表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第二話『桜爛女子シャイニングガールズ』


 その日の晩、野島直弥はパソコンでメールを打っていた。学生時代はたどたどしかったキーボード打ちも、今ではもう立派なブラインドタッチだ。野球と同じように、反復練習が実をむすんだ結果である。

 お世辞にも片づいている部屋とは言い難いが、それなりにちゃんとしてはいるつもりだ。食事に関しては自炊しているし、洗濯物や掃除もこまめにやっている。ただ、やはりひとりでいるのは少し寂しい。

「あいつは綺麗な嫁さんをもらって、子供も生まれて仕事も絶好調。羨ましがることしかできんぜ、まったく」

 そう言いながらも、直弥の顔には笑みが浮かんでいる。久しぶりに送る親友へのメールは、いつになく長文だ。高ぶる思いを文章にしたためるのに、どうしても字数が多くなってしまう。自分でも引くぐらいの長文メールになってしまったが、自分の思いのたけは伝えられるだろう。

「送信、と。しかし、まさか再び野球に関わることになるとはなあ。それも顧問、いわば監督としてだなんて。冷静に考えて、俺に務まるのかな」

 椅子の背もたれを軋ませながら、直弥は冷静に今日の出来事を顧みた。

 部員が五人集まったことで、学校側の承認が下りるのも時間の問題だろう。顧問は直弥、副顧問は中野理沙が快く引き受けてくれた。

『後輩が体を張るっていうのに、先輩である私が何もしないなんてわけにはいかないでしょ? 元高校野球のマネージャーをなめないでよね』

 理沙は直弥が顧問を引き受けることを知っていた、というより、信じていた。だからその事を告げた時、彼女はまるで自分のことのように喜んでくれた。

「俺が気づくことができなかったお前の成長。それを、あの子を通じて見ることができる。一ツ橋せつなを、押しも押されもせぬエースに育てる。それが俺の至上命題だ」

 パソコンの電源を落とし、凝った肩を手でほぐす。時刻はもう、日をまたごうとしていた。明日の朝も早い。学生の時と違って、野球のことばかり考えてはいられない。体育教師として、その本分をしっかりと果たさなければならないのだから。

「これからだいぶ疲れそうだ。けど、今までのんびりしていた分、ちょうどいいかもな」

 部屋の電気を消して、ベッドの上に身を投げ出した。暗くて静かな部屋。目を閉じると、すーっと眠りの園に引きずりこまれそうになる。調子が悪い時などは、あの夏の無様な光景が悪夢となって甦ることが多々あった。

「今夜は大丈夫。きっと楽しい夢が見られるさ……」

 そうだ。確か実家に、高校のチームメート達で撮った集合写真があったはずだ。あれを持ってこよう。当時の情熱を取り戻すために、あらゆる手段は打ってしかるべきだろう。

 直弥が寝息を立てたのは、それからすぐのことだった。そしてその頃には、直弥が送ったメールの主が返信をよこしていた。明朝、寝坊してメールの確認ができなかった直弥は、慌てて家を飛び出していた。


※※※


「で、野球って何をどうするの?」

 素朴な疑問に、要は眉をぴくりとはね上げた。まさかそこからかと言わんばかりである。そこに静音がやんわりとフォローに入る。

「端的に言っちゃえば、ボールを投げてそれを打つ。一塁、二塁、三塁と回って、最後に本塁を駆け抜ける。そしたら点が加算されて、点を多く取った方が勝ち。とまあ、こんな具合だよ」

「思いきりざっくりしてるけど、概ねそんなところよ。わかった?」

「はあ。まあ、なんとなく。なっちゃんはわかった?」

 それでもいまいちぴんときていない様子のせつなが奈月に尋ねる。幼なじみの少女はこくんと頷いた。

「うん。昨日、お父さんに聞いてきたから、だいたいのことはわかるよ」

「え、そうなの!? あたし、家に帰っても野球のこと全然気にしてなかったや」

 呑気に笑うせつなを見る要の瞳は、底冷えのする光を放っている。すると、それまで黙っていた未来が会話の中に入ってきた。

「これから練習するのはわかったけどさ、どこで何をやるの? 五人しかいないんじゃ通常練習はできないし、そもそもポジションだって決まってないし、それに何より……」

 校舎前にジャージ姿で固まっているせつな達に、帰宅する生徒達は珍妙なものを見るような視線を向けてくる。さすがにいくらか恥ずかしくなってきて、どこかに移動しようとした時だ。

「おーい、みんな待たせたな」

 職員用の玄関から、やはりジャージ姿の直弥が慌ててやって来た。

「先生、遅いー。色んな人達に見られて恥ずかしかったよ~」

「悪い悪い。ちょっと仕事に手間取っちゃってな。さて、まずは何をするかだが」

 ぐずるせつなのおでこを指先で押しやりながら、直弥は部員の顔を見回した。代表して要が意見を言う。

「先生、私達の練習場所なんですが、どこに行けばいいですか? ご覧の通り、グラウンドに我々が入る余地はないようですし」

 要の言う通り、グラウンドはすでに陸上部やサッカー部、テニス部などが使用してしまっている。野球専用のグラウンドは男子野球部が占拠している。部員が多く、実績もあげている男子野球部に場所を貸してもらえるとは思えない。

「そうなんだよ。実は男子野球部顧問の菅原先生に頼んでみたんだけど、やっぱりグラウンドは貸せないって言われちゃってな」

 菅原教諭は話がわからない人ではなく、軽くあしらわれたわけではないのだが、まだ五人しかいない中途半端な部に、積極的な協力はしてもらえないだろう。

「じゃあ、どうするんですか? グラウンド以外っていうと、体育館とか、もしかして屋上とか?」

「体育館はバスケ部とかバレー部が席巻してるよ。ソフトボール部が使ってる第二グラウンドも、余裕はないかな」

 静音や未来も困ったように顔を見合わせる。せつなと奈月はどちらかというと蚊帳の外で、みんなが困っている様子を他人事のように眺めている格好だ。

「野球って、そんなに広い場所が必要なの?」

「せっちゃん、それすら知らないんだね……」

 要のせつなを見る目がよりいっそう厳しくなった気がするが、それに気づいたのは奈月だけだった。

「とにもかくにも、練習するための場所を確保しないといけません。先生には何か考えがおありですか?」

「そうだな。まあ、ないこともない」

 予想外の直弥の返事に、要は軽く目を見張った。直弥はひとまず笑ってみせると、簡単な説明を始めた。

「俺はここのOBで、野球部だった。今お前達が使ってるグラウンドは、新装されたものだ。以前のグラウンドは草ぼうぼうで状態も悪くて、せいぜい来客が多い時の駐車場に使われるぐらいなんだ」

