第一話の三と四
三
真っ直ぐな眼差しが怖かった。野球から離れる決意をした直弥にとって、二条要の訪問はまさに青天の霹靂。まだ中学生になったばかりの少女に対して、みっともなく感情を露わにしてしまった。
『どうしてわかってくれないんですか!? 私たちは本気なんです! 本気で野球をしたいだけなんです!』
心に突き刺さる真摯な思い。だが直弥はそれから逃げた。もっともらしいことを感情にまかせて放ちながら、それと向き合うことから逃げたのだ。しつこく食い下がってくる要に苛立ち、危ういところで手を出してしまうところだった。
(あの時、誰かが来てくれなかったら、今ごろ俺はこんな風に授業を行えていなかったかもしれないな)
心中で自嘲気味に呟きながら、直弥は体育の授業に意識を戻す。グラウンドの一画に移動して、今はドッジボールの試合を行っている。女子らしく、きゃあきゃあと甲高い声をあげながら、それなりに楽しそうである。
ボールから逃げまどう少女、ボールで相手を狙う少女。やる気がある者もいれば、興味がない者もいる。コート上で優勢なB組を引っ張っているのは、やはり二条要と六原静音の二人だった。
「せっかくの試合なんだから、勝ちにいきましょう。ボールなんて、怖がらずに真正面から受け止めればなんてことないわ」
「そうそう。あたしらにしてみれば、普段はもっとちっこいボールを扱ってるんだから、全然問題ナシだよ」
冷静かつ的確な陣頭指揮をとる要と、右往左往しがちな自軍を軽快な動きで立ち回ると同時に、士気を鼓舞する静音。言うなれば、要が人間で言うところの脳で、静音が手足といったところか。
「二人とも野球をやってるんだよな。察するに、二条が捕手で六原が内野手、遊撃手という具合か」
気がつくと、直弥は二人の動きを分析していた。要のボールの捕球は小手先ではなく、体全体を使ったものだ。それに、投げるボールの勢いが他とは全然違う。相当に肩が強いのだろう。フィールディングも申し分ない。
静音の身のこなしも、守備機会の多い遊撃手らしく、非常に軽快だ。特に足の運びとボールに対する勘は特筆すべきものだ。瞬時の判断力も素晴らしく、次々と相手選手にボールをヒットさせている。
「こいつらがグラブとボールを握ったら、どんなプレイを見せてくれるんだろうな」
女子中学生とは思えない動きに舌を巻きつつも、直弥は密かに期待をしている自分に気がついて、思わず渋面を作った。
「なんだって俺は……。もう野球とは関わらないって決めたのに」
つくづく自分の意志薄弱ぶりが嫌になる。だが、心高ぶるものがあるのは事実だ。要の期待と自信に満ちあふれた姿は、かつての自分を鏡で見たかのような気分にさせられた。だからなのだろう。あそこまで過剰に反応してしまったのは。
コートに視線を戻してみる。A・B組混合で四チームに分け、同時に二試合を行っている。二条要と六原静音がいるのが①チーム。そして、②チームには一ツ橋せつなと九重奈月がいた。
「せ、せっちゃん。もうわたしたちしかコートに残ってないよ~」
「へっ? あ、本当だ。けど、よく見てなっちゃん。向こうも三人しかいないよ」
息も絶え絶えに泣きついてきた奈月に、せつなは涼しい顔で指摘してみせた。確かに、①チームは要と静音、あともう一人がいるだけだ。幸いなことに、二人以外はやる気のないメンバーが揃っていたらしい。
「でも、二条さんと六原さん、さっきからすごかったよ? わたし達だってあっという間に……!」
「だいじょぶ、だいじょーぶ! あたしにまかせて、なっちゃん! なっちゃんはあたしが守る!」
と、勇ましく言い放つせつなだったが、正直なところ奈月は戦力にならない。向こうもあとひとりは員数外もいいところで、事実上の二対一という構図が出来上がってしまっている。それに相手は運動に特化した面々ときては、勝ち目などとんとないように思われた。
「いや~、やっぱ一ツ橋さんはおもしろい人だねぇ。早いうちに仲良くなっておきたいなあ」
「静音、こんな無駄な試合はさっさと終わらせるのよ。他のチームに期待をかけましょう」
