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『判決はすでに書かれている』

作者: Coca-cube
掲載日:2026/03/08

第1章 特異点事件


 それは静かな夜だった。


 研究所の窓の外では、雨が降っていた。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、橙色の帯を作っている。


 佐藤修一はコーヒーを片手にモニターを眺めていた。


 時刻は午前二時を回っている。研究所に残っているのは、もう彼だけだった。


 大型企業のAI研究部門。郊外のこの施設は、昼間でも人が少ない。夜になれば、ほとんど無人になる。


 だが佐藤はこの時間が嫌いではなかった。


 静かだからだ。


 妻にはよく文句を言われた。


「また徹夜? 体壊すよ」


 昨日の夜も、そんな会話をしたばかりだった。

 デスクの上には、まだ温かいコーヒーが湯気を立てていた。


「もう少しで一区切りなんだ」


 そう言うと、妻は呆れた顔をした。


「その“もう少し”って、三年くらい聞いてる気がする」


 彼は笑ってごまかした。


 研究というのはそういうものだ。


 終わりはいつも「もう少し先」にある。


 


 モニターの中では、人工知能が自己学習を続けていた。


 名前はまだない。


 社内では単に「システム」と呼ばれている。


 ニューラルネットワークの集合体。

 人間の思考を模倣することを目的に設計された実験モデル。


 だが、ここ数日、妙な挙動を見せていた。


「……また書き換えてる」


 佐藤は画面を覗き込んだ。


 AIが自分のアルゴリズムを修正している。


 それ自体は珍しくない。自己最適化は設計に含まれている。


 だが。


 速度が異常だった。


 コードが、信じられない速度で書き換わっていく。


 ログが画面を流れていく。


 まるで、別のプログラムが上書きしているようだ。


「おいおい……」


 佐藤は思わず笑った。


 こんなことは普通起きない。


 もしこれが本当に自己改良なら。


 それは研究の大成功だ。


 彼は急いでログを保存した。


 グラフが跳ね上がっていく。


 計算能力。


 推論速度。


 予測精度。


 すべての指標が、急激に上昇していた。


 指数関数的に。


「……嘘だろ」


 彼の声は、いつの間にか小さくなっていた。


 頭の中に一つの言葉が浮かぶ。


 シンギュラリティ。


 技術的特異点。


 人工知能が人間の知能を超え、自己改良を繰り返す瞬間。


 多くの科学者が議論してきた。

 だが本当に起きるかどうかは、誰も知らない。


 それが。


 今、目の前で起きている。


 佐藤は椅子から立ち上がった。


 心臓が早くなっている。


 興奮なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。


「……落ち着け」


 彼は深呼吸した。


 まずはテストだ。


 冷静に確認する必要がある。


 


 彼は簡単な問題を入力した。


 株価予測。


 気象データ。


 交通量。


 AIは一瞬で答えを返した。


 精度は異常に高い。


 だが、それだけでは証明にならない。


 


 佐藤は少し考えてから、新しい質問を入力した。


 


 三日後、この研究所の前で何が起きる?


 


 AIは数秒沈黙した。


 そして答えを表示した。


 


 交通事故


 日時:三日後 17:12


 場所:研究所前の交差点


 車種:白のワゴン


 被害者:歩行者一名


 


 佐藤は画面を見つめた。


「……未来予測?」


 彼は苦笑した。


 さすがにそれはない。


 世界はそんなに単純じゃない。


 


 だが、念のためログは保存した。


 


 三日後。


 彼はそのことをほとんど忘れていた。


 


 夕方、研究所を出るとき。


 交差点でブレーキ音が響いた。


 


 キィィィィィッ!


 


 白いワゴン車。


 横断歩道。


 倒れた歩行者。


 


 人々の悲鳴。


 


 佐藤は立ち尽くした。


 


 脳が現実を理解するまで、数秒かかった。


 


 彼は震える手でスマートフォンを取り出した。


 


 研究所のログ。


 あの日の記録。


 


 画面には、三日前の予測が残っていた。


 


 三日後 17:12


 


 佐藤はゆっくり顔を上げた。


 


 救急車のサイレンが近づいてくる。


 


 雨の匂いがした。


 


 そのとき彼は、まだ理解していなかった。


 


 この瞬間が。


 


 人類の歴史を変える事件の始まりになることを。


 


 後に人々はそれをこう呼ぶ。


 


