第六話『最後まで楽しく』
①
仲間達の熱い思いで自分を取り戻した一ツ橋せつなは、少しずつ自分の姿に返りつつあった。真剣な表情を彩る微かな笑み。それは挑戦者としての不敵さを感じさせるものだった。
(あたしはかなちゃんを信じて投げる。後ろで守ってくれてるみんなを信頼して投げる。ベンチで見守ってくれてるせんせー達、ナギーの期待を受けて投げる……!)
大きく振りかぶって投球を始める。さっきまでとは違い、体がとても軽く、意のままに動かせる感覚。遠く感じた打者までの距離も、今ではとても近く見える。手を伸ばせば届いてしまいそうな視界に、せつなは興奮した。
(なによりあたしは、あたし自身を信じて投げるッ!)
右腕をムチのようにしならせ、魂を込めたボールを投げこむ。その一連の投球モーションに、ベンチで見守っていた直弥は組んでいた腕をほどき、一歩前に足を踏み出した。
「それだ……! 俺はそれが見たかったんだ……!」
直弥の感嘆のうめきは、突如沸き起こった歓声によってかき消された。せつなが投げた球が、相手打者の豪快な空振りを誘ったからである。あの時もそうだった。夏の暑い日、失意の底に沈んでいた自分をたくし上げてくれたもの。マウンドで躍動する一ツ橋せつなは、坂口大介の再来であった。
せつなの球は決して速くない。筋力トレーニングもさることながら、全力で投げる術をまだ知らないから、対戦する者は非常に遅く感じることだろう。だが、さっきまでつるべ打ちを食らっていた投手とは思えないほどの、自然かつ豪快なフォームでボールは放たれる。
「ちっきしょう! なんであんな球を打てないんだよ!?」
空振り三振でベンチに戻る少年は悔しがりながらも、奇妙な違和感を目の当たりにして、薄気味悪い気分だった。ジャストタイミングで振りにいったのに、その時にはもう手元にまで食いこんでくるのだ。
「ナイスピッチング、せつな! その調子!」
「うん! みんな、ワンナウトー!」
『おー!』
一アウトをとって、ナインの気持ちもだいぶ晴れてきたようだ。声が出て、活気があふれてくる。こうなってくると、投手の気分は否応なしに盛り上がる、せつなは相手打者が打席に入るのを待ちながら、早く投げたくてウズウズしていた。
「タイミングをずらされているな」
全く手も足も出なくなった自軍の選手を見つめながら、菅原は呻いた。横から見ていると、そのカラクリは手に取るようにわかる。しかし、打席で相対する打者には非常にわかりづらい。秦野も感心したように溜息をつくことしかできなかった。
「あの一ツ橋せつなという投手、彼女は長身で、非常に柔軟性に優れた体をしている。そこにきてあの手足の長さだ。ステップ幅は、中学生レベルをはるかに超越している。マウンドからホームベースまでの距離が、あれでだいぶ縮められてしまっている」
ただ体が柔らかいだけでは、そんな芸当はできない。それを支えるには、強靱な下半身をもってしなければならない。女子野球部は、野球の練習を始めるまで、とにかく走りこんでいたという。それがきっちりとした土台になって、彼女たちを支えていたのだ。
「極めつけは、ボールをリリースする位置だ。あれだけ踏みこんでさらに前の方で放している。奥行きを使った、いわば3D投法とでも言おうか」
興奮しているのか、いつになく菅原の口数が多い。秦野も自分が感じたことを口にした。
「実際に打席に立っていないから何とも言えませんが、ボールの軌道もおかしいんじゃないでしょうか? ことごとくボールの下を振っているような気が……」
「むう……。野島君、君はとんでもない逸材をみつけたのかもしれないな」
ひとりが内野ゴロの間に一塁を走り抜け、ツーアウト一塁という状況で、九番の戸川が打席に立つ。相手は同じクラスで、脳天気なお騒がせキャラの一ツ橋せつな。女子野球だなんだと騒いでばかりで、真面目な態度が微塵も感じられなかった少女。
「そのはずだったのに、なんでマウンドにいるアイツが、こんなに大きく見えるんだ? フザけてるとしか思えなかったアイツが……!」
セットポジションでこちらを見てくるせつなは、笑っていた。おふざけで笑っているのではない。真剣勝負を楽しんでいるのだ。戸川のバットを握る手に力が入る。こんなにも勝負心を駆り立てられるとは、想像だにしなかった。