 歩きながら直弥は語り、どんどん校舎から離れていく。生徒達の声が遠くなっていき、前方にちょっとした林が広がっていた。その中に躊躇なく足を踏み入れる直弥。

「こんな奥の方でも、学校の敷地内なんですか?」

「そうだぞ。本当は校舎もこっちの方にあったんだ。今はもう取り壊されて残ってないけどな。ほら、見えてきたぞ」

 直弥が指で指し示した先、林が開けた向こうは、大きな広場となっていた。しかし景観は綺麗とは言えず、直弥が言った通り、丈が長く頑丈そうな雑草がどっしりと地面に根を生やしていた。

「来た来た、やっと来た。遅いぞ、みんな。私だけに雑草取りをやらせるなんて、どういうつもり?」

 あまり怒っていない声が聞こえてきて、せつな達は驚いてそちらを見やった。草ががさがさいったかと思うと、その中から中野理沙が現れた。いつものちょっとお洒落な格好ではなく、ジャージにタオルを備えたラフな格好である。

「すみません、ここの使用許可を取るのに、ちょっと教頭とやり合いまして」

「そうなの? まあ取ろうが取れまいが知ったことじゃないけどね。あの教頭、体面ばかり気にして、肝心な時に腰が重いんだから」

「先輩、その辺で。生徒達もいることだし、ね」

 理沙の愚痴が始まってしまいそうなのを、直弥が先んじてそれを制する。若くて綺麗な中野先生の本性に圧倒されている少女達を慮ったからだ。   

「野島先生、ここを私達で使うと、そういうことでいいんですね?」

「ああ。そのために、まずは草取りから始めないといけないけどな」

 ええ~、と声をあげたのはせつなである。静音はとっくにそのつもりでいたのか、動じた様子は見られない。そしてそれは、未来も同じだった。

「考えようによっては、草取りも立派なトレーニングのひとつだよね。何より忍耐力が鍛えられる」

「掃除のしがいがあるね。特に外野の方はやりごたえ抜群って感じ」

「掃除に必要な道具は揃えてあるから、各自それを使ってやってくれ。俺達も手伝うから、早いところ終わらせてしまおう」

 直弥が指示を出すと、要や静音、未来は素直にそれに従った。奈月もその後に続こうとしたが、せつなが及び腰でいるのを気にして、親友のそばに駆け寄る。

「せっちゃん、早くしないと。みんなに置いてかれちゃうよ?」

「草取りなんかもしないといけないんだ。野球って、めんどくさいスポーツだね」

「そんなこと言ってもしょうがないよ。大変なのは今だけだからがんばろうよ。ね?」

「わ、わかったよぉ。でもどれぐらいで終わるの、これ?」

 と、途方に暮れるぐらい、作業に終わりが見えない状況である。とはいえ、他のみんなが黙々と草取りをしているなか、せつなだけがぶうぶうと文句を言っているわけにはいかない最初のうちはふてくされた顔をしていたが、時間を経るごとにその顔つきは変わっていった。

 桜爛学園女子野球部初日の練習は、グラウンドの草取りで終始したのである。


※※※


「野島先生! ちょっとこっちに来なさい!」

 日が暮れて、生徒達を帰した直弥を待っていたのは、教頭の金切り声だった。かなり頭に血が上っているらしく、いつも以上に早口だ。直弥はやれやれと疲れた身体に鞭打って、教頭のもとへと急いだ。

「何かご用ですか? 先に手を洗わせてもらえると助かるんですが」

「そんなのは後だよ! 今ね、野島先生宛に荷物が大量に運搬されてきてるんだ! 困るんだよこんな勝手なことをされちゃあ!」

「は? 俺宛の荷物ですか?」

 何のことかわからず、直弥は教頭がやかましく指差す方を見た。そして固まってしまう。職員玄関前に、段ボールが山のように積み上げられていたからだ。

「な、なんだこれ? 覚えがないぞ、こんなのは」

「なになに? どうしたの、って、何よこれ!?」

 遅れてやって来た理沙も開いた口が塞がらない様子だ。教頭はなおもわけのわからないことを喚いている。とそこへ、運送業者の男が直弥を見つけてやって来た。

「すみません、あなたが野島直弥様で間違いありませんか?」

「はい、そうですが……」

「ならこちらに印鑑かサインを。……はい、どうも。坂口様からのお荷物、確かにお届けしましたよ」

「坂口? 坂口だって!?」

 さっさと伝票を取り上げ、トラックの運転席に乗り込んだ男に声をかけるも、彼はそのまますぐにトラックを走り出させてしまった。大量の排気ガスと、それ以上に大量の荷物を置いていかれて、直弥はしばし呆然とした。が、すぐに思い直して段ボールの山に駆け寄る。そしてそのうちのひとつの封を破る。中から出てきたのは、新品のグローブだった。

「直弥くん、見て! これ凄いわよ、全部新品の野球道具!」

 理沙も興奮しているのか、直弥の呼び方が学生時代のそれに戻っている。それをたしなめる暇もなく、直弥は次から次へと中身を確かめた。おびただしい量の野球道具に囲まれた直弥は、携帯に着信があることに気がついた。画面に表示された名前を見て、さらに飛び上がらんばかりに驚いた。

「大介か!?」

『やあ、元気だった? だいぶご無沙汰だったね。こうやって電話で話すのも本当に久しぶりだ』

「そんな挨拶はいい! それよりお前、俺に荷物を送ったりしたか?」

『ああ、ちゃんと届いたかな? いや僕もう嬉しくて。新しい部を作るってことだから、道具が足りないと思って。使ってもらえると嬉しいよ』

「やっぱりお前の仕業か……!」

『直弥。女子野球部の監督、がんばってね。遠い海の向こうだけど、僕は応援しているよ。今度会った時には、詳しく話を聞かせてね。それじゃまた』

「あっ!? ちょっと待て大介! もしもし、もしもし!? ……切りやがった、あの野郎!」

 一方的に電話を切られて、やり場のない怒りを携帯に向ける直弥。その様子を、理沙は半ば諦めたように見つめていた。

「あの子、本当にマイペースよね。どうすんのよ、これだけの量」

「とりあえず、どこかに保管しておかないといけないですね。教頭先生、どこか保管場所を借りていいですか?」

 仕方がないので教頭に指示を仰ぐ直弥。が、先ほどまでうるさかった教頭はその口を戦慄かせて黙っている。それを不審に思う直弥だったが、教頭は何度も呼吸を整えた後に、緊張したように聞いてきた。

