ライディン’・ダウン・ザ・ハイウェイ
011
「これは……酷い」
それを目の当たりにして第一声を発したカズマは、半分笑っていた。
エリックとしても気分は似たり寄ったりだった。思わず乾いた笑みを浮かべそうになる。
ナージャが「街道」と呼んだものは、実際、道なのかすら怪しい未舗装路だった。
幅は自動車用車線が二本引けるくらいか。日本における一般道の幅は大体三メートル強と聞くので、ざっとその倍。六、七メートルとなるだろう。唯一、解放感あるその幅広さだけが評価可能なポイントだ。
あとはもう、何もない。人間や馬車の類が通ることで、土が踏み固められた。単にそれだけだった。なるほど、周囲に比べて雑草の類は少ないかもしれない。五メートル間隔で二、三個、平べったい石が並べて埋められているのも分かる。それが明らかに人為的に続いているため、辛うじて人の手の入った場所であることに気付くこと自体は可能だ。
だが、お世辞にもそれらは舗装と表現できるレヴェルの工作ではなかった。まして、石畳などと呼べるものでは断じてない。
「ナージャくん。こちらの世界では、こういったランクのものを街道と呼ぶのが通常なのかね」
カズマがげんなりした顔で問うた。
「大部分はこんな感じなんじゃないか? よほど大きな街の近くにでも行かないと、石畳だとか煉瓦敷きのちゃんとした道はないと思うけど」
「どうしよう。エリックさん」カズマがかつて見たことがないほど緊迫した表情、声で言った「早くも本気でおうち帰りたい」
「――頑張ろう」彼の肩に手を置いて、エリックは軽く揺すった。半分、自分にも言い聞かせるように繰り返した。「もう少し、頑張ってみよう」
カズマはそれに随分と長い嘆息で答えた。
「……なら、策というか、プランがいるね」
仕方ない、という表情でそれだけ言うと、さして思案する様子もなく続ける。
「水質が怪しい河川の存在を後に回すと、飲料用の水を確保するなら、湧き水か露を大量に採取できる場所を見つけたいね。となると、確率が高いのが山か森かな?」
一旦そこで言葉を切った彼は、街道の外縁を示すために置かれたらしき、膝丈ほどの小岩に腰を落した。
その様子を何となく眺めつつ、エリックは訊ねた。
「森は夜になると暗いらしいし、野生動物も多そうだ。危険じゃないかな?」
これに対し、思考を先回りしていたとしか思えない程、カズマの返答は早かった。
「うん。それは考えられる。でも、だだっ広い平地で、僕ら人間より数段速く走れる野犬の群れに襲われたら、逃げ場がない。月明かりで夜目がきくとはいえ、感知能力で野生の獣に勝てるはずもないし。森なら障害物が多いから、その点では戦術というか、選択肢がいくつか得られるでしょ? 頭上から来る脅威に対しても、枝木が屋根代わりになってくれる森林地帯は有利だ」
「なるほど……」エリックは感心しながら首肯する。
「それに食料。森ならなにか木の実とか果物とか見つかるかもしれないし。そういう希望を持てる分、左に進路を取って果てなき荒野を歩くよりは、精神的な負担が小さい気がするんだよなあ。体力と水分の消耗を避けるためにも、直射日光は避けたいし。
あと、エリックさん。街道が何もない森林にぶち当たってプッチリ途絶えるなんてことあるかなあ? これだけ社会基盤が散々な世界に、無意味に道引く余力があるとは思えない。街道ってそもそも街と街を繋ぐものだし。それが続いている以上、その先に行く必然性や価値があると考えるべきじゃないか、って僕は思うんですけど」
つまり、街へ通じる道が森を突っ切っている。
あるいは、森自体に何か資源的な価値がある。
カズマはそう指摘しているのだろう。これには一理以上の説得力が感じられた。
「ん――、どこ行くか決まったのかぁ?」
男たちの議論など何処吹く風。幽霊のように地上一メートル付近を漂っていたナージャが、あくびでもしそうな様子で言った。
右手に進み、森へ向かうことになった。カズマが端的に結論を語ると、途端に彼女はぱっと顔を輝かせた。
それなら先行して様子を見てこようか?
