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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」
13/64

サイドワインダー


  012


 エリック・J・アカギの何が高校球界を代表するスラッガーたらしめていたか――。

 その答えは、ひとえに人並み外れた反応速度にあった。

 時に、配球で完全に予測の裏をつかれたとしても、身体が勝手に動いて対応する。思考をほとんどかいさないそれは、むしろ反射に近しい速度を誇った。

 内角高めの真っ直ぐに合わせていたところに、外いっぱいの落ちる弾が来る。だが、気付けばバットはそれに相応しい軌道を描き、真芯で白球をとらえている。「やられた」と思った球すら、エリックはスタンドに運んだことが何度もあった。

 ――間に合わない。

 眼前に迫る矢尻を目視した瞬間、直感的にエリックはそう判断したが、状況はこのたぐまれな球児に味方していた。

 なにより、矢が真正面から飛んできたのではなかったことが大きい。

 敵はわざわざ右側面に回り込み、エリックのほぼ真横から必殺の一撃を放ったのだ。

 なるべく発見されにくい位置から――。そう計算されたこの動きは、しかし結果としてエリックを救う最大要因となった。

 左脇側から飛んでくる物に、首だけひねって顔を向ける。

 飛来物に対して半身というこの構図は、偶然にも右バッターボックスに入り敵の投球を待つ、エリックのいつもの臨戦態勢に限りなく近い物であった。肉体が最もオートで反応しやすい形が、この時、偶然作られていたのだ。

 強打者の必然として、時に厳しい内角攻めを受けるエリック・J・アカギは、当然ながら四死球を非常に多く経験していた。ピッチャーのわずかな手元の狂いから、自分の頭や胴体に向けて唸りをあげて迫ってくる白球を見たことにしても、一度や二度では済まない。

 当たる。

 一瞬、そう覚悟した矢の脅威を、この時も鍛えられた感覚と神経が迎えうった。

 致死性の鋭い斜線が、シャツのボタンを弾き飛ばしかねないぎりぎりの所をかすめ過ぎていく。

 後ろ向きに倒れ込みながら、エリックは自分が死をまぬれたことを知った。

 だが、それで集中を途切らせることはない。ヒット性の当りは、だがヒットではない。全力疾走を怠れば、相手の好守で一塁到達以前に刺される。

 助かった。しかし――

 尻餅の要領ようりょうで地面に手と腰をつく前、スローモーションのように停滞した時間の中で――とりあえず、相手が二の矢を継ぐまでは――とエリックは付け加えた。

 そして受け身のために突き出した両手が土の感触をとらえた瞬間、それを支点として後ろ回りに素早く身体を回転させ始めていた。

 この瞬間の判断は、またしてもエリックの命を救った。

 コンマ数秒後、エリックの身体があったまさにその場所に、サクッという小気味の良い音を立てて何かが突き刺さった。

 もし並の人間がそうするように、第一矢をかわしたことに安堵しきり、尻餅のまま一瞬でも硬直していたなら。

 ――今のも正確に急所をとらえてたな。

 エリックは音だけで全てを察した。そして、だからこそ止らなかった。背中を丸めて素早く二回転すると、今度は真横に身をひるがえした。飛び込み前転。あるいは柔道の前回り受け身に似た動作を数度繰り返し――直線的な移動にならないよう常に方向を微妙に変えながら――、一番近い草むらに飛び込んだ。

 それから、移動の途中、既に当りを付けていた大樹の陰に身を隠す。

 それでも集中を解かず、バットを正眼せいがんに構えた。伏兵の存在を確かめるべく、素早く周囲に視線を走らせた。気配はない。三人目は伏せられていない。

 この時点でようやく、エリックは止めていた呼吸を再開した。

 胸を突き破って出てきそうに思えるほど、心臓が尋常ではない脈打ち方をしていた。

 野球の心理戦では、負けても死ぬことはない。だが、今は死ぬ。勝ちか負けではない。死ぬか、助かるか。生命の二択を迫られる状況なのだ。まさに極限状態。その事実が今、自分の精神をかつてないほどの速度で疲弊させている。