「……さっきの話の流れだと、これを我が校に贈ってくれたのは、あの坂口大介氏で間違いないのかね? 野島先生」

「ええ。認めたくないですけど、あの坂口大介だと思います」

 吐き捨てるように直弥が言うと、教頭は途端に満面に笑みを浮かべた。

「素晴らしいっ! あの世界的に有名な坂口氏が我が校に寄付などと! これは大いに宣伝材料となりますぞぉ!」

「あ、あの、教頭?」

「放っておきなさいよ。ああなったらもう、誰に求められないわ。……まったく、いい気なものよね」

 結局、荷物の保管場所だけでなく、女子野球部は専用の部室まで用意してもらえることになった。真新しい道具に目を丸くする部員達。その裏で、直弥は男子野球部にも道具のお裾分けを行った。もちろん、タダではない。

「わかったよ。我々にできることがあったら、協力させてもらう」

 そして始まったのは、旧グラウンドの大々的な整備。男子野球部員だけでなく、様々な重機も入って、あっという間にグラウンドが整備されていく。

 かくして女子野球部は、部室とグラウンド、野球道具一式を手に入れたのである。



「う~ん。どうしたらインパクトがあるように見えるかなあ?」

 休み時間になると、教室はそれまでの静けさが嘘のような喧噪に包まれる。五十分の授業の間にためこんだ鬱憤を晴らすかのようだ。その中にあって、一ツ橋せつなは机に向かって、難しい顔でうんうんとうなっているのである。

「やっぱりパンチのあるイラストが重要かな? それともキャッチーなコメントを打つべきか……」

「なになに? さっきからなに独り言ってんの、せつな?」

「ああ、しーちゃん。いやね、女子野球部が認められたのはいいけど、野球って九人でやるんでしょ? けど、今いるのは五人だけ。それじゃやっぱりダメだと思うんだ」

 隣に座っていた静音が、面白がってのぞきこんできた。それに対し、せつなはやたらわかった風な顔で大きく頷いてみせる。すると、前に座っていた要が振り向きざま、冷たい視線を浴びせてきた。

「誘われた側のあなたが、よくもまあそんな大きな事を言えたものね」

「いや~。それほどでもないよ、かなちゃん!」

「こらこら。要にそういうボケはやめておいた方がいいよ。頭に角が生えて、口には牙が生えちゃうんだから」

「静音! あなたまでせつなと一緒になって……」

 要の鋭い怒声に、せつなと静音は同時に、ひゃあ、と声をあげる。本当に怖がっているのではなく、からかっているような感じだ。なんだかんだでこの二人は、波長が合っているのかもしれない。そしてそれは、要にとって忌むべきことであった。

「そうは言うけどさ、かなちゃん。部員集めは大事だよ、うん。だからね、あたしはポスターを作ることに決めたの!」

「ポスター? ポスターって、もしかしてその机の上に広げてある落書きがそうなの?」

 にべもない言葉とともに、要はそれを指差した。せつなの力作と思しきそれは、子供の落書きレベルのものだった。落書き呼ばわりされて、さすがに恥ずかしかったのか、せつなは頬を膨らませて憤慨する。

「ひどーい! これでも一生懸命、がんばって描いたんだから」

「がんばってこれじゃ話にならないわね」

「ある意味ではパンチもきいて、インパクトもあるんだけど、まあよく言ってイロモノかなぁ」

 表現の強弱はあれど、二人から否定の言葉を受けて、せつなの顔色がみるみる曇っていく。そこへさらに要が容赦のない口撃を加えようとしたところで、天からの助けが降ってきた。

「どうしたの、せっちゃん。二条さん達も」

「聞いてよ、なっちゃん。かなちゃん達がね、これじゃダメだって言うんだよ~」

 女神を思わせる慈愛の微笑みとともにやって来た奈月に、せつなは一目散に泣きついた。突然抱きつかれて、びっくりするやらはずかしいやらで顔を赤くする奈月だったが、それを見つけると、さすがに笑みもほろ苦いものに変わった。

「う~ん。ねえ、せっちゃん。ここをこうしてみたらどうかな? そしたら、これもああなって、そっちも良くなるんじゃない?」

「……本当だ。なっちゃん、すごい! やっぱり持つべきものは心からの親友だよ~!」

 奈月の的確な指摘に、せつなは歓声をあげる。その言葉の端々にとげとげしいものを感じたらしい要は、いつものように片眉をぴくりとはねあげた。

「まるで私達が悪者だと言わんばかりの言い方ね。気に入らないわ」

「まあ、しょうがないんじゃない? 二人の仲がわたしらのそれより深いのは確かなんだしさ」

 苛立たしそうにこぼす要を、静音がやんわりと制する。その間にも、せつなと奈月はポスターの構図を決めている。この様子なら、放課後までには部員募集のポスターが出来上がりそうだった。


※※※


 朝の登校風景も賑やかになった。四月のはじめのほんの数日は、二・三年生だけの登校になるので、どこかものわびしさが感じられた。だが入学式を終えて、新入生もだんだんと馴染んできて、活気が息づいてきているようだった。

 校門から校舎に向かう道すがら、桜並木の通りを歩いていくと、生徒向けの大きな掲示板が横手に見えてくる。春のこの時期は、各部活の勧誘ポスターで埋めつくされているのが常だ。私立桜爛学園は、小中高を通して文武両道で知られており、部活動も盛んである。各々の部が優秀な成績をおさめており、部活目当てで越境入学してくる生徒もたくさんいる。

 そんな中に、他の勧誘ポスターとは一線を画す、やたらとポップでキュートな、それでいて挑戦的なポスターが、奇妙な存在感を放っていた。

『急募♪ 花も恥じらう乙女なアナタ! わたし達と一緒に野球、しませんか!? 一年生だけの部活はここだけ! みんなで仲良く楽しく活動しようよ! ただしやるからには本気、練習には熱が入るのでそのつもりで。日頃の運動不足、ダイエットにお悩みなアナタには最適! とりあえずてきとーにがんばろー。私立桜爛学園中等部女子野球部一同より、愛をこめて』

