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目の前で、女がうずくまっている。木の床に血が散っている。俺の体も、ナイフも血で濡れている。私のことが気に入らないなら刺せばいいと言われたので、俺は持っていたナイフで女の腹を刺した。女の夫が駆け寄ってくる。男は女の背に手をあてて、俺を見上げる。目は、見開いていた。男は立ち上がって俺の頬を殴った。体が壁に叩きつけられる。
「頭を冷やしなさい。ハイン」
男は俺に近付いてきて、ナイフを持った右手をつかんだ。俺は手を振り払う。
「刺せって言ったのはそっちだ」
「刺したことを怒ってるんじゃない」
笑ってしまった。
「じゃあ何に怒ってるんだよ」
女が咳込む。男は女の側へ戻っていく。腹を押さえた女と、目が合った。俺と数歳しか違わない。髪の色も目の色も似ているが、血は繋がっていない。女が、俺の方へ這ってくる。
「寄るな」
俺は女にナイフを向けた。女は青白い顔で首をかしげる。「どうして?」刺した相手に近付くなんて、こいつ、馬鹿か。
「レオンにはお前が必要だが、俺には必要ない。だから寄るな」
女の目が開いて、細く、なった。女が近付いてくる。俺はナイフを振りかぶる。女の手が俺の背に回る。俺は女に抱きつかれた。女が笑ったのが聞こえた。
「やっとぎゅーってさせてくれた」
何を、言っているんだ。出血で頭がおかしくなったのか? 女は俺から顔を離して、俺を見上げた。女は愉快そうに、笑っていた。
「家族は、呪縛なのよ。だからハインちゃんも逃げられないの。でも私は、嫌じゃないわ」
女は体を離した。
「謝らないからね。刺した分、ちゃんと命の重さを知りなさい」
女が離れていく。男が女の体を抱えて、部屋から出て行く。俺はナイフを床に置いた。部屋のすみで、レオンがうずくまっていた。青い目が怯えたように俺を見ていた。
国が休戦して半年がたった。復興の折、スラムを解体するということで、俺とレオンは国際ボランティア団体に勤める夫婦に引き取られることになった。レオンには両親が必要だと思ったし、俺はすぐに家を出て行くつもりだったので、申し出を受けた。レオンはしばらくして義理の両親と打ち解けたようだが、俺はそこまで大人になれなかった。義理の両親を肉親として認めるつもりはなかった。そろそろ出て行こうと思った矢先に、これだ。けれど、俺を抱きしめた女の笑いは、狂気じみていた。この日から、俺は義理の両親を、俺を殴った男と、家族は呪縛だと言った女を、両親として認めてもいいと、思うようになった。
庭の鉄柵の向こう、黄色い花畑の上を夜光蝶が飛んでいる。隣で、レオンが膝を抱えて座っている。目の前には石碑がある。ここへ来た時、事情を知った夫婦が建てたものだ。本当の墓は、スラムにある。けれどそのスラムは、もうない。
「ここを出ていく」
レオンがこちらを向く。顔は俺によく似ているのに、俺とはまったく違う。レオンは頷いた。
「どこに行くの?」
「軍人になる」
レオンの薄い青色の目が開く。
「どうして? 嫌いじゃなかったの?」
「嫌いだ」
「じゃあ何で? あいつらお姉ちゃんを殺したのに」
もう、多分、俺はこうしないと生きていけないのだ。
「ミリアを殺した世界を、壊したいんだ」
気付くと、笑っていた。レオンの目が、俺があの女を刺した時のように震えた。
「どういうこと? 何もかも嫌いだってこと?」
俺のことが嫌いなのかと、昔よくレオンに聞かれたことを思い出した。俺はレオンの頭を撫でた。
「お前は好きだ。ミリアも、好きだ」
俺とミリアには本当の両親の記憶があるが、レオンには多分ない。血の繋がった両親に人身売買されて、奇跡的にスラムまで逃げられたのが丁度十年前だ。俺は九歳、ミリアは八歳、レオンは二歳だった。今思うと、そのまま誰かに買われて奴隷にでもなっていた方が、幸せだったかもしれない。
「お前を愛してるし、ミリアのことも愛してる」
レオンにはあまり辛い思いをさせたくないと思って過ごしてきたが、逆に気を使わせてしまったらしい。レオンは俺を見て、うつむいた。
「ハインの好きは、よく分からない」
俺は笑って、レオンの頭から手を離した。
「俺もよく分からない」
