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嫌だと言えなかった令嬢は、もう頷かない

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/31

フォルディア伯爵家の長女であるリシェルは、昔から「聞き分けの良い子」だった。


欲しいものがあっても我慢する。


不満があっても口にしない。


誰かが困っていれば譲る。


そうしていれば、周囲は皆喜んでくれたからだ。


「リシェルは本当に良い子ね」


「お姉様は優しいですもの」


「君は穏やかで素晴らしい令嬢だ」


そんな言葉を掛けられるたび、リシェルは微笑んだ。

そうするのが当たり前だと思っていた。


けれど、いつからだろう。


微笑むことと、本心を飲み込むことが同じ意味になってしまったのは。


「リシェル」


穏やかな声に顔を上げる。


王都でも名高い老舗サロン。

窓際の席に座るローラン・エスティエが、柔らかく笑っていた。


淡い栗色の髪。

整った顔立ち。

社交界でも評判の侯爵家嫡男。


そして、リシェルの婚約者だ。


「来月の春季夜会だが、ドレスはもう決めたかい?」


「いいえ、まだです」


「それなら、淡い色が良いと思う」


ローランは紅茶を口に運びながら続けた。


「この前の夜会の時も、薄い藤色がよく似合っていた」


リシェルは微笑む。


「そういたします」


「君は派手な装いを好まないから安心だ」


その言葉に、小さく頷く。


けれど本当は、派手な装いを好まないわけではない。

ただ、そう思われているだけだった。


それを訂正するほどの勇気もなかった。




帰宅後。


侍女のマリーが、夜会用の髪飾りをいくつか並べていた。


「お嬢様、こちらはいかがでしょう」


小箱の中で、銀細工の髪飾りがきらりと光る。


小さな青い花を模した装飾が揺れ、光を受けて繊細に輝いていた。


可憐で、けれど甘すぎない。

リシェルは思わず手に取る。


「綺麗……」


「お嬢様にとてもお似合いだと思います」


マリーも嬉しそうに笑った。


その瞬間、リシェルの胸が少しだけ弾む。


夜会で身につけたら素敵かもしれない。

そう思った。


けれどーー


「……やめておきましょう」


マリーが目を瞬く。


「お嬢様?」


「ローラン様は、もっと控えめなものがお好きだから」


そう言いながら、真珠だけの髪飾りを選ぶ。


無難で、上品で。

誰からも何も言われないもの。


マリーは何か言いたそうだった。

けれど結局、何も言わなかった。


リシェルは小さく微笑む。

胸の奥へ残った寂しさに、自分でも気づかないふりをしながら。


 