どうやら要の目にかなう人物は、あの中にはいなかったようだ。静音は肩をすくめると、手にしていたボールをせつなに投じた。鋭い軌道を描く球筋は、せつなに向かって真っ直ぐ突き進んでいく。
「当たると思うでしょ? ところがどっこい、えいっ!」
口元に笑みを浮かべるや、せつなは素早くその場にしゃがみこんで、飛来するボールをかわす。と、そこまではよかったのだが。
「えっ!? せ、せっちゃん!? はぶぅっ!」
「あ!? なっちゃーん!」
せつなという壁が目の前からなくなってしまったせいで、その後ろに隠れていた奈月が無防備をさらしてしまった。しかも悪いことに、せつなの胸元の高さは奈月の顔に位置する。つまり、奈月の顔面にボールが激しくクラッシュしたというわけである。
「お、おい! 九重、大丈夫か!?」
「なっちゃん、ゴメン! まさかこんな事になるなんて」
その場でふらふらとしている奈月のもとに、慌てて直弥が駆け寄る。せつなも必死に謝るが、なかなかどうして説得力に欠ける光景である。
「あちゃー。大丈夫かな、九重さん」
「平気でしょ。硬球ならともかく、軟球でだって命に別状はないわ」
口ではそう言いながら、要の表情にも心配する色がうかがえる。静音は足下にまで転がってきたボールを拾い上げると、器用な手つきで弄び始めた。
「う、う~ん。だいじょうぶ。顔がじんじんするけど、平気だよ、せっちゃん」
「なっちゃん。……見ていてね。わたしがなっちゃんの仇をとってあげるから」
「いや、それは違うだろ。とにかく、九重はコートの外に出すぞ。おーい、誰か九重についてやってくれ」
ひとり熱くなるせつなに釘を刺しながら、直弥は軽々と背中に奈月をおぶさった。
「ひゃあっ!?」
「落っこちないように気をつけてくれよ」
たくましい大人の男の背中を感じて、奈月は全身をかあっと熱くさせた。だが直弥は少女の思いなど露知らず、さっさとコート外に運び出してしまうのだった。
「六原さん、二条さん! 悪いけど、今から弔い合戦よ。なっちゃんの仇、討たせてもらいます!」
静音が返してくれたボールを胸に抱きながら、せつなは思いのたけを振り絞った。が、それに感銘を受けた者は、コートの内外どこを探しても見つからなかった。
「何言ってるの。そもそもあなたが避けなければ、あんなことにはならなかったんじゃない」
「人のせいにするのはよくないなあ、一ツ橋さん」
「ち、違うもん! もとはといえば六原さんがボールを投げてきたから……いや、それを言うならドッジボールをあたし達にやらせた先生のせい?」
途端に矛先を向けられるが、直弥は奈月の介抱をしながら半眼で返す。
「アホか、お前は。いいからさっさと試合を進行してくれ」
「言われなくてもそうさせてもらいますぅ!」
べーっと舌を出すと、せつなはボールを構えた。相手コートに残っているのは三人。本来なら、一番仕留めやすいところからねらうのがベストなのだろう。だが、せつなはあえてその逆を行った。
「まずは二条さん、覚悟!」
何も宣誓する必要はないのだが、せつなはびしっと要を指差した。要は付き合っていられないとばかりに頭を振ったが、相手が狙ってくるとわかった以上、何もしないわけにはいかない。
「いいわ。私の手で決着をつけてあげる。早く投げてきなさい」
「いくわよ~……ええーいっ!」
重心を低く構えた要がせつなを挑発する。それに応えるかのように、なんとも気の抜ける掛け声をあげながら、せつなは足を大きくあげて振りかぶる。それを何の気なしに眺めていた直弥の顔が、瞬時に変わった。
「なんだと……!?」
驚愕に目を見開いた直弥の目に、今まさにボールを投げようとするせつなの動きが、スローモーションのように映っていた。上げた足を前方に踏み出し、ボールを持った右腕は体に巻きつくように、まるでムチがしなるかのような動きで振り下ろされる。
「これはまるで、大介の動きそのものじゃないか……!」