ミリアにしたことは、後悔していない。けれどミリアを女性として愛していたかというと、違う気がする。分かるのは、レオンより、助け合う時間の長かったミリアの方を強く愛していたということだけだ。ああ、そうか。それでレオンは嫌いなのかと俺に何度も尋ねたのか。俺は、レオンを抱きしめた。
「何? ハイン、気持ち悪い」
すぐに振りほどかれた。俺は、笑った。
「お前は幸せになれるよ」
青い目が俺を見た。俺より青が薄く、ミリアの目の色に似ている。
「ハインは幸せじゃないの?」
喉がつまった。答えられない。世界を壊すということは、レオンも殺すということだ。結局、俺は生きているレオンより、死んでしまったミリアを取るらしい。俺は石碑を見た。ミリアは、死んでしまった。けれど俺は、この世界で一番、ミリアを愛している。
この国は、小国ながら軍事力がある。長年、隣国と戦争で渡り合ってこられたのもそのおかげだ。けれどその軍事力を手に入れるため、隣国は何度も戦争を仕掛けてくるのだ。休戦していても兵士は採用される。けれど、そこからではたいした昇進は望めない。俺は、上に行かなくてはならない。
「フォレンティア大将のお気に入りって、君?」
入隊式が終わって、寮に移動しようと廊下を歩いている時、話しかけられた。
「あ、ジル・サイファリスク。よろしく」
金髪で毛先の跳ねた男は、笑顔で手を差し出してきた。俺は何もしなかった。ジルと名乗った男は頬を膨らませる。
「そんなんじゃこの先辛いぞ」
何だこいつは。面倒臭い。
「名前教えてよ、名前」
ジルは俺の前に立ちふさがる。俺は足を止めて、ジルを避けて歩いた。
「おい、放っておけよ。そいつだろ? 裏口入隊したやつ」
「じゃなきゃスラム育ちの奴がここにいる訳ないしな。一体どんな手を使ったのやら」
横を歩いていた同期の男二人が、言った。同期は俺を入れて全部で十人だ。今年は人数を絞ったらしい。どこから噂が流れたのか知らないが、耳が早い。
「別に俺はそういうつもりで言ったんじゃなくて、ただ同室だから仲良くしようと思って」
ジルは俺の横についてくる。こいつが同室なのか。変に嫌がらせされるのも嫌だが、絡まれるのも面倒臭くて嫌だ。
「名前だけでもいいから教えてよ。俺、同室なのに知らないっておかしいだろ」
面倒臭い。名前なんか知らなくても生きていけるだろう。
「お高くとまってやんのな。スラム育ちの癖に」
「俺らとは口も利かないってか。後ろ盾がある奴は違うね」
「だから俺はそういうつもりじゃなくて」
ジルは叫ぶ。
「ハイン・マグダラス」
ジルが俺を見たのが横目で分かった。
「ごめん、本当にごめん、聞こえなかったからもう一回」
何なんだ、こいつは。俺は歩調を速めた。
「だからごめんって、もう一回、もう一回だけ、今度は絶対聞き逃さないから」
ジルが後をついてくる音が聞こえる。同期に限らず、昇進を阻むものは全員敵だ。なのに何でこいつは俺と仲良くなろうとしているんだ。俺はため息をついた。先が思いやられる。
絶叫した後、ミリアは静かになった。濡れた頬が、夕陽で橙色になっていた。俺はミリアから体を離す。ミリアの口から、笑い声が聞こえる。目を見開いて、ミリアが笑っている。ミリアが上体を起こす。微笑んでいる。ミリアの細い指が、俺の首に触れる。
「ハイン。痛い」
指が、しまる。息を吸う音で、目が、覚めた。夢だった。体が弛緩する。ベッドの外を見ると、ジルが椅子に座っていた。目が虚ろだが、眠ってはいないようだ。ジルの緑色の目が、こちらを見て、目が合ってしまった。
「あれ、ごめん、起こした?」
狸寝入りを決めこみたかったが、もう遅い。俺は寝返りを打って壁の方を向いた。
「せっかく起きたんだったら、ちょっと話そうよ。というか、話していい?」
入隊して一週間がたったが、こいつの態度は相変わらずだ。昼間の訓練で疲れているので、少しでも眠りたい。
「ちょっと、夢見ちゃって。って聞いてないだろ。まあ聞いてなくても話すけど。俺さ、恋人というか好きな人がいてさ」
「うるさい。寝る」
「ええ、何でだよ。せっかくなんだから最後まで聞いてよ」
何でこいつの色恋話に貴重な睡眠時間を割かなくてはいけないのだ。
「すぐ終わるからさ。で、その子、俺の目の前で撃たれて、病院に運んだんだけど、もう駄目だって言われて、目の前で死んじゃったんだ。その夢で、目が覚めちゃったって訳」
