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第五話『試練を越えて』


 メイングラウンドにある年季の入った野球場では、男子野球部が今日も汗を流している。いつもなら、声出しの一年生がやかましいぐらいに声を出しているのだが、女子野球部のグラウンドに出払っているので、比較的静かである。顧問の菅原もいないので、練習は三年生のキャプテン・須合が監督していた。

「気のない練習はするな! いつでも本気でぶち当たれ! 練習は決して裏切らない! お前らが練習を裏切ってどうする!」

 部員の練習態度が、須合の気に入らないようだ。怒声を浴びた部員達は、慌てて気を入れ直す。仁王立ちをして、それでも不満そうにメガホンを握る須合のもとに、二人の三年生レギュラーが歩み寄る。

「あんまカッカすんなよ、須合。アイツらが上の空なのも無理ないって。余所で一年生が面白そうなことやってるんだからさ」

「そうそう。おれだって、本音を言うなら見に行きてえもん。女と野球やるのって、どんな気分なんだろうな」

「秦野、岸本……。バッテリーのお前らがそんなんだから、連中の気がたるむんだ。もっと自覚を持ってだな……」

 と、須合の怒りの矛先が、やって来た二人に向き始める。やばい、と顔色を変えたところで、一年生の野球部員が必死の形相で駆けこんできた。

「せ、センパイッ! 監督から、秦野さんと岸本さんを呼んでこいって……」

「おおっと、呼ばれたからには仕方がない。岸本、行こうぜ」

「だな。監督の機嫌を損ねたら後でこえーし。そんじゃな須合。後はヨロシク」

 やって来た一年生の伝言を渡りに船とばかりに、エース秦野、その相棒の岸本はそそくさとグラウンドを後にした。その背中に、須合の怒声がこだまする。先導する一年生は、あどけない顔をびくつかせながら背後を気にしているが、当の二人はあっけらかんとしたものだ。

「監督がおれらを呼ぶってことは、戦況は芳しくないってことかな?」

「そうじゃねえの? 一年生がだらしないのか、それとも女子野球部が思っていた以上にやるのか、どっちだろうな」

 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。好戦的な笑みを、まぶしい太陽が鮮やかに浮かび上がらせた。


※※※


 四回の表。マウンドに上がったのは、前の回までセンターを守っていた八幡未来。その関係で、シャイニングガールズの守備位置に変更があった。中堅の未来が投手になり、投手の十成凪沙が左翼に。左翼を守っていた七城明穂が中堅手となった。

「センターか。両側がやたらと広いわね……」

 あらかじめ決められていたこととはいえ、実際にその場に立つと、守備範囲の広さに気後れする明穂だった。そんな弱気を察したのか、右翼からとことこと九重奈月がやって来た。

「七城さん、わたしもサポートするから、一緒にがんばろうね」

 相変わらずの優等生発言に、明穂は柳眉を逆立てた。

「アンタに言われなくても、私はちゃんとやるわよ。それに、私より下手で意気地のないヤツにサポートなんかされる筋合いないし」

「あ……ご、ごめんなさい」

 睨み、凄まれ、奈月は逃げるように守備位置に戻っていった。その様子を左翼から見つめていた凪沙に気づき、明穂は返す刀で舌鋒を浴びせる。

「何? 何か言いたいことでもあるの?」

「……別に。九重さんは、本気でこの試合に勝ちたいと思っている。その気持ちだけは、ちゃんと受け止めてあげてくださいね」

 それだけを言うと、凪沙は外野から内野に視線を戻した。三回を投げて、疲れもあるだろうに、そんなことはおくびにも出していない。彼女もまた特別なのだ。一塁を守る三倉和那もまた。

「私にだってできるはずよ。アンタ達が特別なわけじゃない。だってそんなの……えこひいきがすぎるじゃない!」

 空に浮かぶ太陽はまぶしい。遮るものがなければいくらでも輝きを増す。が、青空に浮かぶ雲は次第に多くなってきていた。

「打たせていくわよ! 守備しっかりね!」

 ナインに伝わるよう、大きな声を出しながら、要はマスクをかぶった。マウンドにいる未来は、いつもと変わらない様子だ。気負うことも、気後れすることもない。どんな局面でも動じない精神は頼もしいかぎりだ。

 回が始まる直前、直弥が要にだけ伝えたことがある。

『八幡の二イニングは、ナインの守備力を試す機会だ。おそらくかなり打たれるだろうが、辛抱強くリード、みんなの士気の鼓舞を頼むぞ』

 未来の球種はストレートのみ。外野手の強肩を活かして、球速は凪沙よりもある。が、球質は棒ダマに過ぎないので、打球は飛びやすい。

(とにかく、高低と内外角をうまく使っていくしかないか。コントロールも不安だし、確かにここは試練の時ね)

 要に課せられた責務は重い。だが、凪沙にずっと頼りっきりというわけにはいかない。大会などで連戦を強いられる時は、他の投手を起用せざるをえないのだから。

 迎える打者は、一番の高井。さすがに顔つきが今までとは違う。何しろ二点差を付けられて、未だにヒットが出ていないのだから。

「ここいらで突破口を開かないと。投手も変わったんだ。さっきのチビよりは打ちやすいだろ!」

 未来は要のサインに頷くと、その右腕で速球を投げこんだ。彼女の投球フォームは、典型的な野手投げである。要が構えた場所よりだいぶミットが外れたが、コースはストライク判定となった。

「コイツも速い! なんなんだよ、この女子どもは」

 高井は汗を拭うと、不本意ながらもバットを拳半個分短く持った。少しでもスイングスピードを速くして、コンパクトに振り抜こうというのだ。要はそれを見逃さず、バットを短く持った分、外角を攻めることにした。