 という、やたらと長く、内容も支離滅裂なキャッチコピーが、少女漫画風のタッチで描かれた女子五人の輪の中に埋めこまれている。正直、その絵だけではこれが野球部にどう関係あるのかわからない。作成者もそれを懸念したのか、余白のそここに、バットやグローブ、それにボールと思しきものをちりばめてあった。

「なにこれー? キャハハ、ちょーマジウケるんですけどー」

「女子野球部って、本気かよ? 一年だけってあるし、どうせおままごと程度のものなんだろ」

「おまけにこの整合性のなさ。ギスギスしてて仲悪そうなイメージしかわかねえなあ」

 当然と言えば当然だが、女子野球部のポスターに対する評価は、概ね悪いものだった。男女問わず、笑いながら歩き去っていく生徒達。そこへ、ひとりの小柄な少女がやって来た。

「女子野球部……?」

 それを見つけると、眼鏡をかけた少女はポスターの前で立ち止まった。手作り感しか伝わってこないポスターを、まじまじと眺める。どう見ても文化系畑のこの少女は、一字一句を頭に刻みこむように、熱心に見つめていた。

「……ダイエット」

「!?」

 ふと隣からつぶやきが聞こえて、少女は思わずそちらを振り返った。そして、ぎょっとその人物を見上げてしまう。そこに立っていたのは、少女よりもはるかに縦と横に大きな女子だった。

「わたしも運動したら、少しはやせるのかなあ……」

 だがその大柄な体格に比べ、性格はだいぶ繊細なようだ。肉厚の体は丸っこくて包容力がありそうだし、ぱんぱんの顔に浮かぶ表情は切なげだが、かわいらしい愛嬌にあふれているように見える。

 まるっきり対照的な少女がそろってポスターを見ている中、その背後をひとりの少女が通りかかる。長身で均整の取れたスタイルの少女。彼女はちらっとだけポスターを視界におさめ、そのまま歩いて行ってしまった。

 そして放課後である。女子野球部員はジャージに着替えて、専用の野球グラウンドに集合していた。

「どうかなどうかな? 新入部員さん、入ってきてくれるかな!?」

「あれで入ってくる人がいたら、悪いけどその人の神経を疑うわ。……今日ほど女子野球部員であることを恥に思ったことはないわ」

「そうだね~、かなりの反響があったみたいだから。悪い意味でだけど」

「ウチのクラスでも話題になってたよ。みんな笑ってた」

「ご、ごめんなさい。わたしも手伝ったんだけど、力及ばずで……」

 期待に目を輝かせるせつなに、冷酷無比な要の睨みが突き刺さる。静音は面白そうにしていて、未来はあまり気にしていない風だ。全く悪びれる様子が見えないせつなに変わって、奈月が本当に申し訳なさそうに頭を下げている。

「まあ、今は新入部員のことは置いておいて、さっそく練習に入りましょう。ようやく今日から本格的に練習に取り組めるんだから、時間を無駄にはしていられないわ」

「練習っていっても、何するの? まさかせっちゃん達に、いきなりボールを握らせるわけにはいかないんじゃない?」

 静音が疑問を投げかけると、要は何を言っているのとでも言いたげに顔をしかめた。

「当たり前でしょ。せつな達はもちろん、私達だって体がなまってるんだから、まずはランニングからよ」

「それが無難だろうね。この前、野島先生も言ってたよ。最初のうちは基礎体力をつけるのが肝要だって」

「えー、走るの~? 野球って、ボールを投げてバットで打つだけじゃないの?」

 準備体操を始めた要たちに向かって、せつなが無知ゆえの暴言を放つ。隣で奈月が袖を引っ張るが、三つの呆れた視線がせつなから逸れることはない。なおも不思議そうに小首を傾げるせつなに業を煮やしたのか、要が一歩前に出かかった時だ。

「おーい! みんな喜べ! 今日から新しく二人も部員が加わるぞ!」

 向こうの方から聞こえてきた嬉しそうな声は、直弥のものだ。その声に反応して、全員が彼の方を向く。直弥の背後に隠れるようにしてついてきていた人影、確かにそれは二つあった。

「ほら! やっぱりあたしのポスターの効果はばつぐんなんだよ、要ちゃん!」

「そんな馬鹿な……。あんな馬鹿げたポスターで人員が確保できるなんて。それじゃ今まで私達がしてきた勧誘活動って……」

「まあまあ。何はともあれ、部員が増えるのは大歓迎じゃん」

 かなりのショックを受けて呆然とする要を気遣い、静音が肩をぽんぽんと叩く。釈然としない要達を置いて、せつなは奈月の腕を引っ張って、直弥のもとに駆けていく。

「ほら、わたし達も行こうよ。せっかくの新しい仲間なんだし、迎えてあげないと」

 未来がのんびりと要に告げる。要は不本意そうに彼女を見やった。

「あなたって、よくもそこまでマイペースを貫けるわね」

「それが性分だからね。得もするし、損をすることもあるけど、まあしょうがない」

「本当にマイペースだわ、こりゃ」

 五人が目の前に揃うと、直弥は後ろに控えていた二人を紹介した。ひとりはこの中で誰よりも小さな女の子。もうひとりはこの場で誰よりも巨漢な女子だった。

「初めまして。一年F組の四谷冴子よつやさえこです。野球経験はありませんが、やると決めたからには精いっぱいがんばります。よろしくお願いします!」

 眼鏡を掛けたおさげの少女は、強い決意を目に輝かせながら、大きく頭を下げた。その後に、ずんと大きな一歩を踏み出す女子。すう、と大きく息を吸ってから吐き出される声は、可憐だった。

「は、はじめまして。わたしは一年D組の五木田円ごきたまどかですっ。野球はやったことないっていうか、運動そのものがあまり得意じゃありません。けど、がんばりますっ。がんばってダイエットしますっ!」

 野球未経験だが、やる気は十分な二名の加入。桜爛学園中等部女子野球部の部員はこれで七名。チームを結成できる人数まであと二人。その展望は明るい、のかもしれない。



 少女がその前で立ち止まる。先日、友人達と一緒になって笑い飛ばしたポスターの前だ。女子野球部。一年生だけで作ろうという、変な部。ポスターの内容もおかしいし、まともな活動をしているかどうかあやしいものだ。

