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ワイズサーガ  作者: 槙弘樹
第一部「恋しかるべき、君」
10/64

ワイズサーガ

  009


 約束の日の朝、楠上カズマは午前八時に起床した。

 休日となれば「起こしに来た」というお題目でサトミがベッドにもぐりこんでくることも多いが、この日に限っては姿さえ見せなかった。

 サトミもいない。シゲンを交えた小競り合いもない。ヨウコの乱入も、三つ巴の混戦もない。

 ひっそりとした室内の空気が、その日が特別な一日になることを告げていた。

 サトミとは、医務室で目覚めて以来、丸一日以上一度も会っていなかった。

 昨夜も今朝も、知らないうちに食事はきちんと用意してくれたようだが――

「顔向けできない」「会う資格がない」というのが、クラウセン経由で聞き出した彼女の弁であった。カズマが右腕切断に至る重傷を負ったことで、必要以上に大きな責任を感じてしまったのだろう。サトミの方からカズマを避けているのである。

 だが、今日の午後には、何としても彼女とは面会しなければならない。

 せめてそれまでは、彼女の意思を尊重するつもりでいた。

 一応、探してみたが、シゲンも早くから外出しているようであったため、カズマはサトミが作ってくれていた朝食をひとり、ダイニングルームで食べた。

 食後、シンクで皿を洗ってから外出の支度をした。自転車で家を出る。

 カズマの愛機は高校入学時にシゲンから贈られたもので、後部に外装の八段変速を搭載しているスポーツタイプだ。

 もっとも現在これは、単に車体の軽いシティサイクルに成り下がっていた。

 まるで何かのブラックジョークのようだが、なにせ右手がない。

 何段ギアがあろうと、変速レバーの操作ができないのだ。

 実際、カズマは出発前にフロントをミドル、リアを三速に合せた後、一度もこれを弄っていなかった。

 問題はそれだけではない。ブレーキもだ。

 これに関しては何度か試してみたところ、時速二十キロ弱までならば左手一本の操作でも安全に停車できることが判明していた。変にフラつくこともない。

 とは言え、完全な片腕運転は人生初の試みである。細心の注意を払いながらペダルを漕がなければならなかった。

 様々な不自由や制約を課せられはするが、それでも無心になれるサイクリングは楽しかった。

 カズマは鼻歌交じりに都道八号――通称〈富士街道〉を走り、石神井しゃくじい学園前の交差点に至ろうとしていた。好々こうこうや然とした老人と、彼に手を引かれる孫らしき幼児おさなごに続いて横断歩道を渡る。

 駅へと北上する道は窮屈ながら、交通量は決して少なくない。自然、自転車の速度は一〇キロ以下まで落ちていた。加えて片手運転のこともある。カズマは鮮やかな緑の防護柵ガードパイプを潜って歩道に入った。「ばいばい」と笑顔で手を振るちび助に別れを告げ、ペダルを回す。

 ――ほら、カズマは悪戯ばっかりしてるんだから……

 右手に警察の合同庁舎が迫ってくると、以前、ヨウコと並んで歩いた時の記憶が鮮やかによみがえった。

 お巡りさんに捕まっちゃうよ。

 そう横目で笑いかける彼女の顔を、声をまぶしく思い返しながら、未だ変わらぬ悪ガキは、おっかなびっくり官憲かんけんの縄張りを走り抜ける。

 時おり、守備選手(ディフェンダー)のように進路を阻む電柱を巧みにかわして進むと、学園立ち並ぶスクールゾーンを一気に通過(パス)。そのまま、閉鎖されて久しい、さびた看板の教習所も通り越して、さらに北上を続ける。

 やがて見えてきた西武池袋線〈大泉学園駅〉前は、日曜日だというのに閑散としていた。

 無理もない。一キロ少し北、あるいは東側へ行けば、成層圏さえ貫いてそそり立つ〈果ての壁〉に着いてしまうのだ。

 休日をわざわざ陽の差さない陰鬱の中で過ごしたいと考える者はいない。

 加えて、「果てはまだ拡大をやめてはいないのではないか」「近くにいてはいずれ呑み込まれてしまうのではないか」という恐怖を、十五年以上たった今なお、人類は捨て切れていないのである。境界である〈壁〉付近は環境の悪さもあって、人の寄りつかないゴーストタウンと化すことも珍しくない。

 果たして練馬ねりまの地は、〈變成日〉以来、日照にっしょう以外にも多くの物を失ったのである。

 西武池袋線をふたつ上った〈練馬高野台駅〉から先の地区に至っては、〈果て〉に呑まれてもうこの世に存在自体しない。区自体が、もうかつての三分の一ほどしか残されていないのだった。

 もっとも他の二十三区からすれば、それでも練馬はまだ恵まれている方だとも言えた。

 東隣の板橋区、そして豊島区は全域が消滅。それ以東――すなわち北区、文京区をはじめ、足立、荒川、台東、葛飾は、カズマがうまれた時にはもうこの世に存在しなかった。

 それだけではない。江戸川区も全体の八割、墨田区に至っては九割五分以上が失われており、これらももう区の体を成してはいない。

 千代田、新宿、中野にしても、仲良く北部を袈裟懸けさがけにぶった切られる形で〈果て〉の向こうに奪われていた。

 かくして遷都せんとにより、首都の座は京の都へ移動。

 もはや、東京は日本の中心ではない。

 時計を見ると、時刻は九時半。まだ、約束までは三〇分の余裕があった。

 カズマはのんびりと自転車を進め、〈ゆめりあ〉を回り込む西側ルートを辿った。

 目の前で信号が点滅しはじめると、さっさと諦めてブレーキを握る。

 待っている間、ライトを常時点灯モードに切替えた。

 そろそろ〈壁〉の一キロ圏内付近ということもあり、周囲は薄暗いを通り越してもはや暗い。真冬の朝が夜とそう変わらないように、この辺り一帯からはもう朝日というものが永遠に失われてしまっているのだ。

 また、風が〈壁〉にぶつかり下降気流となる影響で、付近は終わることのない強風地帯となっていた。晴れているのにいきなり雨が降り出すこともあり、〈壁〉近辺では色々と油断がならない。強烈な向かい風にさらされて、自転車は苦労も一入ひとしおだった。

 駅前入口第一の交差点から、区立の小中学校に挟まれた二四号線に入ったカズマは、そのまま中島橋を渡った。それから、突き当たりの信号を右折してしばらく。

 ここに来ると、ある種独特の匂いが漂ってくる。

 同時に、想起されるものがあった。

 子ども特有の高い体温と、ぷにぷにした柔らかな手――

 あれはまだ就学前のことだった。幼稚園児だったカズマは、大人たちに連れられてこの道を歩いたのだった。生まれた時から一緒だった、大好きなヨウコと手を繋いで。

 初めて訪れた者は、まさか、と思うだろう。

 だが、匂いに誘われ近付いていくと、すぐに銀色のサイロらしきものが見えはじめ――

 住宅地の中に突然、味わいのある旧い牛舎の群れがその姿を現す。

〈變成日〉以前からここにり、今もなお〈果て〉に飲まれることなく続いている、都内唯一にして最後の牧場ぼくじょうである。

 カズマは、牛舎向かいにあるプレハブの前で自転車を停めた。

 一見、作業員の休憩所のようでもあるそれは、その実、開かれた売店だ。取扱商品はカップアイスのみ。カズマはここで、ヨウコのお気に入りだったオリジナル・ミルクアイスと、自分用にチーズクリーム味を買って出た。

 再びクロスバイクのサドルにまたがる。

 時刻は九時四〇分を少し回っていた。まだ余裕はある。

 カズマは慌てず来た道を少し戻り、二四号線を今度は西進した。日蓮宗の古寺手前で北に進路を転ずると、いよいよ〈壁〉の威容が眼前に迫ってくる。

 千葉県から長野県へ向けて日本列島を斜めにぶった切る〈壁〉は、ちょうどこの付近を通っており、途中、近くにある区立中学校の敷地を校舎の一部ごと喰い千切り、これを廃校に追い込んでいる。

 このかつての中学校――現在は記念公園――こそが、エリック・J・アカギとの待ち合わせの場所であった。

 カズマは開放されている門を潜り、自転車のまま旧グラウンドに乗り入れた。

 広場の中心部にはコテージ風の休憩所があり、エリックとはそこで落ち合うことになっている。もし、彼が〈壁〉を越えるつもりなら、そして周囲をたった一日で説得できたのなら、朝一〇時にここへ姿を現すだろう。

 カズマはなんとなく、その確率は三割程度だと考えていた。

 エリックの律儀な性格からして、結論がどうあれこの場には来るかもしれない。

 だが、それは断りと謝罪を言いに来ただけ、ということも大いにあり得る。

 なんと言っても、彼の身体は既に彼一人のものではないのだった。地元の期待を一身に背負う全国区の球児は、周囲から多くの支援、特別な待遇を受け、高度な育成プログラムのもと日々を送っている。

 それらに関わる出資者、支援者、そして指導者たちへの恩義もあるだろう。長年、苦楽を共にしてきたチームメイトも到底無視できない。

 なにより、彼らとの約束。真剣勝負の中でしか決して得られないヒリつくような緊張とスリル。子供の頃から抱き続けてきた夢……

 これらの一切合財を、果たして手放せるものか?

