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第七話『野球観戦!』


「あっ! いたいた、戸川くーん!」

 廊下を歩いていたら、後ろから元気な少女の声に呼び止められる。それだけで誰かがわかってしまったから、戸川祐司は溜息をつきながら振り返った。

「何だよ、一ツ橋。おれとお前は友だちでもなんでもないんだから、気安く人の名前を呼ぶな」

「えー? だって、この前一緒に試合をした仲じゃない。そんなことよりさ、聞きたいことがあるの!」

 戸川の文句など馬耳東風とばかりに、せつなはぐいと距離を詰めてきた。目の前に可愛らしい少女、ただし自分より背が高い、が浮かべる満面の笑みに、少年は気まずそうに目を逸らす。

「聞きたいこと?」

「うん! この前の試合でさ、戸川くん、ふわ~んとしたボールを投げてたじゃない? あの投げ方を教えてほしいの!」

「ふわ~んとしたボールって。カーブだろ、そりゃ」

「そう、その『かーぶ』っていうボール! ほら、ここにちゃんとボールも持ってきてるから」

 呆れ顔の戸川の眼前に、どこから取り出したのか、せつなは真新しい軟式ボールを突きつけた。そしてとうとうと語り始める。

「あたし、まだ野球を始めたばっかりで、ボールを投げるのもひと苦労なんだ。まだ『すとれーと』しか投げられないし、のちのちああいうふんわりとしたボールも必要になると思うの。けど野島せんせーは教えてくれないし、戸川くんにお願いするしかないなって」

 せつなの話を聞く戸川は、必要以上に近い距離に寄っている少女に、腰が引けていた。なんだかいい匂いがするし、つやつやした唇が元気に動く様は、まるで自分を魅了するかのように妖艶だった。

「とゆーわけで、はい。まずは握り方を教えてください!」

 言うなり、せつなはボールを戸川の手に握らせた。困惑と当惑にまみれながらも、少年は唯々諾々と少女のお願いを聞くことしかできなかった。

「おれのカーブの握りは、こう。ボールの縫い目に中指と人差し指をかけて、深めに握る。あとはそのまま投げてやるだけだ」

「ナギーは投げる時にひねってやるって言ってたけど、戸川くんは違うの?」

「ナギーって誰だよ?」

「十成凪沙ちゃん。ダメだよ戸川くん、あんなにかわいい女の子のことを忘れちゃあ」

 いや、知ってるし。そもそもお前がヘンなアダ名で呼んだせいだろ。と言ってやりたい気持ちを視線にこめる戸川だったが、教えられたように握ろうと悪戦苦闘するせつなには届かなかった。

「こう? こうでいいの?」

「あ? 違うよ、逆だって。こう」

「ええ? なんか違う~。そうか、向きが逆だからいけないんだ」

「うわ! お、おい!?」

 上手く握れないことに業を煮やしたせつなは、ぴったりと寄り添うように戸川の隣についてしまった。近づくというより、完全に密着してしまっている。左腕にせつなの温もりを感じた戸川は、その場で硬直してしまう。

「やっとわかった! へ~、本当にたったこれだけでいいんだ~」

 戸川にボールを握らせてから、せつなはその上に自分の手をかぶせた。触れ合う手と手。戸川の顔はもう真っ赤である。左肩に妙にやわらかい感触があるが、それを完全に知覚してしまったら、少年はもうその場にいたたまれなくなってしまうだろう。

「え~と、こうやって握った状態で、いつも通りに投げる、と。こんな感じ……かな!」

 戸川から体を離したせつなは、おもむろにピッチングフォームを作ると、そのままモーションに入った。心臓をばくばくといわせている戸川は、それを見つめることしかできない。足が高く上がり、広いステップを踏んで、力いっぱいしなやかに腕を振った。

 その刹那、戸川は見てしまった。ひらりと舞い上がるせつなの制服のスカート。そしてその中から顔を出した、鮮やかな純白。

「どうかな、戸川くん。こんな感じでいいのかな?」

 くるりと振り返ったせつなが聞いてくる。少女は全然気づいていない。だが戸川は見てしまった。その光景は、野球一途で育ってきた純情少年には、あまりにも刺激的すぎるものだった。

「ねえ、聞いてる?」

「……あ、ああ。いいんじゃないか? お前にはそれが似合ってるよ」

「ホント? わーい、うれしいなっ! ありがとう、戸川くん。それじゃまたね!」

 上の空のていで呟いた戸川の評は、決してせつなの投げ方に向けられたものではない。が、せつなは純粋な喜びをみせて、足音高く廊下を走っていってしまった。

 あとに残された戸川は、時間にしてほんの一、二分の出来事に、すっかり心を奪われてしまっていた。休み時間の終了を告げるチャイムが鳴っても、まだ動き出せない。

「……しろ。まっしろ、しろがいっぱい、しろ、白、シロ……ははは」

 戸川祐司に変なスイッチが入ってしまった、のかもしれない。


※※※


 六月。言うに及ばず、梅雨の季節である。昔に比べると、だいぶ雨が少なくなったような気もするが、基本的によく雨が降る。おまけにじめじめと蒸し暑く、不快指数は上がっていくばかりだ。

 しとしとと降り続く雨は、建物やアスファルトの路面を重く濡らした。ということはつまり、土のグラウンドの状態はそれ以上にひどくなっているということだ。

 誰もいないグラウンド。そこここに水たまりができて、その水面に雨の滴はひっきりなしに波紋を生じさせていた。

「あー、もう! いつまで降るの、この雨はぁ。もう三日も外で練習できてないよぉ」

 部室のトレーニングルームの窓に顔をへばりつかせながら、せつなは恨めしそうに雨模様の空を睨みあげた。鉛を溶かしこんだところに、さらに重く濁ったものを混ぜ合わせたような空は、素知らぬ顔で雨を落とし続けていた。