「あまい!」

 しかし、二球目はど真ん中にいってしまった。高井のバットはものの見事にボールを打ち返した。引っ張った打球は三遊間を抜ける強いゴロ。左翼の凪沙が捕球したボールを遊撃の静音に返す。一年生選抜チームは、ようやくにしてヒットを打つことができた。

『よっしゃー!』

 途端に、三塁側ベンチが異様な盛り上がりをみせた。一塁上でガッツポーズをした高井は、どこかほっとしたような顔だった。

「未来、一人ずつアウトにしていこう。ランナーの足、気をつけて」

「うん、わかってる」

 まだヒット一本。そう思えば気が楽だが、ここから先は未知数の世界だ。未来のセットポジションは不安が残る。まず盗塁は防げないだろう。それと守備。ここにきて、未経験者の顔つきが緊張しているように見える。体に余計な力が入っている時ほど、ミスは起こるものだ。

 二番の田口は、初球からバントを敢行した。打球は三塁側に。未来も要も間に合わない。三塁手の五木田が大きな体を揺らして突っこんできたが、ボールを取るより先に、足をもつれさせて転んでしまった。

「あっ!?」

「ラッキー!」

 転んだ拍子に、五木田のグラブはボールを逆方向に弾いてしまった。未来がいち早く反応して三塁に投げようとしたが、誰もベースカバーに入っていないのでは投げようがない。これでノーアウト、ランナー一、三塁という状況になってしまった。

「タイム! 円だいじょうぶ? 怪我してない!?」

「う、うん、平気。それよりごめんね、二条さん。わたしのせいで、こんな事になっちゃって……」

 要と未来は、倒れこんだ円を抱き起こした。静音や冴子、和那も心配そうに集まってくる。

「そんなこといいのよ。それよりみんな、この試合初めてのピンチよ。何とか乗り切るためにも、守備はしっかりね」

「うん。それで守備位置はどうする? 前進守備でバックホーム?」

「でも、次の打者は三番よ。打力を考えると、前進守備は逆に危険かも」

「まだ二点差がありますし、中間守備でどうでしょう。併殺をとれればしめたものですし、外野の頭を抜かれたりしたら、それこそランナーを二人とも返してしまいますし」

 静音、和那、冴子がそれぞれの意見を口にする。それらを総括して判断するのは、要の役目だ。現在の守備能力から考えて、極端な守備を敷くのは自殺行為と思われた。

「わかったわ。冴子の案でいきましょう。まずはアウトをひとつ、確実にとっていこう」

『はい!』

 今やグラウンドの雰囲気は、相手チーム有利に傾いている。このまま勢いに乗せてしまうと、取り返しのつかない事態になってしまう。一度崩れてしまったら、この新興チームでは立て直すことはかなうまい。

「抑えてみせる。なんとしても!」

 三番の中山は、高いフライをセンター方向に打ち上げた。その飛球を追う明穂の動きは危なっかしかったが、なんとか捕球することができた。

「ボールバック!」

「届くわけないし、間に合うわけないじゃない!」

 中継に入った静音がボールを要求したが、明穂はバックホーム返球をしてしまった。それを見て、三塁ランナーだけでなく、一塁ランナーもタッチアップをはかった。静音を飛び越したボールを和那が懸命に抑えたが、進塁は防げなかった。

「よっしゃ! まずは一点!」

「これからだ! この回で一気に逆転してやろうぜ!」

 ミスが重なり、沈鬱とするシャイニングガールズとは裏腹に、選抜チームのテンションは上がる一方である。ボールを持っていた和那は、マウンドに戻ってきた未来にそれを手渡した。

「まだピンチは続く。しっかりね」

「わかってる。さすがに打たれるね」

 救いなのは、未来に落胆の色が見られないことだ。失策がこうも続くと、投げる方は腐りがちだが、そんな気配は微塵もみせない。

「あと二人残ってるわ。次は四番だし、無理に勝負することはない。外し気味にいきましょう」

 四番の杉山の打力は、前の打席でまざまざと見せつけられている。凪沙の投球術で三振を取れたが、今回はそうはいかない。下手に勝負して傷口を広げるのは避けたい。

「ボール、フォア!」

 結局、バッテリーはフォアボールを選んだ。杉山はつまらなそうにバットを置くと、一塁に向かった。四番を歩かせたとはいえ、次の五番も勝負強い打撃が売りの高崎だ。安心している場合ではない。

(がんばって、未来。相手の気迫に呑まれないで!)

 要は未来を勇気づけるように、ぐっと前面にミットを突き出した。未来もそれに向かって全力で投げこむ。ボール、ボール、ファウル、ストライク、ファウル、ファウル、ボールとなった八球目、甘く入ったボールを強く叩かれた。抜けるかと思われた打球は間一髪、静音の素晴らしい守備で遮られた。二塁に入った冴子にトスをして一アウト、そのまま一塁に転送して二アウト。辛うじて併殺で乗り切ったシャイニングガールズだった。



 四回の裏。六番の七城は、自分を奮い立たせるように打席に立った。

「失点には繋がらなかったけど、私のミスがチームに悪いムードをもたらした。せめてそれは取り返す!」

 過ぎた気負いは余計な力に繋がる。目に見えて体に力が入っている明穂を、高崎がつぶさに分析する。

(さっきの送球ミスしたヤツか。やたらと力が入ってんな。けど、空回りしてちゃ何の意味もないぜ)

 打ち気を逸らすかのように、高崎は初球からカーブの連投を指示した。明穂のバットは面白いようにくるくると回り、三球目の高めの吊りダマで呆気なく三振をさせられた。

「きゃっ!」

 勢いがつきすぎて、その場に尻もちをついてしまう明穂。こちらを見下ろす高崎の目が、明穂の屈辱をさらに強いものにした。

「どうした七城。あんなに体ががちがちじゃあ、打てるものも打てないぞ。気負っちゃダメだ」

「……はい」

 直弥の助言も、頭に血が上った明穂には届かない。そのままベンチの端まで歩くと、黙って座りこんでしまった。目をつぶると、これまでの自分のプレーが焼きついて離れない。そして、三倉和那の活躍も。