数日後。

エスティエ侯爵家主催の茶会が開かれた。


薔薇の咲き誇る庭園。

磨き上げられた白い東屋。春風に揺れる花々。


侯爵夫人は上機嫌だった。


「リシェルさんは本当に落ち着いていて素敵ね」


「ありがとうございます」


「控えめで、聞き分けも良くて……」


満足そうな笑顔。

褒められているのだとわかる。


それでも胸の奥が少しだけ重い。


「将来の侯爵夫人として安心できるわ」


リシェルは微笑んだ。

いつも通り、失礼のないように。

穏やかに、完璧に。


その時だった。


「彼女は本当に、手がかかりませんから」


隣でローランが笑う。

侯爵夫妻も微笑む。


和やかな空気だった。

誰も悪意など持っていない。


だからこそ、胸の奥へ落ちた言葉が、妙に重かった。


――手がかからない。

本当に、それは褒め言葉なのだろうか。


茶会の終わり頃。 

少しだけ風に当たりたくなり、リシェルは席を外した。


庭園へ続く回廊を歩く。

白いレースのカーテンが、春風に揺れている。


遠くから聞こえる笑い声。花の香り。

穏やかな午後。


それなのに、胸の奥だけが少し苦しかった。


「……お一人ですか」


不意に声がした。


振り返ると、そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。


黒髪。

落ち着いた灰色の瞳。

仕立ての良い文官服。


そして、不思議なくらい静かな空気。


青年は礼儀正しく一礼する。


「失礼いたしました」


「……いえ」


「少し顔色が優れないように見えましたので」


押しつけがましくない声音だった。


心配しているのに、踏み込みすぎない。

その距離感が心地良い。


「私はセイン・ヴァルミエと申します」


その名に、リシェルは目を瞬く。


ヴァルミエ公爵家。

王国でも有数の名門だった。


「フォルディア伯爵家のリシェルです」


「存じております」


セインは静かに答えた。


「よく、お見かけしますから」


社交辞令かもしれない。

けれど、不思議と嫌な気はしなかった。


春風が吹く。

白いカーテンが揺れる。


その向こうで、人々の笑い声が響いていた。


「……皆様、とても楽しそうです」


ぽつりと零れた言葉に、セインは否定も慰めもしなかった。


「そうですね」


ただ静かに相槌を打つ。

それだけなのに、少しだけ肩の力が抜けた。


「私も楽しいはずなのに」


言った瞬間、リシェルははっとする。


初対面の相手へ話す内容ではなかった。

慌てて微笑もうとした。


けれど。


「無理に笑わなくても大丈夫ですよ」


静かな声が返る。

その言葉に、リシェルは初めて、笑顔を作ることを忘れた。


それから、リシェルは何度か社交の場でセインと顔を合わせるようになった。


けれど、特別親しくなるわけではない。


公爵家の次男。

王宮文官。

そして婚約中の令嬢。


距離を保つのが当然だった。

だからこそ不思議だった。


セインは決して踏み込まないのに、誰よりもリシェルを見ていた。


初夏の夜会。

侯爵家主催の音楽会。

王宮で開かれた園遊会。


どこで会っても、セインは礼儀正しく挨拶をするだけだ。


けれど。


「大丈夫ですか?」


気付けば、いつも同じ言葉を掛けられていた。


最初は偶然だと思っていた。


だが三度目ともなると、さすがに気付く。


「私、そんなに疲れて見えるのでしょうか」


思わず尋ねると、セインは少しだけ目を瞬いた。


「いえ」


「では、どうして」


「大丈夫だと仰るので」


リシェルは言葉を失った。

セインは静かに続ける。


「その前に、必ず何かを我慢していらっしゃる」


風が吹く。

庭園の木々が揺れる。


リシェルは返事ができなかった。

そんなことを言われたのは初めてだったから。


欲しいものがあっても、

行きたい場所があっても。

違うと思うことがあっても。


最後には、『大丈夫です』

そう言えば、丸く収まる。


誰も困らない。

誰も悲しまない。

だから、それで良いのだと思っていた。


けれど、本当にそうだったのだろうか。




ある日の午後。

ローランと、次の夜会について話していた時だった。


「髪飾りは、前回と同じ雰囲気が良いと思う」


「そうですね」


「君には、ああいう控えめなものが似合う」


リシェルは頷く。


けれど、ふとあの日の青い花の髪飾りを思い出した。

綺麗だと思った。

本当は身につけてみたかった。


けれど結局選ばなかった。


いや、選ばなかったのではない。

選べなかったのだ。


その事実に気付いてしまった。


「リシェル?」


ローランが、不思議そうに首を傾げる。


「どうかしたのかい?」


「……いいえ」


いつもなら、そこで終わっていた。

けれど胸の奥へ、小さな違和感が残る。


それは日を追うごとに大きくなっていった。



ある日の午後。

リシェルは父に呼ばれ、書斎を訪れていた。


高い本棚。

窓から差し込む柔らかな陽射し。


フォルディア伯爵は書類から顔を上げると、娘を見つめた。


「最近の婚約生活は順調か?」


突然の問いに、リシェルは一瞬だけ目を瞬く。

けれど、すぐにいつもの笑みを浮かべた。


「はい」


反射するように答える。

昔からそうだった。


大丈夫です。

問題ありません。


そう言えば、誰も心配しない。


だから、それが正解なのだと思っていた。


だが。


「本当にか?」


静かな声だった。

責める響きはない。

ただ、確かめるような声音。


リシェルは思わず言葉に詰まる。

伯爵は小さく息を吐いた。


「私はお前の父だ」


その言葉に胸が痛む。


「無理をしているように見える」


リシェルは俯いた。

何かを言おうとして、けれど言葉にならない。


そんな娘を見て、伯爵はゆっくり続けた。


「婚約とは家同士の約束だ」


「……はい」


「だが、結婚後に歪みが表へ出る方が問題になる」


書斎は静かだった。

時計の音だけが聞こえる。


「お前達は、本当に合っているのか」


その問いに、リシェルは初めて答えられなかった。


今までなら、笑って頷いていた。

けれど、その言葉だけは、どうしても口にできなかった。


伯爵は娘の沈黙を見つめる。

やがて静かに頷いた。


「……そうか」


それだけで十分だった。


何も言わなくても、父には伝わってしまったらしい。


 


それから数日後。


フォルディア伯爵家とエスティエ侯爵家の間で、婚約についての見直しが始まった。


もちろん表向きは穏便だった。

伯爵家と侯爵家。

どちらの名誉も、傷つけないように。


将来へ禍根を残さないように、慎重に話し合いが進められていく。


 

