春風と桜花が見せた過去の幻影
野球経験が全くない作者による、無分別な女子中学生野球のお話です。なので、多分にファンタジックな設定、知識などがちりばめられると思います。かわいく、明るく、元気よく、野球を楽しむ少女達の姿を書いていけたらなと思います。それでは、よろしくお願いします。
オープニング
今でも夢に見ることがある。忘れもしない、あれは高校三年生の夏。身も心も焼き焦がす灼熱の太陽の下で繰り広げられた青春。
俺は私立桜爛学園高等部、野球部のエースだった。子供の頃からの夢だった全国大会出場を目標に、来る日も来る日も練習に明け暮れていた。
そのかいあってか、俺は投手としてチームの中心になっていた。MAX140kmの速球を武器に、右の本格派と他校に知られる存在となった。プロのスカウトが訪れたことも、一度や二度ではなかった。
三年生になって、チームは勝ち進んだ。俺が抑えて、仲間が点をあげる。これまで以上に感じられたチームの一体感。全国大会出場。それは絵空事に留まらず、次第に現実味を帯びていった。
だが、そんな俺たちに、破局は唐突に訪れた。エースとしての気概と責任感を胸に投げ続けた俺の肩は、限界をとうに超えてしまっていたのだ。
徐々に感じ始めていた肩の違和感は試合の終盤、八回裏で爆発した。
振り仰ぐと、センターバックスクリーンに向かって白球が飛んでいく。投手からしたら、それは無情の光景だ。呆然と立ちつくす仲間達、喜びにまみれながらダイヤモンドを駆け抜ける相手チームの選手達。俺は、頭の中が真っ白になっていた。はっきりとわかっていたのは、どうしようもないぐらいに痛む右肩だった。
満塁ホームランを打ちこまれた八回裏、未だノーアウトという最悪の状況で、俺は初めて試合途中でマウンドを降りた。それがあまりにも情けなくて、恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。目には涙が浮かんでいて、それをこぼさないようにするのに必死だった。
『よくがんばった。あとは僕に任せて、お前はゆっくり休め』
だから、そう言いながら俺の代わりにマウンドに上がったアイツの顔を見ることができなかった。
ベンチに戻ると、俺はもう我慢の限界だった。タオルを頭からかぶると、周囲の目を気にすることなく号泣した。ベンチにいた仲間達が、俺にねぎらいのタッチをしてくれる。それをされるたびに、俺は泣いた。
とそこへ、ミットにボールが収まる音が聞こえてきた。澄んだ音とでもいうのだろうか。それを聞いた俺は泣くのを止めて、タオルの隙間からグラウンドの光景をうかがった。
そして、思わず目を見開いていた。
俺が守ってきたマウンドに立ち、投球練習を行うリリーフ投手。彼は俺の小さい頃からの親友だった。『坂口大介』は、とてもしなやかな、綺麗なフォームでボールを投げこんでいた。
美しい、惚れ惚れとするフォームだった。力任せで投げていた俺とは、根本から違う動き。その指先から放たれたボールの軌道は鋭く、優美だった。
『大介、俺達の力で全国大会出場を決めてやろうぜ!』
『ああ。けど、僕は補欠だから、全力でエースのお前をフォローするよ、直弥』
夕方の河川敷。俺と大介の秘密の練習場所で誓った、誰にも言えない恥ずかしい約束。大介は俺より背が高いけど、体つきは華奢だった。投手としても野手としても、力強さという点で劣る彼は、常に俺の影に隠れる存在だった。
その大介が、陽の光を浴びながらマウンド上で輝いている。その後のピッチングは圧巻だった。俺が悪戦苦闘を繰り広げ、やっとのことで抑えてきた相手打線を、軽く三者三振で仕留めたのである。
審判のチェンジのコールを聞くと、大介は軽く息をついた。ベンチに全速力で戻ってくるナインは、みんな笑顔で大介をねぎらった。俺はその光景を、とてもまぶしいものを見る目で見ていた。