「ま、どうせヒマだし、一度くらい見てやってもいいよね……」

 髪を明るく染めて、ウエーブがかった髪をなびかせながら、少女は女子野球部のグラウンドに足を運んだ。来ているのはもちろん学校指定の制服だが、どこかお洒落な印象を受ける。染髪もパーマも基本的に禁止だが、少女にとってそれはほとんど意味をなさないお題目だった。

「別にそこまで派手じゃないし、やることやってるんだから、別にいいでしょ」

 入学してすぐに担任教師に目をつけられたが、それにも動じなかった。授業は真面目に受けているし、成績も申し分ないものをあげている。他に校則を著しく逸脱しているわけではないのだから、それだけの問題で悪く言われる筋合いはなかった。

 もちろん、それは少女の勝手な言い分に過ぎないのだが、中学生は難しい年頃だ。下手に抑えこもうとすると、逆に悪い方向にいってしまう。そのため、教員達も気を使ってはいるのだが、ともすればそれが特別扱いに見られてしまう。

 そのため、この七城明穂しちじょうあきほという少女は、周囲に誤解をされがちな、損な立場にいるのだった。

「ここが女子野球部のグラウンドか。……へえ、結構キレイにしてあるんじゃん」

 無遠慮にグラウンドを眺めてひと言。明穂はネットの外側からあちこちを見て回った。野球は全然知らないし興味もない。家で父親がテレビ中継を見ているのを一緒に見た程度だ。

「にしても、本当に活動してんの? 誰もいないんだけど……」

 今は七時半を回った頃。他の運動部は朝練に励んでいるというのに、ここには人がいる気配すらない。せっかくだから、どんな風に練習をしているのか、真面目にやっている部なのか見ておきたかったのに。明穂の顔に失望の色が広がっていった。

「期待するだけバカだったってことか。あーあ、とんだ無駄骨を折らされたわ」

 溜息をついて、グラウンドに背を向ける。と、林の向こう側から誰かがやってくる気配があった。それはひとつではなく複数、歩くような音ではなく、こちらに走ってきているようだった。

「うわ、ヤバ。どこかに隠れないと……!」

 急に気まずくなった明穂は、慌てて身を隠す場所を探した。が、こんなに開けた場所で、そう都合よく見つかるはずもない。慌てふためいた挙げ句、グラウンド内のベンチの物陰に滑りこむのが精いっぱいだった。

「こんな所じゃすぐに見つかっちゃう。スキを見て、とっととおサラバしないと……」

 弾む呼吸を抑えながら、明穂は外の様子をうかがう。聞こえてきたのは、やはり少女達の声だった。

「要~、やっぱり少し早すぎたんじゃない? わたし達以外、ついてこれてないじゃん」

「何言ってるのよ。これぐらいのペースに合わせてもらわないと、この先やっていけないわよ。何ごとも最初が肝心なんだから」

「とは言ってもね~。足並みを揃えるのも大事だと思う」

 冷静な声、陽気な声、のんびりとした声。どうやらこの場にいるのは三人のようだ。口振りからして、野球をやったことがある面々なのだろう。

「わかってるわよ。……確かに今回はちょっとオーバーペースだったわ。放課後の練習はもうちょっと抑え気味にする」

「それがいいよ。あー、けど久々につっかれたあ。ただ走ってきただけだけど」

「やってることはまんま陸上部だからね。走って柔軟して筋トレしてって感じ」

 二色の声が笑いに花を咲かせるが、もうひとつは聞こえてこない。ぴりぴりした空気感から察するに、あまり現状を快く思っていないようだ。そうこうしているうちに、遅れていた面々が追いついてきたようである。

「はあ、はあ……速い、速すぎるよみんな。しんどい~」

「せ、せっちゃん。わたしも、もうダメ……もう走れない」

 青息吐息の声に続いて、ぜえはあと喘ぐ声が聞こえてくる。それで終わりかと思いきや、もうひとりいたらしく、同じように疲れきっているものの、聞こえてきた声にははりがあった。

「やっぱり、私達未経験者組は、圧倒的に体力が劣っているみたいですね。これから体力の底上げをはかっていかないと、今後の練習に支障が起きそうです」

「冴子の言う通りよ。せつなに奈月、あなた達は体力にプラスして、その脆弱な精神を鍛える必要もありそうね」

 冷静な声が厳しい指摘をすると、たちまち二色の悲鳴が響き渡る。これまでのやり取りを隠れて聞いていた明穂は、うわあ、と顔をしかめた。

「きっつ~。やたらとのんびりした連中だけど、ひとりだけ鬼軍曹みたいなのがいるわね。ま、彼女が言ってることはもっともだけど」

 そう納得しかけるものの、明穂が置かれている状況はなかなか笑えない。人が増えていけばいくほど、気づかれずにここから立ち去ることは困難になるだろう。こっそりとベンチの端からフェンスの向こう側をのぞきこむ。そこには六人の少女が汗をかいて集まっていた。

「今のうちなら、なんとか逃げ出せるかも……」

 彼女らの意識はグラウンドではなく、林の方に向けられていた。これなら大回りをして、道ではない林側から気づかれずに抜け出られそうだ。制服が汚れてしまうかもしれないが、女子野球部員と鉢合わせるよりはましだろう。

「そうと決まれば、いつまでもこんな所にいてもしょうがない。バイバイ、お気楽脳天気な野球部員さんたち」

 明穂はそっとつぶやくと、ベンチからこっそりと離れた。やはりここにも自分の居場所はなさそうだ。空虚な学校生活がこれからも続くかと思うとうんざりするが、それもまたしょうがない。まだ三年あるのだから、無理をする必要はないのだ。

 と、明穂が体の半分を林に埋めた時である。

「あっ、来た! 先生とまーちゃんが帰ってきた!」

 背の高い少女の声で立ち止まり、明穂はそちらに振り向いた。少し派手な印象があるものの、どこか純真さが残る瞳がとらえたのは、やたらと大きな女の子と、その隣に立つ若い男性教諭だった。

「み、みんなごめんね、わたしだけこんなに遅くて。迷惑かけちゃって……」

「何言ってるの、まーちゃん! すごいよ、完走できたじゃん!」

 疲労困憊のあまり、虚ろな目をしながらも健気に周囲のことを気にかける大きな女の子に、他のメンバーが群がっていく。大切な仲間を受け入れるように、心からの笑顔で彼女のがんばりをねぎらっていた。