 野球を別にしても、彼ほどともなれば家族や親類にとっては特別以上の存在だろう。

「知り合いを探しに、ちょっと〈壁〉を越えてきます」で済むわけがなかった。

 百歩譲って彼自身がそれを熱望したとしても、外野がなんとしてもそれを許さない――といった展開は、容易に想像できた。

 それ以前、〈壁〉の向こうの異世界だの、超能力を持った異能者や怪物の存在だの、突然聞かされた話があまりに荒唐無稽過ぎる。UFOの宇宙人に誘拐された友だちを火星にまで取り戻しに行くというのと、ほとんど差がない。これを果たしてエリックが真に受けるかという根本的な問題もある。

 駄目かもなあ――

 改めてそう思いつつ、カズマは自転車を停めた。

 続いてチェーン錠をかけようとしたのだが、左手一本ではこれがなかなかに難しい。

 しばらく苦戦していると、不意に背後で音がした。

 見れば、木製のドアが蝶番の軋み音と共に押し開かれていく。

 現れたのはエリックその人であった。

「――楠上くん。音がすると思ったら、やっぱりキミだったね」

「あれ、エリックさん。もう来てたんですか」

「いやあ、昨夜はなかなか寝付けなくてね。暇をもてあましてたんだ」

 照れ笑いと共に、エリックは四段程の階段を駆け下りてくる。カズマの施錠に手を貸し、荷物も持ってくれた。普段から、仲間や女性相手に同様の振るまいをしているのだろう。その所作は、身体が勝手に動いたというように、ごく自然なものであった。

「エリックさん。流石に、ドアは片手でも開け閉めに苦労はしないですよ」

 先にたち、扉を開けたまま待ってくれる地元の英雄に、思わずカズマは苦笑した。

「ああ、そうだね」

 指摘されてはじめて気付いた、といった様子でエリックは目をぱちくりさせる。

「――いや、すまない。深い意味があったわけじゃないんだ。クセみたいなものでね。気に障ったのなら謝るよ」

「いやいや。そう言ってもらうほどのことでも」

 入った休憩所に他の利用者はいなかった。巨大な丸太を半分にかち割ったデザインの長テーブルを挟み、カズマとエリックは向かい合って腰を落ち着ける。

「あ、その袋、アイスが入ってます。途中で買ってきたんで、良かったら溶けないうちに食べちゃいましょう」

 エリックが財布を出しながら「幾らだった?」と訊いてくるより早く、カズマは急いで奢りだと続けた。

「昨日はいきなり呼出した上に、とんでもない相談事まで持ちかけちゃったし。そのおびとお礼ですので。どうぞ遠慮なく」

「そういうことなら、ありがたくいただくよ。代わりと言っちゃなんだけど、良かったら蓋を開けるくらいはさせてもらうよ?」

 左手と歯で――というのはいささか品位を欠くこともあり、これは素直に頼んだ。

「腕、昨日見せられた時は驚いたけど……今は痛みなんかは?」

 蓋の開いたカップアイスを差し出しながら、エリックが訊いた。

「利き腕を使えないっていう不便さを除けば、正直、なんの問題もないですよ」会釈で受取りながら答える。「体調はむしろ良いくらいだし、痛みも全くない」

「キミは強いな。僕なら今日、右手を失う大怪我をして、明日そんな風に自然にしていられる自信はないよ」

「それはエリックさんが凄い人だから。一生懸命に毎日生きてるからですよ」

 カズマは苦笑しつつ、カップを両膝で挟み込んで固定した。左手のスプーンでアイスをすくいながら続ける。

「もしプロのスカウトから熱視線で見られるような高校野球のスタープレーヤーだったら、僕だって今頃、ショックで寝込んでますよ」

「そうかなあ」

「そうですよ」

 ふたりで最初の一口を味わう。

 エリックは開口一番「やはり美味しい」とつぶやき、破顔した。

 彼はこの牧場アイスを知っており、自分は今の手にしているオリジナルのミルク味かチョコチップを好んで食べるのだ、と語った。

 ヨウコは他に目もくれず、いつもオリジナルミルクであった――とカズマが教えると、彼はどこか嬉しそうな、それでいて少し寂しげな表情を見せた。

「楠上くんは、ヨウコさんとこの辺りに来たことがあるんだね?」

「何度か。最初は集団での牧場見学でしたけど。その他にも、彼女は冒険好きだったから、〈果ての壁〉を間近で見たいなんて言い出すこともあって」

 エリックがくすくすと笑う。「目に浮かぶようだ」

 それからは、ヨウコを話題に個々エピソードを持ち寄って、しばらく語らいあった。

 彼女は、エリックを同年代の見本として大変に尊敬していた様子であった――とカズマが語れば、エリックはデートの際、ヨウコが頻繁にカズマの名を出していた話を披露する。

「いつもいつも、エリックさんは凄い、エリックさんを見習えって。もううるさいくらいで。会えば分かるとか言って、しまいにはデートにまで連れて行こうとする始末」

「彼女にとってはキミが隣にいることが当たり前だったんだね。時々、僕のことをカズマって間違えて呼ぶことがあったよ。その度に顔を赤くして謝ってくれたけど」

 初めて聞くが、容易に想像がつく。そんなヨウコの一面に、ふたり声を上げて笑い合った。

 だが時間を追ううち、エリックの目は次第に伏せがちになっていった。

 ともなって言葉も途切れ途切れになっていき、ふとした瞬間を境に沈黙がおりる。

 あまり居心地の良い間とは言いがたかった。

 互いに、次の一言が本当のはじまりになることを知っていた。

「――ヨウコさんは……本当に、もう……いないんだね……」

 ややあってエリックが口火を切ったが、それは質問や確認というより、小さく零された嘆きだった。

 彼は空になったアイスのカップにぼんやりと焦点を合わせ、カズマの方を見ようとしない。そして、もういないんだね。また、ぼつりとつぶやいた。

 カズマは答えなかった。ふさわしい言葉が見つからなかった。

 ――昨日、ルネ・クラウセンによってナージャと引き合わされた後、カズマはすぐにエリックを呼び出した。そして関係者立ち会いのもと、ヨウコの身に起ったことを話した。

 その失踪が予測されていたこと。〈壁〉の向こうから来た超越者が関わっていること。その襲撃の際、居合わせた自分が右腕を失ったこと。彼女を守れなかったこと――。

 カズマは自分の口から、知り得る限りのことを話した。

 ナージャとも会ってもらい、封貝の存在も直接その目で確認してもらった。

 ナージャはカズマの指示で炎の槍(Fox 1)を呼出し、エリックに握らせた金属バットを両断するパフォーマンスを見せた。

 捨てても良いような金属バットがあれば――。そう頼んで持ってきてもらった、ヘコみだらけの歪んだバットは、バターに熱したナイフを入れるようにあっけなく真っ二つにされた。

 その美しい切断面を唖然あぜんとして眺めるエリックに、昨日のカズマはこう告げた。

「事は一刻を争う。僕は明日にでも、〈あちら側〉に行くつもりです」

 そのために必要な物は、ここにいる楠上シゲンやルネ・クラウセンが準備してくれている。ナージャの支援もある。彼らは〈あちら側〉の事情、そして封貝について大変に精通した人々だ。その手助けを受けることで、〈壁〉を越えるだけなら恐らく可能となるだろう。それからのことは何の保証も、生きてこちらへ帰ってこられるかすら定かではないが――

「それでももし、エリックさんがその気なら、一緒に来て貰っても構いません。必要なものが揃うよう、お願いしておきますので。一晩考えて、明日の――そうだな、朝一〇時。どこかで待ち合わせましょう」

 とても信じられる話ではない。あるいは、一応受入れはするが同行はできない。家族や今の生活を捨ててまで行くわけにはいかない。そういうことなら、待ち合わせには来なくて良い。自分は指定の場所で、きっかり一時間までは待つ。それまでに来なければ、そういうことだと解釈し、ナージャとふたりで〈果て〉を越えるであろう。

 そうして日は明け、果たしてエリックは約束の場に姿を現したのである。

「昨夜は――全然眠くならなくてね」

 やがて、エリックが囁くように言った。

「例の半分になっちゃったバットを眺めて、キミから聞かされたことを色々考えてた」

 確かに、エリックはナージャが両断した金属バットを持ち帰っていった。何かに使うのか。カズマの問いに、「自分でも分からない」と答えながら。

「考えたところで、答えなんか出るはずないのにね」

 エリックはどこか自嘲するように笑み、そしてようやくカズマに視線を向けた。

「昨日の話では、〈あちら側〉の世界に行くためには、封貝っていうパスポートに当たるものが必要なんだよね。そして、それはキミのご両親?……が揃えてくれる。そういう理解で良いのかな」

「まあ、おおむねそんな感じです」

 両親という誤解はそのまま聞き流すことにして、カズマはうなずいた。

「もう一つ。僕は封貝という物についてまだよく分かってないんだけど、もしそれを貸していただけるとして、それはそう簡単に使いこなせる物なんだろうか?」

 ぽんと手渡されても、自分がナージャのように空を飛び回れるようなイメージはまったくいてこないのだ、と彼は続けた。これはもっともな不安と言える。

 バットを持ったところで、誰もがエリックのような打者になれるわけではない。

「エリックさんが考えてる通り、臓器移植みたいにシビアなところはあるそうです」

 カズマは、比喩に至るまでシゲンに聞かされた話をそのまま受け売りする。

「多くの場合は拒絶反応が出て、結局は使い物にならないとか。でも、〈壁〉を越えるくらいなら、ただ持っているだけでもいけるみたいですよ」

「それは――」

 エリックがすっと目を細めた。同じ表情を、カズマはTVで観たことがあった。ヨウコに無理やり観戦をうながされた――あの、試合でバッターボックスに入った直後、バットを構えた瞬間のエリックだ。

「〈壁〉を越えたあと、素粒子レヴェルまで分解されてエネルギィとして世界にとりこまれてしまうっていう、例の現象を防ぐ部分も含めて?」

「そう。それを防いで、五体満足なまま――まあ、僕はもう五体満足じゃないけど――向こうの世界で活動できるところまでは、封貝を持っているだけでもなんとかなるって。少なくともシゲンとクラウセンさんは、そう言ってました」

「なるほど……」

 エリックはうなるようにつぶやき、そして深く嘆息した。

 口を真一文字に結び、なにかを黙考しはじめる。

 もしかして、彼は答えを用意してこなかったのかもしれない。その横顔を見て、不意にカズマは思った。

 通常、バッターは投手がどのような球種を投げてくるか、その組み立てを予測しながら打席に立つ。だが、時にそれらを放棄し、直感のみを信じて相手に向かうこともあるらしい。いわゆる、来た球を打つ、というやつだ。

 今回のエリックは、そうした無我の境地でこの場に臨んでいるのではないか。

 集中し、神経を研ぎ澄まし、土壇場で本能的にもっとも正しい選択をする。

 彼はそんなやり方で、今、決断をしようとしているのかもしれなかった。

「――僕ね、楠上くん。結局、眠れない時間を使って手紙を書いたんだ」

 だしぬけに、エリックが言った。

 それに少し驚かされつつも、カズマは平静を装って返す。「手紙?」

「うん。何通も書いた。両親(あて)、野球部の仲間たち宛。親しい友人宛。ヨウコさんにはSNSでメッセージも送った」

 当然、彼女からの返事はこなかったけどね。エリックはそう言って弱々しく笑む。

「必要なくなれば、帰って破り捨てれば良いと思って、とにかく書くだけ書いたんだ。無心だったから、どんなことをつづったかはくわしくは覚えてない。ただ、感謝の言葉とか、自分勝手のおびだとか……まさか、超能力で〈壁〉を越えて異世界に行くなんて書くわけにもいかないからね。心は込めたつもりだけど、当たりさわりのない内容になってしまった気がする」

 でも、と彼は顔を上げた。そして卓上に両手を突き、勢いをそのままに立ち上がった。

「今は、手紙をしたためておいて正解だったと思ってる。僕が帰ってあれを破くことはなくなった。僕が消えたことに気付いた家族が見つけて、それぞれをしかるべき人たちの元に届けてくれると思ってる」

