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010
エリックの眼は〈壁〉から落ちる深い影、その暗がりの世界に慣れすぎていた。そんな状態で光に満ちた空間に放り出されるのは暴力にも等しい。たとえるなら――前方、扇状に隙間なく並んだ二十台からの自動車が相手といったところか。その全てからハイビームを一斉照射されば、とても目を開けてはいられなくなる。突き刺さるような激しい痛みは、シャンプーを誤って眼に入れてしまった時さながら。エリックは微かに呻き声を漏らし、その場に屈み込んだ。
救いがあるとすれば、それがあまり尾を引く類のものではなかったことだろう。
人の眼は闇に慣れるが、同様に光にも慣れる。中腰になり顔を伏せていることで、エリックも徐々《じょじょ》に順応してきた。ある瞬間を境に、痛みが嘘のように引いていく。やがて、薄目なら何とか開けて、周囲の様子を視認することができるようになった。
とはいえ、最初に気付いたのは視覚情報とは関係のない事実だった。
――背負っていた荷物がない。
六〇リットルクラスのバックパックと、それに満載してきた荷物、装備品の数々。その一切の重みが背中から消えていた。手探りするが、両肩にかかっていたはずのベルトに指がかかることもない。慌ててジーンズのポケットをまさぐるが、こちらからも収めていたブランク封貝がなくなっていた。着ていた服はそのままだが、他の一切の手荷物が消失している。
――〈あちら側〉の世界は、異物を嫌う。持ち込もうとすれば物質的な荷物はもちろん、知識や記憶などたとえ無形のものであれ、容赦なく剥ぎ取られてしまうであろう。
事前に受けていたそんな警告が、まざまざと思い起こされた。
嘘だろう――? 背中に冷たい物を感じながら、急いで周囲に視線を巡らす。
自分は、異世界がどうのという話を実感を欠いたまま受け入れていたのだろう。実際のところ、心のどこかでは全く信じてさえいなかったのかもしれない。話半分に聞き入れて、無理に納得した風を装っていた。思考を麻痺させていただけで、問題を正面から受け止めたわけでは決してなかった。
今更ながら、エリックはそんな自分に気付きつつあった。
何が覚悟だ。いざその身が不可解な現象に襲われれば、みっともなく慌てふためいている。荷物がちょっと見当たらないだけで、生死の二択を突きつけられたかのような絶望感を抱いている。
そんなエリックを救ったのは、長年の相棒の姿だった。
いつの間に、どうやって放り出されたのか。右斜め後方、五歩ほどの所に見慣れたバットケースが転がっている。バックパックは本当に消滅したようだが、何故か金属バットだけはこちら側に辿り着いていたらしい。
それを手に取った瞬間、胸のざわつきが収まるのを感じた。奪われたおしゃぶりを取り戻した赤子のように安堵する。知らず知らず、深い溜め息が漏れた。
「エリックさん? 大丈夫ですか」
背後から声をかけられエリックは顔をあげる。カズマとナージャが心配そうな表情でこちらを見ていた。今の今まで忘れていた存在であった。極度の緊張と不安で、今まで自分のことしか考えられなかった。一緒に来た仲間のことすら気遣う余裕がなかったのだ。
自分の狭量に些か衝撃を受けながら、エリックはなんとか微笑を返した。
「……大丈夫。この通り、バットも無事だったし。他の荷物はダメだったようだけど」
「まあ、三人揃ってるし。まずはなんとか、完璧ですよ」
カズマがどこかのほほんと言う。その表情に緊張感の類はまるでうかがえない。
彼なら全ての荷を失っても、たとえ全裸で放り出されても、自分のように狼狽はしなかっただろう。そう、ふと思った。右腕を失ってすら、一日もすればいつものように笑っている。そんな男だ。
――普段はてんでダメなんだけどね。
出し抜けに、いつか千葉ヨウコから聞いた言葉が脳裏に蘇った。
人生の九十九%の時間、あいつは基本的に頼りにならないけど。でも、他の誰もがどうしようもなくなった絶体絶命の時だけ、あいつは何故か使えたりするタイプなんですよ。有事の時だけ異様に輝くの。