「そうだぞ、五木田。大事なのは速く走ることじゃない。最後まであきらめないでやり遂げるっていう、強い精神力が大事なんだ。ひとりじゃできなくても、支えてくれる仲間がいれば、なんだってやり抜ける。みんなもわかったな?」

 あの男性教諭は、確か野島とかいう新任の先生だ。明穂は彼の熱がこもった言葉に、心を強く揺り動かされた。気持ち顔が熱いのは、朗らかに笑う彼の姿が、格好良く見えたからだった。

「ひとりじゃなく、みんなで。……あきらめずに最後までがんばる、か」

 気がつくと、明穂は林から完全に現れた状態でいた。そして、そのままの姿勢で喜びに沸く輪を見つめている。そんな無防備でいれば、存在がばれるのは時間の問題だ。

 明穂がその危険に気がついた時、彼女は直弥に捕捉されていた。

「おっ、そこのお前。もしかして、入部希望者か?」

 その声に、少女達全員が一斉にこちらを向いた。その食いつきぶりに、明穂は思わずたじろぐ。何かを期待する眼差しに見つめられて、明穂は逃げ出すこともままならなかった。「俺達と一緒にやろうぜ、楽しい野球をさ」

 直弥の放った一言が、明穂を完全に射すくめた。顔が、全身が熱くなるのがわかる。あとは一歩を踏み出すだけだ。流れに乗って流されるだけの日々から外れる勇気。ひとりでは無理でも、仲間達がいれば。

「……アタシにもできるかな。自分だけの道を開いていくことが」

 七城明穂が女子野球部に入部を決めたのは、それからすぐのことだった。


※※※


 放課後。少女はある場所に向かうため、校舎を離れた。この学校は部活動に入ることが半ば義務づけられているので、制服姿で帰宅の途に就く生徒はまばらだ。入学して二週間が経つ。担任から遠回しにそのことを指摘されるが、少女はそれを気にも留めていなかった。

 ぴんと伸びた背筋で、しっかりとした歩みをみせた。その挙動には力強さがあり、見た目の可憐さとは裏腹に、何か迫力のようなものを感じさせる。

 そんな彼女、三倉和那の前方から、ジャージ姿の女子の集団が走ってやって来た。

「桜爛学園女子野球部、ファイト!」

『おー!』

「ファイト!!」

『おー!!』

 先頭を走っている知的な少女の掛け声のあとに、全員が続く。だがその声はどこかやけっぱちで、言わされているという感が強かった。その理由は一目瞭然、後方の集団が疲労困憊の様子を隠していなかったからだ。

 和那は無表情のまま歩いていく。女子野球部の集団とすれ違うも、目線を合わせることもしない。その中の誰かがこちらを見ていたような気がするが、気のせいだと流してしまう。

 駆け足の音が遠ざかっていく。和那は立ち止まると、顔だけで後方を見返した。

「……でもあそこには、私が求めるものはない」

 口をついて出たのは、悲しげな呟き。和那の脳裏に、これまでの思いが去来する。拒絶、嘲笑の嵐。頭を振って、嫌な思い出を吹き飛ばす。すべてをかなぐり捨てるようにして、再度前に向き直った。

「さあ、もう少しだぞ五木田。ゴールはもうすぐそこだ!」

「は、はい、先生……がんばります!」

 校門近くまで来たところで、とても大きな少女と、男の先生とが走ってやって来た。おそらく、さっきの女子野球部の関係だろう。和那は同じようにやり過ごそうとして、ぴたりと動きを止めた。

 目が吸い付けられたように離れない。まるでスローモーションのように、彼は自分の目の前を通っていく。記憶の中の姿よりも成長して、大人の風格が備わった彼。でも、あの時の強さと優しさを兼ね合わせた笑顔は、少しも損なわれていなかった。

 気がつくと、その二人は自分の後方に流れていった。和那はそのまま動くことができない。春風が少女の体を突き抜けていく。桜の花びらが別れを惜しむかのように、はかなく舞う。

「野島……直弥……。わたしの……」

 頬に熱いものが流れた。それが自分の流した涙だということに気がつくのに、和那はそれからしばらくの時間を要するのだった。



 体育準備室で、集まった入部届けをリストにまとめる。計八枚のプリント用紙だが、直弥にとってそれは宝と呼ぶに相応しいものだった。

「これで八人。あと一人で、女子野球部は本格的に活動できるな。俺も指導者として、彼女たちにちゃんとした指導ができるようにしておかないと」

 部員はそれぞれ個性があって、一筋縄ではないかないメンバーばかりだが、だからこそ面倒の見がいがあるというものだ。中でも、一ツ橋せつなの存在感は大きい。未経験者で、良くも悪くもムードメーカーな天然娘。あの少女を上手く扱うことができれば、女子野球部の展望は明るくなるだろう。

「経験者が三人に対して、未経験者は五人か。せめてあともう一人、経験者を入れておきたいところだけど」

 ポジション決めはまだしていないが、二条要は捕手、六原静音は遊撃手、八幡未来は中堅手として起用するのが大前提だ。内外野に経験者がいるのは心強いが、肝心の投手がいないのが痛い。一ツ橋せつなを投手として育てるかたわら、誰かを兼任させなければならない。そうなると、野球経験者は多い方がいいに越したことはない。

「ソフトボール部に言って、誰か回してもらうか。いや、いくらなんでもそれはな。顧問の安部先生はよく知らないし」

 まとめたファイルを閉じると、直弥は机の上のブックスタンドに差しこんだ。準備室にはもう誰もいない。夕暮れが色濃くなっている時間だ。体育教師はのきなみ運動部の顧問を務めており、今も熱い指導を行っているのだろう。

「そろそろ練習を上がりにするか。仕事で先輩に任せきりだったし」

 まだ本格的な練習ができないから、基礎練習に終始する日々だが、体力向上を図るには格好の時期といえる。今のうちに走りこんでおけば、今後の貯金になる。これから夏に向けて厳しい練習が続くのだから、少女達にはその準備をしておいてもらわないと。

「あっ、そうだ。今日は実家に帰れって言われてるんだった。面倒くさいけど、仕方がないな」

 直弥は溜息をつきながら立ち上がると、さっさと帰り支度をすませた。野島母は子煩悩なのか、頻繁に家に帰るように直弥に勧めていた。直弥にしても、炊事洗濯をしないですむ実家はありがたい存在だったが。

「ついでに、学生時代に呼んでたトレーニング教本なんかも漁ってみるか。確か大介の覚え書きなんかも取ってあったはず。アイツ、今思えば色んなことを書きこんでたような気がするしな」