 射手の動きを正確に読む必要があった。自分が木陰に隠れたことで、残ったカズマとナージャに標的が変わるかもしれない。

 この場合、当然ながら彼らの死亡リスクが高まる。特に防御手段を持たないカズマは危険と言えた。そして、仲間を失うことは、回り回って自分の破滅にも繋がるだろう。

 素早くそこまで思考し、エリックは選択を迫られていることを認めた。

 もし射手の注意が自分かられたのなら、攪乱かくらんに回ってカズマたちをサポートしなくてしはならない。できるなら、今すぐにでも。

 ――足下を見る。

 土中に三分の一ほど埋まった、手頃なサイズの石があった。他に、やや小さいが使えそうな小石が二つ。バットを木の幹に立てかけ、迷わず三つとも拾い上げた。手の中で感触を確かめながら思考した。

 エリックの守備位置はサード。射手が潜む草むらまでは目算で二、三塁間ほどしかなかったように見えた。塁から塁までの距離は共通して九〇フィートというのが規定だ。すなわち約二七・五メートル。この距離ならば、エリックはほとんど助走なしでもノーバウンド送球が可能であった。コントロールミスもほぼない。

 とあらば、問題は二つだった。

 ひとつは、矢を外した射手がいつまでも同じ場所に留まっているか? という基本的な疑問。移動していると無人の草むらに石を放ることになる。

 そしてもうひとつは、留まっていたとして、エリックが木陰から姿を現すのを舌なめずりして待っているのではなか? という、命の危険だ。

 後者のパターンであった場合、投石で味方を援護しようとおどり出た瞬間、エリックは自分の胸から矢がえているのを見ることになるだろう。結末は死だ。

 どうする……?

 エリックは、無意識に額をぬぐった。まくを張るようにびっしょりと脂汗あぶらあせが浮いていた。ぬるりとした感触が不快だった。

 最初の矢が放たれてからここまで、恐らく三〇秒と経っていない。だが、既に一時間のロードワークより体力を消耗し、神経は緊迫した投手戦の最終盤より摩耗している。

 もはや、これは野球にたとえられる状況ではなかった。試合では、こちらが準備を整えバッターボックスで構えるまで敵は投げてこない。それがルールであり、暗黙の了解である。

 が、今はそのような保証など全くないのだ。

 判断に時間はかけられない。考えれば考えるほど、迷えば迷うほどこちらが不利になる。こちらがタイムを要求しバッターボックスを外していても、敵は構わず投げてくる。ボールは無人のバッターボックスを通り過ぎ、ストライクが無情に宣告されていく。それが三つ累積すれば、(アウト)だ。

 エリックにもそれは分かっていた。――分かってはいたが、動けなかった。

 何が最適解なのか判断がつかなかった。

 下手に動けば誰かが死ぬ。失策(エラー)が「気にするな(ドンマイ)」では済まされない世界なのだ。取られたら取り返すの理屈も通じはしない。取られるのは命であり、それは取り返せない。決して。

 気付けばエリックは、手の中の石をまるで自分の命とでもいうかのように、強く握りしめていた。小刻みに震えているのは、力が籠もりすぎているからではない。当然、武者振いの類でもなかった。その証拠に、指を軽く開いてみても震えは収まらなかった。

 こんなありさまで、何かひとつでもまともな行動をとれるものか……?