彼女の言葉の意味が今、本当の意味で理解できた気がした。
「それにしても……」カズマが空を眩しげに見上げる。「でっかい月だなあ」
釣られるようにそちらへ視線を投げる。瞬間、エリックは一歩後ずさった。
それは――まるきりクリスチャン・ラッセンの幻想世界であった。それでいて、何か本能を揺さぶるような強烈な説得力がある。
吹き抜ける風と確かな空気の匂い。皮膚感覚。冒険心をかき立てる無限の奥行き……。
ポストカードを見ても、展覧会で本物を観ても変わらない、量産型の絵画とはハッキリ一線を画す、それは魂の情景だった。
まるで、海よりも巨大な水槽の底に立っているようだ。エリックは半分呆けながらそう感じた。あまりにも透明度の高い純水は絶えず穏やかに揺らめき、陽光を乱反射させることで薄青い世界全体を万華鏡のように輝かせる。そうとしか思えないほど、空があまりに煌びやかなのだ。春を思わせる麗らかな光を降らせる太陽と、昼間なのにはっきりと見える月。そしてその第一の月を半分覆うようにして浮かぶ、手を伸ばせば届きそうなほど近く、大きな第二の月。
蒼天そのものは、色とりどりのLEDライトで演出された夜の水族館さながらで、夕日の残照と夜とが混じり合ったアフターグロウの碧、そして紫水晶のように透き通った藤色が混じり合い、オーロラのようにその濃淡をゆっくりと変えている。
エリックはただただ、感嘆の吐息とともにその美しい光景に見入った。
光を喰らい尽くすどこまでも黒いだけの〈壁〉に、いつも空の大部分を覆われていた世界しか知らない世代だ。全方位を高層ビルに囲まれ、見上げて得られるのはそれら摩天楼のシルエットに切り取られた僅かな空だけ。そんな境遇にも近い環境で育ってきた人間からすれば、〈果て〉のない世界はそれ自体が奇跡であった。その辺に寝転がれば、何時間でも眺めていられる。
それに――
「あの、なんだろう。半分透明な緑色の……天の川みたいな……」
エリックは目を細めながらつぶやいた。
実際、それは七夕の天の川に良く似ていた。ただ、ミルキィというほどの白さは全くない。どちらかと言えば、メロンサイダーあたりか。しゅわしゅわと弾ける炭酸をキラキラの流れ星で代用して――ついでに小量のゼラチンでトロみでもつけて、空に線を引くようにぶち撒ければ似た物ができあがるかもしれない。
それは煙のように、だが風とは関係なく自ら望んでそうしているように神秘的に棚引いている。
「――あれは〈ライヴストリーム〉だな」
意外なところからの声に驚き、エリックは振り向いた。
昨日、ナージャ・クラウセンと紹介され――だが今にいたるまで碌碌満足な会話さえ交わしたことのない少女が、腕組みしながら歩み寄ってくる。
そう言えばと気付いて自分の腰を見ると、巻き付いていたはずの彼女のマフラーはいつの間にか解かれていた。
「こちら側では、雲がないと普通に見られる一種の大気現象だ」
彼女が独りうんうん頷きながら解説した。
「どういった現象なのかな?」なるべく自然な口調でエリックは訊ねる。
「私が知る限り、ただああしてキラキラゆらゆら空を漂っているだけだ。特別、何かを起こすようなものじゃない。この世界に空気のように満ちている、〈エーテル〉という物質が濃く集まって結晶化した塊だとか、死んだ生物の魂が還る場所だとか……色々言う奴はいる。あの輝きのひとつが地上に落ちてきたものが封貝になると信じている奴らもいるらしい。ルネなんかは、向こう側の失踪者が分解されて世界に取り込まれると、あの流れの一部になるのかもしれない、とか言っていた。――でも、結局のところ何が正解かは分かっていないのだ」
「で、確認なんだけどさ。ここって〈壁〉の向こう側なんだよね?」カズマが訊く。「つまり、〈果て〉の向こう側の異世界……?」
「そうだぞ」何を当然のことを、という顔でナージャは頷く。
「そっか……ヨウコ、その辺に落ちてないかな」
冗談抜きでその可能性を考慮しているらしく、カズマは生真面目な顔で周囲に視線を巡らせている。
