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終わらぬ転落  作者: ありり
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夫婦の未来①

タワーマンション最上階のリビングは、夕方の光に満ちていた。

大きな窓の向こうには高層ビル群。ガラスのテーブルの上には、まだ氷の溶けきらない琥珀色の酒。


ソファに深く腰をかけた夫は、足を組み、静かにグラスを揺らしていた。


夫「……同級生が来る」


低い声だった。


妻はゆっくり振り向く。


妻「同級生……?」


夫「ああ。大学時代の。今は投資会社をやっている。今回は商談も兼ねてだ」


その言葉に、妻の目がわずかに細くなる。


妻「……ここで?」


夫「リビングで食事をしながらだ。堅苦しい場にはしたくない」


そのとき、床を雑巾が擦る音が小さく響いていた。

玄関付近で、佐川が膝をつき、古びた茶色のカーディガンの袖をまくりながら拭き掃除をしている。


妻は視線だけで佐川を見下ろした。


妻「佐川」


佐川「……はい、奥様」


妻「そのみすぼらしい茶色のカーディガンは脱ぎなさい」


佐川の手が止まる。


佐川「え……」


妻「旦那様の同級生が来るのよ。うちの“使用人”が、そんな毛玉だらけの格好でうろつくなんて、恥を晒すつもり?」


佐川はゆっくり立ち上がる。

指先が、擦り切れた袖口を無意識に握った。


佐川「……申し訳ございません」


妻「エプロンを着用しなさい。きちんと、白で。清潔なものを。髪もまとめ直して」


佐川「……はい」


夫はグラスを口に運びながら、無関心に言う。


夫「給仕も手伝わせろ」


妻は一瞬だけ振り返る。


妻「はい」


そして再び佐川を見る。


妻「お前は私と一緒に給仕をするのよ」


佐川の喉がひくりと動いた。


佐川「……奥様と、ですか」


妻「なに? 不満?」


佐川「い、いえ……」


妻は一歩近づき、佐川の顎に指をかける。

冷たい爪先が、わずかに食い込む。


妻「お前は“元奥様”だったのでしょう? その程度、できるわよね?」


その言葉は刃だった。


佐川の瞳が揺れる。


佐川「……はい」


夫が淡々と続ける。


夫「食事は軽めでいい。だが見栄えは重視だ。ワインも出す」


妻「承知しました」


妻は穏やかな微笑みを浮かべながら、声色だけを変える。


妻「失敗は許されないわよ、佐川」


佐川「……」


妻「皿を落としたらどうなるか、わかるわよね?」


佐川はうつむく。


佐川「……はい」


妻「聞こえないわ」


佐川「……はい、わかっております」


奥様は手を離し、佐川の胸元を一瞥する。


妻「その姿で、旦那様の同級生の前に立つのよ。お前がどんな立場なのか、思い出しながらね」


夫は口元だけで笑う。


夫「あいつは鋭い男だ。観察眼がある」


妻は静かに頷いた。


妻「では、なおさら粗相はできませんわね」


佐川の胸の奥が、じわりと締めつけられる。


元夫との商談の席では、自分が中央に座っていた。

グラスを掲げられ、笑顔を向けられていた。


——今は違う。


妻「佐川」


佐川「……はい」


妻「料理の準備に取りかかりなさい。私も確認する」


佐川「承知いたしました」


妻「それと」


妻はわざとらしく、最後に付け加える。


妻「笑わないこと。あなたの安っぽい愛想は不要よ。無表情で、静かに。影のように」


夫が、淡々と締める。


夫「商談の邪魔になるな」


その一言は、何よりも冷たい。


佐川は深く頭を下げた。


佐川「……かしこまりました」


リビングの空気は、静かに張り詰めていく。


妻は優雅にソファへ戻り、夫の隣に腰を下ろす。


妻「楽しみですわね。あなたの同級生……」


夫「ああ、頼んだぞ」


二人の間にだけ流れる、甘く静かな空気。


その背後で、佐川は一人、茶色のカーディガンを脱いでいた。

薄いシャツ越しに感じる冷気。


白いエプロンを身に着けながら、胸の奥で何かが軋む。


——給仕。

——影。

——粗相は許されない。


窓の外、夕暮れがゆっくりと濃くなる。


そして、インターホンが鳴るまでの時間だけが、残酷に静かだった。

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