「私にだって……できる、はず!」

 七番の二条要は冷静に打席に入った。戸川の調子が上がってきているのは明白だ。未経験者組に打つのを期待するのは酷な話だろう。

「まずは塁に出ないことには、話は始まらないわね」

 戸川、高崎のバッテリーも、要に対しては慎重だった。ストライク一辺倒な投球ではなく、コーナーをつくピッチングを心がけた。結果は、五球目の内側のストレートを引っかけたショートゴロ。なかなか突破口が開けない展開に、ベンチの空気は重苦しいものになる。

「なっちゃん、がんばれー!」

 奈月の幼なじみにして親友のせつなが、あらん限りに声を張りあげて、応援する。九番の奈月は、顔を強張らせて打席に立った。

「さっきは何もできなかった。せめてバットは振ろう」

 自分がヒットを打てないのはわかりきっている。ならせめて、前向きな姿勢だけでも示しておかないと、チームメイトに対して申し訳ない。

(コイツは安パイ中の安パイだからな。とにかくストレートをど真ん中に) 

 ぽんぽんと小気味よいテンポでストレートを投げこむ戸川。初球、二球目はバットにかすりもしなかった。が、三球目はかすかにバットに当たる感触があった。スリーアウトになってベンチに帰る奈月だったが、小さな胸はどきどきと高鳴っていた。

(バットにかすった……。なら、今度は当てられるようにがんばろう。小さなことからこつこつと。野島先生が教えてくれたみたいに)

 五回の表である。前の回は、一アウト一、二塁のピンチを併殺で切り抜けた。下位打線とはいえ、油断はできない。要は守備陣に守備の指示を出して、ミットを構えた。

「五回まで進んで、二対一ですか。なかなか面白いことになってますね、監督」

「秦野か。ずいぶん来るのが遅かったな」

「コイツ、一塁側ベンチの様子をうかがってたんスよ。黄色い歓声がスゴかったですよ」

 秦野と岸本は、周囲の一年生をかき分けて、菅原が座る場所に赴いた。

「監督から見て、女子野球部はどうですか?」

「ん? いいチームだよ。向こうの監督の野島君が、よく指導している。俺なんかより、よっぽど指導者に向いてるな」

「野島先生って、高校生の時はすごい投手だったんですよね? なら女子野球じゃなく、おれらを指導してくれりゃいいのに」

 秦野達が話している間にも試合は進んでいく。六番の小石がライト前ヒット、続く七番の清水は送りバント。八番の相川は四球となって、一アウト一、二塁の好機を作りだした。そこで打席に向かうのは、九番の戸川である。

「戸川を先発で起用したんですね。何か意図でも?」

 同じ投手という立場の秦野が、菅原に聞く。

「アイツは、どうにも狭い視野で野球をやっているからな。これを機会に、目を開いてもらいたいんだ」

 そんな菅原の親心に応えようというのか、戸川の打球は冴子のグラブを弾いた。後ろには逸らさず、ランナーが溜まって満塁。しかも打順は一番に返るという、これまでにない好機である。

「おっ、満塁じゃん。三点ぐらいは追加できそうだぜ、こりゃ」

 岸本の発言は、何の裏づけもないわけではない。相手投手の力量と出来、守備力を絡めたうえでの、総合的な意見だった。さすがにチームの正捕手を務めているだけあって、その眼力は確かなものだ。

「八幡さん、ごめんなさい。私がミスしなければこんなことには」

「いいって。四谷が止めてくれなかったら、確実に一点を失ってたんだから」

 謝る冴子に、未来は笑顔で応じる。再三のピンチにも動じないというか、弱気を表に出さない彼女の姿勢には頭が下がる。要は内野陣を集めて、守備の確認を行った。

「もう終盤に差しかかっているし、試合の展開的にも失点は許されないわ。前進守備で、本塁を刺していきましょう」

 外野にもその意図を伝え、定位置より前に出させる。これはかなりの賭けになるが、四の五の言っていられる状況ではない。ベンチの直弥も頷いていた。

「みんながんばれ……がんばれ!」

 せつなは口の中で呟きながら、ベンチから身を乗り出しかけている。試合に出ていないから、ここで応援することしかできなかった。

「願ってもないチャンスだぜ」

 一番の高井が打席に入る。チャンスのせいもあってか、その顔には余裕の表情が浮かんでいる。要としては、チャンスを前に力んでくれることを願ったのだが、高井はそういう選手ではなかったようだ。

(長打は絶対に避けないと。外角低めを徹底的に)

 要のサインに未来が頷く。固唾を飲んで投球を見つめるナイン。投じた球は低めだが、外角より内側に入ってしまった。踏みこんで打った高井の打球は、選抜チーム一の当たりとなって、右中間を襲った。

「しまった!?」

 要はマスクを投げ捨て、悔しそうに歯噛みした。未来はバックホームのカバーに入るため、バックネット側に向かって走った。

 そして外野である。中堅の明穂と右翼の奈月が懸命に打球を追いかける。前に出て守っていた分、追いつくのは無理そうだ。そう判断した明穂が足を緩みかけた時、奈月がさらなる加速をみせた。

「捕る! 絶対に捕るんだ!」

「ちょっと、奈月!?」

 ランナーはすでに塁を回っている。打った高井も二塁を踏んでいる。奈月は打球から目を離さず、これまでの練習で作り上げた足で必死にボールを追いかけた。そして、思いきりボールの落下点に飛びついた。

