魔女の温室 〜あなたへの恋心は蝶になりました〜
貴族もよく訪れる王都の公園、その隅に温室はある。
通称「魔女の温室」と呼ばれるそこは、見たこともない花と見たこともない色とりどりの蝶が舞う、幻想的な空間だ。
ただし、行こうと思っても見つからない。
逆に、気がついたら温室の前に立っていた、なんてこともある。
だから、不思議な場所として、囁かれているのが「魔女の温室」なのだ。
その日、男爵夫人メリエラは、気分転換に出かけた公園で、いつの間にかぽつんと佇む温室の前に立っていた。
まるで誘われるように、身体が勝手に温室の扉を開けていた。
目の前に広がるのは、見たこともないような、どこか現実離れした美しい花たち。
その間を飛び回る蝶。
花や蝶に詳しくはないメリエラでも、それらはとても珍しいものなのでは、と思うものばかりだった。
「魔女の温室…?」
こぼれたのはただの独り言のようなつぶやきだったが、それに応える者がいた。
「そう呼ぶ者もおりますね。ようこそ」
振り向くと、執事服の若い男が立っていた。
「私はここの管理をしております、リヒャルトと申します。ここを訪れた方をおもてなしするのが習わしですので、よろしければこちらへどうぞ」
恭しく礼をし、指し示す手の先には整えられたテーブルがあった。
誰かが来るのを分かっていたかのようにセッティングされたそれらを訝しむ気も起こらず、メリエラは席について目の前に置かれたカップに口をつけた。
「おいしい…」
ずいぶん久しぶりに、その感情を思い出した気がする。
「それはようございました」
リヒャルトは控えめに微笑んでみせた。
よく見ると、このテーブルクロスも茶器も、リヒャルトの服もとても上質なものに見えた。
もしやここは、とても身分の高い方がお忍びで来るような場所なのでは?
そう思い至り、青ざめたメリエラの心を見透かしたように、リヒャルトは告げた。
「この温室には、心におつらいものを抱えたご婦人がいらっしゃいます。そのお心の内を、少しでも軽くしていただけるよう、おもてなしするのがこの場所。そのことに、身分などは関係ございません」
「心に、つらい、もの…」
たしかにそれならば、自分はここに来る資格があるのだろう、メリエラは目を伏せた。
「わたくしは、自分の恋心が、つらいのです」
メリエラは、夫であるエリックに婚約時代から恋していた。
エリックも優しかったが、それは彼女に対してだけではなかった。
優しいエリックは、顔立ちもやわらかく整っており、当然のように女性にモテた。
実際に浮気もされたが、その度「愛してるのはメリエラだけ」と絆されてきた。
結婚してからは落ち着いたかのように見えたが、何のことはない、一人の女に入れあげて派手に遊ばなくなっただけのことだった。
「それでも、わたくしはエリックの心を求めてしまう。相手の女性を憎いと思ってしまう」
お茶を飲みながら、いつの間にかそんな事を、目の前のリヒャルトに話してしまっていた。
「いやだわ、わたくしったら。こんな話を初めて会った方にしてしまうなんて」
「そのためのこの場所です。ここで話したことは外には漏れません。少しでも、あなた様のお心が軽くなっていればよいのですが」
リヒャルトは変わらず静かな微笑で返した。
きっと、身分の高いお方が関わっているのだろう。ならば詮索はするまい、と一人で納得して、メリエラは席を立った。
「ええ、なかなかこのようなこと、外に吐き出すこともできませんから。聞いてくださってありがとう」
そうして温室を出て、そのまま振り返らず家に戻った。
温室で胸の内をわずかばかり吐き出したが、現状がそれで変わるわけでもない。
エリックは相変わらず帰りの遅い日が続いていたが、その日は随分と早く帰宅した。
夕食を共にしたのも、久しぶりな気がする。
だが、エリックは何か言いたいことがあるように、ずっとそわそわして落ち着かなかった。
夕食後、ダイニングルームでワインを開けながら、ようやくエリックが話しだした。
「実はミラに子供ができたんだ」
メリエラは、目を見開いたまま固まった。
愛人に子供?
メリエラとの間にはまだなのに?
「それ…で、どうなさるおつもりですか?」
震える手を強く握りしめて、真っ白になっていることなど気づかず、エリックは続ける。
「どうもしないよ。ミラは平民だからね。ただ、もし男子が生まれたら、将来子供は引き取ることもあるかもしれない」
そう言って、まるで悪びれた様子もなく、メリエラに笑いかけた。
「君との結婚は続けるよ。君との間に子供ができたら、もちろんそちらを優先するさ!」
どうやって部屋まで戻ったのかわからないまま、メリエラはベッドに倒れ込むように横になった。
涙があふれてくる。
私より先にほかの女との子供を作るなんて!
