イグニッション
空を見てみる。雲一つない青空が広がっている。空の汚れは全て昨日の台風が巻き取って持ち去ってくれたのだ。
ぼんやりと空を見上げていると気持ちがよくなるのだが、一歩歩くたびに現実に引き戻される。昨日の大雨で濡れた靴がまだ乾いていない。やはり玄関に置いておくだけでは一晩経っても乾かないのか。湿度100パーセントのひんやりとした靴はとても不快だ。家を出たばかりだと言うのに出鼻をくじかれたようだ。気分転換に音楽でも聞こうとカバンに手を突っ込みウォークマンを探す。いつもカバンの中の内ポケットにはウォークマンだけが入っている。おや?と思う。ウォークマンだけのはずが細長いプラスチック製の物が指先に触れる。こんなところにUSBメモリーをしまっていたっけか?と思い取り出してみると、それはライターだった。別に煙草を吸う習慣があるわけではない。ではなぜ?それは昨晩の楽しい思い出が説明してくれる。昨日は最近付き合い始めた彼女と初めてセックスをしたのだ。
もともと何週間も前からテーマパークに行く予定を立てていたのだが台風のなか屋外に出るほどそのテーマパークに執着があるわけでもなく、お互いに年間パスポートを持っているので別の日に行こうという結論にはすぐにたどり着いた。その代りにカラオケに行った。付き合って二か月目のカップルがカラオケでフリータイムを頼んで一体どれくらいの時間歌を歌うのかは知らないが、自分たちの場合は二人合わせてせいぜい一時間半程度だった。
もともと洋楽ばかり聞くのでカラオケに行くと歌うレパートリーがすぐになくなってしまう俺は、誰でも知っているような定番の曲を30分程度で何曲か歌い尽くした後は、彼女の歌を聴きながら背景映像に流れるミュージックビデオをみて、普通の人がなかなか見ないであろう脇役に注目したり、通行人を見るという一人遊びに興じていた。そのうち彼女の歌う曲にミュージックビデオがつかなくなってくると、退屈し歌っている彼女にちょっかいを出したりしていた。そこからはお互い初めてではなかったので流れに身を任せ、相手の唇を貪り合っていた。彼女に火がついたことに確証が持てたあたりでカラオケボックスを後にし、そのままラブホテルへと入った。何の珍しさもない平凡な流れでの情事を終えた後、彼女が洗面所で髪の毛を乾かしているのを待っている間、テレビを見ながらふとガラスの灰皿の中に置いてあるライターに目が留まった。「いつ使うんだよ」と自問しながらも、彼女との初めてのセックスの記念としてそのライターをこっそりとカバンの内ポケットに入れた。このライターはその時のものだ。
安物のガスライターにはラブホテルの名前が印字されていた。何の気もなくライターを点火させてみる。煙草を吸う習慣こそないがガスライターを点火させればどの程度の火が出るかは中学時代にさんざんたき火をして覚えている。たとえ子供の頃に火遊びの経験がなくとも誰でもガスライターの火の大きさなんてものは予想がつくものだ。しかし今点火させたライターはボッっという音と共に直径10センチほどの火の玉を噴き上げた。これがもし煙草に火をつけようとしていたのならば間違いなく前髪はまる焦げになっていただろう。中学時代友人に聞いたのだが、ガスライターは火柱の大きさを調節するつまみを何度も左右させて壊すことで火柱を規格外に大きくすることが出来るのだ。なので今回の火の球もライターの故障だろうと思い、再び点火させた。今度はガスを出しっぱなしにするようにレバーを下げたままにするように点火してみた。するとどうだろう。先ほどと同じように火の玉が出たのだが発生した火の玉はそのままライターの上5センチほどの地点で静止して浮遊している。さすがにおかしい。ライターの不具合だとしても火が球状に発生した場合そのまま消えながら上昇するはずだ。またガスを出しっぱなしにしているのだから火はライターの噴出孔につながっていなくてはいけないはずだ。にも拘らず噴出孔から5センチも離れたところで浮遊している。ガスを切ろうと思い、レバーから指を離した次の瞬間、さらに不思議な現象を目撃した。
何とガスを絶ったにもかかわらず火の玉は同じところを浮遊しているのだ。驚いたこの現象は一体何だ?ライターをポケットにしまい浮遊を続ける火の玉の周囲を掌で撫でてみる。わずかだが俺の手のひらの動きに反応しているように見える。だが単に空気の流れに反応しているのかも知れない。やけどしない距離に顔を近づけて、フッと息を吹きつけてみる。やはり風に影響しているのだ。火の玉はぼうと揺らぎながら滑るように空を移動していく。今の息で消えなかったことに感心すると同時に火の玉が速度を落とすことなく目の前の植木に向かって進んで行っていることに気がついた。まずい!たとえ生木だとしても枯葉などに当たれば火がついてしまうかもしれない!でも一体どうやって止める?思わず手を伸ばしていた。するとどうだろう火の玉はその場でピタッと止まり、吸いつけられるように手のひらへと向かってきた。次はこのままだと自分に当たってしまう。だが今の現象はなんだ?なぜ手のひらに向かってきたんだ?気づかないほどわずかな向かい風が吹いていたのか?とっさになると人間は無謀な事をする。俺は向かってくる火の玉をまるで蚊を叩くように両手でパンと叩き潰した。一瞬だったからか手は熱くない。そっと手のひらを開き見てみるがそこには何も残っていなかった。一体今のは何だったんだ?ポケットに手を入れライターを握る。もう一度試してみたい。単なる偶然なのか?奇跡的に未知の現象を発見したのか?
