スノー食べるマン
子供の頃、雪を食べたことがあるだろうか?
食べたことがあると答えた人も無いと答えた人も、ちょっと考えてみてほしい。
――目の前で一心不乱に雪を食べるオッサンがいたら、どうする?
大学が冬休みに入って2日目、大雪が降った日のことだ。俺は昼飯を買いに近所のコンビニへ向かっていた。昼にもかかわらず気温は0°を下回り、こんな気温の中外に出ることは寒がりの俺にとって相当苦痛だった。
体を温めるために走ろうとしたが、雪がスネの辺りまで積もっていて足を取られてしまう。
ならばせめてショートカットしようと、俺の住むアパートとコンビニの間を直線距離で結ぶ空地に差し掛かった。この空地は新しく学生用のアパートが建つ予定で、「関係者以外立ち入り禁止」の立て看板が入口にある。
無関係者の俺はそんなことなど一切気にせず空地に入った。
入ってすぐ、ふと空地の真ん中で薄い赤色の、動く物体が目に入る。顔が確認出来たことで、それはすぐに人だと分かった。
人だと分かったのだが、俺の警戒レベルはジワリと引き上がる。
その人間が、上半身裸で、一心不乱に雪を食べる男だったからだ。
男は地面に顔をベタ付けし、まるで掃除機がゴミを吸い込むように雪を吸引していた。なんか熱帯魚の水槽に必ず一匹はこんな魚がいたような気がする。
俺は目の前の愉快な出来事に呆気にとられ、しばらく立ち尽くしていた。
どうしようか。
スルーして突き進むか、引き返すか。あるいは一緒に雪を食べるか……。よし、引き返そう。
俺がそう決めたのは、男がまだこちらに気づいていなかったからだ。こういう輩はヘタに刺激せず、関わらないに限る。
俺はキビスを返し、来た方へ歩き始めたその一歩目、後ろから異様な視線を感じた。
恐る恐る振り向くと、雪を顔いっぱいに付けた男が2mほど離れた背後に立っていた。
俺は驚いて体を男の方に向けた、瞬間男が俺の方に突進してきた。
少し面食らったが、俺は落ち着いて横にステップし、男に足を掛けて転ばすことに成功した。
「ア――」
男は水面をかき分けて進む船のように腹で雪の上を滑走した。
徐々に推進力が弱まり、止まる。
男はその体制のまま、微動だにしない。あれ?もしかして腹を土で擦ったのか?
「あの……」
俺が声を掛けようとすると急に俺の方へ振り返って
「何すんだコラァ」
と吠えた。それ俺のセリフ。
「あなたが突進してきたからじゃないですか」
俺がそう言うと男はチラリと俺から目を逸らした後
「確かに」
と急にシラフになった。男は雪を掴むと、おにぎりを作るように両手で握り始めた。そして
「まあ食え」
と俺に差し出した。お も て な し ?
「いや、要らないです」
「ったく、最近の若もんは遠慮ばっかしやがって…」
男は握った雪玉を自ら頬張る。冷たそうで、見てるこっちが腹を下しそうだ。
「あの、何してるんですか?」
早くこの場から逃げたいという気持ちより、この男が何をしていたのか、という興味が若干上回った結果出た質問だった。
「食べてるんだよ、雪を」
見れば分かるよ。
「何で食べてたんですか?」
急に男が固まる。表情から手の動きまで、まるで男の周りだけ時間が止まってしまったかのようだ。
「ウオオオオオオオ」
また男が鳴きはじめた。男は俺の方に向かって土下座をし、
「初日の出えええええ!!!!」
とブラジルに向かって叫んだ。一瞬、何の意味か分からなかったが、数秒後、男の頭部が薄くなっているのが「これってまるで日の出みたいだよね(ハート)」と言いたいのだと気づいた。いや汚いんだけど。
「いや、ちょっとやめて……」
俺がたじろいでいると男は顔を上げた。
「話せば長くなるんだが」
だから急にシラフになるなよ。
男は虚ろな目で語り始めた。
俺はこの男がまともに話せるのかどうかも怪しいと思っていたが、日の出さん(仮名)は端的に、それでいて理路整然と自分の今の状況を説明して見せた。
日の出さんは元々中小ブラック企業の中間管理職をしていたという。一日8時間の労働と8時間のサービス残業を強いられており、上司は声が大きいだけで働かず、日の出さんや部下の手柄を取り上げるような奴だったそうだ。つい1か月前、とうとう我慢の限界に達した日の出さんは上司に右ストレート→左ボディ→左フックからの一本背負いを決めてしまったのだという。30年勤めてきた会社は当然クビに。家に帰ると妻が待っていたかのように離婚届を突き出してきて離婚。一人娘も妻について行ってしまい娘の学費→車のローン→住宅ローンの重すぎるコンビネーションを背負うことになった日の出さんは自暴自棄になり、ここでこうして雪を食べていたのだという。