「文句ばかり言ってないで、ちゃんとトレーニングしなさい。雨の日の時は、雨の日にしかできないことをやるのが務めよ」

「はあ~い。かなちゃんは、いつもいつも真面目だね。尊敬しちゃうよ」

 たちまちのうちに二条要にカミナリを落とされて、せつなはすごすごとみんなの輪の中に戻る。ぺたんと座りこむと、平然とした様子で強烈な柔軟運動を開始した。女子野球部員それぞれが、課せられたトレーニングをこなしている。とはいえ、全員に共通しているのは、グラウンドで思いきり体を動かしたいという強い思いだった。

「せっかく戸川くんに『かーぶ』を教えてもらったのになぁ。これじゃ練習もできないよ」

 ふと、何気なくこぼしたせつなの不平。しかし、それを聞き逃すほど、要の耳は小さくなかった。

「聞き捨てならないわね。せつな、あなた何を教わったって?」

 要は眼鏡の奥の瞳をぎらりと光らせて、のほほんとしているせつなに食ってかかった。その迫力を受けて、なぜか奈月が悲鳴をあげる。せつなはそこでようやく自分の失言に気づき、てへっと舌を出した。

「あっ、しまった。内緒にしておこうと思ったのに、つい口に出しちゃった」

「私は、あなたのそのうっかりミステイクに救われた気分よ。変化球ですって? ろくすっぽストレートも投げられないくせして、なに色気を出してるの?」

 必死に怒気を抑えている要とは対照的に、せつなはあっけらかんとしながら笑う。

「色気なんて、あたしにはないよ~。アッキーや和那ちゃんとは違うもん。知ってる? 和那ちゃんってああ見えてね、実はすごくおっぱい大きいんだよ?」

「な、なんでそこで私の話になるの!?」

 いきなり話を振られた格好の和那は、それまで黙々と部屋の片隅で体を鍛えていたのだが、羞恥のあまり顔を真っ赤にしてうずくまってしまう。胸を両腕で隠す際、そのボリュームが如実のものとなり、舌打ち一つと感嘆の呻きが九つ聞こえてきた。

「とにかく! 今のせつなに変化球なんて言語道断! もし投げたりしたら、その瞬間に投手を降りてもらいますからね!」

「ええー!? そんな横暴だよ~。みんなもなにか言ってよ。ねえ、ナギー」

 鬼の形相で指を突きつけてきた要の攻勢に、せつなは周囲に助けを求めた。同じ投手ということで十成凪沙を指名したのだが、少女は冷たい目であっさりと言ってのける。

「二条さんの言う通りよ。せつなは、今はストレートだけ投げてなさい」

「ひどい!? みんなしてあたしをイジめるう~!」

 行き場を無くしたせつなは、かねてよりの大親友の九重奈月にすがるしかなかった。自分よりずっと小さな少女の胸に飛びこみ、おいおいとむせび泣く、ふりをする。気の優しい奈月は、よしよしとせつなの頭を撫でてやるが、冷徹な要の指針は覆らない。

「でも、ちょっとせつなちゃんはかわいそうかも。せっかくのやる気に水を差されちゃって」

 ルームランナーでひたすら汗を掻き続けていた五木田円が、気の毒そうにせつなを見やる。その隣で腹筋をしていた四谷冴子も、苦笑いを浮かべている。

「せつなは気づいてないのかな? 凪沙が、今は、って強調したのを」

 それまで短距離ダッシュを繰り返していた六原静音が、タオルで汗を拭いながら笑う。ダンベルを使った筋力トレーニングを行っていた八幡未来も、うんうんと頷いた。

「てゆーかさ、こんなに鬱屈してんのも、結局は外で練習できないせいでしょ? 雨が悪いのよ、全部」

 七城明穂が指摘した通りである。先日行った練習試合。あれが部員達の闘争本能に火をつけた。あの日以来、少女達はこれまで以上に目の色を変えて、練習に励んだ。その矢先に梅雨の到来。雨、雨、雨の日々である。少しぐらいイライラしたところでバチは当たらないだろう。

 少女達の溜息を覆い隠すかのように、止まない雨は地上を延々と濡らし続けていた。


※※※


 雨で頭を悩ませているのは、何も部員だけではない。顧問の野島直弥も、ここ連日の雨にお手上げ状態でいた。

「まいったな。みんなのやる気があるうちに、より本格的な練習をさせてあげたかったのに」

 練習試合を通して、シャイニングガールズの選手達に力があることは証明された。しかしそれは、主に個の力でしかない。

 凪沙の完成されたピッチング、要の冷静かつ的確なリード、和那の天才的な打撃技術、冴子の堅実なプレイ、円の驚異的な長打力、静音の軽快な守備と足、明穂の負けん気あふれる姿、未来の強肩強打、奈月の最後まであきらめないという強い心。

 そして、せつなの才能あふれる投球。

「いや、あれは『闘球』というのが正しいかな。笑ってるくせに、闘志がむき出しなんだから、始末に負えない」

 個の力を最大限に活かすのは、チームとしてのまとまりである。ひとりひとりが結束することで、初めて真の力を発揮することができる。現にあの少女達は、一年生男子のチームに打ち勝ってみせた。誰か一人でも欠けていたら、あのような結果にはならなかっただろう。

「チームの結束力、か。こういうのは、口で言ってもなかなかわからないんだよな。百聞は一見にしかず、何かお手本になるものがあれば……」

 言いかけて、直弥はふとあることに気がついた。来週の6月13日は、桜爛学園の創立記念日で休校日だった。その日は部活動も禁止で、全員が休むことを義務づけられる。そしてその日はというと。

「……これは、またとないチャンスかもしれないな」

 スポーツ系のインターネットサイトを開いた直弥は、そこに開示されていた情報を見てほくそ笑んでいた。それは、国内プロ野球のシーズン日程表。13日はナイターで試合が組まれており、そのうちのひとつは、彼らが住まう地域に本拠地を置く球団のホームゲームであった。