が、少なくとも近くに彼女がいないのは明白だった。同様に辺りを見回してエリックが得た結論は、自分が今、だだっ広い平原に立っているということであったからだ。足下には微かに湿り気を帯びた黒茶色の土と、まばらに広がる雑草の緑が延々と続いている。起伏に富む大地だが、視界を遮るほど隆起している物は少ない。三百六十度の大部分を地平線の彼方まで遠く見渡すことができた。遠くには雑木林や小高い丘、小川のようなものが見えるが、それらはどれも霞んで見えるほどの距離がある。両目とも二・〇を誇るエリックの視力をもってしても、街や集落――人の生活を窺わせる建築物は見当たらない。もちろん、千葉ヨウコの姿もだ。
「ナージャさん。こちら側には人間がいて、国家とか街とかもあるんですよね?」
年下であれ、異性となるとどうしても構えてしまう。エリックが発した問いは、自然と敬語になっていた。
「もちろんあるぞ。国はまず……北の大国〈ユゥオ〉だろう? あと、中心に位置して陸続きの全国家と国境を接してる〈シャイレーン〉、生き神とも言われる処女王ジャンヌが統治する女性の国〈神聖ヴェイレス王国〉なんかが有名だ。他にもいっぱいあるぞ」
「で、ここはどの国なのさ?」とカズマ。
訊いておきながら彼は答えにさして興味がないらしく、良い匂いがしそうだから神聖なんちゃら王国って所であることを希望するだとか、適当なことをつぶやいている。
だがナージャは眉根を寄せて、真剣に答えを導かんとしていた。
「私は地理が苦手だから、国も全部を覚えてるわけじゃないし、気候とかそういうのもあんまり分からないんだが……」
「つまり植生や生態系やらから情報を絞り込むのは難しい、と?」
つい、エリックしは口を挟んでしまう。
「全然分からないわけじゃないぞ」見くびるなよ、という顔でナージャはすぐに言った。「例えば、ここは〈ユゥオ〉ではない!」
その根拠を問うと、彼女はふんぞり返って解説しはじめた。
まず、〈ユゥオ〉は北国である。そのため、国土の大半を雪で覆われているらしい。そして〈果ての壁〉のように分厚く高い、〈大北壁〉という超高標高の雪山が北端を横切っており、その雄容は国内なら大体の場所から見えるのだという。
「ここは雪がないし、遠くに山は見えるけど〈大北壁〉とは違うチンケなものばかりだ。それに寒くない! よって、ここは〈ユゥオ〉ではないと考えて良いはずだ」
「ほほう、なかなか完璧な推理じゃないか」
カズマがおだてると、彼女は調子に乗って自説をさらに広く展開しはじめた。
それによると、ここは〈シャイレーン〉という国でもないらしい。先程、中心にあって多くの国と隣接している、と解説された国家だ。
この〈シャイレーン〉も山で知られる土地柄で、南端にはヒマラヤなど比較にならない高山が連なっており、その中には世界最高峰と言われる超大火山もあるのだという。
「この山は人間の言葉では〈サングラ・マグナ〉と言って、てっぺんが見えないほど高くて大きい。遠く離れた隣の国からも見えたりするほどなのだ」
「それは興味深いな。エヴェレストより高いんだろうか?」
エリックは唸りつつ顎をさする。熱心な登山愛好家である叔父が近所に住んでいることもあり、山と聞くと彼から聞かされた様々な冒険譚が脳裏に蘇ってくる。同じ高校球児であった父のことも尊敬はしているが、幼き日のエリックにとって最大の英雄と言えば、常にこの叔父の存在が第一の位にあった。
「ルネは、地球のどの山よりも高くて、比べられるのはオリンポスくらいだと言ってたぞ」
自分はその意味をよく分かっていないが、という様子でナージャが無意味に胸を張った。
言動に少し幼さの感じられる彼女だが、女性的な意味での胸囲の発達には目を見張るものがある。だからと言って、実際に目を見張ることなどエリックには到底できようはずもない。頬を紅潮させないよう細心の注意を払いながら、さっと視線を逸らす。
「オリンポスってなんだっけ。ギリシア神話?」