一方で、要は投じられたボールを捕球しようと集中していた。球の速さはそれほどでもない。これなら余裕で捕れて、そのまま投げ返すことができる。要の頭脳にそんな青写真が浮かび上がったが、それはすぐに暗転した。
「伸びる……!?」
「うそ、要!?」
信じられないことが起きた。完全に捕球体勢に入っていた要が、飛んできたボールを弾いたのだ。あまりのことに、要も静音も身動きひとつすることができない。その隙を見逃さず、せつなは静音にもボールを当てていた。
「あのボールの伸びはいったい……? さして速い球、ううん、むしろスピードなんてなかったのに」
「これはもしかしたら、掘り出し物を見つけたのかもしれないよ、要」
もはやドッジボールそっちのけで、興奮気味に言葉を交わし合う二人。その裏では、最後にひとり残った少女が、あっさりとせつなにボールをぶつけて試合は終わっていた。
「あーあ、あともうちょっとで勝てたのになあ」
口で言うほど残念がっていないせつなが、笑いながら奈月のもとに戻ってくる。奈月はまだ赤い顔を笑顔にして、せつなを迎え入れた。
「でも、すごいよせっちゃん。二条さん達をやっつけちゃうんだもん。わたし、興奮しちゃったよ」
「そう? それほどでもないよ~、あははー」
奈月に持ち上げられて悪い気がしないせつなは、照れくさそうに笑う。そんな二人のやり取りを見る直弥の目は、これまでにない迫力を秘めていた。
「一ツ橋。お前、何かスポーツをやってたのか?」
「わっ、びっくりしたぁ。いきなりどうしたんですか、先生?」
「いいから。何かやってたのか!?」
突然話に割り込まれて困惑するせつなをよそに、直弥の語調はなおも強まる。そばにいた奈月が、不安そうな面持ちでせつなと直弥を見やる。
「何かやってたかって言われても、普通に体を動かすのは好きでしたよ。強いて言うなら、体がすごく柔らかいってことかなあ」
言いながら、ぺたんと地面に座りこんだせつなは、足を広げるやそのまま上体を前に倒してみせた。奈月に言った通り、胸はおろか額まで地面にぴったりとついてしまっている。開いた足はほぼ180度に開いており、その柔軟性のすごさがうかがい知れる。
直弥は黙って、じっとせつなを見つめた。天然少女は今もなお、自分の柔軟性を行動で示している。そしてそれを見つめるのは直弥だけではなかった。要と静音も、直弥と同じようにせつなに熱い視線を送っているのだった。
四
昼休み。二条要と六原静音は、他クラスの女子の訪問を受けていた。
「女子野球部を作ろうって言ってるのはあなた達? わたしは一年D組の八幡未来。もしよければ、入部させてもらえないかなー、って」
とりたてて背が高いわけではないが、横にがっしりとした短髪の少女がにへらと相好を崩す。肌も焼けていて、一目でスポーツに打ちこんできたことがわかる要望に、要の顔が輝く。
「もちろん、喜んでお迎えするわ。以前は何をやっていたの?」
「小学生までソフトボールをやってたんだ。ポジションは投手で、肩が強いってんで、外野も兼任してた」
「なるほど~。確かに、見るからに肩が強そうな感じがするもんね」
照れくさそうに話す未来を、静音はしげしげと見やった。体の強さは本物だろう。自然に要と顔を見合わせると、満足げに頷く。
「で、今の部員は何人いるの?」
のんびりとした口調で未来が聞いてくる。その瞬間、華やいでいた雰囲気は停滞し、なんとも居心地が悪いものになる。未来はあまり場の雰囲気を気にしない性格だったので、不思議そうに二人を見やっていた。
「言いにくいことをずばっと聞いてくるねえ、未来ちゃん」
「隠してもしょうがないわ。たった今、三人になったところよ」
自嘲気味に笑いながら、要は正直に答えた。静音はおどけて肩をすくめている。三人目の女子野球部員になった未来は、妙に納得した様子で頷いた。
「なるほど。大変なんだ、やっぱり」
その後しばらく、三人で今後の予定を話し合う。たった三人でも、二人分の知恵から三人分の知恵になったのは大きい。それに未来はソフトボール経験者だ。心強い存在になるのは言うまでもなかった。
