリックの脳裏に焼きついた、その瞬間だった。
横から突っ込んできた大型バスにでも撥ねられたかのように、野盗の身体が吹っ飛んだ。
否、エリックの視界から一瞬で消え去ったと表現すべきか。
それは、まるきり交通事故そのものだった。
インパクトの瞬間、左から衝撃を受けた野盗の身体が>記号のように折れ曲がるのを、エリックの優れた動体視力は捉えた。
だがもちろんのこと、この世界には大型バスもトレーラーも走ってはいない。
それは〈*風火二輪〉で超加速したナージャであった。
彼女は死角となる上空から猛禽のごとく急降下し、重力加速もそのままに身体ごと突っ込んだのだ。両脚を揃えての跳び蹴りである。
「エリック氏。大事ありませんか?」
「えっ……?」
それは、真正面から顔を合わせた上での問いであった。
にも関わらず、エリックの脳は事実を理解するまで数秒を要した。
それが、ナージャの口から発された言葉であることに、しばらく気付かなかった。
「戦術目標は私が撃退します。そちらは、引き続き負傷者の救助を担当して下さい」
「あ、はい」エリックはぽかんとしながら、反射的にそう返した。
「三〇秒以内に終了させます。――では」
ナージャは事務的にそう告げると、〈*風火二輪〉を吹かして飛び去った。
狙う先は、二頭の馬を奪おうとしている野盗たちか。
その背後から、もはや反則的とも言える不意打ちを仕掛けていく。
――この彼女の存在こそ、駆けつけたエリックに「大勢は決した」と即断させた理由に他ならならなかった。
空飛ぶ封貝を駆り、弾丸のように暴れ回る少女は、二桁に及ぶ野盗相手にも猛威を振るっていた。
紅く棚引く〈*旋火綾〉で敵のあらゆる攻撃を完全にシャットアウトする一方、〈*火尖鎗〉や〈*円月輪〉は敵の盾や革鎧といった防御をゼリーか何かのように両断してしまう。
そうして守りを失った男達の横面を、頭蓋がひしゃげる程の破壊力で打ち抜くのは、槍の柄や〈*風火二輪〉で加速した回し蹴りだ。
封貝使いによる一方的蹂躙を前に、野盗は既に瓦解しつつある。
多くは遁走に入るか、距離を取った上で一旦、体勢を落ち着けようとしているのが見えた。
並行して、負傷者や失神した者を引きずって森の奥へ引き揚げようとする動きもあり、総合すると、彼らは組織として撤退を選ぼうとしていると考えられた。
このエリックの予測、および「三〇秒以内に――」というナージャの勝利宣言は、程なく現実のものとなった。
封貝使いが出てきた時点で「勝機なし」と判断せざるを得なかったのだろう。
形ばかりの抵抗を見せはしたものの、結局、野盗どもは潮が引くように木立の向こう側へと消えていった。
尋問用に誰か一人は捕まえておきたいところだったが、そんな余裕はなかった。
怪我人の救助でそこまで手が回らない。それでなくとも、ただ一人の仲間さえ見捨てない、野盗の完璧な逃げ足は見事の一言であった。
損切りの迅速さ、引き際の鮮やかさは、流石、百戦錬磨の実戦集団と言った所だろう。
なんにせよこの撤収によってエリックたちは形式上の勝利を飾ることとなったが、その余韻に浸ろうという者は誰もいなかった。
むせかえるような血の臭いと、方々から聞こえる苦痛の呻き声。
襲われていた商隊の甚大な被害を見れば、勝ちどきどころの話ではない。
死者こそ出ていないが、六人中、三名までが戦闘不能なのだ。
無事な方の三人にしても、命に別状がないというだけ。誰もが全身の到るところに傷を負っていた。
「可能性は低いですが、撤退は見せかけということもあり得ます。私は上空よりそれを見極めますので、お二人は事後処理を」
抑揚を欠くナージャの言葉に、エリックは一瞬ぽかんとなった後、急いで首を数度振った。
「あ、……そうですね。はい。ええと、分かりました。気をつけて」
「そちらも」
短く言うと、ナージャは一顧だにくれず頭上高く上っていく。
「あの、できる女風の封貝使いは誰なんだろう?」
同じ物を見上げるカズマが、剣鉈を鞘に戻しながらつぶやいた。
彼の足下には、手当を受けまた気を失ってしまった商隊の男が横たわっている。
「クラウセンさんが言ってたのは、あれのことか――」
「なんの話?」
エリックは訊いた。
「クラウセンさんはナージャの親戚で、北欧から避難してきた彼女を受け入れた後見人のみたいな存在なんです。そのクラウセンさんが言ってたんですけど、ナージャは封貝を使うとああやって性格がガラっと変わっちゃうことがあるとか」
言われて、エリックはもう一度、飛び回るナージャを振り仰いだ。