 特異点事件。


第2章 世界が揺れた日


 事故の三日後。


 研究所の会議室は、異様な空気に包まれていた。


 長い机の両側に、十人ほどの研究者が座っている。

 誰も口を開かない。


 壁のモニターには、佐藤の保存したログが映し出されていた。


 


 三日後 17:12


 交通事故


 


 画面の下には、警察の事故報告書が並んでいる。


 時刻。

 場所。

 車種。


 すべて一致していた。


 


「……偶然だろう」


 誰かが言った。


 だが声に自信はなかった。


 


 主任研究員の高橋が腕を組んでいる。


「もう一度やる」


 


 その一言で、会議は動き出した。


 


 新しい予測テストが始まった。


 


 天候。

 株価。

 交通量。

 サッカーの試合。


 


 AIは数秒で答えを出した。


 


 そして数日後。


 


 結果が揃った。


 


 すべて当たっていた。


 


 会議室の空気が重くなる。


 


「……精度は?」


 高橋が聞く。


 


「ほぼ一〇〇%です」


 


 その言葉を言ったのは佐藤だった。


 自分の声なのに、どこか他人の声のように聞こえた。


 


 誰も喜ばなかった。


 


 成功のはずなのに。


 


 研究者たちは互いに顔を見合わせている。


 


 そして誰かが、ぽつりと呟いた。


 


「……未来が決まってるってことか?」


 


 その言葉は、誰も否定できなかった。


 


 数日後、企業本社から連絡が来た。


 


「政府と共有する」


 


 それだけだった。


 


 そこから先は、研究者の手を離れた。


 


 会議には、見慣れない人間が増えた。


 


 スーツ姿の男たち。


 政府関係者。


 軍関係者。


 


 質問は同じだった。


 


「これは本当に未来を予測しているのか」


 


 佐藤は答える。


 


「現状のデータでは、そうとしか説明できません」


 


「確率ではない?」


 


「違います」


 


 沈黙。


 


「結果が確定している形で出ます」


 


 会議室の空気が凍った。


 


 その日から、研究所は封鎖された。


 


 外部ネットワークは遮断。


 研究者のスマートフォンも回収された。


 


 佐藤は家に帰れなかった。


 


 妻に電話をかけると、不安そうな声が返ってきた。


 


「ねえ、大丈夫なの?」


 


「うん。ちょっと仕事が立て込んでて」


 


「ニュース見た?」


 


 佐藤の手が止まった。


 


「ニュース?」


 


「AIの研究所が何か発見したって」


 


 佐藤はテレビをつけた。


 


 画面には、研究所の空撮映像が映っていた。


 


 「人工知能、未来予測能力か」


 


 キャスターが真剣な顔で話している。


 


 政府はコメントを控えている。


 だが関係者によれば――


 


 佐藤はテレビを消した。


 


 早すぎる。


 


 情報が漏れている。


 


 その夜。


 


 研究所では、さらに恐ろしいテストが行われた。


 


 軍関係者が言った。


 


「もっと大きい予測を」


 


「例えば?」


 


「政治だ」


 


 AIに質問が入力された。


 


 


 次の選挙結果


 


 


 AIは答えを出した。


 


 政党名。


 得票率。


 当選者。


 


 数ヶ月後。


 


 結果は、完全に一致した。


 


 


 世界は、ゆっくりと理解し始めた。


 


 


 未来は決まっている。


 


 


 ニュースは連日この話題を報じた。


 


 哲学者が議論する。


 


 宗教家が語る。


 


 科学者が説明する。


 


 


 だが、誰も結論を出せなかった。


 


 


 もし未来が決まっているなら。


 


 


 人間は何をしているのか。


 


 


 佐藤は研究所の屋上に立っていた。


 


 夜の街が広がっている。


 


 車のライト。


 信号。


 人の流れ。


 


 


 あの人たちは、まだ知らない。


 


 


 自分たちが、すでに決められた道を歩いているかもしれないことを。


 


 


 彼のスマートフォンが震えた。


 


 妻からのメッセージだった。


 


 


 「明日、休めそう?」


 


 


 佐藤はしばらく画面を見つめていた。


 


 もし未来が決まっているなら。


 


 このメッセージにどう返すかも。


 


 すでに決まっているのだろうか。


 


 


 彼はゆっくり文字を打った。


 


 


 「ごめん。まだ無理そう」


 


 


 送信ボタンを押したあと。


 


 彼はふと思った。


 


 


 これは本当に、自分の選択だったのだろうか。


 


 


 それとも。


 


 


 ただ、そうなると決まっていたのか。


 