 彼は真っ直ぐカズマに視線を向け、左手を差し出した。

「僕も同行させて貰うよ、楠上くん」

「いいん……ですか?」

 こちらは若干膝をふらふらさせながら、カズマも立ち上がる。少し呆けながらエリックの手を握りかえした。彼の手にぎゅっと力が込められるのを感じた。

「構わない、と胸を張って言えるようなことじゃないけどね。結局、この問題はどちらを選択しても誰かに迷惑をかけざるを得ないし、悔いが残ると思ったんだ。なら、せめて失礼にならない方を選んだ方が良い」

「失礼、ですか?」

 なんとなく握手のまま固まった状態でカズマは訊いた。想定外の展開に、どこか頭がふわついていた。何が起っているのか、いまいち理解できていない自覚がある。

「残れば、僕は形はどうあれヨウコさんを見捨てて、あきらめたことになる。危険は回避できるかもしれないけど、精神的にとても万全の状態ではいられない。正直、野球どころではなくなると思う。そんな腑抜ふぬけが、目標に集中して一致団結しているチームでプレイし続けることは、たとえ結果は出せても侮辱ぶじょく的なことだ。正しいか間違ってるかは分からないけど、そう思ったんだよ」

 それに、と彼は握手を解き、その手で照れたように頬を掻きながら続けた。

「もし全ての事情を打ち明けたとしたら、少し恨まれもするだろうけど、チームメイトの仲間たちの多くは、なにグズグズしてるんだエリック。さっさと行ってこいよ――なんて言って、僕の尻を蹴飛ばすと思うんだ」

 その言葉で、カズマはようやく口元に笑みを浮かべた。

 他の理屈はともかく、彼の野球仲間の反応だけは理解できた。明確に、イメージできた。

 たとえば自分が親友の鶴田や他の悪友達に相談を持ちかけても、同じような反応が返ってくるだろう。そう思ったからだ。彼らもまた、カズマの臀部でんぶを蹴飛ばすに違いなかった。

 行ってこい、馬鹿野郎。千葉さん見つけ出すまで帰ってくるんじゃねえぞ。

 そして、アホの鶴田あたりは慌ててこう言い加えてくるに違いない。

「あ、待って待って。ねえ、カズマたん。異世界ってあれなんだよね。ファンタジー的な異種族とかもいたりするかもしれないんだよね? だったらさ、アレ! 本物の猫耳ついてる女の子とか、ついでにテイクアウトできたりしないかな? 女子のひとりもふたりも連れて帰る労力変わらんだろ。なんつうか、そこんとこひとつお願いします!」

 きっと、ハンバーガーとご一緒にポテトはいかが、とでもいった口調で言い出すに違いない。

 だから、カズマは笑った。

「なんか少し違うかもしれないけど、僕もエリックさんの気持ち、分かるような気がしてきましたよ」

「そう?」

「うん。色々大変なことになるだろうけど、よろしくね。エリックさん」

「こちらこそ、何かと気を回してもらって感謝してる。こうして機会を提供してくれた寛大さにも」

 では、気が変わらぬうちに。

 そういうことになり、カズマたちはそろって小屋を出た。

 ここまではエリックも自転車で来ており、彼は待合所の裏手に駐輪していた愛車をすぐに引っぱり出してきた。

 カズマが片手運転だということを思いやってのことだろう。自分が前にたち風よけになる。そう宣言したエリックは、先頭切って走り始めた。カズマは二メートル弱ほど間隔を開けて、ありがたくその後ろに続く。多少離れていても、空気抵抗は確かに低減されるようで、ハンドルは随分と安定した。

 これが体育会系の細やかさというものか、エリックは常に後続を気にかけてくれた。駐車車両の回避や信号停止の時は、適切なタイミングでそれを伝えてくれる。

 おかげで、急停止したエリックにブレーキが間に合わず突っ込む――などといった悲劇は一度も起らなかった。その危険を感じることすらなかった。自宅のコンドミニアムまで、カズマは終始楽に走ることができた。

「ええと、それで――これから、とりあえずはどうするのかな?」

 二人してコンドミニアムの駐輪場に自転車を入れると、エリックが荷物を背負い直しながら訊いた。

 彼は六〇リットルはあろうかという、巨大なバックパックを持参していた。

 後ろから見ると、一八〇センチを越えるエリックの腰から上が、腕部を除いて荷物ですっぽり隠れてしまう。登山家が、山中でのテント泊を前提とする時に持ち出す装備だ。通常、着替えや寝袋、折りたたみ式のテントなどが収められている。

 右側面に突き刺された釣り竿ケースのような円柱形は、間違いなく金属バットの収納したものであろう。こちらは護身用の武器といったところか。

 彼は異世界行きと聞いて、本格的なサヴァイヴァルを想定してきたらしい。

 認識としては正しいが、意味があるかは微妙なところだった。

 封貝の持ち主と言えど、本来〈あちら側〉にない装備や知識は、〈壁〉を越えた瞬間、消失してしまう可能性が高い。シゲンたちからはそう聞いていた。

 パスポートがあっても、飛行機に制限なく物を持ち込めるわけではない、といったところだろう。税関は規則にしたがって、時に渡航者から所持品を没収するのだ。

「とりあえず、サトミさんに会いましょう。話を総合すると、彼女が封貝を管理しているようなので」

 カズマは言って、エレヴェータホールに足を向ける。

「これは訊いて良いのか分からないけど……」

 待機中であった箱の一つに乗込みつつ、エリックが遠慮がちに声を上げた。

「サトミさんという方と、楠上くんとは苗字が違うみたいだね。名前で呼び合ってるようだし」

「ああ、はい」

 カズマは階数を指定すると、パネルから二歩下がった。壁に背を預けながら続ける。

「シゲンさんともサトミさんとも、血縁関係はないんです。あのふたりも別にカップルじゃないし。当然、結婚とかもしてません。基本的に、全員無関係のルームメイトってところで」

「じゃあ、シゲンさんという方と苗字がおそろいなのは?」

「難しいことはよく分からないですけど、僕はどうやら捨て子みたいなものだったらしくて。生まれてしばらくは、名前も何もない状態だったんです。で、それをサトミさんとシゲンさんが拾ってくれて。その時、法律上の後見人として手続きして、僕に名前を付けることになったのがシゲンさんなんだって聞いてます。だから、便宜的に彼の苗字を貰うことになったとか――」

 教科書が今に伝える通り、〈變成日〉が世界にもたらした騒乱は当時、本当に大変なものであった。

 残り少なくなった資源の争奪。難民と受入れ反対派の対立。各地で泥沼の紛争が頻発し、その一部は今も続いている。幾多の社会が崩壊し、その中では寄る辺を失った遺児や、捨てられた孤児などが大量に発生した。

 結局、自分もその一例であったのだ、というのがカズマの認識であった。

「でも、橋の下に捨てられてたとかじゃなかっただけ、僕は幸運だったんですよ。清潔で安全な産婦人科で、普通に産んでもらえたわけですから」

「えっ、そうなの?」

「まあ、どうやら母親は、僕を残して入院中の病院から逃げてしまったようですけど」

 その辺りにどのような事情があったのかは分からない。カズマ自身、人から伝え聞いたことしか知らない。偽名、偽証していた母親が、何者であったかも不明のままだ。

 確かなのは、未熟児ぎみであったため、当面病院で保護される予定であったこと。その途中、運良く里親がついたこと。それがシゲンであり、サトミであったことだけだった。

 そしてカズマは、それで充分だと考えている。

 複雑な事情に配慮してくれたのか、エリックもそれ以上のことは訊こうとしなかった。

 会話がちょうど途切れたところで、エレヴェータが電子音を上げる。

 部屋に戻ると、カズマが靴を脱ぐより早く、帰宅していたシゲンが姿を現した。

 どこへ行っていたのか、外出先から帰宅していたらしい。隣にはナージャもいた。

「あ、シゲンさん。ナージャも。ただいま」

「どこへ行っていたのだ、ダーガ?」

 仁王立ちに腕組みのポーズでナージャが問うてくる。

 叱責、あるいは威圧の構えにも見えるが、実際は素朴な疑問としてたずねているだけである。出会ってから半日で、彼女の性格は大体把握できていた。

「うん。エリックさんを迎えに行ってたんだ」

 入口から半歩ずれて、カズマは背後のエリックを露わにした。

 途端、シゲンの目が鋭く細められた。

 エリックがここに来たこと。そしてたずさえている仰々《ぎょうぎょう》しい装備品の数々。これらを総合すれば、話の流れを推察すいさつすることも容易だろう。

「――どうやら、結論がでたようだな」彼が低い声で言った。

「はい」答えたのは、気をつけの構えを取ったエリックだった。「この度は、楠――カズマくんにお話しをいただき、あつかましくも同伴を願い出ることにしました」運動部らしいはきはきとした口ぶりであった。「お力添えの程、どうぞよろしくお願いします」

 最後は深々と一礼する。彼は、「頭を上げなさい」というシゲンの声がかかるまで、そうしていた。

「ご両親の了解がどうだとかは、えて問うつもりもない。キミたちは未成年ではあるが、立ち方、生き方を自らの責任で選択すべき年齢でもある。機会は提供するが、結果は保証しない。それでよければ、私にできる限りのことはしよう」

「はい。お心遣い感謝致します」

「僕も、その辺は承知してるつもりだよ」

 カズマもまた、欠けた自分の右腕を示しながら言った。

 これから先、腕の一本では到底済まない状況に直面するかもしれない。それは、この身をもって既に理解している。そう伝えたつもりであった。

 シゲンは大仰にひとつ頷いた。

「ならば、地下のラボに行け。カズマも知らないだろうが、このコンドミニアムにはそういった施設があるのだ。牝狐はそこでお前を待っている。場所はナージャが知っているから、案内して貰うといい」

「うむ。私が完璧に案内してやろう」ナージャが胸を張る。

「良いか、カズマ」神妙な顔つきでシゲンが身を乗り出した。凄むように言う。「用が済んだら速やかに部屋を出るのだぞ。あの女はお前をその毒牙にかけんと舌なめずりしているに相違ない。なにかされたら大声で泣いて私を呼べ」