現在、彼女は逃げていった盗賊を追いかけるように、街道から外れて森の奥へとゆっくり進んでいる。
その姿は、昔持っていた宇宙ロボットのプラモデルくらい小さく見えた。
「野球でも、普段は引っ込み思案な男がマウンドに立った瞬間、人が変わったみたいに際どい勝負をしかけてくることがあるけど……」
外で会えば、何もなくとも「すみません」が口癖であるのに、バッターボックスに入った相手には胸元を抉るような際どすぎる内角攻めを少しも恐れない。
良くある話だった。
「ナージャは逆パターンだって言ってました。普段より冷静に、物静かになるって。実害はないだろうって話だったけど、確かに今のアレの方が安心感あるなあ」
その時、背後で物音がした。
木材が微かに軋みをあげ、そして何者かが高いところから着地する音が続く。
荷台の奥に隠れていた、二人組のうちの一人であった。
片手に抜き身の剣を構え、油断なく周囲を見回している。その視線は方々を素早く巡ったあと、最後にエリックとカズマにぴたりと定められた。
男は剣の切っ先を下ろし気味にして――多少、警戒を緩めたことを示したつもりらしい――太い声で何か問いかけてきた。
カズマがすぐに一言返した。
もちろん、日本語ではない。聞いたこともない言語であった。
男がまた何か問いかけ、それに今度は少し長く言葉を費やしてカズマが応じる。
聞き終わると、男は軽く頷くように顎を引いた。
失意に項垂れたようにも、謝意を込めた黙礼のようにも見える、曖昧な仕草であった。
見極めようと目を凝らしかけた矢先、
「エリックさん、ないですよね?」
突然、カズマが言った。
「えっ――?」
「いや、だから薬ですよ。手当に使える薬。持ってないですよね」
「あ、う……ん。ないな」
エリックは無意味にジーンズのポケットを叩きながら言った。
「持ってきた荷物の中には当然、用意してたけど。あれはザックと一緒に丸ごと消滅してしまったようだし」
ですよね、とカズマが頷く。
「薬のことを訊かれたんだね?」
察しはついていたが、エリックは確認した。
「――まあ、そうですね」
律儀に答えながらも、カズマは怪訝そうに首を捻っている。
「この人たち、なぜか日本語通じるみたいですけど……エリックさん、どうかしました? 調子悪いです?」
「いや」
エリックは静かに告げた。
「彼らは日本語なんて喋っていないよ」
は? という表情で少し顔を押し出すようにするカズマに、エリックは続けた。
「封貝のおかげだろう。君たちは、聞いたこともない同じ言語で会話してる。そして、カズマくんの頭の中では、それが日本語に翻訳されてるみたいだ。僕には、さっきの会話の内容を全く理解できなかったよ」
思いもしなかったことだったらしく、カズマは声量の制御を一瞬、完全に失った。
「えっ」という声が大きく響き、商団のメンバーたちが思わず色めき立つ。
エリックは身振り手振りで、何でもないのだ、と伝える。
言葉は分からずとも、これはどうにか相手に理解されたようであった。
異世界の人間であっても微笑めば友好が、睨み付ければ敵意が示される。
当然と言えば当然だが、それが通用することにエリックは安堵させられた。
一方、カズマはそれどころではない。
「日本語話す異世界人なんて変だとは思ってたけど……」
自分の口元に手をやり、砂でも噛んでしまったように顔をしかめていた。
「うわー、なんか気持ち悪いな。ヘリウムガス吸って変な声出てるのに、自分だけ普通に聞こえているみたいじゃないか」
「僕は、すんなり意思の疎通がはかれるキミが羨ましいくらいだけどね」
指摘すると、彼はハッとした様子で顔を上げた。
「そうですよね……」
にわかに声のトーンを落し、ばつの悪そうな顔で頭を下げる。
「すみません。そりゃ、異世界で言葉分からない方が不便だし、不安なのは当たり前なのに。そうだ……確かに、この程度で動転するのは逆に無神経だ」
「構わないよ。言葉や文字は覚えれば良い。それくらいの覚悟はしてきた。ただ、今のところは通訳してくれるとありがたい」
「そうですね」
カズマはひとつ頷き、先ほどの会話の内容を語り出した。
曰く、やはり彼らは旅の途中、野盗に襲われた商隊であるらしい。
街道をこのまま進み、馬車で二日ほどの距離にある都市まで向かう途中であった。
そこで、村から運んで来た荷を売る予定であったという。
一行は総勢六名。
男性が五人、女性が一人という構成で、このうち三人が襲撃で重傷を負った。
――女性?