「――いや」カズマの素朴なつぶやきに、エリックは首を振った。「文脈からして、その神話にちなんで名付けられた、実在のオリンポス山のことじゃないかな。ギリシアで一番高い山が、確かそういう名前なんだ。標高三千メートル足らずで、富士山と比べると大分低いけどね」
他にもオリンポスという名前の山は、アメリカに一〇個近く。その他の国々にも無数にあったはずであるが、富士より高いの例を少なくとも自分は聞いたことがない。エリックはそう補足した。
「えっ、でも地球のどの山より高いんですよね? 話が合わないじゃないですか」
カズマが首を傾げて訝しがる。
「うん。だから、火星のオリンポス山かもしれない」エリックはそうフォローした。「あれは標高が――確か二万五千メートルを越えてたはずだから」
「にまんごせんメートル!?」さしものカズマも、これには目を丸くする。
「そう」エリックは微笑んだ。「言い換えると、高さ二五キロだね」
押しも押されぬ、太陽系最高峰とされる峻峰だ。
なにせ、周辺にある単なる崖からして五千メートルを越えるというから、もうスケールが全くの別物だ。三分の一にしかならない地球最高峰など、たちまち近所の裏山レヴェルに格落ちである。
「まあ、海がない火星での話だから、地球でいう海抜標高とはまた違うけどね。しかし、地球の海は深さが三キロくらいが普通だって言うから、それでも二万メートルは楽に越えちゃう計算になっちゃうかな」
「二万……ってどれくらいなんだろ。もう、想像もつかないなあ」
「標高九千メートルのエヴェレストの頂上でも、気圧の関係で水を温めだしたら七〇℃くらいで沸騰する。その倍を越える二万メートルとなると、地球なら成層圏だね。空気自体ほぼないし、気温もマイナス五十度以下とかだろう。沸点も人間の体温より低い計算になるから、頂上に辿り着く前に血液が煮立って死んじゃうね」
うへえ、と頓狂な声を発しついでに、カズマが顔も歪める。
「頂上、辿り着けないじゃないですか……」
「と、に、か、く!」
数字のからむ話は終わりだ、と言わんばかりにナージャが流れをぶった切った。
「〈サングラ・マグナ〉は相当高い山だからして、それが見えないここは〈シャイレーン〉や、その近くの地域とは違う可能性が高いはずだ」
総合して考えると、恐らく、幾つかのある島国のどれかではないか。そうではなく、本土であったとしても中央から離れた辺境であろう。
彼女はそう指摘して自説を結ぶ。
「もし、島国ってのが当たってるとしたら、ちょっと厄介かもなあ」
カズマが腕組みして苦い顔を見せた。
これに、「なんでだ?」と不思議そうな顔をしてみせるのがナージャだ。
「だって、もし同じ島にヨウコがいなかったら、海を渡らなきゃいけない。文明が発達してた僕らの世界でさえ、海外旅行は技術的にも金銭的にもそれなりにハードル高いのに、無一文で乗込んだ異世界で海をわた……」
――と、カズマが不自然に言葉を途切らせる。
その理由はエリックにもすぐ分かった。というより、彼と向き合う位置関係にいたエリックこそが、カズマの背後側から接近するそれに最も早く気付いた。
それは巨大マンタが海中を漂うように悠然と蒼穹を泳ぎ、やがて三人をその大きな影で覆った。世界が一瞬、〈果て〉により生み出され、人類が慣れ親しむに到った薄闇に変わる。
が、それは本当に瞬間的なことであった。影の主はすぐにエリックらの頭上を過ぎり、カラスのように甲高く耳障りな鳴き声を二、三度響かせ、けたたましい羽音と共に飛び去っていく。
全員が言葉もなく――エリックに到っては息をするのも忘れ――その成人男性ほどある胴体を持った、鶯色の怪鳥を見送った。短いクチバシ。ハングライダーほどもある、蝙蝠のそれにも似た羽。間違いなく、地球には存在しなかった生物であった。
しばしの重たい沈黙を挟み、氷結した時間からようやく解き放たれたようにカズマが口を開いた。
「……今のは……何だったのかな……?」
彼は答えを求めてナージャの顔を窺う。この場で唯一、平静を保っている人物の顔を、だ。
「あれは、〈こちら側〉で良く見る鳥だな。名前は知らないけど」
彼女は電柱から飛び立つ雀でも見たかのような顔だった。明らかに、なんら特別な感慨を抱いてはいない。口にした通り、本当に良く見る存在であったのだろう。