 その坂口大介は、今ではドリーム・リーグのエース投手だ。当時は笑い飛ばしていたが、もしかしたらすごく重要なことが描かれているかもしれない。そう考えると、早く実家に帰りたくて仕方がなくなっていた。


※※※


「先生、ばいばーい! また明日ね~!」

「ああ! お前ら、気をつけて帰れよ」

 振り返って大きく手を振る一橋せつなに、直弥も手を振り返した。練習を終えた少女達は、みんなで固まって校門を出ていった。自分が学生の頃は何も気にしなかったが、教師になって始めて、暗くなった道を帰っていくことに一抹の不安を抱くようになった。

「大丈夫でしょ。幸い、みんな家から学校まで近い距離に住んでるみたいだし」

「先輩。そうなんですけどね、やっぱり少し心配ですよ」

「そうね。女子野球部の部員は、みんなかわいい子ばかりだから」

 にやにやと笑いつつ、理沙は直弥の肘を小突いた。

「何が言いたいんですか、先輩。俺は別に、そんなやましい気持ちを持ってなんかいませんよ」

「どうだかね~。口ではそう言いつつも本当は……なんてのはよくある話よ」

「勘弁してくださいよ……」

 ぼやきながら、直弥は駐車場へと向かう。理沙もその後にとことことついて来る。

「ねえ、今日ご飯食べていかない? 美味しいご飯屋さんがあるって聞いたのよ」

「すみません、今日は無理です。お袋に、帰ってこいって言われてるんで」

「えー? せっかくの妙齢美女からのお誘いなのに、母親のお願いを優先させるの?」

「妙齢の美女って。そういうの、俺以外に言わない方がいいですよ。また今度付き合いますから」

 運転席のドアを開けて、そこから助手席に荷物を放り込む。その脇に立つ理沙は、なんとも不満顔だ。

「それじゃ私が今夜暇になっちゃうじゃない。せっかく予定を空けておいたのに」

「もっと早いうちから誘ってもらえてたらよかったんですけどね。それじゃまた明日」

「もうっ!」

 にこやかな笑顔を残して、直弥は運転席に乗り込んだ。窓の向こうで、理沙は不服そうに頬を膨らませている。車のキーを差しこみながら、直弥は胸中で溜息をついた。

「何だか最近、変に押しが強くなってるんだよな。……ひょっとして、焦っているんだろうか?」

 自分もそうだが、理沙はもうじき二十代の半ばに達する。親しい友人の中には、結婚や出産を迎えた人もいるだろう。いくら普段は男勝りの理沙でも、そうした話を見聞きしたりすると、焦りを覚えてしまうのかもしれない。

「先輩のことは好きでも、付き合うとかまではなあ。想像できないぞ」

 車を緩やかに発進させながら、直弥はまじまじと考えこんだ。中学、高校と一緒に過ごしてきて、仲の良い友人関係を築いてきたせいか、どうも今一歩踏み込めそうにない。酒の勢いを借りて、そういう雰囲気になったことは何度かあるが、結局は未然に終わっている。

「この道を走ると、いつも懐かしくなるな。かつての通学路だもんな」

 校門を出て、緩やかな斜面の車道を走る。学生時代、嫌になるほど通った道だ。当時は自転車やランニングで通いつめた。青春の思い出といえば聞こえはいいが、まだそこまで懐かしむほどでもない。

 走っているうち、直弥はふとある場所を思い出していた。学校とは別の、もう一つの思い出の地だ。

「久しぶりに行ってみるか。高校最後の夏以来、一度も行ってなかったな、そういえば」

 実家に向かうには左折する交差点を、直弥は右折した。住宅街から離れ、道は狭いが景色は開けていく。やがて見えてきたのは、広い河川を臨む河川敷だった。

「当然と言えば当然だけど、あの頃とあんまり変わってないな。人気がないのも一緒だ」

 車を降りながら、苦笑いを浮かべる直弥。街の景色の向こう側に、大きな夕陽が沈んでいこうとしている。夕焼けが目にまぶしくて、思わず目を細める。香ってきた土と川の匂いが、直弥に当時の記憶を甦らせた。

「若さっていうのは、何よりの武器だな。よくもまあ部活の練習を終えた後で、ここで夜遅くまで自主練をしていたもんだ」

 土手に足をかけて、かつての青春に思いを馳せる。部活の練習後の汗も流さず、坂口大介と二人でこの河川敷を訪れては、独自のトレーニングでさらなる汗を流したものだ。

「そうだよ。あの橋の下で、ティーバッティングや的当てなんかやってた。大介のヤツは打つ方はさっぱりだったけど、的当ては百発百中で……」

 頭を掻きながら草むらの坂を下りて、河川敷の土を踏む。直弥はそのまま橋の下に向かって歩こうとして、そこに先客がいることに気がついた。暗くてよく見えないが、鋭いスイングの音が聞こえてくる。直弥は訝しみながらも、こっそりとそこに近づいていった。

 そこにはやはり誰かがいた。しかもトレーニングウェア姿で、一心不乱にバットを振っている。しなやかなスイングだが、腰の入った力強い振りに、直弥は驚愕する。だがしかし、そんな彼をさらに驚かせたのは、その人物が少女だったということだ。

「ウチの中等部のジャージだ……。もしかして、まだ一年生なのか?」

 長い髪の毛を、後ろで一本に縛った長身の少女は、直弥が見ていることに気づいていない。完全に素振りに集中しているようだ。あどけなさが残る顔だが、真剣な表情には美しささえ漂っている。それに、少女の体つきは子供とは思えないほど成熟したものだった。ちょっと大きめのお尻にしっかりとした足腰は、野球をするのに十分すぎる魅力を秘めている。

「……っ!」

 自分のスイングが気に入らなかったのか、少女の顔にわずかな苛立ちが見えた。そこで大きな息をつくと、少女はバットを下ろし、ジャージの袖で流れる汗を拭った。そこで初めて、直弥がこの場にいることに気がついた。

「あ……っ!?」

 少女の驚きぶりは、直弥の目から見ても明らかだった。思いきり動揺した少女はバットから手を離し、二歩、三歩と後ずさってしまう。泳ぎまくった目から放たれる狼狽の視線は、唖然とする直弥をとらえて離さなかった。 

