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第四話『練習試合!』


「よう。どうだ女子野球部は? がんばってやってるか?」

「菅原先生、どうもおかげさまで。どうにか形になりつつありますよ」

 ベンチ前で全体的に練習を眺めていた直弥のもとに、男子野球部の顧問である菅原教諭が訪ねてきた。直弥は帽子を取って彼を出迎えた。

「部員も十名になったらしいじゃないか。最初に女子野球部を作るって聞いた時は、とうてい無理な話だと思ったんだが、彼女らの熱意は、おれ達の予想なんぞ簡単に覆すんだなあ」

「仰る通り、あいつらの熱意は半端なものじゃないですよ。僕なんて、いいように使われてますから」

「へえ、そいつは頼もしい話じゃないか。それにしても……」

 菅原は見た目は強面だが、その本質は気のいい中年のおじさんだ。野球部員の少年達からは鬼のように恐れられているが、直弥にとっては頼りがいのある先輩教師である。その彼が何とも言えない表情で見るのは、直弥が着ているユニフォームだった。

「淡いピンクと白を交えた可愛らしいユニフォームだが、男が着るとどうもなあ」

「……言わないでください。俺だって、似合ってないことはわかってるんですから」

 苦笑いで返す直弥の格好は、確かにあまり似合っているとは言えない格好だった。濃紺色の帽子には、桜爛学園の校章である桜の花が打たれている。ユニフォームの首周りから肩にかけては、紺から空色に変わるグラデーションで彩られ、そこから下は白地にピンクが浮かび上がるようなデザインだ。左胸に縫いつけられた『桜爛女子』の刺繍が、美しくも気品のある佇まいをみせていた。

「女の子が着るにはいいんだろうがな。女子野球部の顧問は大変だ」

 菅原は豪快に笑うと、練習中の少女達の動きに目を細めた。ベンチを出て二、三指示を出してから、直弥は彼に聞いてみた。

「男子野球部の方はどうなんですか?」

「ウチか? ウチはまあ、可もなく不可もなくだよ。上級生を中心に、下級生がそれに追いつき追い越せでがんばっている。今年の一年生はちょいとわんぱくだが、鍛えれば十分な戦力になるだろうさ」

「へえ、それは楽しみですね」

 桜爛学園中等部の男子野球部は、決して弱い部ではない。直弥が中学生時分の頃も、大きな大会に参加するのはざらだった。今年は、三年生と二年生の混合チームで上位を狙えるともっぱらの評判だ。

「そうですか。一年生も有望ですか……」

「ん? 何か言ったか?」

 独り言のように呟いた直弥に、菅原が反応する。もう軽く体が汗ばむ季節だ。元気に体を動かしても問題がない陽気に満ちている。それと、女子野球部の活気は言うに及ばず。練習に留まらず、次の段階に進むべき時が来たのだ。

 直弥は熟考した。ブルペンでは一ツ橋せつなと十成凪沙が、内野では守備練習を、外野では距離を開いた遠投キャッチボールを行っている。ついに決断した直弥は、菅原に体ごと向き直った。その表情は真剣そのものである。

「菅原先生。ひとつ、お願いがあるのですが」

 それから間もなくのことである。女子野球部と男子野球部一年生による練習試合の日程が組まれたのは。


※※※


「ちょっとちょっと聞いたわよ! 女子野球部と、野球部で試合やるんだって? 応援しにいくからね!」

「つーか、女子野球部ってまともな活動してたんだな。がんばれよ、応援してっから」

「これでもし、野球部が女子野球部に負けたりでもしたらことだよな。まあ、そんなことにはならないんだろうけどさ」

 練習試合のことが知れ渡ると、俄然、女子野球部員の周辺は騒がしくなった。主に一年生の教室では、その話題で持ちきりだ。その大半が面白半分、興味本位といったしろものだが、注目されること自体は悪くない。認知度が深まれば深まるほど、女子野球に興味を持ってくれる人が現れて、新たな部員獲得に繋がるかもしれないのだから。

「やるからには勝ちにいくわよ。こっちはまだ新興チームだけど、相手だって一年生だけのチーム。やりようによっては、いくらでもそのチャンスはあるわ」

「おーおー。クールな顔してずいぶんと鼻息が荒いね、要。ま、わたしも同じ気持ちだけどね」

 教室で二条要と六原静音は、来るべき練習試合に向けて気合を入れていた。二人が入れ込みすぎるのも無理はない。これまで日陰者扱いをされていた女子野球部が、いよいよ日の当たる場所に躍り出ようとしているのだ。それに、練習とはいえ試合を行うのだから、気合が入らない方がおかしい。

「二人ともすごいね。わたしなんか今から緊張してて、心臓がどきどきいってるよ」

 不安そうな面持ちで、九重奈月が小さな胸を手で押さえる。野球を始めてまだ一ヶ月と少しだが、人数の問題からしてスタメンに名前を連ねるのは必至。緊張してし足りないということはないだろう。

「そんなに構えなくても平気だって。奈月は毎日練習がんばってるんだし、練習通りにプレイすればいいんだよ」

「そうよ。変に意識すると、それがかえって邪魔になるわ。失敗して当然ぐらいの心構えでいてもらわないと、保たないわよ」

 静音と要はそれぞれの角度から、奈月にいたわりの声をかける。すると、それまで黙っていたせつなが、何を思ったかいきなり立ち上がった。三人が、なにごと、と見上げる間に、高らかに宣言する。

「今度の練習試合、あたしはめいっぱい投げる! そして、みんなで楽しく試合をするんだ!」

 突然の甲高い声に、教室は一瞬静まり返る。が、次の瞬間にはそれに呼応して、これまで以上の賑わいが教室に沸きあがった。いつも無邪気で明るく元気なせつなは、すっかりクラスの人気者になっていた。他の三人の呆れ笑いに見つめられながら、せつなはへらへらと周りの声に応える。その光景を、面白くない顔で見つめる生徒がいた。