 己が精神の脆さをまざまざと見せつけられた気がした。

 地元の英雄、甲子園のスターともてはやされても、自分は所詮この程度なのか。

 部活動で鍛えたつもりの精神など、結局、生か死かの極限状態ではやわな物でしか亡いのか。

 半ば絶望しかけた時、その声は聞こえてきた。

「〈*乾坤圏《フォックスツー》〉――ッ!」

 嬉々としたその口訣がナージャのものであることは、すぐに分かった。

 理解できなかったのは、続けて聞こえてきたチェーンソーが大樹を削っていくような伐採ばっさい音、巨木が倒れるとき特有のミシミシというきしみ音、そして巨大な質量の激突が大地を震わせる轟音……これらだった。

 フォックスツーは射撃用の封貝であると聞く。なのになぜ、木が倒れるのか。それが丁度、自分に射かけた弓兵の潜む辺りから響き渡ってくるのはどういう理屈か。

 エリックは危険も恐怖も忘れ、木陰から顔を覗かせた。音の発生源に視線を投げる。

 瞬間、全てを理解した。

 肉切り包丁(ブッチャーナイフ)で魚肉ソーセージを切り裂くように、次から次へと大樹を両断して飛び回るのは、金色に輝くドーナツ型の円盤であった。大きさは――動きが速すぎる上、距離と角度の問題でひど目算もくさんしにくいが――恐らくは一般的な日本の丸蓋マンホールより一回り、もしくは二回りほど小さいだろうか。

 エリックはすぐさま、インドの〈チャクラム〉、日本のニンジャが使ったとされる〈円月輪えんげつりん〉のようなもを思い浮かべた。

 実際、その投擲とうてき武器は光沢からして明らかに金属製で、全体的に刃物のように薄く、滑らかな外縁部に到ってはまさに刃物のそれとしか思えない鋭利さを備えているようであった。円月輪チャクラム系の条件そのままだ。

 もっとも、高速回転し、電柱四本分はあろうかという太さの巨木すらスパスパと切り倒しては、縦横無尽に周囲を飛び回る円月輪など存在するわけもないが。

 伐採された木々は、そろそろ大小合わせて二桁に及ぶだろう。弓兵が隠れていたエリック対面の木立は、今やすっかり見通しが良くなっていた。

 必然、遮蔽物しゃへいぶつの排除は、隠れていた存在を丸裸にもする。樹皮の色に合わせたような茶系の上着アウターとボトムス。これに頑丈がんじょうそうな革の(レザー)ブーツをいた薄茶髪の男が、悲鳴を上げながらデタラメに駆け回っているのが今や良く見えた。手にした武器までかなぐり捨てて、半狂乱の形相ぎょうそうであることまでうかがえた。

 対して、ナージャの円月輪フォックスツーはあくまで容赦がなかった。自動追尾なのか、遠隔操作なのか――。逃げ惑う標的を執拗しつように追い回し、真綿で首を締めるかのごとく、徐々に追いつめていく。

「なるべく殺さない方向でね」

 途中、カズマが投げた指示も関係しているのだろう。最終的には回転する刃で八つ裂きにするのではなく、切り倒した木の下敷きになるよう誘導し、射手を完全に無力化することで決着を付けた。

 四肢のどこかを挟まれでもしたのか、男はその後もさかんに助けを求めるような声をあげている。逆に言えば、胴体をつぶされ圧死するほどの被害は受けていないらしい。そこはカズマの注文通り、ということだろう。

 仕事を果たした円月輪は、にわかに回転速度を下げた。そのままブーメランよろしく、主の元へゆっくりと引き返し始める。ややあってそれは、ナージャが差し出した右手にぴたりと収まった。

「助かりました、ナージャさん。危ないところでしたよ」

 腰が抜けそうになるのをこらえ、エリックは努めて笑顔を保ちながら言った。

「どうということはない」

 不敵に唇の端を吊り上げるナージャの手元で、役目を終えた円月輪フォックスツーが煙のように姿を消す。

「こいつらは別に封貝使いと言うわけでもなかったしな」

 こいつらの言葉が示す通り、カズマとナージャはもう一方の刺客も既に片付けていた。手足を縛られ、猿轡さるぐつわまでされた状態で近くに転がされている。例の、剣型のなたを振りかざし、人間離れした動きで急襲してきた獣人だ。