何故自暴自棄から雪を食べるという行為に走ったのかは分からなかったが、これらの情報を1分以内に詰め込んで話せたのを見ると、どうやら元々仕事が出来る部類の人だったのだろう。
「俺、なんのために生きてたんだろうな」
全てを失った男の言葉は確かな重みをもっていた。
重すぎる。20歳そこそこの俺は何も言えない。でも……
「日の出さん、ストレス解消なら俺が相手になりますよ」
「ん?俺は日の出なんて名前じゃないぞ」
「良いから良いから。さ、俺が憎きクソ上司だと思って、さっきみたいにかかって来て下さいよ」
「分かったアアア」
日の出さんは低い体制のまま俺に突っ込んできた。
相変わらずオンオフの切り替えが早い。
俺は両腕で、上から日の出さんの脇腹をガッチリ掴んで持ち上げ、スイングして投げ飛ばした。
日の出さんは直ぐに立ち上がると多少ふらつきながらドロップキックを仕掛けてきた。俺は避けずに正面で喰らったが微動だにしなかった。
「あんたの怒りはそんなもんですか?」
俺の目の前に倒れていた日の出さんは、顔を真っ赤にして起き上ると再び俺と距離を取り、再度ドロップキックで突っ込んできた。また正面で受けた俺は一歩後ろに下がってしまう。さっきより体重が乗っている。いや憎しみか。
今度は俺の番だとばかりに目の前に倒れている日の出さんの足を掴むと持てる力をすべて遠心力に変換し、ジャイアントスイングで投げ飛ばした。
日の出さんの体は空地の端まで滑空した後、豪快に雪を巻き上げてハードランディングした。
やべ、やり過ぎたか。
俺が心配して近づこうとすると、倒れていた日の出さんが急に立ち上がり雪玉を俺にぶつけてきた。不意を突かれた俺は避けることが出来ず、右目への直撃を許した。
「ハッハッハァ!ざまあみろ!もと高校球児をなめんなよお!」
日の出さんは無邪気な笑顔を浮かべている。
よし。殺そう。
***
それからしばらく雪合戦が続いたのち、俺たちは疲れ果てて雪の上に座り込んだ。ひんやりと冷たい感覚が尻を覆う。
「君、名前は?」
日の出さんはシラフスタイルになっている。
「野村、です」
「野村君ガタイ良いな。何かスポーツでもやってるの?」
「まあ、小学校の頃から柔道を」
「道理で全然勝てないわけだ」
日の出さんはケラケラと笑い、続けた
「今日はありがとう。とてもスッキリしたよ」
「いいですよ別に。俺もいい運動になりましたから」
「何か、もう一度挑戦出来そうな気がしてきたよ。娘にも会いたいしなあ」
「はあ」
「プリキュアになりたいって、ずっと言ってたんだよ」
「娘さんがですか」
「いや俺が」
「もう十分人生捨てたでしょ?」
俺たちが他愛ない会話をしていると、空地正面入り口から警察が二人走ってきた。
「いたぞ!不審者2人だ!」
まあ日の出さんは地球上どこに行っても不審者の出で立ちだ。そもそも本当に不審者なわけだし。……ん?2人?
俺も頭数に入ってんのかよ。
俺が驚いて逃げようとすると日の出さんが俺と警察の間に立ち塞がった。
「行け。これは俺の問題だ」
確かに。
俺は日の出さんに一切構わず全速力で逃げた。
***
もう会うことも無いだろうと思っていた日の出さんに再開したのは1か月後、通学中、バスに乗っていた時のことだ。
パリッとしたスーツで決めた男に
「野村君」
と声を掛けられたときは本当に誰なのか分からなかったが、頭頂部の惨状から日の出さんであると気づいた。
日の出さんは今、知り合いの紹介で保険会社の営業をやっているのだという。
「じゃあ、僕はここで降りるから。またご飯でも奢るからね」
颯爽とバスを降りていく彼にはかつて雪を貪り食っていたころの面影はなく、顔には自信とやる気が漂っていた。
俺は外を歩く日の出さんの頭頂部を見て
「何があっても、日はまた昇るといういとか……」
と呟いた。
完
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