大介がチェンジに要した球数は十二球。俺が八回までに投げた球数は百三十八球。そしてそれが、俺達がこの夏に投げた最後の投球となった。
※※※
春。桜が満開になって、真新しい新入生が晴れて入学の時を迎える。私立桜爛学園中等部もその例外ではない。たくさんの希望と少しの不安を入り混じらせつつ、白桜の制服に袖を通した少年少女達は、学園の校門をくぐっていくのである。
「野島先生、こんな所にいたの? もうすぐ職員会議が始まるわよ」
背後からかけられた声に振り向く。学校の屋上から様子を眺めていたのは、新入生と同じく教師になったばかりの野島直弥だった。
「ああ、すみません。少し緊張してまして。気分を落ち着けていたんです」
「あら、大舞台に何度も立った男が、ずいぶんと肝っ玉の小さいことを言うのね」
殊勝なセリフを口にした直弥を笑うのは、先輩教師の中野理沙。グレーのスーツに包まれた肢体は、抜群のプロポーションだ。学生時代はスポーツに打ちこみ、健康的な活気に満ちた美人である。
「それは野球の話でしょ、先輩。学校の先生って立場は初めてなんだから、緊張もしますって」
「まあね。けど、今からそんなんじゃ先が思いやられるわよ。これからあなたが相手をするのは、多感すぎる少年少女達なんだから」
「わかってますよ。お願いだから、そんなに脅かさないでください」
「脅かしてなんかないわよ。これは先輩からの、ありがた~い忠告よ」
歩み寄ってきた理沙は、にやにやと笑いながら直弥の肩を叩いた。直弥は苦笑しながら溜息をつく。彼女、中野理沙は二学年上の先輩で、中等部、高等部共にそれなりの付き合いがあった。姉御肌の理沙に直弥は頭が上がらず、めでたく社会人となった今もその立場は変わらなかった。
「ほら、そろそろ行くよ。仕事初めでいきなり校長にどやされたくないでしょ」
「ええ、わかりました。行きましょう」
さっと身を翻して、校舎に続くドアに向かう理沙。直弥はその後を追いかけながら、最後にもう一度だけ、外の景色を振り返った。
「新しい舞台、か……」
満開になった桜が、無数の花びらを宙に舞わせている。鼻孔をくすぐる桜の匂い。ぞろぞろと歩いてくる人の列は、まだ終わりが見えない。だが、直弥の視線は、それらを越えたさらに向こうを向いていた。
高校最後の夏を終えた直弥を待っていたのは、残酷な現実だった。酷使し続けてきた右肩の状態は、周囲や自分自身の想定をはるかに上回るものだった。ボールを投げることもかなわず、プロから声を掛けられることもなくなった。
それでも野球をあきらめることができなかった直弥は、死に物狂いでリハビリに時間を費やし、肩の傷を癒しながら大学に進学、野球を続けた。大好きな野球から離れたくなかったから。
だが、無情にも直弥の右肩は壊れたままだった。投手をあきらめ、打者として新たな野球人生を選択せざるをえなかった。それでも、右肩の故障はどこまでも付いて回った。ボールは投げられるまでに回復したが、他の選手と比べるとどうしても見劣りしてしまう。
結局、大学四年間で、レギュラーとして活躍することは一度もなかった。自分の野球人生はこれで終わり。直弥はそっとユニホームを脱ぎ、学校の先生としての人生を歩み始めたのだった。
それとは対照的に、輝かしい道を歩き続けているのが、坂口大介だった。彼は高校卒業後、プロにも大学にも社会人野球にも進まなかった。かといって、野球を辞めたわけではない。自らの舞台を、海の向こうと定めたのである。
ドリーム・リーグ。坂口大介が所属するリーグは、ワールドリーグの下部に位置するものだが、近年になって注目度が増していた。何をか言わんや、彼自身が注目の的となっていた。
新人からいきなり二桁勝利を上げ、翌年はエースとして君臨。昨シーズンは投手部門の賞を総ナメにしてしまった。あのしなやかなフォームは変わらず、力強さを増した投球は、映像を見るだけで圧巻だった。
