思い出の価値
夜のリビングには、柔らかな間接照明と、窓の向こうに広がる無数の街の灯り。
夕食後の余韻の中、夫婦はソファで寄り添っていた。
夫は脚を組み、グラスを傾ける。
妻はその肩に体を預けながら、小さなポーチをテーブルに広げた。
床では――
佐川が膝をつき、無言で雑巾を押し当てている。
自室で食事を済ませたばかりだが、休む暇はない。
大理石の床に映る自分の影を見ないよう、視線を落としたまま腕を動かす。
妻「あなた、これ。」
妻がポーチの中身を取り出す。
指輪、古いブレスレット、そして小箱。
夫が視線を向ける。
夫「まだ持っていたのか。」
妻「ええ。借金を抱えている身で。」
その言葉に、雑巾を持つ佐川の手が止まる。
妻「佐川」
低く呼ばれる。
佐川「……はい、奥様。」
妻「来なさい。」
雑巾を畳み、膝で進む。
額は床すれすれ。
妻は小箱を開き、ネックレスをつまみ上げた。
小さな石が灯りを反射する。
妻「これも含めて、全部売却するわ。」
静かな宣告。
妻「査定して、旦那様への借金返済に充てる。」
夫が淡々と続ける。
夫「当然だ。借りたものは返す。それが筋だ。」
佐川の指先がわずかに震える。
妻がネックレスを揺らす。
沈黙。
やがて、佐川は額を床に押しつける。
佐川「……お願いがございます、旦那様、奥様」
夫の声が低く落ちる。
夫「口答えは許していない。」
佐川「申し訳ございません……ですが……それだけは……私の思い出なのです」
妻が目を細める。
妻「理由を言いなさい。」
佐川「……え……?」
妻「特別に、答える機会をあげるわ。」
夫が微笑む。
夫「お前の“思い出”とやらを聞こう。」
佐川は震える声で言葉を紡ぐ。
佐川「そのネックレスは……元夫が……大きな仕事を成功させた年の、私の誕生日に贈ってくれたものでございます。」
妻「成功?」
妻が淡く笑う。
佐川「成功の証として……自分に相応しいものを、と選んでくれました……」
夫が鼻で笑う。
夫「相応しい、か。」
佐川「当時は……高価なものだと聞いております。」
妻「値段が惜しいの?」
佐川「いえ、違います」
声がかすれる。
佐川「元夫とはいえ……私のために時間とお金をかけて選んでくれたことが……嬉しかったのです。」
静寂。
夜景だけが瞬く。
夫が冷たく言う。
夫「その男は失敗した。」
佐川「……はい。」
夫「お前も落ちた。」
佐川「……はい。」
夫「なら、それは失敗の象徴だ。」
佐川の肩が震える。
佐川「他の私物は、すべて処分していただいて構いません……。ですが、それだけは……お願いいたします」
妻がしゃがみ込み、顎を指で持ち上げる。
妻「まだ未練があるの?」
佐川「……あの頃、自分が誰かに価値を認められていた証でございます。」
夫が低く笑う。
夫「今は価値がない、と言っているようなものだな。」
佐川は言葉を失う。
妻「借金は現実よ。」
妻の声は氷のように冷たい。
妻「借りたものはあらゆる手段を使って返すべきでしょ」
佐川「借金は……働いて返します……。ですが、それは……戻らない時間で……」
夫がグラスを置く。
夫「時間は戻らない。だからこそ、無意味だ。」
沈黙。
ネックレスが妻の指の間で揺れる。
やがて――
妻「……保留にするわ。」
空気が止まる。
佐川「ありがとうございます……!」
妻「勘違いしないで。」
妻は立ち上がる。
妻「査定額を見たいだけ」
夫が淡々と付け加える。
夫「お前の思い出に値段がつく。楽しみだな。」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……承知いたしました。」
妻はソファに戻り、夫に寄り添う。
妻「どこまで必死に守るのか、見てみたいわ。」
夫が微笑む。
夫「過去に縋る姿は滑稽だ。」
佐川は再び雑巾を握る。
大理石の床に、ネックレスのかすかな光が一瞬映り込む。
かつて“相応しい”と贈られた証は、今や査定待ちの品。
床を磨く腕に力がこもる。
夜景は変わらず美しい。
その下で、彼女の過去だけが、冷酷に値踏みされ続けていた。