「他に目星がついてる子はいないの? それとも、未経験でも頭数を揃えていく予定?」
「なるべくなら経験者を多く集めたいけど、そう思い通りにはいかないと思う。来る者拒まずってところかしら」
「選んでる余裕なんてどこにもないしねー。けど、このクラスにひとり、誘ってみたい子がいるんだけど……」
思わせぶりに言いながら、静音は視線を巡らせる。未来がその行方を追いかけると、ある女子の集団に行き着いた。昼休みということで、いつも以上に楽しそうに話している少女達。その中心に、一ツ橋せつながいた。
※※※
午後の授業が始まった。受け持ちの授業がない直弥は、準備室でデスクワークに務めていた。が、集中して仕事などできるはずもない。あれからずっと、一ツ橋せつなの投球モーションが頭から離れないでいたからだ。
「一ツ橋せつな。……あれは練習してそうなったわけじゃない。だがあまりにも理想的すぎるフォームだ。あいつの、大介の投げ方にそっくりなんだ……」
あの優雅に流れるような動きは、忘れろと言うのが無理な話だ。直弥がそれを目の当たりにしたのは、あの夏のあの試合だけだ。それでもはっきりと覚えている。だから、せつなが見せてくれたものは、直弥にとてつもない衝撃を与えたのだ。
直弥はデスクワークを放り出すと、他に誰もいない準備室のパソコンを操作した。世界的に利用されている動画サイトを開き、検索項目に『坂口大介 ピッチング』と入力する。ほどなくして、無数の動画ファイルがずらりと列をなした。
「これだけで、あいつの活躍ぶりがわかるってものだよな」
独り言を呟きながら、延々とスクロールバーを下に下げる。ドリームリーグで活躍していることもあって、映像はほとんどそれらに集約されている。だが、直弥が探していたのはそれではない。根気よく探し続けたところで、ようやくお目当ての動画にたどり着くことができた。
「あった、これだ……『真夏の試合の天国と地獄』。地獄ってのは、俺のことだよな」
自嘲しながら、直弥はその動画を再生した。夏の全国大会出場を賭けた、地区大会決勝戦。私立桜爛学園高校野球部が迎えた九回表、投手が変わったところから始まった。
マウンドに立ち、冷静な表情で投球練習を行う坂口大介。体の線は細いものの、背が高くて手足が長い。直弥の記憶に新しい大介と比べ、だいぶひょろっとした印象を受ける。だが、それが彼のシャープさをより感じさせるようになっていた。
「そうだ。やっぱりそうだ。あの子はこの時の大介にそっくりなんだ……」
一塁側内野スタンドから撮られた映像。打者に向かって、振りかぶって投球する大介の姿は、芸術の域に達していた。直弥の記憶に焼きついているものより、よっぽどクリアに、第三者的に映し出されている光景。気負うことなく、淡々とボールを投げこむ親友は、とても美しく、格好良かった。
最後の打者を三振で討ち取った大介が、駆け足でベンチに戻っていく。帽子の影に隠れてしまった表情は、控えめであったが、充実した笑みが広がっていた。そこで動画が止まり、直弥もまたその場から動くことができなかった。
「あ~あ、いけないんだ。誰もいないのをいいことにサボるだなんて。教師の風上にもおけないわね」
「暇だからって、自分と関係ない準備室に油を売りに来る方もどうかと思いますけどね」
振り返ることなく、憎まれ口を返す直弥。が、その声に迫力はない。そのため、闖入者を追い返すことはできず、かえってすぐ背後にまで侵入を許してしまうのだった。
「先輩の差し金ですよね? あの子達に俺を顧問に祭りあげろって吹きこんだのは」
「さあ、何のことかしらね? 私にはさっぱりわからないけど、いたいけな女の子から誠心誠意お願いされるのって、男冥利に尽きるんじゃなくって?」
シラを切りながら、中野理沙は慣れた感じで直弥の背中にまとわりつく。理沙の香りが直弥の鼻孔をつき、柔らかい感触もしっかりと伝わってきた。
「やめてくださいよ、ここは学校ですよ?」
「あら。じゃあ学校じゃなければいいの?」
「子供じゃないんだから、ああ言えばこう言うはやめてください」