 ちらと見た限りでは人狼のような容貌に見えたが、近付いてみると特徴的にはむしろ狼というより猫に近いようであった。顔の輪郭は丸っぽく、鼻面や口蓋の突き出しもさほどない。だが、毛皮を被った人間ではなく、獣のような毛皮を持った異形の生物あることは間違いないようである。

「よく、あの一撃をかわせましたね。どうやってやっつけたんですか」

 不思議に思ってエリックが問うと、ナージャが自慢するように経緯を説明しだした。

 いわく、飛びかかってきたこの男は、飛んで火に入る夏の虫とばかりに〈マフラー型封貝(デルタワン)〉でからめ取った。

 あとは頸動脈けいどうみゃくを圧迫。柔道や格闘技のめ技でいうところの「落ちた」状態に追いやったのだという。

 このメカニズムはエリックも知っていた。のどを締めて呼吸不能にするのではなく、首にある血管を押さえ込むことによって失神させるものだ。

 喉を絞めれば、人間は死んでしまう。全身で酸素が不足するためだ。

 一方、頸動脈の圧迫は、脳だけを一時的な酸欠状態にすると聞く。外部から頸動脈胴が刺激されると、迷走神経反射という現象が起る。これにより、脳が生命維持モードに入ろうと自ら意識をシャットダウンするのだ。

 なんであれ、失神した敵の処理はカズマが行ったのだ――とナージャは語った。エリックが矢から逃げ回り、その後、円月輪に目を奪われている間の仕事であったのだろう。

 服を脱がし、それを拘束着こうそくぎ代わりにしたり、割いてひもにしたりして効率良く敵を無力化していったその手際は怪しいほどに見事なものであったらしい。

「まあ、脱がしたりしばったりに関しては一家言いっかげんあるタイプだからね。僕は」とは本人の弁であった。

「――脱がさずとも、マフラーでしばらく縛っておくことはできなかったんですか?」

 エリックのこの問いに、ナージャは何故か「できないことはない」という曖昧な言葉で返した。

「ただその場合、お前を助けるのが大変になっただろうな」腕を組み、少し難しい顔をして彼女が付け加えた。「〈封貝〉というのは――移動用のを除けば――基本的に同時に二つは使いこなせないものなのだ」

 つまり、防御用と攻撃用は特殊な例外を除いて、一緒に扱いこなすことはできないのだという。攻撃したければ防御の封貝を引っ込め、防御をしたければ攻撃は一時中断しなければならない。

「そういうことでしたか。改めて、ありがとう」エリックは得心しつつ、軽く頭を下げた。「それと、何もできなくて申し訳ありません。女性ばかり矢面に立たせてしまって、こちらは隠れているだけで精一杯だった。本当に恥ずかしいことです」