家族や恋人を亡くしたという話は大して珍しくもない。俺もこいつも、その内の一人というだけだ。
「恨み言でも言われたのか」
「彼女に? まさか。そういう人じゃないよ。恨んでる暇があったら働けって言われる。だから軍人になったんだ。もう死なせないために。って何か恥ずかしいな」
「軍人を恨まないのか」
「俺? 別に恨んでもいいけど、いや、でもやっぱりそういうの俺っぽくないし。ハインは何で軍人になったの?」
俺は答えなかった。ジルが椅子から立ち上がる音がした。
「まあいいや。いつか教えてよ。付き合ってくれてありがとう」
ベッドが揺れた。ジルが二段ベッドの梯子を上っていく。
「ハインも、叶うといいね。軍人になった理由」
上から、声が聞こえた。
「お前、いつか死ぬぞ」
ベッドに倒れこむ音が聞こえた。
「覚悟はできてる」
穏やかな声だった。少しすると、寝息が聞こえてきた。勝手に話しかけておいて、寝るのはやたらと早い。俺は寝返りを打った。部屋は月明かりで薄暗い。俺はこの男の明るさに、酷く苛立った。
入隊して三年目の夏、辞令が出た。あからさますぎて笑ってしまった。休戦してから反政府団体の活動が激しくなって、殉職した軍曹のポストが空いていたのだ。俺もその時現地にいたが、人間はつくづく争いごとが好きな生き物だと思う。
俺は約束を入れて、上階へ続くエレベータに乗った。こんなスラム育ちの人間を昇進させる人間なんて、一人しかいない。上に行けるのは願ってもないことだが、身辺が大変なことになりそうだ。硝子張りのエレベータから、遠ざかっていく地上を見た。ここは、黒い要塞だ。上へ行けば行く程、望みが叶う。めでたく昇進したので、部屋も変わるのだろうか。やっとあの騒がしい奴から離れられる。
涼しい機械音が響いた。俺はエレベータを降りた。長い廊下を歩いて、扉の前に立っている兵士に声をかけた。
「十四時からお約束させていただいている、ハイン・マグダラスです」
兵士は俺を見て、扉をノックした。
「フォレンティア大将、マグダラス殿がお見えになりました」
『ああ、もうそんな時間か。入れ』
声が聞こえた。兵士が扉を開けた。
「失礼致します」
俺は部屋に入って、扉を閉めた。机の向こうに、ベルガ・フォレンティア大将が座っていた。それよりも、なぜか机の前に軍服を着た女が立っている。黒い髪を後ろで一つにまとめた、若い女だった。
「すまないなマグダラス。前の話が長引いていてな」
「いいえ、それなら外でお待ちしますが」
「お構いなく。もう済みましたので。お時間を取らせてしまって申し訳ありません」
女は大将と、俺を見た。
「お前は初めてだったか、マグダラス。メイベル・アイリーン、元帥のお孫さんだ」
ああ、こいつが噂に聞いていた元帥の孫、か。まさか女だったとは。
「申し遅れました。ハイン・マグダラスです」
女だったら、こいつと結婚すれば軍での将来が約束されるのではないか? そう考える輩も多そうだ。まあ現実はそんなに甘いものではない。
「マグダラス軍曹ですね。昇進おめでとうございます」
女はにこやかに笑った。嫌味か?
「では、また何かありましたらお伺い致します。それでは、失礼致します」
女は扉の前でお辞儀をして、部屋を出ていった。
「待たせたな、マグダラス」「いいえ」
俺は大将が座っている机の前に立つ。
「この度は、私を軍曹に推薦して下さったと伺い、お礼に参りました。心より感謝申し上げます」
感謝しているのは本当だ。このまま俺を昇進させてくれればいい。
「そんなにかしこまるな。今はお前のような奴が上へいくべきだ。何事にも貪欲な奴がな」
大将とは、スラムで軍人の手伝いをしていた時に会った。休戦間際、どういう訳だか知らないがあのあたりを訪れたのだ。兵士の真似事をしていた俺を見て、大将はなぜか俺を気に入ったようだった。そのまま軍人になれ、できる限り助力しようと言われた。スラム育ちの子供風情が軍に入隊できたのは、この男の力に他ならないし、今回だってそうだ。
「本当に、感謝しています」
「最初はメイベル・アイリーンを昇進させるつもりだったのだが、断られてな。昇進を蹴る代わりに、要望を聞いてくれと言われた」
あの女、地位に興味はないのか。というか、辞令をもみ消せる程、力があるのか?