 芝生の上を、奈月の小さな体が滑っていく。塁審がボールの行方を追っている。明穂が奈月のもとに駆け寄ると、差し出していたグラブの先に、ボールが収まっているのを確認した。

「アウト!」

「貸して、奈月!」

 審判のコールにどよめく球場。選抜チームも唖然呆然である。明穂の返球は中継の冴子のグラブにおさまり、それは興奮を抑えきれない静音にまで届けられた。彼女が二塁を踏んだことで、ランナーアウトの宣告がなされた。

「嘘だろおい。あれに追いつくのかよ……」

 岸本のうめきは、チームの思いそのものだった。ランナー全員が本塁に還ってきていて、呆けたような表情をしている。ただひとり、菅原だけが愉快そうに笑っていた。

「これがあるから、野球は面白い。目が覚めるような好プレーに遭遇すると、なおさらそう思える」

 みんなが盛り上がっている中、見事なプレーを演じた奈月と明穂は、息を弾ませながらその場に留まっていた。動こうにも、足が震えてうまく動かすことができなかったのだ。

「……七城さん、どうなったの?」

「喜びなさいよ。あんたの無謀なプレーで、チームは完璧に救われたわ」

「そっか。よかった……けどね、わたしはそれよりも嬉しいことがあるの」

 奈月の体を助け起こしながら、明穂は怪訝な顔を向ける。奈月は汚れた顔に花開いたような笑みを浮かべると、明穂に身をすり寄せた。

「七城さん、わたしのこと名前で呼んでくれたから……それがすごく嬉しい」

 その瞬間、明穂の顔は真っ赤になった。

「ば、バッカじゃないの!? 何よそんなことで……」

「こんな私でも、シャイニングガールズの一員として認めてもらえたのかなって思ったら力が抜けちゃって。ごめんね、重いでしょ?」

 奈月の体は軽い。しかしこの小さな少女が、球場全体を沸かせるビッグプレーをやってみせたのだ。明穂は自分の中にわだかまっていた黒々としたものが、急速に小さくなっていくのを感じた。まだ完全に消えることはないが、すっきりした気分が明穂に気持ちのいい笑顔を作らせた。

「……私のこと、名前で呼んでよ。そうすればおあいこなんだから」

「え? いいの?」

「いいって言ってるでしょ。同じ事を二度も言わせないで」

 わざとらしい突き放した言い方は、奈月に苦笑をしのばせた。ベンチで仲間達が自分達の帰りを待ってくれている。奈月はそっと、明穂にだけ聞こえるように言った。

「ありがとう、明穂ちゃん」

「ふん……」

 五回の表は無失点で終わった。しかし、空に浮かぶ雲はさらに多くなっていく。どちらに対してのかげりなのか、それはまだわからなかった。

「一ツ橋、ちょっと来てくれ」

 奈月に頬ずりをしていたせつなを、直弥が呼び出す。せつなはすぐに直弥の前にやってきた。

「次の回からはお前の出番だ。ベンチ前で投球練習を始めてくれ」

「はいっ! がんばります!」

 ついに回ってきた出番。せつなは飛びあがらんばかりに喜ぶと、自分のグラブを左手にはめて、早速ベンチを出た。

「二条、ボールを受けてやってくれ。一ツ橋のこと、くれぐれも頼んだぞ」

「はい」

 直弥が手渡したボールには、強い思いが込められているように感じた。要は体のプロテクター以外を身に着けると、投げたくてうずうずしているせつなに歩み寄った。

「さあ、出番よ。あなたは何も考えなくていいから、私の指示通りに投げてね」

「うん、わかった。かなちゃんの言う通りに投げるよ」

 肩慣らしのキャッチボールを始める。相変わらず、せつなが投げる球筋は、他の投手とは違っていた。現時点でのせつなの実力が、はたしてどこまで通用するのか。ここまでの試合展開からして、無敵というわけにはいくまい。

「あたしも、ナギーやみーちゃんみたいに一生懸命がんばる。がんばってるみんなに負けないぐらいにがんばる!」

 せつなは笑顔を浮かべながら、ボールを投げてくる。調子自体もいいようだ。要はボールを受けながら、五回の裏の攻撃に期待をしていた。



 奈月の好プレー直後の五回裏。シャイニングガールズは再び活気づいていた。打順は一番からで、今日二安打で二打点を上げている三倉和那にも回るということもあり、全員の顔つきが違った。

「和那。絶対に塁に出るから、またわたしをホームに返してよね」

 景気づけに明るく言う静音に、和那は無言だがしっかりと頷いた。マウンド上には、変わらず戸川が上がっている。

「この試合、戸川君が最後まで投げるのかしらね?」

「菅原先生の考えはそうなんでしょうね。それだけ期待されてるんでしょう」

 直弥の目から見ても、戸川の投手としての能力は高い。今はまだ小さいが、ゆくゆくはチームのエースにもなれる器だろう。負けん気の強さ、押されても引かない性格は、まさに投手向きだった。

「六原を塁に出すわけにはいかない」

 ここまで二失点。そのすべてに静音が関わっている。足の早さに加え、積極的な走塁姿勢は、投球への集中力を阻害する。万全の状態で和那と相対するためには、是が非でも静音を打ち取る必要があった。

(とはいえ、コイツは当てるのも上手いからな。打ち損じたところで、内野安打の可能性もあるし)

 静音は要が指摘した通り、選球眼に若干の難があるのだが、そこまではバッテリーも読み切れていなかった。慎重な投球を続け、ファウルを挟んだ九球目、痛恨の四球を出してしまった。