エリックは思わず商隊の方へ視線を向けた。
これまで女性が混じっていることに気付かなかったからだ。
可能性があるとすれば、荷馬車の中で縮こまっていた小柄な人物だろう。
どうあれ、軽傷で済んでいる面子は全員が男性である。
ならば、彼女が重傷者のリスト入りしていることは間違いない。
「で、お前たちの中には封貝使いがいるようだが、治癒の力はあるか? って訊かれて――」
カズマが言った。「もしくは、医療品でも良い。時間はかかっても必ず対価は払うって言われたんです」
「そうか……」
エリックは得心する。右腕を切断したカズマを治癒したのも封貝の異能だと聞く。
その力なら、今ここで瀕死になっている人々をたちどころに全快させることも可能なのだろう。
商隊が期待するのも分かるが、一方で問題もある。
「で、ナージャさんの封貝に回復系の物は含まれてるの?」
「いやあ、どうなんでしょうねえ」
期待薄という思いを隠そうともせず、カズマは言った。
「見るからに攻撃特化っぽいんだよなあ、あの人」
それからすぐ、彼は空を仰いで声を張り上げた。
「おうい、ナージャたーん」
この痩躯のどこから――と不思議になるほどの声量は、獣の遠吠えのように遠く林間を木霊していく。
もっとも、本人はまったく喉を使った様子はない。
普段の発声の延長線上にある、ごくごく普通の呼びかけと言うように涼しげな顔だった。
それでも、呼び声は確実に妹分の耳にも届く。
さながら雪山を下るスノーボーダーといったところか。彼女はまさしく滑るように舞い降りてきた。
エリックの膝ほどの位置で〈*風火二輪〉をホバリングさせる。
小柄な彼女の場合、それでようやくエリックと視線の位置が大体合う。
「ダーガ。お呼びですか」
「うん。ちょっと聞きたいんだけど、ナージャってさ、自分の性格が変わったりすることに自覚はあるのかな?」
「はい」
ナージャはあっさり認めた。
「移動系と攻撃系の封貝を同時に顕現した際、無軌道にこれを行使すると周囲に思わぬ影響を与えてしまうことが懸念されます。より冷静、より客観的な振る舞いを要求される状況下においては、普段とは異なった精神状態を保つよう留意しております」
つまり、いつもの「出たとこ勝負」「考えるより先に動く」といったキャラクターでは、封貝を安全に使いこなせない。
そのために、冷静沈着なもう一人の自分を作り、切替えている。そういうことなのだろう。
この考え方は、エリックにも理解できた。
受験勉強に集中する時は、ハチマキを締めてモードを切替える。
試合前は決まった音楽を聞いて、自分の中のスイッチを入れる。
そういった顔の使い分けというのは、小なり誰もがやっていることだ。
エリック自身、「お前、普段と野球をやっている時は、かなりキャラが違うな」と友人から指摘を受けるタイプだ。自分でも、少し精神状態が違うという認識はある。
「なるほど、なるほど。それは殊勝な心がけだし、上手いことやれてると思う」
カズマはおだてるように言うと、質問を続けた。
「もうひとつ訊いて良い? ナージャってさ、サトミさんみたいに封貝で傷を治したりできるかな」
「いえ」
今度も即答であった。
「私の封貝に人間を治癒できる力があるかという意味なら、ありません。治癒の力は封貝使いの数人にひとりしか持たないと言われています」
「珍しくはないけど、当たり前でもないってわけか」
カズマは親指と人差し指で顎をさするような仕草を見せて独りごちると、「分かった。ありがとう」と微笑んだ。
「――質問が以上なら、哨戒に戻りますが」
「あ、それはちょっと待った」
ナージャのその言葉に、カズマは〈*ワイズサーガ〉の右手を付きだして制止のポーズを取った。