高校時代、自分の影に隠れてスポットライトを浴びることがなかった親友。その活躍は、直弥の心に暗い影を落としこんでいた。
「……俺がチームのエースじゃなかったら。大介がエースになっていたら、全国大会に行けてたのかもしれないな。そうしたら、俺の肩もこんなことには……」
広々とした、厳粛な雰囲気が漂う行動で、粛々と入学式が進行している。教員席に座る直弥は、壇上に立って訓辞を垂れる校長と、整然と席に着いている新入生とを見やった。
『先生になったんだ。おめでとう。直弥なら、きっといい先生になれるよ。僕もこっちで野球をがんばる。だから直弥もがんばって』
教師として採用が決まったその日に、直弥は大介にメールを送った。返ってきた返事は、大介らしいものだった。勝負師として孤高のマウンドに立っているくせに、本人はいたって気の優しい若者に過ぎない。だがそれが現実だった。
「かたやドリームリーグのエースで、かたや学校の一教員か。ずいぶんと差がついたものだな。同じ道を歩いてきたはずなのに、あいつの方が俺の後を追いかけてきたようなものなのに」
思考がどろどろと暗いものになってしまっていることに気がついて、直弥は慌てて頭を振った。その挙動を、隣に座っていた理沙が見咎める。
「ちょっと、何やってるのよ。子供達でさえおとなしくしてるんだから、あなたもシャンとしなさい」
「わかってますよ。だからこうやって、気合を入れてるんでしょ」
「それがダメだって言ってんの! ほら見なさい、鬼の教頭があなたのことを睨んでるわよ」
小声でたしなめる理沙の言葉に従って、直弥はこっそりと教頭の様子をうかがう。すると彼女の指摘通り、初老で痩身の男がこめかみをひくつかせているのがわかった。
これはまずいと、直弥は咳払いをひとつすると、ごく自然に居住まいを正した。スーツさえ着ていれば、さっとネクタイを直すだけでそれなりに様になる。狙い通り、教頭の睨みはすぐになりを潜め、ほっと胸を撫でおろす。
「ちゃっかりしてるわね」
「先輩には負けますよ」
言い返すと、理沙はむくれたように頬を膨らませたが、せっかく逸れた教頭の意識を再びこちらに向けるような愚は犯さなかった。
式典は滞りなく続いた。聞き慣れた桜爛学園中等部の校歌が演奏される。講堂に響き渡る美しいハーモニー。歌っているのは上級生達だ。新入生達は緊張の面持ちでそれに聞きいっている。
校歌。あの夏、響かせることができなかった校歌。しかしそれは悔しさから懐かしさに変わろうとしている。記憶が思い出に変わっていく。それは人としての成長がなせる業なのか、それともただの逃避にすぎないのか。
直弥はその答えを出せないでいる。野球を諦めた今、彼を支えているのは親友の活躍だった。これまでずいぶんと支えてもらった。今度は自分がその恩を返す番だ。
「ひとつがんばろうじゃないか。先生として……!」
校歌斉唱が終わり、講堂全体が大きな拍手に包まれる。その拍手の輪に加わりながら、直弥の顔には自然と笑みが浮かぶのだった。
第一話『春風と桜花が見せた過去の幻影』
一
「おはよ~、なっちゃん!」
「おはよう、せっちゃん。今日もいい天気だね~」
待ち合わせ場所の公園の前で、二人の少女がキャッキャウフフと手を取り合い、ぴょんぴょんと跳ね回る。春の陽差しがやわらかい朝。私立桜爛学園中等部の女子制服がまぶしく翻る。白とピンクの彩りが、少女達の瑞々しさを十二分に表現しているようだ。
「あんまりぽかぽかでいい天気だったから、あやうく寝坊するところだったよ~。まあ、お母さんに叩き起こされたんだけどね」
そう言って、えへへと舌を出した少女は一ツ橋せつな(ひとつばしせつな)。ほっそりとしたシルエットはもう一人の少女、九重奈月より頭半個分高い。長い黒髪は艶やかで真っ直ぐ、長い手足はすらりと伸びている。