「要望とは何です」
「あれが近いうち、お前の下につく」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。自分から俺の部下になりたいと言ったということか? 元帥の孫が? 何を考えてるんだ。俺の下につく意味がまったく分からない。
「上手くいけば大出世のチャンスだぞ。機を逃すな」
大将は笑った。「ご冗談を」目立ちすぎたのか? 直々に監視されるということだろうか。まあ考えても仕方がない。誰が下につこうと、俺の目的は一つだけだ。
扉がノックされた。『フォレンティア大将、デイビス軍曹がお見えです』
「では私はこれで。今回の件、本当に感謝申し上げます。今後ともよろしくお願い致します」
「今後ともか。抜け目がないな。考えておこう」
俺は一礼した。扉の前まで来て、大将に呼び止められた。
「マグダラス、髪が長いな。部下への示しも考えて短くしておけ」
「かしこまりました」
俺は部屋を出た。入れ違いに軍曹と目が合った。俺は目礼した。いずれもっと上り詰めてやる。そのために、今ここにいるのだから。
エレベータを降りると、男が三人立っていた。同期二人と、俺より少し年上の男だ。早速来たか。相変わらず耳が早い。
「よう軍曹。やっぱり育ちのいい奴は違うな」
「現地で軍曹を殺したの、お前じゃないのか? 自作自演ってやつ」
「お前、実は大将の慰め役なんじゃないのか」
一瞬、意味が分からなかった。久しぶりに吹き出した。「何笑ってやがるんだ」確かにここにはほぼ男しかいないから、そういう話はたまに聞くが、まさか自分が言われる日が来るとは。
「いや、おかしくてつい」
「何なんだよお前、何でお前が昇進するんだ。どんな手を使ったんだ、言え」
年上の男が叫んだ。
「こんなことをしている暇があるなら、上に媚びを売る練習でもしたらどうですか」
「お前、やっぱり大将に取り入って」
「取り入ったら、何だ? ここは遊び場じゃない、仕事場だ。選ばれたら勝ち、そういう所だ」
「偉そうに、スラムのガキが」
胸倉をつかまれる。俺は、男の頬を殴った。男の体が地面を滑る。「てめえ、やったな」残りの二人が身構える。
「問題起こしてただで済むと思ってるのか」
「先に手を出したのはそっちだ。言いつけたければ勝手にしろよ。スラムのガキにやられましたってな」
男達が舌打ちする。「この野郎」一人がこちらへ向けて腕を振り上げる。腕を避けて、男のみぞおちを蹴り上げた。男は呻いて、地面に倒れた。
「お前、本気で人を殺したいと思ったことあるか?」
俺はもう一人の男に近付いた。男が後ずさりする。
「何だよ今更、ふざけるな」
「逃げたければ、逃げろよ」
「畜生」
男は叫んで、軍服の内側から銃を取り出した。俺は走った。男が何か叫ぶ。俺は男の手をねじり上げて、みぞおちを殴った。男の体から力がなくなっていって、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。銃が男の側に落ちていた。
最初に殴った男が、地面から顔を上げていた。男は血走った目で俺を見上げていた。男の顔を蹴り飛ばすと、男は地面に倒れて、動かなくなった。
「お前ら全員、死ねよ」
誰も答えない。俺は寮の方へ歩き出した。
部屋の扉を開けると、膨らませた紙袋を割ったような音がした。
「ハイン、昇進おめでとう」
ジルが紙袋を持って笑顔で立っていた。俺はジルを避けて部屋に入った。
「あ、何だよ、冷たいの。念願の階級付きなんだから、もっと喜ばないと」
「うるさい。近所迷惑だ」
「ハインにも近所迷惑とかあるんだ」
ジルが俺の後をついてくる。
「あれ、喧嘩したの?」
ジルが俺の右手をのぞきこんでいた。確かに、手の甲が赤くなっていた。
「もしかしてあいつら? いつもの二人? あいつらやたら情報早いからな。なんて、まさかね」
ジルは笑う。
「馬鹿がもう一匹増えて、三人だ」
ジルは黙って、吹き出した。
「本当にそうなんだ。何考えてるんだろ」