ろくに返答の間も与えない。ほとんど事後承諾の体で言い放つと、ナージャは文字どおりぶっ飛んで行った。
瞬間、ドンという大気そのものが震えるような轟音に続き、爆風と表現する以外ない突風がエリックとカズマを襲った。巻き上げられた土砂の類か――。細かい粒子状の何かが真正面から雨霰と打ち付けてきて、目を開けていられなくなる。直径数ミリとおぼしき、石と呼ぶにもおこがましい小塊がぶつかっただけでも、肌の露出した部分には出血を疑うほどの痛みが走った。
「まったく、なんちゅう子だ……竜巻か?」
たっぷり一分ほど災難に襲われたあと、〈*ワイズサーガ〉でぱたぱたと顔の前をあおぐようにしながらカズマが悪態を吐いた。砂塵の一部が入りこんだに違いない。ぺっぺと盛んに唾を吐き出している。
「しかし、これらが大変そうだね」
こちらも、髪の中に入りこんだ砂を苦労して払い出しつつ、エリックは言った。
まったくですよ。疲労を滲ませた声がすぐに返った。
突然、頭に袋を被されて、気付いたら南十字星の輝く見知らぬ土地だった――というようなものだ。あるいはそれ以下だろう。装備品もなければ、食料もない。なんとか集落、人里に辿り着けたとしても文化が全く分からない。言葉は通じるか。文字は読めるのか――。そもそも、その集団は安全なのか。残念ながら、この世界には保護を求めて飛び込める日本大使館も存在しないのだ。
仮に、通貨の概念が存在する程度には経済が発達した社会が待っていたとして、エリックたちは一文無しである。働いて対価を得るか、何か売って金を工面しなければ、千葉ヨウコを探すどころではない。
果たして、余所者に働き口や物品売買の市場が開かれているか、という根本的な問題もある。
死という言葉がリアルに脳裏をちらつく状況と言えた。
「このバットは、なんとか売り物になるだろうか……」
背負ったバットケースを軽く揺らしながら、エリックはなんとなくつぶやく。
思惑を察したのだろう。カズマが「ふむ」というように小さく頷いた。
「金属製なのに、異様に軽くて丈夫な棍棒として、案外、レアアイテムな扱いを受けるかもしれませんね。鍛冶職人とかに見せたら、加工とか塗装とか仕上げの美しさに仰天するんじゃないですか?」
「確かに」エリックは微笑み、爪先で二度足下を叩いた。「これを街道と呼んでる文化レヴェルでは、超々ジュラルミンなんて存在しないだろうしね」
「ジュラルミンって、アルミの一種でしたっけ? |軽量化の魔法がかかった《エンチャッテッド》アイテムくらい思われるかもしれませんよ。封貝以外に魔法が存在するなら、ですけど」
「しかし、それじゃあ当座の金にはなっても、長期的な活動資金にはなり得ないね」
「安定的な収入源を得ないと、ってことですか」
考えるだけでも億劫だというように、カズマは背中を丸めて言う。
「それに」とエリックは指摘した。「どうやってこの広い世界の中から、どの国にいるかも分からないヨウコさんを見つけ出すかも考えないと」
「まあ、知りませんかと訪ね歩くだけじゃ、一生かけても無理でしょうね」
カズマが人差し指で頬を掻きながら言う。
「と、なると」エリックは少し思案して続けた。「世界に広くネットワークを張っているような組織があればそれを頼るか、僕らが噂になるくらい知名度を上げるか……」
「空飛ぶ巨大鹿の封貝に乗った、〈壁〉を越えて世界を行き来できるレヴェルの封貝使いを探した方が早いかもしませんね。というより、そのルートの方が確実でしょう」
「なるほど」発想の転換というやつか。エリックは思わず唸る。「被害者ではなく、犯人を追うわけか」
「方向性を絞る必要はないってだけですよ。やれることは全部やれば良い」