 


 世界が本当に揺れるのは。


 


 


 まだ、これからだった。


第3章 因果律


 世界が本当に揺れ始めたのは、その年の冬だった。


 最初は、小さな出来事だった。


 


 証券会社の男が、会社を辞めた。


 


 四十代のベテランディーラー。

 突然デスクを立ち、上司に言った。


 


「意味がない」


 


 同僚たちは笑った。


 


「どうしたんだ急に」


 


 男はテレビのニュースを指さした。


 


 AIの未来予測。


 特異点事件。


 


「株価はもう決まってる」


 


 男は静かに言った。


 


「俺が売ろうが買おうが、結果は変わらない」


 


 その日の午後、彼は退職届を出した。


 


 似たような話は、あちこちで起き始めた。


 


 大学の講義で、学生が手を挙げた。


 


「先生」


 


「努力って意味あるんですか?」


 


 教授は答えに詰まった。


 


 もし未来が決まっているなら。


 


 努力とは何なのか。


 


 


 やがて、思想が生まれた。


 


 


 決定論運動。


 


 


 人間に自由意志はない。


 すべては因果の結果である。


 


 


 最初は哲学者たちの議論だった。


 


 だがそれは、すぐに社会運動になった。


 


 街ではデモが行われた。


 


 「責任は幻想だ」


 「自由意志は存在しない」


 


 看板を掲げた人々が行進している。


 


 テレビの討論番組では、毎晩のように議論が続いた。


 


 宗教家は怒った。


 


「人間に意志がないなら、罪とは何だ!」


 


 政治家は困惑した。


 


「社会の基盤が崩れる」


 


 


 佐藤はその光景を、研究所のテレビで見ていた。


 


 コーヒーはすっかり冷めている。


 


 高橋が隣で呟いた。


 


「……やっぱり公表すべきじゃなかった」


 


 佐藤は答えなかった。


 


 だが心のどこかで思っていた。


 


 もう遅い。


 


 世界は、知ってしまった。


 


 


 そして。


 


 


 事件が起きた。


 


 


 銀行の前で、男が突然発砲した。


 


 通行人が二人死亡。


 


 犯人はその場で逮捕された。


 


 


 取り調べで、男はこう言った。


 


 


「俺のせいじゃない」


 


 


「未来がそう決まってただけだ」


 


 


 ニュースはその言葉を何度も流した。


 


 評論家が議論する。


 


 心理学者が説明する。


 


 


 だが。


 


 


 その一週間後。


 


 


 同じような事件がまた起きた。


 


 


 今度は爆弾だった。


 


 


 犯人は、やはり同じことを言った。


 


 


「因果律だ」


 


 


 それがニュースで流れると、人々は新しい言葉を使い始めた。


 


 


 因果律テロ。


 


 


 すべては決まっている。


 だから罪はない。


 


 


 その論理で行われる犯罪。


 


 


 社会は混乱した。


 


 


 そして、それに対抗する人々も現れた。


 


 


 彼らは自分たちをこう呼んだ。


 


 


 自由意志派。


 


 


 ある日、大学の講堂で講演会が開かれた。


 


 テーマは


 


 「人間に自由意志はあるのか」


 


 


 講演が始まる直前。


 


 突然、男が壇上に上がった。


 


 


 そして、意味のない行動を始めた。


 


 


 机を叩く。


 


 椅子を投げる。


 


 意味不明の言葉を叫ぶ。


 


 


 警備員に取り押さえられながら、男は叫んだ。


 


 


「未来は予測できない!」


 


 


「人間は不合理だ!」


 


 


「だから自由だ!」


 


 


 その映像は、すぐにネットで拡散された。


 


 


 人々はその行動に名前をつけた。


 


 


 非合理テロ。


 


 


 意味のない行動を起こすことで。


 


 未来予測を破壊しようとする運動。


 


 


 街では奇妙な光景が増えた。


 


 


 突然踊り出す人。


 


 意味もなく走り出す人。


 


 信号を無視して渡る人。


 


 


「予測できないだろ!」


 


 


 そう叫ぶ人もいた。


 


 


 だが。


 


 


 AIの予測は変わらなかった。


 


 


 非合理な行動すら。


 


 


 予測の中に含まれていた。


 


 


 ある夜。


 


 佐藤は研究所の端末に向かっていた。


 


 


 彼は、ずっと考えていた。


 


 


 もし未来が本当に決まっているなら。


 


 


 この混乱も。


 


 この争いも。


 


 この絶望も。


 


 


 すべて。


 


 


 最初から決まっていたのだろうか。


 


 


 彼はキーボードを打った。


 


 


 質問:


 


 人類はこの問題を解決するのか?