「せっちゃんは中学生になっても相変わらずだね。でもそこが、せっちゃんのいいところなんだけど」
小柄でふわふわした印象の奈月が、やわらかな微笑みを浮かべる。太陽の陽差しのように暖かく、優しさに満ちた笑顔が、自然とせつなに笑顔を作らせる。
一ツ橋せつなと九重奈月は、小さい頃からの幼なじみだった。小学校の六年間を同じクラスで過ごし、晴れて桜爛学園の入試にも合格した。そのうえクラスもまた同じだというのだから、切っても切れない縁がこの二人の間にはあるのかもしれない。
閑静な住宅街を抜けて、表通りに出る。人通りも、車の往来も多くなり、街の息吹が感じられる。都会と呼べるようなしろものではないが、賑やかな気配が自然と気分を高揚させてくれる。
「そういえば、せっちゃんは何の部活に入るか決めた?」
ふと思い出したように奈月がたずねる。せつなはあごに人差し指をあてながら、う~んと空を見上げた。
「まだ決めてない。だってさ、ひとくちに部活って言っても、たくさんあるんだもん。すぐには決められないよ~」
「そうだよね。わたしも悩み中。運動はあまり得意じゃないから、文化系にしようかなって、思ってるけど」
気持ちよさそうに舞い散る桜を見上げる奈月は、どことなく育ちの良いお嬢様を思わせた。穏やかでおとなしい性格の少女は、そばにいるだけで居心地の良さを感じさせてくれる。
「文化系か~。わたしはそっちの方はあんまり得意じゃないんだよなぁ。どちらかというと、こうやって体を動かしていた方が……っと」
せつなは歩きながら体を慣らすように動かした。柔軟性を感じさせるその動きに、奈月が感嘆の息をつく。
「せっちゃん、体すごくやわらかいよね。わたしはかちこちだからうらやましい」
「体の柔らかさだけがわたしの売りだからね。最近はさらに磨きがかかって、思いきり足を広げた状態でも、胸が床につくようになったんだよ」
得意げにウインクをするせつな。かと思いきや、スカートをはいているにも関わらず、
高々と足を掲げてみせた。垂直に立てた足を顔につけるせつなだったが、すぐに慌てた様子の奈月に取りすがられる。
「せ、せっちゃんダメだよ! こんな人目の多いところで」
「あっ、そうか。今までずっとズボンはいてたから、ついその感覚でやっちゃったよ」
幸いなことに、せつなの堂々とした開脚は誰にも見られなかったようだ。ひらりと足を下ろすと、せつなはまるで踊るような足取りで前に出た。
「もう中学生になったんだもんね、わたし達!」
桜の花びらが、微笑むせつなの周りを飛び交う。その姿は春の妖精を思わせた。それに思わず見とれてしまった奈月は、せつなの近くにいることができる自分の幸運を、素直に喜んでいた。
入学式から早や一週間。初々しかった新入生達も、徐々に新たな学校生活に馴染もうとしていた。クラスの委員を決め、授業も始まった。まだクラスの中にはよそよそしさが残っているが、それが消えるのも時間の問題だろう。
「おはよー、要。今日も早いね」
「おはよう。私が早いんじゃなくて、静音が遅いのよ。朝練すっぽかすなんて、いい度胸してるわね」
賑やかな教室の一画、登校してきたばかりの少女が、静かに席に着いていた少女のもとにやって来る。眼鏡の奥にある瞳をきらりと光らせて、二条要がさらなる糾弾を行う。
「私達が行動で示さないで、誰がするっていうのよ。ただでさえ練習が滞っているっていうのに」
「あー、はいはい。お小言はけっこう。そもそも、今はまだ部活として成り立ってないんだから」
要の鋭い舌鋒を、こうるさそうにひらりとかわす六原静音。快活な少女は、そのまま隣の席に腰を下ろした。
「だから、少しでも早く実現するためにも、今からしっかりやっておく必要があるって言ってるの。ちゃんとわかってるんでしょうね?」
「わかってるって。だからちゃんと、部員の勧誘活動をしてるじゃん」