「そうだね。でも、楠上くんのいう犯人ルートは有力だと思うな」
「シゲンさんやサトミさんも知ってた、こっちの有名人みたいでしたしね」
そこまで言った瞬間、急にカズマの顔から表情が抜け落ちた。
不自然に黙り込む。
どうかしたのかとエリックが声をかけようとした矢先、珍しく眉間に皺を寄せた顔で、カズマが口を開いた。
「……名前、何でしたっけ。おかしい。知ってた気がするんだけど……」
言われて、はっとした。記憶を探る。
「僕も教えて貰った気がする。けど、確かに。……思い出せないな」
「これ、もしかして世界に消されたってやつなんじゃ?」
流石のカズマも、これには少なからず衝撃を受けているように見えた。
酒に酔って記憶をなくすといった経験のある成人であれば、また別だったのかもしれない。しかし、こういった健忘症を自覚するのは何分、エリックとしても初めてのことだ。精神的にうまく処理できない。
「僕の場合、単なるど忘れかもしれないけど、流石にエリックさんまで揃って何となくすら思い出せないっておかしいでしょう」
「言われてみると嫌な感じの忘れ方だ」頷きながら認めた。「なんと言うか、ゲシュタルト崩壊の時みたいな気持ち悪さがある」
「僕はなんか、くしゃみが出そうで出ないというか、自分の名前書こうとして漢字忘れちゃったみたいな感じです」
「――封貝使いでも覚えてないのかな?」
「ああ、確かに。ナージャなら、僕たちみたいな忘却の呪いもなかったかも」
カズマは一瞬表情を明るくするが、一転、でもなあ……とぼやき節になって続けた。
「彼女の場合、そういうのとは関係なく、最初から話聞いてなかったとか、覚える気なかったとか、素で忘れてる気がする」
「それは……」
ごもっとも、とまでは流石に言えない。
だが、カズマの危惧はエリックにも理解できてしまった。
「――そう言えば、ナージャのやつ遅いなあ。何やってんだろ」
「そうだね。もう戻っても良い頃だと思うけど。なにかあったのかな」
「ああいう出発の時だけやたらと元気なタイプは、大概、後先考えないからなあ」
「鉄砲玉のような、っていうのはこういう時に使うのかな」
エリックが指摘すると、カズマは肩をすくめる。
もっとも、こうした扱いを本人が知れば強く異議を唱えただろう。何故なら、一度放たれれば戻らない実弾と違い、彼女は自らの意思で帰ってきたからだ。
「ダーガぁー」
程なく、ナージャは得意満面、ぶんぶんと手を振りながら現れた。
なにか情報を掴んできたであろうことは、表情を見るだけで分かる。
だが、いざ収穫について聞いてみると、その内容は決して笑顔に見合う穏やかなものではなかった。
いわく、森の中から剣戟――刃物で争う音が聞こえた。怯えた馬の嘶きと複数の気配も捉えることができたが、勘づかれる危険を避けて近付かなかった。
つまり、森の中では集団同士の戦闘が行われている最中らしい。
「それで、どうするダーガ?」
眼をきらきらさせながらナージャが訊いた。彼女が期待する答えが何であるかは、その顔に「早く森に戻ってパーティに参加したい」と特大文字で明示してある。
「ナージャたん。僕、ちょっとキミについて考えてたんだけどさ」
「なんだ、ダーガ」
「キミはマフラーを伸ばして、僕とエリックさんを同時に掴めたよね。僕らの世界から〈果ての壁〉に突入する時とかさ」
「ルネと計ったけど、今のところ六メートル三六センチまで伸ばせるぞ」
「そりゃすごい。――でさ、僕とエリックさんを捕まえたその状態で、さっきみたいに空を飛んだりはできる?」
「もちろん、できる!」ざっと音を立てて足を肩幅に開き、彼女は腰に手をやった。「でも、その間はオートガードの機能が死ぬから、私たち全員が無防備になる。戦闘中にそれをするのは自殺行為だぞ! 相手が飛道具を持っていなかったり、なにかされるより早く射程外まで逃げられる時は使えるかもしれないけど」