 必要以上、深刻に聞こえないよう気をつけたつもりだが、まぎれもない本心であった。これほどの無力感を味わった経験は、ほとんど記憶にない。

 死の恐怖にさらされると、木の影に隠れてガタカダ震えていることしかできない。そのような自分など、到底受け入れられるものではなかった。

「離れた所から射かけられたんだから、逃げ隠れするのは当然だ。今回、お前は姿を隠しているのが一番だったと思うぞ?」

「ええ、それはそうなんですが」

 では、自分が同じ弓を持っていたとたら、何か違った行動がとれただろうか。

 それに胸を張った回答ができない。それが、エリックをまた苦しめた。

「しかし、なんだったんだろうね。この人達。――と言うか、これ人なの?」

 カズマが亜人の持っていた剣鉈けんなたを拾い上げながら、毛むくじゃらの捕虜をあごで示す。

「こちらでは人間を〈エイン〉と呼ぶけど、こいつはもちろんエインじゃないな」

 ナージャが事もなげに答える。

「こういう動物が混じったような連中は他にも何種類かいるし、他にも〈レタル〉や〈クルプン〉みたいな、根っこの部分からの異種族もたくさんいるぞ」

「なんか、本当に異世界って感じだなあ。指輪物語みたいだ」

「それで」とエリック。「種族のことは置いておくとして、彼らはどうして襲ってきたんでしょう?」

「まあ多分、山賊だからじゃないかな」小さく首を傾げてナージャが言った。「結構、訓練されてたし傭兵くずれかもしれない。街道にはこういうのが必ず出る」

「なにそれ。物騒すぎにも程があるよ」

 カズマがあからさまに顔をしかめた。

 彼は手に入れた刃物が気に入ったようで、素振りでその感触を確かめようとしていた。

「日本で言うなら、高速道路で移動してたら高確率でテロリストの襲撃を受ける――って言ってるようなもんだよね」

「だから、こちらは物騒な世界だと言ったじゃないか。野盗なんて珍しくもない。人間エインと亜人が同じ少人数グループで行動するっていったら、賊かダーガたちの言葉でいう……ええと……冒険者? あれのどっちかだ。どっちも荒っぽい奴らだけど、今回はいきなり殺しにかかってきたし、やっぱり野盗の方だろう」

「冒険者というのはともかく、傭兵くずれの賊っていうのは分かる気がするなあ」

 エリックは服のあちこちに付着した土を払い落しながら言った。

 見ると、ジーンズの左膝に親指で開けた程度の小さな穴ができていた。アドレナリンの分泌が落着き、痛覚も正常化しつつある。今になってようやく、あちこち擦り傷をこさえていることにエリックは気付かされた。

 もっとも、細かい傷は部活で慣れっこだ。構わず言葉を続ける。

「僕らの現実世界でも、中世ヨーロッパなんかではそういう傾向があったらしいんだ」

 そこまで言うと、エリックは思わず失笑しっしょうした。

 去年の世界史担当を思い出したのである。

 彼は非常にユニークな男性で、中世フランス史を専攻していたというまだ三十代の若手であった。そのためか、彼が行う〈世界史B〉の授業は、とりわけ中世欧州部分にやたら力が入っており、毎度のように脱線を繰り返した。途中からは教科書を完全に放り投げ、マニアックなうんちく話を熱く語り出す。おかげで彼が担当する教室の授業進度は遅れに遅れた。熱心な進学派からは、これに抗議の声も上がったと聞く。無理もない。

 だが、エリック自身は彼の話を聞くのが好きだった。

 成人してなお衰えない、その熱意を好ましく感じていた。

「お前ら。なんか面白いことないかな……とか口癖くちぐせになってる奴、この中にも何人かいるだろ。ああヒマだとか、退屈だとか、ブチブチ信じられないような文句言ってる奴。何か夢中になれるもの探してるけど、何やって良いかまだ分からないでいる奴。全員、歴史やれ!」

 最初の授業の時、彼が開口一番そう言い切ったことは、今でもはっきりと覚えている。

「歴史はな、脳から変な汁出るほど面白いぞ。研究しても研究しても、死ぬほど面白いネタが溢れかえってて、逆の意味で絶望するくらいだぞ。読めずに終わる資料が多過ぎる。後から後から新事実が発掘されて、常識が何度も塗り替えられる。あの楽しさはやった人間にしか分からんぞ。一生が短すぎて、暇とか口が裂けても言えなくなるぞ」

 今、披露しているのも、わざわざ自前のプリントを作ってきて熱弁を振るった彼の脱線話の一部である。

「傭兵って、国に金で雇われた助っ人兵士だよね。だから、戦争が起ってる所を点々として、王国側についたと思えば次は敵対してた反乱軍の側で戦ったり……それでも、当時の戦争って常に切った張ったやってたわけじゃないらしくてね。膠着こうちゃく状態に陥って何ヶ月もただにらみ合うだけの状態が続いたり、これから一ヵ月間ちょっと休戦ね、みたいな約束が両軍の間で結ばれたりで、戦いがない時間帯の方がよっぽど長かったらしいんだよ」

 たまらないのは傭兵だ。彼らには休戦の間、給料など出ない。出たしても生活できる程のものではない。傭兵は団体だ。そのリーダーは部下達を飢えさせないよう、休戦中は別の食い扶持ぶちを探す必要に迫られる。