「……調子にのりやがって。だいたい女が野球なんてふざけてんだ。絶対にアイツらなんかに負けねえ」

 せつなを睨みつけていたのは、戸川祐司とがわゆうじという名の少年で、野球部に所属していた。女子野球部との練習試合に出場することが決まっていて、ポジションは投手である。

「おい戸川。一ツ橋にあんなこと言われてるぞ? 本式の野球部員としてどうなんだ、あの言い草は?」

 やって来た級友が、おかしそうに聞いてくる。が、戸川は表情を崩すことなく、唇を強く噛んだ。

「ふざけんなって話だ。何が楽しい試合だ。勝負はそんな生温いもんじゃないんだ。そのことをアイツに思い知らせてやる」

「おお、こわ。けど、なにげに女子野球部って粒ぞろいだよな。一ツ橋はすらっとしてこう、かわいいモデルみたいだし。二条のクールさと六原の茶目っ気も捨てがたい。九重の文学少女チックな雰囲気なんかもマニアックでいい……!」

「C組の七城もいるんだろ? あの垢抜けた美人がユニフォームを着るなんて、たまらないぜ。あと三倉和那。無口で暗くて近寄りがたいけど、間違いなく美人だもんな」

 女子野球部員をまるでアイドルのように語る少年達の出現に、戸川は露骨に顔をしかめた。向こうでは、一ツ橋せつながいつものように笑顔を振りまいている。自分よりも背が高く、手足も長い彼女が、少年は心の底から気に食わなかった。

「……見てろ。絶対に抑えてやるからな」

 机の上で握りしめた拳に力が入る。それは、戸川祐司の気持ちの表れだった。


※※※


 練習試合の前日。練習を終えた少女達を、直弥は集合させていた。まぶしい夕陽は、今にも地平の彼方に消えようとしている。集まった少女達の肩が、練習の疲労で上下に揺れる。総勢十名の女子野球部。直弥は自分の後ろに控える理沙に頷いてみせると、これまで暖めてきた事案を発表した。

「みんな、明日はいよいよ練習試合だ。今日までの練習で培った技術を、気構えを、思う存分発揮してくれ。それにあたって、これからポジションと背番号、明日のオーダーを発表する」

 少女達の間にざわめきが走る。その余韻が冷めやらぬうちに、直弥はポケットから取り出したメモを読み上げた。

「一番、一ツ橋せつな、ポジションは投手! お前らしく、全力でやれ」

「はいっ!」

 呼ばれたせつなは元気に返事をすると、跳ねるような足取りで、背番号を手にした理沙の前に立つ。直弥は、十成凪沙が凄まじい形相を自分に向けていることに気づいていたが、あえてそれに触れようとはしなかった。

「二番、二条要、ポジションは捕手! チームのタクト、お前に任せるぞ」

「はい!」

 要が二番の背番号を受け取る。その表情に浮かぶのは、確かな自信に裏づけられた笑みだ。

「三番、三倉和那、ポジションは一塁手! お前の実力をみせてやるんだ」

「はい、がんばります……!」

 静かな返事に秘めた強い思い。和那は三番を受け取った。

「四番、四谷冴子、ポジションは二塁手! 五番、五木田円、ポジションは三塁手! 六番、六原静音、ポジションは遊撃手! 七番、七城明穂、ポジションは左翼手! 八番、八幡未来、ポジションは中堅手! 九番、九重奈月、ポジションは右翼手! そして……」 直弥は最後に残った背番号を読み上げた。

「十番、十成凪沙、ポジションは投手! 明日の先発はお前だ、十成。頼んだぞ」

「えっ……」

 明らかに不本意な顔をしていた凪沙は、直弥の言葉で顔を上げた。そんな彼女の手に、やって来た理沙が背番号を握らせる。

「はい、十番。番号の大小がそのままの評価ってわけじゃないのよ。あなたの力は、私達シャイニングガールズには欠かせない。……がんばってね」

 凪沙は渡された背番号を見つめたあと、みんなの顔を見回した。そのどれもが好意的なもので、誰一人としてそれに異を唱える者はいない。先発を外されたせつなは、その中でも一番の笑顔で喜んでいた。

「がんばってね、ナギー! あたし、いっぱいいっぱい応援するからね!」

「ひ、一ツ橋さん、あなた……」

「ま、そういうことだ。ここでは、お前がこれまで歩んできた常識は通用しない。俺達は、そういうチームなんだ」

「はい……はい!」

 直弥の、チームメイトの期待に応えるかのように、凪沙はこれまでの人生で一番大きな返事をした。顔だけじゃなく、全身が熱く燃えるようだ。ここまで意気に感じたのは初めてのことだった。明日は絶対にいいピッチングをする。凪沙はそう決意した。

「それじゃ、明日のオーダーを発表するぞ。一番・六原、二番・四谷、三番・三倉、四番・五木田、五番・八幡、六番・七城、七番・二条、八番・九重、九番・十成。一ツ橋はベンチスタート、これで行こうと思う。みんな、怪我だけはしないように、野球を楽しんでくれ!」

 今日の日が暮れて、再び朝日が昇ったら、もう試合当日だ。チームの士気は最高潮にある。直弥はこの試合を通じて、少女達のさらなる成長を期待していた。



 練習試合の舞台となるのは、女子野球部のグラウンドだ。設備的にこちらの方が状態が良いのはもちろん、地の利という意味でも女子野球部にハンデを与えるためである。

「今日はよろしくお願いします、菅原先生」

「いやなに、こちらこそ。練習球をあれだけ分けてもらったんだ。その義理は果たすさ」

 野球部の練習を眺めていた菅原と握手を交わす直弥。彼が今回の話を聞き入れてくれた種明かしをすると、いわゆる賄賂を送ったのだ。坂口大介が提供してくれた野球道具はあまりにも膨大で、使っても使い切れない量があった。その中の軟式練習球を何ダースか差し出すことによって、無茶な要求を受け入れてくれたというわけだ。