封貝は〈あちら側〉と〈こちら側〉、二つの世界の中間――狭間に位置する特殊な存在だ。
封貝と契約することで、使用者もその狭間の領域に片足踏み入れることになる。
これは世界の法則から半歩、外れることをも意味するのだ――
概ねそういった主旨のことをナージャは彼女一流の表現で語った。
「――だから、私のような封貝使いは普通の人間が使う普通の武器なんかでは、凄く傷つきにくいし、死ぬことはまずない。食べなくても飲まなくても――それは少しは弱ったりするけど――普通の人間ほど簡単に死んだりしないし、病気にもなりにくい。ほとんど歳をとらないのも、だからなのだ」
その言葉――とりわけ最後の一言を、エリックは胸のつかえが取れるような思いで聞いていた。滅茶苦茶な話だが、不思議とすっと受け入れられた。
昨日今日と、楠上シゲンもそうだが、玉池サトミに会ってまず驚かされたのが、その驚異的な若さであったからだ。
カズマやヨウコの話を総合すると、どちらも四〇前後。最低でも三十代半ば以上であるはずであるのが彼らだ。これは、エリックの両親の年代でもある。
しかし、特にサトミなどは一〇代後半か二〇歳程度。どのような角度から見ても、女子大生より上には全く見えなかった。
もはや、若作りだとかそういったレヴェルではない。自分や友人の母親たちと比較しても違いは歴然とし過ぎていた。
サトミの周囲ではさぞ話題となっていた事だろう。特に女性たちは皆、平静を装いつつ、だが血眼になってその若さの秘訣を探ろうとしたに違いなかった。
それもこれも、彼らが所持する封貝から特別な恩恵を受け、不老不死に近い存在になっていたというのなら説明がつく。
「――だとすると、ナージャさんは人間相手ならほぼ無敵でノーリスク。でも、封貝を貸してもらいはしたが契約までは到っていない僕や、封貝使いではあるけどまだ完全な状態ではない楠上くんは、弓矢に射貫かれれば普通に傷付き、剣で突かれれば死んでしまうかもしれない。そういうわけですね?」
エリックはまとめるように言った。
「その通り」ナージャが大仰に頷いてみせる。「だから、ダーガやエリックはここで待ってても良いんだぞ。封貝の気配はなかったから、私一人でもあっという間に片付けてしまえるしな」
「金属音がしたって事は、人間対人間ってことか……」
カズマが眼の焦点を曖昧にして、どこかぼんやりしたような声でつぶやいた。
「戦争、とは規模が違うんだよね?」
エリックは仲介するように、ナージャへ問いを投げた。彼女はまたすぐ首を縦に振った。
「両陣営合わせて十人から……多分、二十人まではいないと思う」
「……分かった。行ってみよう」
ややあって、カズマが顔を上げると同時に宣言した。何か吹っ切ったような、決然とした口調であった。
「どうも、僕はヨウコの件がトラウマになってるらしい。女の子をひとりで危険に放り込むってパターンを計算しだすと、不自然なくらい頭の中がぐちゃぐちゃになる」
「そうまで言われちゃ、僕としても自分だけ残るとは言えないな」
エリックは微笑しながら、背負っていたバットケースをおろした。中から愛用の硬式用金属バットを取り出す。材質はESD。試合では長打狙いの先端重心型を使うが、これは武器として考えると咄嗟の小回りに欠く。敢えて練習用に使っている、ドルバランスを選択してきた。打撃力と速度を両立させたタイプだ。黒く塗装された表面には、大きく躍る〈アシックス〉のロゴが金色に輝いている。神戸製鋼製〈スピードテック〉。その八四センチモデルである。
「――よし」
数度、片手で縦振りすると、獲物はすぐに手に馴染んだ。