「はは、分かったよ」

「では行くぞ、ダーガ。しっかり着いてくるのだぞ」

 高らかな宣言と共に脚踏風火(Victor 1)を口訣しようとしたナージャだったが、これには間髪入れず、シゲンの制止が入った。

 これは至極当然の配慮だった。

 封貝の「ふ」の字も知らない一般の目もある環境だ。異国風の少女がロケットマンよろしく高速で飛び回れば大騒動になる。

 わがままで常識知らず。時に、突拍子もないことをしでかす子――。クラウセンから聞いていたナージャの人物評は、決して大袈裟なものではなかったらしい。

「ナージャ。空を飛ばれたんじゃ、流石にしっかり着いていくってのは無理だよ。一緒に歩いていこう」

 カズマが笑みを引きひきつらせながらさとすと、ナージャは大人しく従ってくれた。

「じゃあ、シゲンさん。ちょっ行ってくるね」

 カズマは軽く手を上げ、きびすを返す。

「話が済んだら、ガレージの前に来てくれ。私からも渡したいものがある」

「うん。分かった」

 シゲンのいう研究室ラボラトリィは、昨日まで世話になっていた医療エリアに隣接したセクションであるらしかった。管理者用のエレヴェータを使えば、ほとんど直通の近さである。口頭で事前に場所を教えられていれば、ナージャの案内がなくとも簡単に辿り着けただろう。

 どこか電車のそれに似た金属製のドアが立ち並ぶ通路を歩き、ナージャが「ここだ」という一室の前で止る。

 カズマが二度、ノックすると、途端に猛スピードで駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 室内側からドアが開かれ――開ききるより早く、何者かが恐るべき勢いで飛び出してきた。人影は正確にカズマの姿を見極め、両の腕で強く拘束した。埋め込むようにして、カズマの痩躯を自らの胸に閉じ込めてしまう。

「ごめんなさい。ごめんなさい、カズちゃん。私……本当に、ごめんなさい」

 サトミはひたすらそれだけ繰り返し続けた。明らかな涙声であった。

 どれほどしてか、カズマが窒息寸前にまで到った時、ようやく――それでも渋々といった様子で――解放しくれた。

 ナージャやエリックには目もくれない。実際、意識すらしていないようだった。カズマの両肩をしっかり掴んで、至近距離から目を覗き込んでくる。

「あの胸モジャには、何か変なことされなかった?」

「大丈夫だよ」彼は苦笑交じりに答えた。「シゲンさんはただ、激励の言葉をくれたんだ」

「なら良かったけど……」

 と口にした瞬間、サトミはたちまち表情を曇らせた。その視線は何か恐ろしいものを見つけたかのように、カズマの右腕で止っていた。

 現在、カズマの利き腕は肘から先がなくなっている。良かったなど、間違っても言えるものではない。そう考えたのが、ありありと窺えた。

「……生まれたての赤ちゃんの頃、手のひらにそっと当てると、カズちゃんのもみじみたいに小さくてぷくぷくだった手が、私の人差し指を握ってくれたの。……風でガラス戸が揺れた時、おばけだって怖がって必死にスカートの裾を握りしめてきた時の手も、まあるくって、とても可愛かった。今でもたまにふたりで買物に行った時は、人混みの中ではぐれないようにって繋いでくれたカズちゃんの手。もう私のより大きくなってたカズちゃんの手……」

 サトミの震える両手が、見えなくなっただけでまだそこにあるかのように、カズマの欠落した右腕部分に伸ばされていく。だがそれは、指先が触れるというところまで近付くと、力を失ったかのように落ちていった。同じタイミングで、サトミ自身、両膝をついてへたりこんでしまう。手の震えは、今や全身にまで伝播していた。

「ごめんなさい。本当に。私、何もしてあげられなかった」

 昨日からずっとこのような調子で悔い続けていたのだろう。彼女は明らかに憔悴しきっていた。

「私がもっとしっかりしてたら、もっと注意してれば、こんなことにならずに済んだかもしれないのに」

「そんな」カズマは膝を折り、目線の高さを合わせて言った。「サトミさんは何も悪くないよ。それどころか、傷を完璧に塞いで、痛みも取り除いてくれた。あれからまだ一日しか経ってないのに、おかげで僕は何もなかったみたいに元気に動き回れてる。全部サトミさんのおかげだって聞いたよ。……そうなんでしょ?」

「それは、そうかもしれないけど」

 しかし、そんなものは最低限の処置にすぎない。割ってしまった花瓶の破片を掃除したからといって、褒められる理由にはならない。壊してしまった罪は消えない。彼女がそう考えていることは、表情からはっきりと読み取れた。

「それに、僕にはこうして慰めてもらう資格なんて、ない気がするよ」

 えっ、という顔でサトミが目をしばたく。

「ヨウコはさ、どうしてるんだろう。あれからもう一日半だ。その間、どこまで連れ去られて、どんな扱いを受けたんだろう。何をされたんだろう。知りもしない場所で、帰れるかも分からない身の上で、命の保証すらないまま、たった独りで。今、どんなに辛いだろう」

 言葉と共に、カズマの顔は徐々に伏せられていった。

「ヨウコは心の強い女の子だ。でも、怖いに決まってる。心細くて、泣きたいに決まってる。想像を絶するような酷い目に遭わされてるかもしれない。一瞬だって心休まる瞬間があるかどうか。僕はのんきに寝てたけど、ヨウコは眠れたのかな。お腹がすけば僕はご飯を食べられるけど、彼女は?」

 これに関しては、シゲンやクラウセンですら正確な予測はできないようだつた。

 せめて、あちら側のどのエリアに転移したかだけでも分かれば別らしいのだが――

 なんにせよあちらは、人間に値札が付けられ、奴隷に近い存在がシステムに組み込まれている世界だという。人権などといった上等なものは、多くの場合、かえりみられない。若い娘がそんな環境に、いわば裸で投げ込まれたのだ。楽観できる要素は皆無といえた。

「今、抱き締めてもう大丈夫だからって言ってくれる誰かが必要なのは――本当にそれを求めてるのは僕じゃない、よね?」

「そう……ね」

 ややあって、サトミはようやくそれだけ答えた。

 常なら、カズマの口から異性の話を聞くのを好まない彼女だが、今日ばかりは少し事情が違うようだった。むしろ、サトミは微笑さえ浮かべて聞いていた。

「カズちゃんはそう思っちゃう子なのよね」

「――サトミさん、何か僕に話してくれることがあるんでしょう?」

 カズマはサトミから顔を離し、立ち上がってゆっくりと半歩、距離を取った。

「ええ。そうね。あなたに聞いて欲しいことは、一日かけても足りないくらいある」

 言いながら、サトミも腰を上げた。目尻の涙を指で拭う。つくろうような笑みを浮かべると、口調を改めて「入って」と告げた。ようやく、三人全員を視界に入れての言葉だった。

 足を踏み入れた彼女のラボは、想像よりも随分と広大であった。普段出入りしている、高校の教室を半分にしたくらいか。向かって両側と奥には壁に沿うように事務用のデスクが隙間なく並べられている。机上にはPCや周辺機の類が所狭しと並べられており、それ以外のスペースは摩天楼の高層ビルよろしく林立する書類の束が埋め尽くしていた。入口側の壁面は天井まである大型キャビネットの領域で、こちらにもファイルや光学ディスク等が窮屈そうに押し込められている。

 中心部には工作台なのか作業台なのか、用途のよく分からない巨大な設備が鎮座していた。手術台が常に生体情報ヴァイタルサインモニタと対をなすように、幾多の端末がその脇を固めている。

 カズマたち三人が通されたのは、入口右側の応接スペースであった。お定まりの革張りソファではなく、ソファベッドが置かれているあたり、休憩用に使われているのかもしれない。大量の菓子と雑誌、TVなどが置かれた小洒落たテーブルが、その印象を助長していた。

「――カズちゃんには、一刻も早くこれを受取って欲しかったの」

 一度、奥に引っ込んだサトミが、小さな箱を両手で抱えて戻ってくる。

 アルミを削りだしたような質感の、黒みがかった銀色が美しい金属ケースであった。

 彼女はわざわざカズマの隣に密着して座ると、卓上に箱を置いた。サトミ以外の全員が、腰を浮かせて中を覗き込む。

 改めて見ると、箱の大きさは靴用のそれをひと回り大きくしたような直方体。上部はガラスかプラスティック系の何かで透明化されており、ショーケースのような印象を醸し出している。

 ワインレッドのフェルト素材で内張りされた箱は、半ばまで何か柔らかそうな素材で埋められており、その表面をシルクのような光沢を持つ象牙色の布が覆っていた。

 これらの上に厳かに横たえられているのが――

「これは……もしかして、義手ですか?」

 問いの口を開いたのはエリックだった。その口調はどこか熱に浮かされたようで、事実、彼の視線は鈍く黒光りするそれに注がれたまま、微動だにしない。

「――そう」

 サトミは小さく頷き、丁寧にケースの蓋を開いた。僅かな軋み音さえあげない蝶番の金具は、高度な工作精度を窺わせた。そして、サトミの白く細い手が、まるで生まれたての胎児を取り上げるように、恭しくそれを抱え上げた。

「カズちゃん専用のペルナ・コンポーネント・システム。その中核コアを成す、常時顕現・着装打撃型のユニーク封貝ペルナ。――固有名は〈ワイズサーガ〉」

 サトミは立ち上がり、騎士に叙勲の剣を授けようとするかのごとく、それをカズマに差し出した。

「カズちゃん。あなたの右腕になるものよ」

「これが……」

 カズマは気付くとそれを受取っていた。イメージとしては、義手と聞いて思い浮かぶ物からいささか距離がある。どちらかと言えば、欧州の貴族屋敷に飾られた騎士甲冑の籠手こて。ガントレットに近しい。

 生身の腕にデザインを近づけ、見る者になるべく違和感を抱かせないことを第一とする医療用の装飾義手とは、はっきりと一線を画す。重金属でガチガチに固めたとしか思えぬその佇まいは、まさに無骨の一言だった。違和感どころか、威圧を目的としているとしか思えない。塗装ではなく、その金属が元来持ち合わせているとしか思えない深みのある黒色もまた、むしろ人目を強く惹きつける。

「それを右手につけて一言唱えれば、それは貴方に融合して、文字通り貴方の身体の一部になるの」サトミが言った。「口訣こうけつは――あの胸モジャの方で聞いたでしょう?〈Fox 1(フォックスワン)〉よ」

 その声に誘われるまま、カズマは服の右袖を肩までまくり上げた。左手で義手を持ち、その挿入口にゆっくりと腕の切断面を近づけていく。明らかな金属製であるにも関わらず、封貝はまるで紙のように軽く、そして冷たくもあたたかくもなかった。

