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第三話『左右のエース』


「失礼します。野島先生、お呼びとのことですが、何かご用ですか?」

「ああ。すまないな二条、わざわざ足を運んでもらって。女子野球部に関して、ちょっと話があってな」

 体育準備室にやってきた二条要は、中にいる教師達に会釈をしながら、デスクに座る直弥の前までやって来た。微笑が浮かんでいるのは、野球に関しての話題で呼ばれたからだろう。

「じゃあここに座って。ところで、学校はどうだ? うまくやってるか?」

「おかげさまで。みんな楽しくやってると思いますよ。勉強がどうなのかはわかりませんが」

「それが問題なんだよな。学生である以上、学業を疎かにするわけにはいかないから」

 もっともらしくしかめっ面を作りながら、直弥はファイルを取り出した。それは女子野球部の情報が載っているリストである。

「それって、先生も言われていたことですよね? 先生ご自身はどうだったんですか?」

「あいにく、俺にはできた友人がいてね。そいつのおかげで、とりあえず乗り切ることができたよ。今の俺があるのも、そいつのおかげさ」

 にやりと笑う直弥。その表情に確かな信頼を感じた要は、直弥が言う『そいつ』という存在に、少なからず興味を抱いた。が、今はそうした個人的な好奇心を満たすことをしている場合ではない。

「で、話ってなんですか?」

「いやな、部員も無事に九人になったことだし、そろそろポジション決めをしておこうと。部長である二条の意見を聞きたいと思ったんだ」   

 さらりと口にされた内容は、口調の軽さに比べてはるかに重いものだった。要は真面目な少女である。すぐに笑みはなりを潜め、真剣で妥協を許さない顔つきを取り戻した。

「わかりました。と言うからには、先生にも題案がおありなんですよね?」

「うん。だから、二条の意見も取り入れて本決まりにしたい。日頃から一緒にいるお前から、部員の性格や特徴なんかも聞いておきたかったからな」

 まず一人目、と直弥が指し示したのは、一ツ橋せつなである。

「一ツ橋せつな。右投げ右打ちで身長は百六十四センチ、身体的特徴は痩せ型で手足が長い。類い希ない柔軟性の持ち主で、天然な性格は怖い者知らず。野球経験はないが、俺は一ツ橋をあえて投手として起用したいと思っている。それに関して、二条の意見はどうだ?」

「私もせつなは投手として見てみたい人材です。これまで何人もの投手のボールを受けてきましたが、あの不思議な感覚を与えるボールには無限の可能性を感じます。ただ、それ以外のポジションは務まらないような気がします」

「そうだな。つぶしがきかないってやつだな。とはいえ、九人しかいないから、どうにかして野手としてもやってもらわないといかん。やってもらうとして、外野かな?」

 次に提示されたのは、他ならぬ二条要である。

「二条要。右投げ右打ちで身長は百五十三センチ。身体的特徴は強肩があげられる。冷静な視点による観察眼は、またと得難いものだ。二条にはもちろん、捕手としてやってもらう。部長としてチームをまとめ、捕手としてゲームメイクをする。色々と大変な立場になってしまうが、大丈夫か?」

 直弥の心配に、要は小さく微笑んだ。

「もちろん。任せてもらえるなら、それに向かって全力で挑みます。至らぬところが多々あると思いますが、その時はどうか遠慮なくご指導ください」

「俺が二条に言うことなんて何もないよ。楽しい野球をみんなで追い求めてもらえればそれでいい。未経験者組には気を揉まされるだろうが、どうか我慢してくれな」

 二人は互いに苦笑を交わし合う。めくったページの先に現れたのは、最後に部員として加入した三倉和那だ。

「三倉和那。左投げ左打ちで身長は百六十四センチ、長身かつしなやかな体つきからは確かな力を感じる。身体能力はずば抜けていて、おそらく男子の中に混じっても遜色なくやっていけるだろう。ただ、個人練習ばかりで実際のプレーをしたことがないから、その点だけは気になるな。左利きだし、打撃に期待するという意味も込めて、一塁手を任せようと思うんだが」

「三倉さんは、なだ私達に馴染んでいないようです。練習をしていても、いつも独りになっているので。ただ先生の仰る通り、体の強さは本物です。チームの打線の軸になってくれると思います。ただ……」

「ただ、なんだ?」

 要は珍しく言い淀んでいた様子だが、直弥の問いかけに答える形で、少し重そうに口を開いた。

「彼女、七城さんとクラスが一緒なんですけど、どうも折り合いが悪いようで。というより、七城さんが三倉さんを嫌っているふしがあって」

「そうなのか? それは問題だな。注意して見ておく必要があるな」

 直弥はひとつ唸ると、次なるページをめくった。

「次は四谷冴子。右投げ右打ちで身長は百三十五センチ。部で一番小柄だが、頭の良さもチーム一だ。その時の状況に合わせて判断、行動ができるだろう。そういう面から内野手、二塁手をやらせてみようと思う」

「いいですね。私も彼女は二塁手が適任だと思います。真面目で練習熱心だし、何より本当に頭の回転が早い。今は素人でも、成長したらとても頼りになると思います」

 要が太鼓判を押すのを満足そうに聞きながら、直弥は次のページに目を移した。

「さて、五木田円だ。右投げ右打ちで身長は百六十センチ。女の子にこんな表現をしていいかどうか迷うけど、チーム随一の巨漢だ。スピードや小回りは期待できないが、その分パワーは抜群だ。飛距離を計算できるパワーヒッターに育ってくれればいいんだが。ちょっと難しいかもしれないが、三塁手をやらせてみようと思う」

「五木田さんの長所は、何と言ってもあの体重を支えるパワーです。守備や走塁はある程度目をつぶるので、バッティングに期待したいですね。ただ、性格が優しいのが気になりますけど。努力家のがんばりやさんですけどね」