「ナージャさん。僕と楠上くんを飛んで運んでくれますか?」
エリックの要請にナージャは即答を避け、判断を仰ぐようにカズマを見た。彼女はあくまで楠上カズマこそを唯一のオピニオンリーダーと定めているらしい。
「そうだね」彼はすぐに賛意を示した。「ナージャ、頼める?」
「おう!」
「策はこうだ。ナージャの封貝は発進時以外、飛行音をほとんど出さない。これに頼って、まずは上空から無音で現場に急速接近。争いが起ってる手前で降りる。全員で様子を見ながら距離を詰めつつ対立の構図を見極めて、犯罪やそれに類する蛮行が振るわれていたら可能な範囲で介入する。女の子は最優先保護対象ということで」
どう? と視線で問われた気がして、エリックはひとつ頷き返した。最後の部分――弱者の保護を最優先する、という方針を含めてなんら異存はない。
「ようし。じゃあ、行くぞ」
嬉々としてナージャが宣言すると、その首元のマフラーが自ら意思を持つように蠢き始めた。それはどのような原理でか、植物が蔦を伸ばしていくように長さを増し、あれよという間に男子組の腰に絡みついていく。その締め付けは、ジーンズのベルト同様に緩過ぎもせず、窮屈でもなく――
などと考えはじめた矢先、ナージャが飛び立った。
一方の先端をエリックの腰に結びつけた状態で、四軍まである野球部の全部員に綱を握らせ、全力の綱引きを始めれば――あるいは同等の惨劇を生み出せるであろうか。
危うく鞭打ちになりそうな勢いで、エリックは刹那にして上空高く浚われていた。かつて、これほどの殺人的な加速を味わったことなどない。
それはカズマも同じらしかった。
彼の姿が見えたわけではない。そんな余裕などない。ただ、状況も策も一瞬で忘れ去り、ふたりして全力で声を上げた。絶叫だった。あるいは、それは悲鳴と呼ばれるものの一種であったのかもしれない。声が重なったことで彼の境遇も分かった。
客観すれば、ナージャの封貝は数十秒で二キロほどの距離を駆け抜け、森の入口付近で完璧な着陸を決めたようであった。
〈*旋火綾〉が減速や慣性を上手く処理してくれたのだろう。発進時とは好対照の見事な、そして穏やかなテイクダウンであったが、終わりよければ全てよしとは言えない。
「ヌァアアージャ――ッ!」
着地後、たっぷり三十秒かけて嘔吐感と戦っていたカズマは、立ち直るなり妹分に噛みついていった。さしものエリックも、バットを杖代わりにして立っているのがやっとの有様である。騒動は不味いと悟りつつも、止めに入る余力はない。
「僕たち、まだ普通の人間だって言いましたよね。なんでいきなり全力で飛んじゃうの。出だしからマッハってなんなの。殺す気なの?」
「ん――? 別に今のは全力じゃないし、音の壁も全然越えてないぞ」
だから、ダーガたちも到って無事ではないか。と、ナージャはむしろ不思議そうな顔をしている。全く問題を理解していないのは明白であった。
さらに彼女は――これはカズマもだろう――、自分たちが置かれた状況についても理解が遅れているらしかった。あるいはすっかり忘却してしまっている。
一行は既に、街道を引き込む森の入口に辿り着いている。そしてエリックの耳には、ここからでも何者かが争う険呑な喧噪が届いていた。
それは即ち、こちらの大声もあちらに聞こえている、という事実を示している。
エリックの怖れが現実のものとなったのは、直後だった。
街道を両側から挟み込み、森の入口を形成する高さ四メートル前後の木々。その向かって右側の茂みから、猛然と何者かが飛び出してきた。
気配を伏せたまま、木々の合間を縫って接近していたのだろう。襲いかかる瞬間まで――否、躍り出る時すら、その人影は声をあげなかった。まさに無音の襲撃である。