うんざりと直弥は言うが、理沙は体を離そうとしなかった。こういったスキンシップはいつものことなので、直弥もそれ以上抵抗はしなかった。
「あの時の映像を見てたのね」
「ええ。どうにも懐かしくなって」
「どういう風の吹き回し? これまで絶対に見ようとしなかったのに」
「それは……」
言い淀む直弥に向かって、理沙は優しく微笑んだ。
「だったら、自分がしたいと思うことをすればいい。まだ完全燃焼できていないんだよ。……そんなに簡単にあきらめられるわけないでしょ?」
理沙には頭が上がらない。彼女の暖かい腕に抱かれながら、直弥は諦観に似た面持ちを浮かべた。しかし心はどこかすっきりとしている。思い悩んでいる時、理沙はいつだってこうやって自分を気遣ってくれた。
「今回ばかりは先輩に感謝しますよ。……もう迷うのは、目を背けるのは止めにします」
「そっか。うんうん、やっぱり男の子はそうでなくっちゃ」
「子供扱いはやめてくださいよ」
「なら、今度大人同士の触れ合いでもする?」
「それも遠慮しておきます。取って食われるのが目に見えてますからね」
理沙の熱いささやきを冗談口で返すと、直弥は立ち上がった。その時ちょうどチャイムが鳴って、その日の授業の終了を告げた。そこはかとなく不満げな顔をしている理沙に振り返ると、直弥は力強く頷いてみせた。
「夢の続きを見てきます。……かつての幻影を追いかけて、それを越えるために」
※※※
「んー、終わったぁ。さ~て、これからどうしようかなぁ」
ホームルームが終わり、あとは帰るだけの身となったせつなは、うーんと背筋を伸ばした。そこに奈月もやってきて、せつなが席を立った時だ。
「一ツ橋さん、これからちょっといいかしら?」
さっと立ち上がった要が、鋭い一瞥をせつなにくれる。その迫力に、せつなは思わずたじろいだ。
「まま、悪いようにはしないからさ。話を聞くだけでも、ね?」
要の脅迫に似た雰囲気をやわらげるつもりなのか、静音が申し訳なさそうに手を合わせる。奈月はただならぬ雰囲気に脅えてしまっているし、当のせつなは見当違いの思いこみをしていた。
(ま、まさか二人とも、体育の授業の時の仕返しをしようとしてるんじゃ……?)
その思いが表情に出ていたのだろう。要の冷静な顔が呆れたものに変わった。
「言っておくけど、あなたが思っているようなことじゃないわよ」
「はっ!? なんでわかったの? もしかして二条さん、エスパーなの!?」
大げさに驚いてみせるせつな。要は完全に呆れかえり、静音はおかしさを堪えきれずに笑ってしまっている。おろおろとしている奈月の脇に、新たにやって来た少女がいた。
「お待たせ。って、もしかして何か取り込み中だったりするのかな?」
「やっ、未来ちゃん。これから取り込むところなんだよ」
ジャージ姿でやって来た八幡未来に、静音は意味ありげに目配せをする。その時、要は自分達が教室中の注目を集めていることに気がついた。
「とりあえず場所を変えましょう。話はそこで。いいわよね?」
「はい……わかりました」
要の声には、抗いがたい何かが秘められていた。せつなは一も二もなく頷くことしかできなかった。
五人が連れだってやって来たのは、グラウンドが一望できる高台だった。奈月もせつなのことを心配してついてきていた。要と静音、せつなと奈月の二対二の構図の間に、きょとんとした様子の未来が立っている。
桜の花びらが舞う中で、要は話を切り出した。
「単刀直入に言うわ。一ツ橋さん、あなたに女子野球部に入ってもらいたいの」
「……へっ?」
当然のことながら、要の唐突な申し出に、せつなは困惑の表情を浮かべた。
「体育の授業で、あなたに潜在能力を見出したのよ。才能と言ってもいい。それがあなたにはある。だから私たちと一緒に」
「ちょちょちょ、ちょっと待って二条さん? いきなりそんなこと言われても、何のことだかあたしにはさっぱり……」
話をどんどんまとめていこうとする要に、せつなは待ったをかけた。要の言葉の足りない分を補うかのように、静音が言葉を繋げる。