「和那! 約束、守ってよね」

 一塁に向かいながら、ベンチから出てきた和那に声を掛ける静音。和那は微笑を返すと、ゆっくりとネクストバッターサークルに入った。

「くそったれ。で、コイツはまた送ってくるんだろ」

「内野!」

 高崎は極端なバントシフトを敷いた。四谷冴子のバント技術は本物で、ここも当然送ってくるだろうという読みからだ。冴子はそれでもバントをするつもりだったが、直弥から送られたサインは、驚くべきものだった。

「先生、いいんですか?」

 セオリーを無視した作戦に、せつなのボールを受けていた要は、顔色を変えて直弥に向き直った。だが直弥は、涼しい顔で笑ってみせた。

「四谷だって打ちたいんじゃないか? ここまでは正攻法で来たし、たまには奇策もいいだろうさ」

「だからって、こんな重要な場面で……」     

「だからこそ、さ。現に、相手だってバントを警戒してるだろ? これは相手の裏をかくチャンスでもあるんだ」

 打席に立つ冴子は緊張していた。お世辞にも、自分のバッティングは上手いとはいえない。バントの方がまだ自信がある。だが、直弥がそれを期待している以上、それに応えなくてはならない。

「私次第で、得点できるかできないかに関わってくる。その責任は重大……!」

 相手チームの異様なプレッシャーを受けながら、冴子は集中した。戸川が投じた第一球。外角に外した球に、冴子はバントの構えをみせて引いた。判定はボール。冴子のサイン無視に見える行動だが、直弥は微動だにしない。むしろ感心したように頷くほどだった。

(インハイに速いタマ。これで手元を狂わせて、打ち上げさせよう)

(いけ!)

 中腰になった高崎のミット目がけて、ストレートを投じる。と同時に、静音が走った。それまでバントの構えをしていた冴子は、すっとバットを引いて、ヒッティングに出た。「打ち返す!」

「バスターエンドランだとぉ!?」

 冴子の引っ張った打球は、それほど強い当たりではなかった。定位置なら、余裕でサードゴロというものだ。しかし、バントシフトの上にさらに突っこんできた三塁手の杉山は、打球に反応することができなかった。入り乱れる歓声と悲鳴。レフトが内野に返球をした頃には、静音は三塁ベース上で息を弾ませていた。

『ナイスバッティング!』

 一塁ベンチはもうお祭り騒ぎである。これでノーアウト、ランナー一、三塁。この絶好のチャンスで打席に立つのは、三番の三倉和那。長身の少女が打席に向かうだけで、球場のボルテージは最高潮に達した。

「キャー! 三倉さーん!」

「打てよ三倉! おれはお前に惚れたー!」

 観客の声援も凄まじい。この試合だけで、和那のバッティングは観衆を虜にしてしまった。かくいう直弥も、その中のひとりであった。

「三倉、お前は本当にすごいよ。これからもどんどん、俺を楽しませてくれ」

 そしてマウンドには、内野手全員が集まっていた。球場のどよめきと、最大のピンチを前にして、さすがに全員の表情が固い。

「まずいな、どうする? 歩かせて、四番で勝負するか?」

「確かに。次の四番は安パイだから、それもありかもな」

「けど、おれは勝負したい。負けてばかりで、ここも逃げるなんて……おれはイヤだ」

「だからってお前、アイツを抑えられる保証でもあんのかよ」

 意見が割れて考えがまとまらないマウンド上。それを三塁側ベンチで見つめていた秦野は、打席で静かに待つ和那を見やった。

「監督。あの三番は、そんなにすごいんですか?」

「凄いなんてものじゃないな。あの打力なら、今すぐウチのレギュラーでも通用する」

「本当っすか? それほどすごいなら、見てみたいもんすね……」

 岸本の茶化したような言い方に、秦野はほくそ笑んだ。その顔で彼の意図を呼んだ岸本は、やれやれと肩をすくめる。

「監督。おれが投げてもいいですか?」

 秦野の申し出に、ベンチにいた一年生が驚愕の表情を浮かべる。だが菅原はそれを予期していたかのように、泰然としていた。

「でなけりゃ、わざわざお前らを呼んだりせんよ」

「でしょうね。さ、岸本。行くぞ」

「やれやれ、物好きだねお前も。ま、あんだけ美人の一年女子を間近で見られるんだから、それもアリか」

 秦野と岸本がベンチから出てきたところで、菅原も動いた。審判のもとに赴きながら、直弥のことを手招きで呼び寄せる。突然の事態に、その場にいる全員が困惑していた。

「三年生バッテリーを、ですか?」

「そう。このバッター限定でな。対戦が終わったら、引き続き戸川が投げる。勝手な提案で申し訳ないが、これも練習試合の醍醐味というやつでどうだろうか?」

 菅原の申し出は、直弥であっても驚きを禁じえないものだった。ベンチ前で投げているのは、まごうことなき男子野球部のエースである。球の勢い、ノビが段違いだ。正直、女子にあれを打てというのは無理難題もいいところなのだが。

 少し思案したのち、直弥は打席を外していた和那に振り返った。

「三倉。お前との対戦に、三年生を起用したいという申し出を受けた。お前はどうする?」

 直弥は、最終的な判断は当事者となる和那に委ねることにした。和那は軽く目を見張らせて、投球練習を行っている秦野を見やる。そして、答えた。

「私は構いません」

「本当にいいのか?」

「はい。誰が相手であろうと、私は打ってみせます」

 和那の決心は固かった。直弥は神妙に頷くと、菅原の申し出を受け入れた。

「悪いな、戸川。一人だけ相手させてもらうぞ」

「秦野先輩……」

「お前の気持ちもわかるけど、おれも心の高ぶりを抑えられないんだよ。あの子の実力を推し量りたい。野球をやってるヤツなら、誰しもがそう思うんじゃないか?」

 戸川は納得がいかない顔をしていたが、他ならぬ監督が決めたことに逆らうわけにはいかない。持っていたボールを秦野に預けると、ベンチに戻っていった。高崎も一緒にベンチに戻り、岸本がマスクをかぶった。