「全員一年生とはいえ、それでも実力は向こうの方が上だからね。どう戦っていくの?」

 ベンチに戻ってきた直弥に、中野理沙が試すように聞いてくる。それに対し、直弥は肩をすくめるだけに留めた。普通に考えれば、勝てる見込みのない試合なのだ。直弥の狙いは、勝ち負けより以前のものだった。

 ブルペンで投球練習をしているのは、十成凪沙だけだ。二条要を相手に、入念な投球チェックを行う。セットポジションの左腕から繰り出されるボールを受ける要は、満足げに頷いた。

「いい球の走りをしているわ。だいぶ調子はいいようね」

「今日は大切な試合ですもの。ふぬけたピッチングなんて許されません」

「ストレート、スライダー、カーブの三球種。ストレート中心で攻めていくわ。くれぐれも不用意な高めは避けるようにね」

「大丈夫です。打たせませんから」

 要の注意に、凪沙は不遜とも思える自信をもって応える。ここまで言い切るのだから、よほどの自信があるのだろう。要は何も言わず、静かに笑った。凪沙の力は、今日に至るまでの練習でわかっている。あとはそれを、いかに自分が上手く引き出してあげられるかだ。

「そろそろ試合開始よ。準備はいい?」

「いつでもいけます」

「頼んだわよ、左のエース」

 要は凪沙の右肩をミットで叩くと、一足先にブルペンを出た。投手の状態を直弥らに報告するためだ。その背中を追った凪沙の目に、ベンチで仲間達と楽しそうに言葉を交わしている一ツ橋せつなの姿が映った。

「彼女は、どういう思いで今日の試合に臨んでいるのかしら……」

 聞いてみたいと思った。だがもう試合が始まる。一度大きく深呼吸をして、余計な思考のいっさいを排除する。いい投球をするのに、雑念は害となる。細く長い息を吐き終えた凪沙の表情は、鬼気迫るものがあった。

「プレイボール!」

『お願いします!』

 主審の宣誓によって、いよいよ試合が始まった。先攻は一年生男子野球部、後攻は女子野球部である。一塁側ベンチを陣取った直弥は、守備位置に就いた少女達を、巣立つ雛鳥を見守る親鳥のような心境で見やった。

「女子野球部がんばれー! 男子に負けるなー!」

「野球部、女子なんかに負けんなよー」

 グラウンドの周りは、すでに多くの観戦者で賑わっていた。生徒達だけでなく、教職員や保護者、近所の人達も混じっているようだ。何だかんだで注目されているようで、直弥はそれが嬉しかった。

「さあ、どう進んでいくかしらね。継投はどういうプランで考えているの?」

「今日は七回までですからね。三イニングを十成、二イニングを八幡、最後を一ツ橋にしようと思っています」

 そう言って、直弥はベンチで目を輝かせながらグラウンドを見つめているせつなを見やった。直弥と同じくユニフォーム姿の理沙は、意外そうな顔を直弥に向けた。

「そうなんだ。私はてっきり、凪沙ちゃんとせつなちゃんの二人でゲームメイクするのかと思ってた」

「そうしたいのは山々なんですけど、やはり経験がないとね。投手は特に気をつかうなポジションなんで、過保護すぎるくらいが丁度いいですよ」

「だから、先発は凪沙ちゃんなのね」

 直弥は静かに頷くと、視線をグラウンドに戻した。右バッターボックスに打者を迎えた凪沙が、今まさに記念すべき第一球を投げようというところだった。

 要が出したサインに頷き、凪沙はセットポジションから一球目を投じた。ゆったりとしたモーションから放たれたのは、鋭いスピードボールだった。

「ストライク!」

 右打者の胸元に突き刺さったストレートは、少年の度肝を抜くのに十分すぎる威力があった。

「あの女、ナリが小さいくせに速い球を投げてきやがる。フォームもコンパクトで、タイミングを合わせにくいぜ」

 高井という名の一番打者は、ボールを受け取りながらこちらの様子をうかがう凪沙に、圧迫感を覚えていた。より慎重にバットを構えると、二球目を待つ。

 二球目もストレート。しかし今度は外角低め。手を出すべきか迷ったが、結果的にバットを引いた。そこへ「ストライク!」 という無情なコールが響く。

「監督。あの投手、かなりコントロールが良さそうですね」

「そうだな。お前ら、絶対にナメてかかるなよ。あとで恥をかくのはお前らなんだからな」

 三塁側ベンチで戦況を見守る菅原は、どこか浮ついた空気が漂うベンチに楔を打った。相手の実力を見ようともせず、侮っているようでは今後の成長も見込めない。直弥が少女達に期待するように、彼も少年達に期待しているのだ。

「ストライク、バッターアウト!」

 結果、一回表の男子野球部の攻撃は無安打に終わった。三振二つ、ショートゴロでスリーアウトに切ってとった凪沙に、ナイン達は興奮気味に声をかけた。

「ナイスピッチ! さすが、やるね」

「大口叩いてるだけじゃなかったってことね」

 凪沙は派手に応えることはしなかったが、嬉しさが込みあげてくるのだろう。タオルを頭に被って、表情を隠してしまった。

「さあ、今度は俺達の攻撃だ。まずは先制点、是が非でも取っていこう!」

『はいっ!!』

 ベンチ前で上がる少女達の喝采。それをうるさそうに聞き流しながら、先発マウンドをまかされた戸川祐司は投球練習を行った。それをネクストバッターサークルで精密に観察する六原静音のもとに、次打者の四谷冴子が近づいていく。

「背は小さいけど、ボールは速そうですね」

「冴子が小さいって言うのを聞かれたら、戸川は黙ってないだろうねぇ。球の速さは凪沙と同じか、ちょっと速いぐらいかな」

「見た感じ、コントロールはそれほどでもないです。変化球はカーブがあるけど、それもタイミングを外すぐらいの意味合いみたいです」

「さすが我がチームの歩く情報誌。よく勉強してるね」

 冴子の頭をよしよしと撫でながら、静音は立ち上がった。

「それじゃ行ってくる。絶対に本塁に帰ってくるから」

 ベンチからの派手な声援に送られながら、静音は左打席に立った。静音はスイッチヒッターで、相手投手に応じて立つ打席を変えられる。もともと右利きなので、打球の強さという点では右打席の方があるが、左打席に立つとその俊足を十二分に活かせるという利点があった。

