ピタゴラスの歌
紀元前、ピタゴラス教団は地球が球体であることを予見
大航海時代の世界一周がこれを立証した
地球に”果て”はない
それが人類の共通認識となって五世紀
突如として、世界に”果て”は現れた
二〇三六年 一月十八日
カナダ連邦 オタワ国際空港
オタワ発ロンドン行き〈エア・カナダ〉479便は、定刻通り十四時EDTに離陸を決めた。
この瞬間を、当便ビジネスクラスの座席番号H5およびK5で並び迎えたのは、地元ロッククリフ在住のファーガソン夫妻であった。
妻サラとその夫グレッグ。
共に四十四歳のこのおしどり夫婦は、結婚二十周年を記念して、これから西欧・南欧を巡る二ヶ月間の旅に向かう予定であった。
海外旅行は夫婦共にハネムーン以来、生涯二度目。
二十年前はまだ金がなく、パナマに一週間ほど滞在するのが精々であった。
いつか余裕ができたら、北欧でオーロラを見よう。
そんな誓いを立てたのも今や昔。
それが必要以上に遠く――まるで前世の記憶のようにさえ感じられるのは、もはや永遠に叶わない約束になってしまったせいもあるのだろう。
何もかも、あの忌まわしい〈果て〉の出現がもたらした悪夢であった。
忘れもしない、二〇二〇年八月十四日。夫妻が新婚旅行から帰った四年後の事だった。
今では〈變成日〉とも呼ばれるこの災厄の日を境に、北欧は滅んだ。
比喩の類ではない。
フィンランド全域。西方の一部を残したスウェーデンの大部分。そしてノルウェー北部が〈果て〉に呑み込まれ、地図上より消滅したのだ。
もちろん、カナダにも〈イエローナイフ〉や〈ホワイトホース〉がある。
言わずと知れた著名なオーロラ観測地点だ。
しかし、〈果て〉の壁の影響で気象条件が激変してからは、これらも光のカーテンがどうこうといった環境ではなくなっている。
結局のところ、あの日、世界は決定的に変わってしまったのだ。
そしてもう、元には戻らない。
より直接的に「壊れた」と表現する者すら少なくないのも当然のことだった。
テイクオフから程なく、機内にポンという電子音が木霊した。
当機はオタワ・マクドナルド=カルティエ空港を離陸し、水平飛行に入った。
ロンドンヒースロー空港までは直行にて三四八キロメートル。所要時間は六四分を予定している。
そんな内容の機内アナウンスが流れ始める。
放送を聞きながら、グレッグ・ファーガソンは隣の妻がイヤフォンのビニル袋を破れず苦戦しているのに気付いた。
苦笑交じりに手を貸してやる。
到着時の現地時刻。天候の案内。最後に、リラックス・アンド・エンジョイ・ユア・トリップ――
機長がそんな言葉で挨拶をしめくくる。
グレッグは妻にイヤフォンを渡してやったが、彼女はただ袋が破れないことが気になっていただけらしい。
礼の言葉もそこそこに、また窓に貼り付いて外の眺めに夢中になっている。
無理もない。
成層圏にまで達する〈果て〉の黒壁は、陽光の一切を断ち遮る。
世界中の多くの地域から日照時間を大幅に奪ってしまったのだ。
澄み渡った蒼穹。黄金色の日差し。
これらは今や希少品だ。
陽光にきらめく視界いっぱいの白雲など、もはやカナダですらそうそう拝めるものではない。
キャビンクルーが持ってきたナッツを口に放り込みながら、グレッグは景色に釘付けの妻を微笑ましく見守る。
きっと自分は、この光景を二十年後も覚えているだろう。そんなことを思った。
「サリィ。景色も良いけど、ナッツはいらないの? いつもなら僕の分まで持っていっちゃうほど目がないじゃ――」
二つ、三つ手にとって妻に差し出そうとしたグレッグは、そのままの体勢で凍てついた。
一五センチ向こう、肘を付き合わせて座っていたはずのサラがいない。
ナッツを取るため目を離した、五秒たらずの間の出来事だった。
窓際の彼女が移動するためには、当然、グレッグが一度立ち上がってスペースを譲らなくてはならない。
そうでなくてはトイレにも立てない。通路へ出ることすらできない。
一六〇ポンド[約七〇キログラム]の彼女が、まさか気取られることなくニンジャのようにグレッグを飛び越えて離席したとも考えにくい。
そんな必然など微塵もありはしない。だが――
だが、だとしたらどうして妻は消えているのだ?
離陸時にしめたシートベルトはそのまま、がっちりと完璧な輪を作った状態で座面に垂れ下がっている。
グレッグは彼女の型がまだ残るクッション部に触れた。
確かな体温が手のひらに伝わる。背もたれにもまだぬくもりが残っていた。
サラは確かにここにいたのだ。
自分の気が狂っているのではない。
グレッグは弾かれたように腰を上げた。
周囲を素早く見回した。何度も視線を巡らせた。
通路に出て数歩トイレの方へ走りかけ、思い直してまた戻る。かぶりを振って冷静になるよう努めた。
落ち着け。自分に何度も言い聞かせる。
が、次の瞬間にはその努力を忘れていた。
身を乗り出し、周辺の客席を覗き込んで回る。
血相を変えた大男の奇行に、周囲の乗客達が顔をしかめた。
グレッグ自身そのことに気付いたが、取り合っている余裕はなかった。
それでサラが出てくるなら、他人の迷惑顔など一向に構わない。
だから、頼むから……神よ、こんなのはよしてくれ!