「な、なあ! 君は桜爛中学の一年生か?」

 直弥の問いに、少女は答えない。いや、答えられないと言う方が正しいか。さっきまでの凛々しい立ち振る舞いはどこへやらである。直弥は重ねて少女に問いかける。

「俺は桜爛中学の体育教師の野島直弥だ。別に君を叱ろうとか、そういうのじゃないから、名前を教えてくれないかな?」

 なるべく優しくそう言うと、少女も少しは落ち着いたみたいだ。直弥は心の中で安堵の息をつきながら、少女のもとに歩み寄る。が、その心中は決して穏やかではない。喉から手が出るほど欲しい逸材が、目の前に現れたのだから無理もない。

「……い、一年C組の、三倉和那……です」

「三倉、和那……」

 三倉和那は消え入りそうな声でそう答えると、あとは深く顔をうつむかせてしまった。ゆうに百六十センチは越えているであろう長身が、やけに小さく見える。そのギャップに、直弥はどこかおかしさを覚えていた。

「君は、いつもここで野球の練習を?」

「……はい」

「ひとりで?」

「……はい」

 和那は頷くだけで、それ以上会話は弾まない。が、直弥は和那を見つめているうちに、絶対に彼女のことが欲しくなっていた。間近で見れば見るほど、和那の身体能力の高さがうかがい知れたからだ。

 言葉を選んでいる余裕はない。直弥はひとつ咳払いをすると、単刀直入に話を切りだした。

「女子野球部に入らないか?」

「えっ……?」

 当惑の声とともに、和那が顔を上げる。ちょうどその時、最後の夕陽の輝きが橋の下を照らした。

「俺は今、女子野球部の顧問をやっているんだ。部員は本気で野球をやろうとしてる連中ばかりだ。まあ、未経験者の中には、遊びの延長線上と思ってるのもいるけど、そういうのもいいと思うんだ。野球をやるからには、勝つのが最大の目標。けど、重要なのはそこにいたる過程が楽しいものであるということだ」

「楽しい、野球……」

「ああ。俺はみんなの成長を見届けたい。成長を支えてやりたい。何より、みんなが笑顔で野球をする姿を見たい。……どうだろう? 三倉も俺の夢に付き合っちゃくれないか?」

「……先生の夢って?」

 いきなり夢などと語られて、和那も困惑したのか、不思議そうな声で訪ねてくる。直弥は照れくさそうに頭を掻きながら、それでも少女に自分の本心を打ち明けた。

「俺もさ、学生の頃はここで君と同じように練習に打ちこんでいたんだよ。目指せ全国大会、ってな感じにさ。結局それはかなえられなかったけど、やっぱり夢はあきらめられないんだよな。俺の夢は、自分が成長を見届けたチームが楽しく野球をしてくれることなんだ」

 アイツみたいにな、それを言葉に出すにはあまりにも気恥ずかしくて、直弥はそこで口をつぐんだ。不思議なもので、どうしてじぶんが初めて会った少女にこんなことを言うのかわからなかった。鼻で笑われても仕方のない内容だ。案の定、和那は黙ってしまっている。苦笑して、直弥が気まずくなってしまった空気を笑い飛ばそうとした時だった。

「……わたしには、憧れていた人達がいるんです。話したことはないけど、いつも楽しそうで、一生懸命で。だからわたし、気がついたらずっとその人達のことを追っていました。いつかこの人達みたいに本気になれたら、追いつけたらって思ってたんです」

 ふっ、と、穏やかな笑みが和那の顔に広がった。その笑顔に、直弥は思わず見とれた。それは、これまで見たこともないような美しさだった。

「だからわたし、先生の夢のお手伝いをします。わたしにどれだけのことができるかわからないけど、どうかよろしくお願いします」

 そう言って深々と頭を下げる和那。再び顔を上げた和那の目には、涙の滴が溜まっていた。


※※※


「というわけで、彼女が我々女子野球部九人目のメンバーだ。みんな、暖かく迎えてやってくれ!」

「み、三倉和那です。よろしく、お願いします……」

 翌日の朝、直弥はグラウンドで部員全員に和那を紹介した。これで試合をするのに必要な人員が集まった。みんなの喜びは大きかった。

「やったあ! 和那ちゃん、これからよろしくね! みんなでいっしょにがんばろー!」

「ひゃあっ!? う、うん、がんばります……」

 さっそくせつなが和那に飛びついて、懇親の雰囲気を作り上げる。要たち経験者の和那を見る目も、期待に満ち満ちている。唯一、同じクラスの七城明穂だけがうさんくさそうにしている他は、概ね歓迎ムードだった。

「でね、メンバーも揃ったことだし、ここらでチーム名を発表したいと思うんだけど」

 副顧問の理沙が言うと、少女達は一斉に彼女の方を見た。その反応に満足したらしく、理沙は大きな胸をひけらかすかのように大きく反らせると、後ろ手に隠していたものをばっと明らかにした。

「じゃーん。その名も『桜爛女子シャイニングガールズ』よ! 希望と勝利に向けて輝け少女たち、っていう意味。どうかしら?」

 理沙が手にしているのは、彼女の自作によるチームの旗であった。どうやら、夜な夜な作成を手がけていたらしく、それを今朝知らされた直弥に、異論を唱える隙はなかった。

『シャイニングガールズ……』

 少女達の口々から、唐突に決められた自分達のチーム名が聞こえてくる。なんとも微妙な反応に、直弥がフォローを入れようとした時だ。やはりこういう雰囲気を崩すのは、超絶天然娘の一ツ橋せつなだった。

「理沙ちゃんせんせー、グッジョブ! このチーム名、まさに今のあたし達にピッタリ! ねえねえ、みんなもそう思うでしょ!?」

 せつなの喝采に、惑っていたメンバーの心も定まっていく。やがて全員が頷くと、少女達は自然と円を組んで、それぞれの肩に腕を回していった。

「ほら、先生たちも早く早く!」

「わかったよ。先輩?」

「ええ! いいわね、こういう雰囲気」

 いそいそと円陣に加わり、部員と一体化する直弥たち。理沙の言う通り、こういう結束する感覚は久しぶりだった。とても心地が良く、清々しい。それでいて心が沸きあがるような熱さに燃えている。これからが始まりなのだ。

 誰からともなく大きな声をあげる。それはひとつになって、グラウンド中に響き渡った。『桜爛女子シャイニングガールズ! ファイト、おーっ!!』

 桜爛学園中等部女子野球部の発足。その始まりは、部員九名、すべて一年生によるものであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