「いちおう、野手陣のやりくりで一塁手の練習もさせるつもりだ。上手くはまってくれるといいな」

 そして、六人目のリストに目を通す。

「六原静音。右投げ両打ちで身長は百四十八センチ、軽快な身のさばきと足の速さが特徴。スイッチヒッターとはたまげたな。リトルリーグ時代は兄と二遊間を守ってたってあるけど、二条の目から見た六原はどんな選手だ?」

「静音は、普段はあんな感じで適当ですけど、野球の試合となると集中力が研ぎ澄まされます。バッティングもシュアですし、守備は基本に忠実にして堅実、走塁に関しては勘の良さと度胸が光ります。盗塁技術もなかなかですよ。試合で私が刺せるのも五分五分ですし」

「ふうん。やはり親友同士ともなると、見る目は違うんだな。よくわかってる」

「か、からかわないでください。私は本当のことを言っているまでです」

 要は気まずそうに顔をそらせるが、その頬はほんのりと赤い。普段の凛とした佇まいのせいで忘れがちだが、要も中学生になったばかりの少女なのだ。直弥は微笑ましそうに彼女を見やりながら、ファイルに手を伸ばした。

「えー、七城明穂。左投げ左打ちで身長は百五十四センチ。なんとも、イマドキの女子って感じの生徒だな。可もなく不可もなくってところだが、性格はキツめだな。少し浮いてるような印象を受けるんだが、実際のところはどうなんだ?」

「七城さんは、あれでなかなかがんばってくれてますよ。ともすれば馴れ合いの集団になりかねない部にあって、ずけずけと物を言ってくれる彼女のような存在は、実は一番必要なのかもしれません。私は、彼女のことを信用しています」

「へえ、驚いたな。俺はてっきり、二条は七城のことを敬遠しているかと思った」

 要の七城評に、直弥は思わず正直な思いを口にしていた。それには要も苦笑せざるをえなかった。

「私も不思議なんですが、意外とウマが合うっていうか。きっと彼女、根っこの部分はすごく真面目なんだと思います。女子野球部に入ってくれた動機はわかりませんけど、何か強い意思のようなものを感じるので」

「そうか。ポジション的には外野、左翼手をやってもらう。さて次は、と」

 直弥の中で作られていた部員の構図が、だんだんと変わってきていた。それはとてもよいことだ。固定概念を破り、柔軟な姿勢を作るには、たくさんの生きた情報を仕入れる必要がある。

「八幡未来。右投げ右打ちで身長は百五十八センチ。ソフトボール経験者ってことで、体はしっかりしているな。中堅手として、外野の扇の要をつとめてもらう。それと投手経験を活かして、投手も兼任してもらう」

「それが妥当ですね。ソフトボールと野球とではだいぶ違いますが、マウンドに立った経験があるのとないのとでは、雲泥の差があります。肩も強いですし、投手として十分やっていけると思います」

「今の段階では、八幡を先発で一ツ橋を中継ぎに据えるしかないかな。それでもぎりぎりのところだが」

 直弥が頭を悩ませるのは、投手不在の問題だった。一ツ橋せつなの潜在能力は大いに魅力があるが、それはまだ日の目を見ていない。であれば、せつなが投手として独り立ちできるまで、誰かがそれを補わなければならない。しかし、部員九名の零細チームでは、そのやりくりにさえ四苦八苦する有様だった。

 苦悩する直弥を気遣ってか、要が元気づけるような笑みをみせて言う。

「部員集めは引き続き行っていきますし、私達がちゃんとがんばっていれば、きっと誰かが入ってくれますよ」

「……そうあってほしいもんだな。ありがとう、二条」

 弱々しい笑みを返しながら、直弥は最後の部員を確認した。

「九重奈月。右投げ右打ちで身長は百四十一センチ。何というか、運動音痴な子だな。健気ながんばり屋というのは評価できるんだが、これから先どうなるか不安だよ。まあ、あの超絶天然娘、一ツ橋せつなをコントロールできる唯一の存在だが」

「はっきり言わせてもらいますと、それだけでも九重さんの存在は大きいです。選手としてはその、あれですけど、いてくれるだけで助かります」

「俺が気にしているのは、そのことに九重も満足している節が見えることなんだよ。どうも九重からは、ぎらぎらとした野心みたいなものが見えないんだよなあ」

「野心、ですか?」

「そう、野心。自分が上手くなるとか、レギュラーを取るとか、試合で活躍したいとか、そういった意欲みたいなもんさ。それに、七城とも仲が良くないみたいだしな」

 何気なく口にした直弥に、要は軽く目を見張った。

「気づいていたんですか? 二人の仲に」

「そりゃあな。俺だってかつてはキャプテンをやってたんだ。部員間の雰囲気は何となくわかる。きっと七城も、九重の消極的なところが気に食わないんじゃないかな」

「……残るポジションは右翼手ですね」

「埋め合わせ的な話で申し訳ないけどな。二条は反対か?」

 要はゆっくりと首を横に振った。直弥は小さく笑うと、ファイルを閉じた。

「よし、ならこれでポジション分けは終了だ。これからは各自、自分のポジションを意識して練習に励んでもらう。たぶん、色々と弱音を吐くこともあるだろうけど、みんなで力を合わせてがんばってもらわないとな」

「はい。私も部長として、一生懸命フォローに回ります」

「フォローはいいけど、あまりキツく言いすぎるなよ? 女子に泣きつかれるのは、俺はあまり得意じゃないんだ」

「なっ!? わ、私そんなに鬼じゃありませんよ!」

 いきり立つ要の頭に、直弥はぽこんとファイルを落とした。それだけで要の動きは止まる。が、ファイルの影から上目遣いで見てくる要の顔は、恥ずかしさと怒りとで真っ赤だった。

「わかってるって。それじゃ行こうか。みんなもグラウンドで待ってるだろうしな」

 直弥は要を伴って体育準備室を出た。春の足音は次第に遠のいている。少しもしないうちに、初夏の陽差しが降り注ぐだろう。その間にどれだけ力をつけることができるか。桜爛女子シャイニングガールズの前途は、未だ不明のままであった。