 その日は久しぶりに雲間が晴れ、青空が顔をのぞかせていた。その後の天気予報も、概ね問題なしということで、直弥はほっと胸をなでおろしていた。

 直弥がいるのは、私立桜爛学院の校門前である。広々とした道に車の通りは少なく、いつもとは違う静けさに包まれている。

「しかしまあ、よく全員分の観戦費を確保できたわね。いったいどんなマジックを使ったの?」

 実家から持ち出したワゴンの前で立っていた直弥に、気持ちお洒落成分が強い格好をした中野理沙が疑問を口にした。それに対する直弥の答えは明快だ。

「菅原先生にお願いして、部費を工面してもらったんですよ。大介から贈られた道具がまだたくさんありますからね、それと交換ということで」

「うわあ……友人の好意をそうやって売り飛ばす男だったのね、アンタは」

「アイツの願いは、野球をがんばる人達を応援する、ですから。別に無下にしてるわけじゃないんで大丈夫です。ついでに、アイツはそういうこと気にしないと思うんで」

 球場には事前に連絡を入れて、団体客割引もさせてもらったのだが、しがない教員の給料で全員分の観戦費を捻出するのは至難のわざだ。菅原は表面上は難色を示していたが、割安で新品の道具を手に入れられるという魅力には勝てなかったのだった。

「あーあ。でも、せっかくの休みだっていうのに、生徒の面倒をみなくちゃいけないなんて。私、久しぶりに直弥と遊びに行きたかったのに」

「遊びに行くじゃないですか。野球観戦だって捨てたものじゃないですよ」

「だから、私はあなたと二人きりで……」

 笑い飛ばす直弥に、ばっちりメイクを施した顔に怒気をみなぎらせた理沙が詰め寄ろうとした時、道の向こうから少女の一団が見えてきた。

「あっ! せんせー、おっまたせー!」

 二人に気がついた一ツ橋せつなが、それとわかる大きな声で手を振った。他には九重奈月、二条要、六原静音、七城明穂らがいた。

「うわ、これが野島せんせーの車? すごく大きい~」

「中野先生も、今日はよろしくお願いします」

「わたし、車酔いしちゃうから、大きい方の車がいいな」

「アタシは静かな方がいいわ。道中までやかましくされるのはゴメンよ」

「野島先生はいつもとあんまり変わらないけど、中野先生の変貌ぶりがすごい……」

 少女達が集うと、さっきまでの静けさはどこへやら、あっという間にかしましい騒ぎとなった。いつもは制服姿、ジャージ姿、ユニホーム姿しか見られないが、今日は完全に私服である。見慣れた顔なのに違う印象を受けて、直弥は新鮮な気分だった。

「みなさん、お待たせしました」

「ごめんね、遅くなっちゃって。お菓子、いっぱい持ってきちゃった」

「みんなどうもー。天気が良くてよかったね~」

 次にやってきたのは、四谷冴子と五木田円、それに八幡未来だ。それより少し遅れてきたのは十成凪沙。あとは三倉和那が来れば全員揃うのだが。

「遅いな……どうしたんだろう、三倉の奴」

 腕時計で時間を確認するが、集合時間をもう過ぎてしまっている。試合開始にはじゅうぶん間に合う時間だから問題はないのだが、そんなにのんびりもしていられない。少女達がわいわいと騒いでいるのを横目に、直弥は理沙に話しかけた。

「三倉から何か連絡は入ってますか?」

「ううん、聞いてないわよ。電話してみたら?」

 言われて、直弥は携帯を取りだしてアドレス帳を開いた。三倉和那の名前を見つけて、それをプッシュしようとした時、一台の車が颯爽と現れて、校門の近くで静かに停車した。直弥が、みんながその車に視線をやると、助手席からひとりの女性が下りてきた。清楚可憐な衣装に身をまとった長身の美女。何者かと思いきや、それは三倉和那その人だった。

「うっそー!? 本物の和那ちゃんだ! きれいー、かわいー!」

 いち早くそれに気づいたせつなは、きゃあきゃあと騒ぎながら、恥ずかしそうにおどおどとしている和那に駆け寄った。同い年の女の子とは思えない、まるで高原に優雅に現れたお嬢様然としたたたずまいの和那は、集まってきたみんなに頭を下げ通しである。

「本当にごめんなさい。今日のことを話したら、お母さんがやたらと張りきっちゃって。直前まで衣装合わせって、何着も着替えさせられてたら、すっかり遅くなっちゃった……」

 制服やユニホームではわかりづらかったが、和那のスタイルはとても中学一年生の女子とは思えないものだった。薄手の生地の私服を着たことで、出るところはしっかりと出て、図らずとも女らしさをアピールしている。

 そうこうしていると、和那を乗せてきた車がおもむろに発進した。和那の話だと、彼女の母親が送ってきてくれたらしい。なんにせよ、これで部員全員が揃った。なかなか収拾が着かない状況に、理沙は何度も手を叩きながらその中に割り込んでいった。

「はいはい、みんなそこまでにして。さっそく現地に向けて出発するからね。私の車には四人、野島先生の車には六人乗れるから、人員を振り分けるわよ」

 こういう時、同性の理沙の方が話を進めやすいようだ。ひとり話の輪から外れて、ぽつんと佇む直弥をよそに、トントン拍子に話が進んでいく。

「はい。それじゃ直弥、この子達を頼んだわよ。それと、道の先導をよろしくね」

 直弥の肩をぽんと叩いて、理沙はさっさと自分の車に乗りこんでしまった。助手席に座るのは明穂、後部座席には要、静音、未来がそれぞれ乗りこんでいく。

「わーい! なっちゃん、あたしたちは後ろの席にしよう。広い車なんてはじめてだよ~!」

「せっちゃん、少し落ち着こうよ。行く前からそれじゃ、体がもたないよ?」

「本当にせつなは騒々しいですね。私も中野先生の車にすればよかったかもです」

「じゃあ、五木田さんとわたしは真ん中の席に座りますね」

「そうだね。わたしデカいから、その方がみんなのためにもいいかも」

 まだ許可していないというのに、せつな達は我先にと車に駆けこんでいた。奇しくも、冷静組とやかましい組に別れてしまったようだ。いや、もしかしたらこれは、理沙の巧妙な作戦なのかもしれない。