「ランナーを気にしながら……でも、投げることに力は抜かない!」
一塁走者をしっかりと牽制しながら、投球を開始した。いわゆるクイック投法はまだできないので、足をしっかりと上げて投げる。何度も練習したステップで踏みこみ、力強く、しなやかに腕を振る。投げたボールが、要が構えた場所めがけて突き進んでいった。
それを迎え撃つ戸川だったが、スイングしたバットにボールはかすりもしなかった。投げ放たれた瞬間、捉えるイメージが出来上がっていたにも関わらずである。空振りしたあと、その事実に戸川は思わずよろめいていた。
「ボールが、浮き上がった……!?」
動揺を抑える間もなく、せつなは第二球を構えた。真剣な笑顔が戸川に威圧を与える。
「勝負、勝負!」
「お前なんかに負けてたまるか。おれは本気で……!」
二球目。やはり同じように戸川は空振りした。せつなのボールを受ける要は、ミットに収まったボールに、練習の時以上の力強さを感じていた。
(せつなは、練習より試合の方が真価を発揮するタイプなのかしら? だとしたら、本当に投手向きの性格ね)
ボールを受ける左手に走る心地よいしびれに、要は新たな確信をつかんでいた。せつなの堂々とした楽しげなピッチングに触発されたのか、他のナインも明るい表情をみせる。
「こいつら、終盤の負けてる局面で、どうしてそんな風に笑っていられるんだよ? 負けたらすべて台無しになっちまうんだぞ!?」
少女達の心理が理解できない戸川は、混乱するばかりだった。今まで勝つための野球しか知らずにプレイしてきた少年。野球漬けの日々で、野球を楽しむ余裕がなかった彼には、直弥が掲げ、せつな達が目指す『楽しい野球』の本質がわからなかったのだ。
「あたしたちは負けない! だってこんなにも野球が楽しいだもん。ひとりはみんなのために、みんなはひとりひとりに勇気と力、喜びと楽しさを与えるために!」
せつなの想いがこめられた三球目。渦巻くボールが空を駆ける。それはそのまま失速することなく、要のミットに吸い込まれた。気迫負けした戸川は、三球連続空振りして、三振にきってとられた。
スリーアウトチェンジ。他のナインが駆け足でベンチに戻るのとは対照的に、せつなは投げ終えたポーズのまま、そこから動こうとしなかった。汗を流した顔には、凄みのある笑みが浮かんでいる。せつなは返球を待っていたのだ。
「もっと、もっと投げたい! こんなに楽しい気持ちは初めてだもん! もっと投げたいよ!」
一ツ橋せつなに、投手としての本能が目覚めた瞬間である。投げ終えたあとの余韻は、何にも勝る快感だった。
※※※
六回裏のシャイニングガールズの攻撃。マウンドには戸川が変わらず上がり、五番の八幡未来を迎える。ここまでいい当たりを放つものの、ことごとく相手の好守に出塁を阻まれた未来は、表には出さないものの、内心では熱く燃えていた。
「ひとりだけ乗り遅れるのはイヤだ。わたしが塁に出ないと、逆転なんてとても望めないんだし」
未来の気迫が戸川の投球を上回った。引っ張った打球は遊撃手の頭を越えて、センター前に転がる痛烈なセンター前ヒット。一塁側ベンチが盛り上がる中、六番の七城明穂が左打席に立つ。
「悔しいけど、アタシは三倉とは違う。なら、アタシにできることを精いっぱいやってやるわよ」
直弥から出されたサインは、送りバント。点差は二点だが、まずは一点を返していこうという作戦。相手も当然それを警戒して、一塁手と三塁手がそれぞれ前に出てくる。
「止められるものなら、止めてみなさいよ!」
戸川が投じた速い球に合わせて、三塁側にバントを転がす。少し当たりが強かったが、走者の未来のスタートがよかったこともあって、見事送りバントを成功させた。
「ナイスバント! やったね、明穂ちゃん!」
「ちょっと奈月、くっつかないでよ!」
自分の務めをはたして、やや興奮気味にベンチに帰ってきた明穂を迎えたのは、九重奈月をはじめとした手荒い祝福だった。抱きついてきた奈月を困惑気味に引きはがそうとするも、気分は悪くない明穂であった。
「二人が作ってくれたチャンス、無駄にするわけにはいかないわね」