「それじゃ、守備は頼んだぞお前ら」

「は、はい」

 ある意味雲の上の先輩に言われて、一年生内野手達は恐縮しながら守備位置についた。が、その顔は驚きと緊張とでまっしろだ。それもそのはず、野球部のエースがこんな野良試合に出張ってきたのだから。

「ちょっと、直弥。本当にあれでいいの?」

「まあ、本人がいいって言ったんでね。その意思を尊重するっていうことで」

「あのね、私が言いたいのはそういうことじゃなくて……!」

 理沙が激しく直弥に言い募るのを横目に、ベンチにいる少女達は呆然とグラウンドの様子を眺めていた。

「あの人、男子野球部のすごい人みたいだよ」

「そんな人を相手にするだなんて……」

 畏怖をこめた呟き。迫力のある投球練習を目の当たりにして、和那は自分の内が熱く燃え上がるのを感じた。

(凄い投手だ。球の速さは野島先生と同じか、それ以上かもしれない)

 規定の投球練習を終えて、試合は再開した。和那はバットを握りなおして、打席に立った。捕手と投手に向かって、軽く頭を下げる。

「悪いね、部外者のおれ達が出てきちゃって」

「いえ、私は構いません」

「そうかい? なら本気でいかせてもらうから、よろしくな」

 岸本がおどけながら言う。本気で、というフレーズが和那を慄わせた。さらに和那を驚かせたのは、走者がいるにも関わらず、秦野が振りかぶったことだ。体の大きな秦野が、全力で投げこんでくる。鋭く投じられた一球は、和那の胸元をえぐるような、強烈なボールだった。

「っ!?」

「っとと。悪い悪い、ちょっと近すぎたな」

 必死に身をよじらせた和那に、岸本が軽い調子で謝ってくる、しかしその目つきは狡猾で、明らかに和那の反応をうかがうものだった。冷たい汗が流れてきて、和那はひとまずその汗を拭った。

(速くて、ボールが強い。野島先生とは違う……!)

 強く振り抜かなければ、あれは打ち返せない。その思いは、和那に重圧としてのしかかった。上半身に力が入ってしまっている。自覚はあるものの、力を抜くことなどできなかった。

(どうやら効果はあったみたいだな。次はコイツで度肝を抜いてやろう)

(了解。さて、どんな反応をするかな?)

 再び振りかぶる秦野。その隙をついて、一塁走者の冴子は走ってもよいのだが、バッテリーが放つ威圧的な雰囲気が、冴子の足をその場に縫いつけてしまっていた。

 二球目。初球に比べて球速がない。和那の体が反応して、それを捉えにかかる。ヒットにできる。和那が確信した瞬間、それは起こった。

「ストライーク!」

 空振りした和那は、信じられない思いだった。

(ボールが、消えた……!?)

 慌ててボールが収まったところを見る。岸本のミットはインコースの膝元にあった。コースは真ん中だったはずなのに、ここまで鋭く変化したということなのか。

「インローへのスライダーか。その前に高めを突かれているから、三倉の目には消えたように映っているんだろうな」

 和那の空振りのしかたから、直弥はその球種を見破っていた。何より、かつての自分がそのボールをウイニングショットとしていたのだから。そして自分が今のマウンドに立っていても、同じように和那を攻略するだろう。

(さすがに気が動転しているかな。しかし空振りしたとはいえ、鋭いスイングだったな)

(伊達に監督が警戒しているわけじゃないってことか。いい打者だな、本当に)

 ロージンバッグを手で弄びながら、秦野は和那のことを素直に認めていた。萎縮することなく打席に立つ姿勢など、称賛に値するものだ。

(なら次は、一番速いやつをここに)

 岸本が構えたのは外角。秦野は軽く頷いて、投球動作に入った。三球目、和那のタイミングもだいぶピントが合ってきていた。

(外のストレート……!)

 力と力のぶつかり合い。それでも振り遅れてしまった打球は、左翼ファウルグラウンドに流れていった。手の痺れに口元を歪ませるが、表情にはそれを出さない。和那は二度ほどスイングを確かめると、静かに構えをとった。

(やるねえ。当てるんじゃなく、スイングしてきたぜ)

(まさか粘られるとはな。やばいな、本気で惚れちまいそうだ)

 次の球も同じところにストレート。バックネット裏へのファウル後、外角のスライダーを投じたが、それも一塁線にファウルで逃げられた。

「す、すごい……」

 いまや球場中が緊張していた。秦野と和那の勝負は、どちらも押しも押されもせぬ五分と五分。一年生男子達も、これには呆気にとられるしかなかった。

(外を続けすぎたかな。タイミングが合ってきてるぞ)

(スライダーにも合わせてくるのか。さてどうしたもんか)

 気がつくと、岸本から余裕の表情は消えていた。秦野も真剣そのものだ。対する和那も、静かな闘争心を前面に打ち出している。和那を支えていたのは、あの日、直弥にかけられたあの言葉だった。   

『俺の夢に、付き合ってくれないか?』

 自分を必要としてくれている。その一言が、何よりも嬉しかった。人と打ち解けることができずに、クラスで独りでいた自分を救ってくれた。仲間達も、そんな自分を暖かく迎え入れてくれた。

 秦野が振りかぶる。和那はそれに合わせてタイミングをとった。完璧にシンクロしている。この感覚は、ヒットを打てる兆候だ。放たれる速球。うねりを起こすようなスイングが、それを捉えた。

「セカンド!」

 痛烈な打球はゴロとなって一、二塁間へ。三塁走者の静音はすでにスタートを切っている。抜けるかと思った打球は、二塁手のグラブにおさめられてしまった。体勢を立て直した二塁手が、二塁カバーに入った遊撃手に送球する。審判のアウトコールを待たずに、すぐさま一塁に転送。間一髪、一塁もアウトとなった。

