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終わらぬ転落  作者: ありり
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長い夜

タワーマンションの高層階。

夜景が一面のガラス越しに広がり、都会の光が宝石のように瞬いている。


佐川の勤務初日。

長い、あまりにも長い一日が、ようやく終わろうとしていた。


白いエプロンには茶色い染みがいくつも浮かび、黒のワンピースも袖口が薄汚れている。手は赤く荒れ、背筋はわずかに震えていた。


リビングでくつろいでいた夫婦が立ち上がる。


夫「さて、寝室へ行こうか」


低く落ち着いた声で夫が言う。


妻はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと佐川を見た。


妻「その前に」


静かな声だった。


妻「床、まだよね?」


佐川は一瞬だけ目を伏せる。


佐川「……申し訳ございません。今すぐ取りかかります」


妻「“今すぐ”じゃなくて、“既に終わっているべき”でしょう?」


妻は冷たく笑う。


夫が佐川の前に歩み寄る。


夫「初日だからって、甘えは許されない。お前は彼女への“贈り物”なんだからな」


佐川の喉が小さく鳴る。


その瞬間、夫の指が佐川の顎を掴み、持ち上げた。


ぐい、と強く。


視線を逸らすことは許されない角度まで、顔を上げさせる。


夫「目を逸らすな」


低く、命令。


佐川の瞳が揺れる。かつては同じ高さで他人を見下ろしていた視線が、今は見上げる側にある。


夫「お前はな」


夫が続ける。


夫「俺が妻に贈った“物”だ。借金の代わり。役に立つ道具。理解しているか?」


佐川は一瞬、唇を噛む。


佐川「……はい」


夫「声が小さい」


顎をさらに上へ押し上げられる。


夫「理解しているか?」


佐川「……理解しております。私は……奥様への贈り物でございます」


妻がくすりと笑う。


妻「贈り物、ね。ずいぶんと高慢だった元大富豪夫人が、今は“物”」


佐川の瞳がわずかに揺れる。


夫が顔を近づける。


夫「存在の意義を考えたことはあるか?」


佐川「……」


夫「お前がここにいる理由だ。何のために立っている? 何のために呼吸している?」


沈黙。


佐川の喉が震える。


佐川「……ご主人様と奥様に……仕えるためです」


俺「違う」


即座に否定。


夫「妻を喜ばせるためだ。妻の機嫌を損ねないためだ。妻の足元を清潔に保つためだ。お前自身のためではない」


妻が満足そうに夫の腕に手を絡める。


妻「そう。あなたの価値は私の気分次第」


佐川の視界がわずかに滲む。


妻「明日は」


妻が言う。


妻「朝5時。リビングの雑巾掛け。床を一枚一枚、手で」


佐川「……5時からでございますね」


妻「“でございますね”じゃないわ!“はい、奥様”でしょう?」


佐川「……はい、奥様」


夫がようやく顎から手を離す。


佐川の顔がわずかに下がる。


その瞬間、妻が眉をひそめた。


妻「あら」


夫の指先を見て。


妻「汚れがついてるじゃない」


夫が自分の手を見る。


妻が少し身を引く。


妻「汚いもの触ったのだから、手を洗わないと」


その言葉は、佐川の耳を刺す。


“もの”。


夫は軽く笑う。


夫「確かにな。洗わないといけないな」


妻がくすっと笑う。


妻「一緒にお風呂、入る?」


夫は妻の腰を抱き寄せる。


夫「当然だろう。今日は長い一日だった。お前のための贈り物も、無事働き始めたしな」


佐川の目の前で、夫婦は親密に寄り添う。


妻が振り返る。


妻「佐川、床掃除が終わったら寝ていいわ。ただし、音を立てないで。私たちの睡眠の邪魔をしたら......わかるわね?」


佐川「……はい」


佐川は小さく首を振る。


妻は微笑む。


妻「出ていってもらうわ」


夫が低く笑う。


夫婦はそのまま寝室へ向かう。


扉が閉まる直前、夫の声が聞こえる。


夫「雑巾、絞る水の音、響かせるなよ」


ドアが閉まる。


静寂。


佐川はゆっくりと床に膝をつく。


雑巾を水に浸し、固く絞る。


夜景は美しい。

ガラス越しの光は、彼女がかつて立っていた世界の象徴のように輝いている。


——贈り物。


——物。


——存在の意義。


手が震える。


それでも、雑巾を床に押し付ける。


一枚、一枚。


磨きながら、考えさせられる。


自分は何のために、ここにいるのか。


寝室の向こうから、夫婦の笑い声がかすかに漏れる。


佐川は顔を上げない。


ただ、床だけを見つめていた。


初日の夜は、まだ終わらない。

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