「その結果、何が起ったかというと、戦えない間は副業的に山賊や盗賊になって、村や集落を略奪りゃくだつするっていう業態ぎょうたいの発生なんだ。傭兵だけじゃない。正規軍の下級兵とか、場合によっては騎士みたいな人たちも、暇な時は賊と化して街を荒らし回るようなことが結構あったらしいよ」

 戦争に負け、帰るべき故郷を失った敗残兵はいざんらもしかり。

 彼らは実戦経験の豊富な現役、あるいは元兵士だ。野盗の類としては異例の戦闘能力を持ってたことだろう。襲われる側からすれば、さぞ脅威きょういであったに違いない。

「しかし、殺伐さつばつとした話だなあ」しかめ面でそうこぼすと一転、カズマは拍手の真似をしながら続けた。「でも、流石はエリックさん。色々と良く知ってる。ヨウコも文武両道の人だって言ってたけど、確かにその通りでしたね」

「野球の技術は練習してもなかなか眼に見えて伸びてはくれないけど、勉強はした分だけ成績に反映されやすいからね。実は嫌いじゃないんだ」

「おお、なんだか優等生っぽい。やっぱりそんな風に感じないと、成績上位なんて難しいんでしょうねえ」

 茶化すつもりはなく、本気で感心しているような口ぶりであった。

「嫌々やるより、好きでやる方が身につきやすいだろうね。楽しんでやれるなら、それが常にベストだよ。その点、僕は確かにラッキィなのかな? 知識はつければつけるだけ、自分のデータベースが充実していくわけだから、やりがいがあるって感じるし」

「まったく。ダーガたちは放っておくと、すぐにそうやって妙な話を長々と始める」

 やれやれ、というようにナージャが首を振り振り嘆息たんそくしてみせた。

「――ああ、すみません。ナージャさん」エリックは素直に頭を下げた。「お話しの途中でしたね」

「うん……まあ、なんだ」

 彼女は両目を閉じ、軽くあごを上げる。思いのほかストレートな謝罪が返ってきて戸惑った、という風にも見えた。

「こちらの悪い奴らは、さっきのお前の話と似たところがあると言われている」視線をエリックに戻して続けた。「もちろん専門で山賊やら海賊やらをやってる連中も多いと思うけど」

練度れんどを考えると、今回襲ってきたのは正規の訓練をどこかで積んだ連中であろう、と?」

「うん。私はそう思った」

 エリックとしても、この意見には抵抗なく賛同できる。素人目ながら、先程の弓兵は大変な手練てだれであったように思えた。狙いの正確さ。二の矢を継ぐまでの速さ。思い返すだけでも背筋が凍る。今、こうして無事でいられることが不思議な程であった。

「じゃあ、この人たちに関してはそう理解しておくとして――」

 亜人から奪った剣鉈のさやを自分の腰に巻きながら、カズマが言った。

 彼はエリックたちから視線を切ると、森の奥側へ身体を反転させて続ける。

「あっちじゃまだめてるみたいよね」

 その指摘通り、右向きにややカーヴして木々の向こうに消えている街道の先からは、怒声や悲鳴に似た様々な叫びや、馬のいななきが響いてくる。

「片方が盗賊団なら、もう一方は行商人とかそういう一般ピープルである可能性が高いんだろうし。僕らも次の行動をそろそろ決めた方が良いんじゃないかな」

 それは、その通りであった。ぼんやり〈世界史B〉の思い出話をしている場合などではない。人命がかかっている。

 エリックは置きっぱなしにしていたバットを取りに、木立の方へ駆け戻った。

「僕らは無一文だからね。ここは恩を売って、食事なり情報なりお金なりを手に入れておきたい。――で、プランだけど。ナージャは単独で先行してそのまま奇襲。とにかく、襲われている方の安全確保を最優先で頑張ってみてくれる? 無理と思ったらすぐ戻ってきて、僕らに教えて」