七番の二条要は、この状況においても冷静だった。相手チームの守備隊形を確認し、投手の戸川にも目を向ける。
「だいぶ疲労が溜まっているようね。ここまで投げ続けていれば無理もないわ」
要の推察通り、戸川には明らかな疲れが見えていた。強気な性格でなんとか持ちこたえているものの、肝心の投球を支えることはできないだろう。要の狙いは、相手が意図しない抜けダマだった。
走者を二塁に背負っての投球。もっとも気をつかう場面で、それは起こった。初球のカーブは抜けて、たいして変化もしないまま真ん中に流れていく。要は冷静にそれを見極め、逆らわずにそのまま逆方向に打ち返した。
「まずい!?」
「バックホームだ!」
一二塁間をきれいに破った打球を、センター方向に走りながら右翼手が捕球した。そのまま中継を通さず、本塁に向かって返球する。三塁を蹴った未来が本塁に突入する。本塁上で捕手の高崎が待ち構え、返ってきたボールをミットに収める。
タイミングは、ほんのわずかな差だった。スライディングした未来の足先が、先に本塁に触れたのを見て、審判は腕を横に大きく広げた。
「セーフ!」
その瞬間、球場は歓声に包まれる。ヒットを打った要も、珍しく小さなガッツポーズを作っている。ベンチに帰ってきた未来は、仲間達から歓待を受けた。理沙などは感動のあまり、目に涙を浮かべていた。
「まずは一点。最後まであきらめない気持ちで戦っていこう!」
『はいっ!』
しかし直弥は、周りの熱気に動かされることがなかった。自分も選手だったら、みんなと同じようにはしゃいでいただろう。だが彼はチームの監督だ。監督たるもの、みだりに感情を露わにしてはいけない。そう自分に言い聞かせていたのだった。
八番の九重奈月は、走者の要を二塁に進めるものの、アウトに仕留められた。ツーアウトランナー二塁の場面で、九番のせつなに打席が回ってくる。
「よーし、がんばるぞ!」
と、自分に気合を入れるせつなだったが、バッティングはてんでダメなのが彼女だった。投手練習だけで手いっぱいだったので、これはもうどうしようもない。成果をまったく期待できなかったので、直弥は指示を出して、せつなを打席の一番端に立たせた。
「少しもったいないが、しかたがない。下手に打って、ピッチングに影響が出たりしたら、そっちの方が問題だ」
せつなはあまり意味がわかっていないようだったが、素直に指示に従った。
(アウトをくれるっていうなら、遠慮なくもらっておくか。最終回が一番から始まるけど、それはもうどうしようもないしな)
高崎は相手チームに打つ気がないのを見てとると、真ん中にミットを構えた。戸川は是非もなく頷き、ストレートだけを三球、真ん中に投げこんだ。
「えーい!」
三球目をなぜか大きなスイングで空振りするせつな。あまりにもセンスのないスイングに、自軍ベンチからは溜息が、敵軍ベンチからは失笑が漏れ聞こえた。
六回の攻防が終わり、いよいよ最終回の七回が始まる。スコアは五対四で選抜チームの一点リード。勝利の女神はどちらに微笑むのか、それは試合が終わるまでわからない謎であった。
②
七回の表のマウンドに立つのは、もちろんせつなである。待ちに待った瞬間に、今にも飛び上がりそうなほどに喜んでいる。
「せつな、あまり浮つかないでよ。六回みたいな展開はやめてよね」
「わかってる! 心配性だなあ、かなちゃんは」
ひらひらと手を振ってから、せつなは投球練習を開始する。フォームのバランスもいいし、ボールにもバラつきはない。この出来ならば、要が心配するような場面は訪れないだろう。
「いい球がきてるわよ。早く三人で終わらせて、裏の攻撃にいい流れで繋げるわよ」
「りょーかい! まかせといてよ!」
最後に鋭いボールを投げて、要は二塁に送球する。内野でボール回しを行って、一塁手の和那がせつなにボールを託そうとする。それに先んじて、せつなはにっこりと和那に笑いかけた。
「和那ちゃん! 野球、楽しんでる?」
「えっ……。うん、楽しいよ。みんなでプレイする野球は、本当に楽しい」
「そっか。あたしもだよ! 最後まで、みんなと一緒にがんばろーね!」
和那からボールを受け取り、和那はくるりと後ろに振り返った。バックには共にがんばってきた、楽しんできた仲間達がいる。かけがえのない友だち。彼女たちに向かって、せつなは今まで過ごしてきた中で、一番大きな声を出した。