「道中が思いやられるな。考えただけで頭が痛くなってくるぜ……」

 軽く頭をさすりながら独り言をこぼす直弥だったが、近くに人の気配を感じてそちらに振り返った。

「うわ!? なんだ三倉か。お前も早く車に乗れよ」

「……! あ、あの」

 運転席に向かおうとした直弥を、和那の消え入るような声が止めた。再度振り返った直弥の目に、もじもじと挙動不審な和那の姿が映る。

「どうした? 後ろはちょっともう満杯だから、助手席になっちゃうけどな」

「それは、別に構いません。私、助手席の方が好きですから」

「あ、そう……」

 助手席好きというのも珍しいような気がするが、直弥はあえてそれには触れなかった。それより、和那は何か言いたいことがあるようだった。

「何か聞きたいことがあるなら、遠慮なく聞いていいぞ? 今日は休みだし、半分無礼講みたいなものだからな」

 言い淀む和那が喋りやすくなるように、直弥はあえて茶化すような言い方をした。それに促される形で、和那は意を決したように顔を上げた。

「わ、私の格好……ヘンじゃないですか!?」

「……ん?」

「だ、だからその……似合ってなかったり、とか……」

 言葉の後半部分はごにょごにょとなってしまって、よく聞き取れなかった。和那の顔はかわいそうなくらいに真っ赤だ。何をそんなに恥ずかしがっているのか、直弥にはさっぱりだったが、ここは正直に答えるべきだろう。

「似合ってるよ。最初見た時、良家のお嬢様かと思ったもんな。冗談抜きで、しばらく見とれちまってたよ。三倉が美人だってこと、再認識させてもらった」

 穏やかに微笑みながら、直弥は嘘偽りない感想を口にした。その瞬間、和那は嬉しそうに顔を輝かせたが、それさえも恥ずかしくなって、逃げるように助手席に飛びこんでしまった。その場にぽつんとひとり残された直弥は、なんともむなしい気分になるのだった。


※※※


 学校から球場までの距離は、車で一時間半というところだ。14時30分出発で、16時頃には現地に着く計算である。道中は特に渋滞もなく、順調な行程で進むことができた。

「わー! みんな見て見て! 海だ! 海が見えてきたよ!」

 海が見えてくるなり、がばっと窓にはりついたせつなが、興奮そのものといった歓声をあげる。車中のみんなもそれにつられて、やはり同じように歓声をあげるのだった。

「お前ら、そんなに海が珍しいか? 地元だって海は遠くないだろうに」

「野島せんせーはわかってないなぁ。地元を離れたところで海を見る喜び、それがあたしたちを感動させてるってことに!」

 わかるようなわからないような、いまいち説得力にかけることを熱弁するせつな。それからも海に関する話題で、後部座席組はやいのやいのと掛け合っていた。ただひとり、助手席の和那だけは、静かに海を見つめているようである。

「三倉は、海は好きか?」

「……えっ? あ! はい、なんでしょうか?」

 急に慌てふためく和那に、直弥は運転しながら苦笑をもらした。

「やけに熱心に眺めているからさ。で、どうなの?」

「そうですね……嫌いではないです。大きくて広々とした海を見ていると、心が落ち着いていくのがわかるんです。その感覚は、好きです」

「ふーん。ならさ、今度は海にでも行ってみるか?」

「えっ!? う、う、海にですか!?」

 直弥の何気ない提案に、和那は飛び上がらんばかりの驚きをみせた。シートベルトで体を固定しているため、あまり大きな動きはできないが、その狼狽っぷりは尋常なものではない。

「そう。夏の合宿みたいな感じで、野球部のみんなとさ。砂浜でのトレーニングは、かなり足腰が鍛えられるんだ」

「あ……そういうこと、ですか」

 楽しそうに言った直弥の言葉に、和那の声が寂しげなものに変わる。しかし直弥はそれに気づかず、自分が学生時代に行った合宿についての話をするばかりだった。和那はそれに付き合ってくれたが、少女の顔から落胆と自戒が消えることはなかった。

 そして到着。間近に海を臨む『オーシャンズボールパーク』にたどり着いた一行は、駐車場からの長い道のりを、一団になって歩いていた。

「かなちゃん、そっちの車はどんな感じだったの? 楽しかった?」

「楽しいかどうかはわからないけど、少なくともうるさくはなかったわ」

「あたしたちはね~、たくさんおしゃべりして、たくさんお菓子食べて、たくさん笑って楽しかったんだよ~!」

 後ろがにぎやかすぎるのが悩みの種だが、ここまで来た以上はもう行くしかない。直弥は、ここまでの道のりで、精神力の大半を削られてしまっていた。女子中学生のパワーは凄まじく、娘を持つ父親の気苦労が少しだけわかったような気がした。

「ずいぶん疲れてるわね。何かあったの?」

 心配して理沙が聞いてくれるが、直弥は疲れた笑みをみせるだけである。それだけでおおよそのことを察したのか、大人な先輩は慰労するかのように微笑んでくれた。

「こっちはね、色々と大人の話をしたわよ。興味あるでしょ?」

「いや、ないです。全然。これっぽっちも」

「なによつれないわね~。アンタがどれだけ生徒に好かれているか、せっかく教えてあげようと思ったのに」

「それを聞いたら、なおさら興味がなくなりましたよ」

 話をしているうちに、球場の全景が大きくなってきた。それにあわせて、周囲の賑わいも大きくなっていく。ここに来るのは、直弥も久しぶりだった。学生の頃は、大介や理沙らなどと、よく出掛けたものだったが。

「俺のせいで、足を運ばなくなっちまったんだよな……」

 昔のことを思い出して、辛くないと言えば嘘になる。だが今は、思い出すことの辛さよりも楽しさの方が勝っていた。苦い過去を払拭し、明るい未来を模索するための第一歩を、直弥はシャイニングガールズの仲間達とともに歩み出そうとしていた。



