汗の跡が乾くまで②
高層階のリビング。
大きな窓の向こうに、夕暮れの街が広がっている。
ソファに腰掛けた夫は、隣に寄り添う妻の顎をゆっくりと持ち上げた。さきほど玄関で見せた冷たい指先とは違い、今はどこか優しい。
夫「疲れたか?」
低く穏やかな声。
妻はふっと微笑み、視線を少し逸らす。
妻「いいえ。あなたがいるので」
夫はわずかに目を細める。
夫「……佐川のことか」
その一言で、空気が静かに引き締まる。
妻は視線を落とし、指先を膝の上で揃える。
妻「今日は階段で上がらせました」
夫「ほう」
妻「汗でカーディガンが変色していました。見苦しかったので、しばらくそのまま着せておきます」
夫の指が、妻の顎をなぞる。
夫「甘いな」
妻「……甘い、ですか?」
夫「もっと徹底してもいい。あれは自分の立場を忘れかけている」
妻は首を横に振る。
妻「いえ。忘れてはいません。ただ、時々目が……」
夫「目?」
妻「反抗的なときが......元奥様だったときの目かもしれません」
夫の視線が冷える。
夫「二億の借金を背負っている女が?」
妻「はい」
静かな沈黙。
夫は腕を回し、妻を引き寄せる。
夫「忘れさせろ。徹底的に」
妻「はい」
その声は、玄関での冷酷さとは違い、どこか柔らかい。
夫はふっと表情を緩める。
夫「明日は指輪を見に行こう」
妻の瞳がわずかに揺れる。
妻「……本当に、よろしいのですか?」
夫「何度も言わせるな」
妻「でも、高価なものは……」
夫が顎を再び持ち上げる。
夫「安物をつけるつもりか?」
妻「そうではないわ。ただ、私は……あなたの隣にいられれば、それで」
夫は小さく笑う。
夫「謙虚だな」
妻「当然よ。私はあなたの妻ですから」
夫「だからこそだ」
夫の声が低く落ちる。
夫「お前にふさわしいものを選ぶ」
妻はわずかに視線を伏せる。
妻「本当に、控えめなもので構いません。あまり目立つものは……」
夫「佐川に見せつけるのが嫌か?」
妻は一瞬だけ黙る。
妻「……いいえ」
夫の口元が歪む。
夫「明日、最高のものを選ぶ。値段は気にするな」
妻「……はい」
その返事は静かだが、完全に従う響き。
窓の外の光が、赤く沈んでいく。
夫が言う。
夫「佐川には明日、全室の掃除をさせろ。寝室も書斎も、全部だ」
妻「はい。床も、窓も、細部まで」
夫「帰る頃には倒れているかもしれんな」
妻は小さく微笑む。
妻「倒れない程度に使います」
夫「使えなくなったら困るからな」
妻「はい」
夫は妻の額に軽く口づける。
夫「お前は優しいな」
妻「あなたの前では、そうありたいのです」
その言葉に、夫は満足そうに目を閉じる。
外の街はきらめき始める。
明日は指輪を選ぶ日。
その間、佐川は広い部屋を一人で磨き続ける。
ソファの上で寄り添う二人の影は、静かに重なっていた。