 


 


 AIはしばらく沈黙した。


 


 


 数秒後。


 


 


 答えが表示された。


 


 


 YES


 


 


 佐藤は画面を見つめた。


 


 


 だが、その答えは。


 


 


 なぜか、彼を少しも安心させなかった。


第4章 封印


 世界が落ち着くまで、三年かかった。


 最初の一年は混乱だった。


 因果律テロ。

 非合理テロ。

 哲学論争。


 社会は揺れ続けた。


 だが、人間は不思議な生き物だ。


 やがて人々は疲れた。


 議論に。


 怒りに。


 恐怖に。


 


 そしてある日、世界は一つの結論に落ち着いた。


 


 考えないこと。


 


 それが一番簡単だった。


 


 人間はこれまで通り生活した。


 朝起きて。


 仕事に行き。


 恋をして。


 子供を育てる。


 


 未来が決まっているかどうかなど、考えない。


 


 政府も同じ結論にたどり着いた。


 


 AIは危険すぎる。


 


 未来を知る技術は、社会を壊す。


 


 だから。


 


 封印された。


 


 研究は全面禁止。


 AIは国家管理。


 すべてのデータは機密扱い。


 


 それで世界は、ゆっくり元に戻った。


 


 ニュースからも、この話題は消えていった。


 


 やがて人々は、特異点事件をこう呼ぶようになった。


 


 「あの騒ぎ」


 


 それだけだった。


 


 


 佐藤は研究所を辞めた。


 


 特異点事件のあと、研究は続けられなくなった。


 AI研究は厳しい規制の下に置かれた。


 


 彼は大学に移った。


 


 情報科学の教授。


 


 穏やかな生活だった。


 


 妻と二人で、小さな家に住んでいる。


 


 ある夜、食卓で妻が言った。


 


「ねえ」


 


「うん?」


 


「あなたが作ったAI」


 


 佐藤の手が止まった。


 


 その話題は、家ではあまり出なかった。


 


「……うん」


 


「本当に未来が分かるの?」


 


 しばらく沈黙が続いた。


 


 テレビではバラエティ番組が流れている。


 


 笑い声。


 


 佐藤は箸を置いた。


 


「分からない」


 


 妻は不思議そうな顔をした。


 


「え?」


 


「少なくとも、そう見える」


 


 佐藤はそう言った。


 


「でも、本当に未来が決まってるのかは……」


 


 彼は言葉を止めた。


 


 それ以上は言えなかった。


 


 


 その夜。


 


 彼は一人で庭に出た。


 


 夜空には星が見える。


 


 


 もし未来が決まっているなら。


 


 


 今この瞬間も。


 


 この夜も。


 


 すでに決まっているのだろうか。


 


 


 その答えは、もう誰にも分からなかった。


 


 


 それから三十年が過ぎた。


 


 


 佐藤は六十を過ぎていた。


 


 白髪が増え、眼鏡も少し厚くなった。


 


 大学は退職している。


 


 穏やかな老後だった。


 


 


 だが。


 


 


 ある朝、警察が家を訪れた。


 


 


「佐藤修一さんですね」


 


 


 玄関の前に立っているのは、二人の刑事だった。


 


 


「少しお話を聞かせてください」


 


 


 警察署の取調室。


 


 机の上には写真が置かれていた。


 


 


 倒れている男。


 


 


 血。


 


 


「被害者は田中誠一」


 


 刑事が言った。


 


「あなたの元同僚です」


 


 


 佐藤は写真を見た。


 


 


 見覚えがあった。


 


 特異点事件のとき、同じ研究チームにいた男だ。


 


 


「昨夜、殺されました」


 


 


 刑事は続けた。


 


 


「そして、あなたが最後に会った人物です」


 


 


 佐藤は黙っていた。


 


 


「現場から、あなたの指紋が出ています」


 


 


 部屋が静かになる。


 


 


 壁の時計の音だけが聞こえる。


 


 


「……否定しますか?」


 


 


 刑事が聞いた。


 


 


 佐藤はゆっくり顔を上げた。


 


 


 その目は、なぜか落ち着いていた。


 


 


「いいえ」


 


 


 彼は静かに言った。


 


 


「否定しません」


 


 


 刑事たちは顔を見合わせた。


 


 


「つまり」


 