 オーシャンズボールパークは、プロ野球球団『セイラーズ』の本拠地である。球場のすぐ裏が海で、磯の香りと潮風が心地よい球場だ。強い浜風が最も特徴的で、守備にも投球にも影響を及ぼす、選手泣かせの構造となっている。

「じゃあ、チケット受け取ってくるから、そこでおとなしく待っててくれよ」

『はーい!』

 主にせつなの元気な声に送られて、直弥は長蛇の列となっている窓口へと向かった。今日は平日のナイターなのだが、やたらと人が多い。セイラーズが近年稀に見る快調をみせ、陽気な外国人監督の旺盛なファンサービスのおかげかもしれない。

「先輩がいるから大丈夫だとは思うけど、特に一ツ橋が心配だ。アイツ、妙にハイテンションだからな」

「そうですね。でも、そこが一ツ橋さんのいいところだと思います」

「ああ、そうだな……って、三倉!? お前なんでこんなところにいるんだ」

 何気なく聞こえてきた声に、何気なく返した直弥だったが、隣にいたのが和那だと気づくと、驚きの声をあげた。しかし和那は、やや恥ずかしそうに笑うだけである。

「先生ひとりじゃ大変かなって思って。迷惑でしたか?」

「いや、迷惑とかじゃないけどさ。それに大変でもないし。みんなといた方が楽しいだろうに」

 とはいえ、ひとりでぼんやりと並んで待っているよりは、話し相手がいる方が気が安らぐ。直弥は和那と談笑しながら、全員分のチケットを受け取るのだった。

 球場の正面入口前にはステージが置かれ、そこではチアガールや球団マスコットによるイベントが行われていたりする。ここを訪れる客の中には、それを目当てに来ている者もいるとかいないとか。球場の周辺には屋台が何軒も店を構え、まるでお祭りのような賑わいをみせていた。

「先生、あの建物はなんですか?」

 五木田円に付き合って、たこ焼きを食べていた四谷冴子が、クラシックな建物を指差して聞いた。

「あれはセイラーズのグッズショップだ。あと、球団の歴史博物館みたいなのもある。まだ時間もあるし、興味があるなら行ってみたらどうだ?」

 促してみたものの、部員の中にセイラーズのファンはいなかったようで、返ってきた反応は微妙であった。それに、少女達は知的好奇心を満たすより、まずは食い気とばかりに屋台巡りを楽しんでいた。

「あれだけ食ってりゃ、晩メシの必要はなさそうかな?」

「そうねえ。試合を見るより先に、お腹いっぱいになりそうだわね」

 と、一丁前のことを言ってきた理沙だったが、彼女の両手にもほかほかと湯気をあげる食べ物が乗っていた。

「先輩……」

「ほら、アンタの分。和那ちゃんと分けなさいよ」

 強引に手渡されたたこ焼きを見つめ、直弥は和那に苦笑を向けた。

「半分ずつ食うか?」

 和那は素直に頷いた。

『ただ今より、入場を開始いたします。入場券をお持ちのお客様は、所定のゲートよりご入場くださいませ』

 場内アナウンスが、入場開始の案内を告げる。直弥達も二階の正面入口に並ぶ。

「チケット回すぞ。絶対に無くすなよ」

「これが野球のチケットかあ。内野指定席Aって、どういう意味?」

「Aだから、いい席ってことじゃないの?」

「なんだか緊張してきちゃったよ」

 少女達は口々に何か言い合いながらも楽しそうだ。並ぶことしばし、ついにゲートに到達した一行は、球場内に足を踏み入れたのだった。

「俺達は一塁側だから、右手に向かうぞ」

 入ってすぐはロビーのようになっていて、グッズショップがある。通路には開場して間もないというのに、多くの人であふれている。道すがらにも食べ物関係の店が並んでおり、熱気がすさまじい。

「チケット拝見いたします。……どうぞ、お通りください」

 チケットに記載されたゲートより、スタンドに入る。そこに控えていた球場スタッフにチケットを見せて、緩やかなスロープを上がっていく。それまで少し薄暗かった視界が、明るくなった。坂を上りきった先にあった光景、それはプロ野球選手が真剣勝負を行う神聖なグラウンドだった。

 スタンドは、見渡す限りの座席である。老若男女問わず、観戦に来た人達が試合開始を今か今かと待ち構えている。外野スタンドはすでに密集状態にあり、応援団を中心とした練習が行われていた。

「お前ら、ここは応援がすごいことでも有名だからな。度肝を抜かれるなよ?」

 直弥が脅すように言うが、少女達は手すりに沿って一列に並んで、眼下のグラウンドを熱心に見つめていた。やはり野球部員である以上、選手達の動きが気になるのだろう。今は、対戦チームの『ブルーレイヴ』の守備練習が行われていた。

「まずは席に着こうぜ。通路に立ってると、他の人に迷惑だからな」

 直弥達の席は、一塁側内野スタンドのちょうど真ん中の位置だった。計十二名分の席で、横に三人ずつ四列が割り当てられていた。横一列に座らされるよりは、良心的な配置である。

「あたし一番前に座るー!」

「せっちゃん、急に引っ張らないで!?」

「一ツ橋さんは、どうしていつもこう突発的なの?」

 せつなと奈月、凪沙が一番前の列を陣取る。その後ろには、冴子、円、未来が座る。三列目には要、静音、明穂が腰を下ろす。最後に残ったのは、直弥、理沙、和那である。

「直弥、あんたは真ん中に座りなさい」

「どうしてですか?」

 聞き返す直弥に、理沙は意地の悪い笑みを浮かべながら答える。

「両手に花を持たせてあげようって言ってるのよ」

「よ、よろしくお願いします」

 振り返ると、恐縮した様子の和那が頭を下げている。どうも今日は和那と縁があるな、と直弥は疑問に思ったが、決められた以上は仕方がない。

「楽しい試合になるといいな」

 直弥がそう笑いかけると、和那も控えめに微笑むのだった。


※※※


 試合開始までの間、少女達はそれぞれその時間を楽しんでいるようだった。四谷冴子が何かのノートを取り出したのを見て、お菓子を頬張っていた五木田円がのんびりとたずねる。