「よろしくお願いします!」

 審判に挨拶をして、静音はバットを構えた。スタンスを広げることで重心を低くし、バットを細かく揺らす。特徴的なバッティングフォームに、戸川は舌打ちしそうになるのを我慢しなければならなかった。

「女のクセに、調子に乗りやがって。格好だけで打てると思うなよ」

「さあ来い!」

 大きく振りかぶって、戸川が一球目を投げる。静音がしっかりと見届けたそれは、外角高めに抜けていくストレートだった。

「ボール!」

 捕手の高崎信一たかさきしんいちは、マスク越しに戸川を見やりながら、やや不本意そうにボールを返す。

(初球から抜けダマかよ。力が入りすぎてるぜ)

 もちろんそれは、静音も知るところであった。バットを肩に乗せながら、マウンドを慣らす戸川をさらに観察する。

「確かに、凪沙よりボールは速いな。けど、力みがすごいねぇ。荒れダマなぶん、仕留めるのにちょっと苦労しそうかな」

 戸川が投球動作に入ったので、静音も構える。二球目もストレート。今度はど真ん中のミットにボールが吸い込まれた。これでワンボール、ワンストライク。状況は五分五分となった。

「さて、次は何かな、と」

 愉しげに呟きながら、静音は集中力を高める。ようやく念願の試合が行えたのだ。静音に限らず、興奮するのは当たり前だ。だが試合では、冷静な姿勢が求められる。相反する二つの感情のせめぎ合いで、自然と笑みがこぼれてしまう。

 戸川が投じた三球目は山なりのボール。冴子が言っていたカーブだ。外のボールから入ってくる軌道に、静音は思わずつんのめりかけたが、なんとか体勢を残しながらバットを振った。

「やばっ!」

「サード!」

 打った瞬間、静音はバットを投げ出して走り出していた。打球は当たりそこないの、三塁側に転がるゴロ。投手の戸川も飛び出してきていたが、高崎は間に合わないと判断し、三塁手の杉山に指示を出した。杉山は前進してきてゴロを捕球するが、一塁に投げようとしたところを戸川に制される。

「無理だ、間に合わない!」

「クソッ。なんだよ、アイツの足の早さは……!」

 一塁ベースを駆け抜けた静音を、忌々しそうに見やる三人の少年達。静音は涼しい顔で、ベンチに沸き起こった歓声に応えてみせた。が、ベンチの奥に座っていた要を見つけると、すぐに気まずそうにそっぽを向いた。

「あんなボール球に手を出すなんて。相変わらず選球眼が悪いんだから」

 と、ベンチで吐き捨てる要の声が聞こえたのか、静音の顔は自然と厳しいものになった。塁から離れ、リードを取る。

「わかってるって。あんなのじゃチームは盛り上がらない。なら、わたしの足で着火するまでよ」

 セットポジションで構える戸川を、まるで猛犬のように睨みつける静音。バッターボックスに立つのは、右の四谷冴子。一番軽いバットを使っているにも関わらず、まるでバットに持たされているようだ。真剣な顔つきだが、どこか強張っているように見えるのは、初打席の緊張のためだろう。そして、その緊張はベンチの面々も同じだった。

「さえちゃん、がんばれー!」

 ひときわ大きな声で、せつなが声援を送る。それに合わせて、他のメンバーも声を上げる。その光景に笑みを作った直弥は、打者と走者、それぞれにサインを送った。

「走らせるの?」

「六原の判断に委ねます。初回なんでね、自由にやらせてみようと思います。四谷には……」

 直弥が言っている間に、冴子は静かにバントの構えをとった。これで相手バッテリーも警戒せざるをえなくなる。初回の攻撃のチャンス、これをものにできるかどうかで、これからの試合展開に響いてくるだろう。



 野球を始めて間もない少女が、バントの構えをしている。戸川は釈然としない思いを隠せなかった。バントなんて、ただ単純にバットにボールを当てればいいだけのように思えるが、決してそんなことはない。勢いを殺したゴロを転がすには、それなりの技術が必要とされるのだ。

 それに一塁ランナーのリードの広さ。走りたくてウズウズしてるのがよくわかる。背中越しの視界にちらちらと入るその動きは、戸川の気分をさらにささくれ立たせた。

「っ!?」

 一塁に牽制球が放たれる。静音は慌てて頭から塁に戻った。一塁手のタッチと競争になったが、判定はセーフとなった。

「いや~、危なかったぁ。危うく刺されるところだった」

 ユニフォームに付いた土を手で払い落としながら、恐れ入ったように呻く静音。一塁手からボールを受け取った戸川は、静音の動きを観察した。牽制球の効果があったのか、リードはさっきよりもだいぶ小さくなっていた。

(これでバッターに専念できるだろ。戸川のヤツ、妙にイラついてやがるからな)

 戸川をリードする高崎がサインを送る。リードが小さくなったとはいえ、バントは引き続き警戒しなくてはならない。外角に外し気味のストレート。戸川はそれに頷き、投球動作に入る。

「やっぱり油断してる……!」

 その瞬間、静音はほくそ笑んだ。一芝居打った甲斐があったというものだ。こちらへの意識が薄いのを確認すると、静音はするするとリードを広げ、投球と同時に二塁に向かって駆けだした。

 戸川はしまったと顔を歪めるが、今さらどうすることもできない。あとは高崎に託すしかない。虚をつかれたバッテリーを嘲笑うかのように、静音は快足を飛ばした。

「私も六原さんの援護をしないと!」

 四谷冴子は、捕手が捕球する直前に空振りをした。少しでも捕手の動作を遅らせるための援護だ。そのせいもあって、高崎の送球をかいくぐった静音は、見事に盗塁を決めたのだった。