その間、リシェルは不思議な気持ちで日々を過ごしていた。


婚約が、解消されるかもしれない。

本来なら、不安になるはずだった。


けれど、胸の奥には、少しだけ安堵もあった。



ある日、久しぶりに王都の書店へ足を運ぶ。


以前から気になっていた、旅行記を手に取る。


海の向こうの国。

見たこともない景色。


読んでいるだけで、胸が弾んだ。

気付けば時間を忘れていた。


帰り際、鏡へ映った自分を見て少し驚く。


自然に笑みが浮かんでいた。


それからは、自分で髪飾りを選ぶようになった。

読みたい本を読むようになった。

好きな花を育てるようになった。


どれも小さなことだった。

けれど、以前より呼吸が楽だった。


その変化に最初に気づいたのは、皮肉なことにローランだった。




夏の終わり、王宮で開かれた茶会。


久しぶりに顔を合わせたリシェルを見て、ローランは目を見開く。


「最近、楽しそうだね」


リシェルは、少し驚いたように笑う。


「そう見えますか?」


「ああ」


ローランは頷く。


「前よりよく笑顔を見かける」


好きなことをしている、からかもしれません。

そう答えたリシェルの言葉が、なぜか胸へ残った。


好きなこと。

その言葉を聞いた時、ローランは初めて気付く。


自分はリシェルの好きなものを、何一つ知らなかったのだと。


それから、何度も考えた。


好きな本。

好きな花。

好きな色。

好きな食べ物。


思い返そうとしても、出てこない。


いつだって、彼女は自分へ合わせていた。

だから、知ろうともしなかったのかもしれない。




そして秋。

正式に婚約解消が決まった。


最後の挨拶のために会った夜。


ローランは、静かに口を開く。


「私は、間違っていたのかもしれない」


リシェルは、何も言わず続きを待つ。


「君を見ていたつもりだった」


苦く笑う。


「だが、本当は理想の婚約者を、見ていただけだったんだろうな」


夜風が吹く。

白いカーテンが揺れた。


「やり直せないだろうか?」


その言葉に、リシェルはしばらく黙っていた。


昔なら、困って相手を傷付けない言葉を探しただろう。


そして結局、頷いていた。

けれど、今は違う。


リシェルは静かに首を横へ振る。


「……嫌です」


はっきりと、初めて自分の意思で、言葉にする。


「私はもう、自分の気持ちを後回しにしたくありません」


その言葉を受け止めるように、ローランが目を閉じる。


「そうか」


しばらくして、彼は小さく笑った。


「幸せになってくれ」


その言葉へ、リシェルは静かに頭を下げた。


 


数日後。


フォルディア伯爵は、ふと思い出したように言う。


「そういえば……」


リシェルが顔を上げる。


「ヴァルミエ公爵家のご子息には礼を言わねばな」


「セイン様に?」


「婚約見直しの件だ」


リシェルは目を瞬く。

伯爵は何気ない様子で続けた。


「お前が少々無理をしているように見える、と教えてくれてな」


胸が小さく震える。


「もちろん決めたのは私だ」


伯爵は苦笑した。


「だが、お前を見るきっかけをくれたのは彼だ」


それだけ言うと、再び書類へ視線を戻す。


リシェルはしばらく動けなかった。


あの日、回廊で出会った時から、セインはずっと気付いていたのだ。




そして、その数カ月後の王宮の夜会。

今日は父のエスコートで、参加している。


父が席を外し、一人になった時だった。


「お疲れ様でした」

聞き慣れた声がする。


振り返ると、セインが立っていた。


「その節は、ありがとうございます」


リシェルは微笑む。


「父から聞きました」


セインがわずかに固まる。


「……そうですか」


「どうして、教えてくださらなかったのですか?」


「言う必要はありませんでしたから」


いかにも彼らしい答えだった。

思わず笑ってしまう。


「嬉しかったです」


その言葉に、珍しくセインが言葉を失った。


夜風が吹く。

青い花を模した髪飾りが、灯りを受けて静かに揺れた。


かつて綺麗だと思いながら、選ぶことができなかったものだ。


今は、自分の意思で身につけている。


「セイン様」


「はい」


「今度は……」


胸が少しだけ高鳴る。


「私から、お茶へお誘いしてもよろしいでしょうか」


沈黙。

そしてーー

セインが珍しく困ったように笑った。


「それは」


一歩だけ近付く。


「光栄です」


王都の灯りが窓の向こうで瞬いている。


手は触れない。

約束もない。


けれど、新しい季節が始まる予感だけは、確かにそこにあった。





嫌だと言えなかった令嬢は、もう頷かない。

そして初めて、自分の望む未来へ歩き出した。

 

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― 新着の感想 ―
元婚約者側も決して悪い人間じゃないんだよね 強いて言うならなにもかも飲み込んで何も言わずにやり過ごしてきた主人公の姿勢かなw だからと言ってそれも悪いと言ったら可哀想なんだけど、それが全ての起点になっ…
 周りに過剰に合わせ、ドレス・髪飾りなどを伴侶の要望に合わせようとするあまり、ローランさんのカンガエタりそうのオクサンや、エスティエ家のお人形になりかけ、マリーさん等を心配させるリシェルさん。  そ…
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