「冴子ちゃん、ノートなんか出してどうするの? もしかしてお勉強するの?」

「はい。せっかくだから、スコアブックをつけてみようと思って。今後必要になってくるでしょうし、いい機会かなと」

 勉強家で研究熱心な冴子らしく、事前にスコアブックに関して勉強してきたらしい。それを聞きつけた要が、何やら得心した様子で笑いながら振り返る。

「さすが冴子ね。私もつけていくから、何かわからないことがあったらいつでも聞いてちょうだい」

「ありがとうございます、二条さん!」

 シャイニングガールズの頭脳とも言うべき二人が、互いに微笑みあう。しかしそこに茶々を入れるのが一ツ橋せつなである。

「しつもん、しつもーん! スコアブックってなんですか?」

「……静音、頼むわ」

「せつな、いい? スコアブックっていうのはね……」

 じっとりとした要の視線を受けて、静音がやれやれと苦笑しながら、わくわくしているせつなに説明を始める。奈月も一緒になって静音の話を聞くが、彼女が話した内容は、非常にざっくりとしたものだった。

「ふーん。要するに、試合の日記帳みたいなものなんだぁ」

 せつなの慨嘆がすべてを物語っている。奈月は何となくそうじゃないことはわかっている様子だったが、親友を思って何も言わないでいた。それ以上静音が何も言おうとしないので、仕方なく要が補足する。

「試合の展開や内容を克明に残しておけば、後々の研究材料に使えるわ。なぜあの時こうだったのか、こうするべきだったんじゃないかとか。人の記憶だけだと曖昧になってしまうから、しっかりと記す必要があるの」

「へ~、そうなんだあ。ねえねえ、ナギーもスコアブックは書けるの?」

 それまでグラウンド内の様子に心を奪われていた十成凪沙は、キッとせつなを睨みやった。

「当たり前でしょう。書けないのはあなたぐらいのものです」

「そんなぁ、ひどいよ~! 他のみんなだって書けないに決まってるもん」

「あなたは書き方を教わっても、絶対に書けません。誓って言えます」

 にべもない凪沙の断定に、せつなはがっくりと肩を落とした。凪沙のきつい性格は相変わらずだが、だいぶ丸くなってきたように思える。少女達のやり取りを微笑ましく見守っていた直弥だったが、隣で笑うのを我慢している様子の和那に気づく。

「どうした? お前もみんなと混じってくればいいじゃないか」

「い、いえ! 私はここで、いいです」

 ぱたぱたと手を振る和那だが、顔は真っ赤になっている。普段から無口で、積極的に他人と関わろうとしない和那だが、少しずつ心境の変化が起きているのだろうか。それもまた望ましいことだ。直弥が描く夢に、チームの団結は不可欠なのだから。

 時間は進み、試合開始はもう間もなくまで迫ってきた。スターティングメンバー発表の演出に合わせて、外野スタンドの応援団が大きな掛け声をあげる。その声量と迫力の凄まじさに、少女達はびっくり仰天していた。

「セイラーズの応援団は、リーグでも随一だからな。試合が始まったらこんなもんじゃないぞ」

 脅すように直弥が言うと、少女達は唖然として外野スタンドを見つめた。この前の練習試合の時、見に来てくれた人達が応援してくれたが、それとはとても比べものにならない。これがプロ選手達の試合なのだ。

 始球式も終わり、試合はブルーレイヴの先攻で始まった。セイラーズの先発投手は左腕の高嶺康孝たかみねやすたか。高卒五年目だが、すでにチームのエースとして君臨している選手だった。

「野島せんせー。あのピッチャー、すごいんですか?」

 せつなののんびりとした質問。同じ左腕の凪沙は、マウンド状の高嶺から目を離そうとしない。直弥は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「高嶺は、俺と同期の選手なんだよ。俺が夏の大会で挫折を味わった時、高嶺は全国大会優勝投手になった。快速球とキレのあるスライダーが持ち味で、あっという間にチームはおろか、リーグを代表する投手にまでのぼりつめた。とにかく奪三振能力が高い投手だ」

「ほえ~、そうなんだぁ。それじゃあ、ナギーとおんなじってことかな?」

 せつなの呟きは、単なる感想にすぎないものだったのかもしれない。が、それはまぎれもない事実で、せつながそれを言い当てたことに直弥は驚いた。せつなは天然な性格だが、意外と物事を見極める目がある。

「すごいね、ナギー。お手本になる人が投げてくれてよかったね!」

「ちょっと、静かにしてもらえる? そんなこと、あなたに言われなくてもわかってるんだから」

 少女達のやり取りを尻目に、高嶺の投球は続く。さすがに速いスピードボールだ。球場で直にプロの試合を見る少女達にとって、そのすべてが驚きの連続であった。

「あの夏、俺がもし肩を怪我していなかったら、あのマウンドに立っていたのは俺だったかもしれない。今となってはすべてが夢物語だけど、時々悔しさというか、やるせなさが沸きあがってくるんだ。あの時、ああしていれば……ってな」

 直弥の自戒をこめた呟きは、残念ながら少女達の耳には届かなかった。理沙も含めた全員が、試合に熱中してしまっている。直弥は自嘲めいた笑みをもらすと、自分も試合に集中しようとした。

「……私は、ちゃんと聞いてます」

「え?」

 大歓声の中に聞こえてきたのは、小さいがしっかりとした強い声。そちらに顔を向けると、和那が真面目な表情で直弥を見つめていた。

「だから、もっと話してください。私は、野島先生の話をもっとたくさん聞きたいです。先生のことを、もっと深く知りたい……」

「三倉。お前……」

 和那がそっと唇を噛む。まるで自分が心を痛めているかのように。和那には、直弥の苦衷がわかっているのかもしれない。直弥は潮風に髪をなびかせる少女をまぶしく見返しながら、促されるがまま、ぽつぽつと自分の思いを口にした。これまで誰にも言わなかったことさえも。