すぐ近くにはナージャと、彼女に詰め寄っていたカズマの姿がある。向かい合う位置関係にあった彼らのうち、ナージャの方が距離的には闖入者に近い。彼女は森に背を向ける位置取りであったため、必然、敵にも背後を晒す格好になっていた。
その事実自体もエリックを戦慄させるに充分であったが――
それ以上の驚愕は、襲撃者の姿そのものによってもたらされた。
直立歩行し、左右対称の四肢と大きな頭部を持った脊椎動物。その点で、シルエット自体は人間とほぼ見分けがつかない。また、剥き出しの上半身に鳶職の履くような黄ばみダボついた長ズボンを纏っている点にも、特別目を見張るようなところはなかった。
だが、露出された肌の大部分が――顔面を含め――縞模様の毛皮で覆われている。そして、腰の後ろに見え隠れする細長い灰色の尾。頭上に二つ並んだ三角系の耳。
これらの特徴は明らかに人間のそれではない。まさに、異形の生物であった。
外貌もそうなら身体能力も異常の一言であった。
踏み切り後、跳躍して移動した距離がどう考えても尋常ではない。それこそ封貝のような加速装置で推進力を得ているとしか思えなかった。空中を滑るように突ききり、瞬く間にナージャの頭上に迫ろうとしている。
右手には、鉈を巨大化させたような幅広の片刃剣が鈍い光を放っていた。それをどこに振り下ろそうとしているかは、もはや考えるまでもない。
エリックは声も出せず、その絶望的光景をただ見守ることしかできなかった。
助けに入ろうにも、五歩分以上の距離がある。
到底――、間に合わない。
何より、ただ恐怖が全身を支配していた。今、目のあたりにしているのは、これまでの人生では無縁だった本物の殺意だった。人を殺そうという明確な意思。それによってもたらされ、これから見ることになるであろう確定的な「死」――。
その本能的理解が、エリックから一瞬にして思考力を奪い、肉体を硬直させた。
心臓がぶるりと身震いするように一際大きく跳ね上がった。呼吸が止る。
結論として、これがエリックにとっても致命的な硬直時間となった。
目の前の光景に、あまりにも意識をとらわれ過ぎたのだ。麻痺した思考回路は、三人相手に単独で突っ込んで来る馬鹿などいない、という単純な事実にすら行き当たらない。相手がも複数であるなどとは思いもかけない。
風を切り裂くピョォ――という耳障りな音を聞いた気がして、エリックは一瞬、我に返った。
声を出さず「えっ」という口の形だけ作って、そちらに顔を向ける。
正面からでさえなかった。向かって街道の左側に繁る草木を掻き分け、こちらの視界の中心からずれるよう、寄れるだけ端に寄った末、それは放たれたのだろう。
ほとんど真横から唸りを上げて何かが迫っていた。
なまじ鍛えられた動体視力が、ほとんど黒い斜線にしか見えないそれを、矢尻であるとと見極めてしまった。
なまじ鍛えられた瞬間判断能力が、予想到達位置を即座に弾き出してしまった。そして伝えた。相手の腕が正確であること。その矢の質量と速度が、合わせて充分な殺傷能力を秘めていること。対して、こちらの対応に望的な遅れが生じてしまったこと。先に待ち受ける運命。全てを正確に、割り出した。
それが自分と交わるであろう最後のコンマ数秒間、エリックは久々にスローモーションの世界を味わった。
部活の公式戦の最中、稀にこうした状態に入ることはあった。強いスピンのかかった高速スプリット相手ですら、ボールの縫い目が見えるほどの究極の集中。
最後の最後に見たのは――液状の何かが塗られているのか――不自然な艶を放つ、尖った矢尻の先端だった。
いやに誤字脱字を含めたミスが多いと思ったら…
完成稿のひとつ前のβ版をアップしていた罠。
現在は、最新版に差替えています。