得意げに胸を張る静音を、要はうさんくさいものを見る目で見やる。
「いつどこで誰が誰を勧誘したっていうの?」
「またまた~。こういうのはすぐに効果は表れないって。そのうちそのうち」
どこまでもマイペースな静音のノリに、真面目そのものといった要は、深い溜息をついた。
「まったく、静音ときたら。……あんたはいつもそうよね。お気楽でうらやましい限りだわ」
「わはは。もっと誉めてくれていいよ~」
全然誉めてない。その意思を眼差しに込めるが、静音はいっこうに堪える様子を見せなかった。彼女の相手に疲れた要は、頬杖をついて窓の外を眺めた。満開の桜がすぐ目に入る。新たな始まりを予感させる桜だが、要が思い描く始まりは、未だつぼみのまま。
「こんな調子で本当に大丈夫なのかしら……?」
少女のつぶやきは、クラスの喧噪にまぎれてあっという間にかき消えてしまった。だから、教室に入ってきたせつなと奈月は、それを聞くことがなかった。
「おはよ~、みんな。今日もいい天気だねぇ」
持ち前の明るさでせつながみんなの輪に入る。その後に、奈月が控えめについていく。そんな二人を、クラスメート達は明るく迎え入れた。
「おはよ。今日も二人一緒なんだ。仲が良いね」
「そうだよ~。わたし達は仲良し幼なじみなんだから。ね? なっちゃん」
「うん。そうだね、せっちゃん」
笑い合う二人。周りの面々も、二人の間に漂う親密な気配に、ほっこりとしたものを感じるのだった。
とそこへ、クラス担任がやって来る。颯爽と現れた若い女教師は、中野理沙だった。
「はーい、みんな席に着いて。ホームルーム始めるわよ」
理沙の声で、めいめいに散っていた生徒達がぞろぞろと動き始める。せつなと奈月は席が離れていて、軽く手を振りながら自分の席に着く。せつなの席は、二条要のすぐ後ろだった。
「おはよう、二条さん。六原さんも」
せつなは、要と静音が友人同士であることを、これまでの流れで知っていた。二人ともせつなの方を向いて、それぞれ挨拶を返してくれる。
「おはよう」
「おはよー、一ツ橋さん。今朝も妬けるねえ、まったく」
ノリの良い静音はにやにやと笑っているが、要はそれっきりぷいと前を向いてしまった。せつなは、静音には親しみを感じていたが、要の冷たい態度には果てしない距離を感じていた。
するとそれを悟ったのか、体を近づけてきた静音が、声を潜めて言ってくる。
「気にしなくていいよ。今はちょっと気が立ってるだけで、根はいい子だから」
「どういうこと?」
「やりたいことが思うようにいかないんで、拗ねてるだけって話」
くくっ、と愉快そうに笑う静音。その瞬間、要の肩がぴくりと動き、鋭い眼光が静音を貫いた。
「聞こえてるわよ。静音、あなたやっぱり全然わかってないみたいね……!」
「あっ……やば。ちょっと本気で怒ってたりする?」
さすがにまずいと思ったのか、静音の頬にひとすじの汗が流れる。要の静かな怒りは、確実に燃え上がっているようだ。その物々しい気配に脅えつつも、せつなは何とか二人を取りなそうと試みる。
「まあまあ二人とも、ここはひとつ穏便に……」
「一ツ橋さんには関係ないことよ。口を出さないでもらえる?」
「はい、すみません……」
が、あっさりと白旗を掲げて身をすぼませる。それほど、要には得も言われぬ迫力があった。同い年の少女とは思えない威圧感に、せつなは内心で舌を巻いていた。
(すごい子だなあ。背なんかわたしより低いはずなのに、全然大きく見えるもんなあ)
二人はなおも小声で剣呑としたやり取りを続けている。いや、より正確に言うと要だけなのだが。静音は静音でのらりくらりとかわすばかりで、それが要に燃料を投下していることに気づいていない。
(ううん、これは絶対に気づいてる。確信犯だよ。だってその証拠に六原さんの目、すごく笑ってるもん……!)