 試合は進んでいく。日が落ちて、スタンドの証明が球場全体を照らす。プロ野球のナイターはこれからだった。



 セイラーズとブルーレイヴの試合は、白熱の様相を呈した。セイラーズ先発の高嶺は七回を一失点、十三奪三振の快投をみせたが、味方の援護に恵まれなかった。もっとも、彼のピッチングは十成凪沙に大きな衝撃を与えたようである。

 八回の攻防も互いに譲らず、壮絶な応援も直後に溜息に変わってしまう。シャイニングガールズの少女達は、最初のうちはただの傍観者にすぎなかったが、快が進むにつれて、すっかりセイラーズ側で試合を見るようになっていた。

「あそこで動かなかったのが、ここにきて響いているわね。スタメンの選手にそこまでこだわらなくてもよかったんじゃないかしら」

「足を使ってかき回してたら、少しは違った展開になってたかもね」

「でも、その後の守備や打撃を考えたら、そうおいそれと代えられなかったんじゃないかなあ」

「結局は『たられば』ってやつでしょ? 結果論を唱えてたってむなしくなるだけよ」

 経験者組と七城明穂は、すっかり野球談義にはまってしまっていた。未経験者組はというと、せつなを筆頭に応援をがんばっている。応援団のコールや応援歌がいたく気に入ったようで、せつなは近くにいた他の観客と楽しそうに声を張りあげる有様だ。

「せっちゃん、相変わらずスゴイなあ。なんで知らない人達とあんなに楽しそうにできるんだろう?」

「だって、それがせつなちゃんのいいところじゃない」

「そうですね。一ツ橋さんの長所は、何ごとにも臆せず、自分を貫き通すことができる強い精神力だと思います」

「……ただのバカなだけです」

 凪沙のきつい一言に、奈月、円、冴子が揃って苦笑を浮かべる。しかしせつなはそんなこととは露知らず、元気いっぱいに声を張りあげるのだった。

 九回に入る。ブルーレイヴ打線がここに来て猛襲をかけてきたが、セイラーズの抑え投手がすんでのところで攻撃を食い止め、0点に抑えた。九回の裏を残すのみとなって、一対〇という状況。セイラーズは絶体絶命の危機に直面した。

「あちゃ~。これは決まりかしらねえ」

 理沙が天を仰ぐのも無理はない。ブルーレイヴには絶対的な抑えと呼ばれる守護神がいる。150kmを超える剛球と落差の激しいフォークボールを武器とする大澤和彦おおさわかずひこ。彼もまた直弥と同期で、大卒のドラフト一位でブルーレイヴに入団した投手である。

「まだわかりませんよ、先輩。野球は試合が終わるまで、何が起こるかわからないスポーツなんですから」

 直弥のつぶやきは予言でもなんでもなかったが、この日の大澤はどこか調子が良くないようだった。最初の打者は内野ゴロに打ち取ったものの、続く打者には四球、次の打者にはセンター前に持っていかれてしまった。

 俄然、スタンドが賑やかになる。応援団がこの一番の盛り上がりをみせた。それというのも、ついにセイラーズの切り札が投入されたからである。その選手は、直弥が子供の頃から憧れていた選手だった。

「三倉、あの選手をよく見ておけ。あれがお前の、将来あるべき姿を示してくれる」

 思わず耳を塞いでしまう大歓声に、直弥は和那に体を寄せながら告げた。直弥も興奮していて、肘掛けに乗っていた和那の手をしっかりと握りしめていた。

「は、はい。わかりました」

「チームの生え抜きで、弱い時代からずっと支えてきた大ベテランだ。今はチーム事情で控えに甘んじているが、本来はそんな選手じゃない。けどあの人は、いつだって真剣に打席に臨む」

 彼の打者がバッターボックスに入る前から、大音量の応援歌がスタンドを揺らしている。勇ましい歌詞を勇壮なるメロディに乗せて、選手を鼓舞する。和那は直弥に寄り添いながら、その選手から目を離さなかった。

 バッティングフォームはかなり独特だが、打撃理論にかなった構えだった。打席での雰囲気も圧巻で、ルーキーの大澤は威圧されているように見える。いつもの豪快な投球フォームが、今はとても小さく見える。そうして投じられたボールは、右中間を痛烈に破られた。未だ衰えを知らないサヨナラタイムリーツーベースヒット。セイラーズ対ブルーレイヴの試合は、二対一のサヨナラという形で、セイラーズに軍配が上がったのだった。


※※※


 試合終了後、スタンド内は帰る客でごった返していた。なかなかこれでは出るのも難しいと感じた直弥は、しばらく自由行動にして、ほとぼりが冷めた頃に球場を出ることに決めた。最後までベンチに残っていたのは、二条要と四谷冴子の真面目組だった。

「ここなんですけど、あの展開はどうつけたらよかったんでしょう?」

「あそこは難しいプレーだったわね。その場合は……」

 勉強熱心なのはいいことだが、二人は観戦を心から楽しめたかどうか不安が残る。それとなく直弥が感想を求めると、要と冴子は思いのほか明るい笑顔を浮かべてこう言った。

『すごく楽しかったです!』

 まだ細部まで詰めるということだったので、直弥はスタンドの中に足を運んだ。流れていく人波から外れたところに、静音、未来、明穂、円、奈月が立っていた。

「今日の試合、すごくおもしろかったね。最後はすごい盛り上がりだった!」

「サヨナラゲームだからね~。あそこで代打がバシッと決まるとは、恐れ入ったよ」

 奈月がはしゃぐ横で、静音も愉快そうだ。明穂は興味なさそうに装っているが、彼女なりに思うところはあったらしい。

「サヨナラで終わったのもそうだけど、一失点で抑えた投手陣もなかなかだったんじゃないの? つくづく野球は投手力なんだ、って思い知らされたわ」

「ウチの投手はどうだろうね~。ま、わたしも含めてだけど」

「三人ともすごいと思うよ。だって、この前の試合だってがんばってたもの」

 未来はいつも通りだが、円はいつになく興奮しているように見える。とそこへ、トイレから戻ってきたらしいせつなと凪沙、それと理沙と和那がやって来た。

「打たれちゃったけど、相手チームの最後のピッチャーもすごかったね。ナギーが高嶺さんを目指すんなら、あたしはあの人を目指そうかな!」

「何バカなことを言ってるの。大澤投手とあなたとでは、天と地ほどの違いがあるわ。悪いことは言わないから、やめておきなさい」

 さっそく影響を受けたらしいせつなが、大澤投手のフォームを真似てみせる。一塁側スタンドから見ていただけなのに、そのフォームは瓜二つだった。凪沙は渋い顔をしているが、腕を慣らす仕草をするあたり、今すぐにでも投げたい気分でいっぱいなのだろう。