「さあ、地獄ノック開始するわよ! ふっふっふ、高校球児さえ震えて恐れた私のノックの味、とくと味わうといいわ!」

 放課後である。女子野球部は、ランニングや筋トレなどの基礎練習の後、経験者組と未経験者組とに別れて、本格的な練習に取り組もうとしていた。経験者組の面倒を見るのは、勇ましいジャージ姿の中野理沙である。

「なんかやたらと気合が入ってるなあ、先輩」

「野島せんせー、理沙ちゃんせんせーの言ってるのって、本当のことですか?」

 呆れ気味に内野グラウンドを見やる直弥に、せつなが興味津々に聞いてくる。

「地獄かどうかは微妙なとこだけど、容赦なく打ちこんでくるのは確かだな。これがまた、嫌らしいとこに打ち分けるんだよ。おまけにスタミナも無尽蔵ときた」

「うわ~。でも、せんせーも学生の頃に比べて、だいぶ鈍くなっちゃってるんじゃ?」

「……一ツ橋。そういうこと、あの人の前では絶対に言うなよ」

 暗い表情で釘を刺す直弥。せつなはいまいち要領を得ていないようだったが、ノックが始まったことで練習のことを思い出したようだ。

「で、野島せんせー。あたしたちは何をするの?」

 その言葉を合図に、直弥の前にずらりと五人が並ぶ。一ツ橋せつな、四谷冴子、五木田円、七城明穂、九重奈月の五人である。少女達は手に真新しいグラブをはめて待っていた。直弥は少女達を見渡すと、笑いながら頷いた。

「ポジションも決まったことだし、ぼちぼちボールの扱いにも慣れていかないといけない。かと言って、いきなり二条達みたいにノックを受けたりするのはナンセンスだ。まずはキャッチボールと、外野での球拾いでボールに慣れてもらう」

 そうである。晴れて未経験者組にも、ボールとグラブを使った練習を行うことになった。少女達の顔に浮かぶのは、未体験の領域に踏みこむ期待と不安とで複雑に彩られている。直弥はそんな少女達の緊張を解きほぐすかのように、自分も手にしたグラブに拳を打ちつけた。

「それじゃ二人一組になって始めよう。折りよく、内野二人と外野二人に別れているから、それでコンビを組んでくれ」

 直弥の指示に、それぞれがお互いの相手を見やる。

「よ、よろしくね。四谷さん」

「はい! こちらこそよろしくお願いします、五木田さん」

 三塁手の五木田円がおどおどと頭を下げると、二塁手の四谷冴子も元気よく頭を下げた。とまあこちらは何の問題もないのだが、外野の二人はというと、なかなか楽観できる状況ではなかった。

「あ、あの、七城さん。よろしくお願いします」

「……フン」

 びくびくしながら挨拶をする九重奈月に対する七城明穂の態度は、冷淡そのものだった。腕組みをしながらそっぽを向き、軽蔑するような目で奈月を見下ろしている。

「こらこら。これから一緒にやっていこうっていう仲間なのに、そんな態度はないんじゃないか?」

 聞きしに勝る光景に、たまらず直弥が仲裁に入る。すると明穂はちっ、と舌打ちをしながらも、「よろしく」と素っ気ない言葉を放った。嫌々言わされている感がたっぷりの響きに、奈月はますます恐縮してしまう。直弥は心中で溜息をついたが、これ以上自分が介入しては、明穂がふてくされてしまうのが目に見えている。ある程度は彼女たちに任せるしかない。二人の関係は崩壊するのだけは阻止しなければ。

「ねえねえ野島せんせー。あたしは誰ときゃっちぼーるをすればいいの?」

 そんな直弥の悩みなど露知らず、一ツ橋せつなが脳天気に聞いてきた。しかしそれは、直弥にとって一服の清涼剤になったようで、何とか笑うことができた。

「ああ、一ツ橋は俺とだ。投手をやってもらうからには、球質なんかも詳しく知っておきたいしな」

「はーい。それじゃみんながんばろー! あたしたち未経験者でもやれることを、学校中の女の子に教えてあげよう!」

 せつなの明るい檄に、周りも苦笑混じりだが、ちゃんと応えてみせる。せつなの天性のムードメーカーぶりに、直弥も苦笑を禁じえない。もしかしたら、この少女には秘めたるリーダーの器があるのかもしれない。

「もしそうだとしたら、どれだけの才能を隠し持っているんだ? ますますもって、大介に瓜二つだぜ」

 微かな羨望をもって、自分と距離を開くせつなを見つめる直弥。思えば、こうやってキャッチボールを始めた相手も、坂口大介だった。彼はせつなのように天然な性格ではなかったが、どこか達観した雰囲気を漂わせていたような気がする。単にぼんやりとしていただけという説もあるが、はたしてどちらだったのやら。

 直弥が過去を述懐している間にも、他の二組はキャッチボールを始めていた。本格的にボールを投げるのが初めてだから、上手く投げられていない様子だ。ふわんとした山なりのボールが、あちこちに飛んでいってしまっている。

「最初のうちはそれでいいんだ。上手く投げようとか、そういうことは考えなくていい。相手が胸元に構えたグラブ目がけて、元気よく放るんだ。いいか、キャッチボールはコミュニケーションの場でもある。親睦を深め合うなり、気づいたことを言ってあげるなり、何でもやってもいいんだぞ」

 言いながら、直弥もせつなにボールを放った。肩を壊したとはいえ、キャッチボール程度なら何の問題も行える。事実、直弥のボールはまるで吸い込まれるように、せつなのグラブに収まった。

「すごい! せんせーのボール、構えたところにすっぽり入ってきたよ!」

「そりゃまあ、かつてのエースだからな。一ツ橋はこれからチームのエースになるんだから、これぐらいは朝飯前になってもらわないといけないぞ」

「わかってるー。よーし、それじゃいくよ~」

 感動を全身で表現しながら、せつなはボールを投げ返してきた。未経験者特有の、手だけで投げ返すというものだ。直弥に届くだいぶ手前でそれはバウンドして、直弥のグラブにつかまれる。