「納得いかないからだろ」
「何で?」
「誰が見たって、今回のは異様だ」
ジルはうなりながら自分の席に座った。
「俺はそんなに疑問感じてないけど。軍曹が負傷した時、少しだけハインが指揮とっただろ、勝手にだけど。ああいうのが効いてきたんじゃないの?」
「そういうので普通昇進はしない」
今回のことは本当に大将の独断だったのだろう。入隊してまだ三年目だ。こんなに早く昇進しては、軍の層の薄さをアピールしているようなものだ。
「結局、嬉しいの? 嬉しくないの?」
緑の目が俺を見上げていた。
「昇進するのは願ってもないことだ」
「じゃあ喜べばいいよ。難しく考えないでさ。お祝いにとっておきのもの持ってきたから、ちょっと待ってて」
ジルは立ち上がって、部屋の奥へ消えていった。全員が全員、こいつのようだったら楽なのに。ジルがトレイを持って戻ってくる。
「じゃじゃん。お祝いのケーキです」
ジルはトレイを机の上に置いた。トレイの上には白いクリームの三角ケーキが一つと、銀のフォーク、ポット、ティーカップが乗っていた。
「お前、こんなものどこから?」
「食堂からくすねてきた。ずるいよな上層部ばっかり。国民の生活も考えろっての」
ジルは椅子に座ってカップに紅茶を注いでいた。既に準備していたらしい。俺は椅子に座った。
「という訳でケーキは一つしかないから、ハイン食べていいよ。俺のことは気にせずに」
俺はジルからカップを受け取った。
「久しぶりだなあ、こうやってお茶するの。じゃあハイン、改めて昇進おめでとう。乾杯、って、お酒もくすねてくればよかったなあ。今更だけど」
俺は紅茶を飲んだ。今まで飲んだお茶の中で、一番美味しかった。
「お前も半分食べろ」
俺はフォークでケーキを半分に切った。
「何で? 甘い物駄目だった?」
「ケーキなんて食べたことない」
「じゃあ尚更全部食べなよ」
「俺だけに責任取らせるつもりか」
ジルは笑った。
「そうだね。それなら、食べるよ」
フォークが一つしかないので、俺は先にケーキを食べた。
「どう?」
「すごく甘い」
「いや、もっと美味しいとか不味いとかさ」
「嫌いではない」
まさか自分がケーキを食べる日が来るとは思わなかった。ケーキなんて、裕福な家の人間が食べるものだ。幸せに味があるなら、こんな感じだろうと思った。とても甘くて、牛乳のような懐かしい味がした。俺はケーキを半分食べて、ジルにフォークを渡した。
「うん、うまいうまい」
俺は紅茶を飲んだ。ケーキと紅茶という組み合わせの意味が分かった気がした。
「元帥の孫が俺の下につくらしい」
ジルがケーキを頬ばりながらこちらを見る。
「何で? 孫って、あの都市伝説みたいな孫のことだよね?」
「さっき会った。女だった」
「え、嘘、可愛かった?」
「お前の好みなんて知るか」
ジルは頬を膨らませる。
「元帥の孫が部下ねえ。すごいね。でもさ、俺は本当に実力だと思ってるよ。だってハイン冷たいもん」
意味が分からない。俺は紅茶を飲んだ。
「軍曹が負傷した時も見限るの早かったし。まあ、あの時は結果的に正解だったけど。他の人と雰囲気が違うっていうか、殺すのにためらいがないっていうか」
ジルは皿の上にフォークを置いた。ケーキはなくなっていた。
「ハインが軍人になった理由って、何?」
ジルは笑っていなかった。こいつは時々こういう顔をする。俺は紅茶のカップを机の上へ置いた。ここにいる限り、誰にも話すつもりはない。ジルは頬を膨らませた。
「ちえ。今日なら話してくれると思ったのに。まだ駄目かあ」
「俺の理由なんてどうでもいいだろ」
「だって隠すから、気になる」
「別に隠してない。言わないだけだ」
「それが隠してるっていうの」
ジルは紅茶を一気飲みした。俺は世界を壊すために、動くだけだ。
辞令が出た数日後、俺は部屋を移動した。同室はカイザー・デイビス軍曹、大将の部屋で入れ違いになった男だ。当然俺より年は上で、髪を短く刈り上げた、いかにも軍人といういでたちをしている。部屋は今までの二人部屋とほとんど変わらなかった。少し広くなった程度か。荷物を運び終えて荷解きをしていると、軍曹が戻ってきた。