「みんなー! いつもいつもありがとー! あたしがんばるから、みんなもいっぱいがんばってー!」
それに対し、みんなは元気良く手を上げながら応えてくれた。野球経験のある子達は、手取り足取り野球を教えてくれた。未経験者の子達は、一日でも早く上達しようと、ひねもすがんばった。そんな少女達を、二人の顧問の先生は優しくも温かく見守ってくれた。
自分達に関わってくれたすべての人達にありがとうと言いたかった。その気持ちを表すには、全力でプレイするしかない。せつなは大きく深呼吸をすると、高ぶる気持ちはそのままに、対戦する打者に向き直った。
そこからのせつなのピッチングは圧巻だった。投げるごとに球威を増していくストレート。変化球を投げないのに、打者のバットはことごとく空を切る。監督の菅原をしても、何の対抗策も見つからない展開である。
「そうだ、その調子だ。お前のピッチングを、もっともっと見せてくれ」
のびのびと投げるせつなを、直弥は誇らしげに見つめていた。自分とは持って生まれたものが違う、天性の才能をこれでもかというぐらいに見せつけてくれる少女。初めてせつなの投球モーションを見たあの日から、ずっと追い求めたものがそこにはあった。
『僕は直弥とは違うから。だから僕は、直弥のことを応援する。君のがんばりの手伝いをするよ』
親友の言葉を思い出して、直弥は胸の奥がちくりと痛んだ。その言葉を真に受けて、自分は親友の才能を影に潜ませてしまった。もし彼の才能に気づけていたのなら、今とは違う現在があったに違いない。
坂口大介はチームを代表する投手となり、夏の全国大会優勝投手になっていたかもしれない。その結果、国内プロ野球球団の誘いがあったかもしれない。そして、リーグのみならず国を代表する投手として活躍していたかもしれない。
「罪滅ぼしなんて、そんな偉そうなことは考えていない。けど、これだけは言える。俺は、お前と同じ雰囲気をまとわせた少女が、どこまで羽ばたいていくのか、見届けたいんだ」
それが、直弥が女子野球部の顧問を引き受けた理由だった。最初は、こんなに上手くいくとは思っていなかった。だが少女達は自分のちっぽけな予想をはるかに越えたがんばりを見せてくれた。多くの感動を与えてくれた。
「がんばれ。みんながんばれ。……今しか輝けないこの瞬間を、めいっぱい楽しんでくれ」
せつなが三人目の打者を、空振りの三振に仕留めた。マウンドで躍動した少女の元に、ナインが集まる。弾ける笑顔、陽の光で光る汗の珠。輝かしい青春の一ページがそこにはあった。
「さあ、泣いても笑ってもこれが最後の攻撃よ! 打順は一番からだし、なんとしても逆転していこう!」
『おーっ!』
ベンチの前で円陣を組んで、キャプテンの要がナインを鼓舞する。少女達の士気は最高潮だ。あの冷静な明穂や和那でさえ、興奮気味である。
「あいつら、やたらと元気だよな」
「まったくだ。女ってやつは、どこからあんな元気が沸いてくるんだ」
マウンドで言葉を交わすのは戸川と高崎だ。高崎は戸川の疲労具合が気になっていた。降板を監督に打診してみたが、首を横に振られるだけで終わってしまった。
「心配すんなよ。最後まで投げきってみせる。それが、おれにできる唯一の意地の見せどころだろ」
高崎の心配を一笑に付すと、戸川は相棒を下がらせた。正直、疲れはピークに達している。こんなに試合を長く感じたのは、初めての経験だった。それと同時に、これほどの投げ応えを感じたのも初めてだった。
「内容に満足して終わるようじゃ、本当じゃない。勝って終わる。そのためなら、おれは腕がちぎれようとも投げてやる!」
左打席に立つ六原静音と対峙する。足が売りのスイッチヒッター。クラスでは飄々としていて、つかみどころのないキャラだった。それだけに、敵に回すと厄介な存在だった。
ひと息ついてから投球を始める。最後の投球と位置づけたためか、球の勢いは前回までを上回るものだった。多少コースが甘くても、静音は捉えることができない。ファウルを交えた七球目、打ち損ねた当たりは、戸川の前に転がるピッチャーゴロとなった。
「アウト!」