 秦野と和那の対決は、二ゴロ併殺で決着となった。しかしその間に静音はホームに還り、貴重な一点を追加することができた。一塁を駆け抜けた和那は、肩で息をしながら、空を見上げていた。込みあげてきたのは、言いしれぬ悔しさだった。涙が滲んできて、それを腕で乱暴に拭う。マウンドを降りながら、秦野はそんな和那を見やっていた。



 五回の裏は、三倉和那の併殺打の間による一点で幕を下ろした。これでスコアは三対一となって、再びシャイニングガールズが有利となった。そして、六回からマウンドに上がるのは、一ツ橋せつなであった。

「せつな、いよいよ出番だからって、力まないでね。普段通り、飄々としてなさい」

「うん! 大丈夫だよ、かなちゃん。まかせといて!」

「まあ、あなたならこんな心配するだけ無駄か。サイン通りに投げてくれればいいからね」 要が本塁へと戻っていく。それを待つ間に、せつなは手にした真っ白なボールを見つめた。ほんの数ヶ月前まで、その感触すら知らなかったものだが、今では手にしっくりと馴染んできている。ボールはともだち、とまではいかないが、これまでずっと一緒に過ごしてきた。

「あたしもがんばらないと。だってみんながあんなにいっぱいがんばったんだもん」

 ナインのがんばりは、ベンチで応援していたからこそ、せつなに痛いほど伝わってきた。楽しく野球をやる、直弥は常々そう口にしてきた。それをそのまま体現しているのが、今日の試合だ。

「あたしも楽しくやるんだ。だってあたしは、このチームのエースなんだから!」

 投球練習を始めるせつな。高い身長と手足の長さ、異様なまでに柔軟な体が彼女の特徴だ。さが、三塁側ベンチから見たせつなの印象は、これまでの投手に比べて、格段に落ちるというものだった。

「球は遅いし、打つのは簡単そうだな」

「まあ三番手ならあんなもんだろ。いいかげん、逆転してやろうぜ」

 活気づく三塁ベンチ。つい先ほど登板を終えた秦野も、そのままベンチに残っていた。本当は二人とも須合に呼び戻されたが、菅原が秦野にいるように言ったのである。

「秦野、あの投手をどう思う?」

「あの子ですか? う~ん、一年生が言ってるのと同じ印象ですね。何から何までがぱっとしないというか。あの身長は投手向きだとは思いますけど」

「そうか……」

 菅原が気にしているのは、せつなが直弥の秘蔵っ子だということだ。菅原自身のせつなに対する見解は、秦野らと同じものだった。にも関わらず、直弥がそこまで惚れ込むには何か理由がある。そう思っているのだが。

 投球練習が終わり、要が二塁に送球を送る。内野陣でボールを回し、一塁手の和那はマウンドの近くにまで寄って、みんなの思いがこめられたボールをせつなに託した。

「がんばって、一ツ橋さん」

「うん! ありがとう、和那ちゃん」

 手の中にあるボールは何の変哲もない軟式ボールだが、せつなにとってはただのボールではない。ずしりと重く感じるそれを、グラブに収める。マウンドから見晴らす光景は、これまでに見たことがないものだった。

「残り二回、しっかり守っていこう!」

 要のよく通る声がナインに伝わる。そして、せつなが投手になったことで、シャイニングガールズの守備陣にも変更があった。投手から中堅に八幡未来が戻り、左翼には元通り七城明穂が守備に就いた。外れたのは十成凪沙で、ベンチから試合の行く末を見守っている。 

「バッターラップ!」

 打席に入ったのは、二番の田口。せつなは教えられた通り、練習した通りに、打席に向かって真正面を向いた。要が出してくれるサインを読みとる。コースの指示は外角だった。あとは要のミット目がけて投げればいい。それだけのはずなのだが。

(……あれ? おかしいな。体が思うように動いてくれないんだけど?)

 せつなは自身の変調に戸惑いを覚えていた。胸の前にあるグラブが、一定しない。ひんやりとした空気が肌をちくちくと刺している。せつなは笑っている。が、それはひどく引きつったものだった。

(何やってるの、早く投げてきなさい)

 ミットを構えたまま、不審そうにせつなを見やる要。打者の田口も、間合いの長さに疑問を抱いているようだ。審判までもが困惑したところで、ようやくせつなは投球動作を開始した。

「……ん?」

 異変に真っ先に気がついたのは、直弥だった。せつなの投球モーションは、明らかにおかしかった。柔らかく、流動的に流れていく動作が影も形もない。ぎこちない足の上げかた、軸足に全く体重が乗っていかず、そのまま前に突っこむような体勢で、腕だけでスイングをしてしまう。

(あたしが上手に投げないと……!?)

 せつなが投げた球は、要が構えたところと正反対の方に飛んでいった。予期しない方向にボールが投げられたので、要はぎょっとした。打者の田口は向かってくるボールを避けることができず、左肩に直撃を受けていた。

「デッドボール!」

 まさかの展開だった。田口はあまり痛がる素振りを見せることなく、一塁に向かった。が、その間せつなをずっと睨み続けていた。せつなは何が何だかわからず、返されたボールを受け取るのが精いっぱいだった。たまらず、要がマウンドに駆け寄る。

「どうしたのよ、せつな」

「あ、えと、うん。ちょっと手元がね……」

「そうじゃなくて、当てた打者に帽子を取るぐらいしなさい。じゃないと心象がよくないわよ」

「あっ、そっか。それじゃ、ごめんなさい」

「私にしてどうするのよ。……まあいいわ。それより、次からはそういうのはなしにしてね」

 せつなは曖昧に笑いながら頷いた。地に足が着いていない。足下がふわふわしてしまっている。まるで自分がこの場にいないような感覚。集中しようにも、頭の中はあふれんばかりの考えでもみくちゃとなっていた。