「本日からお世話になります。ハイン・マグダラスです。よろしくお願い致します」
俺は右手を差し出した。軍曹は動かず、俺を睨んでいる。完全に敵対するつもりか。今まで同室がジルのような奴だったことの方が珍しいのだから、当然か。俺は手を下げる。
「貴様、大将に取り入って昇進したというのは本当か」
この建物には、面倒臭い輩しかいないらしい。
「取り入ったつもりはありませんが、そう思われるならご自由にどうぞ」
「同僚を負傷させたというのは本当か」
あいつら、プライドを捨てて言ったのか。口元が笑ってしまった。
「そうですね。正当防衛です」
軍曹の手が動いた。俺は顔の前で拳を受け止めた。軍曹は力を緩めない。俺は止めた拳を払い落とした。
「せいぜい上に尻尾でも振ってることだな」
「ええ。言われなくともそうします」
軍曹は俺を睨んでいる。
「貴様、プライドはないのか。何を考えている?」
「別に、ただ出世したいだけです」
「汚い手を使って出世しても、いつか自分に返ってくるぞ」
「その時はその時です。むしろ綺麗に出世できる方法があるなら、教えていただきたいですね」
「貴様、人を怒らせるのがよっぽど得意らしいな」
「褒め言葉ですか」
軍曹が舌打ちする。また殴りにくるかと思ったら、部屋の扉が勢いよく開いた。
「あ、ハイン、いたいた」
ジルが扉から顔をのぞかせる。
「部屋に入る時はノックくらいしろ」
軍曹と言葉が、被った。これは気まずい。
「あ、ごめん。今度は気を付ける。様子見に来ただけだから。この人が同室?」
ジルは軍曹を見る。軍曹は俺を見る。
「貴様の友人か?」
「前、同室だっただけです」
「あ、酷いな。同期で友達だろ。そんなんじゃ友達なくすぞ」
「お前と友達になった覚えはない」
「貴様、友人は大切にしないと後悔するぞ」
何なんだ。やかましいのが二人に増えた。頭が痛い。
「荷解き手伝うよ。ついでに怪しい物がないか荷物検査します」
「何様だ。帰れ」
「あ、さては見られたらまずい物入ってるな」
「入ってない。お前と一緒にするな」
ジルは部屋に入ってきて、荷物をあさり始めた。荷物といっても、封の開いた箱一つしかない。
「あ、何これ、彼女から?」
ジルは白い封筒を取り出した。
「弟からだ」
最近、レオンから手紙が来た。ちゃんと学校へ行って、毎日楽しく過ごしているらしい。ジルは目を丸くした。
「弟とかいたんだ。想像できない」
「別に想像しなくていい」
「弟いくつ?」
今俺は二十二歳で、レオンとは七つ違いだから、十五歳か。成長期だから、最後に会った時と様変わりしているだろう。
「十五」
「へえ。離れてるね。というか、ハイン彼女いないの?」
「何でお前に話さないといけない?」
「あ、いるんだ」
「勝手に予想するな」
「分かった。片思いなんだ? 格好いいのに態度が怖いから駄目なんだよ」
余計なお世話だ。と思ったら、頭に激痛が走った。軍曹が歩いていって、ジルの頭を殴っていた。
「暴力反対」
ジルが叫ぶ。
「貴様ら、ここは俺の部屋でもあるんだ。騒ぐのもいい加減にしろ」
俺はため息をついた。前にもこんなことがあったような気がした。
背の高い本棚に、本が隙間なく詰まっている。あたり一面、どこを見ても同じような光景が広がる。思い思いに本を読んでいる軍人達の姿が見える。紙の匂いは、好きだ。軍の図書館は広い。昇進して閲覧できる本が増えたので試しに来てみたが、特にめぼしいものはなかった。カタリナとトゥーシャのことをもっと詳しく知らなくてはいけない。
読み書きは軍人の手伝いをしている時に頼み込んで教えてもらった。付け焼刃にしては我ながらよく読んだり書けたりしていると思う。そういえば、レオンも字を書けるようになったということだ。この間の手紙に、いつ帰ってくるのかと書いてあったが、帰るつもりはない。レオンが幸せにしているなら、それでいい。けれど俺は世界を壊そうとしている。自分でも矛盾していると思う。