 差し入れると、吸い付くような感覚でそれはカズマの腕にぴたりとフィットした。

 そして、カズマは口訣した。

「――〈Fox 1(フォックスワン)〉」

 思っていた、劇的な何かはなかった。

 むしろ、カズマは結合の失敗を疑いさえした。

 それほど、変化を感じなかった。

 いぶかしがり、思わず右手を自分の方へ引いた。手首を返し、しげしげとそれを見つめた。一連の動きに合わせて右の五指がなめらかに動いても、その様をしっかりと視認してすら、カズマは気付かなかった。それそのものが変化であることに、不思議なほど思いいたらなかった。

 何度か首をかしげた後、助けを求めるようにエリックとナージャに目配せし――ふたりが声さえ失い、口を半開きに驚愕しているのをのあたりにして、よくやく理解した。

 あまりにも自然に、ごく当然のように、右手が音もなく自在に動いている。

 微かなモーター音さえしない。なぜ動くのか。動力は? 信号経路は? メカニズムは? 何一つとして理解できない。想像もつかない。だが、動いている。

 自分の思いどおりに――否、それ以上――意識していないところでも、それは生身の左手同様、細やかな動作を続けていた。軽く振れば、皮膚感覚が空気抵抗を、風を切るフィーリングを伝えてくる。軽く叩けば、義手の表面近い場所に痺れに似たものさえ感じる。

「なんだ、これ……」かすれ声で囁いた後、何かが弾けた。「なんだこれ! これ、凄いよ。凄いよ、サトミさん」

 はしゃぐように呼びかけると、サトミは薄らと涙を浮かべながら、静かに微笑んでいた。

「……普通の事故でなくしたなら、私の封貝を使って腕を復元することもできたの。でも、高位の封貝に負わされた四肢切断のような大きな怪我は、私の封貝でも完全には治癒できない」

 傷口を塞ぎ、痛みを取り除くことは確かにできる。しかし、欠損部分の復元までは不可能なのだ、と彼女は震える声で続けた。

「だから、こんな形でしかカズちゃんにつぐないをできないの。ごめんなさい。最初は、婚約指輪エンゲージリングした、指輪型の封貝を貰ってもらおうと思ってたんだけど。私の名前を彫り込んで……でも、そんなこと言ってる場合じゃなくなっちゃった。まさか、こんなことになるなんて……」

 なるほど、と思った。

 その権利を得るために、彼女は昏睡状態から目覚めたカズマと最初に面会し、一日独占する権利をシゲンに譲ったのだ。そうした取引で、ふたりは役目を分担したのである。

 さもありなん。婚約指輪型の封貝など、シゲンがタダで許そうはずもない。

「――ねえ、カズちゃん」

 サトミが柳眉をしかめ、思いつめた表情で身を乗り出した。

「分かってて訊くけど、やっぱり出発を一月ほど延ばすわけにはいかない? 指輪型で用意していたものを急遽きゅうきょ、義手型に変えて整えたものだから、それはまだ調整をほとんど終えてないの」

「ええと、その調整ってのが終わってないと、どうなるの?」

「馴染むまでに時間がかかってしまうの。現行の封貝は複数が寄り合って、機能を補い合うグループセットを形成するってことは、あの胸モジャから説明を受けたでしょう?」

 カズマは頷く。「コンポーネント・システムだよね」

「そう、PCS。貴方に渡した〈ワイズサーガ〉はその中核なの。つまり、今からカズちゃんに合わせて、〈ワイズサーガ〉は仲間になってくれる別の封貝を見つけ出してグループを作っていく。どんな封貝と組んで、どんなコンポに育つかはこれから決まるの。調整に時間を貰えれば、私はある程度ならその方向性を操作できるし、コンポがそれなりにまとまった状態でカズちゃんに渡してあげられる。それぞれの仕様だとか使用上のコツみたいなものもレクチャーできると思うの」

「じゃあ、僕のコンポ・システムには、まだこの腕しかないんだ。ナージャのマフラーみたいに身を守ってくれたり、移動に使えるものもない――?」

「そういうことなの」

 不安でたまらない、という表情でサトミは両の拳を握りしめる。

「私の封貝はそんなことはないな。全て最初から使えたぞ」

 ナージャがソファの上で器用にふんぞり返りつつ言った。

「でも、熟成型のコンポがあるというのは、確かに聞いたことがある!」

「熟成型、か」

 封貝ペルナというのがいまいちよく分からないですけど、と恒例こうれいの前置きしながら、横からエリックが言った。

「野球で言うなら、買いたてグローブみたいなものですね。グローブというやつは皮ですから、新品のうちは固くてスムーズに開閉したり、上手くボールを掴んだりすることができないんです。長い時間をかけて硬さを抜いて、ほぐして、手に馴染ませ……育ててていかないといけません」

 蒸気スチーム型付けといった早く柔らかくする加工法もあるが、それがサトミのいう調整にあたるのだろうか。彼はそう言って、自説を結んだ。

「なんであれ、そしてサトミさんには申し訳ないけど、僕は出発を先延ばしするつもりはないよ。今日中に〈果て〉越えに挑むつもりだ」

 カズマは断固として告げた。

「ヨウコは誘拐されたんだ。若くて、綺麗で、健康な女の子が、だよ。誘拐の被害者になった女の子が、一ヵ月も手をつけられず無事な状態でいるとは、現実的にちょっと考えにくいよね。一秒だって無駄にしたくないっていうのが、正直なところだよ。今この瞬間だって、僕は胸を掻きむしりたくなるような焦りを、精一杯の忍耐力でもって抑えつけてる状態なんだ」

 その言葉を、サトミは目を閉じて聞いていた。やがて、天井を見上げるように顎を軽く持ち上げた。深く息が吐きだされる。

 顔を戻した彼女は、一言「そうよね」とだけつぶやいた。

「ごめんね、サトミさん」

「いいえ。カズちゃんの言ってることは、もっともだもん。それに、貴方はこうと言い出したら誰が何を言っても無駄だから」

「なんだ。ダーガは頑固者なのか?」

 カズマの横顔を覗き、何か不思議なものを見るようにナージャが言う。

「そうよ、ナージャ。カズちゃんはこう見えてかなりの頑固者なの。でも、普段はそれほどでもないから。〈あちら側〉に行っても、仲良くしてあげてね。そしてどうか、私の大事なひとを守ってちょうだい」

「サトミ、心配はいらない」ナージャは自信満々に宣言した。「ナージャに任せておけば、全て大丈夫だ」

「お願いね」

 それからサトミはもう一度、離席した。理科室でいうところの準備室に当たるスペースがこのラボにもあるらしく、今度はそこからエリック用のブランク封貝ペルナを持って戻ってくる。

 程なく彼の手元に渡されたそれは、完全無加工の封貝だと説明された。その名の通り貝殻ペルナのような形状をした、なめらかで乳白色にゅうはくしょくの塊であった。大きさは手のひら大。にわとりの卵をひと回り小さくした程だった。

 ナージャのマフラーやカズマの義手と違い、これには名前もなければ永久顕現の特徴もないらしい。

 サトミいわく、扱いも少し勝手が違うのだという。

 とりあえず、今はポケットにでも入れて携帯しているだけで良い。そのまま〈壁〉を越えることが、同時に契約の儀式のようなものになるとのことだった。

 その先だが、〈あちら側〉に辿り着くと同時、無加工の封貝は目に見えなくなる。

 だが、消滅したわけではない。こちらでも、あちらでもない狭間の世界に移動し、それでいて常に持ち主の側に寄り添いながら、しばらく適正を見極めようとする。

 もし幸運に恵まれ、適合できたなら、風邪のような症状が出て一時的に体調が悪くなる。これは半日から数日で完全に収まる。

「そこまで行けたなら、あとは封貝の方から貴方に語りかけてくるでしょう。そして、貴方は封貝使いになる。ただ、その確率はとても低いでしょうね」

 サトミはそう念を押した。

 シゲンやサトミは予知夢において、〈あちら側〉で封貝を使いこなすカズマの姿を見ている。だからこそ、この計画は推進されたのだが――

「だから、カズちゃんがこのまま〈ワイズサーガ〉の契約者になれる可能性はかなり高いし、私もその点は心配してないの。たとえ〈ワイズサーガ〉から拒絶されても、どこかで別の封貝に選ばれて使い手になるはず。その公算は高い」

 その点、エリックに関しては何のデータも保証もない。

 二つの世界を橋渡しする封貝は、大衆的な言語を自動翻訳し、コミュニケーションを円滑化してくれもする。もし、封貝と契約できなければ言葉の問題でもかなり苦労することになるだろう。

 封貝を所持しているだけで勝手にバイリンガルになる。この夢のような事実はカズマを高揚こうようさせた。だが、サトミはひとり、あくまで冷静だった。

「――気持ちは分かるけど、カズちゃんも気をつけて。コンポとして未完、まだ熟成しきっていない〈ワイズサーガ〉の場合、封貝が本来持つこの自動翻訳機能も不完全にしか働かないかもしれないから。まあ、徐々に自動調整されていくでしょうし、あまり心配はいらないと思うけど……」

 この他にも、持ち込める記憶にも封貝の成熟度が影響し得る。

 中途半端な封貝使いは、言わば「完全な使い手」と「何も持たない人間」との中間的存在だ。こうしてサトミから授けられている虎の巻的な情報自体、「持ち込める」と「全て消失する」の中間の扱いになる可能性が高い。部分的には覚えている、何か聞いたことは記憶しているが中身は覚えていない――。そんな状態で放り出されることも考えておかねばならない。サトミはそう語った。

 もっとも、この点はナージャからのフォローが期待できる。

 彼女は熟達した封貝の使い手であり、基本的な情報なら劣化のない状態で持ち込めるからだ。

「私から話せることはこのくらい。あとは貴方たちの頑張り次第よ」

 そう明るく言い放ち、サトミは勢いよく腰を上げた。

「さあ、みんなでガレージに行きましょう。封貝とは別に餞別せんべつがあるの」

 彼女の言葉にうながされ、全員でラボを出た。

 ガレージはコンドミニアムの共同駐車場に併設された、楠上家占有のプライヴェート・スペースだ。団地が所有する小型コミュティバスも、普段はここに格納されている。カズマはほとんど立ち入ることのない場所だ。記憶にある限り、隠れんぼの時にヨウコを探して彷徨い込んだことが二、三度あるくらいか。