「一ツ橋、キャッチボールの時もピッチングの時と同じだ。手だけで投げるんじゃなく、しっかり下半身を使って投げるんだ」

「下半身を使うって、どういう意味? ボールって、手で投げるものでしょ?」

 指摘されたせつなは、不思議そうに頭上に何個もクエスチョンマークを浮かべている。未経験者にはいまいちわかりづらい表現であったに違いない。直弥は身振り手振りを交えてアドバイスを送る。

「これはみんなにも言えることだが、絶対に手だけで投げちゃダメだ。怪我のもとになるし、第一ボールに力が伝わらない。投げる際にはしっかりと前に踏みこみ、腰の回転を始動にして上半身を回していく。やってみてくれ」

 直弥の助言にみんなは頷き、さっそく見よう見まねでその動きを試してみる。その動きはぎこちないものだったが、成果はすぐに表れたようだ。

「本当だ。さっきまでに比べてボールの勢いが違う。それにコントロールもつけられるみたいです」

「うん。まだちょっと投げづらいけど、こっちの方が断然いい感じがする」

 四谷冴子の感嘆を皮切りに、五木田円も顔中に喜色を浮かべた。再びボールを受け取ったせつなは、直弥に言われた通り、しっかりと投げこんだ。球速はないが、手元に来て伸びる感覚の直球が、直弥のグラブに小気味よい音を立てる。

「よしよし、いい球だ。けど、あんまり飛ばしすぎるなよ。はじめは軽く、肩が温まってきたら、徐々に力を入れて投げてこい」

 直弥の言葉に、せつなはボールを投げ返すことで答える。やはりキャッチボールはいいものだ。たとえ言葉を交わさなくても、相手が何を伝えたいのかわかることが多々ある。野球は集団競技だ。自分以外に複数人でプレイする競技にとって、互いの意思疎通は何よりも重要なことである。

「あっ! ご、ごめんなさい七城さん。わたしまた……」

 と、奈月の泣きそうな声が聞こえてくる。見ると、ボールを明後日の方に投げられた明穂が、不機嫌をあらわにその行方を追いかけているところだった。奈月は申し訳なさそうに体を縮こませている。戻ってきた明穂は、苛立ちを隠そうともせず、強い球を奈月に放った。

「きゃっ!?」

「なによ、そんなのも捕れないワケ? あんた、何しにこの部に来てるの? 遊びに来てるだけだったら、とっとと帰りなさいよ」

 厳しすぎる明穂の叱責を背に受けながら、奈月は弾いてしまった懸命に追いかけた。ボールを握ろうとした時、思わず目に熱いものが込みあげてしまう。それを事前に察していたのか、呆れきった明穂の声が奈月に突き刺さる。

「泣けばなんでも許されると思ってなんかないわよね? アタシは、やるからには上手くなりたいし、全力で勝ちにいきたいの。それなのに、あんたみたいに人の影に隠れてのほほんとしているヤツがいるのが許せない。アタシ達と同じ立場なのに、向こうで二条達と同じ練習をしてる子の特別扱いとかも」

 明穂の鋭い視線は、直弥にも向けられていた。一触即発の険悪な雰囲気に、全員が動きを止めてしまう。四谷冴子は生真面目に、五木田円はどうしたらいいかわからずおろおろと。一ツ橋せつなは、親友が悪し様に罵られたのを心配している。だが直弥は、黙って明穂の言い分を聞き入れた。

「七城、そんなに焦らなくていい。お前達だって、すぐに本式の練習に取りかかれる。それに九重には九重なりのペースがある。それを無理に逸脱させたら、それこそ滅茶苦茶になってしまう。三倉に関しては特別扱いじゃない、彼女の実力から鑑みての措置だ」

「それじゃ先生は、アタシがあの子に劣ると?」

「今の段階ではな。これから先どうなっていくかは、お前次第だ」

 包み隠さない直弥の評に、明穂はぐっと唇を噛みしめた。どこまでも負けん気と対抗心の強い少女である。その精神的な強さは、他のメンバーにも見習ってもらいたい。方向性に若干の問題はあるが、少々の困難でへこたれていては、強い選手に育たないのだから。

「……ごめんなさい。わたしのせいでみんなの足を引っ張っちゃって。けどわたし、がんばります。がんばりますから……!」

「なっちゃん?」

 立ち上がった奈月に、せつなが声を掛ける。顔を上げた奈月の頬には涙の跡があったが、浮かんでいる表情は、控えめながら強さが感じられた。

「だから七城さん、お願いします。わたしとキャッチボールを続けてください」

 まるで挑むかのような物言いには、それまでの奈月にはない迫力があった。明穂はそれを一瞥すると、つまらなそうに顔を背けた。

「……お願いするも何も、今はそういう時間でしょ」

「はい! お願いします!」

 奈月がボールを投げる。勢いのあるボールだ。それをつかんだ明穂の表情には、軽い笑みが浮かんでいた。それを見届けた直弥は、苦み走った笑みをこぼした。

「まったく、面倒な部員達だな。船出からこの調子じゃ、沖に出た時はもっとひっちゃかめっちゃかになるな」

 これからの苦労は想像するにたる。その凄絶ぶりに、直弥は早くも胃が痛む思いだった。今の目標は、未経験者組を一日でも早く経験者組に合流させること。だがそれを焦ってはいけない。あくまで少女達自身に向上心を持ってもらったうえで、進んでいかなくてはならない。

「前途多難、前途遼遠だが、やっていくしかない。……さて、向こうはどうなっているのやら」

 キャッチボールを続けながら、直弥は内野グラウンドでノックを行っている経験者組を見やった。鋭いノックの音と、軽快な守備の動きとが見てとれる。中でも直弥が心配だったのは、集団練習に初めて入る三倉和那の動きだった。