打った瞬間から、脇目もふらずに全力疾走をみせた静音だったが、無情にもボールは一塁に転送されてアウトを宣告された。
「ごめん、塁に出られなかった」
「ドンマイ! 四谷さん、がんばってー!」
ベンチからの声援を受けて、四谷冴子が強く頷く。右打席に立つ少女は、本当に小さな体をしている。だが頭の良さと技術力は本物で、何度も仕事をされてしまった。
「もう素人なんて思わない。こいつらは、女子野球部は、立派な野球部なんだ」
戸川の気持ちのこもった投球が、冴子を抑えこむ。唸りをあげたストレートは、冴子にバットを振らせることすら許さなかった。
「ストライク! バッターアウト!」
手も足も出ず、冴子は悔しそうに打席を後にした。その道すがら、打席に向かう和那とすれ違う。
「……私が、絶対に打つから」
ぼそりと聞こえてきた声に、冴子は立ち止まり、振り返った。そこには、バットを携えて、静かに打席に歩む和那の背中があった。
「ええ。期待してますからね、三倉さん!」
七回の裏、ツーアウトランナー無し。シャイニングガールズとしては、絶体絶命の局面に追いこまれたことになる。しかし迎える打者は、ここまでチーム随一の打力を誇る三倉和那。そして和那の集中力は、極限にまで高められていた。
『俺達二人で、夢を叶えようぜ!』
記憶の中で、二人の少年はそう言って笑い合っていた。自分もその中に入りたかった。それは絶対にかなわない夢だと思っていた。
「……夢はひとつだけじゃない。私の夢は、今ここにいる仲間達と一緒に、楽しく野球をすること……!」
和那がバットを構えた瞬間、捕手の高崎の背筋に悪寒が走った。というより、本能が危険を悟ったというべきか。まともに勝負をしたら、確実にやられる。ごくりと喉を鳴らした高崎は、助けを求めるように自軍ベンチを見やった。
目があった菅原は、何も言うことなく、静かに頷いた。それの意味するところを察した高崎は、救われたような思いで戸川にサインを送った。
「……! しかたないか」
「変な意地を張るのはやめようぜ。おれたちは引き立て役になんかなりたくないぜ」
彼らが選択した作戦は、敬遠だった。立ち上がった高崎に、戸川は割り切った表情でボールを大きく外して投げた。
「なにあれ!? せんせー、ちょっとなんですかあれ! あんな球、打てるわけないじゃん!」
頬をぱんぱんに膨らませて憤慨するせつなに、直弥は努めて冷静に説明する。
「あれも立派な作戦だ。三倉はうちで一番の打者だからな。むしろ敬遠されることを誇るべきだ。そして……」
まだ納得がいかないせつなの頭をぽんぽんと撫でながら、直弥はかちこちに固まってしまっている四番の五木田円に歩み寄った。
「五木田、ちょっといいか?」
「はひぃ!? な、なんですか、先生」
円の顔色は、真っ青を通り越して真っ白だった。ここまでの成績は、すべて三振。守備では失策も記録している。この試合でいいところがひとつもないのが、彼女だった。
「どうして三倉が歩かされたか、お前には理由がわかるよな?」
「はい……。わたしなら簡単に抑えられるからだと思います」
体の大きさの割に、円の声は消え入るように小さい。この大きな少女の欠点は、あまりにも自身が無さすぎる性格だった。それさえ解消できれば、力もあるし性格も優しい、チームを引っ張っていける存在なのに。
「よくわかっているな。だが、そう思われて五木田は悔しくないのか?」
直弥の優しい声に、円は声を詰まらせた。
「……悔しいです」
やっとの思いで絞りだした声には、泣き声が混じっていた。直弥は小さくなっている彼女の肩を、力強くつかんだ。突然のことに、円はびっくりして顔を上げた。
「なら、その悔しさをこの打席にぶつけてこい。練習通りにやれれば、お前なら絶対に大丈夫だ。みんなもそれを一番待っているんだぞ」
そう言って、直弥はベンチの方を指し示した。
「円、がんばって!」
「まーちゃん、打てー!」
「五木田、豪快な一発を見せてよね!」
「いつも一生懸命な五木田さんならやれるはずです!」
要が、せつなが、明穂が、冴子が応援してくれている。他のみんなも同じだ。そこにあったのは、これまでいつも見てきた光景だった。厳しくてしんどい練習ばかりだったけど、みんながいたから続けられた。ダイエットが目的で入った自分なのに、みんなは普通に仲間として扱ってくれた。