 背後では、カズマがさっさと方針を決めている。

「任せてくれ、ダーガ」

「別働隊に二人割いてきたってことは、本体はそれ以上の人数だと思う。不殺にこだわるとこっちが危なくなる可能性があるから、制限は設けない。ただ、情報を引き出せるかもしれないから、地位の高そうな奴を優先に全滅だけはさせないようにね。もちろん、できる範囲で構わないけど」

「了解だ。他に指示はあるか?」

 今すぐ家を飛び出して遊びに行きたい子どものような口調だった。

「指示を出したのは僕だ。だから、これからナージャがすることの責任も僕のものだ」

「ん――? よく分からないが、分かった。じゃ、行ってくる!」

 直後、エリックを身体ごと吹っ飛ばされそうな圧を伴い、爆音が轟いた。圧縮され、津波のようにまき散らされた大量の空気塊が、周囲の木々を猛烈に揺さぶる。狂ったような葉擦はずれの音が頭上からシャワーのように降ってきた。

 エリックは急いでバットを拾い上げ、カズマの元へ走った。

「楠上くん、お待たせして申し訳ない。僕らも急いで後を追おう」

「ですね」と、一歩踏み出しかけたところで、カズマが急停止する。振り返って言った。「今更ですけど、エリックさん。楠上なんじょうって言いにくいでしょ。カズマで良いですよ」