「ナイスラン! いいよいいよ!」

 そうなると俄然、一塁側ベンチは盛り上がった。逆に三塁側ベンチは雲行きが悪い。顧問の菅原の顔が、目に見えて不機嫌そうだ。

「あーらら。菅原先生、けっこうキてるんじゃない?」

「まあね。今のは明らかにバッテリーのミスですからね。でもこれで得点圏にランナーが入った。ウチとしては願ってもないチャンスですよ」

 直弥は再び冴子にサインを送る。冴子はしっかりと頷いて、バッターボックスに入った。カウントはワンボール、ワンストライク。直弥が選択したのは。

「バント!?」

「くそっ、やりやがった!」

 冴子はしっかりとバントを三塁側に決めて、ワンアウト、ランナー三塁という状況を作り上げた。顔を上気させてベンチに戻ってきた冴子に、全員が笑顔とハイタッチで出迎える。

「よくやったぞ、四谷! その前もいい判断だった。その調子だぞ」

「はい、先生!」

 そして次の打者は、三番の三倉和那。彼女が打席に向かう間に、高崎は戸川のもとに駆け寄っていた。不満そうな戸川に、高崎は自らも不平をぶちまけた。

「おい戸川。いくらなんでも、いいようにやらせすぎだぞ。このままでいいのかよ」

「いいわけあるか! あと二人アウトに取ればいいだけの話だろ。何をそんなに慌ててんだよ」

「次はあの三番だぞ。どう見たって、他の連中とは違う。これで先制点でも食らったりしたら、おれたちはいい面の皮だ」

「だから抑えるって言ってんだろ! さっさと戻れよ、審判が睨んでんぞ」

 戸川はイライラしながら高崎を追い返す。左打席に立った和那は、マウンドから見ても大きく、それが戸川の気にさらに障った。

「女のクセに……!」

 戸川の身長は高くない。野球をやるとなれば、低い方の部類に入るだろう。今はまだ投手をやらせてもらえているが、これから先どうなるかはわからない。戸川は投手が好きだった。このマウンドから離れたくない。そのためにも、ここで自分の力を周囲に知らしめる必要があった。

「おれは、本当に一生懸命に野球をやってるんだ。お前らみたいなのとは違うんだよ!」

 ボールをギュッと握りしめて、和那を睨みつける。しかし和那はそれを意に介することなく、自然に構えに入った。それを間近で見た高崎は、和那から異様な迫力を感じ取っていた。

(コイツ、近くで見ると本当にすげえ身体してやがる。本当に同い年の女かよ? 足が長くてケツはデカいし、胸も……)

 そこまで考えて、高崎は頭を強く振った。試合中だというのに、何を考えているのか。ユニフォーム越しの膨らみをなるべく見ないようにしながら、気を取り直してサインを送る。  

(初球はきっちり外そう。もしかしたらスクイズなんてこともあるかもしれないし)

 内野に前進守備を敷かせて、打てるだけの手は打った。あとはピッチングを組み立てていくだけ。が、戸川の精神状態は、高崎が思っている以上に苛立っていた。

 戸川が投げたストレートは、大きく外角に構えた高崎のミットよりはるかに内側、ど真ん中に吸い込まれていった。高崎が背筋をゾッとさせる間に、和那はスイングの始動を始めていた。足から腰、肩から腕へと順番に回転して生み出されたスイングは、ものの見事にボールを捉えていた。

「うっ!?」

 目の覚めるような一発だった。強烈な打球はぐんぐんと空を破っていき、あっという間にフェンスを直撃した。三塁走者の静音は悠々と本塁に到達、打った和那は滑りこむことなく、二塁にまで進んだ。

『やったー! ナイスバッティング!!』

 打った和那は塁上で安堵の息をついているが、ベンチの盛り上がりといったらもう、お祭り騒ぎもいいところだった。歓声をあげては飛び跳ね、抱き合う。ベンチに戻ってきた静音は、みんなにもみくちゃにされながら、和那に向けてぐっと親指を突き上げた。

 一方、打たれた戸川は、右中間を幽鬼のような表情で見つめていた。完璧にやられた。完膚無きまでに、自分のプライドを打ち砕かれた。放心状態の戸川のもとに、高崎が内野陣を集めて向かう。

「戸川、呆けてる場合じゃないぞ。やられちまったもんはしょうがねえ。これから取り返していくしかないんだから」

「そうだぞ。お前がしっかりしてくれないと、おれ達だって手の打ちようがないんだ」

 集まった顔のどれもが、悲壮感漂うものだった。戸川はまだ立ち直れないでいるらしく、瞳に力がない。その中で比較的冷静さを残していた高崎が、戸川の肩を強く叩いた。

「わかってんのか、戸川。お前はいやかもしんねえけど、認めるしかねえよ。アイツらは強い。おれ達の本当に本気でかからないと負けちまうぞ」

「負ける……?」

「ああ。そんなのやヤだろ? 少なくともおれは嫌だ。だからこれからは女だからって侮らないで、本気でやる。お前はどうなんだよ」

「おれは……おれは、負けたくない」

 高崎の檄で、戸川の目に少しずつ力が戻り始めた。他の面々も強く頷く。

「負ける試合なんてごめんだよ。やってやろうぜ!」

「みんな……」

「あとはお前次第だぜ。いつものお前のピッチングなら、アイツらだってそう簡単には打てやしないんだ。自信持てよ!」

 最後に戸川を盛りたてると、内野手は自分の守備位置に戻っていった。マウンドに残されたのは戸川のみ。だが、どうしてだろう。さっきまでの孤独感が嘘のようだった。マウンドから見る景色が、妙に晴れ晴れとしていた。本塁に向き直ると、捕手の高崎がミットを構えてくれている。