靴音がした。俺は振り向いた。
「失礼します、マグダラス軍曹」
軍服を着た黒髪の若い女が立っていた。女がこちらへ歩いてくる。
「何の用ですか」
「正式にマグダラス軍曹の部下になることが決まりましたので、ご挨拶に参りました。こちらにいらっしゃると伺ったので。追い回してしまって申し訳ありません」
その割に女は笑顔だ。
「会議室を取りましたので、そちらで少しよろしいですか」
何を考えている? 話をしようという訳か。丁度いい。
「分かりました」
「部下に敬語はおかしいですよ」
調子が狂う。俺は女の後について少人数用の会議室に入った。硝子窓の向こうは空が青かった。
「お茶も出ませんけど、どうぞ」
椅子を勧められる。俺は上座に座った。女は長机を挟んで俺の向かいに座る。
「改めまして、メイベル・アイリーンです。本日付けでマグダラス軍曹の部隊へ配属されました。以後、よろしくお願い致します」
メイベル・アイリーンはまったく邪気のない顔で笑った。
「アイリーン元帥の孫だろう」
「そういう呼び名もありますね」
メイベルは笑顔を崩さない。
「単刀直入に聞こう。何を考えている」
微笑んだ紫の瞳が、俺を見る。
「何も」
「嘘をつくな」
メイベルはあごに手をあてて、上を見る。
「そうですね、あえて言うなら、面白そうだからですかね」
「俺を監視するのがか?」
メイベルは俺を見て、思い切り吹き出した。
「何がおかしい」
「いえ、すみません。軍曹もまわりの方も勘違いされているようですけど、私は別に監視役でも何でもないんですよ」
「じゃあなぜわざわざ俺の下についた」
「さっきも言いましたけど、面白そうだからです」
「意味が分からない」
メイベルは微笑んだ。
「元帥は孫馬鹿ではないので、身内だからとか、そうでないとかは関係ないんですよ。ここへ来てから一度もお会いしてませんし。まわりの方はそうは思っていないようですけど。だからちょっとくらいのわがままなら通るんですよ。便利ですね」
「それで、わがままの通る元帥の孫がなぜ俺の下に来た」
「だから面白そうだからだって言ってるじゃないですか。しつこいですね。しつこい男は嫌われますよ」
メイベルは微笑んでいる。今のは暴言か?
「今この建物の中で一番面白いのはあなたの側です。私を元帥の差し金と思うのならご自由にどうぞ。まあ本当にそうだったとしても、あなたが気にするとは思えませんけど」
よく分かっている。この女が監視役だったとしても、俺の目的は一つだけ、今より慎重に進めるだけだ。
「お前、この世界が好きか?」
メイベルは真顔で俺を見る。
「好きですよ」
「俺が世界を壊す気だと言ったら、止めるか?」
紫色の目が俺を見て、笑う。
「別に止めませんよ。できるかどうかやってみせて下さい」
俺は、笑っていた。
「分かった。信用する。お前に話すのが、最初で最後だ」
「そうですか。これで私が差し金だったら大失敗ですね」
「いい、俺の勘は絶対だ」
「世の中に絶対はないんですよ」
「手厳しいな」
俺は立ち上がった。メイベルの側まで歩いていく。
「言い忘れていた。ハイン・マグダラスだ」
俺は右手を差し出した。
「髪が短くなりましたね」
「大将に切れと言われたのでな」
「そっちの方が、好きです」
メイベルは立ち上がる。
「これからよろしくお願い致します。軍曹」
メイベルは俺の手を握った。
仰ぎ見ると、木の葉の間から太陽が見えた。空はよく晴れていて、吹きぬけた風が汗を冷やしていく。
首都で反政府団体が破壊活動を行っているということで、出動させられた。街の中は鎮圧を終えたが、残党が森に逃げこんだ。森は視界が悪いから面倒だ。今回指揮を執っているのはデイビス軍曹で、俺は経験不足から一般兵と同じ扱いだ。メイベル、ジルも部隊に入っている。殺すことにもう抵抗はない。慣れとは恐ろしいと思う。時々、自分の目的を忘れそうになる。