「さあ、いってこい。楽しい野球、忘れるなよ」
最後に、背中を叩いて送り出してやる直弥。たたらを踏んでしまった円だが、体からは固さが取れていた。振り返った笑顔もまた、いつも通りの円のものだった。
「はい! いってきます、先生!」
ツーアウト、ランナー一塁という場面で、四番の円が右打席に立つ。この時点で、バッテリーはほとんど勝利を確信していた。
(厄介な三番との勝負を避けられた。で、次は安パイの四番と)
(正直、デカさだけが取り柄だろ。お飾りの四番ほど笑えるものはないぜ)
侮るわけではないが、円が与しやすい相手なのは確かだ。ストレートにもカーブにもタイミングが合わず、スイングも大きいだけで振りは鈍い。当たる気配を微塵も感じさせない大型扇風機。そうした認識がなければ、むざむざと逆転のランナーとなる和那を歩かせる選択などしなかった。
「ここが今日の試合の山場だな……」
直弥の呟きは、熱気あふれるグラウンドにまで聞こえることはなかった。シャイニングガールズの集大成が、今ここにお披露目されようとしている。
③
自分がその試合の最後の打者になるかもしれない。それは野球をプレイする選手にとって、最も緊張する瞬間だ。打ち取られてしまえば、目の前で歓喜に揺れる相手チームを見る羽目になる。そんなのは悔しいし、できることなら避けたい道だ。
「だが、その逆もまたあり得る。特に今回のような状況ならな」
直弥が五木田円に期待しているものは、もちろんそのパワーを源とした長打力だ。実際、練習のフリー打撃などでは、チーム一の飛距離を誇っている。フェンスを越えた打球もある。
「実力は備わっているんだ。肝心なのは、それを活かす精神状態を保てるかどうか。……さっきので、少しでもリラックスできていればいいんだが」
打席での構えを見るかぎりでは、円はだいぶ落ち着いているように見える。もちろん、本人は緊張で押し潰されそうになっているのだろうが、ここはがんばってほしいところだった。練習試合も大詰め。勝って終わるのと負けて終わるのとでは、全然意味合いが違ってくるのだから。
円の状態を確認しながら、高崎がサインを送る。
(くれぐれもランナーは走らせてくれるなよ。万が一ってこともあるからな)
戸川もそのつもりだった。投球の前に牽制球を挟み、和那のスタートを阻む。和那は足は遅いわけではないが、盗塁できるほどの足はない。よほどのことがないかぎり、二塁を盗むことはないだろう。
それでも用心に越したことはない。戸川は何度もランナーを目で牽制してから、円に対して一球目を投じた。
外角への速いストレート。高さはやや甘めだったが、円のスイングは空を切った。
「ああ……やっぱり当たらない」
空振りしたことで、円の表情はたちまちのうちに曇ってしまう。やはり自分ではダメなのではないか、そう思った矢先、仲間達の熱い声援が少女を後押ししてくれた。
「まだまだ! あきらめないで!」
「いいスイングしてるよ! ボールをよく見て!」
「じっくり落ち着いていこうよ!」
その声が、沈みそうになった円の心を押し上げてくれた。
「わたしがあきらめちゃダメなんだ。あんなに応援してくれてるみんなのためにも、なんとしても打たないと」
その時、この試合で初めて、円の表情に真剣さが宿った。それまではどこかおどおどとしていて、試合に集中できていない感じだったのだが、今やそんな気配は全く感じられない。円の変化が、高崎にはなんとなく気になった。
(このデカ女、急に落ちつきやがったな。……なんか嫌な感じだぜ)
カウントはワンストライクだが、高崎はここであえて高めの釣りダマを要求した。戸川は一瞬、顔をしかめたが、サインに首を振る。セットポジションからの二球目、指図通りの高めのストレート。反応して振りにいった円だが、途中でスイングを止めた。
「ボール!」
円はほっと安堵の息をついた。ハーフスイングのチェックを塁審に要求しながらも、高崎は腹の底にわだかまる重い感覚が不快だった。
(見てきやがった。これはつまり、ボールが見えてるってことだろ)
(もう一球試してみるか?)