貴族が愛人を作ることはよくある。
メリエラも、建前上はよくあることとして目を瞑ってきた。
せめて、自分との間に嫡子ができていたら、ここまで苦しくはなかったかもしれない。
いっそ離婚を待ちだされたほうがマシだったのかとも思うが、しかし離婚したところで、実家は既に兄が継いでいる。
離婚して戻っても、どこかの平民か年の離れた人の後妻に、再婚をまとめられてしまうだろう。
このまま結婚生活を続けても、離婚してどこか適当な家と再婚させられても、メリエラにとっては絶望でしかなかった。
いっそ、全てを消してしまえたら。
気がつくと、またあの温室の前に、メリエラは立っていた。
ふらりとガラス戸に手をかけ開けると、この苦しさとは無縁の美しい光景が、再び彼女を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」
同じように迎えるリヒャルトに案内されるまま席につき、そしてまたお茶を注がれ。
しかし今日はそれに口をつける前に、彼女の目から涙がこぼれた。
「わたくし…もうどうしていいか…」
ぽつりぽつりと、エリックが愛人との間に子供を作ったこと、彼女の事情などを話す。
話しているうち、一匹の蝶がヒラヒラと彼女の周りを舞い、カップの縁にとまった。
「見たこともない蝶ね…とても、美しいわ」
透き通った水晶に、時折虹の色が入るような不思議な色の羽。
「そうですね、この蝶もあなたと同じ、苦しい恋が姿を変えたもの」
リヒャルトは淡々と語る。
「この蝶は、もとは誰かなの?」
「正確には恋心ですね。手放したい心だけを切り離すのです。それゆえ、ここを魔女の温室と呼ぶ人もいます」
一旦切って、リヒャルトは少し微笑んだ。
「まぁ、管理しているのは魔女ではなく私なのですが」
「心を切り離すことなんてできるの?」
「ええ、あなたがお望みならば」
ひらりひらりと、水晶の羽の蝶が、メリエラの周りを舞った。
やがて、愛人のミラは男児を産んだと聞かされた。
そしてメリエラは覚悟を決めた。
道は分からないが、あの温室にたどり着ける確信があった。
「ようこそいらっしゃいました」
リヒャルトは変わらぬ微笑で、メリエラを出迎えた。
テーブルで、彼女に渡されたのは一本の枝。
その枝には、真珠色に輝くサナギがひとつ、ついていた。
「きれい…」
「この枝を持って手放したい気持ちを念じてください。彼との思い出など色々を」
リヒャルトに説明され、メリエラは目を閉じてエリックとの過去の様々な場面を思い浮かべた。
初めて出かけた日のこと、初めてプレゼントされた髪飾り、もらった花束、手をつないだこと、初めて口づけした日のこと。
他の女性と親しげに笑い合う姿、ダンスをしているところ、浮気がばれてメリエラに愛していると許しを請う所。
思い浮かべるたびに、何かが、彼女の手から吸い上げられていくような感覚があった。
そして、ミラが男児を産んだと聞かされた瞬間のこと。
目を開けると、白く輝いていたサナギが、割れていた。
そして、ゆっくりと中から蝶が姿を現し、羽を広げていく。
羽化したそれは、美しい赤色をしていた。
「まぁなんて綺麗。エリックの髪の色のようだわ」
そう声を上げたメリエラは、エリックと呼んだ己の声に、何の熱もないことに気がついた。
美しい蝶と対照的に、抜け殻はすっかり輝きを失い、カサカサの皮になっていた。
「美しい蝶になりましたね。これが、あなたの恋心ですよ」
「ふふふ、わたくしの想いは美しかったのね」
花のほうへ飛び立つ蝶を、なんのためらいもなく見送ると、メリエラは彼女自身が花のように笑った。
「すっかり心が軽くなったわ!」
エリックは、最近妻の様子が変わったように感じていた。
いつ見ても、ニコニコと笑っているのだ。
愛人のことを問い詰められるのは嫌だが、何も言われないのもそれはそれで不安になる。
ある日、メリエラは言った。
「愛人とのお子は男子でしたわね。後継にするなら早めに引き取ったほうが良いのではなくて?教育のこともありますし」
まるで、手土産はなににしようかしら?くらいの軽い口調で言われ、エリックはなぜか冷や汗が出た。
「どうしたんだい急に」
「ミラさんは平民なんでしょう?貴族として育てるなら、早めのほうがよろしいかと」
ごく当たり前の世間話のような話し方。
そこには嫉妬も怒りも感じられない。
「いや、でも、君との子が今後…」
「それも考えたのですけど、男児ができたのなら、わたくしとの間に、無理に子供を作る必要もないんじゃないかしら」
「ミラに子供ができたのを怒っているのかい?僕は君との子をちゃんと大事にするつもりだよ。君は僕を愛しているだろう?」
いつもと雲行きが違う、と焦るのはエリックばかりで、メリエラは笑顔のまま答えた。
「いいえ、あなたを愛していた心は無くなりましたわ。ですからもう、無理に子供を作る必要も感じないのです」
でも、あなたがまだ子供が欲しいとおっしゃるなら…と、考えるように続けた。
「ええ、わたくしはどちらでもよいのです。好きでもない人と閨を共にするのは、貴族としての務めでもありますからできますわ」
「悪かったよメリエラ、一番愛しているのは君なんだ。どうか機嫌を直しておくれ」
今までのように、エリックはメリエラに泣きつく。
そうやって、彼女は悲しげな顔をしながら、結局は許してくれるのだ。
だって、メリエラはエリックを愛しているから。
「先ほども言いましたが、あなたをもう愛していませんの。あなたへの恋心は、蝶になって飛んでいきましたわ」
そう笑うメリエラは、昔のような屈託のない笑顔で、愛はなくなったとエリックに突きつけてくる。
「わたくし、魔法使いさんに、あなたへの恋心を消してもらいましたの。おかげでとても軽くなれましたわ」
こんな笑顔を見たのはいつぶりだろう?
「どうされたの?わたくしの嫉妬が邪魔だったのでしょう?」
心底不思議そうにエリックを見る。
違う、こんなメリエラは知らない。
「赤い美しい蝶でしたわ。そう、あなたの御髪の色と同じ」
微笑むメリエラは美しく、しかし何の熱もない瞳でエリックを見つめ返した。
「男爵夫人としての務めはちゃんと果たしますから、ご安心なさって」
エリックへの恋心を手放したメリエラは、同時に怒りも執着もなくなって、彼女にとってはエリックはもう、ただ男爵家を存続させるためのパートナーでしかなかった。
呆然と床に座り込んだエリックに、メリエラはいつまでもニコニコと美しい笑みを向けていた。
現代なら離婚一択。