 エリックは微笑した。本当に今更だが、悪くない提案だった。

「分かったよ、カズマくん。そうさせてもらう」

 エリックはバットを、カズマは鉈を、それぞれ利き手に構えながら走りだした。

 一〇〇メートルを十一秒台で走るエリックは、意図してカズマに速度を合わせた。

 森の中を進んだ敵が、先程のように側面から飛び出てくる可能性はまだある。これに備えるためには並走した方が良い。そう判断したためであった。

 右側をカズマ、左側をエリックが担当し、それぞれ警戒しながら足を進める。

「あの、カズマくん」途中、声量をひかえめにして、エリックは言った。

「はい――?」

「さっき、ナージャさんを大声で叱っていたのは、もしかして相手にわざと気付かせて、何人かおびき寄せるためだったのかな」

「え、はい。そうですけど?」

 運動し慣れていないカズマは、早くも軽く息を弾ませていた。とは言え、まだ辛そうな様子はない。エリックの問いを受けて怪訝そうに小さく首を傾げている。

「説明しなくても、結構分かりやすい感じでやったつもりでしたけど。伝わりにくかったですかね」

「ああ、いや」エリックは慌てて否定した。「そういうつもりで訊いたんじゃないんだ」

 ただ、と続ける。「そうだとしたら、随分と思い切った作戦に思えたから」

 エリックからすれば、気付かれないまま接近し、一気に不意打ちした方が安全だったのではないか――とも思える。

 そんな言外の訴えに気付いたのだろう。カズマは得心とくしんしたようにひとつ頷いた。

「全部で十人から二十人規模のいざこざっていうなら、野盗は少なくとも五人以上ですよね? 下手すれば十人越えるくらいに考えないといけない」

 カズマは「でしょう?」と視線で同意を求めてくる。

 エリックは頭の中でざっと計算し、これに首肯しゅこうで返した。

 大雑把に半々の人数比と考えるならば、カズマの見立てにもそう大きな無理は生じない。

「とすると、僕たち三人で不意打ちしても効果は薄いですよ。すぐ対応されちゃう」

 カズマは言葉こそ切れ切れながら、はっきりとそう言い切った。そして続ける。

「だったら、様子見に何人か来させて、それを先に叩いておいた方が戦力(けず)れて良いかなあ、と」

「その場合、さっきみたいに奇襲を受けることになるね」

「ですね」

「もし、その中に封貝使いが混じっていたとしたら、という恐怖はなかった?」

「エリックさん」

 カズマは、エリックを安心させるように笑顔を見せた。

「もし封貝使いがいたなら、ナージャがその気配を感じたはずですよ。聞こえてくる音だってもっと騒々しくないといけないし。なにより、こんなに戦闘は長引かない」

 言われてはっとした。そして不覚にも口元に笑みを浮かべてしまいそうになる。

 確かにその通りだった。

 ナージャがちょっと封貝を使っただけで、周囲には暴風が渦巻き、周辺の木々は根こそぎ伐採されて地響き続きであった。それはエリックも、今は充分に承知している。

 だが、行先から聞こえてくる剣戟の木霊は、そういったものとはほど遠い。

 むしろ大人しいとさえ言えた。

 ――相手に封貝使いはいない。

 それを確信し、また偵察隊を通して相手の実力を把握できたからこそ、カズマは安心してナージャを先行させたのだ。

 彼はつねから飄々《ひょうひょう》としており、考えが読めない。適当、いい加減、投げやりな言動も目立つ。

 だがその実、考えている。物事の先を、人の心理を深く見通している。

 急激にペースを落とし始めたカズマに合わせてやりつつ、エリックは彼の再評価の必要性について考えだしていた。

「すみま、せん。なんか、横腹が、痛くなってきちゃって……」

 左脾臓(ひぞう)の辺りをさすりさすり、カズマが荒い息で謝罪する。

「仕方ないよ。ナージャさんを信じて、ちょっとペースを落そう」

 エリックは笑顔で言った。バテ過ぎても、向こうに着いた時、動きが鈍って危険になる。

 とはいえ、時速はもはや一〇キロを割っている。全国区のアスリートにとっては、ほとんどLSDレヴェルの負荷だ。このペースなら、エリックは二時間でも三時間でも走り続けられるだろう。

 では、カズマ抜きならもっと速く走れるかとなると――それはそれで微妙な所だった。

 体力の問題ではない。

 奥へ向かう度に道幅が極端に狭まり、比例するように路面状況も悪化してきているのだ。折れて落下した枝。ずるずると滑る腐葉土。とりわけ厄介なのが、静脈のごとく縦横無尽に広がり、地表を破って大きく露出している木の根であった。カズマも、先程から頻繁に蹴躓けつまづいてフラついている。

「音が……近く、なりましたね」

 やがて、カズマが地獄で蜘蛛の糸を見たように言った。

 エリックは無言でうなずく。

 道はいよいよ細まり、もはや軽自動車ですらすれ違うのは困難そうに見えた。加えて長細いSの字にカーヴしており、先を見通すことはできない。

 だが、ライヴ会場のドアを開いた時のように、先程までぼやけていた音が急激に輪郭をくっきりとさせ、クリアに届くようになっていた。言語を理解できれば、何を叫んでいるのか意味を理解することさえ可能であるに違いない。

 エリックは一瞬、バットを左手に持ち替えた。走りながら、右手の汗をジーンズにこすりつけて拭う。そうしてまた、利き手でグリップを握り直した。

 カズマもだらんと垂れ下げていた剣鉈を、改めて構え直している。

 直後、エリックは、自分たちが完全に出遅れたことを知った。

 そこは一〇メートル級の広葉樹が鬱蒼うっそうと茂る、S字の最終カーヴを右向きに更に大きく伸ばした曲道の途中だった。

 たたでさえ見通しが悪い上、左右から張り出した枝葉えだはが頭上高い位置でからみ合い、アーチ状の天井を成すことで昼でも薄暗い空間を作り上げている。

 その薄闇の中で、戦闘は発生していた。

 閃く刃物の多くが既に血を吸い、周囲に粘っこい鉄錆てつさびの匂いを充満させている。それでも充分ではないらしく、新たな血を求めて、まだあちこちで刃物のかち合う耳障りな金属音が響いていた。何かが燃えているのか、きな臭さも鼻孔を刺激する。

 そして、血を流し力なく倒れている人間の姿――。

 やはり道中、時間をかけ過ぎたのだった。既に犠牲者が出ている。

 なにより、もう大勢たいせいは決しようとしていた。

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