彼女がいつ、どこで、慣れっこになる程それを見てきたのかは知らないが。
「いや、あれほとんどプテラノドンだよね。ほぼ恐竜だったよね?」
カズマが食い下がる。ただの鳥という説明だけでは到底承服しかねる、という剣幕であった。正直なところ、エリックも心情的には彼に立場が近い。
「ナージャさん。この世界には、ああいったバケモノがそこら中をうろついているという認識でいるべきなんですか――?」
エリックは訊ねる。
「大きさの話なら、さっきの鳥みたいな生き物はたくさんいるはずだぞ」
「危険性に関しては、どういう風に考えれば良いんだろう」
重ねて問うと、先程の鳥はそう危険ではない、という答えが返った。なんでも、大きくても猫くらいの生き物しか狙わないのだという。ただし、極端に飢えていたり、人間側からちょっかい出せば話は別らしい。そのするどい爪と大きな翼は、小柄な人間くらいなら身体ごと持ち上げることができる。あまり高くまでは運べないため、彼らはそれを数度繰り返す。そうして絶命するか、まったく動けなくなった人間の肉を喰うという一連の狩り風景が、珍しくはあれ各所で目撃されているという。
「ほうら、ヤバイ。案の定、ヤバイじゃないかあ!」
カズマがばたばたと足踏みしながら、それ見たことかとナージャを指差す。
対する少女は冷静だった。騒ぎ立てる生徒に取り合わず、淡々と受け持ちの講義を続行する。
「危険なのは、地上のあちこちをうろついてる、その他大勢のケダモノたちだ。中くらいのから大型の動物はほとんどは肉食で、人間を喜んで食べる。城塞都市なら別だが、囲いの緩い農村部なんかには良く出ると聞くな」
たとえば、こちら側では犬すら非常に危険な動物なのだ、と彼女は続けた。
元の世界では狩猟・愛玩・番用として飼養される身近な彼らも、〈こちら側〉ではその様相を一変させる。常に獲物を求めており、統制の取れた集団として襲ってくるというのだ。人肉の味を覚えている個体も多い。また、現実世界と違って狼と明確な違いはなく、その辺はまだ未分化であるらしい。
「加えて奴らの多くは、狂犬病や敗血症を起こす――人間にとって危険な――ウイルスや細菌みたいな病原体を持っているのだ。噛まれたり引っ掻かれたりした時のリスクは、元の世界とは比較にならないから、ダーガも注意するんだぞ」
「そうだったのか……」
カズマはふと遠い目をしながら、意味合いのよく汲み取れない穏やかな笑みを浮かべた。
彼はそのままエリックとナージャにゆっくりと歩み寄り、それぞれの肩にやさしく手をかけた。顔を上げ、望郷の旅人を思わせる眼差しを地平線へ向かって投げかける。
そして言った。
「――帰ろう。ボクたちのホームへ」
そのままつかつかとどこぞへ歩み去ろうとする彼を、エリックは一瞬、見送りかけた。台詞だけ聞けば、部で円陣を組んだ時、耳にしそうな響きであったからだ。反射的に「応」と答えそうにさえなった。が、すんでのところで我に返った。あやうく流されかけたが、何かがおかしい。気づき、慌ててカズマを押しとどめる。
「ちょっ……ちょっとちょっと、楠上くん。帰るってどうやって? ヨウコさんだってまだ見つかってないのに! 彼女のことはどうするんだ」
「大丈夫、大丈夫。ヨウコなら放っといてもそのうち自力で帰還するから」彼は冗談なのか真剣なのか、手をひらひらさせて一笑した。「むしろ、既に追手を振り切って、この辺まで来てるに違いないね。多分、そう――あのあたりの丘の影とかに隠れてるんだ」
と、比較的近いところにある、瘤のように膨らんだ小さな丘陵を適当に指差す。
「アレだよ。探さないで下さい――とか書き置きして自分から姿消しつつ、こっちが本当に探さないと飛んで帰ってきて、何で探さないのよ! とか理不尽な文句言うパターン。ヨウコってそういうところあるからね。僕らがこのまま帰ろうとしたら、なに帰ろうとしてんのよとか、烈火の如く怒り狂いながら飛び出てくるよ。うん」
「そんな無茶苦茶な……」