心臓が収縮したまま戻らなくなったような息苦しさを感じた。
腋を冷たい汗が伝っていく。
食べたばかりのナッツが胃液と一緒に逆流してきそうだった。
気のせいではなく、本当に吐きそうになって、口元を手で塞ぐ。眼球の奥が痛むように熱い。
いない。どこにも。なぜ……
「どうなさいましたか、お客様」
異変を察したキャビンクルーから戸惑いがちに声をかけられた。
相手は娘ほどの若い女性であったが、グレッグは縋るような思いだった。
彼女の両肩を掴み、必死に訴えた。
「妻がいないんだ。妻が……突然、つい今までそこにいたのに!」
迷子のように繰り返しながら、急速に冷めていくグレッグの中の何かは事実を察し始めていた。
もう一人の自分が囁く。
この状況を説明できるロジックはひとつしかないのではないか?
黙れ。別の自分が頑なにそれを拒む。
認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば……
もう、サラは戻ってこないだろう。
事実、彼女は戻らなかった。
もちろん、ヒースロー空港に着陸後、機内はスタッフ十八人がかりで徹底的の捜索された。
しまいには座席シートを引っぺがし、貨物用スペースまで調べ尽くされた。
およそ人体が収まるスペースではない細部まで。
それでもサラ・ファーガソンは見つからなかった。
報告を聞くより早く、グレッグはどこかで既に認めてしまっていた。
そうせざるを得なかった。
サラは機内に隠れてなどいない。
上空一万メートルの鉄の密室の中、一六〇ポンドの彼女は忽然と消失してしまったのだ。
そしてもはや、世界中どこを探しても見つからない。
噂通り〈あちら側〉に行ってしまったのだ。
二〇三六年 九月十一日
日本 東京都
このような話をするといつも半分からは同意を得られ、もう半分からは驚かれるのだが――
柴田夏梨は就寝前に風呂に入る。
そして、バスルームに歯ブラシを持ち込む。
湯船に漬かりながら時間をかけてブラッシングするのだ。
母親から受け継いだこの習慣は、実は歯科医が勧めるほど健康に良い。
身体があたたまり副交感神経が高まった状態で、口内にマッサージ効果が加わる。
これがポイントなのだ。
まず、唾液の質が良くなる。
寝付きも改善する。
加えて、就寝後に成長ホルモンの分泌が活発化するというおまけさえつく。
いわゆるパロチン。若返り効果があるといわれる全女性の味方である。
この素晴らしいホルモンは髪や肌を美しく保ち、新陳代謝を活発化し、再石灰化を助けると言われているらしい。
美容、口内環境ともに良いことづくめというわけだ。
もちろん、柴田夏梨がこうしたメカニズムにまで精通しているわけではなかった。
なにせ自他共に認める感覚派。理系教科は赤点すれすれが当然の頭脳だ。
が、しかし、風呂歯みがきは合理的だと認識しているし、せっかちな自分の性格に合っているという自覚はあった。
したがって当然ながら、この日も柴田夏梨はいつもの習慣に従った。
洗髪に備えてセミロングの黒髪を梳き、服を脱ぐ。
鏡の前でひとしきり全身の映りと状態を確認。
バスアイテム一式を抱えて風呂場に入る。
やるべき作業。各作業にかける時間。その順序。
全てはルーティンとして決まっている。例外はない。
よって、入浴時間は常に誤差五分以内に収まる。
――そのはずだった。
しかし、この日の柴田夏梨は、予定時刻から五十分経っても風呂から出る気配を見せなかった。
心配した母親が外から呼びかけたが、応答もない。
風呂場の電気はついたまま。
用意された着替えも脱衣所に置かれた状態であった。
とあらば、いつの間にか風呂から上がっていたという可能性は考えにくい。
湯船に漬かったまま寝てしまったか。
柴田夏梨の母は最初、そのように考えた。
少なくとも警察から受けた聴取ではそう答えている。
極めて珍しいことだが、前例が皆無というわけではなかったからだ。
部活や生まれたての妹の世話。
最近、夏梨がいつもより疲れ気味なことは家族全員が知っている。
湯に浸かって気が抜けたところを、急激な眠気に襲われたのかもしれない。
母親は大体そのように考え、苦笑いしながら風呂の戸に手をかけた。
少し悪戯めかした口調で娘の名前を呼びつつ、中を覗き込んだ。
結論として、柴田夏梨の姿はバスルームになかった。
室内には湯気が立ち籠め、彼女が愛用しているラベンダーのボディソープの香りが漂っていた。
流し切れていない細かい泡が床の端に残留していた。
バスタブに蓋はかけらていない。
湯船は、ついさっきまで誰かが浸かっていたように揺らめいている。
そこに、水色の歯ブラシがぷかぷかと浮いていた。
まさにブラッシングの真っ最中であったのだろう。
愛用のそれが所在無さげに湯面を揺蕩っていた。
ただ、主たる柴田夏梨の姿だけが足りなかった。
青ざめた母親は半狂乱になって家中探し回った。
十分後には家族が総出で近所を駆け巡り、夜を徹して大々的な捜索を展開した。
しかし、夏梨は見つからなかった。
彼女が、溺愛していた小さな妹とその家族に再会することは永遠になかった。
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