「そうだ。おれは何を意固地になっていたんだ。ひとりで息巻いたところで、何にもなりゃしない。けど、コイツらがいれば……」

 戸川を盛りたててくれるのは、他でもないナイン達だ。野球は一人でやるものではない。そのことを、少年はほんの一時とはいえ、忘れてしまっていたのだ。

「まずいな」

「どうしたの、直弥? 何がまずいって?」

 賑やかなベンチでひとり立ちつくす直弥がぼそりと呟く。それを聞き逃さなかった理沙が、その真意を尋ねる。

「ここまではあの投手の独りよがりもあって、上手く攻めることができました。けど、表情を見るに、立ち直ってしまったように思えるんでね」

「確かに。そう言われてみれば、活気が出てきてるわね」

「こういう雰囲気の中だと、投手は投げやすい、自分の力を出しやすいんです。逆に打者は相手の勢いにのまれてしまって……」

 ベンチから「あ~」という落胆の声が流れる。続いた四番の五木田円が三振を喫したようだった。チーム一大きな少女は、しゅんと小さくなって帰ってきた。

「ごめんなさい。何の役にも立てませんでした」

「何言ってるんだ。試合はまだ始まったばかり。これからだよ」

 落ちこむ円を励ましながらも、直弥の危惧はいっそう強くなった。一点でも先制できたのは、本当に運が良かった。中学一年生の男女では、それほど身体能力に差があるわけではないが、野球経験の差は明らかに有利不利に傾く。どうにかしてその傾きを小さく抑えるのが、指導者の直弥に与えられた重大な使命だった。

 五番の八幡の打球は、力のないセンターフライに討ち取られた。これでスリーアウトチェンジ。ナインが守備に就く前に、直弥はみんなを集めてさらなる奮起を促した。

「欲しかった先制点を手に入れた。けど、これで浮かれていてはダメだ。野球は試合が終わるまで、何が起こるかわからない。ひとつひとつのプレーに集中して、楽しんでやっていこう!」

『はい!』

 点を取ったことで、少女達の顔には明るいものが見えている。力強く、元気に返事を返すと、それぞれの守備位置に走っていく。ベンチに残ったせつなも、ベンチの最前列に身を乗り出して、大きな声を出していた。

「航海はまだ始まったばかりだ。順風満帆がいつまでも続くとは思えない。そうなった時、あの子達はどうやって困難を乗り越えていくのか。それを見てみたい」

 三塁側ベンチでは、早くも円陣を組んでいる。菅原は輪の中に入っておらず、あくまで選手達の自主性に任せているようだ。一年生チームのキャプテンが一言発するたびに、雄叫びが聞こえてくる。先ほどまでにはない迫力だ。どうやら女子だからと、侮ることは止めたらしい。

「向こうも本気でかかってくるみたいね。監督の野島先生としては、どう立ち向かう気なの?」

「俺にできるのは、みんなに明るく元気よく、楽しく野球をやってもらえるように声をかけてやることだけですよ」

「またまたご謙遜を」

「買いかぶりすぎですよ、先輩は」

 理沙の笑いに笑顔で応えると、直弥は真面目な顔でグラウンドに意識を集中した。二回の表の攻防が始まろうとしていた。



 二回の表。桜爛女子シャイニングガールズが迎える打者は、四番の三塁手の杉山だ。悲壮な決意を全身にみなぎらせながら右打席に入る。どうやら相当なハッパをかけられたらしい。

(顔つきがさっきまでとまるで違う。これからは一筋縄ではいかなくなりそうね)

 打席での杉山の様子を観察して、二条要は警戒を露わにする。さらに、四番を任せられるほどの打者だ。その打力は推して知るべし。

「相手が誰であろうと、私は負けるつもりはありません……!」

 マウンドの十成凪沙も、男子野球部の気合の乗りに気がついていた。しかしそれは、凪沙の闘争心をさらに煽ることに繋がった。勝ち気と負けん気の強さは、この少女の生来からよるもので、相手が強くなればなるほど燃えるタイプなのであった。

 要のサインに頷いて、杉山への初球を投げる。外角のストレート。杉山は見逃したが判定はストライク。続く二球目も、同じく外のストレート。これに反応した杉山は、強烈なスイングを放った。

「ファウル!」

 一塁側ファウルグラウンドを強烈なライナーが襲った。やはり打球の勢いが違う。要の頭脳が音を立てて計算を始めた。ツーストライクと追いこんだことで、いわゆる遊びダマが使える。

(もう一球アウトコース。今度はスライダーで)

 こくりと頷いた凪沙が、要求通りにスライダーを投じた。ボールのコースから、ククッと入ってくる軌道に、杉山のバットが出かかるが、スイングにまでは至らなかった。これでワンボール、ツーストライク。有利なうちに勝負を仕掛けたいところだ。

「これで!」

「絶対に打つ!」

 投手と打者の気合が激突する。凪沙のボールは鋭い変化を見せて、杉山の懐に食いこんでいった。インコースへのスライダー。杉山はそれを捉えきれず、空振り三振に打ち取られた。

「クソッ!」

 打席で悔しそうに叫ぶと、杉山は凪沙を睨みながら駆け足でベンチに戻っていく。凪沙は表情を変えることなく、それを真正面から受け止めたが、心中は穏やかではなかった。

(今は球筋を捉えられていないから打ち取れているけど、慣れられたらそうはいかないんでしょうね)

 もちろん、そんなことは顧問の直弥には織り込み済みなのだろう。試合開始前、彼に三回までの登板を聞かされた時は少し不満に思ったが、これなら納得がいく。

「ワンナウト! しまっていこうよ!」

 要がナインに向かって大きな声を出す。内野陣、外野陣共に手を上げて元気に応える。凪沙も帽子のつばに手をかけてそれに応じると、次の打者に意識を集中する。

「後に投げる投手のためにも、私は絶対に打たせない」

 凪沙が放つ気迫は、ベンチで観戦する直弥にもひしひしと感じられた。そして、満足そうに頷く。

「十成は、この試合を通じて何かを感じてくれそうだな」

 野球は一人でやるものではない。凪沙は、リトルリーグ時代は無敗を通してきたらしい。そのため、チームのためという意識が少し欠けていた。自分さえ良いプレーをしていればよい。言い方は悪いが、おそらくそういう信念のもとでプレーを続けてきたのだろう。