「まあ、向こうには二条や六原もいるし、こっちほど心配はないか」

 一塁について、ノックを受ける六原静音の送球を受ける三倉和那は、無難なグラブさばきを見せていた。ノッカーにボールを渡す二条要への送球にも問題はなさそうだ。 

「一ツ橋せつなと三倉和那。この二人が、桜爛女子シャイニングガールズの投打の軸になるのは間違いない。じっくりと育てていかないとな」

 成長が楽しみな逸材を、一度に二人も手にした直弥。それは喜ぶべきことなのだろうが、同時に緊張も強いられる。ある意味指導者泣かせの二人組に、直弥は苦笑を浮かべざるをえなかった。



 本格的な練習が始まって、早や一月が過ぎた。季節は初夏の候を迎え、陽差しは一段と強さを増してきた。桜色に覆われた桜並木も、今ではもう鮮やかな緑が息づいている。この春、新入生として桜爛学園中等部に入学してきた生徒達からは、緊張の色がなくなっていた。

「かなちゃ~ん、宿題忘れちゃった。お願い、写させて~」

「ダメよ。勉強は自分でやらないと身に着かないし、何の意味もないわ。野球の練習と一緒よ」

「そ、そんなあ~。しーちゃん、しーちゃん、かなちゃんがあんなこと言ってるぅ。冷たいよぉ」

「いやいや。そこは宿題を忘れたせつなの責任でしょ。というわけで要、わたしにも宿題を写させて?」

「……まったく。あなた達はなんでそういういらないところまでそっくりなの……!?」

「ふ、二人とも。わたしのでよければ見る? 合ってるかどうか自信はないけど……」

「わあ! 救いの女神ここに見参! 神様、仏様、奈月様~!」

「うんうん。ここはひとつ拝んでおこうか。ありがたやありがたや……」

「や、やめてよ二人とも!? 恥ずかしいよぉ~」

「もう本当にどうしようもないわね……」

 一年C組の教室は、今日も賑やかである。一ツ橋せつなを発端にして六原静音が乗っかり、二条要と九重奈月を巻きこんでいく。そんな四人のやり取りを中心に、クラスは明るい活気を見せていた。

 昼休みともなれば、女子野球部のメンバーは自然と集まってくる。七城明穂や三倉和那などはたまにしか姿を見せないが、ここまで特に大きな問題は起きていない。順調に事を運べているかと問われれば、まずまず順調なのだろう。

 そして放課後は野球の練習だ。基礎練習から始まってキャッチボール、そして生きたボールを受けるノックに、未経験者組も参加するようになった。上手くいかないことの方が多いが、白球を必死に追いかける少女達が流す汗は、陽光に照らされて美しく輝いていた。

「二条。悪いけど、ブルペンに付き合ってもらえるか?」

「はい! けど、どうしてブルペンなんですか? せつなにまだピッチングは……」

 早い、と言おうとした要を制するかのように、直弥は不敵な笑みを浮かべた。

「俺が投げるんだよ。今日はフリーバッティングを行う。そのためにも、肩はしっかり温めておかないとな」

 マウンドを足でならし、プレートに足をかける。視線を上げると、捕手のプロテクターを着けた二条要が、ミットを構えて立っている。練習とはいえ、ある種独特な空気感のなか、直弥はプレートを蹴った。

「打撃投手をやってくれるのはありがたいんですが、先生の肩は大丈夫なんですか?」

 足場を気にしながら返球を受け取り、さらにボールを投げこんでいく。

「本気で投げるわけじゃないし、女子中学生に投げるくらいだったら、十分に務まるさ」

 直弥のボールはキャッチのボールとは違って、鋭い軌道を描いている。受ける要は、それだけで直弥の投手としての実力を感じ取っていた。全盛期のピッチングを見たいところだが、それはもうかなわないことなのだろう。

「先生。ボール、きてますよ。球が重いです」

「そうか? おだてられるとつい力が入っちまうのが、俺の昔からの悪い癖なんだよな、っと!」

 座った要に、直弥は強いボールを投げる。地を這うような、とはいきすぎた表現だが、ミットを叩く音には迫力がある。その威力に、思わず要が顔をしかめる。さすがに成人男子が投げるボールの球威は、女子中学生の細腕にはつらいものがあった。

「よし、肩慣らしはこんなもんかな。とりあえず経験者だけ打席に立たせる予定だ。未経験者組は、これから素振りやタイミングの取り方とかを身に着けさせないとな」

「わかりました。誰から打たせますか?」

 グラウンドに向かいながら、直弥と要が会話を交わす。直弥が目をつけたのは、一塁ベースで送球受けをつとめている三倉和那だった。 

「これからフリーバッティングを行う。未経験者組は外野でキャッチボールをしながら球拾い、経験者組は打席に立つ準備をしてくれ。最初に打つのは三倉、お前だ」

 直弥の指示に、チーム一長身の少女は、びくりと肩を震わせた。

「わ、私から、ですか?」

「そうだ。投げるのは俺だ。お前の力、試させてもらうぞ」

 和那はよほど驚いているのか、その場に硬直して動かない。それを見やる七城明穂の目が冷たく光ったが、それを遮るようにせつなが和那に飛びついた。

「和那ちゃん、がんばってね! あたしたちのところに向かって、いっぱい、いーっぱい打っちゃってね!」

「きゃあ!? う、うん。がんばる……よ」

 外野に走っていったせつなが、バットを持って打席に入ろうとした和那に向かって、両手で元気いっぱいに手を振った。そのせいで、投げられたボールに気づかず、後ろに逸らしてしまった。慌ててその後を追いかけるお茶目な少女の姿に、心ここにあらずといった風の和那に、微かな表情がよみがえった。

「三倉さん、あなたの力が見せかけじゃないってこと、証明してみせてよね」

「二条さん……」

 キャッチャーマスクを被った要が、挑戦的な笑みを和那に向ける。

「先生の肩の出来はいいわよ。萎縮してる暇なんかないからね」

 和那はマウンドに立つ直弥を見やった。いつものように、穏やかな笑みを浮かべている彼は、記憶の中の少年と何ら変わりがない。バッターボックスに立ち、バッティングの準備を整える。普段練習している通りにバットを構え、その時を静かに待つ。

「それじゃいくぞー!」

 言いながら、直弥がゆっくりと振りかぶる。和那もタイミングを計るべく、動きのひとつひとつに集中する。足を上げて振り下ろし、スイングした腕からボールが放たれる。その時の直弥の形相に、和那は気圧された。

(……本気だ!)