ライターを取り出しかけた瞬間ふと誰かの視線を感じた。とっさにライターをポケットの中の戻し周囲を見渡してみる。見える限りの範囲には誰もいない。車が一台横の道路を走り去って行く。もしかすると近くのマンションからかも知れない。とにかくこんな街中でやることじゃない。さっきはたまたま火が消えたが次はわからない。もっと人目につかないところに行かなくては。と言うよりも今俺はまず大学に行かなくてはならないのだ。ちょうどそう思ったタイミングでポケットの中が震えた。当然ライターが存在感を主張したのではなく、携帯が鳴ったのだ。歩きながらメッセージを開いてみると彼女からのオハヨウのメッセージだった。女の子は出かける前に男よりも時間がかかると聞く。自慢だが俺の彼女は化粧は薄い。だが、だからといって俺が家を出発する時間に起きて間に合うのか、いいなぁ大学の近くに実家がある子は。こっちはドアトゥドアで大学まで1時間半かかる。そんなことを思いながら「おはよう!こっちは今家出たとこ!」というメッセージを入力する。そうこうしている内に駅に着いた。再び妙な気配を感じる。気になった方向を見てみると駅の前のコンビニの前にある喫煙スペースが目に留まった。だが誰もいない。霊感が身に着いたのか、と非科学的な事を考えてみる。誰もいない喫煙スペースに意識を凝らすとコンビニの店内からも同じ気配を感じた。そこに誰かいる気がする、だがそれはそうだろう。コンビニの中なのだから。と思いながら踵を返し改札を通った。
大学の最寄り駅に着くまで電車の中ではさっきの火の玉の事は気にならなかった。最寄駅を降り駐輪場まで歩く間再び火の玉の事をおもいだした。校舎が山奥にあるため駅からは原付に乗るかバスを使わなければならない。バス代がバカにならないので道路が凍結しているとき以外は原付を使う様にしている。バス代をケチったのだから駐輪場代も当然ケチる。駅の前の正規の駐輪場は使わず、歩いて5分ほどの所にある友人のアパートにいつも原付を止めていた。そこへ向かう途中の道は線路沿いの人気のない工場地帯が続く。
この付近は工場の出勤時間と昼休憩と帰宅時間以外は全く人気がない。工場に勤めている人たちは勤務中はこの壁の中でただ黙々と部品を組み立てたり検品をしたりしているそして休憩時間になるとこの道に出てきて煙草を吸い、缶コーヒーを飲みながら雑談する。その様子はまるで蓄積されたガスを排気し、燃料を注ぎ込んでいる。まるでロボットだ。彼らの勤務条件を見たことは無いが雑談しているときの彼らの笑顔の皺は苦労が彫り込まれているように見える。日雇いのバイトで何度か工場のレーン作業をしたことはあるがその際の社員の人達の生活はとても裕福と言えるものではなかった。この道を通るたびに、彼らの様にはなるまいと、世間を知らない若造は心に誓いながら歩くのだ。
そうだ今ここでなら。
軽く周囲を見渡し、人がいないことを確認する。そしてポケットからライターを取り出した。さっきのは何らかの気象条件や色々な状況が重なり合って出ただけだ。あんなこときっと二度も起こりえないさ。と冷静に言い聞かせてはいながらも、心のもう半分では、平凡な日常の終焉をもたらすわずかながらの刺激を求めていた。ガスライターの点火部分に添えた親指に、徐々に力がこもる。もう一度あの火の玉が出ればきっと何かの大発見だ。
自由な空間である心の中で、火の玉でろ!と呟きながらライターを点火した。