「野島君、そろそろいいんじゃないかしら? あまり遅くなっても、親御さんが心配しちゃうわ」

「そうですね。それじゃみんな、ぼちぼち行こうか」

 要と冴子が戻ってきたところで、理沙が声を掛ける。直弥もそれに同調し、みんなも元気な返事でそれに応えた。ぞろぞろと歩き出し、直弥は最後尾につく。と、和那がさり気なく隣に並んできた。

「野島先生。今日の試合、本当にありがとうございました」

「少しは楽しんでもらえたかな?」

「はい、とても! いい刺激をもらえました」

 そう答える和那の横顔は、明るく輝いていた。


※※※


 帰りの車中も、乗り合わせたメンバーは同じである。違うのは、行きがあんなに騒がしかったのに対して、少しも走らないうちに静かになってしまったということだ。少女達は皆、心地よい寝息を立てていた。

「あれだけはしゃぎ回ってれば、疲れもするよな。こういう静かなのも、時にはいいだろう」

 夜の湾岸道路を走る。時間が遅いので、走っている車の数はまばらだ。後ろからついてくる理沙の車の中も、同じ状況であるに違いない。運転しながら、ハンドルを小気味よく指で叩いた時だった。

「……ん」

「あ、悪い。起こしちゃったか」

 助手席から聞こえてきた声に、直弥はすまなそうな顔をした。見ると、和那が目を覚ましたところだった。

「寝てていいぞ。どうせ、あと一時間は退屈なだけなんだから」

「いえ、起きてます。先生が運転してくれているのに眠ってしまって、すみません」

 と、殊勝なことを口にする和那だが、中学一年生にしては色っぽすぎる少女の瞳はとろんとしている。直弥は軽く笑うと、後ろの席を親指で刺してみせた。

「心配しなくても、他の連中はとっくに夢の中だ。遠慮なんかする必要ないぞ」

「遠慮なんかしてません。私がそうしたいんです。それとも、私が起きていたら迷惑ですか?」

「迷惑なわけないけど、いいのか?」

「はい。まだまだたくさんお話ししたいので」

 微笑む和那に、直弥は苦笑を返した。いつもはおとなしいくせに、やたらと積極的な少女におかしさを感じていた。

 そのまま、直弥と和那は談笑を続けた。部活のことにかぎらず、色々なことを互いに話し合った。不思議なことに、二人ともごく自然にプライベートなことも話していたのである。心が落ち着くような感覚に、教師と生徒は安堵感を感じるほどであった。

「……プロ野球選手の試合を見て、思いました。私もあの舞台に立ちたい、お客さんの声援を一身に浴びて、全力プレーをしたいって」

「そうか。……三倉ならできるさ。俺と違って、お前は才能に満ちあふれている。絶対に成功するよ」

 少女の熱い思いを応援するかのように、直弥は言葉を紡いだ。その中には、多少の羨望も混じっている。自分ができなかったことを、この少女は可能にしてしまうかもしれない。そのこと自体は嬉しいが、やはりまだ野球をあきらめきれていないということか。

 直弥が沈鬱に考えた時、和那の声が囁くように聞こえてきた。

「私が野球をしたいと思ったのは、憧れの人がいたからです。その人はいつも一生懸命で、どんな時でも笑って、全力でがんばっていました。私はその姿に惹かれて、いつかその人と一緒に野球をしたいと思って……」

 横顔に、和那の視線を感じた。

「でも、それはもう叶わない夢で。けど、新しい目標ができたんです。その人の夢のお手伝いをする。とても楽しくて、とても素晴らしい仲間達と一緒に、楽しく野球をする。それが私の夢になりました。夢は叶うんじゃなく、叶えるもの。だから私は、その人の夢が叶うように、全力で……」

 そこから先は、聞こえなかった。赤信号で車を停める。直弥は思い詰めたような顔で、助手席の和那を見やった。少女は、再び夢の世界の虜となって、安らかな寝息をたてていた。

「……俺は、お前が思っていたような奴じゃなかったんだよ。俺はいつだって自分のことばかりで、アイツのことを考えてやれなかった。今だってそうだ。一ツ橋にアイツの面影を見て、せめてもの贖罪をしようとしてるだけの、つまらない男さ」

 直弥は迷ったが、左手を和那の頭にのばした。さらさらとした髪の毛を、ぽんぽんと撫でる。直弥の顔には、淡い笑みが浮かんでいた。

「俺の気持ちを変えたのはお前だよ。お前が俺の前に現れて、考えが変わった。一ツ橋と三倉、お前達の成長を見ていたい。どこまで羽ばたいていくのか、その手伝いをしてやりたいと思うようになった」

 青信号になって、車を発進させる。直弥の本音は誰にも聞かれることがなかった。一ツ橋せつなも、三倉和那もすっかり寝入ってしまっていた。直弥が期待をかける二人の少女は自分と違い、飛翔する翼を宿している。かけがえのない親友、坂口大介のように。

「だからこれからもよろしくな。みんなの夢、俺が預かるよ」

 試合観戦は、少女達の意識改革のためにと企画したものだった。が、結局のところ、自分が一番意識を変えさせられたと、直弥は笑った。苦笑ではない、納得のいく笑みがそこにはあるのだった。

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