 それを察した時にはもう遅い。これまでに体感したことのないスピードボールが迫り、初動が遅れた和那は気のないスイングで空振りを取られていた。

 これには、さすがの経験者組も唖然とした表情を浮かべざるをえなかった。

「ええ~? あれはないでしょ。あんなのいきなり投げられたら打てないって」

「野島先生って、本当に凄かったんだねえ。三倉さん、打ち返せるかな?」

 外から見ていても凄さが伝わってくるのだ。実際に打席に立つ和那は、身をもってそれを体感していた。空振りした体勢のまま、真剣な顔つきになっている直弥を見つめる。その仕草、雰囲気はいつもの優しい先生とは違う。勝負に賭ける一野球選手そのものだった。

「三倉さん。先生は本気であなたにぶつかりたいって、ブルペンから熱くなってたわ。その意気に、あなたも応えてあげてね」

 要から返球を受けた直弥は、再びモーションに入った。本気で向かってくる。ならば自分も、生半可な気持ちで迎え入れるわけにはいかない。バットを握る手と、直弥を見つめる瞳に力が入る。

 ボールが放たれる。思いきり踏みこんでバットを振る。鈍い手応えが和那の顔を歪ませる。勢いのある打球がファウルグラウンドに転がっていった。それを直弥は涼しい顔で流したが、心中は穏やかではなかった。

(球速は、たぶん百二十は出てると思うんだがな。それを一球見ただけでもう合わせてくるのか)

(速いし、重い。何より、ボールに力がある。バッティングセンターのボールとはわけが違う。これが本物の野球……!)

 和那は手の痺れを押し隠すように、バットのグリップを握りなおした。力が入ったせいか、振りが上半身に頼ったものになってしまった。軸足への体重乗せと、踏み込みを再確認する。

 三投目。より気合いの入ったボールが、真っ直ぐに突き進んでいく。直弥のベストボールだ。だが和那は冷静だった。しっかりとタイミングを合わせて、リラックスした状態で踏みこむ。ボールを呼び込むようにして、体の内側からバットを出すようにスイング。芯で捉えた打球は、金属バットの澄んだ音と共に、大空高く舞い上がった。

「わわっ! 本当にこっちに飛んできた!? うわー!」

 外野であたふたするメンバーをよそに、和那の放った打球は深々と右中間を破っていった。あれだけのスピードボールをあそこまで弾き返すパワーは、少女離れしたものだった。打たれた直弥はもちろん、その場にいた全員があまりの凄さに呆然と立ちつくしていた。

「……想像以上ね。やっぱり先生の見立ては正しかったってことか」

 冷静な要もこの結果には驚くばかりだった。和那もそれは同じで、打った自分が一番驚いているようだ。打球の行方を追った瞳は、どこかぼうっとしていた。

「まいったな。でもまあ、あそこまで完璧に打ち返されると、かえって気分がいいもんだな。現役時代には味わえなかった感動だぜ」

 これが大人になったという証拠なのだろうか。直弥はロージンバッグを手に、未来あふれる少女の姿に目を細めた。当時、これぐらいの余裕が自分にあれば、今とは違った未来が用意されていたのかもしれない。だが、それができなかったからこそ、今の自分があるのだ。

「そう考えると、今の俺も捨てたもんじゃない。たくさんの可能性に巡りあえたぶん、こっちの方がいいのかもしれないな」

 現実と仮定を天秤に掛けるほど、愚かな話はない。直弥は今ある現実のみに目を向けた。フリーバッティングは始まったばかり。まだ三倉和那に三球投げただけなのだ。

「いいバッティングだったぞ、三倉! さあ、どんどんいくぞ!」

「……はい。お願いします!」

 和那が力強い返事を返す。二人の勝負に触発されたのか、待機する六原静音と八幡未来の素振りにも力が入る。球拾い組も、ぽんぽんと飛んでくる打球を捕りながら、いつか自分達が打席に立つ姿を想像していた。

 その日、野島直弥は打者四人に対して、計百二十球を投げこんだ。


※※※


 多くの運動部で賑わうグラウンドとは別の方角から、元気なかけ声が聞こえてくる。制服姿の少女はそれを耳にすると、一緒にいた大人達から離れ、その場所を探した。学校の奥へと入りこんでいく感覚。やがて小さな林が見えてきて、少女はそこに突き抜けた道を進んだ。

「声が聞こえる。とても楽しそう……」

 長い、さらさらとした黒髪が流れる。小さな身体が行き着いた先は、林の奥に開けた大きなグラウンドだった。

「野球のグラウンド。それじゃ、ここがあの……」

 少女は胸元で拳を握りしめ、バックネット裏に向かった。グラウンドの中では、少女達が一生懸命に野球の練習をしていた。ユニフォームがないのかジャージ姿だが、練習のひとつとっても真剣そのものだ。それでいて表情は明るく、楽しそうにしているのが印象的だった。

「一ツ橋! もっとリラックスして投げろ。腕が固くなってるぞ!」

「はーい! わかりましたぁ」

 そんなやり取りが聞こえてきたのは、ブルペンと思しきところからだった。少女が視線を移すと、そこにはひとりの背が高い少女と、ミットを構える男が立っていた。少女は男の指示通りに投球をする。それを見た少女の感想はというと。

「……あの人がこのチームのエース、なの?」

 少女の呟きに、好意らしきものはうかがえなかった。むしろ失望した響きさえある。童顔のわりに鋭い視線を放つ瞳は、黒曜石を磨き上げたような美しさだ。少女は人知れず、自分の左肘を右手で押さえていた。

「あの人じゃダメ。わたしがこのチームのマウンドに……立つ」

 初夏の陽差しがまぶしく降り注ぐ。桜爛女子シャイニングガールズに、新たな光が差そうとしていた。



 桜爛学園中等部女子野球部には、ちゃんとした部室が用意されている。グラウンド脇に併設されたプレハブがそうだ。しかしそれは、部室と呼ぶには恐れ多い設備だった。言うなればクラブハウスである。