「多分、すぐに一つ頼みごとをすると思う。ここで一緒に、彼らの相談にのってあげてくれるかな」
「了解」
彼女はあっさり頷くと、足下の封貝を消して地に降りた。
右手に〈*火尖鎗〉だけ維持し、カズマと肩を並べる。
移動系と攻撃系統の封貝を同時に現わした時、無軌道に振る舞って被害を出さぬように――
その理屈で冷静な人格が求められるなら、どちらかを引っ込めた時点で必要性は失われる。
実際、気付けばもう彼女の表情は、いつもの快活なナージャ・クラウセンのそれに戻っていた。
「――で、相談とはなんなのだ?」
ここからの話をエリックが理解できたのは、ひとえにカズマの即時的な通訳の賜物である。
その内容は単純にして、深刻を極めてたものであった。
エリックも観察していて分かったことだが、現在、商隊の移動手段として残っているのは二頭の馬だけだった。
元々は幌馬車を引いていた二頭を加えて計四頭いたのだが、こちらは真っ先に野盗の餌食となっている。
襲撃サイドからすれば、荷物を満載した荷車は最優先で止めなくてはならない。
メインターゲットに逃げられては、作戦自体が成立しなくなるからだ。
これが現実世界の自動車なら、矢を射かけてタイヤをパンクでもさせれば良かったのだろう。
が、馬車の車輪はフレーム剥き出しの木製である。
頑強で細い。
となれば、それを引っぱる馬を走行不能にする方が取り早い手段となるわけだ。
かくして、馬車馬の二頭は早々に射殺された。
生き残ったのは、商品価値があると略奪対象にされた馬車とは関係ない二頭のみ。
「ここからなら、自分たちの集落に戻るより、目的地であった街まで行ききる方が距離的にも時間的にも近い。しかしそれでさえ、通常なら一日半の道のりだ。馬を潰す覚悟で走っても、半日縮められる程度だろう」
隊商のリーダー格はそう訴えた。
彼もやはり小麦色の肌で、深みのあるエメラルド色の相貌の主だった。
背は一七〇センチ前後と低めだが、その分、胸板は分厚く二の腕は丸太のように太い。
このエネルギッシュな風貌が年齢を計りにくくしているが、恐らくは三十代後半から四十そこそこといったところだろう。
ちょうど、エリックの父親世代だ。
黒っぽい焦げ茶色の頭髪はスポーツマン風に刈り込まれており、その短さを補うように揉み上げから下顎にかけて、濃いめの髭が続いている。
首長として相応の風格を備えた、巌のような男だった。
「我々の仲間が三人、傷を負って動けない状態だ。そのうち一名は意識不明の重傷で、もう一人は毒の塗られた矢を受けた。この二人については一刻も早い治療が必要であるが、馬の数が足りない。
馬の数が充分であっても、一日半もかけていては到底間に合わない。もし、貴方がたが封貝や薬をお持ちであれば、その慈悲にすがらせてもらおうと期待していたのだが――」
残念ながら、それは叶わなかったようだ。男は沈痛な面持ちで首を左右した。
聞けば、負傷者のうち唯一の女性は、彼らグループの中でもとりわけ重要な存在であるらしい。
その根拠となっているのが、際だって明晰なその頭脳だ。
一度見聞きした物は時間が経っても決して忘れることはなく、街での商取引においては常に大きな働きをしてきたのだという。
算術の才も傑出しており、その計算能力は商業組合の熟練すら舌を巻くほど。
高度で複雑な計算式の裏に潜まされた連中の手管にも、決して引っかかることはない。
――だが、今は毒を受けて死にかけている。
「気立ても良く、それでいて勇気もあるため、我々は一族全員が彼女を娘のように熱愛している。加えて貴重な巫女の血統でもあり、その意味でも断じて失ってはならない存在なのだ。そのような子を守り切れなかったのは、責任者として痛恨の極みだ……」