あわあわと、二人の少女へと交互に視線を巡らせるせつな。ついに我慢の限界に達したと思われる要が、ひときわ大きく眉を吊り上げた時だ。
「はいそこ! ホームルーム中にぺちゃくちゃ喋らない。大事なことを話す場合もあるんだから、ちゃんと前を向いて話を聞きなさい」
厳しい顔をした理沙が、今にもチョークを投げそうな勢いで叱責してきた。彼女の持つ迫力も、他には比しがたいものがある。なので、せつなは反射的にひきつった声をあげていた。
「は、はいっ。ごめんなさいっ!?」
「まったく。入学早々、そんなふわふわしてたら困るわよ? 一ツ橋さん」
気がつくと、理沙の矛先はせつなにだけ向けられていた。そんなバカな、せつなは慌てて共犯者というか、自分を巻きこんだ犯人に目をやる。が。
「そ、そんな!? 当事者だったのに、しれっと我関せずをつらぬくだなんて!?」
せつなの目に映ったのは、何ごともなかったかのように姿勢正しく前を向く要と、申しわけ程度に指で謝意を示す静音の姿だった。
「……一ツ橋さん。あなた、先生の言うことわかってる?」
さすがに呆れ顔で理沙がつっこんでくる。それをきっかけに、どっ、と笑いの渦が教室に巻き起こる。一躍クラスの的になってしまったせつなは顔を真っ赤にしてうつむいた。そんなせつなを、奈月は遠くの席から心配そうに見つめるのだった。
二
窓際の席。少し開けた窓から入ってくる風は、春特有のほのかに暖かい、気持ちのいいものだった。ともすれば睡魔に手招きされそうな感覚。授業に集中しようと思っても、なかなかうまくいかない。
クラスでもひときわ背が高く、艶やかで真っ直ぐな長い髪を持つ少女は、小さく溜息をついて、窓の外に顔を向けた。教室があるのは三階。そこから見下ろすことができる範囲の中に、グラウンドがある。そこではこの時間、体育の授業が行われているようで、真新しい一年生のジャージ姿がたくさん見受けられる。
その中にひとつだけ違う色のジャージを見つけて、少女は軽く目を見張った。ここからだとはるか遠くだが、少女の目はそれをとらえて離さない。脳裏によみがえるのは、幼い時に焼きついた、夕焼けの景色だ。
『俺達が目指すのは全国大会出場! それはいっさい揺るがない!』
『それを言うなら、全国大会優勝の方が聞こえがいいんじゃない? どうせ目標を立てるなら、最高のものにしようよ』
『バカ言うな。そもそも大会に出場したこともないのに、そんな大それたことが言えるか! 千里の道も一歩から、まずは確実なところからだな……』
『それなら、目指せレギュラーの方が妥当かな? だって僕ら、まだ補欠の補欠だし』
『俺達はまだ一年だ! これから二年半で頂点に登りつめてやる!』
『ははは。直弥はすごいね。僕なんて、毎日の練習についていくのがやっとだっていうのに』
『情けないこと言ってんじゃねえ! 俺とお前でエースの座を奪い合うんだからな! ライバルが泣き言を言うな!』
ひとりの熱い少年が、もうひとりの穏やかな少年を焚きつけるかのように、威勢の良い声をあげている。一見すると物々しい光景だが、その実二人とも心から信頼しあっているのがわかる。彼らが浮かべていた笑顔は、目にまぶしい夕陽以上に輝いていた。
「私は、そんなあなた達に憧れて……」
少女の口からもれる吐息。物憂げな瞳に去来する思いは誰も知らない。だから、授業そっちのけで外ばかり眺めている少女のもとに、鬼の形相をした教師が近づいてきても、仕方がないことだった。
「三倉和那~……入学早々授業をボイコットとは、いい度胸をしてるじゃないか?」
「でも、私はこれ以上先に進めない。どんなに努力しても……」
「聞いてるのか!? 三倉ァッ!」
なおも独り言を呟く和那に、ついに教師は激昂した。手にした教科書をきつく丸めると、和那の机にそれを叩きつけた。その迫力に、教室の中の空気は、一瞬にしてぴんと張りつめたものになる。その時になって、和那はようやく教師の方に顔を向けた。まだ小学校を卒業したばかりの少女とは思えない、情感たっぷりの表情を見せられて、教師は思わず息を呑んだ。
「教えてください。私はこれからいったい、どうしたらいいんですか?」