 昼休みともなれば、部員が集まってきては有意義な時間を過ごす。この日は珍しく、三倉和那と七城明穂の姿もあった。今この場にいないのは八幡未来だけである。

「そういえば、今日はD組に転校生が来たみたいだね」

 広々としたミーティングルームでくつろぎながら、六原静音が不意にそんなことを言いだした。それに同調したのは、生真面目に野球教本に目を通していた四谷冴子である。

「そうみたいですね。私は実際に見ていないので何とも言えないですが、すごく綺麗で可愛らしい女の子らしいですね」

「見てきたっていう子が、お人形さんみたいだ、って言ってたよ」

「入学して一ヶ月で転校なんてね。何かいわくでもあったりして」

 五木田円がほんわかと言ったかと思えば、七城明穂はファッション雑誌を片手に興味なさそうに言ってのける。どこかトゲのある言い方に、二条要は明穂に軽く目線をやるが、口にしたのは別のことである。

「そういえば、未来はC組だったわよね」

「あー、そっかあ。それでみーちゃんは来てないのかあ」

「どういうこと? せっちゃん」

 素っ頓狂な声をあげた一ツ橋せつなに、九重奈月が小首を傾げる。せつなは椅子の背もたれを前にして、もっともらしく説明を始めた。

「きっとみーちゃんは、その転校生ちゃんのお世話をしてるんだよ。だからここに来られないんじゃないかな?」

「未来が? どうかなあ、あの子にそこまでの積極的な甲斐性があるかな?」

 と、本人に聞かれたら色々と誤解をされそうなことを静音が言う。すると、それまで黙っていた三倉和那が、思い出したように顎に指を添えた。

「……そういえば、何日か前に、見覚えのない子がグラウンドに来てたような気がする……」

 それはとても小さく、独り言に近いものだったが、部屋にいる全員の気を引くに十分な響きを持っていた。

「和那、それは本当? だとすると、女子野球部に興味があるっていうことかしら?」

「い、いや、わからないよ? ちらっと見ただけだし、本当にそうかどうかは……」

「あまり不確定な情報は出さない方がいいと思うけど? そういうのはぬか喜びさせるだけよ、三倉和那サン」

 要の食いつきぶりに当惑する和那に、明穂があからさまな揶揄を向ける。たちまち落ちこんで小さくなってしまう和那に、空気を読める奈月が助け船を出した。

「ま、まあまあ。もしその転校生が入部希望なら、近いうちにそう言う話が出るだろうし、八幡さんも何かの用事で遅れてるだけかもしれないし。今は待っていればいいんじゃないかな?」

「私も九重さんに賛成です。何か動きがあった時に、私達はそれに対応すればいいと思います」

「うん、そうだよね。でも、新しく誰かが入ってくれたら、それは嬉しいよね」

 冴子が体調を整える薬だとしたら、円は手厚い看護をしてくれる優しいお母さんという感じだろうか。ギスギスしかけた空気が晴れてくれて、奈月はほっと安堵の吐息をつくのだった。

 と、その時である。ミーティングルームのドアがおもむろに開かれた。すると当然、全員の目がそちらへと向く。八人の視線を一身に浴びたのは、八幡未来だった。彼女はのんびりと室内を見渡すと、ちょこんと小首を傾げた。

「どしたの? 何だか妙な雰囲気だけど」

「気のせいよ。それより未来、来るのが遅かったわね。何かあったの?」

「あー、まあ、何かあったといえばあったかな。ちょっと待って。……ほら、入っておいでよ」

 訪ねた要に生返事を返すと、未来は全員の疑問の視線にも動じず、部屋の外の誰かに向かって声をかけた。はたして新たに招き入れられたのは、小柄で黒髪のお人形さんみたいに可愛らしい女の子だった。

「紹介するね。この子、転校生の十成凪沙となりなぎさちゃん。ありがたいというか酔狂というか、女子野球部に入りたいんだって」

 未来のざっくりとした紹介を受けて、気持ち緊張した様子の少女は、ぺこりと行儀良く頭を下げて挨拶をした。

「みなさん初めまして。十成凪沙と申します。この度は女子野球部に入部させていただきたく、まことに勝手ではありましたが、八幡さんにお願いしてここに案内してもらいました。精いっぱいがんばりますので、どうかよろしくお願いいたします」

 あまりにも完璧すぎる丁寧な挨拶に、要はもちろん、全員が呆気にとられたように頷くことしかできない。唯一の例外は、やはり空気が読めない天然娘、一ツ橋せつなだった。

「うわあ! まさか本当に転校生ちゃんが野球部に入ってくれるなんて! こちらこそよろしくぶふぇ?」

 いつものように、天真爛漫に喜びを爆発させながら抱きつこうとしたせつなだったが、あろうことか、それは凪沙自身の手によって止められた。無造作に突き出した右手で、せつなの顔面を面白おかしく歪ませながら、淡々とした口調で言ってのける。

「初めに言っておきますが、私は過度な馴れ合いを好みません。仲間とは切磋琢磨しあう集団であって、互いの傷を舐めあうようなおままごとは論外です。それにあなた、一ツ橋せつなを私は認めません」

「ふぇ? ふぃふぉふぇふぁひっふぇ、ふぉーいうふぉふぉ?」

 顔を押さえつけられてなお、もがもがと暴れるせつなに、凪沙は苛立ちを募らせているようだ。形の良い眉がぴくぴくとはね、白い頬には朱が差した。

「あなたみたいな人がチームのエースだなんて、私は絶対に認めません! だから勝負です。私とあなた、どちらがエースに相応しいかを賭けて!」

 突然現れた転校生、十成凪沙はひとかけらもふざけた様子を見せず、心底本気でせつなに挑戦状を叩きつけたのであった。


※※※


「直弥、新入部員よ。けど、少しばかり問題がありそうよ」

 体育準備室に入って来るなり、中野理沙は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。しかしそれは、直弥も同じ気分だった。名前を呼び捨てで呼ばれたことで、他の教師の目を気にしたからである。