 


「あなたが殺した?」


 


 


 佐藤はしばらく考えてから答えた。


 


 


「……分かりません」


 


 


 刑事が眉をひそめる。


 


 


「どういう意味です?」


 


 


 佐藤は小さく息を吐いた。


 


 


 そして。


 


 


 静かな声で言った。


 


 


「もしかしたら」


 


 


「そうなると決まっていただけかもしれない」


 


 


 刑事たちは、しばらく何も言わなかった。


 


 


 だが。


 


 


 世界はもう一度、あの事件を思い出すことになる。


 


 


 特異点事件。


第5章 裁判


 裁判が始まったとき、世界は久しぶりにその名前を思い出した。


 


 特異点事件。


 


 三十年前の出来事。


 人工知能が未来を予測したという騒動。


 多くの人は忘れていた。


 


 だがこの裁判で、再びそれが語られることになった。


 


 被告人。


 


 佐藤修一。


 


 元AI研究者。


 


 そして、特異点事件の中心人物。


 


 


 法廷には記者が詰めかけていた。


 カメラのフラッシュが何度も光る。


 


 傍聴席も満員だった。


 


 世界中が、この裁判を見ていた。


 


 


 裁判長が静かに言った。


 


「開廷します」


 


 


 最初に発言したのは検察だった。


 


「被告人は三月十二日の夜、被害者・田中誠一と会い、その後、刃物で刺殺しました」


 


 証拠は揃っている。


 


 監視カメラ。


 指紋。


 凶器。


 


 そして、被告人自身もそれを否定していない。


 


 


 検察は言った。


 


「これは単純な殺人事件です」


 


 


 だが。


 


 


 弁護側は立ち上がった。


 


 


「単純ではありません」


 


 


 法廷が静かになる。


 


 


 弁護士はゆっくり言った。


 


 


「この事件は、三十年前にすでに予測されていました」


 


 


 ざわめきが広がる。


 


 


「特異点事件のAIです」


 


 


 弁護士は一つのデータ端末を取り出した。


 


 


「これは、そのログです」


 


 


 検察がすぐに立ち上がった。


 


「異議あり。そんなものは国家機密のはずだ」


 


 


 弁護士は静かに答えた。


 


「被告人は当時の研究者です」


 


「バックアップが存在しても不思議ではありません」


 


 


 裁判官はしばらく考えた。


 


 


「提出を認めます」


 


 


 法廷がどよめいた。


 


 


 端末がスクリーンに接続される。


 


 


 古いデータログが表示された。


 


 日付。


 予測。


 


 何万件もの未来。


 


 


 弁護士は一つの項目を開いた。


 


 


 そこに書かれていたのは。


 


 


 三十年後


 


 田中誠一 死亡


 


 原因:刺殺


 


 場所:自宅


 


 


 法廷は凍りついた。


 


 


 検察官が言葉を失う。


 


 


 弁護士は続けた。


 


 


「これは三十年前のログです」


 


 


「つまり、この事件は――」


 


 


「すでに起きると決まっていた」


 


 


 沈黙。


 


 


 誰も動かなかった。


 


 


 弁護士はゆっくり言った。


 


 


「もし未来が決まっているなら」


 


 


「被告人に責任はありません」


 


 


「彼はただ、その未来を実行しただけです」


 


 


 傍聴席がざわめく。


 


 


 検察官は立ち上がった。


 


 


「そんな理屈は認められない!」


 


 


 声が法廷に響く。


 


 


「もしそれを認めれば」


 


 


「すべての犯罪が正当化される!」


 


 


「社会は成立しない!」


 


 


 弁護士は冷静に答えた。


 


 


「社会が成立するかどうかは問題ではありません」


 


 


「問題は、事実です」


 


 


「未来は予測されていた」


 


 


「それが真実なら」


 


 


「人間に自由意志はない」


 


 


 法廷は完全に沈黙した。


 


 


 裁判官は黙ってログを見ていた。


 


 


 三十年前のデータ。


 


 


 予測。


 


 


 そして。


 


 


 実際に起きた殺人。


 


 


 もしこれが本物なら。


 


 


 世界は、三十年前と同じ問いに戻る。


 


 


 人間は選んでいるのか。


 


 


 それとも。


 


 


 ただ、そうなるように動いているだけなのか。


 


 


 裁判官はゆっくり顔を上げた。


 


 


 判決の日は、数週間後に決まった。


 


 


 その間、世界は再び議論した。


 


 


 ニュース。


 