 今回も、ガレージの中までは入らなかった。一度、屋外に出て、降ろされたシャッターの前に全員が集合する。カズマたちが着いた時には、既にシゲンの姿もそこにあった。

「おお、カズマ。無事だったか。あの牝狐に変なことはされていないな?」

「うん」カズマは苦笑で応じる。「皆もいたし……特別変わった事はなかったよ」

 それより、と自分の新しい右腕を眼前にかざして見せた。

「この義手、仕上げ的なことはサトミさんがしてくれたみたいだけど、シゲンさんも開発に関わってくれたんでしょ。ありがとう。凄いね、これ」

 シゲンはふっと笑って言った。

「気にするな。調子はどうだね?」

「すこぶる快調だよ。ごついのに全然重たくないし。生身の腕と比べても、あらゆる意味で遜色ないと思う。正直、三十秒でこれが義手だってこと忘れちゃったよ」

「それがあれば、封貝による治癒だけでは対応の難しい、幻肢痛の抑制にもなると思う。また、危急の際はその異能でお前の助けとなるはずだ。必要に迫られた時、〈Fox 1(フォックスワン)〉を口訣してみると良い。〈ワイズサーガ〉はこたえてくれるはずだ」

「うん。忘れさせられちゃうかもしれないけど、覚えとくよ」

「結構。では、餞別だ」

 シゲンは言って、スタンドに乗せられた荷物満載の自転車をあごで示した。

 革張りの座面サドルをぽんと叩きながら、にやりとする。

「これはランドナーという旅向けに設計された特殊な自転車だ。旅立ちに際し、私からはこれを贈りたい。替えのチューブやタイヤの他、整備用のツール一式。日用品としては衣料、携帯食、食器、燃料。テントや寝袋の類も揃えてある。車体は鉄の一種でできているから、多少の破損なら、向こうの鍛冶職人に見せれば修復が可能だろう」

 なるほど、旅用というのは一目で納得できた。

 ハンドルは、傘の持ち手のように湾曲したドロップ型。その前面には、普通のカゴではなく帆布はんぷ製の丈夫そうなバッグが取り付けられている。黄色を基調としたダイヤモンド型フレームのペダル付近には、二つの飲料用ボトル。後部に目を向けると、こちらには頑強な鉄フレームの荷台キャリアが取り付けてあり、段ボール箱のように巨大なバッグと、丸められたヨガマットのようなものが据え付けられていた。車輪は前後とも泥よけを完備しており、左右から挟み込むように吊り下げ型の鞄が取り付けられている。

「そんなものは、ただの玩具おもちゃよ」

 突然、拡声器を通したサトミの声が周囲に木霊した。

 カズマたちがその姿を求めようと方々に視線を巡らせていると、おもむろにガレージのシャッターが巻き上がり始めた。やや遅れてトラクターのそれを思わせる、あまり聞き慣れない種類のエンジン音が鳴りだした。

 続いて耳朶を打ったのは――カズマの勘違いでなければ――キャタピラの軋む音だった。

 重たい履帯がガレージのコンクリートフロアを削り、その圧倒的な質量を揺り動かす非日常世界の異音。

 果たして開けたシャッターの向こう、薄暗がりの中から悠然と姿を現したのは、紛う事なき戦車であった。

「……そう。あらゆる外的脅威に対応する完全なる防備。地上を移動するまさに不落の要塞。未舗装の異世界を闊歩かっぽせんがための最適解さいてきかい。それこそがタンク。私の愛の抱擁にかわり、おはようからオヤスミまでカズちゃんを守るこの鋼鉄の鎧こそが、第四代純国産制式戦車――」

 戦車の進行とエンジンがとまり、ハッチが内側から開かれる。

 間髪入れずモグラ叩きのモグラさながらに顔をのぞかせたサトミが、声高に叫んだ。

「この一〇式なのよ!」

「……貴様は馬鹿なのか?」

 シゲンの酷く冷めた声が投げられた。

「ここ何ヶ月か不穏な動きを見せていたと思ったら、こともあろうにそれか」

「負け惜しみはみっともないですわよ、胸モジャの人」サトミは右手の甲を口元に添えつつ、余裕の構えで受けて立つ。「バトルタンクの威容を前にすれば、人力駆動の鉄くずなど霞んで見えるというもの。その自転車りんりんはクーラーついてるの? スラローム射撃ができるというの? 機銃はおいくつで、何種類のレーダーを積んでらっしゃるのかしら? そもそも三人を収容できる懐はあって?」

 これにはシゲンも黙っていない。

「一〇式のクーラーは乗員用ではなく、要部冷却用だろうが。生物化学汚染(NBC)環境にも対応できず要塞を語るとは笑わせる。そもそも、そんな代物がどういう理屈で〈壁〉を越えられるというのだ。あっという間に〈あちら側〉の世界に消されてしまうわ、馬鹿め」

「細かいことは愛の力で超越できるに決まってるでしょう」

 途端にシゲンが鼻を鳴らす。

「論理的思考のできん哀れな女よ。貴様の愛など、履帯りたいと共に切れさって修復不能のままうち捨てられるのがオチだ。愛を語るなら、せめてもう少し居住性の良い機体を選ばんか」

「まったく、相変わらず些事さじ固執こしつして大局を読めない男ね」

 サトミは車内から全身を引き抜くと、そのまま軽やかな身のこなしで地に下り立った。

「良いでしょう。そこまで言うならカズちゃん本人に決めて貰おうじゃない。どちらが異世界の足として相応しいか。それで白黒はっきりするでしょう」

「上等だ、牝狐。今日こそ貴様に格の違いというものを見せてやるわ」

 仲が良いのか悪いのか、にらみ合う男女は示し合わせたようにカズマに顔を向けた。

「さあ、カズマ。言ってやれ」とシゲン。

「カズちゃん。胸モジャなんか、遠慮なく切り捨ててやって良いからね」とサトミ。

「男の浪漫、ランドナーか」

「移動要塞、一〇式戦車か」

 そして、二人の声が重なり合う。「〈果て〉越えのお供はどっち――!?」

 カズマは特に考えることなく、あっさりと答えた。

「えっと。じゃあ、ランドナーで」

 瞬間、シゲンは無言でゆっくりと右腕を掲げていき、天を衝くポースに至るとそのまま彫像のように動かなくなった。

 一方、サトミはと言えば膝から崩れ落ち、さめざめと泣き始める。

「なぜ……カズちゃん……私の、一〇式の何が至らなかったというの……?」

 絞り出すような声に、カズマは努めて冷静に返した。

「履帯切れたら重くて修理もできないだろなぁと。あと、燃料切れたら動けなくなると思って。異世界って基本、ガソリンないよね?」

「それは……確かに……」

「でも、よく考えたら戦車も自転車も、向こうの世界にはない異物って意味では一緒なんだよね? どちらにしろ、僕だけ乗ってもエリックさんやナージャとペースが合わなくなるだろうし」

 話が不穏な展開を見せ始めたのを察したか、シゲンが「なに」という顔を向けてくる。

 逆にサトミは、地獄に差す曙光を見るように、項垂うなだれていた頭を上げた。

 どちらにも構わず、カズマは続けた。

「だから、今回は普通に歩いて行くことにするよ。戦車は……ちょっと今は何に使ったら良いか分からないけど、ランドナーはこっちに戻ってきた時に、一人旅にでも活用させてもらおうかな」

「そうか……」

 シゲンは軽く首肯し、小さく唇の端を持ち上げた。

「ならば、そうすると良い。このランドナーはその時まで、私が責任もって預かっておこう。安心して行ってこい。そして帰ってこい」

「うん。あの、シゲンさん――」

 改めて挨拶を、というカズマの言葉は、だが静かに首を振るシゲン本人に遮られた。

「我々は、事ある度に言葉を欲しがる女とは違う。男だ。お前とは日頃、多くのことを語らいあってきた。ここで束の間の別れを迎えるとしても、改めて言葉を交わす必要などない。否、たとえこれが今生の別れであったとしても。――違うか?」

 カズマは微笑んだ。そして、シゲンと同じようにゆっくりと首を左右する。

「いいや、その通りだよ。シゲンさん」

 その返答にまた一つ頷くと、シゲンは無言のまま、ずいと右の拳を突き出した。

 カズマもまた〈ワイズサーガ〉の拳を握り固め、真っ直ぐ前に伸ばした。

 二つの拳が、そっと触れあった。

「行ってこい、相棒」

「行ってくるよ、相棒」

 最後に笑みを交わし、カズマはシゲンの元を離れた。

 立ち竦み、もう泣き始めているサトミの元へと足を向ける。

 男同士にはそれ相応の作法があり、同じように男女の間にもまた別の作法というものがある。別れの有り様とは、かくも多様だ。

「サトミさん」

 カズマが手の届く距離に至った瞬間、サトミが飛びかかるように抱きついてきた。

「カズちゃん。どうか無事でいて。どれだけかかってもいいから……に戻ってきて……ずっと、どれだけだって待ってるから。いつ帰っても良いように、ベリィソースのチョコレートパンケーキ焼いて……ここで待ってるから」

「うん」彼女の背に手を回して、カズマは答えた。「約束する。サトミさんのところに絶対無事に戻ってくるよ」

「向こうはとても危険なところよ。ひとつのミスが命取りになる。だから、リスクとは正しく向かい合わなくちゃ駄目。勇気と蛮勇は違うこと、忘れないでね」

「うん」

「だけど、それを逃げ文句に使うようになると、一歩も前に進めなくなってしまう。慎重と弱気はまったく違うものだから」

「覚えとくよ」

「貴方には仲間がいるけど、それでも本当の困難に直面した時、最後に自分の支えになるのは人としての尊厳だから。本物のそれを自分の中に持てるかが、勝負の分かれ目になることもあるの。だけど、多くの人が誇りだと思っているものは、虚栄心ヴァニティと訳されるものでしかない。本当の矜恃プライドとは違う。取り違えちゃいけない」

「肝に銘じとく」

「そうは言っても、時に空元気でも自分を震わせなくちゃいけないこともある。誰かに大海を知らないと切り捨てられても落ち込まないで。それは、大海で通用しないこととは違うのだから」

「――うん」

「向こうは人間もシビアよ。詭弁を弄してカズちゃんを惑わそうとする人もいると思う。でも、それに流されたりしないで。正義は人の数だけあるけれど、それは自分の正義を主張してはいけないこととは違う」

「そうだね。僕は逃げないようにするよ」

「人間の裏側をたくさん見ると、心が疲れて何を信じて良いのか分からなくなってしまうこともある。そんなときは、分かるところまで戻れば良いからね? 絶対に変わらないことを思い出すの。人の心は変わってしまうものだけど、私だけは変わらない。夜、月がそこにあることと、私が貴方を想うこととは何も違わない。どんなことがあっても、何が起っても、貴方は私のたったひとつの宝物。これまでも、これからもずっと愛してるわ」

 カズマは、サトミの背に回した手に力を込めた。

 少しの間そうしたまま、やがて言った。

「小さい時からずっと、こうしてサトミさんに抱きしめて貰う度、思ってた。ここは、どんなことがあっても、絶対安心の魔法の場所なんだって。ここに帰ればなにがあってもどうにかなっちゃうし、何も怖くない。そんなものを知ってる僕は特別な幸せ者なんだって」