一通り話を聞き終えたエリックは、思わず唸った。
彼らの馬は、日本人が漠然と想像する競走馬等よりも一回り小さい。
その意味では小馬、あるいはロバに近しい存在である。
したがって、どう頑張っても定員は二名まで。
元気のある者が手綱を取り、怪我人を前に抱きかかえ込むか、背負う形で後ろに据えるか。この組み合わせ以外、選択肢はないだろう。
実際、馬車の近くで動き回っている男衆は、二人乗りに備えて積載物を下ろしにかかっている。
この計算でいくと、運べるのは三人いる怪我人のうち一人だけに限られてしまう。
溢れた二人は実質、見捨てられて死ぬことになるだろう。
否、馬に乗せるのは重傷者が優先ということになるが、そちらはそちらで一日半はどうあってももたない。
今すぐにでも解毒か輸血が必要な重傷なのだ。
結局、都市に着いた頃には死体になっている。
つまり、このままいけば三人の負傷者は全員助からない。
比較的、傷が軽めの一人に馬を回せば、彼だけは助かるかもしれない。
だがその場合、重傷者の二人は諦めることになる。その中には、VIP待遇の少女も含まれるわけだ。
せめて、向こうの医薬品を持ち込めていれば――
気付けば、エリックは奥歯を噛みしめていた。自分の責任のような気さえしていた。
数ヶ月前に施設入りしたが、それまでエリックの自宅には要介護認定を受けた祖母がいた。
彼女が服用していた、医師の出す書類がなければ買えない強い薬――すわなち処方箋指示薬が家にはまだ大量に残っており――薬事法的に問題があると知りつつも――、エリックはこれを根こそぎ持ち出してきていたのだ。
抗生物質。
高クラスのステロイド。
解熱剤。
中には、血液凝固作用を持った鎮痛薬の類も含まれていた。
当然、普段使っているテーピングや消毒液も。
あれらを無事に持ち込めていれば、止血し、消毒もできた。
感染症を避け、清潔な包帯で身体を包むことができた。
無論、それだけで解毒や重傷の治療までできるわけではないが――
それでも、延命くらいにはなったかもしれない。
目の前に死にかけた人間が横たわっている。
できる事があったはずなのに、自分はそれを手放してしまった。
たとえ、仕方のないことであっても。
その現実が今、エリックに言い知れぬ衝撃を与えていた。
「じゃあ、やっぱりこれでいくしかないか……」
不意に、カズマがぽつりと零すのが聞こえた。エリックは俯き加減にしていた面を跳ね上げるる。
「カズマくん! まさか、何か良いアイディアがあるとか?」
両肩を引っつかんで揺さぶらんばかりに詰め寄ると、カズマは鼻白んだように上体を仰け反らせた。
「いや……オジさんに訊かれるなら分かるけど、なんでエリックさんがそんな勢いで……」
カズマは、どうして分からないのか逆に不思議、という顔で目を白黒させている。
言葉の内容は分からずとも、一連のやりとりから何かを察したらしい。
リーダー格の男が、異世界の言語で声をかけてくる。
藁をも掴まんとする、沈みかけた人間の顔だった。
「エリックさん、あるでしょ。むしろ僕ら、強制体験させられたばっかじゃないですか」
カズマは一瞬、悪戯っぽい笑みを浮かべると言った。
「ほら、馬よりも速い、健康な人間でも殺しかねないほどの超高速移動手段。――ね?」
その言葉にはっとするエリックを尻目に、カズマは商隊長に向かって早速、説明の口を開き始めていた。
こちらの言葉が分からずとも、もはや何を言い出したかはエリックにも完全に理解できた。
恐らくそれは、こんな言葉から始まったに違いない。
「実は、ウチの封貝使いは他人を何人か担いで空をぶっ飛ぶことができまして――」