「先輩、人目がある時は名前で呼ばないでくれって、あれほど言っておいたじゃないですか」

「ごめんごめん。最近部活でずっと一緒だったでしょ? つい昔のクセで」

 口では謝っている風を装っているが、実際にはほとんど気にしていないだろう。直弥は周囲の好奇の視線に耐えながら、理沙に椅子を薦めた。

「で、新入部員が入ってくれて、どうして問題なんですか?」

「十成凪沙って名前に聞き覚えはない?」

「ないですね。珍しい名前だから、一度聞いたら忘れるのは難しいでしょうけど……」

 直弥が正直に答えると、理沙は無知は罪なりと言わんばかりに顔をしかめたのを見て、話を真面目に聞く態勢を整えた。理沙は無言でパソコンのマウスをひっつかむと、制する間もなくネットの検索を始めた。

「去年のリトルリーグ全国大会優勝チームの中に、同じ名前があったのよ。東北のチームで、それまで無名だったにも関わらず、その年躍進して優勝。その時のエースがこの子」

 理沙が表示させたのは、優勝旗を持って誇らしげに笑みを浮かべる野球少年達。対象の人物にマウスのカーソルを合わせて、理沙はうかがうようにして直弥の表情をのぞきこんだ。

「この子が、エース……?」

 グラブをはめていない左手でトロフィーを手にした小柄で黒髪の少女は、ひとかけらの笑みも浮かべることなく、挑戦的な視線をカメラに向けて放っていた。負けん気の強さが、これだけでうかがい知れるというものだ。

「この子の扱いは難しいわよ。直弥はせつなちゃんをエースにしたいんだろうけど、絶対に黙っていないわよ。プライドが高そうな顔してるもの、誰かさんみたいに」

 体育準備室を出て、グラウンドに向かう直弥の頭に、理沙の言葉は何度も反響していた。降って沸いたような投手の入部。それは喜んで然るべきことなのだが、手放しで喜んでいられないのは、理沙が指摘した通りの問題があるからだ。

「一方は野球経験ゼロの素人。もう一方は弱小チームを全国大会優勝に導いたエリート、か。おまけにプライドが高そうともなれば、衝突するのは目に見えてるな」

 それに天然だし。最後に問題要素を付け加えて、直弥はやれやれと頭を掻いた。チーム力が強化されても、チームの輪が乱れてしまっては本末転倒だ。

「とはいえ、まだ憶測の段階に過ぎないからな。いざ顔合わせしてみたら、何てことなかったっていう話もざらだし。今のうちから心配していてもしょうがないか」

 半ば自分に言い聞かせるようにして、直弥は校舎を出た。理沙は、少し用事があるから先に行ってくれと言っていた。あのほくそ笑んだ表情は、何かを企んでいる時のものだ。すっかり大人の風格が漂う理沙だが、そういう時は少女っぽい瑞々しさを発揮するのだから困りものだ。

「あれで先輩もかわいいところが……って、グラウンドが少し騒がしいな」

 いつもなら練習の掛け声などが聞こえてくるのだが、今日はそれがなくて、変わりに誰かが言い立てているような声が聞こえた。もしや、と嫌な予感に駆られた直弥は、気がつくと駆け出していた。

「だからぁ、いきなり勝負って言われても、何をどうすればいいの?」

「簡単なことです。部員全員を打席に立たせて、その結果で決めればいい。投手としての力をはかるのならば、それが最も有効であると思いますけど」

 直弥が目にしたのは、珍しく狼狽した様子のせつなと、その彼女を前に厳しい顔をした少女だった。その顔には覚えがある。ついさっき画像で見た、十成凪沙その人だった。

「お前ら、いったい何を言い争ってるんだ。練習はどうした?」

 頭がくらくらする思いで、直弥は仲裁に入った。他の部員達も困惑しているようで、どうにも口を出しづらい状況だったようだ。直弥が問いただすより早く、凪沙が紅唇を震わせた。

「あなたが顧問の野島先生ですね? 私は十成凪沙、この度新入部員として女子野球部に入部いたしました。ポジションは投手です。よろしくお願いします」

「あ、ああ。話は聞いてるよ。けど、何をそんなにいきり立って……」

「こう言っては何ですが、一ツ橋さんではとうていエースは務まりません。まず実力がありませんし、エースの自覚もなければ熱意も感じられません。そんな人がマウンドに上がってチームの命運を背負うだなんて、私には考えられません!」

 体は小さいのに、その迫力は大人顔負けだ。クソがつくほどの真面目で、超がつくほどの頑固さを持ち合わせているのだろう。直弥の影から、言われっぱなしのせつなは口元に引きつった笑みを浮かべながら言った。

「全部決めつけられちゃった。でもねナギー、あたしだって投手として一生懸命がんばろうって……」

「勝手に変なあだ名をつけないでください!」

「え? じゃあなぎっぺがいい? これは第二候補だったんだけど」

「なおさら悪いです! そもそも会ったばかりの人をあだ名で呼ぶだなんて、どんな神経してるんですか!?」

 何を言っても火に油を注ぐような状況に、直弥は思わず天を仰いでしまった。どうやら想像していた以上の問題児だったようだ。この騒動をどう抑えたものか途方に暮れていると、救いの女神が大荷物を携えてグラウンドにやってきた。

「みんなおまたせ! ついに私達のユニフォームが完成したわよ!」

 その一言で、部員は我を取り戻した。理沙のもとに殺到する部員達。マウンドに取り残されたのは、凪沙と直弥の二人だけだ。憮然とした面持ちの少女と顔を合わせると、直弥は多分に苦い笑みを浮かべた。

「何はともあれ、俺達はお前を歓迎するよ。今はまだわからないだろうが、一ツ橋の成長を見ていてほしいんだ」

 それだけを言って、直弥も色めき立つ輪に向かって歩いていった。女子野球部十人目の部員の凪沙は、最後までその場から動かなかった。

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