「いやいや、だってあんな怪獣が鳩みたいに飛び回ってる世界だよ?」
どうやら、それこそが本音であったらしい。カズマは身体ごと振り返ると激しい手振り身振りと共に熱弁しはじめた。
「ツテもない、アテもない。その上、エリックさんの装備だって丸ごとなくなっちゃった。全裸でアマゾンの奥地に放り出されるのと変わらないくらい酷い。三日ともたないよ。死んでしまう。遭難者救助の捜索ヘリだって夜になったら引き揚げるじゃないですか。プロがそうなんだから。暗くなったらみんなおうち帰って良いんですよ。いや、二次災害を避けるためにも帰るべきなんだ。帰らなきゃいけない。つらいけど。本当は嫌だけど。今回だけは特別に!」
こんなことなら、せめて昼食を済ませてから来るべきであった。そう嘆きながら、カズマはその場に崩れ落ちた。両手両膝を地につき深く項垂れる姿は、エリックが甲子園で度々見かけてきた敗戦後の対戦相手そっくりだった。
本当に、どこまで本気なのか分からない男ではある。
が、ひとつだけ、空腹を感じ始めているという点においてはエリックも彼に同感であった。
「ダーガぁ――」
不意に頭上から降ってきた声に、エリックはカズマと揃って顔を上げた。
いつの間に口訣したのか、〈Victor 1〉の封貝を呼出した彼女は、二階屋上ほどの地点で空中静止していた。高所から俯瞰することで周辺地理を把握しようというのだろう。なるほど、封貝とは発送次第で多岐に渡って使えるものだと感心する。
「ナージャ。なんか見えるぅ?」
さして張った様子もないが、頭上に投げられたカズマの声は良く通った。
エリックも部活動を通して「腹から出せ」といった発声練習は積んでいるが、それともまた方向性の全く異なる、なにか出ている場所が違うような声量だ。
「あっちの方に」と太陽と月の中間方向を指差し、ナージャが言った。「街道っぽいのが見えるぞ」
「人の往来は――誰か見えますか?」
エリックが怒鳴ると、彼女は首を振り振り高度を下げてきた。地上三〇センチのあたりで止ると、浮いたまま今度は言葉でも返答を繰り返した。
「見た範囲、人はいなかった。危険な動物も見当たらない。左はずっと道が続いていて、右に行くと森がある。木で見えなくなったけど、本当にそこで道が途切れているかは分からない」
もう少し高く上れば、より広域の地理情報を得られるが――。彼女はそう提案する。
これは一考に値したが、意外にもカズマがすぐに首を左右した。
「とりあえず、その街道まで移動しよう。必要ならそこで改めて探ってもらえば良いよ。今は時間が惜しい。何より水が全くないっていうのが問題だ。いつ日が暮れるかも分からないし……こっちにも朝とか夜とかあるんだよね?」
これにはナージャが自信を感じさせる口ぶりで、即答した。
「もちろん、あるぞ。でも、森にでも入らない限り、外は結構明るいよ。こっちは」
なにせ、と彼女は親指で背後を指した。その先に浮かぶのは、うっすらと見える通常の月――エリックが知る元の世界のそれとサイズ的には大差がない方の月――の二十倍近くはあろうかという、クレーターまではっきり視認可能な第二の月だ。
「あれはほとんど動かないから、こちらの夜は真っくらにはならない」
「それはまた、どういう仕組なんだろう? 太陽が動くというなら自転はあるんだろうけど、月が――それも二つのうち片方だけ動かないとなると……」
知的好奇心をかられ思索にふけりそうになるが、今はそれどころではない。エリックは雑念を振り払うように頭を振る。
「とにかく、楠上くんの指摘はもっともだ。確かに、僕らには今、生命線となる水がない。じっとしてるだけでも水分は消耗される。ここからは、時間との闘いになるだろう」
エリックが支持派に回った時点で、一行の方針は確定した。まずは街道へ。意思統一がなされ、全員で移動を開始する。
もっとも、結果だけ見れば、これは意気込むほどの話でもなかった。起伏に富む土地であるため分かりにくいが、問題の街道は一キロたらずの、想像よりも近い場所を通っていたからだ。
――もし、それが本当に街道と呼ぶに値するものであるならば、だが。