「カズちゃん……」

 カズマはサトミから少し身体を離し、両手で挟み込むようにして彼女の頬に触れた。その頬を次々に伝い落ちてくる大粒の涙が、カズマの親指を濡らした。

「今まで、僕を大事にしてくれてありがとう。サトミさんがいてくれたから、僕は天涯孤独でも一瞬だって寂しいと思ったことはなかった。親は僕を捨てたけど、病院は保護してくれた。シゲンさんは引取って、サトミさんは育ててくれた。その事実で生かされた。僕は人の善意だけでできている。だから、人の善意のために返す。

 今、僕の一番の友だちが生死さえ不明なことになっていて、僕はその助けになれるかもしれない。それなのに、魔法の場所に閉じ籠もって見捨ててしまったら、それは……もう、善意なんてちょっと口にできない人間になるよね。やっぱり。サトミさんに教えて貰ったばっかりだ。人としての尊厳。正しくプライドと訳すべき矜恃。――そういうのを、そろそろ僕も持たないと」

「それは……自ら困難に立ち向かうことでしか育まれない」

 サトミがとどまることのない落涙らくるいの中、そっと微笑んだ。

「だね」

 彼女からそうされたことは、これまで何度もあった。もはや、とりたてて珍しくもない。感覚的には、ほとんど挨拶にも近かった。

 だが、恐らく生まれて初めて、カズマは自分から彼女の唇に自分の口元を寄せた。

 かすめるような、ほんの一瞬の邂逅かいこうを経て、カズマは後ろ向きに二歩下がった。

 何が起ったのかと呆然自失であったサトミの表情に、やがて雪解けのように笑みが広がっていく。それを見届けると、カズマはきびすを返いた。

 これでもう、思い残すことは何もなかった。振り返ることもない。

 旅の仲間たちに歩み寄って、言った。

「ごめん、二人とも。お待たせ」

「ダーガ、いよいよ出発なのか?」

 意気揚々、待ちきれないとばかりにナージャはその場で屈伸運動ウォームアップを繰り返している。

「うん」ゲートへ向けた足を止めずに、カズマは頷いた。「本当に〈果て〉を越えられるか――試しに行こう」

「私は問題ないぞ」

「僕も、なんだか大丈夫そうな気がしてきたよ」

 エリックが横から合流しつつ、口を開いた。甲子園の英雄に言われるだけで、また信憑性が違って聞こえるのが不思議だった。同じ言葉にも確かな力があった。

「僕らはまた、ヨウコさんに会える」

「うん。見つけよう。絶対、四人で帰ってこよう」

「で、どうする? キミはあのランドナーというのは置いていくんだろう。〈壁〉までは、今朝乗ってた自転車で行くのかな。ナージャさんは自転車持ってるの?」

 その言葉を待ち構えていたかのようなタイミングで、どこからかクラクションが聞こえた。

 発生源を探そうとするより早く、鮮やかな朱色を基調にした、車高の低い自動車が行く手を遮るように滑りこんできた。外国車なのだろう。左側のドアが開く。運転手が窮屈そうに折り畳んでいた身体を戻しながら、ゆっくりと降りてくる。

 ルイ・クラウセンだった。

「俺で良かったら〈壁〉の近くまで送るよ」

 白い歯を光らせながら爽やかに言う。距離的には徒歩で充分行ける距離ではあるが、エリックが背負うような巨大な荷物があれば、話もまた変わる。断る理由も特になく、カズマたちはありがたく好意に甘えることにした。

 クラウセンの誘導でカズマは助手席に、ナージャとエリックが後部座席に回った。

「挨拶はもう、済んだんだろう?」

 シートベルトをしながら、クラウセンが訊いた。ええと答えると、彼は無言でアクセルを踏んだ。自分だけは、別れの湿っぽさとは無縁。そう言わんばかりの潔さだった。

 カズマはルームミラー越しにシゲンとサトミの姿をひと目――と思ったが、角度のせいか鏡の中に彼らの姿を見つけ出すには至らなかった。それでも、すぐに振り向けば直接見ることはできただろう。しかし、逡巡の間にクルマは建物の角を折れ、間もなくコンドミニアムの正面ゲートを潜り抜けた。

 それから後は、朝往復したルートをまた辿るだけだった。〈富士街道〉に入り、石神井を抜け、大泉方面へ北上する。時間帯のせいか、下り車線は空いていた。おかげで車窓の景色は自転車とは比較にならない速度で流れていく。

「今朝、キミたちが待ち合わせてた学校辺りで良いかな?」

 今となっては、世にも珍しいミッション式の自動車らしい。カーブを曲がる度に忙しくシフトレバーを操作しながら、クラウセンが訊いた。

「あ、はい。そうですね。お願いします」

「ま、〈壁〉に向かって普通に歩いて行けば良いだけだから」

「それで、どうなるんですか?」

 子どもの頃、「冒険行くよ」と突然言い出したヨウコに連れられ、何度か〈果ての壁〉を調べに行ったことはある。直接触れてみたり、石を投げてみたり……

 カズマが記憶している限り、そのどちらもが空気の壁のようなもので弾かれた。

 真っ直ぐ歩いて行っても、進めなくなる。だが、壁に激突したような痛みは全くない。ただ、圧倒的に重たい抵抗で一ミリたりとも動けなくなるのだ。

 冬の寒い時期、暖房であたためられた室内と屋外の冷たい空気の間では、大きな気圧差が生じてしまう。この際、開けてしまったドアが――条件次第では――閉めようとしても途中からびくともしない、という現象が生じ得る。感覚はあれと似ていた。全力で体当たりしようが、数人がかりで押し込もうが、何としても扉は微動だにしない。

 ――多分、空間が無段階的に閉じていってるのね。

 それが、石を投げた後にヨウコの吐いた弁であった。

 つまり〈壁〉とは、見えないトンネルのようなものなのだろう。

 ただし、通り抜けはできない。普通のトンネルは入口と出口の大きさがほぼ同じだが、これは違う。先に進むほどに狭まっていき、出口が点――つまり一次元、面積がゼロになって閉じている。そんな、漏斗ろうとを横に倒したようなトンネルもどきだ。

 ――だから、人間は途中で先に進めなくなるんじゃないかな。山なりの放物線を描く石だと、ピンボールみたいにカクカク何度も角度を変えて――跳弾の度に速度を大きく削られて――最後はいきなり落ちちゃう。どう? 現象を上手く説明できてると思わない?

 説明も何も、当時のカズマは彼女が何を言っているのか少しも理解できなかった。

 その通りだ。天才だ。キミは真理に到達した。はやし立ててご機嫌を取り、だがあっさりその思惑おもわくがバレて雷を落された。

「〈壁〉を越えたって言っても、俺自身、むかし経験したっきりだからなあ」クラウセンが初恋の思い出を語るように言った。「それに、あの感覚を言葉にするって、なかなか難しい気がするな」

 ステアリングから離した左手で意図の不明なジェスチャーをしきりに繰り返しつつ、彼は言葉をまとめようとする。

「敢えて言うなら、なんかこう、一瞬、ぶおっとなる感じだよ」

「ぶお、ですか……」

 ヨウコの学説ばりに何も理解できなかった。

「真正面に巨人がいたとしてさ、そいつが風呂のフタになるくらいでっかい団扇うちわを持って、こう、フルスイングしたとするだろ? その風というか風圧を真正面から喰らうと、ぶわってなるじゃない?」

「なるでしょうねえ」

「うん。だからそれね。越えようとした時、そういう感じのぶわってのがあって、一瞬、目閉じちゃって息も止って――で、気付いたら普通に向こう側に立ってるんだよね」

「一瞬で終わっちゃうんですか?」

「うん。俺の時はそうだったなあ。うおっと思ったら、もうあっちにいた」

 クラウセンは言いながら、自動車の速度をかなり落した。既に牧場近くまで至っており、道幅はかなり狭まってきている。眼前に迫っている小さな橋を渡ってしまえば、周囲の景色はすっかり住宅地のそれだ。

「シゲンとサトミちゃんも一緒だったけど、あのふたりも特に変わった様子はなかったし。封貝関係者は大体似た感じで行けるんじゃない?」

「そうですか」

「まあ、なんとかなるよ。問題は帰りさ」

 行きはよいよい帰りは怖いってね。彼はそう言って、廃寺近くの路肩にクルマを停めた。最後に咳き込むような振動を残してエンジンが途絶えた。ハンドブレーキを引く、軋んだ音が鳴る。MT車もそうだが、手操作のパーキングブレーキを見たのは、カズマにとっこれがて初めての経験であった。

「封貝があるというだけでは、〈あちら側〉から〈壁〉を越えることはできない。基本的にはね。この辺は、サトミさんあたりから話、聞いてるんだろう?」

 それは、確かに説明を受けていた。もう随分と前のことに感じられるが、まだ三日と経っていない。ヨウコが失踪者のリストに載っている――と、最初に説明を受けた時の話だ。

 シゲン、サトミ、そしてクラウセンが一度、〈あちら側〉に渡ったことがあること。その時に起った事件が、〈變成日〉の端緒たんしょになったこと。彼らが持つ特殊な封貝によってこちらに帰還し、それ以降は自由な活動ができなくなったこと……。

 あまりに深く〈あちら側〉の核心に肉薄する情報であるため、恐らくこれらの話は〈壁〉を越えた瞬間――ナージャであっても――記憶から抹消されてしまうであろう。

 そう警告された上で、聞かされた話のひとつだ。

「なら分かると思うけど、俺のこの忠告自体、速攻で消されちゃって無駄になるかもしれない。でもまあ、聞くだけならタダだしね」

 クラウセンは腕枕の体勢でシートにもたれかかり、カズマにウインクしてみせた。

 イタリア系の彼は、こうした仕草が本当に様になる。

「〈あちら側〉から〈壁〉を越えて帰ってこられる手段は存在する。それを可能にする封貝も、どこかにあるはずだ。シガー・イングリスがこっち側をうろついていたのを見てるんだから、この辺は大体想像つくと思うけど」

「はい」

「まあ、それもこれもヨウコちゃんを探し出してからの話だ。彼女を保護したあとで、のんびり考えれば良い。封貝使いは、ほとんど仙人化する。不老不死に近い存在ってわけだ。まあ、封貝で傷つけられたら死ぬけどね。たとえ百年かかったって、サトミさんもシゲンのやつも、変わらぬ姿でキミを待ってるさ」