「狭い環境の中であれだけの実力を身に着けたんだ。新しい世界を見つけて、その能力はさらに飛躍的に伸び上がるだろう。そうなれば、お前が本当のエースになれるかもしれないぞ」

 直弥が描く完成図は、一ツ橋せつなをエースとして、周りもそれを助け合いながら成長していくというものだ。だが、予定を予定通りに進められることはそうそうない。どこかでイレギュラーが起きて、完成図に微妙な変化が訪れるのは仕方のないことだ。

「今はまだ無理だろうが、十成と一ツ橋が切磋琢磨しあうことができたら、このチームはもっともっと強くなれるだろうな」

 ベンチで感情表現豊かに声援を送るせつな。彼女の投手としての実力は、まだ未知数だ。これから先、伸びることもあれば伸び悩むこともあるだろう。直弥は自分の学生時代を思い出した。誰しもがぶつかる壁、それを乗り越えるだけの強い意思、覚悟があることを切に望む直弥だった。

 二回の攻防は、両チームとも三者凡退に終わった。一年生選抜チームは、四番杉山が空振り三振、五番高崎がセンターフライ、六番小石がファーストゴロ。女子野球部は六番七城が空振り三振、七番二条がセカンドゴロ、八番九重が見逃し三振だった。

「やっぱり、未経験者組に打つのは難しいな」

 七城は三倉和那に対抗意識があるのか、三振をものすごく悔しがっていたが、九重奈月は打席で何もできずに終わってしまった。四番の五木田円もひどい三振を喫しており、打線としての機能はなかなか望めそうにない。直弥は渋い顔をしながらも、少女達には笑顔で語りかけた。

「慣れてくればバットに当てられる。今の結果にくさらず、前を向いてやっていこう。十成、二条、頼んだぞ」

『はい!』

 頼りになるバッテリーが同時に頷く。いよいよ回は三回。凪沙が投げる最後のイニングだ。なんとか無失点で切り抜けて、次の八幡未来に繋ぎたかった。ソフトボール時代に投手の経験があり、外野手で肩が強いこともあって投手も兼任させたものの、投手としての練習はほとんどできていなかったのが現状なのである。

 しかし、直弥の心配は杞憂に終わった。三回の表、凪沙のピッチングはさらに冴え渡り、下位打線を三者連続三振に仕留めるという、最高の締めをしてくれたのだ。

「ナギー、ぐっじょぶ! 全然ヒット打たれなかったね、すごいねー!」

 凪沙の活躍を一番喜んでいたのは、他ならぬせつなだった。爆発する感情を抑えきれなかったのか、ベンチに戻ってきた凪沙に抱きつく。

「ちょ、ちょっとやめなさい!? みんなが見ているでしょう!」

「ええ~、いいじゃんいいじゃん。別に減るものでもないし」

「私が気にするんです! いいから離れなさい~!」

 頬ずりをしかけたなぎさを、全力で押し返す凪沙。その二人のやり取りに、ベンチからは笑いの渦が巻き起こった。ベンチの雰囲気は、今のところ最高だ。試合自体は膠着しつつあるが、このあたりでそれを打破しなければならない。

「この調子で、追加点を取りにいくぞ。けど、相手の投手もそう簡単にはやらせてくれないだろう。技術で負けても、気持ちだけは負けないように強く持っていくぞ」

『はい!』

 三回の裏の攻撃は、九番の凪沙から始まる。左打席に向かう小さな大投手に、マウンド上の戸川は強い敵愾心を抱いた。

「アイツはあんな小さな体で、おれ達を抑えた。なら、おれにだってそれはできるはずだろ?」

 三塁側ベンチは、やる気は取り戻したものの、活気あふれるにはほど遠い。押され気味の試合展開が、選手から余裕を奪っているのだ。そして、そうさせてしまったのは自分の不甲斐ないピッチングのせいだ。

「おれが何とかしないと。投手のおれにできること、それは……!」

 振りかぶって、力をこめてボールを投げる。そう、彼にできるのは、チームを奮わすための投球をすることだけだった。初球のストレートには威力があった。初球から積極的に打ちにいった凪沙だったが、セカンド正面に転がるゴロは、あまりにもイージーな当たりだった。

「アウト!」

 凪沙をファーストゴロに打ち取っても、戸川の表情は変わらない。続く打者は一番の六原静音。先制点を奪われるきっかけとなった打者だ。

「コイツだけは塁に出さないようにしないとな」

 ネクストに座るのは二番の四谷冴子。この打者に関しては、それほど気に留める必要もないだろう。問題なのは、静音を出したら三番の三倉和那に回ってしまう危険性があることだった。

(三番に回したら厄介だ。一番は確実にとりにいくぞ!)

 捕手の高崎も、守備に就くバックの思いも同じだった。静音は、相手チームの雰囲気が変わったことに、闘争心を駆り立てられた。

「和那に回したくないから、わたしを打ち取ろうって? そう簡単に思い通りにはいかせないよ」

 独特なフォームでタイミングを計る静音。戸川との二度目の勝負。ツーボールツーストライクまで持ちこんだ打席の結果は、二遊間をしぶとく破るセンター前ヒットとなった。一年生選抜チームに焦燥感が見え始める。

 高崎は内野陣にバントシフトを敷かせた。ランナーを二塁に進めるわけにはいかない。右打席に立った四谷冴子は、すぐにバントの構えをとった。

「直弥、あんなに警戒されてるのにバントをさせるの? あれだったら打たせた方が」

 理沙が聞いてくるが、直弥は首を横に振った。

「いえ、ここはバントでいきます。失敗する可能性も高いでしょうが、一点を取りにいく姿勢を、みんなにも感じてもらいたいんです」

「今後の糧にするわけね?」

 小さく笑う理沙に、直弥は黙って頷いた。そしてベンチ前では、未来と要がキャッチボールを行っている。次の回からは未来がマウンドに上がる。彼女の負担を軽減させるためにも、ここで一点は追加しておきたいというのが、直弥の偽らざる本心だった。