「一ツ橋さん。実は今回、あたしらで女子野球部を立ち上げるんだよ。で、今は部として認めてもらうために部員を募集してるところ。こっちの八幡未来ちゃんも、その中のひとりなんだ」
「よろしくね。なんだか揉めてるみたいだけど」
なははと笑いながら、未来は頭を掻いた。つられてせつなも笑うが、どう見ても苦笑である。そこへおそるおそるといった具合に、奈月が手を上げた。
「あのつまり、二条さん達はせっちゃん、せつなちゃんを野球部に勧誘したいってことですか?」
「その通りよ。一ツ橋さんは投手として優れた才能を秘めている。それを眠らせておくのはもったいないわ」
「もったいないオバケが出るってやつ? まあ冗談はともかく、一ツ橋さんにはものすごい可能性があるんだよ。経験者のあたしらが言うんだから間違いない、うん」
そして、全員の視線がせつなに向けられる。自分のあずかり知らないところで注目されていたことを知って、せつなはひどく狼狽していた。
「い、いやいや! 才能とか可能性とか言われても、あたし野球なんてやったことないよ!? それで期待されても困るっていうか……」
「別に構わないわ。最初からできるなんて思ってないし、私達でちゃんと教えてあげるから」
「そ、そういう問題じゃあ……」
「一ツ橋さん、どこか他に入ろうと思ってる部活はあるの?」
「ない、けど……」
「なら、いいんじゃない? 今日初めて会ったわたしが言うのもなんだけどさ」
せつなを取り巻く包囲網は、確実に狭まっていた。助けを求めるように奈月を見るが、奈月はせつな以上に縮こまってしまって、逆に助けを求められる始末だった。
「でも、やっぱりあたしには無理だよ。やったことないし、興味ももってないし。それに才能なんて……」
戸惑いながらも頑ななせつなの態度に、要と静音は顔を見合わせた。勧誘失敗か、二人の表情にそんな暗い影がよぎる。と、その時だった。
「才能ならあるぞ、一ツ橋。お前には間違いなく、周りを唸らせる才能がある」
その声に全員が振り返る。夕焼けに変わりつつある空、高台に登ってきたのは、真剣な顔をした野島直弥だった。
「その証拠が俺だ。俺はお前のフォームに魅せられた。かつての幻影を見た。その成長を見届けたいと思った」
「野島先生、それって……」
近くまでやって来た直弥に、要が尋ねる。直弥はそれに直接答えようとせず、あくまでせつなにのみ視線を向けていた。
「俺からも頼む。野球部に入ってくれ、一ツ橋。そして、俺に付き合ってくれ!」
『え、えええぇぇぇー!?』
最敬礼をして声を張りあげた直弥に、その場にいた少女全員が驚愕の叫びをあげた。
「つ、付き合うって。あたしが? 先生と!?」
「野島先生!?」
「あちゃ~、まさかロリコンだったなんて」
「部員も面白ければ、顧問の先生も面白いだなんて、疲れちゃいそうな部だなあ」 顔を赤くして色めきだつ少女達。その中でひとりだけ、奈月だけは何やら怒ったような顔でうつむいていた。小さな拳をぎゅっと握りしめて、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「わ、わたしもやりますっ! 女子野球部、わたしも入部します!」
「えっ!? な、なっちゃん!? あたし、まだ入部するなんて一言も……」
「ううん、やろうよせっちゃん! そして負けないんだから!」
奈月がみせた迫力は、せつながこれまでに見たことがないものだった。こうなってしまうと、せつなだけがわがままを貫くわけにはいかなかった。周りの雰囲気に流されてというのは少々癪に障るが、もう決断するしかなさそうだ。
「……わかった、わかりました! やります、やればいいんでしょ! もー!」
せつなのやけっぱちの宣言が、桜の木に咲いた花びらを宙に舞わせる。無数の花びらに包まれながら、各人はそれぞれの表情を浮かべる。
この日、私立桜爛学園中等部に新たな部が加わった。軟式女子野球部、顧問と副顧問、それに部員は五名だけという状態だが、確かな一歩を踏み出したことに間違いはなかった。