「いやいや、百年もかけたら助けたヨウコが寿命で死んでますよ。彼女の両親は普通の人間だし」

「あ、それもそうか。じゃあ、のんびり考えつつ急いで帰るってことで」

「適当なことを、当たり前のような顔でおっしゃる」

「それくらい肩の力抜いてた方が、案外うまくいくもんさ」

 言葉通りすっかり脱力しきった肩を無責任に竦めて見せながらクラウセンがのたまう。

「おい、ダーガ。なにをしてるのだ。早く行くぞ」

 後部座席からさっさと降り出たナージャが、ドア越しにうながしてくる。見ると、エリックも既に外に出ており、トランクから自分の荷物を引っ張り出そうとしている最中であった。

「じゃあ、これ。ハンドライトね。自衛隊でも使われてた丈夫で明るいやつ」

 ダッシュボードから恐ろしく長いライトを三本取り出し、まとめてカズマに差し出した。左右の手に一本ずつ構えれば、そのまま和太鼓を完璧に鳴らせそうなサイズ感だ。

「そうだ。最後にひとつ、ナージャのことなんだけどさ」

 少し声音を抑えつつ、クラウセンが耳元に口を寄せてくる。

「――なんですか?」

「ほら、クルマに乗せてハンドル握らせると性格変わるタイプっているじゃない? 実生活(リアル)上じゃ借りてきた猫みたいに大人しいのに、匿名のインターネット上だと虎のように獰猛になる奴とかさ」

「スイッチが入ると人格変わるタイプですね」

「そう。それ」神妙な顔でクラウセンが頷く。「ナージャもそのがあるから、見てもびっくりしないでやってね。特に封貝を同時に複数使おうとかなると、文字通り人が変わっちゃうから」

「どうなるんですか」

「なんか、いきなりロボットみたいに冷静になる。言葉遣いとかも凄い事務的になるしね」

 クラウセンの様子から身構えていたカズマは、それを聞いて拍子抜けした。

 想像とは真逆のパターンと言える。むしろ、何の問題があるのか分からない。

 思ったことをそのまま問うた。「それ、実害はあるんですか?」

「特にないね」クラウセンはあっさり言う。「逆に、ずっとそのモードでいてくれた方が静かだし、安心だし、色々助かるくらいだ」

「なら平気ですよ。こんな危険な旅に着いてきてくれるっていうだけで、僕としては大感謝ですから」

「良かった。道中の幸運を祈るよ。お土産、よろしくう」

「了解。色々助かりました。お土産、忘れないようにします」

 これが付き合いの差か、クラウセンとの別れは至極あっさりしたものになった。ナージャに至っては、言葉すら交わしていないだろう。クルマが停まるなり「いやっほう」の一言を残して飛び出していったきりだ。

 クラウセンもクラウセンだった。見えなくなるまでお見送り、というつもりは毛頭ないらしい。カズマが降車するや、すぐに背後でエンジンが唸りをあげはじめた。

 直後、スキール音を発しそうな勢いで急発進し、その排気音は瞬く間に遠ざかっていった。

 カズマは苦笑いしつつ、全員にライトを行き渡らせた。歩き出す。

 今朝、エリックと待ち合わせた旧中学校の記念公園までは、もう目と鼻の先だった。流石に鍛え方が違うようで、重い荷物を背負っても高校球児の歩調は淀みというものがない。〈壁〉までは五分とかからなかった。

 ペンキ塗装が無惨に剥がれ、大部分が錆色に変色した鉄門を潜ると、エリックが一端立ち止まった。

「――さて、とりあえず〈壁〉に向かって歩いて行くだけで良いらしいけど」

 どうする、という表情でカズマとナージャを振り返る。

「別に目撃者がいてもどうせ都市伝説とかになる程度で終わるでしょうし、問題はないと思いますけど。でも、エリックさん目立つからなあ」

「これだけ暗かったら、気付く人もいないよ」

 エリックの指摘通り、〈壁〉の近くは濃い影に没して夜もさながらの暗さだった。日が高くなり、ほぼ頭上から陽光降り注ぐ時間帯だからこそ、至近距離ならなんとか相手の顔を識別もできる。

「あのでっかい家に一度入れば、誰にも見つからないと思うぞ」

 と、ナージャが果てに半分飲まれた校舎を指差す。

「でも、入れるかな。施錠されてるんじゃない?」

「いや」意外にも、エリックが否定した。確信に満ちた顔で首を振っている。「どうも、〈果て〉に飲まれて土壌が少し不安定になったみたいだ。少し沈下した部分があって、それで校舎にゆがみが生じたんだと思う」

 これは朝、その目で確かめたことらしい。待ち合わせ場所にカズマが来る前、退屈しのぎに周囲を見て回ったのだという。

 当然の帰結として、校舎の歪みは扉の建て付けやアルミサッシの変形に通じた。これによりあちこちで窓ガラスが割れ、蝶番が壊れてドアが倒れ込んでいる所もある。そこからなら問題なく進入可能だろう。エリックはそう証言した。

 ならば、ということで、彼が見つけたルートから一行は校内に入った。全面ガラス張りになった職員玄関は一際被害が酷く、足下に散乱したガラス片にさえ気をつければ、吹きざらしと化した昇降口を潜り抜けるのも非常に容易かった。

 闇を切り抜く三つのライトの光輪を頼りに、リノリウムの廊下を歩く。風化した卒業制作の古い大キャンパス、制服のサンプルを展示したショーケースなどを通り越し、職員室らしき部屋を通過すると――

 光を通さない、完全な闇が前方に現れた。〈世界の果て〉である。

「これに飛び込めば、向こうに行ける……はず、なんだよね?」

 実際、その時が来てみると、現実感がまるで湧いてこない。その心情がそのまま出た、いかにも頼りない声音でカズマはつぶやいた。

「僕としては、ランダムに転送されるっていう話が気になったな」エリックは〈壁〉のあちこちにライトを投げかけ、険しい表情で様子を観察している。「三人がバラけてしまうのは非常に危険だ」

「だったら、私のデルタワンで二人を捕まえておけば良いんじゃないか?」

 言うが早いか、ナージャの首に巻かれた真っ赤なマフラーがふわふわと動き出した。伸縮自在のそれは生物的な動きを見せ、左右の先端がカズマとエリックへ向かってそれぞれ伸び始める。すぐにふたりの腰回りにぐるぐると巻き付き、ナージャを中心にして三人を固く結びつけた。

「私のデルタワンはとても丈夫だから、途中で切れたりしないし安心だぞ!」

 と、ナージャは後ろ向きにひっくり返りそうなほど胸を張る。

「確かにこれならバラバラに転送されてしまうのは避けられるかもしれない」

 腰に巻き付いた霊布の質感をその手で確かめながら、エリックが感嘆の呻きをあげる。

「じゃあ、どうしようか。一、二の、三でみんな一緒に飛び込んでみますか?」

 そのカズマの提案は、すぐに残りのふたりにも受け入れられた。

 三人横並びになり、足並みを揃えて息の吹きかかる位置まで〈壁〉に接近する。なんとなく、飛び込み台の先端まで詰め、これからバンジージャンプに挑もうとする観光客のイメージが脳裏を過ぎった。非日常の領域へ踏みだそうという心境としても、確かに似たところはあるのかもしれない。そんなことを考える。

 誰が言い出すともなく、三人は自然に手を繋ぎ合っていた。運命の瞬間を前に、顔を見合わせる。

「それじゃあ、行くぞ!」ナージャが宣言した。

「うん、行こう。ヨウコを探しに」

 カズマは真っ直ぐ〈壁〉を見詰めながら応じた。

「約束だ」試合の円陣の要領なのだろう。エリックの声には普段はない覇気が込められていた。「誰ひとり欠けることなく、全員揃って、絶対に四人でここに帰ってこよう!」

「一!」ナージャが叫んだ。「二!」の号令で全員が軽く腰を落し、突入の構えを取る。

 多分、「三!」の合図は全員が声を重ねていた。

 同時、カズマは両の手に力を込めて、勢いよく前へ踏み出した。

 だしぬけにゴウと突風が正面から吹き付けてくるような音が耳元で轟いた。空気の塊に顔面を撃ち抜かれたように、ガクンと首から上だけ仰け反らされる。痛みはない。

 ただ驚きと――やや遅れて、「これか」という思いだけがあった。

 クラウセンから事前に聞かされていた、例の「ぶおっ」という感覚だ。

 気付くと、閉じた目蓋を貫いて網膜に突き刺さるような光が、カズマをさいなんでいた。暗い場所に目が慣れすぎていたのだろう。なんとか遮ろうと、両手を眼前にかざす。

 自分がとった無意識のその動作に、カズマは慄然とさせられた。

 この手はナージャ、そしてエリックと繋いでいたはずではなかったか――

 染みるような痛みに少し涙を滲ませつつ、カズマは何とか細目を開ける。眩しさに耐えながら、すがるような心境で、自分の腰を確かめた。

 果たして、赤いマフラーはそこにしっかりと絡まっていた。

 その続く先を辿っていくと、数歩後ろにナージャの姿を見える。彼女は緊張感なく、ここがどこかを確かめようとするように周囲をきょろきょろと見回していた。

 安堵で全身から力が抜ける思いだった。

 彼女の右隣にはエリックもいた。こちらは両膝に手を当て、中腰の状態で辛そうにしている。カズマと同じ眩しさに苦しんでいるのだろう。怪我はなさそうだったが、その背からは三十秒前まであったはずの巨大バックパックが綺麗さっぱり消え去っていた。周囲に放り出した様子もない。文字通り消えたとしか思えなかった。

「封貝が……消えてる……」

 ジーンズのポケットを探る手を止めて、エリックがはっとしたように顔を上げた。

「なくなってる!」

「――ってことは」

 その時、ようやく慣れ始めた目が、それを映し出した。

〈壁〉の存在しない、果てなき世界。サファイアブルーから透き通ったスミレ色にグラデ―ションする幻想と神秘の天穹が、頭上高くどこまでも広がっていた。

 そこには、昼の明るさだというのに小さな星屑が瞬き、太陽の反対側には三日月と――そして、クレーターまではっきり視認できる真円を描く月、カズマの知る太陽の数十倍はあろうかというあまりに巨大な第二の月が浮かんでいた。

 それは、もはや疑い余地すら残さない、完璧な光景だった。


 蒼竜の月、第三日。

〈世界の果て〉を越え、約束の地にカズマは来た――。




あとがき


というわけで、第一部最終話「ワイズサーガ」です。

69キロバイト、原稿用紙100枚(笑)

書いているうちに筆が止らなくなって、なんかこんなことに……

とにかく、今回はキャラが勝手に動いて、好きなこと言いすぎました。制御不能。


こういうのは久しぶりです。

推敲に時間がかかり、公開が大幅にずれこんでしまいました。

次回からは異世界編の第二部「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ(仮)」のスタートです。

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