「せつな!」

 要の声で、ようやく我に返る。慌ててセットポジションに構えると、気を取り直して三番の中山と相対する。

「足を高く上げて、軸足に体重を……」

 呟きながら、ゆっくりとした動作で投球を開始。敵味方問わず、周りが唖然とする中、せつなは二球目を投げた。高めに外れた球はボールとなり、さらに一塁走者の盗塁を許してしまった。

「せつな、モーションはもっと早く! それじゃ盗まれるわよ!」

「ん? う、うん、りょーかい」

 要に注意をされても、せつなは今ひとつわかっていない様子で頷いた。その後の投球も不安定で、バラバラに投じられた球はすべてボールとなった。

「フォアボール!」

 死球と四球でノーアウト一、二塁のピンチである。要のみならず、守備に就いているナイン、ベンチの面々にまで不安の色が広がっていた。そしてその不安は現実のものとなる。四番の杉山に投げた球は真ん中に入り、軽々とセンターの頭を越されてしまった。

「よっしゃ! まずは一点!」

 田口が本塁に還って三対二。まだノーアウト二、三塁というピンチが続く。内野陣が集まって、要を中心にせつなに檄を飛ばすが、当のせつなにその内容は届いていなかった。 すべてが他人事のような感覚。せつなはまるで機械人形のように、決められた動作を繰り返すだけだった。

「ホームラン!」

 五番の高崎が放った打球は、無情にもレフトスタンドを越えてしまった。スリーランホームランが生まれ、ついに点差は三対五とされてしまった。

「せっかくここまでいい試合だったのに、あのピッチャーが台無しにしたな」

「あの子、さっきまでずっとベンチで騒いでた子でしょ? 何しに出てきたんだろうね」

「あーあ、好勝負に水を差したな。つまんねえの」

 球場中にあふれる溜息。マウンドの上に立つせつなは、青ざめた顔で笑っていた。せっかくみんながここまで築いてきてくれたものを、自分が台無しにしてしまった。浮ついた状態でも、それぐらいのことはわかる。だからこそ、みんなに顔向けができなかった。マウンドの周りに、みんなの足が見える。どうやら内野手だけでなく、外野からも集まってきたようだ。

『……! ……!』

 みんなが口々に何かを言っている。何を言っているのかわからない。たぶん、みんな怒っているのだろう。それはそうだ。自分が試合を壊してしまったのだから。楽しかった野球を、自分がつまらなくしてしまった。

「……あたし、もうやめるね」

 ぼそりと呟くと同時に、視界がみるみるうちに潤んでいった。あふれ出る涙を拭おうともせず、せつなはただひたすら足場を慣らしていた。まるで、そうしていれば罪の意識から逃れられるとでもいうように。

 その時、マウンドに誰かが駆け寄ってきた。おそらくそれは直弥で、自分をマウンドから下ろしに来てくれたのだろう。よかった、これで楽になれる。そう思って、涙に濡れた顔を上げた時だった。

「……えっ?」

 ぴしゃり、と鋭い痛みがせつなの頬に走った。それは一度ではすまず、二度三度と繰り返された。

「ちょ、ちょっと凪沙。やめなさい!」

 要が間に入ろうとするが、凪沙はそれを許さなかった。怒りに顔を紅潮させて、自分よりも背が高いせつなの襟首をつかみ上げる。

「あなたは何をやってるんですか!? 無様なピッチングをして、試合をダメにして、それで泣けばすべてを許されるとでも!?」

「……ナギー?」

「あなたは誰なんです!? 誰だかわかるように、自分で自分の名前を言ってみなさい! 今すぐに!」

 凪沙の激昂は、周囲を圧する勢いだった。頬を赤く腫らしたせつなは、わけもわからずそれに従った。

「あたしは、一ツ橋せつな……」

「そう、一ツ橋せつなよ。桜爛女子シャイニングガールズのエース、一ツ橋せつなでしょう!?」

 その言葉に、せつなは目を大きく見開いた。凪沙の熱い思いが、せつなの目を覚ましてくれた。

「そのあなたがこんな体たらくじゃ、あなたをライバルと見なした私の立場はどうなるの!? あなたはもっと輝いていないといけないの! いつもみたいに、みんなを笑顔にさせるみたいに!」

 凪沙の熱意は、せつなを凍りつかせていたものを、たちまちのうちに氷解してくれた。せつなにいつもの笑顔が戻った。

「ごめん、ナギー。あたしどうかしてたよ。柄にもなく緊張しちゃってたみたい」

「せつな……」

 そして、他のナインにも頭を下げるせつな。

「みんなもゴメン! あたしのせいで、試合が滅茶苦茶になっちゃって。本当にごめんなさい!」

「せっちゃん、大丈夫だよ。またみんなでがんばろう!」

「そういうこと。ひとりじゃ無理でも、みんなでやればどうにかなるって」

「私もがんばる。だから一ツ橋さんも、いつも通りに投げて」

 ナインからの励ましに、せつなは感謝で胸がいっぱいになった。せつなを見るみんなの顔は、とびっきりの笑顔だった。

「さあ、まだ試合は続いているのよ。これからはゼロに抑えていくわよ」

『おー!』

 少女達の元気な声が響く。それと同時に、空を覆っていた雲が晴れていった。影が取り払われ、まぶしい光に照らされていく。一部始終を見届けていた直弥は、帰ってきた凪沙の頭に優しく手を置いてやった。

「……あそこまで我慢してたんだから、泣いちゃだめだぞ」

「わかってます……!」

 そう、まだ試合は終わっていない。だがせつなに強い表情が戻った。試合はまだまだこれからだった。

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