バッテリーの間で確認しあい、三球目は打ち気を誘うようなカーブを投じた。しかしこれも、円はしっかりと見極めた。外角低めに外れてボール。これでツーボール、ワンストライクとなった。
(雲行きがあやしくなってきたな。とにかく、クサいところを突いていこう)
(高崎のヤツ、少し警戒しすぎなんじゃないのか?)
高崎が構えたのは外角低め。戸川は疑問を抱きながら、四球目を投げた。円は手が出ない。しかし、審判のコールはバッテリーが期待したものではなかった。
「ボール!」
戸川に失意の表情が浮かぶ。高崎は何も言えず、冷や汗が流れるのを感じながらボールを返した。カウントはスリーボール、ワンストライク。ここで四球を出してしまったら、五番の八幡未来に回ってしまう。さっきはいい当たりを打たれているため、どうしても円で終わらせたい。そんな思いがバッテリーを支配していた。
(危険だけど、ここは勝負にいくしかないな)
高崎は、まず守備陣に指示を出した。内外野ともに定位置より後ろに下がらせる。これでナインの緊張がいっそう深まった。打たせてとろうというのだ。
(ど真ん中に力いっぱい通す。打てるものなら打ってみろってことか)
プレートから足を外し、ロージンバッグを丹念に手にまぶす。その間に呼吸も整え、次なる一球に全力をこめる。円もバッターボックスから一度離れ、素振りをした。バットの感触を確認しつつ、ベンチを見やる。直弥はそんな円に、一度だけゆっくりと頷いてみせた。
(さ、ここだ)
(そこしかないだろ。わかってるよ)
とてつもない緊張感が戸川を襲う。しかしそれは、打つ方の円も同じのはずだ。そう思って、戸川は威圧するように円を睨んだが、少女に気負った様子は全然見られなかった。(なんだよアイツ。この場面で笑ってやがる……)
この試合は理解しがたいことばかりが起こる。戸川の疲労は、そうした相手の姿勢によるものもあった。精神的な疲労というやつだ。そしてそれは、確実に戸川を蝕んでいたのである。
五球目。戸川はそれまで行っていたクイック投法ではなく、しっかりと足を上げていた。それを見てとった和那は走ろうか迷ったが、すぐにその場に留まった。円の集中力に賭けたのである。
「これで終わりだ!」
気合とともに放たれた戸川のストレート。間違いなく、今日一番のボールだった。力と魂が調和した、威力のあるボール。しかし、投げ終えた後、戸川はいつもと違う感覚に襲われていた。いつもなら安定するはずの下半身が、ぐらりと傾いてしまったのだ。
一方の円は、このうえなくボールが見えていた。これまでは速くてボールの形すらわからなかったのだが、今はボールの縫い目どころか、大きくさえ見える。
「やった! これならわたしにも打てる!」
待ちに待った瞬間だが、こういう時こそ落ち着かなければならない。バッティングの基本は下半身。直弥が常日頃から口にしている言葉だ。円はその教え通りに、足を上げて軸足に体重をのせた。
「肩の力を抜いて、リラックス。体が突っこまないように、バットは内側から出す……!」
教えられた内容を反芻しながら、円はスイングを開始した。自分でも驚くほどの滑らかなスイングだった。脇をしめて、体の内側からバットのヘッドが出てくる。体が弓なりにしなる形で捉えた打球は、高々と空に舞い上がった。
豪快なスイングから生み出された強烈な打球。打たれた戸川は、顔色を変えて打球の方向を見やる。打った円は、あまりにも完璧な手応えに、動くことができなかった。
ぐんぐん伸びていく打球は、それを追う左翼手を嘲笑うかのようであった。どこまでもどこまでも伸びていった打球は、ついにフェンスを越えた。その行方を見届けた三塁塁審が、頭の上で腕をぐるぐると回した。
「ほ……ほ、ほ……!?」
円の手からバットが落ちる。震える口元からこぼれる声は、言葉を為していない。がっくりとうなだれる高崎の向こうで、主審が目を細めながら言った。
「そう、ホームランだよ。だけど、ちゃんと塁を回らないことにはね」
「は、はい!」
言われてようやく、円はおたおたと走り出した。まるで自分の体が他人の者であるかのようで、上手く走ることができない。それに自分がホームランを打ったなどと、どうして信じることができようか。
『……~!!』