葉が揺れる音がした。俺は息を止めた。殺される前に、殺す。木陰から姿勢を低くしたジルが出てきて、俺は力を抜いた。「音を立てるな」小声で言った。「ごめん」ジルは小声で言って、俺の側の木にもたれかかった。
「ハイン、何人殺した?」
「集中してろ。死ぬぞ」
「もう殺すの慣れちゃった?」
俺はジルを横目で見た。
「死にたければ一人で死ね」
「厳しいなあ、相変わらず。俺、やっぱり恨んだり殺したりするの向いてない気がする」
風が吹いた。振り返る。ジルの五メートル程後方に、銃を構えた男が立っていた。体術で気絶させるには間に合わない。俺は銃を撃った。銃声が響いて、男が倒れる。俺は舌打ちした。一度この場を離れなければ。ジルが後ろを振り返っていた。
「離れるぞ」
ジルは動かない。俺はもう一度舌打ちした。姿勢を低くしたまま動き出す。うなじに、硬いものが当たった。硬くて、冷たい。俺はゆっくりと振り返る。喉に、銃口が押し当てられた。
「さっき、殺したりするの向いてないって言ってなかったか」
ジルの目は、殺す気もないのに俺に銃を向けた男とは、違っていた。指は引き金にかかっている。
「ごめんね、ハイン。ハインに恨みは、ないんだけど」
ジルは困ったように微笑んでいた。
「彼女、スラムの少年兵に撃たれたんだ。本当の彼女はそんなこと言わないけど、夢の中で、言うんだ。殺してくれって」
ジルの緑色の目は、揺れない。
「俺を殺して、お前は救われるのか?」
風が吹いて、木の葉が音を立てた。大きな音が聞こえた。ジルは、微笑んだ。
「嘘、冗談。ちょっとした昔話だよ。俺、ハインのこと、好きだもん」
大きな音が、連続で、した。ジルは銃を下げる。そのまま、地面に倒れこんだ。ジルの後方で、うつぶせに倒れた男がこちらに銃を向けていた。風が吹いた。俺は男へ向けて、銃を撃った。
日が沈んだ後の図書館は、長机の上に置かれたランプの明かりしかない。本を読むには暗い。誰もいない。俺は頬杖をついた。靴音が、した。俺の隣で止まる。
「何をしてる」
「何も」
女の声が言う。
「落ちこんでいるんですか?」
先の反政府団体鎮圧の任務は、兵士二十二名中、死亡者一名、負傷者十名と、この規模の作戦にしては被害が甚大だったと、上官が苦言を呈していた。もっとも、評価に響くのは俺ではなくて、指揮官だったデイビス軍曹だ。
「少し、迷った」
男を撃った後、気付いたら、俺のまわりには敵兵が何人も倒れていて、側にメイベルがいた。ジルも、倒れていた。
「何をですか」
ジルは、死んだ。俺は目を閉じた。
「俺は、合ってるのか?」
靴音がした。俺は目を開ける。メイベルが机に座って腕を組んでいた。
「らしくないですね。あなたの側にいれば面白いと思ったのに」
ランプの炎が揺れる。
「軍曹はジル・サイファリスクじゃなくて、妹さんを一番愛しているんでしょう? なら答えはおのずと決まってくるんじゃないですか」
俺は顔を伏せた。メイベルの言う通り、今も昔も、変わらず愛しているのはミリアだけだ。
「まあ人間ですから、悩むこともありますけどね。あなたがそういう風に悩むのは意外でしたけど」
俺は顔を上げた。メイベルは暗くなった窓の外を見ていた。
「何でそんなに達観してるんだ?」
「色々あったからですよ」
「いくつだ?」
「不躾ですね。教えませんよ」
「教えられない歳じゃないだろう」
「軍曹が教えてくれたら教えます」
俺は一瞬、考えた。二十を過ぎてから、どうも自分の歳が覚えられない。
「二十二だ」
メイベルは意外そうな声を上げた。
「若いんですね」
「老けて見えたか?」
メイベルは笑った。
「そういう訳じゃないです。私も同い年ですよ」
俺はメイベルを見た。
「じろじろ見ないで下さい。失礼ですね」
「若いな」
「軍曹も同じですよ。何言ってるんですか」
メイベルは机から降りた。
「後追い自殺とかしないで下さいね。面倒なんで」
「自殺はしない。死ぬのは、カタリナを呼び出した時だ」
メイベルは満面の笑みを見せた。
「それでこそ、軍曹です」