和那の意味不明な問いかけに、教師はもちろん、クラスメート達も当惑を隠せない。それでも和那は、真剣に思い悩んだ顔をしている。口をぱくぱくと開閉させていた教師が、ようやくにして口にすることができたのは、ごく常識的なものだった。
「と、とりあえず、今は普通に授業を受けてくれるかな?」
ひきつった愛想笑いを浮かべながら、半ば懇願するかのような教師の言葉。それを聞いた和那から、憂いを帯びた表情が消えた。我に返ったというのが正しいのだろうが、逆に今度は無表情になってしまった。
「はい、わかりました。ご迷惑をかけてすみませんでした」
「い、いや、わかってくれればそれでいいんだ。……それじゃ、授業再開するぞ」
まるで腫れ物に触れるかのように和那を一瞥すると、教師は再び教壇に戻っていった。和那も乱れた机の上を直して前を向く。クラスメートの和那を見る目は、冷えきったものになっていた。
※※※
「いいかお前ら。準備運動は体を動かす前の基本だ。これをおろそかにしたら、思わぬところでしっぺ返しを食らうぞ。ちゃんと、真面目にやれ」
ジャージ姿の一年A・B組の女子生徒達を前に、野島直弥体育教諭は真剣な面持ちでいた。今日は彼にとって初めての授業。これまでに何度も実習や研修を重ねているものの、やはり本番ともなれば肩に力が入ってしまう。まだ現役だった頃、マウンドで感じた雰囲気に近いものがあって、懐かしさと同時に苦しみにも襲われる直弥だった。
そして、そんな彼を見つめる二つの視線がある。そのもとをたどると、そこには二人一組になって準備運動にいそしんでいる、二条要と六原静音の姿があった。
「いやいや。新任教師らしく、緊張がありありと見てとれるね~」
「そのようね。けど、あの体つきといい姿勢といい、しっかり鍛えてある感じがするわ」
ひそひそと小声をかわしながらも、少女達の視線は値踏みをする商売人そのものだ。真面目に準備運動をひとつひとつこなしながら、直弥の挙動に注目している。
「絶対に私たちの顧問に迎えてみせるわ。そのためにも、まずは部員を確保しないと」
「つまるところ、それが一番の問題だね。集まるかなあ?」
「集まるのを待つんじゃなく、集めるのよ。いい? この体育の時間を利用して、運動ができそうな子には、かたっぱしからアタックしていくわよ」
「はいはい。要は本当に真面目でお利口さんだね~」
などという会話をしている二人のそばには、一ツ橋せつなと九重奈月ペアがいた。せつなの背中で大きく背をのけぞらせながら、奈月がせつなにささやく。
「せっちゃん。体育の先生、ちょっと怖そうな感じがするね」
今度はせつなが奈月の背中で背をのけぞらせる。
「そうかなあ? 若くて格好良くて、優しそうな先生に見えるけどなあ」
「ええ? 絶対違うよ~。背が高くてがっしりしてて、声も低くてハリがあって。わたし、おどおどしちゃうもん」
「ん? それってさ、野島先生が格好良くて胸がどきどきしちゃうとか、そんな感じなんじゃない?」
きょとんとした顔でたずねるせつな。その瞬間、奈月の童顔は真っ赤に染まった。
「ち、違うもん!? やめてよせっちゃん、そんな変なこと言うの!」
「おお、なっちゃんが怒った?」
びっくりして両手を広げるせつなと、それに挑みかかるように両拳を握りしめる奈月。いずれにせよ、この二人のやり取りは何よりも目立った。そのため、直弥は溜息をつきながら二人に注意をする。
「一ツ橋と九重。お前ら、さっき俺が言ったこと聞いてなかったのか?」
「ひいっ!?」
「ご、ごめんなさいっ。準備運動は朝ご飯と同じで大切だよ理論ですよね? だいじょうぶ、ちゃんとわかってますっ」
悲鳴を上げて脅えながらせつなの影に隠れる奈月と、謎の解釈を口にしながら自信満々に胸を張るせつな。
「あ、ああ。まあ、わかってるならそれでいいよ。とりあえず、授業中はなるべく私語を慎むようにな」
直弥がそう言うと、くすくすという笑いが生徒達の間から聞こえてきた。奈月は恥ずかしそうに顔を伏せてしまうが、せつなはそれに動じることなく一緒になって笑っている。直弥は頭の中で、一ツ橋せつなを要注意人物に認定することにした。