 しかし、ここは選抜チームの意地が勝った。バントを試みたものの、投手側に打ち上がってしまったフライを、鬼気迫る表情で突進してきた戸川に捕られてしまった。これでは静音も進塁することができない。

「ツーアウト、ツーアウト! ここは絶対に抑えるぞー!」

『おお!』

 ここにきて、選抜チームに元気が出てきた。ボールの交換をした戸川は、マウンドに戻りながら、左打席に向かう和那を睨みつけた。

「すみません、与えられた仕事を全うできませんでした」

 うつむきながら戻ってきた冴子を、ベンチは暖かく迎え入れた。こうなったら、あとはもう和那に任せるしかない。直弥は走者の静音にサインを送った。盗塁はしなくとも、いつでもいけるような準備をさせた。

「エンドランですか、先生?」

 隣にやって来た凪沙が聞いてくる。

「カウント次第ではな。あの二人ならやってくれるさ」

 両軍ともボルテージが上がっている。観客席も賑やかになる。先ほどの見事なバッティングを目の当たりにすれば、期待度がうなぎのぼりなのは必定。その場にいる全員が、戸川と和那の対決に集中していた。

「六原さんを本塁まで還す。そのためにも……!」

 静かな佇まいの内に秘めた熱い思いを、打撃フォームに乗り移らせる。和那の耳には何の音も届かない。戸川の挙動、呼吸さえも手に取るようにわかる。完全にこの勝負に集中していた。

(なんてえ気迫だよ。こいつ本当に女かよ?)

 高崎は背筋に寒いものを覚えながら、戸川にサインを送った。さっきは外目の甘い球を思いきり踏みこまれて打たれた。ボックスの立ち位置もキャッチャー寄りギリギリなので、インコースのストレートを選択した。

(当てたら気まずいからな。当てんなよ)

(手加減なんてしてられるか。おれは攻める!)

 若干外寄りにミットを構えた高崎の気持ちを察しながらも、戸川はこれまでにない全力投球を行った。力強いボールが和那の胸元に吸い込まれる。体をねじるほどの近さに、一塁側ベンチからは悲鳴があがった。

「危ない! ちょっと、当たったらどうする気!?」

「和那ちゃん、負けないでー!」

 非難と声援とが入り乱れ、ベンチは混沌とした雰囲気に包まれる。しかしそんなベンチの思いとは裏腹に、和那は動じる様子を見せなかった。相手バッテリーは再びインコースを攻める。今度は比較的甘いコースで、和那は牽制の意味も込めて打ちにいった。一塁線上すれすれの強いゴロは、ファウルとなった。

(少し甘かったとはいえ、インハイをさばいてきやがったぜ)

(インコースは逆に危険なのか? 自信があるから、あんなにキャッチャー寄りに構えて……)

 戸川、高崎のバッテリーは疑心暗鬼にかられていた。ボールを投げれば投げるほど、和那には死角がないのでは、という畏れが生まれるのだ。サインの交換が長くなる。どう攻めたらいいのか、迷いも生じていた。

(もう一球インコース。今度はカーブで……!)

(打ち損じてくれ!)

 祈るような思いをこめて、戸川はインコースにカーブを放った。上手い具合に指にかかって、絶妙なコースに曲がり落ちていく。振りにいった和那は、バットの先にかすらせるのが精いっぱいだった。

「ストライーク!」

 審判のコールに、一塁側ベンチが重い溜息をつく。そしてハラハラしながら戦況を見つめる。十八メートル弱間の緊張感が伝播して、グラウンドの内外に固唾を飲ませた。

(追いこまれた。くさいところはカットしていかないと……)

 和那の立ち位置は変わらない。いつもの動作を繰り返したあと、バットを構える。そこには気負いも気後れも感じられない。高崎は、和那の強靱な精神力に舌を巻いていた。

(これだけインコースを見せたんだ。外角の感覚は狂ってるはず。勝負どころはここだ)

(アウトローへのストレート……!) 

 高崎の指示に、戸川の顔が一瞬強張る。一塁でリードを取っていた静音は、投手の微細な変化を見逃さなかった。目だけでベンチを見やると、直弥と目が合った。彼は何も言わない、身動きもしない。だが意図ははっきりと伝わった。

(了解……!)

 戸川が投球動作に入ると同時に、静音は走った。それに真っ先に反応したのは和那だ。眼光がいつも以上に鋭くなる。戸川のボールは注文通りのアウトローの軌道を描いた。

 一閃。まるで侍が刀を振るうかのような、強烈なスイングがボールを弾き返した。しっかりと体を残して打った打球は、痛烈なライナーとなって左中間を突き破った。

「やったー! 回れ、回れー!」

 ベンチに言われるまでもなく、静音は躊躇なく二塁、三塁を蹴った。中継を経て、ボールが本塁に返ってくる。しかしそれより早く、静音のスライディングが本塁ベースを蹴っていた。

「セーフ!」

 グラウンドに歓声が沸きあがる。左中間へのタイムリーツーベースヒットを放った和那も、ささやかな笑顔で拍手喝采のベンチに応えた。少女達に混じって、直弥もぐっと喜びを噛みしめていた。

「やってくれた……! 本当にこいつらは、人を喜ばせる天才だな」

 息を切らせて戻ってきた静音には笑顔が、ベンチで彼女を出迎えた面々は、それ以上の笑顔だった。理沙も一緒になってはしゃいでいる。欲しかった追加点が、最高の形で手に入った。続く四番の五木田円は三振に打ち取られてしまったが、盛り上がるムードに変化はない。

 三回の攻防が終わって、二対〇というスコアは、桜爛女子シャイニングガールズにとって、嬉しい誤算であった。試合はこれから後半戦へと進んでいく。その先に暗雲が立ちこめていることを、少女達をはじめ、直弥も全く予期していなかった。

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