そんな円を現実に引き戻してくれたのは、やはり仲間達の声だった。ベンチから聞こえてくるのは、歓声というより叫び声に近い。見ると、喜びがあふれんばかりで、中には泣いている子もいた。
逆転サヨナラツーランホームラン。それがこの試合の決着だった。打たれた戸川は、放心状態で走るランナーを見やったが、不思議なほど落ち着いていた。負けた事実が重くのしかかっているにも関わらず、どこかさばさばとした気分の自分がいた。
「完璧に負けたな、こりゃ」
苦笑いが戸川に顔に浮かぶ。試合に負けて笑うなど、初めてのことだった。歓声で揺れる球場の一番高いところで、少女達が本塁で喜び合うのを見届ける。悪くない、本当に悪くない気分だった。
「……見事でしたね、彼女たちは」
秦野の呟きに、菅原もゆっくりと頷いた。
「ああ。もちろん戸川や、選抜チームの一年生たちもな。この試合、みんなががんばった。いい試合だった」
本塁近くでは、ホームベースを踏んだ円を取り囲んで、少女達が喜びを爆発させている。全員が心の底から喜び、嬉し涙を流している。副顧問の中野理沙も堪えきれず、少女達に混じっておいおいと泣いている。直弥はそんな少女達を温かく見守りながら、三塁側ベンチから出てきた菅原に頭を下げた。これだけの貴重な経験をさせてもらった相手に対して、最大限の敬意を表したのだ。
「六対五をもって、桜爛女子シャイニングガールズの勝ちとする。両チーム、敬礼!」
『ありがとうございましたっ!』
最後に両チームが向かい合って挨拶をした。戸川はぶすくれた顔をしながらも、せつなに歩み寄った。
「次やる時は、おれ達が勝つ番だからな」
「うん! 今度また試合しようね!」
せつなは戸川の手を取ると、満面の笑顔でぎゅっと握りしめた。それだけで戸川の顔は一瞬にして赤くなってしまう。せつなは普通にしていればかわいい女の子なので、男子が照れてしまうのも無理はなかった。
「あ、あの、私そんなにすごくなんかない……です」
せつなとは逆に、たくさんの男子に囲まれたのは、三倉和那だった。男子を凌駕するバッティングを何度も見せたのだから、注目されるのは当然である。が、和那は人付き合いが苦手という一面があるため、困惑が深くなるばかりだった。
最初は女子野球部を煙たがっていた男子野球部だったが、試合を終えてその溝は完全に埋まっていた。見に来てくれた人達も、惜しみない拍手と称賛を送ってくれる。それだけでも、この連中試合を行った甲斐があったというものだ。
「野島先生、見事な試合だったよ。よくここまで彼女たちを育てたものだ。感服したよ」
「そんな……私は何もしていません。彼女たちがすべて自分達でやったことですから」
握手を求められて、直弥はくすぐったい気持ちながら、しっかりと握り返した。
「二条達が女子野球部創設に奔走して、部員が集まったんです。練習も各自でしっかりと行って、私はそれを近くで見ていただけにすぎません」
「謙遜だろう、それは。それより聞きたいことがあるんだ。あの一ツ橋せつなのことなんだが」
菅原が聞こうとすると、直弥は笑って肩をすくめた。
「見ての通り、普通の女の子ですよ。少々扱いづらいのがたまにきずですけどね」
せつながいなければ、女子野球部は成り立たなかったかもしれない。部の中で彼女は太陽のような存在で、みんながそれに引っ張られた。それは誰にでもできることではない。今日の試合でもそれを照明してくれた。
試合が終わっても、少女達が歓喜の余韻から醒めることはなかった。ただわかっていたのは、自分達が楽しい野球を目指し、それを実践できたということだ。
私立桜爛学園中等部。この年初めて、女子野球部が生徒達の手で創設された。部員数十名による小さな部。だが、これから先、彼女たちの活動は学園内外に伝わっていくことになる。
少女達の輝きは、まだ始まったばかりである。
ひとまず、ここで第一部完となります。女子野球部設立から初めての試合まで、ですね。野球小説は初めてだったので、すべてが手探りでした。表現や展開が今ひとつだったと思います。このお話は今後も続いていきますので、じっくりと書いていきたいです。そして、今回あげたお話も、推敲に推敲を重ねて、何かしらの形にしてあげたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。いつ上がるか不明ですが、第七話以降もお楽しみいただけたらと思います。