「あはは。一ツ橋さんって、本当にユニークな子だね~」
「ただ単に天然なだけでしょ。付き合うだけバカバカしいわ」
静音は楽しげに笑うが、要の表情筋はぴくりとも動かない。今の要には、そんなことよりも大事な事案が気にかかっていた。そしてそれは、手のかかる子供を背負いこんだ格好で、困惑の表情を浮かべる直弥にも関係していた。
「そうよ。野島先生には私たちの……女子野球部の顧問になってもらわないといけないんだから」
理知的な要の瞳が、直弥を真正面から見据える。あれは、入学式が終わった直後の教室での出来事。
『中野先生、新しい部活を作るには何をどうしたらいいんですか?』
ホームルームが終わって、教室から出ていこうとした中野理沙を止めたのは、真剣な顔をした二条要と、緩い表情で彼女についてきた六原静音だった。理沙は突然の質問に思わず面食らったが、素直に教えてあげる。
『まずは部員を最低でも五人集めて、顧問になってくれる先生を探して、申請書を生徒会と職員会議を通して、校長先生に認可してもらう必要があるわね』
『そうですか。ありがとうございます』
『ちょっと待って。あなた達、いったい何の部を作ろうとしているの?』
一礼を残して立ち去ろうとした要に、理沙が問いかける。すると少女は、大人びた表情ではっきりと言った。
『女子野球部です。私たち、学校の部活で野球をやりたいんです』
『あたしは付き添いですけど、けど要と思いは同じです。女子サッカー部があるなら、野球部があっても不思議じゃないですよね?』
真面目とおどけと好対照な二人だが、瞳の奥に宿る光は真剣そのものだった。それを見抜いた理沙は、少女達に道を指し示してくれた。
『そっか。なら、顧問を引き受けてくれそうな先生を紹介してあげるわ。その先生はね……』
理沙がほくそ笑みながら教えてくれたのは、今年先生になったばかりの体育教諭、野島直弥だった。要達はそのままの足で体育教諭準備室に向かった。
『失礼します。野島先生は今こちらにいらっしゃいますか?』
『野島は俺だけど、君達は?』
準備室には野島直弥しかいなかった。背が高く、がっしりとした体格の彼は、少女達の期待を高めるに十分すぎる雰囲気を醸し出していた。自分達の熱い思いをぶつければ、きっとそれに応えてくれる。そう信じていた要だったのだが。
「まさか、あっさり断ってくるなんてね。さすがの私も、すぐには二の句が告げられなかったわ」
「あたしはあの後、要がケンカ同然で野島先生に食ってかかった方が信じられなかったけどなあ」
静音のうんざりとした言い方の中に、どこか愉快そうな響きが混じっている。お互い唾を飛ばす勢いの言い合いを止めたのは、後から入ってきた他の体育教師だった。それがなかったら、もしかしたら入学初日で大事件に勃発していたかもしれない。
「要は真っ直ぐでとてもいい子なんだけど、こうと決めたらテコでも動かない、頑固な性格だからなあ。……まあそれが一番カワイイとこなんだけど」
「静音、何か言った?」
「いいえ~、何も言っていませんよ~」
とぼける静音をうさんくさく見やる要だが、直弥が集合の合図をかけたのでそれに従った。事情はどうあれ、直弥に顧問を引き受けてもらわないことには、女子野球部が成り立たないのだから。
『あなた達にとってもいい人材を紹介してあげる。かつて桜爛学園高等部のエースとして活躍し、その右肩で全国大会出場目前にまでチームを引っ張った、野島直弥先生をね』
理沙から聞いた経歴は、要にとって十二分に満足がいくものだった。キャプテンを務め、部員を引っ張るリーダーシップにも長けていたという、これ以上ない指導者が身近にいるとは。
だから、自分達の申し出を考えることなく断った直弥を許せなかった。そして、なぜあそこまで怒ったのか、確かめる必要があった。
「そのためにも、部を設立する根回しを完璧なものにしないと」
要の視線が直弥のそれとぶつかる。直弥は一瞬だけ気まずそうにしたが、すぐに教師の顔に戻って、授業を進めた。今日の授業は、クラスの懇親を深める意味でも、ドッジボールをする予定だった。
三
制作中です。