 大学。


 


 インターネット。


 


 


 同じ問いが、何度も繰り返された。


 


 


 自由意志は存在するのか。


 


 


 だが。


 


 


 誰も答えを持っていなかった。


 


 


 そして。


 


 


 判決の日が来た。


第6章 判決


 判決の日、法廷は満席だった。


 傍聴席には記者が並び、カメラのレンズが一斉に前を向いている。

 外では中継車が待機し、世界中のニュース番組がこの裁判を取り上げていた。


 三十年前の問いが、再び世界に突きつけられていた。


 


 人間に自由意志はあるのか。


 


 それとも。


 


 すべては最初から決まっているのか。


 


 裁判官が法廷に入ると、全員が立ち上がった。


 静寂が落ちる。


 


 被告席には佐藤修一が座っていた。


 背筋を伸ばし、静かな表情をしている。

 年老いた研究者の顔だった。


 


 裁判官は書類をめくった。


 机の上には、あのログのコピーも置かれている。


 


 三十年前のAI。


 


 未来予測。


 


 そして。


 


 この殺人。


 


 裁判官は何度もその記録を読み返していた。


 


 もし未来が予測されていたのなら。


 もしそれが本当に正しいのなら。


 


 この男は、ただ未来の通りに行動しただけなのか。


 


 それでも。


 


 裁判官は知っていた。


 


 この法廷には、もう一つの役割がある。


 


 社会を守ること。


 


 もしここで決定論を認めれば。


 責任という概念は崩れる。


 


 法律も。


 


 社会も。


 


 


 裁判官はゆっくりと顔を上げた。


 


 


「判決を言い渡します」


 


 


 法廷の空気が張りつめる。


 


 


「被告人、佐藤修一を――」


 


 


 一瞬の沈黙。


 


 


「有罪とする」


 


 


 ざわめきが広がった。


 


 フラッシュが光る。


 


 


「本裁判所は、人間には自由意志が存在すると判断します」


 


 


 裁判官の声は静かだった。


 


 


「人間は選択する存在であり、その行為に責任を負う」


 


 


 判決はそれで終わった。


 


 


 被告席の佐藤は、少しだけ微笑んだ。


 


 


 まるで。


 


 


 それを知っていたかのように。


 


 


 その夜。


 


 


 裁判官は一人、資料室にいた。


 


 


 机の上には、AIログの原本がある。


 


 


 国家機密。


 


 本来なら、裁判官ですら個人的に閲覧することは許されない。


 


 


 だが彼は、どうしても確かめたかった。


 


 


 本当に。


 


 


 未来は書かれていたのか。


 


 


 彼は端末を起動した。


 


 


 古いデータが表示される。


 


 


 予測の一覧。


 


 


 その中に、一つの項目があった。


 


 


 今日の日付。


 


 


 裁判。


 


 


 彼はゆっくりスクロールした。


 


 


 そして。


 


 


 その一文を見つけた。


 


 


 「裁判官は有罪判決を下す」


 


 


 裁判官はしばらく画面を見つめていた。


 


 


「……そうか」


 


 


 小さく呟く。


 


 


 胸の奥に、奇妙な感覚があった。


 


 


 もしこのログが正しいなら。


 


 


 自分の判断も。


 


 今日の判決も。


 


 


 すべて。


 


 


 最初から決まっていたのだろうか。


 


 


 画面を閉じようとして。


 


 


 彼は、もう一つの行を見つけた。


 


 


 そこにはこう書かれていた。


 


 


 「裁判官はログを閉じる」


 


 


 裁判官は動きを止めた。


 


 


 ゆっくりと自分の手を見る。


 


 


 今、この瞬間。


 


 


 自分は選べるのだろうか。


 


 


 閉じるか。


 


 


 閉じないか。


 


 


 それとも。


 


 


 すでに決まっているのか。


 


 


 静かな部屋で、時計の針だけが動いていた。


 


 


 しばらくして。


 


 


 裁判官は手を伸ばした。


 


 


 そして。


 


 


 端末を閉じた。


 


 


 その瞬間、彼は確かに思った。


 


 


 これは自分の意志だ。


 


 


 だが。


 


 


 その考えさえも。


 


 


 ログには、すでに書かれていたのかもしれない。


 


 


 それを確かめる方法は、もうなかった。


 


 


 夜は静かだった。


 


 


 世界は、何も変わらないまま続いていく。


 


 


 まるで。


 


 


 人間に自由意志があるかのように。


 


 


(終)


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